国宝「妙見大菩薩」は鎌倉末期、吉岡一文字助光作の太刀。八幡と妙見の神号が刻まれ、千葉・相馬氏の信仰と武運を象徴。戦国時代を経て天下人の手に渡り、歴史と信仰を物語る。
一振りの刀剣が、単なる鋼の塊や美術工芸品の範疇を超え、時代の精神、人々の信仰、そして権力の変遷を物語る「歴史の証言者」となりうることがある。国宝「太刀〈銘備前国吉岡住左近将監紀助光/一〈南无八幡大菩薩/南无妙見大菩薩〉元亨二年三月日〉」、通称「妙見大菩薩」は、まさにその典型である。鎌倉時代末期の動乱の中で生み出されたこの太刀は、その茎(なかご)に刻まれた二つの神仏の名によって、作刀された瞬間から特別な意味を宿していた。
本報告書は、この国宝太刀「妙見大菩薩」を、「モノ(物)」としての刀剣そのものの美術的価値、「コト(事)」としての妙見信仰の宗教史的背景、そして「ヒト(人)」としての所有者たちの政治史的運命という三つの視点から複合的に分析する。特に、利用者様の要請に応じ、「戦国時代」という激動の時代を主たるレンズとして、この太刀が如何なる来歴を辿り、その価値をどのように変容させていったのかを徹底的に解明することを目的とする。鎌倉武士の祈りから、戦国大名の興亡、そして江戸幕府の泰平の世における権威の象徴へ。この一振りの太刀が内包する、重層的かつ深遠な物語をここに紐解いていく。
本報告書の分析の起点として、まず客観的な「モノ」としての太刀「妙見大菩薩」を徹底的に解剖し、その物理的、美術的価値を確定させる。
この太刀は、その姿と銘文において、鎌倉時代末期の刀剣文化と武士の精神性を色濃く反映している。
文化庁の公式情報によれば、本太刀の正式名称は「太刀〈銘備前国吉岡住左近将監紀助光/一〈南无八幡大菩薩/南无妙見大菩薩〉元亨二年三月日〉」である 1 。その寸法は刃長82.3cm(二尺七寸一分)、反り3.4cm(一寸二分)に及び、腰反りが高く踏ん張りのある、鎌倉時代後期らしい堂々たる太刀姿を今に伝えている 1 。昭和15年(1940年)5月3日に重要文化財(旧国宝)に指定され、戦後の文化財保護法の下、昭和28年(1953年)3月31日に改めて国宝に指定された 1 。現在は個人所蔵となっている 1 。
表1:国宝 太刀 銘 備前国吉岡住左近将監紀助光 詳細一覧
項目 |
詳細 |
典拠 |
種別 |
工芸品(太刀) |
1 |
時代 |
鎌倉時代 |
1 |
製作年 |
元亨二年三月日(1322年) |
1 |
作者 |
備前国吉岡住左近将監紀助光 |
1 |
寸法 |
刃長: 82.3cm, 反り: 3.4cm, 元幅: 3.3cm, 先幅: 2.1cm |
1 |
形状 |
鎬造、庵棟、腰反り高く踏ん張りあり、中鋒 |
1 |
地鉄 |
総じて板目肌が約(つ)み、乱れ映り立つ |
1 |
刃文 |
丁子乱に蛙子、互の目を交え、足・葉が盛んに入る。匂深く小沸つき、金筋かかる |
1 |
茎 |
生ぶ、栗尻、目釘孔二つ、鑢目大筋違 |
1 |
文化財指定 |
1940年5月3日(重要文化財)、1953年3月31日(国宝) |
1 |
本太刀の茎には、その出自と性格を決定づける長文の銘が刻まれている。佩表(はきおもて)には「備前国吉岡住左近将監紀助光」、裏には「一」「南无八幡大菩薩」「南无妙見大菩薩」「元亨二年三月日」と切られている 1 。
「備前国吉岡住左近将監紀助光」は、作者が備前国吉岡(現在の岡山県)に住み、左近将監という官位を持ち、紀姓を名乗る助光であることを示している 4 。正確な製作年「元亨二年」(1322年)が明記されている点も、歴史資料として極めて価値が高い 1 。
本太刀を他の名刀と一線を画す最大の特徴は、裏銘に併記された二つの神仏の名、「南无八幡大菩薩」と「南无妙見大菩薩」である 1 。この併記は単なる装飾ではなく、発注者のアイデンティティと祈願を雄弁に物語っている。
八幡大菩薩は、源氏の氏神として知られ、鎌倉時代を通じて武士階級全体の普遍的な守護神、すなわち「弓矢の神」として広く信仰されていた 5 。その名を刻むことは、持ち主が武士であることの表明に他ならない。
一方で、妙見大菩薩は、特定の氏族、特に坂東の千葉氏とその一族によって、排他的ともいえるほど篤く信仰された守護神であった 6 。
この二つの神号の併記は、発注者が武士社会という大きな枠組み(八幡信仰)に属しつつ、同時に千葉一族という特定の、そして極めて格式の高い血脈(妙見信仰)に連なる人物であったことを強く示唆している。元亨二年(1322年)という鎌倉幕府末期の動乱期にあって、最高級の太刀に二重の神仏の加護を願う行為は、単なる武具の調達ではなく、一族の命運を懸けた極めて敬虔な宗教的行為であったと推察される。この太刀は、作られた瞬間から、単なる武器ではなく、特定の氏族の「信仰の結晶」としての性格を帯びていたのである。
本太刀を鍛え上げた刀工・助光と、彼が属した吉岡一文字派の技術的背景を理解することは、その美術的価値を正しく評価する上で不可欠である。
備前国(岡山県南東部)は、古来より日本刀の一大生産地であった。中でも「一文字派」は、後鳥羽院の御番鍛冶を務めた則宗を祖とすると伝えられ、鎌倉時代を通じて最も隆盛を誇った流派の一つである 9 。その作刀の茎に、銘として「一」の字を切ることからこの名がある 10 。一文字派は時代と活動拠点によって、鎌倉初期の「古一文字」、中期の「福岡一文字」、そして末期の「吉岡一文字」などに分類される 11 。
鎌倉時代中期に栄えた福岡一文字派は、大模様で華やかな丁子乱れの刃文を特徴とし、豪壮な作風で知られる 12 。これに対し、鎌倉時代末期に現れた吉岡一文字派は、福岡の地から吉岡に移り住んだ助吉を開祖とする一派である 9 。その作風は、福岡一文字の華やかさを継承しつつも、全体としては焼きの高さが抑えられ、丁子に互の目が交じるなど、より引き締まり、洗練された精緻なものへと変化している 12 。この作風の変化は、鎌倉中期の豪壮華麗な気風から、幕府の権威が揺らぎ始めた末期の、より内省的で実質を重んじる武士の価値観の変化を映し出しているとも考えられる。
表2:備前一文字派の作風比較
流派名 |
時代 |
代表刀工 |
作風の特徴(刃文・姿・銘など) |
典拠 |
古一文字 |
鎌倉初期 |
則宗、宗吉 |
直刃調に小乱れ、小丁子。優美で気品ある姿。 |
10 |
福岡一文字 |
鎌倉中期 |
吉房、助真 |
豪華絢爛な大丁子、重花丁子。腰反り高く豪壮な姿。乱れ映りが鮮明。 |
12 |
吉岡一文字 |
鎌倉末期 |
助光、助吉 |
丁子に互の目が交じる。焼きの抑えられた引き締まった作風。逆鏨の銘。 |
12 |
片山一文字 |
鎌倉末期 |
則房 |
福岡一文字に似るが、逆がかる丁子刃が特徴。 |
12 |
助光は、吉岡一文字の開祖・助吉の子、あるいは弟とされ、一門の中でも随一の名工と高く評価されている 4 。彼の作品は、吉岡一文字派の基本的な作風を踏まえつつも、時に大丁子乱を交えた華やかな刃文を焼き、地鉄は細かく詰んだ杢目肌に乱れ映りが鮮やかに立つなど、群を抜く技量の高さを示している 13 。現存する彼の代表作には、国宝指定されている元応二年(1320年)紀の薙刀と、この元亨二年(1322年)紀の太刀「妙見大菩薩」があり、いずれも彼の卓越した技術を証明している 4 。
特に本太刀「妙見大菩薩」は、吉岡一文字派の作としては異例ともいえるほど華やかな出来栄えと評されており 1 、助光が時代の潮流の中で、過去の華やかさ(福岡一文字の伝統)と新しい時代の求める精緻さを見事に融合させた、まさに一時代の終わりと次の時代の始まりを告げる過渡期の傑作と言えるだろう。
太刀の茎に刻まれた「南无妙見大菩薩」の神号は、この刀剣の来歴を解き明かす上で最も重要な鍵である。ここでは、その信仰(コト)の源流をたどり、なぜこの神格が特定の武士団にとって絶対的な守護神となり得たのかを掘り下げていく。
妙見信仰は、日本古来の信仰ではなく、大陸から伝来し、日本の風土の中で独自の発展を遂げたものである。
妙見菩薩の起源は、中央アジアの遊牧民が天空の中心で不動の輝きを放つ北極星を神格化した「北辰信仰」にあるとされる 16 。この星辰信仰が中国大陸に伝わる過程で、万物の根源を司る道教の思想や、衆生を救済する仏教の菩薩信仰、さらには天文や方位を司る陰陽道と複雑に習合し、「妙見菩薩」あるいは「尊星王」といった独特の神格を形成した 18 。日本へは奈良時代頃に伝来し、当初は国家鎮護や人々の招福・延命を祈る対象であった 6 。
平安時代後期になると、この妙見菩薩を氏神、すなわち一族の守護神として篤く信仰する武士団が登場する。その代表格が周防の大内氏や下総の千葉氏であった 6 。武士たちが妙見を信仰した理由は、多岐にわたる。
これらの理由から、妙見信仰は単なる個人的な祈願の対象に留まらず、武士団のアイデンティティと存続を支える信仰システムとして機能したのである。
坂東武者の中でも、千葉氏と妙見信仰の関係は一蓮托生とも言えるほど密接であった。
千葉氏が一族の守護神として妙見菩薩を祀るようになった起源は、一族の祖とされる平良文の代に遡る。承平天慶の乱において、良文が甥の平将門と共に平国香らと戦った際、妙見菩薩が出現して勝利に導いたという伝承が残されている 7 。この霊験をきっかけに、妙見菩薩は千葉一族の守護本尊として代々受け継がれていくことになった 25 。
千葉氏は、その勢力拡大に伴い、妙見信仰を各地に広めていった。大治元年(1126年)、千葉常重が本拠を上総国大椎から下総国千葉荘の猪鼻(現在の千葉市中央区)に移した際にも、妙見菩薩を遷座させ、篤く祀った 7 。以後、千葉氏の一族が新たな所領に移住する際には、必ず妙見社を建立して分霊を祀ることが慣わしとなった 8 。
この慣習の中で、後の歴史に大きな影響を与えたのが、相馬氏への信仰の継承である。源平合戦で活躍した千葉常胤の次男・師常は、下総国相馬郡を領して相馬氏の祖となった 29 。彼もまた父祖の信仰を受け継ぎ、千葉から妙見菩薩の神体を相馬の地に遷して祀った。これにより、相馬氏もまた千葉氏と同様に、妙見を絶対的な守護神として崇敬する一族となったのである 29 。
この歴史的背景を踏まえると、本太刀の作刀年である元亨二年(1322年)と、相馬氏の歴史におけるある重大な出来事との時間的な近接性が、極めて重要な意味を持って浮かび上がってくる。相馬氏第6代当主・相馬重胤は、鎌倉幕府内の権力闘争に巻き込まれ、父祖伝来の地である下総国守谷の居城を離れ、陸奥国行方郡(現在の福島県南相馬市周辺)へ一族を率いて移住するという、存亡をかけた一大事業に直面していた 7 。この奥州下向が行われたのが、元亨三年(1323年)と伝えられている 7 。
一族の命運を左右するこの大事業を翌年に控えた1322年、当代随一の名工・助光に、武門の守護神・八幡大菩薩と、一族の絶対的守護神・妙見大菩薩の二つの神号を刻んだ最高傑作を打たせる。この行為は、単なる偶然とは考え難い。それは、新天地での武運長久と一族の安泰を祈願するための、極めて意図的かつ敬虔な宗教的行為であった可能性が非常に高い。したがって、この国宝太刀「妙見大菩薩」は、「相馬重胤が奥州下向に際して、一族の精神的支柱として奉持した宝刀」であったという仮説が、極めて高い蓋然性をもって立ち上がってくるのである。
本太刀が作刀された鎌倉時代から約150年後、日本は応仁の乱をきっかけに、約1世紀にわたる戦国時代へと突入する。妙見信仰を奉じた二つの氏族、千葉氏と相馬氏は、この動乱の中で対照的な運命を辿ることになる。
関東に覇を唱えた名族・千葉氏も、戦国の荒波を乗り越えることはできなかった。
室町時代中期に勃発した享徳の乱(1455年〜)は、関東の政治秩序を根底から揺るがし、千葉氏もその渦中で内紛に明け暮れることとなる 33 。この内紛によって宗家の力は著しく衰え、家臣であった原氏の勢力が当主を凌ぐようになり、事実上の衰退期に入った 35 。
戦国時代後期には、相模国の後北条氏が関東へ勢力を拡大すると、千葉氏はその支配下に組み込まれていく。そして天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、それに従った千葉氏も所領を没収され、鎌倉時代から約470年にわたって続いた名門としての歴史に終止符を打った 36 。
主家の滅亡は、その権威の象徴であった刀剣や武具などの宝物の散逸を意味する。千葉氏が代々伝えてきたであろう宝物は、戦利品として勝者である豊臣方、そしてその後の関東の支配者となった徳川家康の手に渡ったのか、あるいは忠義ある家臣団によって密かに守り伝えられたのか 38 。この千葉氏滅亡から徳川の世が始まるまでの「空白の期間」は、本太刀「妙見大菩薩」の伝来を追う上で、最初の大きな謎となっている。
一方、千葉氏の分家であった相馬氏は、陸奥国で戦国大名として存続し、過酷な生存競争を繰り広げていた。
相馬氏は、西に会津の蘆名氏、南に関東の佐竹氏、そして北には奥州の覇権を狙う伊達氏という強大な勢力に囲まれた「境界大名」であった 40 。常に周囲の顔色を窺い、巧みな外交と武力によって、かろうじて独立を保つという厳しい状況に置かれていた。
特に、伊達輝宗の子・政宗が家督を継ぐと、その緊張関係は頂点に達する。相馬氏は、伊達氏との境界に位置する伊具郡や亘理郡を巡って、数十年にわたり一進一退の激しい抗争を繰り広げた 41 。相馬義胤の代には、自ら陣頭に立って伊達軍と戦うなど、まさに死闘と呼ぶにふさわしい戦いが続いた 30 。
この絶え間ない存亡の危機において、相馬氏を精神的に支えたのが、一族の守護神である妙見信仰であった。平将門の軍事演習に由来するとされる伝統行事「相馬野馬追」を続けることは、単なる祭事ではなく、妙見菩薩への信仰を再確認し、武門としての誇りと一族の団結を維持するための重要な儀式であった 17 。
最終的に相馬氏は、天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣することで、豊臣秀吉から所領を安堵され、近世大名として生き残る道を得る。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは中立を保ったため、一時は徳川家康から領地没収を命じられるが、宿敵であったはずの伊達政宗の執り成しもあり、改易を免れて中村藩として存続した 41 。
戦国時代は、武力だけでなく、文化的な権威が政治的支配の正統性を補強する時代でもあった。その中で、名刀は極めて重要な役割を果たした。
織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康といった天下人たちは、武功の恩賞として家臣に土地を与えるだけでなく、名刀を下賜することで忠誠心を繋ぎ止めた 45 。また、自らも積極的に名刀を収集し、それを所有することが、文化的にも正統な支配者であることを天下に示す手段となった 46 。大名や豪商たちは、天下人の歓心を得るためにこぞって名物を献上したのである 45 。
このような時代背景の中で、刀剣の価値を公的に保証する存在として絶大な権威を握ったのが、本阿弥家である 47 。もともと足利将軍家に仕える同朋衆として刀剣の研磨を家業としていたが、その膨大な知見に基づき、刀剣の鑑定も行うようになった 48 。豊臣秀吉から「刀剣極所(きわめどころ)」に任じられ、彼らが発行する鑑定書「折紙」は、その刀剣の真贋と金銭的価値を保証するものとして絶対的な信用を得た。「折紙つき」という言葉の語源である 49 。徳川幕府においてもその地位は世襲され、刀剣界に君臨し続けた。
本阿弥家九代当主・光徳は、秀吉の命により、秀吉所蔵の名刀を図示した「太閤御物刀絵図」(光徳刀絵図)を作成した 52 。この絵図には、備前国の刀工として「助光」の作も記載されており、金象嵌銘が施された刀として描かれている 53 。この事実は、助光の作品が、戦国時代の末期から安土桃山時代にかけて、天下人のコレクションに加わるほどの最高級の評価を受けていたことを示している。
これらの歴史的背景を鑑みると、本太刀「妙見大菩薩」の伝来ルートとして、二つの対照的な仮説が浮かび上がってくる。
この太刀の来歴の謎を解く鍵は、この二つのルートのどちらがより史料的・状況的に妥当性が高いかを、次の第四部で徹底的に検証することにある。
前部で提示した二つの伝来ルート仮説を、具体的な史料と状況証拠に基づいて多角的に検証し、最も可能性の高いシナリオを導き出す。
徳川将軍家の刀剣コレクションの原点を知る上で、最も重要な史料が「駿府御分物」である。
「駿府御分物」とは、元和二年(1616年)に徳川家康が駿府城で死去した後、その膨大な遺産を、二代将軍秀忠や御三家(尾張、紀州、水戸)などに分配した際の詳細な目録である 54 。特に「駿府御分物刀剣元帳」は、家康が生涯をかけて収集した名刀の数々が記録されており、徳川家初期の刀剣コレクションの全貌を知る上での第一級史料とされる 55 。
この「駿府御分物刀剣元帳」を精査すると、数多くの名刀の中に「一文字助吉」の太刀が尾張徳川家へ渡ったという記載は存在するものの 55 、本太刀「妙見大菩薩」に該当する「助光」作の太刀で、将軍家(本家)や御三家に分配されたという記録は見当たらない。
この事実は、前章で提示したルートA、すなわち「家康が千葉氏滅亡後の戦利品として入手し、将軍家で伝来した」というシナリオの信憑性を大きく揺るがすものである。もし家康がこれほどの傑作を入手していたならば、その最重要遺産目録から漏れるとは考えにくい。家康のコレクションに含まれていなかった可能性が極めて高いことを、この史料は示唆している。
本太刀の来歴を語る上で、避けて通れないのが三代将軍・徳川家光との関わりである。
利用者様がご存知の通り、「家光が、増水した隅田川を馬で渡り切るという離れ業をやってのけた老中・阿部豊後守忠秋の功を讃え、助光の太刀を下賜した」という逸話が広く知られている 13 。この逸話が、本太刀が「家光の佩刀であった」とされる根拠の一つとなっている。
しかし、この逸話は『徳川実紀』のような幕府の公式な編纂物には見当たらず、後世に成立した逸話集などに記されたものである可能性が高い 56 。もちろん、阿部忠秋が家光の幼少期からの側近であり、絶大な信頼を得ていたこと、また家光が自身のコレクションから名刀を家臣に下賜することが頻繁にあったことは事実である 54 。
最大の問題は、この逸話に登場する「助光の太刀」が、国宝「妙見大菩薩」と同一であるという直接的な証拠が存在しない点である。助光の作は他にも存在するため、別の太刀であった可能性も十分に考えられる。しかし、逆に考えれば、これほど著名で由緒ある号を持つ太刀だからこそ、その所有者である家光にまつわる「名刀にふさわしい物語」として、この逸話が結びつけられ、語り継がれていったとも解釈できる。重要なのは、「助光の太刀」が家光の所有物であったという認識が、江戸時代において存在したという事実である。
徳川家、特に家康と家光の治世において、妙見信仰が戦略的に受容、あるいは利用された形跡が見られることは、本太刀の来歴を考える上で見過ごせない。
徳川家康は、江戸の都市計画において、風水や陰陽道に基づいた鎮護を極めて重視した。江戸城の鬼門(北東)に上野寛永寺を、裏鬼門(南西)に増上寺を配し、さらに江戸の真北に自らを祀る日光東照宮を造営させたことは、その象徴である 58 。これは、方位や星辰の力を利用して、徳川の治世の永続を願うものであった。
家康のブレーンであった天海僧正は、江戸の都市計画において、かつて関東に覇を唱えた平将門の怨霊を鎮め、その強大な力を逆に江戸の守護力として利用しようとしたという説がある 20 。将門が篤く信仰したのが妙見菩薩であり、この信仰は徳川家にとって無視できない存在であった 22 。また、家康の子である紀州徳川家初代藩主・頼宣が、妙見菩薩像を池上本門寺に寄進している事実もあり、徳川家と妙見信仰には確かな接点が存在する 59 。
これらの点を総合的に勘案すると、本太刀の伝来に関する新たなシナリオが浮かび上がってくる。
ルートA(家康入手説)は「駿府御分物」の記録の不在により可能性が低い。ルートB(相馬家献上説)は状況証拠として魅力的だが、献上の時期と相手が特定できない。そこで、第三の道として**「三代将軍・家光の治世に、新たに徳川将軍家のコレクションに加えられた」**という仮説が最も合理的であると考えられる。
その背景には、いくつかの理由がある。
第一に、家光の時代は、祖父・家康、父・秀忠が築いた幕府の支配体制が盤石となり、武力による支配から、文化的な権威による支配へと移行する重要な時期であった。この時期に、鎌倉時代の名刀、それも関東の古き名族の守護神の名を冠した至宝を入手することは、徳川の支配の正統性を文化的に補強する上で大きな意味を持った。
第二に、献上者として最も可能性が高いのは、やはり相馬氏である。戦国時代を生き抜いたとはいえ、隣国には常に強大な伊達藩が存在し、相馬氏にとっては幕府への忠誠を絶えず示し続ける必要があった。一族の始祖(千葉氏)に連なり、自らの絶対的守護神の名を冠する、一族にとって最も重要な宝刀を三代将軍家光に献上することは、これ以上ない忠誠の証となったであろう。
第三に、徳川家(家光)にとっても、この献上を受け入れるメリットは大きかった。比類なき美術工芸品を入手できるだけでなく、かつての関東の覇者・千葉氏の権威の象徴を手中に収めることで、旧千葉領の民衆に根強く残る妙見信仰ごと、徳川の権威の下に取り込むという高度な政治的効果が期待できた。
この仮説に立てば、「駿府御分物」に記載がないこと、家光の佩刀と伝わること、そして徳川家が妙見信仰を無視できなかったこと、これら全ての点が矛盾なく説明できる。阿部忠秋への下賜の逸話も、この太刀が家光の所有となった後に、その威光を飾る「名刀にふさわしい物語」として付加されたものと解釈するのが最も自然であろう。
国宝太刀「妙見大菩薩」は、その一口に日本の歴史の大きな転換点を凝縮した、稀有な存在である。
その旅路は、鎌倉幕府の権威が揺らぐ元亨二年(1322年)、一人の武将の敬虔な祈りから始まった。茎に刻まれた「八幡」と「妙見」の名は、武士としての矜持と、千葉一族としての血脈の誇りを同時に宣言するものであった。本報告書で提示した通り、この太刀は、一族の存亡をかけて新天地・陸奥へ向かう相馬重胤が、その精神的支柱として奉持した宝刀であった可能性が極めて高い。
その後、本太刀は、宗家・千葉氏が戦国の動乱の中で滅びゆく様を傍観し、分家・相馬氏が強大な伊達氏との死闘を繰り広げ、かろうじて近世大名として生き残るという、一族の栄枯盛衰の物語をその身に刻み込んできた。
そして、戦国が終わり、天下泰平の世が訪れると、この太刀は新たな役割を担うことになる。おそらくは三代将軍・徳川家光の治世に、相馬氏から徳川将軍家へと献上された。その伝来の道筋は、単なるモノの移動ではない。それは、敗者の記憶と信仰が、勝者の文化的な権威へと吸収・再編されていく、日本の歴史のダイナミズムそのものを体現している。徳川家にとってこの太刀は、単なる美しい刀剣ではなく、関東の古き権威を継承し、民衆の信仰をも支配下に置く、泰平の世の象徴となったのである。
かくして、鎌倉武士の祈りから生まれた一振りの鋼は、戦国という血と鉄の時代を生き抜き、徳川の治世下で最高の文化的価値を持つ国宝として、静かにその輝きを未来へと伝え続けることとなった。国宝「妙見大菩薩」は、一振りの刀剣が内包しうる、極めて豊潤な歴史的・文化的価値の、究極的な一例であると結論付ける。