「志賀」は、瘤が特徴の葉茶壺。筑前で発見され、わび茶の村田宗珠が所持した。戦乱で伝来不明だが、異形と美意識の変遷を象徴する名物。
戦国時代、茶の湯の世界は、武将たちの政治的駆け引きと深く結びつき、その中で用いられる茶道具は、一国一城にも匹敵する価値を持つに至った。数多の名物が歴史の表舞台で華々しい伝来を重ねる一方、その出自や来歴に深い謎を秘めたまま、忽然と姿を消した器物も少なくない。本報告書が主題とする名物葉茶壺「志賀」は、まさに後者を代表する存在である。
「志賀」に関して現在伝わっている情報は、いくつかの茶書や辞典に断片的に見られる記述に集約される。それらを整理すると、この茶壺の輪郭は次のように浮かび上がる。
これらの断片的な情報からだけでも、「志賀」が極めて特異な存在であったことがわかる。しかし、その来歴を深く探ろうとすると、いくつもの重大な問いに突き当たる。本報告書は、以下の三つの謎を解明することを目的とする。
本論に入る前に、一点明確にしておくべきことがある。茶道具の世界には、もう一つ「志賀」の名を持つ名物が存在する。それは、江戸時代初期の茶人・小堀遠州(こぼりえんしゅう)が、『古今和歌集』に収められた慈円の和歌「見せはやな志賀の唐崎ふもとなるなからの山の春のけしきを」を引いて命名した、瀬戸金華山窯の茶入である 4 。この茶入「志賀」は、本報告書で扱う葉茶壺「志賀」とは時代も種類も全く異なる別物である。本報告書では、この葉茶壺「志賀」に焦点を絞り、その謎に満ちた実像に迫っていく。
名物葉茶壺「志賀」の物語は、「筑前国志賀山にて発見」という伝承から始まる。この「発見」という言葉の裏に隠された真実を探るためには、まず、当時の筑前国、特にその中心都市であった博多が置かれていた文化的・経済的状況を理解する必要がある。
中世から戦国時代にかけて、博多は日本最大の国際貿易港として繁栄を極めていた。日明貿易や日朝貿易の玄関口として、中国大陸や朝鮮半島から膨大な量の商品、そして文化が流入する一大拠点であった 5 。博多の遺跡群からは、当時の最高級品であった中国・景徳鎮窯の青花(染付)や白磁、青磁などが夥しく出土しており、この地がいかに先進的な文物の集積地であったかを物語っている 5 。
この経済的繁栄を背景に、博多には「博多商人」と呼ばれる豪商たちが台頭した。彼らは貿易の担い手であると同時に、最新の文化である茶の湯を積極的に受容し、その発展に大きく貢献した。後の時代には、神屋宗湛(かみやそうたん)や嶋井宗室(しまいそうしつ)といった、千利休とも親交の深い大茶人を輩出している 7 。彼らのような審美眼を持つ商人たちが、舶来の品々の中から優れた茶道具を見出し、価値を与えていく土壌が、博多には確かに存在したのである。
「志賀」の出自を考える上で、筑前国内の窯業の可能性も検討する必要がある。筑前には、小堀遠州が指導したことで知られる高取焼(たかとりやき)や、江戸時代に福岡藩の藩窯となった須恵焼(すえやき)などの窯が存在した 9 。しかし、「志賀」の最大の特徴である「黒の上釉と藍色の下釉」「大小多くの瘤」といった要素は、これらの窯で焼かれた典型的な陶器の作風とは一致しない。
ここで重要になるのが、「発見」という言葉の解釈である。茶の湯の世界において、「発見」や「見立て」は、単に物を見つけ出す行為にとどまらない、新たな価値を創造する文化的な営為であった。その最たる例が、「呂宋壺(ルソンつぼ)」である。呂宋壺は、元来、中国南部やベトナムなどで作られた、現地では安価な日用品の壺であった 11 。しかし、これらが交易中継地のルソン島を経由して日本にもたらされると、千利休や豊臣秀吉といった当代最高の権威者たちがその素朴な味わいや力強い造形に美を見出し、葉茶壺として珍重した。これにより、元は雑器であった壺が、破格の価値を持つ「名物」へと昇華したのである 13 。
この呂宋壺の事例は、「志賀」の出自を考察する上で極めて重要な示唆を与える。すなわち、「志賀」の「筑前志賀山での発見」という伝承もまた、文字通りの考古学的発見と捉えるべきではない可能性が高い。むしろ、国際貿易港・博多に流れ着いた、生産地も名もなき一つの特異な壺を、わび茶の正統を継ぐ村田宗珠のような優れた審美眼の持ち主が「見出し」、その未知の魅力に価値を与えるために、由緒ある「志賀山」という土地の名を冠したのではないか。これは、無名の品に物語を与え、新たな価値を創造する、一種のブランド戦略であったと解釈できる。
したがって、「志賀」の出自を問うとき、その生産地がどこであったかという問題以上に、それが日本の文化圏において「発見」され、茶道具としての価値を付与された場所こそが重要となる。その場所が、海外からの文物が集積する文化的フロンティア、筑前博多であったという事実は、この壺が海外からの舶来品であった可能性を強く示唆しているのである。
名物葉茶壺「志賀」を他のあらゆる茶道具から区別する、その最大の特徴は「大小多くの瘤」を持つ異形な姿である。この「瘤」は、戦国時代という美意識の転換期において、どのような意味を持っていたのか。その造形を読み解くことは、当時の茶人たちの精神性に迫ることに他ならない。
室町時代から戦国時代初期にかけて、茶道具の価値序列の頂点に君臨していたのは、中国大陸からもたらされた「唐物」であった。愛知県の徳川美術館が所蔵する大名物《唐物茶壺》に代表されるように、唐物の多くは左右均整の取れた端正な形姿、滑らかで美しい釉薬を特徴とし、その完璧な美は足利将軍家以来の絶対的な権威の象徴とされた 15 。
その一方で、村田珠光に始まり、武野紹鷗(たけのじょうおう)を経て千利休に至る「わび茶」の潮流は、こうした完璧な美とは対極にある価値観を育んでいった。それは、不完全さ、素朴さ、そして自然の作為の中にこそ深い美を見出す精神である 16 。この美意識を体現したのが、日本の土から生まれた「和物」の焼物であった。特に、釉薬をかけずに高温で焼き締められた古信楽(こしがらき)や古備前(こびぜん)の壺や水指は、窯の中で起こる偶然の変化(窯変)によって生じる土の豊かな表情や、薪の灰が溶けて自然の釉薬となった景色が珍重された 18 。
「志賀」の「瘤」は、この二つの美意識の狭間で、極めて示唆に富んだ位置を占めている。まず、この「瘤」は、古信楽の焼成中に土の中の石が表面に噴き出して景色となる「石ハゼ」や、轆轤(ろくろ)では作り出せない自然な歪みと同様に、計算されない自然の造形美として捉えることができる 20 。その意味では、「志賀」は「わび」の美意識の範疇で評価されたと考えるのが自然である。
しかし、「大小二十の瘤」という具体的な記述 2 は、単なる偶然の産物という言葉だけでは片付けられない、より積極的で強烈な個性を感じさせる。それは、静かで内省的な「わび」の世界に収まりきらない、ある種の動的なエネルギーを内包しているように思われる。このエネルギーは、千利休の死後、その高弟であった武将茶人・古田織部(ふるたおりべ)によって大成される「へうげもの(剽げ者)」の美意識へと繋がっていく。織部は、意図的に器を歪ませ、左右非対称な形を作り、常識を打ち破ることで生まれる大胆で斬新な「破格の美」を追求した 21 。織部が好んだこの「歪み」や「異形」の美と、「志賀」の「瘤」は、精神的に深く通底しているのである。
ここに、一つの重要な仮説が導き出される。「志賀」は、日本の茶道における美意識の変遷を体現する、「失われた環(ミッシングリンク)」としての役割を果たしていたのではないか。茶の湯の美意識は、唐物を絶対視する時代から、珠光が始めた静的で内省的な「わび」の美へ、そして利休を経て、織部が切り開いた動的で破格な「へうげ」の美へと、大きな転換を遂げた 24 。
「志賀」の初代所持者は、わび茶の祖・珠光の跡を継いだ村田宗珠であった。この事実は、「志賀」がまず「わび」の文脈で高く評価されたことを示している。しかし、その強烈な個性を持つ「瘤」は、来るべき安土桃山時代のダイナミックで豪放な「へうげもの」の美意識を先取りしていた。つまり、「志賀」は、珠光が確立した「わび」の精神を根底に持ちながら、次代の美意識を予感させる過渡期的な存在であった。静的な「わび」と動的な「へうげ」という、二つの大きな美意識の潮流を結びつける、茶道史上極めて重要な器物であったと位置づけることができるだろう。
名物茶道具の価値は、その造形美だけでなく、誰の手を経てきたかという「伝来」によっても大きく左右される。「志賀」の初代所持者として名が挙がるのは、村田宗珠。この人物像と、彼が生きた時代背景を深く掘り下げることは、「志賀」がなぜ歴史の表舞台から姿を消したのかという最大の謎に迫るための不可欠な鍵となる。
村田宗珠(生没年不詳)は、わび茶の創始者と仰がれる村田珠光の養子(一説には女婿)であり、その茶の湯を正統に受け継いだ人物であった 25 。彼は京都の下京(しもぎょう)に居を構え、四畳半や六畳といった、わび茶に適した小規模な茶室を営んでいたことが記録に残っている 26 。その名声は都に響き、公家の鷲尾隆康(わしのおたかやす)が宗珠の庵を訪れた際の感動を日記『二水記』に「山居の躰、尤も感有り、誠に市中の隠と謂ふべき」(都の中にいながらにして、山里の庵のような風情があり、実に素晴らしい)と記している 29 。
宗珠は、珠光から禅僧・圜悟克勤(えんごこくごん)の書である《圜悟墨蹟》や、大名物茶入《抛頭巾(なげずきん)》といった至宝を譲り受けていた 26 。このような当代随一の茶人であった宗珠が所持したということは、「志賀」もまた、単なる珍品ではなく、珠光以来のわび茶の精神を体現する名物として、最高の評価を与えられていたことを意味する。
「志賀」には「仕香茶壷」という別名がある 1 。この名は、単なる音の類似から付けられた安易なものではない。当時の茶人たちの高度な文化的実践を反映した、深い意味が込められている。
文字通りに解釈すれば、「仕香」は「香りに仕える」、あるいは「香りを仕込む」と読める。これは、茶葉の命である繊細な香りを損なうことなく、最高の状態で保存するという葉茶壺の機能性を讃えた名と考えることができる。しかし、茶の湯の世界では、道具の命名に和歌や故事、禅語などを引用し、物そのものに精神的な深みを与えることが常であった 4 。
「志賀(しが)」と「仕香(しこう)」という音の近さは、おそらく意図的なものであろう。これは単なる語呂合わせではなく、「志賀山」という地理的名称(即物的な名)に、「香」という茶の湯の精神文化を象徴する言葉(雅な名)を重ね合わせる、一種の知的遊戯、「見立て」の精神の表れである。香道において、和歌の世界観を香の組み合わせで表現する「組香(くみこう)」の銘が和歌から取られるように 31 、「志賀」という壺もまた、単なる器物としてではなく、高度な精神文化の対象として扱われていたことが、この「仕香」という別名からうかがえるのである。
これほどの由緒と評価を得ていたにもかかわらず、「志賀」の伝来は宗珠以降、ぷっつりと途絶える。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下人の手を渡り歩いた《初花肩衝(はつはなかたつき)》 32 のように、その後の足跡が詳細に記録される多くの大名物とは極めて対照的である。なぜ「志賀」は歴史から消えたのか。その背景には、戦国という時代の過酷な現実が横たわっている。
ここに、いくつかの可能性が考えられる。
いずれの可能性が真実であったにせよ、「志賀」の伝来における空白は、単なる情報の欠落として片付けるべきではない。それは、戦国という時代の暴力性、価値観の流動性、そして記録に残らない無数の物語の存在を示唆する、歴史からの「沈黙の証言」と解釈すべきなのである。
「志賀」という一つの茶壺が持つ歴史的意義をより立体的に理解するためには、同時代に存在した他の主要な名物葉茶壺と比較し、その中での「志賀」の独自性を明らかにすることが有効である。
戦国時代、特に織田信長の時代において、茶道具は単なる趣味の品ではなく、極めて高度な政治的価値を帯びるようになった。信長は、茶の湯を政治支配の道具として巧みに利用し、服従の証として、あるいは恩賞として、名物茶道具を大名たちの間でやり取りさせた 39 。松永久秀が信長に降伏する際に献上した《九十九髪茄子(つくもなす)》はその代表例であり 37 、名物一つが一国一城にも匹敵するほどの価値を持つ「名物狩り」の時代であった 41 。
このような時代背景の中で、「志賀」はどのような位置を占めていたのか。同時代の代表的な葉茶壺と比較することで、その特異性が浮き彫りになる。
以下の表は、これらの名物葉茶壺と「志賀」を比較し、その特徴を整理したものである。
名称 |
分類 |
外見的特徴 |
美意識の系統 |
主要な所持者・伝来 |
逸話・末路 |
志賀 |
舶来不明 |
黒と藍の釉、大小二十の瘤 |
異形・破格(わびと「へうげ」の過渡期) |
村田宗珠 |
宗珠以降の伝来は不明。戦乱で失われた可能性が高い。 |
三日月 |
唐物 |
傾き気味の形、七つの大きな瘤 |
端正・典雅(異形ながらも唐物として評価) |
足利義政、三好義賢、織田信長 |
本能寺の変にて焼失 1 。 |
松島 |
唐物 |
黒釉と赤黄色の焼け肌、三つの轆轤目 |
端正・典雅 |
今井宗久、織田信長 |
堺の今井宗久が信長に献上 40 。その後の詳細は不明。 |
橋立 |
呂宋壺 |
侘びた姿 |
素朴・わび |
足利将軍家、織田信長、千利休、前田利常 |
秀吉が望むも利休は譲らず、大徳寺に託したと伝わる 44 。 |
一般的な呂宋壺 |
呂宋壺 |
素朴で力強い造形の日用雑器 |
素朴・わび(見立ての美) |
豊臣秀吉、諸大名 |
元は安価な雑器だが、秀吉が価値を認め、武将たちがこぞって求めた 11 。 |
この比較分析から、「志賀」の際立った独自性が改めて明確になる。それは、唐物のような確立された権威にも、呂宋壺のような異国の素朴さ(エキゾチシズム)にも依拠しない、純粋に造形的な面白さ、すなわち「瘤」という異形性そのものによって評価された、極めて稀有な存在であったという点である。
唐物の《三日月》にも瘤はあるが、それはあくまで唐物という絶対的な枠組みの中で評価されたものである。呂宋壺の価値は、雑器を名物へと昇華させる「見立て」の精神に支えられていた。それに対し、「志賀」の価値の源泉は、器物それ自体が放つ強烈な個性、破格の造形力にあった。それは、日本の美意識が、中国文化の模倣や受容という段階から脱却し、対象の本質を直観し、独自の価値基準を打ち立てていく、まさにその創造の瞬間を象徴するものであったと言えるだろう。
本報告書は、名物葉茶壺「志賀」を巡る断片的な情報を丹念に拾い上げ、戦国時代の文化的・社会的文脈の中に位置づけることで、その謎に満ちた実像に迫ることを試みた。最後に、本報告書で得られた知見を総括し、「志賀」が日本の茶道文化史において持つ意義を結論づけたい。
本報告書の考察を通じて、以下の三点が明らかになった。
以上の考察から、「志賀」は、単なる一つの失われた茶道具ではないと結論できる。それは、中世から近世へと移行する激動の時代の中で、日本の美意識がいかにして外国文化の影響を昇華し、模倣から脱却して独自の価値観を創造していったかを示す、極めて貴重な文化遺産である。
唐物の完璧な美を絶対視する価値観から、不完全さの中に美を見出す「わび」へ。そして、その「わび」の精神を内包しつつ、さらに大胆で自由な「へうげ」の美へと展開していく大きな流れの中で、「志賀」はその結節点に立つ、象徴的な存在であった。
その謎に満ちた存在は、私たちに、記録された歴史の裏にある無数の失われた物語と、忘れ去られた美の可能性について、豊かな想像を促してくれる。最後に、小堀遠州が命名した同名の茶入「志賀」の存在 4 に改めて触れたい。歴史の中で、一つの「名」がいかに重層的な意味を担い、時に混同されながらも受け継がれていくか。その名を正確に読み解き、それぞれの器物が置かれた文脈を丁寧に解き明かすことの重要性を、「志賀」という名の二つの名物は、私たちに静かに教えてくれるのである。