指火式銃は戦国時代に主力とならず、火縄銃が戦術を革新。江戸期には「暗器」として再評価され、雷管式技術と融合し十手型鉄砲などに再創造。技術の受容と変容を示す。
本報告書は、「指火式銃」という特定の火器について、日本の戦国時代という時代背景を軸に、その技術的本質、歴史的文脈、そして日本における存在の有無と変容を、学術的見地から徹底的に解明することを目的とする。利用者が提示した概要、すなわち全長30cm以下の小型銃で、火種を指で直接点火し、江戸時代には十手型のものが存在したという情報は、本研究の出発点である。しかし、本報告書の射程はその範疇を大きく超える。
中心的な問いとして、「指火式銃は、戦国時代の日本において、どのような存在だったのか。そして、なぜ火縄銃のように戦場の主役となり得なかったのか」という一点を据える。この問いを解き明かす過程で、指火式銃という一つの技術を切り口に、日本の技術受容史、戦術の変遷、さらには武器と思想の関連性までを浮き彫りにすることを目指す。
報告書の構成は以下の通りである。まず、指火式銃の基本構造を定義し、その起源を明らかにする。次に、通説とされる1543年の鉄砲伝来以前に、日本に火器が存在したかを巡る学術的な議論を検証する。続いて、火縄銃の登場がもたらした技術的・戦術的革命を分析し、指火式銃との性能差を具体的に比較することで、なぜ指火式銃が歴史の表舞台から姿を消したのかを論証する。さらに、戦国時代に主役たり得なかった指火式銃の「概念」が、泰平の世となった江戸時代において「暗器」としていかに変容し、全く異なる技術を得てその命脈を保ったのかを追跡する。最後に、本研究に関連する資料を収蔵する施設を紹介し、全体の総括を行う。
指火式銃とは、銃砲刀剣類登録法において「指火式点火法」と定義される、最も原始的な形態の銃砲を指す 1 。その原理は、銃身に直接開けられた小さな穴、すなわち「火門(かもん)」に、燃えている火種を手で直接押し付けることで、銃身内部に装填された発射薬に点火するという、極めて単純な構造に基づいている 2 。英語圏ではこの火門を「タッチホール」と呼ぶことから、指火式は「タッチホール式」とも称される 2 。
構造的に見ると、指火式銃は弾丸を発射するための金属製の筒(銃身)、銃身後端に設けられた発射薬を詰める薬室、そして点火用の火門という、必要最低限の要素のみで構成される。後の火縄銃に標準装備される引き金や、火縄を保持する火挟み(ひばさみ)、それらを連動させるばね仕掛けといった、複雑な「撃発装置(からくり、ロック機構)」を一切持たない点が、他の火器との決定的な違いである 1 。この単純さゆえに、撃発装置を持たない指火式の銃砲は、現代の銃刀法上、登録証が不要とされる場合もある 1 。
指火式銃の起源は、世界史的には13世紀から14世紀にかけて中国大陸で発明され、シルクロードなどを通じて世界各地へ拡散した「手銃(しゅじゅう)」、いわゆるハンドキャノンにまで遡ることができる 4 。これらは主に青銅などの金属を鋳造して作られた筒であり、その末尾に木の柄を取り付けて使用された 4 。この手銃こそが、指火式点火法を用いた最も初期の形態の銃であった。
日本の古銃に関する文献には、「わが国では指火式の小銃は見られないが、支那製や朝鮮製の原始手銃と呼ばれるものが散見される」という重要な記述が存在する 5 。これは、戦国時代に合戦の様相を一変させた「小銃(マスケット銃)」の形態、すなわち両手で構えて狙いを定める銃としては指火式は普及しなかったものの、その原型である「手銃」という形態では日本にも存在した可能性を示唆している。
具体的な作例としては、中国(明)の永楽年間に大量生産された「永楽銅銃」や、それを模倣して朝鮮で製造された「三眼銃」などが挙げられる 5 。特に三眼銃は、三本の銃身を束ねた形状をしており、それぞれに火門を持つことで三連射が可能であった。朝鮮の兵法書『神器譜』によれば、主に騎馬武者が使用し、三度の射撃を終えた後は、その重量と頑丈さを活かして棍棒として敵を殴打する打撃武器としても用いられたという 5 。
指火式銃の発射プロセスは、極めて原始的かつ危険を伴うものであった。まず、銃口から発射薬(胴薬)と弾丸を槊杖(さくじょう、カルカ)で突き固める。次に、銃身側面の火門に、より燃えやすい微粉末状の点火薬(口薬)を盛り、そこに火のついた棒や縄、あるいは燃えさしなどを手で直接接触させて発射する 2 。
この操作方法には、兵器として致命的ないくつかの欠陥が内在していた。第一に、片手で銃本体を支え、もう片方の手で点火操作を行う必要があるため、両手で銃をしっかりと保持し、肩や頬に当てて精密に照準を定めることが物理的に不可能であった 4 。これにより、命中精度は著しく低く、狙って当てるというよりは、敵の方向に大まかに向けて撃ち放つという運用しかできなかった。
第二に、火種を火門に押し付けるタイミングや力加減が射手の感覚に完全に依存するため、発射の瞬間を精密に制御できず、意図せぬ暴発の危険性が常に付きまとった 3 。
第三に、火種を常に剥き出しの状態で持ち歩かなければならないため、雨天や強風時には火が消えたり、火薬が湿気ったりして使用が極めて困難になる。さらに、夜間の戦闘においては、燃える火種の光が自らの位置を敵に暴露してしまうという、戦術上の深刻な欠点も抱えていた 1 。
これらの構造的・操作上の限界から、指火式銃は「狙って撃つ銃」というよりも、むしろ「個人が携行可能な小型の砲」と見なす方がその本質を正確に捉えていると言える。射撃後に打撃武器として転用するという発想 5 も、この武器が精密射撃を主目的としていなかったことの傍証となる。この「手砲」としての性格こそが、後の火縄銃との決定的な差異であり、戦国時代の日本で広く普及しなかった根源的な理由を理解する上で不可欠な視点である。
日本において「鉄砲」という言葉が火縄銃を指すようになる以前、火薬を用いた兵器の記憶は古く、13世紀の元寇(文永の役、1274年)にまで遡る。この時、モンゴル・高麗連合軍が使用した「てつはう」は、火薬を陶製の容器に詰めて投擲する原始的な手榴弾、あるいは焼夷弾のような兵器であった 4 。これは銃ではなかったが、その轟音と破壊力は日本側に強烈な印象を残し、後に伝来する新たな火器に「鉄砲」という漢字を当てる一因になった可能性が指摘されている 6 。
火薬を用いた兵器としては、中国の宋代に発明された、槍の先に火薬筒を取り付けて推進力とする「火箭」や、竹筒に火薬と石の弾丸を入れて飛ばす「突火槍」などが存在し、これらが手銃(ハンドキャノン)へと発展していった 4 。
日本の銃の歴史は、1543年(天文12年)にポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し、時の島主・種子島時尭がその所有する火縄銃2挺を購入したことに始まるとするのが通説である 7 。しかし、この通説に疑問を投げかける記録も存在する。
通説より77年も前の1466年(文正元年)、室町幕府の将軍・足利義政に謁見した琉球王国の使者が、帰途において「鉄放」を放ち、京の人々を大いに驚かせたという記録が相国寺の僧によって残されている 10 。この「鉄放」や、当時の文献に散見される「飛砲火槍」といった兵器は、その構造や使用法から、撃発装置を持たない指火式の手銃(ハンドキャノン)であった可能性が極めて高い 10 。14世紀から15世紀にかけて、東アジアや東南アジアの海上交易圏では、すでにこの種の手銃が広く伝播していた 10 。実際、種子島に伝来したとされる火縄銃自体も、ヨーロッパで製造されたものではなく、東南アジアで現地の需要に合わせて改良されたものであったとする説も有力である 11 。
こうした背景から、軍事史研究者の宇田川武久氏は、従来の「1543年・種子島単一伝来説」を批判し、「鉄砲は倭寇などの海上勢力によって、1543年以前から西日本の各地へ分散的かつ波状的に伝えられた」とする多元的伝来説を提唱した 6 。
宇田川説の重要な論拠の一つが、1540年代の朝鮮王朝や明の史料に見える「火砲(炮)」という記述である。例えば、朝鮮の『中宗実録』には、1544年に朝鮮の兵船が遭遇した中国船(倭寇と見られる)が「火砲」を発射したと記録されている。宇田川氏はこの「火砲」を、当時最新兵器であった鉄砲(火縄銃もしくはその前段階の銃)と解釈し、倭寇がすでに銃を保有し、日本へ持ち込んでいたことの決定的な証拠であると主張した 15 。
これに対し、歴史学者の村井章介氏をはじめとする研究者からは、史料解釈の妥当性を問う厳しい反論がなされた。村井氏らは、当時の東アジアの文脈における「火砲」という語は、中国由来の在来型火器(大砲や手銃など)を指す一般的な用語であり、引き金機構を持つ新兵器としての鉄砲(朝鮮史料では後に「鳥銃」として明確に区別される)とは異なると指摘した 15 。この論争は、日本における銃の受容史の始点をどこに置くかという、歴史学上の根源的な問題を提起しており、現在も決着を見ていない。
これらの史実と学術論争を総合的に勘案すると、戦国時代の日本における指火式銃の位置付けについて、一つの重要な仮説が導き出される。それは、「技術としての指火式銃」は1543年以前に日本に存在した可能性が高いものの、「兵器システムとしての指火式銃」は定着しなかった、というものである。1466年の琉球人の記録や、倭寇を介した東南アジアからの火器流入の可能性を考えれば、指火式の原始手銃そのものが、単発的・散発的に日本国内に持ち込まれていた蓋然性は高い。
しかし、それらが合戦において組織的に運用されたという確たる史料は見当たらない。戦国大名が鉄砲の攻撃に備えて城の防御を固める 6 といった動きが活発化するのは、あくまで火縄銃が伝来し、その威力が認知された後のことである。これは、指火式銃が持つ前述の構造的欠陥、すなわち低い命中精度、操作の煩雑さ、安全性の欠如といった問題ゆえに、当時の武将たちにとって、既存の主力兵器であった弓矢の戦術的価値を凌駕する存在とは見なされなかったことを強く示唆している。結論として、モノとしての「銃」は存在したかもしれないが、それを運用するための訓練法、部隊編成、戦術といった、実戦で機能するための「兵器システム」が構築されるには至らなかった。火縄銃の伝来が画期的であったのは、まさにこの「兵器システム」を構築するに足るだけの技術的ポテンシャルを秘めていた点にあったのである。
15世紀中頃にヨーロッパで開発された火縄銃(マッチロック式銃)は、指火式銃とは一線を画す革新的な機構を備えていた 4 。その最大の特徴は、引き金と連動して燃える火縄を火皿の点火薬(口薬)に叩きつける「撃発装置(からくり)」の存在である 16 。
具体的には、銃床に取り付けられたS字型の金属部品「火挟み(ひばさみ)」(欧州ではサーペンタインと呼ばれる)に、火をつけた火縄の先端を固定する。引き金を引くと、内部に仕込まれたばね(平からくり、あるいはより複雑なゼンマイを用いた内からくりなど)の力が解放され、火挟みが瞬時に回転・落下し、火縄が火皿に盛られた口薬に接触して発火させる仕組みである 3 。
この機構がもたらした進歩は決定的であった。射手は、両手で銃をしっかりと構え、頬や肩に銃床を当てて安定させ、照準器(前目当・先目当)を用いて標的を狙いながら、自らが意図した最適なタイミングで発射することが可能となったのである 4 。これは、片手で銃を支え、もう一方の手で点火するという不安定な操作を強いられた指火式銃からの、まさに飛躍的な進化であった。
さらに、日本に伝来した火縄銃は、東南アジアを経由した「マラッカ式」に分類されるが 1 、日本の職人たちはこれを単に模倣するだけでなく、独自の改良を加えた。特に、引き金を引くと同時に火挟みが瞬時に落下する「瞬発式」のからくりは、引き金を引いてから火挟みがゆっくりと倒れるヨーロッパの「緩発式」に比べて発射までの時間差が少なく、命中精度を格段に向上させる日本の火縄銃の大きな特徴となった 13 。
1543年に種子島時尭が2挺の鉄砲を手に入れると、彼は即座にその国産化に着手させた。家臣に火薬の調合を学ばせるとともに、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて銃の分解・研究を行わせ、わずか1年ほどで模倣品の製造に成功したと伝えられている 7 。この際、最大の技術的難関となったのが、銃身後部を密閉し、火薬の爆発圧力を前方に集中させるための「尾栓ネジ」の製造技術であった 17 。
この国産化成功を皮切りに、鉄砲の製造技術は驚異的な速さで日本全国に伝播した。種子島で技術を学んだ和泉国堺の商人・橘屋又三郎や紀伊国根来寺の僧侶・津田監物らによって、堺や根来は日本有数の鉄砲生産地へと発展した 9 。近江国の国友村もまた、織田信長や徳川家康の庇護のもと、幕府御用の鉄砲鍛冶として名を馳せ、一大生産拠点となった 6 。
日本の鉄砲鍛冶たちは、単なる模倣に留まらず、その優れた伝統技術を活かして銃の品質を向上させた。特に、よく鍛えた鉄(瓦金)で作った銃身(素筒)の上に、さらにリボン状に鍛えた鉄板(葛金)を幾重にも巻き付けて鍛接する「双層交錯法」によって作られた銃身は、ヨーロッパの単純な単巻法の銃身に比べて格段に高い強度と耐久性を誇った 1 。
戦国時代の日本に登場した火縄銃は、当初はその希少性と高価さから、大名や上級武将が用いる特別な武器であった 18 。しかし、堺や国友での量産体制が確立されると、価格は下落し、特別な訓練を積んでいない足軽でも扱える主要武器として急速に普及した 18 。弓矢に比べて習熟が容易でありながら、鎧を貫く高い威力を有する鉄砲は、合戦の様相を根底から覆す存在となった。
その威力を最も象徴的に示したのが、1575年(天正3年)の長篠の戦いである。織田信長は、通説によれば3,000挺もの鉄砲を集中投入し、馬防柵で武田軍の強力な騎馬隊の突撃を防ぎつつ、射手を三列に並べて間断なく一斉射撃を行う「三段撃ち」戦法でこれを撃破したとされる 13 。三段撃ちの考案者やその実態については、雑賀衆が先行していたという説など様々な議論があるものの 13 、この戦いが鉄砲の集団運用という新しい戦術の有効性を天下に示し、その後の合戦における鉄砲の地位を決定づけたことは間違いない。
火縄銃の登場は、武士個人の武勇に依存した一騎討ち中心の戦いから、兵士の集団による組織的な戦闘へと、日本の戦術思想そのものを大きく転換させた。その圧倒的な射程と威力は、戦国時代の終焉を加速させる重要な要因となったのである。
この火縄銃の急速な発展と普及の背景には、日本の職人が持つ高度な金属加工技術と、群雄が割拠し常に新兵器を求める戦国時代の熾烈な軍事需要とが、奇跡的に結びついたという歴史的必然があった。伝来した技術を単に受け入れるだけでなく、それを自国の状況に合わせて創造的に改良し、より優れたものへと昇華させる力があったからこそ、日本の火縄銃は、技術的にも美術的にも、その原型であるヨーロッパ製を凌駕するほどの完成度に達したのである 1 。これは、技術が導入された社会の特性(技術力、社会需要)によって、元々の技術が変容し、より高度なものへと進化する典型的な事例と言える。対照的に、指火式銃には、この「進化の連鎖」を誘発するだけの技術的ポテンシャルが、根本的に欠けていたのであった。
戦国大名という、領国の存亡を賭けて合理的な意思決定を迫られる立場から見た場合、新たな兵器の採用は極めて重要な経営判断であった。その判断基準は、単一の性能だけでなく、複数の指標を総合的に評価したものであったはずである。ここでは、兵器としての合理性を評価するため、①命中精度、②連射性(発射速度)、③信頼性・安全性、④威力・射程、⑤コスト・量産性という5つの視点から、指火式銃(原始手銃)と火縄銃を徹底的に比較分析する。
以下の表は、両者の性能差を項目別に整理し、戦国時代において火縄銃が指火式銃に対して持っていた圧倒的な優位性を明確化するものである。
項目 |
指火式銃(原始手銃) |
火縄銃 |
根拠・解説 |
点火方式 |
手動による直接点火 |
火縄と連動した撃発装置(からくり) |
指火式は射手自身の不安定な手作業に依存し、発射タイミングが不正確であった 2 。一方、火縄銃は引き金操作により、任意のタイミングで瞬時に発射が可能であった 16 。 |
照準・命中精度 |
極めて低い |
比較的高い(有効射程内で) |
指火式は両手での保持・照準が構造的に困難であった 4 。火縄銃は銃床を頬や肩に当てて構えることができ、照準器も備えていたため、格段に高い照準能力を有した 4 。ただし、当時の銃はライフリング(施条)がなく、弾道は現代の銃に比べて不安定であった 23 。 |
発射速度(連射性) |
極めて遅い |
遅いが工夫により向上可能 |
火縄銃も一発ごとの装填に時間を要するという弱点があった 24 。しかし、一発分の火薬と弾丸をセットにした「早合(はやごう)」の使用や、「三段撃ち」のような集団運用によって、部隊としての継続的な射撃能力を確保することができた 13 。指火式には、こうした運用上の工夫で弱点を補う余地が乏しかった。 |
信頼性(耐候性) |
非常に低い |
低いが対策あり |
指火式は火種が完全に剥き出しのため、雨や強風といった悪天候下ではほぼ使用不可能であった 1 。火縄銃は、点火薬を保護する「火蓋」を備え 17 、さらに雨に強い木綿製の火縄が開発されるなど 26 、弱点を補うための改良が加えられた。 |
安全性 |
非常に低い(暴発の危険) |
比較的高い |
指火式は不安定な点火操作により、暴発の危険性が常に付きまとった 3 。火縄銃は、意図しない発火を防ぐ安全装置として火蓋が機能し、操作手順も確立されていたため、相対的に安全性は高かった 17 。 |
威力・有効射程 |
不明(近距離での威嚇が主か) |
高い(有効射程50~100m) |
火縄銃は、30mの距離で当時の鎧を貫通するほどの威力を持ち 27 、一般的な小筒でも有効射程は50mから100mに達した。城の狭間から狙撃に用いる大筒(挟間筒)では、射程は200~300mにも及んだ 28 。指火式銃がこれに匹敵する性能を持っていたとは考え難い。 |
量産性と発展性 |
低い |
高い |
指火式は構造こそ単純だが、それ以上の発展性が見込めない「行き止まりの技術」であった。対照的に火縄銃は、銃身を作る「鍛冶師」、銃床を作る「台師」、からくりを作る「金具師」といった分業生産が可能であり 20 、国友や堺などで大量生産体制が確立され、戦国の需要に応えた。 |
上記の比較分析から導き出される結論は明白である。指火式銃は、合戦における組織的運用に耐えうる兵器ではなかった。命中精度、信頼性、安全性といった、兵器として最低限求められる要件を、その原始的な構造ゆえに満たすことができなかったのである。
一方で火縄銃は、連射性の低さや雨天時の脆弱性といった欠点を抱えつつも 23 、それを補って余りある威力を有していた。そして何よりも重要だったのは、その欠点が「早合」や「三段撃ち」といった運用上の工夫や、「耐水性の火縄」といった技術的改良によって克服可能なレベルのものであったという点である。
火縄銃の成功は、それが「完璧な兵器」だったからではない。むしろ、その核となる価値、すなわち「狙って撃てる威力のある飛び道具」というポテンシャルを最大限に引き出すため、運用する人間側が工夫を凝らす余地のある「発展可能性を秘めたプラットフォーム」であったからに他ならない。対照的に、指火式銃はその根本的な構造上、いかに工夫を凝らそうとも「狙って撃つ」という段階に到達することができず、改良のしようがない技術であった。
したがって、戦国大名たちが軍事兵器として火縄銃を選択し、指火式銃を顧みなかったのは、感情や偶然によるものではなく、兵器の性能と発展可能性を冷徹に見極めた、極めて合理的な判断であったと結論付けられる。
1615年の大坂夏の陣を経て元和偃武が成立すると、日本は大規模な内乱のない泰平の時代、すなわち江戸時代へと移行した。これにより、武器の役割は大きく変容する。戦場で敵軍を殲滅するための兵器としての需要は激減し、代わって個人の護身用、あるいは暗殺用、さらには武士の威儀を示すための道具としての性格を強めていった 6 。
このような社会背景のもとで独自の発展を遂げたのが、身体に隠し持つことが可能な小型の武器、「暗器(あんき)」である 30 。暗器は、その秘匿性の高さから護身、不意打ち、暗殺といった非正規の戦闘で用いられ、殺傷力を高めるために毒が塗られることもあった。その性質上、武士道的な価値観からは卑怯な武器と見なされる側面も持ち合わせていた 30 。
利用者が当初の情報として提示した「十手型鉄砲」は、まさにこの暗器という文脈の中で生まれた武器である。これは、江戸時代の町方役人(与力・同心)が犯人捕縛に用いた公的な武具である「十手」に、銃の機能を組み込んだ特殊な仕込み武器である 31 。
現存する作例を見ると、全長は30cmから50cm程度で、十手の棒身部分が中空の銃身となっており、鉤(かぎ)の根本付近に点火口が設けられているものが確認できる 31 。外見からは銃であることが判別しにくく、一見すると武器に見えない日用品や道具に凶器を仕込むという、暗器の典型的な思想を体現している 30 。その小型で単純な外見は、最も原始的な銃である指火式銃のイメージと容易に結びつきやすい。
しかし、これらの江戸時代後期の小型隠し銃、例えば「握り鉄砲」や「芥砲(かいほう)」と呼ばれる掌サイズの暗殺銃を技術的に詳細に分析すると、その点火方式が指火式でも、戦国時代に主流であった火縄式でもないことが明らかになる 34 。
これらの暗器が採用していたのは、「雷汞(らいこう)」という、衝撃によって爆発的に発火する化学物質を用いた、当時最新の「雷管式(パーカッションロック式)」点火法であった 34 。雷管式は19世紀初頭にヨーロッパで発明された画期的な技術であり、撃鉄(ハンマー)で雷汞を詰めた金属製のキャップ(雷管)を叩く衝撃で発火させる 3 。この方式の最大の利点は、火縄のような外部の火種を一切必要としない点にあった。
火種が不要であるということは、雨天でも問題なく使用可能で、発射準備にかかる時間が格段に短縮され、そして何よりも銃を小型化し、完全に「隠し持つ」ことを可能にした。これは、暗器という目的にとってまさに理想的な技術であった。信州松代藩の銃工・片井京助が開発した「傍装雷火銃」は、雷汞を粒状にした「雷粒」を銃側面のケースから自動的に供給する機構を備え、火縄銃が2発撃つ間に7発も発射できたとされ、この最新技術の高度な応用例として知られている 36 。
この事実から、極めて重要な結論が導き出される。江戸時代の十手型鉄砲や握り鉄砲は、「指火式銃」の直接的な末裔ではない。むしろ、それは「指火式銃が内包していた思想」が、数百年後の「雷管式という最新技術」と融合して生まれた、全く新しいカテゴリーの武器なのである。
利用者が「指火式銃」と「十手型鉄砲」を関連付けたのは、「小型で単純な構造の銃」という外見的類似性からの自然な連想であろう。しかし、両者の間には、指火式(14世紀頃)、火縄式(15世紀頃)、火打石式(17世紀頃)、そして雷管式(19世紀頃)という、数世紀にわたる技術的な断絶と進化が存在する。
では、なぜこの技術的飛躍が「暗器」という形で起きたのか。それは、特殊なニーズが介在したからに他ならない。火縄式は火種が必要で隠せない。火打石式も機構が比較的大型で、完全に秘匿するのは難しい。そこへ、小型で火種不要の雷管式技術が、海外との接触が再び活発化した幕末期に日本へ伝来した。この新技術が、「小型で、いざという時に使える隠し銃が欲しい」という江戸時代を通じて存在した暗器の「思想」あるいは「概念」と結びついたのである。
したがって、十手型鉄砲や握り鉄砲は、指火式銃の直接的な進化形ではない。それは、戦国時代に一度は淘汰された「極めて小型の個人用火器」というコンセプトが、数百年という時を経て、海外から伝来した全く別の革新的技術によって、新たな形で蘇った「再創造」の産物と解釈すべきである。これは、技術の歴史が単純な直線的な進化ではなく、異なる時代の思想と技術が交差し、新たなものを生み出す、複雑で興味深い現象であることを示している。
日本国内において、戦国時代に遡る指火式銃そのものの現存が確認された作例は極めて稀である。しかし、その構造を留めるものとして、「指火式 棒火矢筒」といった名称で、小型の砲に近いものが骨董市場などで見られることがある 1 。これらは棒状の火矢を発射するための装置であり、撃発装置を持たないため、銃砲刀剣類登録証が不要な品として扱われる場合がある 1 。
また、15世紀から16世紀にかけて東アジアの海域で広く用いられた手銃(ハンドキャノン)の流れを汲むものとして、沖縄県立博物館には「ヒヤー」と呼ばれる指火式の手銃が所蔵されている可能性がある 40 。これらの資料は、日本における火縄銃以前の火器の姿を考察する上で貴重な手がかりとなる。
指火式銃という「失われた環」を理解するためには、その対極にある、日本で独自の発展を遂げた火縄銃や、その後の技術的変遷を示す江戸時代・幕末期の銃器を収蔵する施設を訪れ、比較研究を行うことが不可欠である。以下に、その代表的な施設を挙げる。
これらの施設を訪れることで、指火式銃がなぜ普及せず、火縄銃がいかにして戦国の戦場を支配するに至ったのか、そして泰平の江戸時代から動乱の幕末にかけて、銃という技術がどのように変容していったのか、その壮大な歴史的変遷を実物資料を通して深く理解することができる。
本報告書は、日本の戦国時代という視点から「指火式銃」を徹底的に調査し、以下の結論に至った。
第一に、指火式銃は、日本の戦国時代において、合戦の主力兵器として普及することはなかった。その理由は、照準の困難さ、安全性の低さ、劣悪な耐候性といった、兵器としての致命的な構造的欠陥に起因する。15世紀の琉球人の記録などから、指火式の原始手銃が日本に伝来した可能性は否定できないが、それはあくまで散発的な事例に留まり、戦国の戦術体系に組み込まれることはなかった。
第二に、戦国時代の戦場を支配したのは、撃発装置という革新的な機構を備えた火縄銃であった。火縄銃は、その圧倒的な威力と、運用次第で欠点を補える発展可能性によって、戦国大名から合理的な兵器として選択された。そして、日本の優れた職人技術と、絶え間ない軍事需要という類稀な土壌の上で、単なる模倣品に終わらない、世界最高水準の完成度へと昇華した。
第三に、指火式銃が内包していた「小型で隠し持つことができる火器」という「思想」は、戦国時代に一度その命脈を絶たれた後、泰平の江戸時代に「暗器」という形で新たな需要を得て蘇る。そして、幕末期に伝来した「雷管式」という全く新しい点火技術と融合することで、十手型鉄砲や握り鉄砲といった、技術的にはるかに進歩した、しかし思想的には先祖返りしたかのような、新たな形態の武器として再創造された。これは、技術史における単純な直線的進化では説明できない、思想と技術の複雑な相互作用を示す好例である。
最終的な結論として、「日本の指火式銃」というテーマは、存在しなかったに等しい「戦国の主力兵器」の幻影を追うのではなく、火縄銃登場以前の「前史」と、江戸時代の暗器文化における「思想的後継者」という、二つの異なる文脈の中にその姿を求めるべきである。指火式銃の研究は、単一の武器の歴史に留まらない。それは、日本における技術の受容、改良、そして社会状況に応じた武器の役割の変化という、より大きく、豊かで示唆に富んだ歴史の物語を映し出す鏡であると言えよう。