尾張銘菓「朧月」は、現代の菓子ながら、その美意識と製法は戦国時代の侘び茶や「麩の焼き」に源流を持つ。時を超え、日本の精神性を伝える一品。
現代の尾張、名古屋の地で広く親しまれている銘菓に「朧月」がある。これは落し焼の手法でつくられた煎餅であり、その名は、焼成の過程で菓子の縁が自然とじんわりと焦げる様子を、春の夜にほのかに霞んで見える月に見立てたことに由来するとされる。この風雅な菓子は、主に亀屋芳広といった老舗によって製造され、地域に深く根差した存在として知られている 1 。
しかし、この優美な菓子を前にして、一つの歴史的な問いが浮かび上がる。果たして、戦乱に明け暮れた戦国時代に、このような繊細な美意識と製法を持つ菓子は存在し得たのであろうか。もし、現代に伝わる形での存在が困難であったとすれば、その名に込められた美意識、その姿を形作る製法、そしてその味わいを生む材料の源流を、あの激動の時代に見出すことはできるのか。本報告書は、この問いを解き明かすための知的探求であり、現代の銘菓を構成する諸要素を歴史の文脈に照らし合わせることで、戦国時代における「朧月」の存在可能性を徹底的に考察するものである。
後の時代考証の礎として、まず現代に伝わる銘菓「朧月」を分析の対象とし、その構成要素を名称、製法、原材料の三点から詳細に分解する。
「朧月」という名称は、単に天体現象を指す言葉ではない。それは日本の文化史の中に深く刻まれた、特定の美意識を喚起する記号である。
「朧月」は、春の夜に霞や雲などによってほのかに、おぼろげに見える月のことであり、俳諧においては春の季語として確立されている 3 。この現象は、春特有の昼夜の寒暖差によって生じる大気中の水蒸気が月の光を和らげることで起こる 3 。澄み渡る秋天に輝く「名月」が静謐で理知的な美しさを象徴するのに対し、「朧月」は柔らかく、情緒的で、どこか艶やかな美しさを内包する。
この美意識の源流は古く、平安時代の貴族文化にまで遡ることができる。その最も象徴的な例が、『源氏物語』の「花宴(はなのえん)」の巻である。この巻では、桜花の宴の夜、美しい朧月に誘われた光源氏が、弘徽殿女御の妹である朧月夜の君と運命的な出会いを果たす場面が描かれており、「朧月」は恋と雅の象徴として物語の中で重要な役割を担っている 7 。このように、「朧月」という言葉は、千年以上にわたり、日本の文学や芸術の中で繰り返し詠まれ、描かれてきたテーマである。
したがって、菓子に「朧月」と名付ける行為は、単にその外見を説明するに留まらない。それは、平安の雅から連なる日本の古典的な美意識を引用し、一つの食品に深い文化的背景と物語性を与える、意図的な文化的営為なのである。この菓子の名称は、現代の菓子職人と、遥か昔の歌人や物語の作者とを結びつける、美意識の架け橋として機能している。
「朧月」は、「落し焼の煎餅」と説明される。この製法と分類を理解することは、その技術的な起源を探る上で不可欠である。
「落し焼」とは、ゆるく溶いた生地を鉄板や銅板などの上に、匙やそれに類する道具を用いて一匙ずつ落とし、そのまま焼き上げる製法を指す。この手法を用いることで、輪郭は自然で不均一な円形となり、特に生地の薄い縁の部分は火が通りやすく、特徴的な焦げが生まれやすい。この「朧月」の名の由来となる外見は、まさにこの製法に起因するものである。
一方、「煎餅」という言葉は、歴史的にその意味合いを大きく変えてきた点に留意が必要である。現代において「煎餅」といえば、多くはうるち米を原料とした塩味の米菓を指すが、小麦粉を主原料とする甘い焼き菓子もまた「煎餅」と呼ばれる。後者の代表例が「瓦せんべい」であり、「朧月」はこの系統に連なる菓子と考えられる 8 。歴史を遡ると、平安時代の文献に登場する「煎餅(せんべい)」は、大豆や小麦の粉を練って固め、油で炒ったものとされており、現代の焼き煎餅とは製法が異なる 9 。このように、「煎餅」という言葉の射程は広く、時代や地域によって指し示すものが変化してきた。
現代の「朧月」やそれに類する焼き菓子の成分表示から、その主たる原材料は小麦粉、鶏卵、砂糖の三つであると強く推定される。
これら三つの基本的な材料がもたらす、サクっとした歯触りと上品な甘さが、現代の「朧月」の味わいを決定づけている。戦国時代におけるこの菓子の存在可能性を検証する上で、これら三つの材料、特に鶏卵と砂糖の入手可能性と使用実態が、決定的な試金石となるであろう。
第一章で分解した「朧月」の構成要素を歴史的に検証するため、本章ではその舞台となる戦国時代の食文化、特に甘味を巡る環境を多角的に描き出す。当時の技術水準、経済状況、そして人々の美意識が、どのような「甘いもの」を許容し、また求めたのかを明らかにする。
戦国時代において、菓子は単なる嗜好品ではなかった。それは時として政治や外交の道具となり、権力者の威光を示すための重要な装置でもあった。特に、天下統一を争った三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、それぞれ菓子と深い関わりを持っていたことが記録に残されている 10 。
織田信長は、新しい文化や技術に対して極めて開明的であり、その好奇心は南蛮菓子にも向けられた。永禄12年(1569年)、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは信長に謁見した際、ガラス瓶に入った金平糖を献上した 11 。砂糖の塊ともいえるこの菓子は、当時の日本人にとって驚異的なものであり、信長はこれを大いに珍重したと伝えられる 13 。これは、信長が菓子を異文化理解の窓口として捉えていたことを示唆している。
豊臣秀吉は、信長の影響を受けて茶の湯に深く傾倒し、壮麗な茶会を幾度となく催した。美食家としても知られる秀吉は、苦い抹茶とともに供される茶菓子にも並々ならぬこだわりを見せた 10 。大和の菓子司・菊屋が献上した餅菓子を大変気に入り、「鶯餅」と自ら命名したという逸話は、秀吉が菓子のプロデューサーとしての一面も持っていたことを物語っている 10 。
徳川家康の菓子への関わりは、より儀礼的、象徴的な側面が強い。家康は饅頭を大好物としたことで知られるが、それだけでなく、戦勝祈願や祝儀の場で菓子を重要な役割を担わせた 10 。長篠の合戦の際には、出陣前に献上された「塩瀬饅頭」を兜に供えて勝利を祈願したとされ、また江戸城では2万個にも及ぶ菓子を並べて大名たちに振る舞ったという記録もある 10 。家康にとって菓子は、神仏への供物であり、主従関係を確認し、自らの権威を可視化するためのメディアであった。
現代の菓子作りにおいて当然のように使用される砂糖は、戦国時代においては金や香料にも匹敵する極めて高価な輸入品であった。その存在は、当時の甘味文化の様相を根本的に規定している。
当時の人々が日常的に利用できた甘味料は、主に自然由来のものであった。干し柿はその代表格であり、保存性が高く、凝縮された甘味は貴重なエネルギー源ともなった 14 。その他、蜂蜜や、蔦の樹液を煮詰めて作られる甘葛煎(あまづらせん)なども用いられたが、甘葛煎は生産量が限られ、主に貴族階級が用いる高級品であった 9 。
この時代にも羊羹や饅頭といった菓子は存在していたが、その多くは小豆本来の風味を活かした、甘味の少ないものであったと考えられる。砂糖を加えたものは、わざわざ「砂糖羊羹」「砂糖饅頭」と呼び分けられており、それが特別な品であったことを示している 11 。砂糖は医薬品として扱われることもあり 16 、その価値の高さは狂言『附子』の中でも面白おかしく描かれている 17 。
このような状況下で、砂糖を大量に入手し、それを菓子に用いることができるのは、ごく一部の権力者に限られていた。特に、南蛮貿易の拠点であった堺を支配下に置いた織田信長は、他の大名に比べて砂糖を入手しやすい立場にあった 18 。宣教師たちが信長への贈り物として金平糖を選んだ背景には、砂糖が単なる甘い珍品ではなく、富と国際的な繋がりを象徴する戦略的物資であったという側面がある。当時の甘さは、権力の指標でもあったのだ。
16世紀半ば、ポルトガルやスペインの宣教師や商人たちがもたらした南蛮菓子は、日本の菓子文化に二つの革命的な変化をもたらした 9 。
第一の革命は、前述の通り、砂糖を豊富に用いることによる鮮烈な甘さであった。それまでの日本の菓子が持っていた滋味深く穏やかな甘味とは全く異なる、直接的で強烈な甘さは、人々に大きな衝撃を与えた。
そして第二の、より構造的な革命は、鶏卵を菓子の主材料として本格的に導入したことである。それまでの日本では、仏教思想の影響などから鶏卵を食べる習慣が一般的ではなく、特に菓子の材料として用いられることは稀であった 11 。しかし、カステラやボーロといった南蛮菓子は、鶏卵の持つ風味、栄養価、そして熱を加えることで固まる性質(熱凝固性)や、攪拌することで空気を抱き込む性質(起泡性)を巧みに利用していた。特に、卵の起泡性を利用して生地を膨らませるカステラの製法は、日本の菓子に全く新しい「ふんわり」「しっとり」とした食感をもたらし、その後の和菓子作りに計り知れない影響を与えた。
戦国時代後期、千利休によって大成された茶の湯、とりわけ「侘び茶」の精神は、日本の美意識に深遠な影響を及ぼし、それは茶席で供される菓子にも色濃く反映された。華美や贅沢を排し、静寂と簡素の中にこそ真の美と豊かな精神性を見出そうとする「侘び」の思想は、菓子にも素朴さと深い味わいを求めた 9 。
利休が催した茶会の記録である『利休茶会記』などに頻繁に登場する菓子が、「麩の焼き(ふのやき)」である 12 。これは、小麦粉を水で溶いた生地を鉄鍋などの上で薄く焼き、山椒味噌や砂糖などを塗って巻いたものとされ、現代のクレープにも似た素朴な焼き菓子であった 9 。利休がこの菓子を重用した事実は、戦国時代の最先端の文化シーンにおいて、小麦粉を主原料とする「焼く」という調理法の菓子が、重要な位置を占めていたことを示している。
この「麩の焼き」は、後の「朧月」の考察において極めて重要な存在となる。なぜなら、それは小麦粉生地を平らな熱源で焼くという、技術的な核心部分を共有しているからだ。「麩の焼き」は、戦国時代に存在したことが確実な、「朧月」の最も直接的な技術的・美意識的祖先と見なすことができるのである。
「朧月」が生まれた尾張国は、戦国時代において日本の中心地の一つであった。織田信長の本拠地として、経済的にも軍事的にも、そして文化的にも先進的な地域であったことは想像に難くない。信長による楽市・楽座の推進は商業を活性化させ、堺や京との人や物の往来を盛んにした。信長の南蛮文化への寛容な姿勢は、この地に新しい技術や食材、そして思想がもたらされる素地を形成した 18 。
江戸時代に入ると、尾張徳川家の御用達として「桔梗屋」や「両口屋是清」といった高名な菓子司が活躍し、名古屋の菓子文化は大きく花開くこととなる 22 。こうした江戸時代の隆盛は、決して無から生まれたものではない。それは、戦国時代からこの地に蓄積されてきた経済力と、信長に象徴される革新的な文化を受け入れる土壌があったからこそ可能になったと考えられる。
本報告書の中核をなす本章では、第一章で解体した「朧月」の構成要素を、第二章で確立した歴史的文脈に照らし合わせ、その実現可能性を一つ一つ徹底的に検証する。
現代の「朧月」を特徴づける上品な甘さと軽やかな食感は、砂糖と鶏卵に大きく依存している。しかし、これらの材料は戦国時代において極めて入手が困難であり、これが「朧月」の存在を考察する上での最大の障壁となる。
次に、製法としての「落し焼」が技術的に可能であったかを検証する。
「麩の焼き」が鉄鍋のような調理器具の上で薄く焼かれていたことを踏まえれば、同様の器具の上で、ゆるく溶いた生地を匙で落として焼くという「落し焼」の技術自体は、十分に存在した可能性が高い。この製法は、特別な機械や設備を必要とせず、安定した火と平らな鉄板(あるいはそれに類するもの)さえあれば実現可能である。
しかし、問題となるのはその仕上がり、特に焼き加減の繊細な調整である。「朧月」の名の由来ともなる「周囲がじんわりと焦げる」という優美な焼き上がりは、薪や炭火を熱源とする当時の調理環境では至難の業であったと推測される。火力の調整は難しく、焼きムラが激しくなることは避けられない。結果として、もし「落し焼」が行われたとしても、その仕上がりは現代の製品のように均一で繊細なものではなく、より素朴で、時には力強く焦げ付いた、野趣あふれるものであったであろう。
最後に、菓子の名として「朧月」という言葉が、戦国時代の武人たちの美意識に受け入れられるものであったかを考察する。
戦国武将は、単なる武骨な軍人ではなかった。彼らの多くは連歌や茶の湯を嗜み、高い古典教養と鋭敏な美意識を兼ね備えていた。その精神世界では、死と隣り合わせの日常を生きる武の厳しさと、自然の移ろいや人の心の機微を愛でる風雅の心が、矛盾なく共存していた。
平安貴族が「朧月」に恋愛のロマンスや雅な情緒を見出したのに対し、戦国時代の武人、特に茶の湯の精神に触れた者は、そこに異なる価値を見出した可能性がある。千利休が大成した「侘び茶」の美意識は、完全なものよりも不完全なものに、華やかなものよりも質素なものに、永遠のものよりも移ろいゆくものに、より深い美を見出す。この観点から「朧月」を捉え直すと、霞によって輪郭がぼやけ、その姿が定からない月の様子は、まさに「侘び」の精神に通底する。澄み切った満月が「完全」の美を象徴するならば、「朧月」は「不完全」の美、はかなさの美を体現している。
したがって、不均一な形に焼き上げられ、縁が不揃いに焦げ付いた菓子に「朧月」と名付けることは、戦国後期の支配的な美意識であった「侘び」の思想と完全に合致する。その名は、単なる平安朝への憧憬ではなく、不完全さの中にこそ真の美を見出すという、当時の先鋭的な美意識の表明となり得たのである。菓子の不揃いな形と焦げは欠点ではなく、むしろ「朧月」という名によって肯定されるべき景色(けしき)として、積極的に評価されたであろう。
これまでの検証に基づき、もし戦国時代に「朧月」の祖形となる菓子が存在したならば、それはどのような姿、味わい、そして意味を持っていたのか。ここでは、歴史的蓋然性の範囲内で、その具体的な姿を再構築する試みを行う。
この「戦国版 朧月」は、決して誰もが口にできるものではなかった。それは特定の場面で、特別な意味を担う菓子として存在したであろう。
本報告書の分析結果を明確にするため、現代の銘菓「朧月」と、歴史的考察に基づいて推定される「戦国版 朧月」の対比を以下の表にまとめる。
項目 |
現代の銘菓「朧月」 |
推定される「戦国版 朧月」(仮説) |
主たる甘味料 |
砂糖 |
蜂蜜、水飴、あるいは味噌による甘塩味 |
主原料 |
小麦粉、鶏卵、砂糖 |
小麦粉、米粉、木の実の粉(鶏卵は稀) |
風味 |
上品でしっかりとした甘さ |
素朴で滋味深い甘さ、味噌や穀物の香ばしさ |
食感 |
サクッとした軽やかな歯触り |
やや硬質で歯ごたえのある食感 |
主な食者 |
一般大衆、贈答品として |
大名、上級武士、茶人など支配者層限定 |
主な用途 |
茶請け、土産物 |
茶会の菓子、戦陣での栄養補給、饗応の一品 |
美意識の背景 |
風雅な古典文学(源氏物語など) |
侘び茶の精神(不完全さ、素朴さの美) |
この表は、両者の間に存在する明確な断絶と、同時に底流に横たわる美意識の連続性を示唆している。
本報告書における詳細な分析と考察の結果、以下の二つの結論を導き出すことができる。
第一に、現代に伝わる尾張銘菓「朧月」が、そのレシピや歴史において戦国時代に直接的に遡るものではない、ということである。その存在を規定する主たる原材料、すなわち砂糖と鶏卵の普及状況を鑑みるに、現代の「朧月」のような菓子が広く作られるようになるのは、社会が安定し、国内での製糖業が奨励され、物資が豊かになった江戸時代中期以降である蓋然性が極めて高い 24 。戦国時代と現代の菓子との間には、明確な歴史的断絶が存在する。
しかし、第二の結論として、より重要なのは、その核心にある文化的遺伝子、すなわち精神性の源流は、まさしく戦国時代に見出すことができるという点である。両者の間には、直接的な系譜はなくとも、深い精神的連続性が存在する。
「朧月」という名に託された、不完全なもの、移ろいゆくものの中にこそ深い美を見出す感性は、千利休が茶の湯を通じて追求した「侘び」の精神と深く通底している。菓子の縁の自然な焦げを、夜空に霞む月になぞらえる視線は、戦国武将たちが培った美意識そのものである。
「焼く」という素朴な製法は、利休が愛した「麩の焼き」に代表される茶の湯の菓子と、明確な技術的連続性を持っている。それは、南蛮文化の刺激を受けつつも、日本の風土と精神性の中で育まれた独自の焼き菓子の系譜に連なる。
そして、この菓子が生まれた尾張という土地は、織田信長によって新たな文化の息吹が吹き込まれ、旧来の権威にとらわれない自由な気風が育まれた場所である。その革新的な土壌が、後の時代に豊かな菓子文化を開花させる礎を築いた。
結論として、銘菓「朧月」は、歴史という一本の線で戦国時代と繋がった存在ではないかもしれない。しかし、それは戦国という時代に生まれ、育まれた美意識、技術、そして精神性が、時を越え、江戸という文化の坩堝の中で結実し、現代にまで届けられた一つの美しい結晶である。この菓子を味わうことは、単なる味覚の体験に留まらない。それは、我々の文化の深層に、今なお脈々と流れ続ける精神の系譜に触れる行為なのである。