最終更新日 2025-08-09

朱漆塗桶側胴

井伊家の朱漆塗桶側胴は、鉄砲戦に対応した堅牢な甲冑。朱色は魔除けや士気高揚を意味し、武田から井伊、真田へと受け継がれた赤備えの象徴。
朱漆塗桶側胴

戦国の赤き象徴―「朱漆塗桶側胴」の総合的考察


序論:井伊家に伝わる一領の具足が語るもの

彦根城博物館には、戦国の気風を今に伝える一領の具足が収蔵されている。「朱漆塗紺糸威桶側二枚胴具足(しゅうるしぬりこんいとおどしおけがわにまいどうぐそく)」と呼ばれるこの甲冑は、井伊家初代藩主・井伊直政、あるいは二代直孝が用いたと伝わる、まさに歴史の証人である 1 。この具足は単なる防具ではない。それは、戦国時代の激しい技術革新、冷徹な政治的戦略、そして武士たちの精神世界を映し出す文化的象徴性が凝縮された、第一級の歴史的遺産と言える。

多くの人が井伊家と聞いて連想するのは、徳川家康の命により武田家の旧臣を率い、その武具まで朱色で統一した精鋭部隊「赤備え」であろう。本報告書は、この「井伊直政が武田の赤備えを継承した」という史実を出発点としながら、その象徴たる「朱漆塗桶側胴」を三つの分析軸から徹底的に解剖する。第一に、甲冑の形式としての「桶側胴」。第二に、その色彩を決定づける「朱漆塗」。そして第三に、軍団編成としての「赤備え」。これら三つの視点を統合することで、一領の具足がいかに戦国という時代の多層的な実像を物語るのかを明らかにしていく。


第一部:甲冑技術の革新 ― 桶側胴の構造と特徴

この部では、「朱漆塗桶側胴」を「器」として捉え、その構造的基盤である「桶側胴」そのものに焦点を当てる。戦国時代の戦術の変化が、いかにしてこの新しい甲冑形式を生み出し、普及させたのか。その技術的な詳細と歴史的意義を解明する。

第一章:当世具足の登場と戦術の変化

日本の甲冑は、時代ごとの戦闘様式の変化に応じて、その形態を大きく変えてきた。平安時代から鎌倉時代にかけて主流であった「大鎧(おおよろい)」は、馬上で弓を射る騎馬武者を主たる使用者と想定した、いわば「式正(しきしょう)」の鎧であった 3 。しかし、南北朝時代から室町時代にかけて、合戦の主役が徒歩で戦う兵へと移行するにつれて、より軽量で身体に密着し、動きやすい「胴丸(どうまる)」や「腹巻(はらまき)」が普及していった 3

そして戦国時代、天文12年(1543年)の鉄砲伝来は、これまでの甲冑の防御思想を根底から覆す軍事革命を引き起こした。小さな鉄や革の板である「小札(こざね)」を色鮮やかな組紐「威毛(おどしげ)」で綴じ合わせて作る伝統的な甲冑では、鉛の弾丸がもたらす衝撃を防ぎきることは困難であった 3 。この新たな脅威に対抗するため、より堅牢で実戦的な甲冑が求められた。こうして誕生したのが、「当世具足(とうせいぐそく)」、すなわち「現代風の具足」である 3 。当世具足は、鉄板(板札)を主要な素材とし、防御力、生産性、機能性を最大限に重視した、戦国時代を象徴する甲冑形式であった。

第二章:桶側胴の構造分析

当世具足の中でも、その代表的な形式として広く普及したのが「桶側胴」である。その名は、細長い長方形の鉄板(板札)を並べて留めた外観が、木桶の側面に似ていることに由来する 9 。鉄板の矧ぎ合わせる方向によって、横方向に繋いだ「横矧胴(よこはぎどう)」と、縦方向に繋いだ「縦矧胴(たてはぎどう)」に大別される 9

桶側胴の製作技法は、板札同士を鋲(びょう)で留める「鋲綴(びょうとじ)」や、革紐を用いて菱形に綴じ合わせる「菱綴(ひしとじ)」などが用いられた 6 。この構造は、古来の小札を一枚一枚編み上げる複雑な工程と比較して製作が格段に容易であり、兵農分離が進み兵士の数が増大した戦国期の需要に応える大量生産に適していた 9 。同時に、板札を面として連結させることで高い強度を確保でき、特に鉄砲の弾丸に対する防御力に優れていたのである 9

桶側胴は、他の当世具足と比較することで、その特徴が一層明確になる。

  • 仏胴(ほとけどう) : 胴の表面に継ぎ目がなく、滑らかに仕上げられた形式。一枚の鉄板を打ち出して作るものと、桶側胴の表面の凹凸を漆などで埋めて平滑に見せたものとがある 6 。これは、弾丸を滑らせて威力を逸らすという機能性と、流麗な美観を両立させるための工夫であった。
  • 最上胴(もがみどう) : 出羽国最上地方(現在の山形県)で流行した形式で、横長の板札を糸で素懸威(すがけおどし)にしたもの 6 。鋲で完全に固定する桶側胴とは異なり、威しによる一定の柔軟性を保持している点が特徴である。
  • 南蛮胴(なんばんどう) : 南蛮貿易によってもたらされた西洋甲冑(プレートアーマー)をそのまま、あるいは模倣して作られた形式。その堅牢さは高く評価され、徳川家康をはじめとする有力武将たちに珍重された 6

桶側胴の普及は、戦国時代特有の状況を色濃く反映している。合戦の大規模化と鉄砲の脅威は、安価で防御力に優れた甲冑の大量供給を不可欠とした。この流れが、生産性に優れる桶側胴を当世具足の代表格へと押し上げたのである 9 。一方で、戦国時代は個人の武功が立身出世に直結する下剋上の時代でもあった。そのため、武将たちは自らの存在を戦場で誇示するため、兜に奇抜な立物(たてもの)を付けたり、甲冑に独特の意匠を凝らしたりして、識別性と自己顕示を追求した 12

井伊家の「朱漆塗桶側胴」は、この一見矛盾する二つの要求を見事に体現している。基盤となる「桶側胴」は、大量生産が可能な実用性の極致である。それを覆う「朱漆塗」という統一色は、部隊全体の識別性を高め、敵に心理的圧力を与える集団の象徴である。そして、兜に燦然と輝く金箔押しの「天衝脇立(てんつきわきだて)」は、藩主のみが装着を許された特別な立物であり、指揮官の特権と個性を強烈にアピールする 1 。このように、この一領の具足は、「集団の装備」でありながら「個の象徴」でもあるという、戦国期の甲冑が内包する二重性を物語る、類稀な歴史資料なのである。

表1: 主要甲冑形式の比較

形式

大鎧(おおよろい)

胴丸(どうまる)

桶側胴(おけがわどう)

仏胴(ほとけどう)

南蛮胴(なんばんどう)


第二部:赤という色彩 ― 朱漆塗の技術と文化的意味

この部では、「朱漆塗」という色彩そのものに焦点を当てる。それは単なる装飾ではない。その背景にある製作技術、そして古代から連綿と続く「朱」という色に込められた文化的、宗教的、さらには心理的な意味を深く探求する。

第一章:朱漆の製作技術

甲冑を彩る漆塗りは、高度な技術の結晶である。まず、漆の木から採取された樹液(生漆)から木屑などの不純物を取り除き、攪拌(なやし)と加熱(くろめ)によって水分を飛ばすことで、粘度のある半透明の飴色の「精製漆(透き漆)」が出来上がる 14 。この透き漆に様々な顔料を練り込むことで、黒や朱をはじめとする色漆が作られるのである 15

朱漆の赤色を生み出す顔料には、主に二種類が存在した。

  • 辰砂(しんしゃ) : 主成分を硫化水銀(HgS)とする天然鉱物 16 。古来、最も貴重で鮮やかな赤色顔料とされ、その発色の良さから「真朱(しんしゅ)」とも呼ばれ、後述の人工顔料と区別された 15 。日本では弥生時代から採掘されていたが、安土桃山時代には中国から大量に輸入されるようになり、甲冑のような武具への使用がより一層普及した 16
  • 弁柄(べんがら) : 主成分を酸化第二鉄(Fe2​O3​)とする顔料 19 。辰砂に比べて安価で入手が容易であったため、広範囲にわたって使用された 14

これらの顔料を漆に練り込む作業は、「顔料の方に少量の漆を加えて固練りする」のが肝要とされ、均一な色と塗りやすさを実現するためには熟練の技が要求された 20 。甲冑の鉄地に漆を塗る際は、錆を防ぐための下処理を施した上に、下地、中塗り、上塗りと何度も塗り重ねられた。これにより、美しい光沢を持つだけでなく、風雨に耐え、鉄を錆から守る強固な塗膜が形成されたのである 21

第二章:「朱」の象徴性

武具を朱に染める行為は、単なる色彩選択以上の深い意味を持っていた。

その根源は、古代の信仰にまで遡る。辰砂の鮮烈な赤色は、生命の源である血や、力の象徴である炎を想起させ、古来、強力な魔除けの力を持つと信じられてきた 17 。奈良の高松塚古墳の壁画に用いられていることからも、その神聖性がうかがえる 16 。また、辰砂が水銀を含むことから毒性を持ち、「毒をもって魔を制す」という思想や、加熱によって金属水銀に変化し、さらに加熱すると再び赤色に戻るという不思議な性質から、不老不死の霊薬とさえ考えられていた 17

こうした思想は、神社仏閣の建築にも見られる。伏見稲荷大社に代表されるように、多くの神社の鳥居や社殿が朱色に塗られるのは、この魔除け・災厄除けの願いが込められているからである 21 。同時に、朱の原料である水銀化合物には木材の防腐効果があり、建物を長持ちさせるという実用的な側面も持ち合わせていた 21

このような文化的背景を持つ朱色は、戦場という極限状況において、強力な心理的効果を発揮した。

  • 威圧と士気高揚 : 心理学的に赤は「進出色」「膨張色」とされ、前方へ迫ってくるように見え、実際の数よりも大きく見える効果がある 29 。これは敵に圧迫感と威圧感を与え、士気を挫く。一方で、赤色は男性ホルモンであるテストステロンの分泌を促し、着用者自身の闘争心を高揚させる作用も指摘されている 30 。味方の士気を鼓舞し、団結力を高める視覚的な戦術であった 31
  • 視認性と武勇の誇示 : 鮮やかな朱色は、戦場で極めて目立つ。これは敵の鉄砲や弓矢の格好の標的となる危険性を意味する 32 。しかし、その危険を敢えて冒して派手な武具を纏うことは、自らの武勇に対する絶対的な自信の表れであり、武功を立てて名を上げたい兵士にとっては、自身の働きを大将にアピールする絶好の機会でもあった 29

甲冑に用いられる「朱」という色彩は、単なる色ではない。それは、「聖」と「俗」、「守り」と「攻め」という、一見相容れない二つの概念を統合する、高度な文化的装置であった。古代から続く文脈において、朱は生命力、神聖さ、魔除けの象徴であり、死と隣り合わせの戦場に赴く武士を災厄から守護する「聖なる色」であった 16 。これは、神仏の加護を求める祈りの側面を持つ。一方で、戦場という殺戮の場においては、朱は血と炎を連想させ、敵を威嚇し、自らの攻撃性を最大限に引き出す「暴力的な色」であった 29 。これは、敵を討ち、勝利を掴むという武士の職能の発露に他ならない。この二つの側面は、主君に忠義を尽くす臣下であると同時に、殺戮を遂行する戦闘者でもあるという、武士という存在そのものが内包する矛盾を体現している。「朱漆塗」の甲冑を纏うことは、神仏の加護という精神的な「守り」を身に受けつつ、敵に対する最大限の「攻め」の意志を表明する行為であり、武士の心を武装させる役割をも担っていたのである。


第三部:「赤備え」の系譜 ― 武田、井伊、そして真田へ

この部では、「赤備え」という軍団編成そのものの歴史的系譜を追う。戦国最強の代名詞であった武田の赤備えが、いかにして井伊家に継承され、そして大坂の陣の戦場で真田隊によって再びその姿を現したのか。その流転の物語と、背景にある徳川家康の深遠な戦略を解き明かす。

第一章:武田軍団最強の証

「赤備え」の元祖は、甲斐の虎・武田信玄に仕えた猛将、飯富虎昌(おぶとらまさ)であると伝えられている 34 。彼の部隊は、家督を継ぐことのできない次男や三男といった者たちで構成されていたという。彼らにとって戦場での武功は、自らの力で未来を切り拓く唯一の道であり、そのハングリー精神が部隊の強さの源泉となっていた 34 。虎昌が信玄の嫡男・義信の謀反事件に連座して自刃した後、その精強な部隊と「赤備え」の伝統は、実弟である山県昌景に引き継がれた 35

山県昌景率いる赤備えは、武田軍団の中でも最強と謳われ、その武威は諸国に鳴り響いた。特に元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、徳川家康の本陣に猛攻をかけ、家康自身に自刃を覚悟させるほどに追い詰めた 34 。この一戦は家康に生涯忘れ得ぬ恐怖を刻みつけると共に、「赤備え=精鋭部隊」というイメージを戦国の世に不動のものとしたのである 38 。なお、昌景が用いたとされる『本小札色々威朱具足(ほんこざねいろいろおどししゅぐそく)』が、現在も山梨県内の温泉旅館に伝わっているという 39 。「色々威」とは、複数の色の威糸を用いて威したものであり、その華やかで複雑な意匠は、部隊の統一色である朱の中でも、大将の威厳を示していたと考えられる 40

第二章:井伊の赤鬼、誕生す

天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の前に甲斐武田氏は滅亡する。主家を失った武田の遺臣たちを、徳川家康は積極的に召し抱えた。中でも、かつて最強を誇った山県昌景の旧臣らを含む一団を、家康は当時まだ若手の将であった井伊直政に附属させたのである 34 。そして家康は、直政に対し、武田の赤備えの伝統をそっくりそのまま継承するよう命じた。

この家康の決断は、単なる軍事力の増強策にとどまらない、高度な政治的・心理的戦略であった。家康自身、三方ヶ原で赤備えの恐怖を骨の髄まで味わっている 34 。その恐怖の象徴を解体・分散させるのではなく、あえてそのままの形で自軍に組み込むことを選んだ。これにより、家康は武田の「強さの象徴」を無力化すると同時に、その威光とブランド価値を戦略的に取り込み、自らの権威へと転換させたのである。敵の最強部隊が、今や徳川の精鋭部隊となったという事実は、他の大名たちに大きなインパクトを与えたであろう。さらに、この栄誉ある部隊を、古くからの譜代の重臣ではなく、新進気鋭の直政に与えたことは、直政の忠誠心を絶対的なものにし、彼を徳川四天王の一角を担う大将へと一気に引き上げる効果があった。まさに「井伊の赤備え」の誕生は、武田旧臣の武勇と、彼らがまとめた「井伊の軍法」という戦術的ノウハウ(実)と、赤備えの伝説(名)の両方を継承させる、家康の天下布武における深謀遠慮の現れであった 42

こうして誕生した「井伊の赤備え」は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで鮮烈なデビューを飾る。赤い甲冑に身を固めた直政は、自ら先陣を切って長槍を振るい、獅子奮迅の働きを見せた。その鬼気迫る戦いぶりは「井伊の赤鬼」と恐れられ、その武名は一躍天下に轟いたのである 31

第三章:赤備えの残響

武田、そして井伊へと受け継がれた赤備えの伝説は、それで終わりではなかった。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣。豊臣方の将として大坂城に入った真田信繁(幸村)は、自らの部隊を赤備えで統一し、徳川の大軍に最後の戦いを挑んだ 38 。これは、父・昌幸以来の旧主家である武田家への敬意の念と、敗色濃厚な中で徳川家康に一矢報い、真田の武名を天下に示すという、決死の覚悟の表明であった 38

これにより、大坂の陣という一つの戦場に、徳川方の精鋭「井伊の赤備え」と、豊臣方の決死隊「真田の赤備え」という、二つの赤き軍団が対峙するという、数奇な状況が生まれた。ある逸話によれば、家康は、美々しく輝く井伊の具足を見て「見かけは派手だが、泰平の世に慣れ、実戦経験が足りない」と評したのに対し、使い古され、歴戦の痕を刻んだ真田の具足を見て「あれこそが真の赤備えだ」と語ったという 34 。この逸話の真偽はともかく、形式化された権威の象徴としての赤備えと、死地で培われた凄みの象徴としての赤備えの違いを示唆しており、非常に興味深い。

歴史の皮肉か、三方ヶ原で家康を窮地に陥れたのが武田(山県)の赤備えであったように、大坂夏の陣で家康の本陣を蹂躙し、馬印を倒させ、再び自刃を覚悟させたのもまた、真田の赤備えであった 34 。二つの異なる赤備えが、天下人・家康の生涯に二度までも死の影を落としたのである。この一連の物語を通じて、赤備えは単なる部隊編成の名を超え、「武勇の誉れ」の象徴として、後世に語り継がれることとなった。

表2: 「赤備え」部隊の比較分析

部隊

武田の赤備え

井伊の赤備え

真田の赤備え


第四部:歴史遺産としての「朱漆塗桶側胴」

戦国乱世を駆け抜けた「朱漆塗桶側胴」は、その後も時代の変遷の中でその意味を変化させながら、現代にまでその物語を伝えている。この部では、その長い射程を考察する。

第一章:彦根藩の象徴として

井伊家は、江戸時代を通じて藩の軍装を赤備えに統一し続けた。これは、徳川譜代大名の筆頭格としての誇りと格式を示す、揺るぎない象徴であった 34 。彦根城博物館に伝わる具足が、初代直政または二代直孝の所用と伝えられていること自体が、この伝統がいかに藩の原点に位置づけられていたかを物語っている 1

しかし、栄光の象徴であった赤備えは、時代の激変の中でその価値を悲劇的に反転させる。幕末、第二次長州征討に際し、彦根藩は三百年来の伝統に従い、旧態依然とした赤備えの甲冑で出陣した。だが、長州藩が装備する最新式のミニエー銃の前では、その重厚な鎧は全くの無力であった。かつて敵を威圧した鮮やかな朱色は、今や格好の標的となり、彦根藩は惨敗を喫してしまう 46

この「井伊の赤備え」の歴史は、歴史の皮肉なサイクルを雄弁に物語っている。元来、鉄砲という軍事技術の革新に対応するために生まれた最新鋭の装備(桶側胴)と戦術(赤備え)が、二百数十年の泰平の世を経て、その実用性を忘れられ、形式化・伝統化した。それは「戦うための道具」から「藩の権威を示すための儀礼装束」へと、その本質を変質させていたのである。そして幕末、西洋式の軍事技術という新たなパラダイムシフトに直面した時、かつての強さの象徴は、兵士の動きを妨げ、敵からの視認性を高めるだけの「弱さの要因」へと転落してしまった 46 。戦国期の輝かしい栄光から幕末の悲劇までを内包するこの物語は、一つの文物が時代の変遷の中でいかにその意味を変化させていくかを示す、優れた事例と言えよう。

なお、彦根藩はこの惨敗を教訓とし、その後いち早く新政府側に恭順の意を示した。戊辰戦争では官軍の先鋒として各地を転戦し、その名誉を回復している 48 。この迅速な方針転換は、幕末の混乱期を生き抜くための、藩を挙げた苦渋の決断を物語るものである。

第二章:現代に生きる赤備え

歴史の荒波を乗り越えた「朱漆塗桶側胴」は、今、新たな形で人々の前にその姿を現している。彦根城博物館所蔵の「朱漆塗紺糸威桶側二枚胴具足」は、滋賀県の有形文化財に指定され、桃山時代の甲冑の様式を伝える貴重な学術資料として、大切に保護・研究されている 1

それと同時に、赤備えは現代の文化的アイコンとしても再生している。

  • ひこにゃん : 滋賀県彦根市の人気マスコットキャラクター「ひこにゃん」がかぶっている兜は、井伊家伝来の具足、特に金色の天衝脇立を持つ兜をモデルとしており、赤備えの意匠を愛らしく伝えている 38
  • 大河ドラマと地域振興 : 平成29年(2017年)に放送されたNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』は、井伊直政の養母である直虎の生涯に光を当て、全国的な関心を呼び起こした。これに連動し、江戸東京博物館での特別展 50 や、井伊家ゆかりの地である浜松市、彦根市での大規模な観光キャンペーンが展開された 51 。さらには、琵琶湖には「井伊の赤備え」をモチーフにした遊覧船「赤備え船 直政」が就航するなど 54 、歴史遺産が現代の文化コンテンツや地域経済と深く結びつく現象が見られた。

結論:物質文化が映し出す戦国の精神

本報告書で考察してきた「朱漆塗桶側胴」は、単なる鉄と漆、そして組紐の集合体ではない。それは、鉄砲という新兵器に対応した「技術革新の産物」であり、辰砂の赤に古代からの祈りを込めた「文化的象徴」であり、宿敵・武田の伝説を戦略的に継承する「徳川の政治戦略の駒」であり、そして戦場で敵味方の心理を巧みに操るための「心理兵器」でもあった。この具足は、これらすべての側面を内包する、複合的な歴史のプリズムなのである。

この一領の具足が最も雄弁に物語るのは、戦国武将たちの精神構造そのものである。彼らは、生産性や防御力といった極めて合理的かつ実用的な思考と、武勇の誇示、神仏への加護の祈り、伝説の継承といった、ある意味で非合理的で精神的な価値観を、何ら矛盾なく自らの中に同居させていた。物質文化史の視点から歴史を読み解くことは、文献史料だけでは捉えきれない、その時代の精神性にまで迫ることを可能にする。井伊家に伝わるこの赤き具足は、まさにその最良の例であり、戦国という時代の激しさと奥行きを、今なお我々に静かに、しかし力強く語りかけている。

引用文献

  1. 朱漆塗紺糸威桶側二枚胴具足| 彦根城博物館|Hikone Castle Museum https://hikone-castle-museum.jp/collection/1358.html
  2. 井伊の赤備え 彦根城博物館 - コラム/私のイチオシコレクション-朝日マリオン・コム- https://www.asahi-mullion.com/column/article/ichioshi/4110
  3. 当世具足とは/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/armor-introduction/toseigusoku/
  4. 当世具足①/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11259/
  5. 甲冑の美 - 福井市立郷土歴史博物館 https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/kaisetsusheets/78.pdf
  6. 千葉県立中央博物館 大多喜城分館 甲冑とは何か https://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/kikaku/yoroi/sub0001.htm
  7. 当世具足 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E4%B8%96%E5%85%B7%E8%B6%B3
  8. 当世具足②/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11361/
  9. 桶側胴 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E5%81%B4%E8%83%B4
  10. 当世具足 - 自作甲冑クラブしげ部 https://shigebu.minibird.jp/kacchu-learning.html
  11. 桶側胴(オケガワドウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%A1%B6%E5%81%B4%E8%83%B4-451953
  12. 小浜市:伊予札桶側胴具足 http://www1.city.obama.fukui.jp/obm/rekisi/sekai_isan/japanese/data/242.htm
  13. 甲冑の種類と変遷 当世具足 - 兵庫県立歴史博物館 https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/digital_museum/bugu-kacchuu/kc_touseigusoku/
  14. 漆とは|香川県 https://www.pref.kagawa.lg.jp/shitsugei/sitsugei/history/urushi.html
  15. 漆の色について - 漆と会津の物語 https://aizu-japan.com/urushi-process/urushi-color/
  16. 結晶美術館 - 辰砂(cinnabar)と朱 (vermilion) - Google Sites https://sites.google.com/site/fluordoublet/%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%9D%E7%B5%90%E6%99%B6%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E3%81%B8/%E8%89%B2%E5%BD%A9%E3%81%AE%E5%8D%9A%E7%89%A9%E8%AA%8C/%E7%84%A1%E6%A9%9F%E9%A1%94%E6%96%99/%E8%BE%B0%E7%A0%82cinnabar%E3%81%A8%E6%9C%B1-vermilion
  17. 赤色の染め ~顔料編~ | 大本染工株式会社 https://omotosenko.com/blog/%E6%9F%93%E8%89%B2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%B5%A4-%E9%A1%94%E6%96%99%E7%B7%A8
  18. 鉄朱漆塗烈勢頬(面頬単独)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/search-armor/menpou/66182/
  19. 朱に交われば赤くなる。|兵庫県姫路市 - matsuura株式会社|遺跡発掘調査 https://matsuura-kougyou.co.jp/blog/blog-survey/red.html
  20. 〈色漆〉を自分で作る方法~これでカラフルな色塗り自由自在! - 金継ぎ図書館 https://hatoya-f.com/make-tools-material/urushi-refining02/
  21. 神社の鳥居はなぜ「朱色」? | スタイルラボ | 東京(南青山・表参道)大阪(梅田)名古屋(栄)パーソナルカラー診断 顔タイプ診断 骨格診断 https://stylelabo.jp/column/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AE%E9%B3%A5%E5%B1%85%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%8C%E6%9C%B1%E8%89%B2%E3%80%8D%EF%BC%9F/
  22. 鳥居はなぜ朱色か - 明石市注文住宅 日置建設 https://k-hioki.com/ownerblog/2009/03/28/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%9C%B1%E8%89%B2%E3%81%8B/
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  24. 色の歴史|「辰砂」紀元前2000年からの赤 https://mimorning.com/color-cinnabar
  25. 古代人の不老不死願望と水銀 - blog:jk3tjn気の向くまま https://jk3tjn.sakura.ne.jp/tsurezure/mercury.html
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  51. 「おんな城主 直虎」スペシャル企画 大河ドラマに見る井伊家 | 国宝・彦根城築城410年祭 http://hikone-410th.com/event/naotora
  52. 井伊直虎・井伊家ゆかりの地浜松 - 浜松市 https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/koho2/movie/naotora/index.html
  53. 平成29年 大河ドラマ放送決定|「おんな城主 直虎」推進協議会 - 浜松・浜名湖だいすきネット https://hamamatsu-daisuki.net/naotora/
  54. 赤備え船「直政」就航 - 近江ツーリズムボード https://oh-mi.org/news/article/106