牧谿「栗柿図」は戦国武将の勝利と泰平を象徴。足利将軍家から豪商、禅院へ伝わり、時代と共に価値を変容させた日本の美と権力の至宝。
「くりはえだにあり、柿はへたがつき候て、ならべてあり」 1 。
堺の豪商にして当代随一の茶人であった津田宗及が、その茶会記『津田宗及茶湯日記』に記したこの簡潔な一文は、歴史の深淵を覗き込むための小さな窓である。この記述が指し示すのは、中国南宋時代(13世紀)の禅僧画家・牧谿(もっけい)の筆によるものと伝えられる一対の水墨画、重要文化財「柿・栗図」に他ならない 2 。右幅に柿、左幅に栗を描いたこの双幅は、現在、京都・大徳寺の塔頭、龍光院に秘蔵されている。
この絵画は、単に果物を描いた静物画として存在するのではない。その伝来の軌跡は、室町幕府の権威の象徴から、戦国武将たちの渇望の対象へ、そして豪商茶人の洗練された政治的駆け引きの道具へと、時代の激流の中でその意味を幾重にも変容させてきた。特に日本の「戦国時代」という視座からこの「栗柿図」を捉えるとき、その画題、所有者、そして飾られた場の一つ一つが、乱世を生きた人々の精神性、価値観、そして切実な願いを映し出す鏡として機能していたことが明らかになる。
本報告書は、『津田宗及茶湯日記』の記述を出発点としながらも、それに留まることなく、この一対の画幅が内包する歴史的・文化的文脈を徹底的に解き明かすことを目的とする。作者・牧谿が本国・中国とは異なり、なぜ日本でこれほどまでに高く評価されたのか。足利将軍家の至宝「東山御物」としていかにしてその価値を確立し、戦国の世に流転したのか。そして何よりも、なぜ「栗」と「柿」という主題が、戦国の武将や茶人たちの心を強く捉えたのか。これらの問いを深く掘り下げ、「栗柿図」が単なる美術品ではなく、戦国という時代の精神性を凝縮した文化的遺産であることを論証する。
「栗柿図」の作者と伝えられる牧谿(法常、生没年不詳)は、13世紀の中国南宋末期に活動した禅僧画家である 5 。その詳細な伝記は不明な点が多いが、禅の思想がその芸術の根幹を成していることは、現存する作品群から明らかである。彼の画は、対象の形態を精密に写し取ることよりも、その内にある生命感や本質、そしてそれを取り巻く大気の湿潤さや光といった、目に見えないものを捉えようとする点に特徴がある。
作家の武者小路実篤は、牧谿の芸術を「自然の威力を十分に感じ、何処までも真面目に、一生懸命にかいている」と評した 6 。その筆致は、抑制されながらも大胆であり、墨の濃淡と滲みを巧みに操ることで、描かれた対象に深い精神性を与える。特に、描くべきものを極限まで切り詰め、広大な余白を残す構成は、観る者の想像力を刺激し、静寂の中に無限の広がりを感じさせる。この「余白の美」こそ、禅の「不立文字(ふりゅうもんじ)」の精神、すなわち言葉や形を超えた真理の伝達を試みる思想と深く共鳴するものであった。
興味深いことに、牧谿の画は、その母国である中国と、海を隔てた日本とで、全く対照的な評価を受けた。当時の中国画壇の主流は、皇帝の宮廷画家たちが担う「院体画」であり、そこでは写実的で精緻な描写と、格調高い構成が重んじられていた。この価値観から見れば、牧谿の画は型破りで規格を外れたものに映った。後代の批評家からは「粗放にして古法なし」と酷評され、次第に忘れ去られた存在となっていったのである。その結果、現代において牧谿の真筆とされる優品は、中国国内にはほとんど伝存していない 7 。
一方で、日本では鎌倉時代に禅宗が中国から伝来すると、それに伴って牧谿の作品も請来され、絶大な評価を確立した 9 。彼の画風が、日本人の美意識、特に武家社会を中心に広まった禅宗文化が育んだ、簡素さや不完全さの中に奥深い美を見出す「わび・さび」の感性と、奇跡的ともいえるほどの親和性を示したからである。牧谿の画における省略の美学や静謐な空間表現は、日本人が自らの精神文化の理想を投影するための、最高の器となった。
この熱狂的な受容を象徴するのが、室町幕府の公式コレクション目録における牧谿の扱いであった。足利将軍家が所有した絵画の名品リスト『御物御画目録』には、全収蔵品約290点のうち、実に4割近くにあたる109点が牧谿の作品として記録されている 7 。これは、牧谿が単なる人気画家の一人ではなく、日本の支配者層にとって最高の価値を持つ芸術家として認識されていたことの動かぬ証拠である。「栗柿図」もまた、この熱狂的な受容の文脈の中で、日本の美の頂点に位置づけられることとなったのである。
「栗柿図」が戦国時代にこれほどまでの価値を持つに至った根源は、その芸術性のみならず、室町幕府という「旧権威」によって最高級品と「格付け」された歴史にある。室町幕府三代将軍・足利義満から八代将軍・義政の時代にかけて、彼らは自らの権勢を示すべく、中国の宋・元時代の絵画、書跡、陶磁器、漆器などの美術工芸品を積極的に収集した。この至宝のコレクションは、義政が営んだ東山殿にちなみ、後世「東山御物(ひがしやまごもつ)」と総称される 11 。
東山御物は、単なる将軍個人の趣味の品々ではなかった。それらは、室町殿で行われる会所(かいしょ)の座敷飾りに用いられ、将軍の文化的な権威を国内外に誇示するための重要な装置であった。同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれる、能阿弥、芸阿弥、相阿弥といった芸術顧問たちがその鑑定や管理、そして座敷飾りの演出までを担い、どの品が優れ、どのような組み合わせが最も美しいかという価値基準、すなわち日本の「美の規範」そのものを創り上げていったのである 12 。東山御物であることは、その品が日本の美の頂点に立つことを意味した 10 。
この東山御物の価値序列を明確に示すのが、義政に仕えた能阿弥が編纂したとされる絵画目録『御物御画目録』である 10 。この目録には、将軍家が所蔵した中国絵画の逸品280幅が記載されているが、その中で牧谿の作品は、前述の通り100点以上を占めていた 7 。これは、宋の皇帝である徽宗(きそう)の作品などと並び、あるいはそれ以上に、牧谿画が唐物絵画の最高峰として位置づけられていたことを物語っている 13 。
この「格付け」こそが、決定的に重要であった。東山御物というブランドによって公的に価値が保証された「栗柿図」は、茶会などの場で繰り返し披露されることで、その価値が支配者層の間で共有され、誰もが渇望する文化的ステータスシンボルとなった 7 。この、旧権威によって蓄積された「文化的資本」としての価値が、後の実力主義の時代である戦国時代において、新たな支配者たちが自らの権威を正当化するための絶好の道具となるのである。「栗柿図」は、戦乱の世に突入する以前から、誰もが認める第一級の「名物」としての地位を不動のものとしていた。
栄華を誇った足利将軍家も、応仁の乱(1467-1477)を境にその権威は失墜し、深刻な財政難に陥る。その結果、かつては門外不出であったはずの東山御物の名宝群は、借金の担保(質物)とされたり、家臣への恩賞として下賜されたり、あるいは売却されたりして、徐々に市中へと流出していった 10 。
これらの名物は、まず京都や堺の富裕な町衆、特に経済力と文化的素養を兼ね備えた豪商たちの手に渡った。そして彼らを通じて、畿内で勢力を伸ばした三好氏のような新興の戦国武将や、さらには天下統一を目指す織田信長といった、新たな時代の覇者たちの所蔵するところとなっていったのである 10 。
戦国時代において、東山御物に代表される「名物」は、その美的価値を超え、所有者の権威を可視化し、政治的影響力を行使するための「文化的兵器」へと変貌した。特に織田信長は、この美術品の政治的価値を巧みに利用した。彼は、敵対していた大和の松永久秀が降伏する際、その証として秘蔵の茶入「九十九髪茄子(つくもなす)」を差し出させた逸話に象徴されるように、名物茶器を服従の証や、家臣への論功行賞の道具として用いた 14 。
武力による下剋上が常態化したこの時代、新たな支配者には、自らの支配を正当化するための文化的な権威が必要であった。かつて日本の文化の頂点に君臨した足利将軍家が所有した東山御物を自らのものとすることは、自身がその文化の正統な継承者であることを天下に宣言するに等しい行為だったのである 10 。信長や、その後継者である豊臣秀吉が熱心に名物を収集した、いわゆる「名物狩り」は、単なる美術愛好家の蒐集ではなく、武力に文化の衣をまとわせ、自らの支配に正統性を付与するための高度な政治戦略であった。「栗柿図」もまた、この文脈の中で、誰もが欲する「名物」の一つとして、権力者たちの渇望の対象となったことは疑いない。
「栗柿図」の伝来を記す資料には、「室町将軍家―天王寺屋津田家伝来」とある 15 。これは、東山御物から流出した後、この名画が堺の豪商「天王寺屋」の津田宗及の手に渡ったことを示している。津田宗及は、千利休、今井宗久と並び「天下三宗匠」と称された大茶人であり、信長、秀吉の茶頭を務めた人物である 11 。その財力は利休をもしのぐとまで言われ、彼が「栗柿図」のような第一級の美術品を所有し得たのは、南蛮貿易などで富を蓄積した堺の豪商という経済的背景と、天下人の側近という政治的地位、そして当代随一の文化人という三つの要素を兼ね備えていたからに他ならない 11 。
以下の表は、「栗柿図」が辿った壮大な歴史に関わった主要な人物と組織をまとめたものである。南宋の禅僧から始まり、日本の将軍、戦国武将、豪商茶人を経て、現代の寺院に至るまでの流転の物語は、この絵画がいかに各時代の権力者や文化の担い手たちの手を経ることで、その価値と意味を重層的に蓄積してきたかを雄弁に物語っている。
表1:「栗柿図」に関わる主要人物と組織の関連性
人物・組織名 |
時代 |
「栗柿図」との関わり |
備考 |
牧渓(法常) |
南宋 (13世紀) |
作者(伝) |
禅僧画家。日本では高く評価された。 |
足利義満・義政 |
室町時代 |
唐物コレクション「東山御物」の形成者 |
牧渓画を最高峰の絵画として位置づけた。 |
織田信長 |
戦国時代 |
名物収集による権威の誇示 |
東山御物の多くを所有。茶の湯を政治利用。 |
豊臣秀吉 |
戦国~安土桃山時代 |
名物収集の継承と茶の湯の発展 |
津田宗及を茶頭の一人として重用。 |
津田宗及 |
戦国~安土桃山時代 |
所有者、茶会での使用 |
堺の豪商、天下三宗匠の一人。日記に記録を残す。 |
江月宗玩 |
江戸時代初期 |
継承者 |
宗及の子。大徳寺龍光院の事実上の開祖。 |
黒田長政 |
江戸時代初期 |
大徳寺龍光院の開基 |
父・黒田如水の菩提を弔うために建立。 |
大徳寺龍光院 |
江戸時代初期~現代 |
現在の所蔵者 |
非公開の塔頭寺院。国宝・重文を多数所蔵。 |
「栗柿図」が戦国時代にこれほどまでに愛好された核心的な理由は、その卓越した芸術性や「東山御物」というブランド価値に留まらない。その画題である「栗」と「柿」が、明日をも知れぬ乱世を生きた武将たちの、二つの根源的な願望―すなわち「戦いにおける勝利への渇望」と「勝利の先にある泰平な世への祈り」―を、完璧に象徴していたからである。
栗は、戦国の武士にとって、単なる秋の味覚ではなかった。生の栗を蒸すか乾燥させた後、臼で搗(つ)いて硬い鬼皮と渋皮を取り除いた保存食は、「搗栗(かちぐり)」と呼ばれた 16 。この「搗ち」が「勝ち」に通じることから、搗栗は「勝ち栗」として、古くから出陣や戦勝祝いの席で食される縁起物とされてきたのである 18 。
栄養価が高く保存性にも優れる搗栗は、戦国時代には重要な陣中食(兵糧)としても重宝された 17 。甲斐の虎と恐れられた武田信玄は、出陣の際に必ず栗を持参したと伝えられる 19 。また、織田信長が桶狭間の戦いという絶体絶命の戦いに臨む直前、湯漬けと共に昆布と「かちぐり」を食して出陣したという記録も残っている(『道家祖看記』) 20 。これらの逸話は、「栗」というモチーフが、戦国の武将たちにとって、自らの武運と勝利を祈願する、極めて切実な意味を持つシンボルであったことを明確に示している。栗の絵を飾ることは、戦勝への強い意志と祈りを表明する行為そのものであった。
栗が「戦い」の象徴であるならば、柿は「戦いの先にある理想」を象徴する果実であった。中国文化において、柿は非常に縁起の良い果物とされる。柿の発音「shì」が、物事を意味する「事(shì)」と同じであることから、二つの柿を描いた図は「柿柿如意(shì shì rú yì)」、すなわち「事事如意(じじにょい)」―万事が思い通りにうまくいく―という、この上ない祝福の言葉を表す吉祥図となる 22 。
この吉祥の意味合いは日本にも伝わり、柿は長寿や豊穣の象徴とされた 23 。また、「柿が赤くなれば医者が青くなる」ということわざが示すように、健康をもたらす果物としても親しまれていた 25 。天下分け目の関ヶ原の戦いの直前、徳川家康が陣中で美濃大垣(敵地)の柿を献上された際、「大垣は、はや我が手に入ったぞ」と大いに喜んだという逸話も残る 26 。これは、柿が単なる果物ではなく、勝利を予感させる吉兆としても解釈されていたことを示唆している。
「栗柿図」の双幅を並べて掛ける行為は、単に縁起の良いものを二つ並べるという以上の、深い意味を持っていた。それは、武将たちの行動原理そのものの可視化であった。すなわち、「戦(栗)に勝利し、その先にある万事如意の泰平な世(柿)を築き上げる」という、彼らの野心と理想を同時に肯定し、祝福するものであった。この一対の絵画は、戦国武将の二元的な願望を完璧に表象する、最高のプロパガンダ・アートとして機能したのである。
『津田宗及茶湯日記』に「栗柿図」が登場するのは、天正十五年(1587年)十月一日に宗及自身が亭主を務めた茶会でのことである。この年は、豊臣秀吉が長年の宿敵であった九州の島津氏を平定し、大坂城や聚楽第の建設を進め、その権勢がまさに頂点に達しようとしていた、極めて重要な時期であった。この茶会で、宗及は床の間に「牧谿 柿栗」を掛けたのである。
茶頭として天下人・秀吉に仕える宗及にとって、茶会の道具の取り合わせは、単なる美的な選択ではなく、高度に政治的な意味合いを帯びる行為であった。特に、茶室の中心的要素である床の間の掛物は、その茶会のテーマや亭主の意図を最も雄弁に物語る。このような政治的に重要な時期に、宗及が数ある名物の中からあえて「栗柿図」を選んだことは、偶然とは到底考えられない。それは、天下人秀吉に対する、計算され尽くした非言語的なメッセージであった。
宗及の日記における「くりはえだにあり、柿はへたがつき候て、ならべてあり」という描写は、一見すると単なる写実的な記録に過ぎないように思える 1 。しかし、この言葉の背後には、深い意図が隠されている。わざわざ「枝にある栗」そして「蔕(へた)のついた柿」と記すことは、それらが今まさに木からもぎ取られてきたかのような、生命感と新鮮さを強調する表現である。これは、牧谿の画が持つ、墨の濃淡によって表現される湿潤な空気感や、描かれた果実から放たれる生命の息吹そのものを、的確に捉えた言葉といえる 27 。
この描写は、秀吉の偉業に対する、この上なく洗練された祝辞として読み解くことができる。すなわち、秀吉が成し遂げた九州平定という「勝利(栗)」と、それによってもたらされる「天下泰平(柿)」は、過去の遺物などではなく、「今まさに、新鮮で生命力に満ち溢れている」のだと、この掛物を通して言祝いでいるのである。
茶室は、武将たちが鎧を脱ぎ、本音を交わす密室の政治空間でもあった。言葉で直接的に追従の意を示すのではなく、美術品という高尚な媒体を通して間接的かつ優雅にメッセージを伝えることは、宗及のような文化人茶人ならではの、極めて高度な処世術であった 28 。この日記の記述は、単なる茶会の備忘録ではない。自らが行った政治的・文化的「演出」の成功を記した、誇らしい証文とも読むことができるのである。
戦国の世が終わりを告げ、徳川の治世が始まると、「栗柿図」の運命もまた大きな転機を迎える。所有者であった津田宗及の死後、彼が収集した天王寺屋伝来の数々の名宝は、その実子であり、臨済宗大徳寺の禅僧となった江月宗玩(こうげつそうがん)に相続されたと推測される 11 。「栗柿図」もまた、その中に含まれていた 11 。
江月宗玩は、父とは異なる道を歩み、禅の修行に身を投じた高僧であったが、同時に小堀遠州をはじめとする当代一流の文化人とも深い交流を持つ、江戸初期の文化サロンの中心人物でもあった 29 。
慶長十一年(1606年)、初代福岡藩主の黒田長政が、父であり稀代の軍師であった黒田孝高(官兵衛・如水)の菩提を弔うため、大徳寺の境内に一寺を建立した。これが龍光院である 29 。江月宗玩は、この龍光院の事実上の開祖(開山)として迎えられた。これにより、津田宗及の遺愛品であった「栗柿図」や、現存する三碗のうちの一つとされる国宝「曜変天目」茶碗、国宝「密庵墨蹟」といった天王寺屋伝来の至宝群は、龍光院に納められることとなった 30 。
特筆すべきは、龍光院が創建以来、今日に至るまで一貫して観光を目的とした拝観を一切受け付けない、厳格な非公開寺院であるという点である 29 。その所蔵品は、ごく稀に博物館での特別展に出陳される以外、人の目に触れることはほとんどない、まさに秘宝中の秘宝として守り伝えられてきた 32 。
この龍光院への伝承は、「栗柿図」にとって決定的な意味を持つ。それは、戦国乱世において権力者たちの欲望の対象となり、茶会という社交場でその政治的・社会的価値を誇示された「名物」という俗世の道具から、本来の姿である静謐な禅の精神を体現する「法宝(仏法の宝)」へと回帰し、聖別されたことを意味する。江戸という安定した時代に入り、この絵は宗及の子である禅僧・江月宗玩の手に渡った。彼は、父が築いた財と文化を、仏法を守り伝えるという新たな目的のために昇華させたのである。
龍光院という、黒田家の菩提寺であり、かつ禅の厳しい修行の場に納められることで、「栗柿図」は市場価値や政治的価値といった世俗的な物差しから切り離された。国宝「曜変天目」と共に非公開の寺宝として厳重に守られるようになったのは、それがもはや人の欲望を刺激する「モノ」ではなく、開祖や創建者たちの精神を宿し、禅の法統を未来永劫に伝えるための神聖な「依り代」と見なされるようになったからである。その価値は、鑑賞されることではなく、ただそこに存在し、守り伝えられること自体へと移行したのである。
本報告で論じてきたように、伝牧谿筆「栗柿図」は、単に美しい果物の絵ではない。それは、作者・牧谿の禅的な画境、足利将軍家の権威の象徴としての「東山御物」というブランド、戦国武将の勝利への野心と泰平への祈り、豪商茶人の洗練された処世術、そして江戸初期の禅院における聖化という、幾重もの歴史的・文化的レイヤーが刻み込まれた、日本の精神史そのものの結晶である。
この絵画が持つ芸術的な力は、その時代に留まることはなかった。牧谿の画風、特にその大胆かつ抑制された筆致と、余白を生かした空間構成は、後の日本の画家たちに計り知れない影響を与えた。中でも、桃山時代に活躍した絵師・長谷川等伯は、牧谿に深く傾倒し、その画法を徹底的に学んだことで知られる 8 。等伯の最高傑作であり、日本の水墨画の到達点の一つと評される国宝「松林図屏風」の、霧に霞む松林の表現には、牧谿の芸術から受け継いだ精神性が色濃く反映されている 8 。このように、「栗柿図」に代表される牧谿の芸術は、日本美術史の中に深く溶け込み、新たな創造の源泉として生き続けているのである。
今日、我々が幸運にもこの絵画に対峙する機会を得たとき、そこに見て取るべきは、単なる栗と柿の姿だけではない。その静謐な画面の向こうに、異郷の禅僧が込めた精神、将軍が誇示した権威、そして乱世を駆け抜けた武将や茶人たちの切実な願いと、高度な文化の息吹を感じ取ることができる。一対の静かな水墨画は、一つの時代の精神を、今なお雄弁に我々に語りかけているのである。