「此世」は千利休が命名した香炉。和泉式部の歌に由来し、侘び茶の精神を体現。歴代の権力者や茶人に愛され、日本の美意識を映す至宝。
本報告書は、名香炉「此世(このよ)」について、単なる美術工芸品としての分析に留まらず、それが内包する多層的な意味、すなわち戦国時代から江戸時代初期にかけての日本の精神文化、美意識の変遷、そして権力の動態が凝縮された稀有な「文化的結晶体」として解き明かすことを目的とする。
一見すれば、何の変哲もない素朴な小壺。しかし、この器はなぜ、人の世のはかなさと現世への執着を歌った和泉式部の恋歌から「此世」と名付けられたのか。なぜ、茶の湯を大成させた千利休、破格の美を追求した古田織部、そして綺麗さびを確立した小堀遠州という、茶道史に燦然と輝く巨星たちに継承されたのか。そして、なぜ一介の香炉が、奥州の雄たる伊達家という大藩の至宝となり、果ては後水尾天皇という当代随一の文化人であり最高権威者の関心を惹きつけ、直筆の伝記まで書かしめるに至ったのか。
この問いこそが、本報告書の探求の縦糸である。本報告は、まず器物そのものの物理的・美学的な実相の解明から筆を起こし、次いでその銘に込められた文学的背景、そしてこの香炉を所有した人々の個性的な美意識との交錯を辿る。最終的には、それら全てを生み出した時代の精神構造へと視点を広げ、ミクロからマクロへと分析の視野を移行させながら、名香炉「此世」が持つ比類なき価値の重層性を、徹底的に論証していくものである。
香炉「此世」の物語性と精神性を論じる前に、まずその物理的な存在、すなわち器物としての本質を明確に定義する必要がある。この器がなぜ後世の茶人たちを魅了したのか、その根源は、その独特の形態と作行きにこそ求められる。
香炉「此世」の器物としての特徴は、「塩笥形(しおげなり)」の器体に「井戸(いど)」の作行きが融合している点に集約される 1 。総高7.5cm、底径5.0cmという、掌に収まるほどの小品でありながら、その姿は「がっしりとして力強く、小品ながら堂々とした風格」と評されている 1 。
「塩笥」とは、その名の通り、かつて塩入れとして用いられた雑器の形状を指す言葉である 2 。わずかに外に捻り返した口縁、ゆったりと胴を巡る轆轤(ろくろ)の痕跡、そして摘み上げたかのような無造作な鈕(つまみ)を持つ平らな蓋など、その造形には華美な装飾や計算された技巧とは無縁の、実用から生まれた素朴さが満ちている 1 。この「日常性」こそが、千利休らが推し進めた「侘び茶」の理念、すなわち非日常の華麗な世界から離れ、ありふれた日常の中にこそ真の美を見出そうとする思想と深く共鳴するものであった。
一方で、「井戸」の作行きとは、朝鮮半島で焼かれた高麗茶碗の一種である井戸茶碗に共通する特徴を指す。具体的には、小石や砂粒を多く含んだ荒い胎土、全体を覆う琵琶色(びわいろ)の淡い釉薬、そして高台(こうだい)脇に見られる、釉薬が縮れて焼き付いた「梅花皮(かいらぎ)」と呼ばれる景色などが挙げられる 3 。これらの茶碗は、元来、朝鮮の民衆が日常的に用いる飯茶碗などの雑器であったと考えられている 5 。
ここに、この香炉を理解する上で極めて重要な視点が存在する。「塩笥」も「井戸」も、その起源は「無作為」で「日常的」な器物にあるという点である。しかし、戦国時代の茶人たちは、その無作為性の中にこそ、中国から渡来した完璧に計算され尽くした唐物(からもの)の美を超える、純粋で根源的な美を見出した。轆轤が作り出す力強い動線、意図せずして生まれた釉薬の景色、そして土そのものが持つ素朴な肌合いは、禅宗の思想にも通底する「あるがまま」の姿の尊さを体現するものとして、作為的な美よりも高く、積極的に評価されたのである 7 。
したがって、「此世」の器物としての本質は、「無作為性の作為的受容」という概念に集約される。それは、戦国時代の茶人たちが、既存の権威的な価値観を転換し、新たな美の基準を自らの手で創造しようとした、文化的な革命精神の物言わぬ象徴であった。
この素朴な小壺が、なぜ香炉として「見立て」られたのか。その必然性を理解するためには、当時の茶の湯、特に戦国武将たちの文化における「香」の役割を考察する必要がある。
茶の湯において香を焚くことは、単に良い香りで場を満たすという以上の、深い精神的な意味を持っていた。それは茶室という非日常空間を清め、亭主と客人の精神を整え、心を一つにするための儀礼的な行為であった 10 。香炉は、茶会のテーマや季節感を示す重要な装飾道具であると同時に、精神統一のための装置でもあったのである 11 。
特に、明日をも知れぬ戦乱の世に生きた戦国武将にとって、香は極めて重要な存在であった。出陣に際して兜に香を焚きしめて死の覚悟を固めたり、あるいは一炷(いっちゅう)の香木のかすかな香りに精神を集中させることで、心の鎮静と覚醒を得たりしたという逸話は数多く残されている 13 。常に死と隣り合わせであった彼らにとって、香を焚く行為は、精神を研ぎ澄ますための不可欠な儀式だったのである。
このような背景の中で、なぜ豪華絢爛な唐物の香炉ではなく、この素朴な「井戸」の小壺が香炉として選ばれたのか。その理由は、千利休が目指した侘び茶の本質に求められる。利休の茶の湯は、高価な道具を並べて亭主の権威や富を誇示するものではなく、質素で静かな空間と道具を通して、亭主と客が心を通わせることを至上とした 9 。
豪華な彫刻や金襴手の意匠が施された香炉は、香そのものよりも器自体の物質的な価値を強く主張してしまう。それは、客の意識を香炉という「モノ」に引きつけ、そこから立ち上る香という「コト」への集中を妨げる。しかし、「此世」のような極度に簡素で侘びた器は、自らの存在を主張することなく、静かに空間に溶け込む。その結果、人々の意識は、器からではなく、そこから立ち上る一筋の煙と、はかなく消えゆく香りのみに集中することになる。
つまり、「此世」の簡素な姿は、香を聞くという行為の本質、すなわち、はかない一瞬の香りに精神を傾け、無常の中に美を見出すという体験を、最も純粋な形で実現するための、理想的な舞台装置だったのである。この器が香炉として選ばれたのは、偶然ではなく、侘び茶の精神が導き出した必然的な帰結であったと言えよう。
器物としての「此世」が持つ物理的な魅力を超えて、この香炉に不朽の価値を与えたのは、その「此世」という銘である。この二文字は、平安時代の女流歌人、和泉式部の情熱的な和歌に由来し、器物に物理的な存在を超えた深い物語性と精神性を吹き込むことに成功した。
名香炉「此世」の銘は、平安中期の情熱的な歌人として知られる和泉式部が詠んだ一首の和歌にちなんでいる 16 。その歌とは、『後拾遺和歌集』恋三に収められた以下の作品である。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
18
この歌は詞書に「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける(病気で体調が普通でなかった頃、ある人のもとへ送った歌)」とあることから、作者自身が重い病に伏し、自らの死期を悟った極限状況の中で、愛する人に送ったものと解釈されている 19 。
現代語に訳せば、「私はもうじき、この世からいなくなってしまうでしょう。せめて、あの世へ持っていく大切な思い出として、死ぬ前にもう一度だけでも、あなたにお会いしたいものです」といった意味となる 18 。歌の核心は、死という抗いがたい運命を前にした人間の、現世(このよ)への最後の執着であり、愛する人との「今ひとたび」の逢瀬に向けられた、痛切極まりない願いである。そこには、人の世の無常を静かに受け入れる「もののあはれ」の情趣と、それに抗おうとする激しい人間的な情念とが、見事に凝縮されている。
興味深いのは、この歌の全体からではなく、特に「この世のほか」という一節から「此世」という二文字を切り出して銘とした点である。この命名は、単なる文学趣味や言葉遊びの域を遥かに超えた、高度に知的な操作であった。それは、和泉式部の歌が持つ文学的な情念(パトス)と、千利休が確立しようとしていた茶の湯の哲学的精神(エートス)とを、見事に融合させる行為であった。
和泉式部の歌は、死を前にした一人の女性が、愛する特定の一人との最後の逢瀬を願う、極めて個人的で情熱的な「情念(パトス)」の表明である。その視線は、来世(あの世)ではなく、あくまで現世(この世)での最後の瞬間に向けられている。
一方、千利休が大成させた侘び茶の根底には、「一期一会」という精神がある。これは、今日の茶会は二度と繰り返すことのできない、一生に一度きりの貴重な機会であると心得て、亭主も客も互いに誠心誠意、その瞬間に集中すべきであるという教えである 9 。この思想は、禅宗の無常観と深く結びついており、あらゆる出会いを唯一無二のものと捉え、その一瞬に全精神を傾けるという、より普遍的で哲学的な「精神的態度(エートス)」を示す。
この香炉に「此世」と名付ける行為は、この二つの異なる精神性を繋ぐ、奇跡的な架け橋となった。茶室という静謐な空間で、香炉「此世」から立ち上る一筋の煙。それは、はかなく燃え尽き、やがて消えゆく。その様は、和泉式部の歌に込められた、人の命の有限性という無常観を、見る者に鮮烈に想起させる。同時に、そのはかない香を聞く一瞬一瞬こそが、二度と訪れることのない貴重な時間、まさに「一期一会」の体験そのものであることを、茶会の参加者全員に深く意識させるのである。
かくして、「此世」という銘は、平安朝の恋歌に込められた「個人的な生の有限性」を、茶の湯という場における「普遍的な時間の有限性(一期一会)」へと昇華させることに成功した。この命名によって、この井戸の小壺は、単なる美しい器から、時間と存在、そして生と死をめぐる深い問いを内包した、一個の哲学的オブジェへとその姿を変貌させたのである。
香炉「此世」の価値は、その器物としての魅力や銘の文学性のみによって成立しているわけではない。その価値を決定づけたのは、千利休にはじまり、当代一流の数寄者(すきしゃ)たちの手を経て、大名家、そして天皇へと至る、輝かしい伝来の歴史そのものである。この章では、この小さな香炉が辿った旅路を、歴代所有者たちの個性的な美意識と、彼らが生きた時代の文脈の中に位置づけて分析する。
全ての物語は、茶聖・千利休から始まる。この香炉を数ある器の中から見出し、香炉として「見立て」、そして「此世」という生命を吹き込んだのは、まさしく利休その人であった 16 。現存する内箱の蓋表には、利休自筆によるものと伝わる平仮名の「このよ」という墨書が残されており、彼が初代所有者であったことを示している 1 。
利休にとって、この香炉は自らが大成した「侘び茶」の理念を完璧に体現する器物であったに違いない。彼は、中国渡来の豪華絢爛な天目茶碗よりも、あえて歪みやひび割れ、素朴さを持つ国産の楽茶碗などを愛好し、完全無欠な美よりも、不完全さの中にこそ宿る深い味わいや時間の経過を見出した 8 。彼の美意識は、禅の思想と深く結びついており、華美な装飾を排した質素で静謐な空間の中で、亭主と客が精神的なつながりを深めることを茶の湯の理想とした 15 。
この香炉の無作為で飾り気のない姿は、人為的な技巧を排し、あるがままの自然な姿にこそ至上の美を見出すという、利休の思想そのものであった。利休による箱書は、この無名の小壺の価値の原点である。彼の審美眼と絶対的な権威によって、この器は単なる雑器から、後世に語り継がれるべき「名物」としての道を歩み始めることになったのである。
利休の死後、この香炉は彼の高弟たち、すなわち古田織部と小堀遠州へと継承されていく 16 。この伝来の過程は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての、目まぐるしく変転する日本の美意識のバトンリレーそのものであった。
利休の茶を受け継ぎながらも、独自の美学を切り開いたのが古田織部である。彼は「へうげもの(剽軽者)」と評されるように、師である利休の「静」や「調和」の美学とは対照的に、意図的に器を歪ませたり、左右非対称の意匠を取り入れたりするなど、「動」や「破格」の美を追求した 23 。
その織部から香炉を受け継いだのが、小堀遠州である。遠州は、現存する中箱の蓋表に「此世 香炉 利休 所持」と、由緒を証明する金粉字形を記した 1 。彼の美学は「綺麗さび」と称される。これは、利休の「侘び」や「さび」の精神を基盤としながらも、そこに平安王朝文化を思わせる明るさや優雅さ、そして武家社会にふさわしい格式や華やかさを融合させた、新たな美的概念であった 26 。
ここで一つの大きな問いが浮かび上がる。利休の「侘び」、織部の「へうげ」、遠州の「綺麗さび」という、それぞれ方向性の異なる、時には対極的にさえ見える美意識を持つ三者が、なぜ揃ってこの一つの香炉を珍重したのか。その答えは、逆説的にも、「此世」が持つ極度の「素朴さ」と「無個性さ」に求められる。そのシンプルさゆえに、この香炉はあらゆる美意識を受け入れ、それを映し出す「普遍的なキャンバス」として機能したのである。
このように、「此世」の伝来は、単なる道具の物理的な受け渡しではない。それは、時代の美学を牽引した巨人たちが、この小さな香炉を介して互いの思想と対話し、自らの美学を問い直す、ダイナミックな精神の継承だったのである。
茶道界の巨人たちの手を経た「此世」は、やがて江戸幕府の泰平の世において、その価値を決定的なものとする二つの権威と結びつく。すなわち、大大名である伊達家と、文化の頂点に立つ後水尾天皇である。
遠州の後、香炉は仙台藩伊達家に伝来した 16 。そして、四代藩主であり、自身も優れた文化人であった伊達綱村が、香炉を納める仕覆(しふく)の箱の蓋表に、力強い筆致で「此世」と墨書した 1 。徳川将軍家に次ぐ格式と石高を誇る伊達家が所有したという事実は、この香炉がもはや茶人の世界に留まるものではなく、武家社会における最高級のステータスシンボル、すなわち「大名物(おおめいぶつ)」としての地位を不動のものとしたことを意味する 29 。綱村による箱書は、その事実を公に証明する権威の証となった。
そして、この香炉の価値を文化的な至宝の域にまで高めたのが、後水尾天皇の存在である。この香炉には付属品として、後水尾天皇の宸翰(しんかん)、すなわち天皇直筆の書による「このよ香炉伝記」が添えられていることが記録されている 1 。
後水尾天皇は、江戸幕府との緊張関係の中で、政治的な実権を奪われた朝廷の権威を、学問や芸術といった文化の領域において復興させようとした、当代随一の文化人天皇であった 31 。その天皇が、わざわざ一個の香炉の来歴を記した「伝記」を自らの筆で記すという行為は、極めて異例であり、深い意味を持つ。それは、千利休以来、武家社会が主導してきた茶の湯文化の精髄ともいえるこの香炉の価値を、天皇という日本の最高権威が公的に認定し、その文化的な正統性を保証することを意味した。それは、武家の文化を朝廷の文化の系譜に正式に取り込むという、高度に政治的かつ文化的な行為であった。
この「このよ香炉伝記」の存在によって、「此世」は単なる「大名物」から、武家と公家という日本の二大権威が公認する、国家的な至宝へとその位を昇華させたのである。この小さな香炉は、戦国・江戸初期の文化と権力が複雑に交錯する、歴史の特異点に位置づけられることとなった。
以下の表は、本章で論じた「此世」の伝来の過程と、それに伴う価値の重層化をまとめたものである。
時代 |
所有者/関与者 |
行為・貢献 |
付与された価値・意味 |
安土桃山時代 |
千利休 |
井戸の小壺を香炉に見立て、「このよ」と命名・箱書 |
【侘びの美】 無作為の美の発見、名物としての原点の確立 |
安土桃山時代 |
古田織部 |
継承 |
【破格の美】 利休の美意識の継承と、自らの「へうげ」の美学との対比による価値の再確認 |
江戸時代初期 |
小堀遠州 |
継承、中箱に由緒を書く |
【綺麗さび】 「さび」の核として位置づけ、伝来の由緒を明記することによる歴史的価値の付加 |
江戸時代中期 |
伊達綱村(伊達家) |
継承、仕覆箱に箱書 |
【大名物の権威】 大名家による所有の証明、武家社会における至宝としての地位の確立 |
江戸時代初期 |
後水尾天皇 |
「このよ香炉伝記」を宸翰で記す |
【国家的至宝】 天皇による最高権威の付与、文化的価値の国家的公認 |
これまで、「此世」という個別の器物とその伝来を追ってきた。本章では、視点をよりマクロなものへと引き上げ、この類稀なる香炉を生み出し、その価値を育んだ、戦国・桃山時代の精神構造そのものを分析する。
香炉「此世」の価値が形成されていくプロセスは、戦国・桃山文化における価値創造のメカニズムを解き明かす、格好の事例である。この時代の特徴は、モノ自体が持つ物質的な価値(material value)よりも、それに人々が付与した「意味」や「物語」(symbolic value)が優越する、という点にある。
茶道具の世界における「名物」とは、単に古くて美しい道具を指すのではない。それは、確かな審美眼を持つ茶人によってその美が「発見」され、由緒ある来歴や詩的な銘といった「物語」が付与され、その価値が茶人たちのコミュニティで共有・承認されたものを指す 30 。作者の銘や由緒を記した「箱書」や、歴代の所有者を示す付属品の有無が、その価値を大きく左右した 35 。織田信長や豊臣秀吉といった天下人は、このメカニズムを巧みに利用し、功績のあった武将に領地や金銀の代わりに一国の価値にも匹敵する茶道具を与えることで、独自の価値体系と権威を構築したのである 6 。
「此世」の物語は、まさにこの価値創造のプロセスを完璧に体現している。朝鮮半島の無名の陶工が日用のために作ったであろう一個の小壺(モノ)に、千利休が「侘び」の美を見出し、香炉へと転用する(見立て)。そして和泉式部の歌から「此世」という深遠な銘を与える(物語の付与)。その後、織部、遠州、伊達家という歴代の所有者がその来歴を箱書で証明し、最後に天皇がその伝記を記すことで、その価値を絶対的なものへと高めていく(権威の付与)。この一連のプロセスは、物質的には何の変化もない一つの器が、文化的な営為の積み重ねによって、計り知れない価値を持つ「名物」へと「創造」されていく、その現場を我々に生々しく見せてくれるのである。
では、なぜ戦国・桃山時代の人々は、これほどまでに茶の湯と、そこに用いられる「名物」に熱狂したのか。その根源には、彼らが生きた時代の特殊な状況がある。
戦国時代は、下剋上が常態化し、昨日の友が今日の敵となる、裏切りと策略に満ちた時代であった。武将たちは、常に死と隣り合わせの極度の緊張の中で日々を送っていた 39 。彼らが、わずか四畳半ほどの狭く質素な茶室に集い、一碗の茶を喫する行為に求めたものは、現実世界とは全く逆の価値観、すなわち精神的な安らぎであり、自己との静かな対峙であった 9 。茶室に入る際に誰もが刀を外し、身分に関わらず頭を下げて小さな「にじり口」をくぐるという作法は、茶の湯の空間が、世俗の権力や序列から解放された、平等で静謐な別世界であることを象徴していた 9 。
栄華を極めた者も一夜にして滅び去る、この世の儚さを誰よりも知る武士たちにとって、華美を排し、質素で世俗を離れたあり方を尊ぶ「侘び茶」の思想は、自らの死生観と深く共鳴するものであった 39 。
このような精神的背景の中で、香炉「此世」が持つ静かで侘びた佇まいは、戦乱の世に生きる人々が渇望した「静謐」と、移ろいゆくものの中に見出す「不変性」の象徴であったと考えられる。ここに、一つの逆説的な願望が見て取れる。和泉式部の歌は、この世のはかなさを歌う。しかし、その名を冠した香炉「此世」そのものは、主君が変わり、時代が移っても、利休から織部、遠州、そして伊達家へと、人々の手を渡って確かに受け継がれていくという「永続性」を体現している。
武将たちは、この小さな香炉の中に、常に変化し、信頼の置けない現実世界(此の世)とは対極にある、理想の精神世界を投影したのである。それは、はかないからこそ永遠を願い、乱世の只中にあるからこそ静謐を希求するという、極限状況に置かれた人間の根源的な願望の、美しき表れであったと言えるだろう。
本報告書で詳述してきた通り、名香炉「此世」は、単なる歴史的遺物や美術工芸品という言葉では到底捉えきれない、極めて重層的な文化的シンボルである。その小さな器の中には、以下の要素が奇跡的に凝縮されている。
これら時代も分野も異なる日本の美意識と価値観が、一つの小壺を舞台として出会い、積み重なり、響き合う。それが、香炉「此世」の比類なき価値の本質である。
この香炉が辿った物語は、モノの価値がいかにして人の手によって「発見」され、「意味づけ」され、「創造」され、そして「継承」されていくのかという、文化そのものの本質的な営みを我々に教えてくれる。
現在、この香炉は根津美術館に静かに収蔵され、その佇まいを今に伝えている 1 。その小さな姿は、戦乱の世を生きた人々の激しい情念と、研ぎ澄まされた深い精神性を秘め、私たちに対して、日本の美意識の源流とは何か、そして文化とは何かという根源的な問いを、今なお静かに、しかし力強く語りかけている。その声に真摯に耳を澄ますことこそ、過去を理解し、現代を生きる我々に課せられた知的営為に他ならない。