最終更新日 2025-08-08

法城寺

法城寺は南北朝時代に豪壮な薙刀を製作し、戦国時代には薙刀直しとして価値を再評価された。江戸時代には法城寺正弘が新刀の名門として再興し、その名は時代を超えて日本の刀剣史に刻まれている。
法城寺

法城寺の研究:南北朝の薙刀、戦国の不在、そして江戸新刀への継承

序論:多義的なる「法城寺」への探求

ご依頼者が提示された「江戸時代に作られた薙刀」という認識は、「法城寺」という名が持つ重層的な歴史の一側面に過ぎません。この名は、ある時は南北朝時代の豪壮な薙刀を、またある時は江戸の太平を象徴する洗練された刀を指し、さらには但馬の地に根差した寺院や地名とも深く結びついています。本報告書は、これらの断片的な情報を「日本の戦国時代」という歴史的座標軸を基点として再構築し、一つの体系的な知見として提示することを目的とします。

「法城寺」とは、南北朝時代の刀工群なのか、江戸時代の刀工一派なのか、あるいは寺院や地名なのでしょうか。この問いに対し、本報告書は、それらがすべて「法城寺」という一つの大きな歴史的文脈の中で相互に関連し合っていることを論証します。まず、その源流である南北朝時代に但馬国で名を馳せた「但州法城寺」を解明し、次に戦国時代におけるその「不在」と、遺された作品が辿った「変容」を考察します。この戦国期の空白こそが、法城寺の物語を理解する上で極めて重要な鍵となります。続いて、江戸時代に再興された「江戸法城寺」の隆盛を詳述し、最後にその名の由来となった地名や寺院との関係性を探求することで、時代を越えた「法城寺」の全体像を明らかにします。


第一章:源流としての「但州法城寺」― 南北朝時代の薙刀名手

第一節:但馬国における法城寺派の出現

「法城寺」の名が歴史に初めて現れるのは、日本が二つの朝廷に分かれ、激しい戦乱が続いた南北朝時代(14世紀)のことです。この時代、但馬国(現在の兵庫県北部)、特に現在の朝来市和田山町岡田周辺を本拠とした刀工の一派が「法城寺」と称されました 1 。この時代は、従来の太刀に加え、薙刀や大太刀といった長大で豪壮な武器が戦場で威力を発揮し、その需要が飛躍的に高まった時期でした。法城寺派は、まさにこの時代の要請に応える形で、特に大薙刀の製作でその名を馳せることになります。

この流派の祖とされ、中心的な役割を果たしたのが「国光(くにみつ)」という刀工です 1 。刀剣古伝書によれば、国光は相模国(現在の神奈川県)の刀工で、五郎入道正宗の弟子として名高い貞宗に師事したと伝えられています 3 。相州伝と称されるこの系統は、実用性を重んじた強靭な地鉄と、沸(にえ)と呼ばれる荒々しい粒子が輝く刃文を特徴としており、国光の作風にもその影響が色濃く見て取れます。

しかし、国光の作品には一つの大きな謎があります。それは、彼の在銘作が短刀などに限られ、現存する大薙刀や、後に詳述する「薙刀直し」の刀の多くが無銘であるという点です 2 。これは、師とされる貞宗の作刀姿勢と共通する特徴です。当時の最高級の注文打ちの作には、あえて銘を入れないことでかえってその価値を示すという慣習があったことや、薙刀が戦場で激しく使用される消耗品としての側面を持っていたため、一つ一つに銘を入れることが重視されなかった可能性が考えられます。いずれにせよ、無銘であることは決して作の劣悪さを示すものではなく、むしろ最高水準の作であったことの証左とさえ言えるのです。

第二節:作風の特色と鑑定の要点

但州法城寺の作風を理解することは、この一派が日本の刀剣史においていかに特異な存在であったかを解き明かす鍵となります。その作品は、一見すると備前伝、特に鎌倉時代中期に一世を風靡した福岡一文字派や片山一文字、吉岡一文字を彷彿とさせる、華麗で複雑な丁子乱(ちょうじみだれ)の刃文を焼いています 3 。蛙子丁子(かわずこちょうじ)や重花丁子(じゅうかちょうじ)が交じるその刃文は、絢爛豪華という言葉がふさわしいものです。

しかし、その本質は別のところにあります。刀剣鑑定の権威である本阿弥家では、古来、「地刃の沸(にえ)が一段と強く、刃中に砂流し(すながし)がかかる作」を「但州法城寺」と極めてきました 3 。沸とは、刃先に現れる肉眼で確認できるほどの粗いマルテンサイト粒子であり、これが強く現れるのは相州伝の大きな特徴です。さらに、砂を流したように見える「砂流し」や、線状に光る「金筋(きんすじ)」といった刃中の働きが盛んに見られるのも、但州法城寺の特色です 3

ここに、法城寺派の独創性が見出せます。彼らは単に流行を追ったのではありません。国光が相州貞宗に学んだという伝承が示すように、その根底には相州伝の強靭な刀身を作る技術がありました。その上で、当時の武士たちの間で絶大な人気を誇った備前一文字の華やかなデザインを取り入れたのです。つまり、但州法城寺の作風とは、実用本位の相州伝と、美術的価値の高い備前伝という、当時の刀剣界における二大潮流を但馬という地で意図的に融合させた、極めて先進的なハイブリッド様式であったと解釈できます。これは、地方の刀工が中央の最新技術をいかに受容し、独自の作風を確立していったかを示す、非常に貴重な事例と言えるでしょう。

第三節:現存する至宝 ― 国指定重要文化財「大薙刀 無銘伝法城寺」

南北朝時代に作られた法城寺派の傑作として、その姿を今に伝えるのが、千葉県立中央博物館に保管されている国指定重要文化財「大薙刀 無銘伝法城寺」です 1 。この一振は、法城寺派、ひいては南北朝時代の武具のあり方を雄弁に物語る第一級の資料です。

まず、その物理的な特徴が圧巻です。刃長は80.6cm、反りは3.8cmに及び、見る者を圧倒する豪壮な造り込みとなっています 1 。しかし、それ以上に特筆すべきは茎(なかご)の長さです。柄に収められる部分である茎が、実に130.6cmもの長さを誇ります 1 。これは、当時の武者がいかに長い柄を付けてこの薙刀を振り回していたかを物語っています。そして、この茎が製作当初の寸法を保ったままの「生ぶ茎(うぶなかご)」である点は、極めて重要です。長大な武器は後の時代に使いやすいように切り詰められることが多く、生ぶの状態で現存する例は全国的にも非常に稀です 1 。この大薙刀は、製作当時の武具の完全な姿を現代に伝える、奇跡的な存在なのです。

美術的価値においても、この大薙刀は高く評価されています。同時代の類例が少ない中で、鎌倉時代から続く大薙刀の中でも屈指の名品として知られています 1 。その堂々たる姿は、南北朝時代の武士が求めたであろう、圧倒的な破壊力と、武具としての機能美を兼ね備えた理想像を体現していると言えるでしょう。


第二章:戦国時代における「法城寺」― 空白の時代と遺産の変容

第一節:戦場の主役交代と薙刀の衰退

南北朝時代に隆盛を誇った法城寺派ですが、時代が下り、戦国時代(15世紀末~16世紀末)の記録からはその名が忽然と姿を消します。この「空白の時代」を理解するためには、まず戦国時代の合戦様式の劇的な変化を把握する必要があります。

戦国時代の合戦は、鎌倉・南北朝時代に見られたような、鎧兜に身を固めた騎馬武者による一騎討ち中心の個人戦から、足軽(あしがる)と呼ばれる軽装の歩兵が密集隊形を組んで戦う集団戦へと大きく移行しました 7 。この変化は、武器のあり方にも決定的な影響を与えます。

薙刀は、その長い柄と大きな刃を活かし、遠心力を利用して敵を「薙ぎ払う」ことに特化した武器です。広範囲を攻撃できる反面、大きく振り回す動作は密集した隊列の中では味方を傷つける危険性が高く、集団での運用には不向きでした 7 。代わって戦場の主役となったのが「槍(やり)」、特に穂先が長く、集団で構えて敵陣に突きかかる「長槍」です。槍は前方への「突き」に特化しており、密集隊形での運用に適していました。この戦術の変化により、薙刀の需要は戦国時代を通じて激減し、それに伴い製作も衰退の一途をたどりました 7 。ご依頼者がお持ちの「戦国時代末以降は薙刀の需要が減り、優品に乏しい」というご認識は、まさにこの歴史的背景によって裏付けられるのです。

第二節:但馬守護・山名氏の衰退と刀工への影響

法城寺派が歴史の表舞台から姿を消した理由は、単に薙刀という武器の流行り廃りだけでは説明できません。より根源的な原因として、彼らの最大の庇護者(パトロン)であった但馬守護・山名氏の没落が挙げられます。

法城寺派が本拠とした但馬国は、室町時代を通じて守護大名・山名氏の支配下にありました。山名氏は清和源氏の名門で、最盛期には山陰地方を中心に日本全国66か国のうち11か国の守護職を兼帯し、「六分一殿(ろくぶのいちどの)」と称されるほどの絶大な権勢を誇りました 10 。応仁の乱(1467-1477年)では、一族の山名宗全が西軍の総大将として細川勝元と対峙するなど、室町幕府の政治においても中心的な役割を担っていました 12 。但馬の刀工であった法城寺派も、当然ながらこの強大な守護大名の庇護の下、安定した作刀活動を行っていたと考えられます。

しかし、応仁の乱以降、山名氏の勢力は徐々に衰え、戦国時代に入ると但馬一国を維持するにとどまります。そして、天下統一を目指す織田信長の勢力が但馬に及ぶと、1569年(永禄12年)、信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の侵攻を受け、本拠地の此隅山城は落城。その後、有子山城に拠点を移して抵抗を試みますが、1580年(天正8年)の第二次但馬征伐によって有子山城も陥落し、但馬守護としての山名氏は事実上滅亡しました 12

この歴史的出来事は、法城寺派にとって致命的な打撃となったはずです。有力な刀工は、地域の支配者から注文を受け、その経済的支援によって工房を維持するのが常でした。山名氏の滅亡は、法城寺派にとって、①主力製品であった薙刀の需要が時代遅れになったという市場の変化に加え、②最大の庇護者を失い、経済的基盤そのものが崩壊したことを意味します。この二重の打撃が、古刀期法城寺派の活動を停止に追い込んだ、より複合的で決定的な原因であったと推察されます。

第三節:遺産の再利用 ― 「薙刀直し」という文化

戦国時代、法城寺派の刀工たちが新たな作刀を行うことはありませんでした。しかし、彼らの遺産が消え去ったわけではありません。むしろ、新たな形でその価値を証明し、次代へとその伝説を繋いでいくことになります。それが「薙刀直し(なぎなたなおし)」という文化です。

薙刀直しとは、戦場で使われなくなった南北朝時代の長大で豪壮な薙刀を、打刀や脇差に仕立て直すことを指します 9 。具体的には、長大な茎(なかご)を切り詰めて(磨り上げて)刀の長さに合わせ、薙刀特有の強い反りを修正し、先端部分を刀の切っ先へと整形する作業です 16

なぜ、わざわざこのような手間のかかることをしたのでしょうか。それは、元となる薙刀が非常に高品質であったからです。南北朝時代の激しい戦乱をくぐり抜けてきた薙刀は、そもそもが強靭で優れた作品でした。質の悪い大量生産品(数打ち物)は戦場で淘汰され、後世まで伝来するものは名工による入念な作が多かったのです。また、貴重な名刀をわざわざ手間暇かけて刀に直すからには、元が良いものであることは当然でした。こうした背景から、「薙刀直しに鈍刀(なまくら)なし」という格言が生まれました 7

特に、薙刀の名手として知られた法城寺国光の作と伝えられる薙刀は、その優れた性能と美術的価値から珍重され、多くの「薙刀直し」の優品として現存しています 2 。戦国武将にとって、過去の名工が鍛えた豪壮な武器を、自身の差料(さしりょう)として佩用することは、自らの武威と教養、そして権威を示すための重要なステータスシンボルでした。

このように考えると、戦国時代は「法城寺」にとって、単なる「空白の時代」ではありませんでした。むしろ、彼らの作品が最も過酷な評価、すなわち実戦での有効性という基準から解き放たれ、純粋な美術品、あるいは権威の象徴として「再評価された時代」であったと言えます。法城寺の薙刀は、本来の武器としての役目を終えた後、「薙刀直し」という形で新たな生命を与えられ、戦国武将の腰を飾ることで、その卓越した技術と伝説を次代へと繋ぐ重要な役割を果たしたのです。


第三章:江戸における「法城寺」の再興 ― 新刀の名門として

第一節:江戸への移住と「江戸法城寺派」の確立

戦国の世が終わり、徳川幕府による泰平の時代が訪れると、「法城寺」の名は再び歴史の表舞台に華々しく登場します。その立役者となったのが、江戸時代前期の刀工「法城寺正弘(ほうじょうじまさひろ)」です。

通説によれば、正弘は但馬国弘原(現在の兵庫県豊岡市出石町弘原)の出身で、南北朝時代の名工・法城寺国光の末裔を称していました 19 。彼は故郷を離れて大都市・江戸へ移住し、国光の名跡を継ぐ形で「江戸法城寺派」を興したのです 19

正弘は単なる一介の刀工ではありませんでした。彼は卓越した作刀技術に加え、優れた統率力と政治的手腕をも持ち合わせていたようです。彼の元には多くの門弟が集まり、一門は数十名にも及ぶ一大刀工集団へと発展しました 22 。その規模は寛文・延宝期(1661-1681年頃)の江戸において最大級を誇り、その権勢は「江戸幕府のあらゆる鍛冶業務を許されるほど絶大であった」と伝えられています 23 。これは、彼らが幕府御用達の刀工として、特別な地位にあったことを示唆します。

その名声は幕府内にとどまらず、全国の諸大名にも広く知れ渡っていました。特に、常陸国水戸藩の二代藩主であり、「水戸黄門」として知られる徳川光圀に招聘され、水戸城下でも作刀を行ったという記録が残っています 20 。徳川御三家の一つである水戸藩から直々に招かれるということは、法城寺派の技術力とブランド価値が、当代最高レベルのものとして公に認められていたことの何よりの証左と言えるでしょう。

第二節:江戸法城寺派の刀工たちと位列

法城寺正弘が築いた江戸法城寺派は、彼一代で終わることなく、多くの優れた刀工を輩出し、江戸新刀の一大勢力として確固たる地位を占めました。

一門の中心には、まず二代にわたる「正弘」がいます。初代正弘は承応・万治・寛文頃(1652-1673年)に、二代正弘は延宝・元禄頃(1673-1704年)に活躍したとされ、それぞれの年紀が入った作が現存しています 22 。彼らに続き、但馬守(たじまのかみ)の官位を受領した「貞国(さだくに)」 27 や「国正(くにまさ)」 28 、越前守(えちぜんのかみ)を受領した「正照(まさてる)」 29 、さらには「貞広(さだひろ)」 19 、「貞清(さだきよ)」 31 といった刀工たちが名を連ね、それぞれが個性的な作品を残しています。

彼らの実力は、当時の刀剣格付書からも窺い知ることができます。刀工の技量を格付けした「刀工位列」において、法城寺正弘は上から二番目の「上々作」 32 、または三番目の「上作」 33 に位置づけられています。また、刀の切れ味を格付けした「業物位列(わざものいれつ)」では、実用的な切れ味を持つとされる「業物」に列せられており 20 、美術的価値と実用性の両面で高く評価されていたことがわかります。

江戸法城寺派の主要な刀工とその特徴を以下にまとめます。この一覧は、一派の全体像と各刀工の個性を把握する上で有益です。

刀工名

活躍年代(元号)

受領名・通称

刀工位列

作風・特記事項

典拠資料

法城寺正弘(初代)

承応~寛文

近江守、滝川三郎太夫

上々作、業物

虎徹に酷似した互の目乱、広直刃。水戸徳川家招聘。

20

法城寺正弘(二代)

延宝~元禄

近江守

上作

初代に酷似するが、銘の切り方に差異あり。

22

法城寺貞国

万治~

但馬守

上作

正弘に次ぐ良工。直刃調に小互の目。遺例は少ない。

27

法城寺国正

寛文~延宝

但馬守

沸出来で迫力ある作風。郷義弘や虎徹を想起させる。

28

法城寺正照

延宝頃

越前守

互の目乱に丁子が交じる。他工との合作が多い。

29

第三節:虎徹との比較 ― 寛文新刀の双璧

江戸法城寺派、とりわけ初代正弘を語る上で避けて通れないのが、同時代に江戸で絶大な人気を誇った名工・長曽祢虎徹(ながそねこてつ)との関係です。

数多くの資料が指摘するように、正弘の作風は虎徹のそれと極めてよく似ています 20 。両者ともに、反りが浅く、身幅が広く、頑丈な造り込みという、実用本位の「寛文新刀(かんぶんしんとう)」の典型的な姿をしています。そして、刃文は沸(にえ)が強くついた互の目乱(ぐのめみだれ)や、匂口(においぐち)の締まった直刃(すぐは)を焼き、地鉄はよく詰んで精良です。

この作風の酷似は、ある種の「事件」を引き起こしました。あまりに似ていたため、正弘の作の銘が削り取られ、より高値で取引された虎徹の偽銘が入れられたものが、江戸時代から多く流通したと伝えられているのです 20 。これは、正弘にとっては不名誉な話かもしれませんが、裏を返せば、彼の技量が虎徹本人と見紛うほどに高く、市場がそれを認めていたことの証明に他なりません。

もちろん、両者の間には僅かながら作風の違いも存在し、それが真贋を見極める際の鑑別点となります。例えば、刀の先端部分である帽子(ぼうし)の作り込みにおいて、虎徹が小丸(こまる)に返って横手筋(よこてすじ)のあたりを強く焼き込む傾向があるのに対し、正弘は直刃(すぐは)のまま小丸に返り、深く焼き下げるのが特徴とされています 26 。また、正弘の作品には、虎徹の作にしばしば見られる「江戸焼き出し」と呼ばれる、刃区(はまち)から数センチを直刃に焼く手法が見られない点も、重要な鑑別点です 26

この一連の事実は、江戸法城寺派の成功の秘訣を解き明かしてくれます。彼らの成功は、単に南北朝時代の「法城寺」という古の名跡の権威を借りただけではありませんでした。当代随一の人気ブランドであった「虎徹」の作風を巧みに研究・模倣し、江戸の武士たちの需要に的確に応えるという、極めて優れたマーケティング戦略の賜物でもあったのです。彼らは、歴史的な権威と現代的な流行という二つの要素を巧みに融合させることで、競争の激しい江戸の刀剣市場において、確固たる地位を築き上げたのでした。


第四章:「法城寺」の語源を巡る考察 ― 地名と寺院との関連性

第一節:但馬国出石の「法城寺」と「鍛冶屋」地区

刀工一派「法城寺」の名の由来は、その発祥の地である但馬国と深く結びついています。古くからの伝承として、南北朝時代の刀工たちが、但馬国出石郡(現在の兵庫県豊岡市出石町)にあった法華宗の寺院「法城寺」の境内で作刀していたため、その寺の名を流派名とした、という説があります 3

この説を裏付けるように、現在の出石町には「鍛冶屋(かじや)」という地名が実在し、その地に「清水山 法城寺」という日蓮宗(法華宗)の寺院が現存しています 37 。地名そのものが、この地域が古くから刀鍛冶をはじめとする金属加工職人たちの集住地であったことを強く示唆しています。さらに、出石という町名の由来自体が、神話に登場する新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)が日本にもたらした宝物の一つである「出石小刀(いずしのこがたな)」に起因するという伝承もあり 38 、この地が古代から金属加工と深い縁で結ばれていたことが窺えます。

しかし、ここで一つの興味深い事実が浮かび上がります。現在、出石に存在する法城寺の寺宝として薙刀が伝えられていますが、その作者は「武州住橘永弘作」とされており、法城寺国光の作ではないのです 37 。この事実は、刀工と寺院の関係が、単に「刀工が寺の敷地を借りて作刀した」という単純な主従関係ではなかった可能性を示唆します。

ここから、いくつかの仮説が立てられます。一つは、法城寺派の刀工たちが、寺の直接の庇護下にあったのではなく、近隣の「鍛冶屋」地区に工房を構えて集住しており、その地域のランドマークであった「法城寺」の名を、自らのブランドとして名乗ったという可能性です。もう一つは、逆の順序で、まず「法城寺」を名乗る刀工一派が全国的な名声を得た後、その名声にあやかる形で、所縁の地に同名の寺院が建立された、あるいは改名されたという可能性です。地名と刀工名が先か、寺院名が先かの明確な前後関係を史料から断定することは困難ですが、いずれにせよ、この出石の「鍛冶屋」地区一帯が、南北朝時代から続く「法城寺ブランド」発祥の地であったことは間違いないでしょう。

第二節:各地に存在する「ホウジョウジ」との区別

「法城寺」という名称を調査する上で、注意すべき点があります。それは、日本全国には「法城寺」や、同音で漢字の異なる「法成寺」といった地名や寺院が複数存在するということです。

例えば、山梨県甲府市にはかつて「法城寺跡」と呼ばれる臨済宗の寺院がありました 39 。また、備後国(現在の広島県東部)には、南北朝時代から「法成寺」という地名が存在した記録があります 40 。愛知県西春町(現在の北名古屋市)にも、近世に「法成寺村」という村がありました 41

これらの地名や寺院は、それぞれが独自の歴史的背景を持っています。しかし、本報告書で扱っている但馬国を発祥とする刀工一派「法城寺」との間に、直接的な関係を示す史料は現在のところ見当たりません。したがって、歴史的文脈の混同を避けるためにも、本報告における「法城寺」とは、あくまで但馬国出石周辺に由来する刀工群、およびその歴史と伝統を受け継いだとされる江戸の刀工一派に限定されることを明確にしておく必要があります。


結論:時代を越える「法城寺」の名

本報告書の調査を通じて明らかになったのは、「法城寺」とは単一の存在ではなく、時代と共にその意味合いを変容させてきた、重層的な歴史を持つブランドであるということです。その壮大な物語は、南北朝時代の動乱の中、但馬国で生まれ、比類なき切れ味と豪壮さを持つ薙刀を生み出した名工「国光」とその一派に始まります。彼らの作品は、実用性と美術性を高度に融合させた、時代の要請の結晶でした。

戦国時代という大きな社会変革期は、合戦様式の変化と庇護者の没落により、法城寺派の作刀活動を一度は途絶えさせました。しかし、彼らの遺産は消え去るどころか、「薙刀直し」という新たな形で戦国の武将たちに珍重され、その本質的な価値を証明しました。この時代は、法城寺にとって「不在」の期間ではなく、その伝説が試され、新たな価値観の下で承認され、次代へと受け継がれるための重要な「転換期」であったと言えます。

そして、泰平の世となった江戸時代、その末裔を称する法城寺正弘が江戸でその名を再興し、一大刀工集団として隆盛を極めました。彼らは、古の名跡が持つ権威と、当代随一の人気刀工・虎徹に比肩する現代的な技量を巧みに融合させ、新たな時代の武士たちの需要に応えたのです。

ご依頼者が最初に抱かれた「江戸時代の薙刀」というイメージは、この長く壮大な歴史の、いわば最終章の一場面に過ぎません。本報告書が解き明かしたように、「法城寺」の真髄は、南北朝の豪壮な実用美、戦国を生き抜いた遺産の不変の価値、そして江戸新刀として結実した洗練された技量という、三つの時代の精神を内包する、稀有な刀工群の物語そのものにあります。その名は、日本の武器と武士の文化が辿った変遷の軌跡を、見事に体現しているのです。

引用文献

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  32. 日本刀を鍛えた刀工の名前 – 黒金の舎 - 刀剣美術誌上鑑定に挑戦 http://katanadachi.g1.xrea.com/jousaku-shintou.html
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  35. 新商品のご案内 脇差 銘 近江守法城寺橘正弘(初代)(業物) https://www.choshuya.co.jp/single-post/%E6%96%B0%E5%95%86%E5%93%81%E3%81%AE%E3%81%94%E6%A1%88%E5%86%85-%E8%84%87%E5%B7%AE-%E9%8A%98-%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%AE%88%E6%B3%95%E5%9F%8E%E5%AF%BA%E6%A9%98%E6%AD%A3%E5%BC%98%EF%BC%88%E5%88%9D%E4%BB%A3%EF%BC%89%EF%BC%88%E6%A5%AD%E7%89%A9%EF%BC%89
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  37. 清水山 法城寺 | 兵庫県の寺院一覧 | 全国寺院紹介 | 法華宗真門流 http://www.hokkeshu.jp/jiin/kinki/s-houjyouji.html
  38. 出石町概要 - 但馬國出石観光協会公式サイト https://www.izushi.co.jp/history/
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  40. 「法成寺」の地名について(福山市駅家町・勅旨田と京都法成寺) - 備陽史探訪の会 https://bingo-history.net/archives/14024
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  42. 脇指 近江守法城寺橘正弘(二代) 特別保存刀剣鑑定書 - 日本刀 https://www.seiyudo.com/wa-040615.htm
  43. 脇指 江戸法城寺|刀剣や刀の販売なら日本刀販売専門店つるぎの屋 https://www.tsuruginoya.com/mn1_3/a00015.html