燧石式銃は火縄銃より耐候性・即応性に優れるが、戦国日本では普及せず。その理由は、良質な燧石の不足、火縄銃の完成度、平和な時代の需要喪失。幕末に一時導入されたが、雷管式に取って代わられた。
1543年(天文12年)、種子島に伝来した一挺の火器は、その後の日本の歴史を大きく塗り替える力を持っていた 1 。火縄銃、すなわちマッチロック式銃である。この新兵器の価値を瞬時に見抜いた日本の為政者と職人たちは、驚くべき速度でその国産化を達成し、わずか半世紀後の16世紀末には、ヨーロッパ全土の保有数を上回るとも言われるほどの鉄砲大国へと変貌を遂げた 2 。堺や国友といった生産拠点は隆盛を極め、鉄砲は戦国時代の合戦における勝敗を左右する決定的な要因となった。
この火縄銃の爆発的な普及という、世界史的にも稀有な技術受容の成功譚の陰で、一つの重大な「不在」が見過ごされがちである。それは、同時期にヨーロッパで産声を上げ、その後の世界の戦場で2世紀以上にわたり主役の座を占めることになる「燧石式銃(フリントロック式銃)」の不在である。
利用者が事前に把握されている通り、燧石式銃は「燧石を鋼鉄片に打ちつけ、その衝撃で火薬に点火する銃」であり、「雨下での射撃を可能にした」という利点を持つ一方で、「点火は不確実な上、点火の際に銃が揺れるなどの難点も残った」と一般的に理解されている [利用者提供情報]。しかし、この理解は事象の表層を捉えたものに過ぎない。なぜ、世界最先端の鉄砲生産能力を誇ったはずの戦国日本は、この新技術を導入しなかったのか。この問いは、単なる技術導入の遅れや失敗を問うものではない。むしろ、この「不在」の理由を徹底的に探求することこそ、戦国時代という特異な時代の技術的、資源的、そして社会的・軍事的状況を映し出す鏡となり、日本の技術史の本質を深く理解するための鍵となる。
本報告書は、この「不在の証明」を試みるものである。燧石式銃の構造と性能を、日本の戦場で最適化された火縄銃と徹底的に比較分析し、なぜこの技術が当時の日本において「採用されなかった」のか、その歴史的必然性を多角的に解明することを目的とする。これは、「作れなかった」のではなく「選ばなかった」という、日本の歴史における合理的な選択の物語である。
燧石式銃がなぜ戦国時代の日本で普及しなかったのかを論じる前に、まずその技術的本質を正確に理解する必要がある。燧石式銃の心臓部は、フリントロックと呼ばれる精緻な機械式点火装置(カラクリ、ロック)にあり、これは火縄銃の単純な機構とは一線を画すものであった。
フリントロック機構は、主に以下の部品によって構成される。
燧石式銃の発射に至るまでの操作は、以下の手順で行われる。
この一連の動作から明らかなように、燧石式銃の技術的本質は、それが「自己完結型」の点火システムであるという点にある。火縄銃が「火縄」という、外部から持ち込まれ、常に燃え続ける「生きた火種」を必要とするのに対し、燧石式銃は引き金を引くという射手の操作そのものが「火花を創り出す」という発火プロセスと直結している。銃自体が、機械的な位置エネルギー(引き起こされた撃鉄と圧縮されたばね)を運動エネルギーに変換し、さらにそれを熱エネルギー(火花)へと転換する能力を内蔵しているのである。
この自己完結性こそが、燧石式銃がもたらした戦術的革新の根源であった。射手は火種の管理という煩雑な作業から解放され 12 、いつでも撃てるという即応性を手に入れた 10 。また、火縄のように燃え盛る火種を兵士が持ち歩く必要がないため、隣の射手の銃に引火する危険性が低減し、より密集した隊形を組むことが可能となった 6 。これは、後の線形戦術の発展に大きく寄与することになる。このように、燧石式銃は単なる点火方式の改良に留まらず、兵器としての在り方そのものを変革する可能性を秘めた技術であった。
燧石式銃の技術的特性を理解した上で、次になぜそれが戦国時代の日本で普及しなかったのかを解明するためには、当時の戦場で絶対的な地位を築いていた「日本製火縄銃」との比較が不可欠である。日本の火縄銃は、伝来した技術を単に模倣したものではなく、戦国の過酷な実戦環境の中で独自の進化を遂げた、極めて完成度の高い兵器であった。両者を多角的に比較することで、燧石式銃の利点と欠点が、日本の文脈においてどのように評価されたかが見えてくる。
銃器の性能を評価する上で最も重要な指標の一つが、発射の確実性、すなわち信頼性である。この点において、両者には明確な差が存在した。
火縄銃は、燃えている火縄の先端を直接、火皿の点火薬に押し付けて着火させる。これは「生火」を用いるため、火縄が消えておらず、火薬が湿っていなければ、極めて確実に点火する 10 。ある研究によれば、乾燥した良好な条件下での日本の火縄銃の不発や遅発(発射の遅れ)は10%以下であったと推定されており、高い信頼性を誇っていた 10 。
一方、燧石式銃の点火は「火花」に依存する。火花の発生は、燧石の品質や鋭さ、摩耗の度合い、撃鉄を叩きつけるばねの強さ、当たり金の表面状態、さらには点火薬の質や湿り具合など、数多くの機械的・物理的要因に左右される。一つでも条件が揃わなければ、火花が飛ばない、あるいは飛んでも点火薬に引火しないという事態が生じやすく、本質的に不確実性を内包していた 6 。通常の状況下での着火性能は、火縄式の方が倍ほど良かったとする分析もある 10 。
燧石式銃の最大の利点としてしばしば挙げられるのが、雨や湿気に対する強さである。火皿がフリズンによって常時覆われているため、点火薬が濡れにくく、火縄銃に比べて悪天候下での運用が容易であったことは事実である 10 。
しかし、日本の火縄銃も雨に対して全くの無策だったわけではない。戦国の鉄砲鍛冶や兵士たちは、日本の多雨な気候に対応するため、独自の工夫を凝らしていた。銃身と火皿の間に「雨覆い(あまおおい)」と呼ばれる金属板を取り付けて雨水の侵入を防いだり 15 、火縄そのものに漆を塗ったり、硝石で煮込むなどの防水処理を施した「雨火縄(あめひなわ)」や「水火縄(みずひなわ)」を開発したりしていた 17 。さらに、鉄砲足軽が被る陣笠を大きめに作り、雨から銃の機関部を守る役割も担わせていたという記録もある 18 。長篠の戦いにおいて、織田信長が鉄砲隊のために雨具を用意していたという説も存在し 19 、これは火縄銃の雨天運用が現実的な課題として認識され、対策が講じられていたことを示唆している。
したがって、燧石式銃が持つ耐候性の優位は絶対的なものではなく、日本の火縄銃もまた、工夫によってその弱点をある程度克服していた。このため、耐候性だけを理由に高価で複雑な燧石式銃へ全面的に切り替えるほどの決定的な動機にはなり得なかったと考えられる。
精密な射撃が求められる場面では、燧石式銃は構造的な欠点を抱えていた。第一に、発射時の衝撃である。引き金を引くと、強力なばねに押された撃鉄がフリズンを激しく叩く。この機械的な衝撃が発射の瞬間に銃全体を揺らし、照準を狂わせる原因となった 20 。特に、取り回しを重視して銃身を短くした馬上筒のような銃では、この揺れの影響はより顕著になった 20 。
第二に、発射までの時間差(ロックタイム)である。引き金を引いてから、燧石が当たり金を叩き、火花が発生し、それが点火薬に燃え移り、最終的に主装薬が爆発するまでには、ごく僅かながら時間の遅れが生じる。この遅延は「ボスッ」という音を伴う感覚として認識され、動く標的を狙う際や精密な狙撃を行う上では不利な要素であった 10 。
これに対し、日本の火縄銃は、伝来後に独自の進化を遂げ、引き金を引くとからくりが瞬時に作動して火縄を火皿に叩きつける「瞬発式」と呼ばれる機構が主流となっていた 21 。この機構は、ヨーロッパで一般的だった、引き金を引くとゆっくりと火縄が落ちていく「緩発式」に比べてロックタイムが極めて短く、高い命中精度を実現した。文禄・慶長の役において、明軍が日本の火縄銃を「飛ぶ鳥をも撃ち落とす」として「鳥銃」と呼び恐れたという逸話は、その精度の高さを物語っている 21 。
兵器の普及には、性能だけでなく、生産性や整備性も重要な要素となる。燧石式銃は、強力なばねを複数使用するなど、火縄銃に比べて部品点数が多く構造が複雑であった 10 。これは製造コストの上昇に直結し、大量配備の障壁となった。また、機構が複雑であるほど故障のリスクは高まり、特に戦場で酷使される兵器にとって、ばねの破損などは致命的な問題となり得た。耐久性や戦場での修理の容易さという点では、単純な構造を持つ火縄銃に分があった 10 。
一方、日本では、鉄砲伝来から間もなく、近江の国友や和泉の堺といった地に大規模な鉄砲生産拠点が形成された 2 。そこでは、銃身を作る「鍛冶師」、銃床を作る「台師」、からくりを作る「金具師」といった分業体制が確立され、効率的な大量生産が可能となっていた 22 。こうして生産された日本の火縄銃は、実用性を重視したシンプルで堅牢な構造を持ち、整備も比較的容易であった 23 。
これまでの比較では火縄銃が優位に見える点が多いが、燧石式銃にはそれを補って余りある戦術的な利点が存在した。それは、火種を必要としないことによる「即応性」と「隠密性」である。
燧石式銃は、装填さえ済んでいれば、撃鉄を起こすだけでいつでも発射準備が整う 10 。これにより、待ち伏せ攻撃や、行軍中の不意の遭遇戦において、即座に射撃することが可能であった。
対照的に、火縄銃は常に火のついた火縄を携帯し、その火を絶やさないように管理する必要があった。この火縄から立ち上る煙や特有の匂いは、特に隠密行動中には自らの存在を敵に知らせてしまうという致命的な欠点となった 10 。夜間戦闘においては、燃える火縄の光が格好の的となり、その戦術的価値を著しく下げた。護身用として懐に隠し持つことも、常に火を点けておく必要があるため困難であった 21 。
以上の比較分析をまとめると、以下の表のようになる。この表は、両者の技術的なトレードオフ関係を明確に示している。戦国時代の日本が火縄銃を選択し続けた背景には、燧石式銃の利点(即応性)よりも、火縄銃が持つ信頼性や命中精度、生産性といった利点を重視した、合理的な判断があったことがうかがえる。
$$\begin{array}{|l|l|l|} \hline \textbf{比較項目} & \textbf{火縄銃(日本瞬発式)} & \textbf{燧石式銃} \\ \hline \textbf{点火確実性(晴天時)} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{高} \\ 「生火」による直接点火のため、\\ 非常に確実 10 \end{tabular} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{中~低} \\ 火花の発生が多くの要因に依存し、\\ 不確実性が伴う [10, 13]\end{tabular} \\ \hline \textbf{耐候性(雨天時)} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{低}(ただし対策あり) \\ 雨覆いや雨火縄などの工夫で\\ ある程度対応可能 [16, 17]\end{tabular} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{中} \\ 火皿が保護されており、火縄銃より\\ 優れるが、完全ではない [10, 12]\end{tabular} \\ \hline \textbf{命中精度} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{高} \\ 瞬発式機構によりロックタイムが短く、\\ 衝撃も少ない 21 \end{tabular} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{中~低} \\ 撃発時の衝撃とロックタイムの遅れが\\ 精度を低下させる [10, 20]\end{tabular} \\ \hline \textbf{発射間隔} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{中} \\ 熟練すれば1分間に数発可能だが、\\ 火縄の管理が必要\end{tabular} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{中} \\ 火蓋を開ける必要がなく、若干\\ 短縮可能とされた 6 \end{tabular} \\ \hline \textbf{即応性・隠密性} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{低} \\ 常に火縄に点火しておく必要があり、\\ 煙、匂い、光で露見しやすい 10 \end{tabular} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{高} \\ 火種不要で即座に発射可能。\\ 待ち伏せや夜襲に適する 10 \end{tabular} \\ \hline \textbf{生産性・コスト} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{高} \\ 構造が単純で、分業による\\ 大量生産体制が確立 [22, 23]\end{tabular} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{低} \\ 構造が複雑で部品点数が多く、\\ 製造コストが高い 10 \end{tabular} \\ \hline \textbf{整備性・耐久性} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{高} \\ 構造が堅牢で、戦場での\\ 修理も比較的容易 [10, 23]\end{tabular} & \begin{tabular}[c]{@{}l@{}}\textbf{低} \\ ばねなどの部品が弱点となりやすく、\\ 修理が困難 10 \end{tabular} \\ \hline \end{array}$$
火縄銃と燧石式銃の比較は、後者が必ずしも全面的に優れた兵器ではなかったことを示している。しかし、それだけでは戦国日本における燧石式銃の「不在」を完全に説明することはできない。その背景には、技術的な問題、資源の制約、そして日本の社会・政治状況という、三つの要因が複雑に絡み合った、歴史の必然ともいえる構造が存在した。
燧石式銃の性能は、その名の通り「燧石(フリント)」の品質に大きく依存する。安定して強力な火花を発生させるためには、不純物が少なく、硬度と靭性を兼ね備えた特定の石材を、銃の撃発装置専用の形状(刃状)に加工する必要があった 8 。ヨーロッパ、特にイギリスやフランスでは、この銃用フリントの採掘から加工までを専門に行う職人「ナッパー」が存在し、一大産業を形成していた 8 。
日本においても、古くから火熾しのために火打石が用いられており、山城国の鞍馬山や阿波国の火打崎などが名産地として知られていた 24 。中には「海内の火打石第一品」と称されるほど高品質なものも存在した記録がある 25 。しかし、日常的な火熾しに用いる火打石と、銃器の撃発という極めて過酷な条件下で、数十発にわたって安定した性能を維持することが求められる銃用フリントとでは、要求される品質や形状、加工技術が根本的に異なる。
この点において、当時の日本には、銃用フリントに適した石材を安定的に、かつ大量に供給するための探査・採掘技術、そしてそれを精密に加工する専門的な技術体系が確立されていなかった可能性が極めて高い。実際に、幕末期に燧石式銃が輸入された際には、「日本の火打石は火花が弱くて不発になりやすく、あまり普及していません」という評価が下されている 13 。これは、鉱物資源としての燧石が日本に全く存在しなかったというよりも、それを軍事技術として大規模に活用するための「産業基盤の不在」が、燧石式銃導入の大きな障壁となったことを示唆している。技術の導入とは、単に設計図を模倣することではなく、その技術を支えるサプライチェーン全体の構築を伴う複雑なプロセスなのである。
燧石式銃が普及しなかった第二の、そしておそらく最も重要な要因は、日本の火縄銃がすでに驚異的なレベルにまで完成度を高めていたことにある。日本の鉄砲鍛冶たちは、伝来した技術に安住することなく、戦国の厳しい実戦要求に応えるべく、絶え間ない改良を重ねていた。
その最たる例が、前章でも触れた「瞬発式からくり」である 7 。これは、引き金を引く力と火縄を落とす動作が直結したヨーロッパの緩発式とは異なり、ばねの力を利用して瞬時に火縄を火皿に叩きつける機構であり、命中精度を飛躍的に向上させた日本独自の発明であった。また、刀鍛冶の伝統を受け継ぐ高度な製鉄・鍛造技術は、強靭で破裂しにくい銃身の製造を可能にし、銃自体の品質や信頼性においても、ヨーロッパ製を凌駕する場合さえあったと評価されている 3 。
このように、日本の火縄銃は、戦乱の続く日本の環境に特化する形で、極めて高度な進化、いわば一種の「ガラパゴス化」を遂げていた。この高度に最適化された既存技術の存在が、新しい技術である燧石式銃への転換を阻む「技術的ロックイン」と呼ばれる現象を引き起こした。燧石式銃が持つ即応性という利点は魅力的であったかもしれないが、その一方で、命中精度の低さ、信頼性の不安、そして生産コストの高さといった欠点が、すでに戦場で絶大な信頼を勝ち得ていた日本製火縄銃の牙城を崩すには至らなかった。つまり、多大なコストとリスクを冒してまで、既存の優れたシステムを捨てて新しいシステムに乗り換えるだけの、決定的なメリットが見出せなかったのである。
仮に、資源の問題や技術的なトレードオフを乗り越えるだけの強い動機があったとしても、その機会は歴史の流れによって失われた。1600年の関ヶ原の戦い、そして1615年の大坂の陣をもって、1世紀以上にわたって続いた戦乱の時代は終焉を迎える。徳川幕府による「天下泰平」の時代の到来は、大規模な軍事衝突の消滅を意味し、それは兵器の技術革新に対する国家的・社会的な需要が急速に失われることを意味した 3 。
江戸幕府は、治安維持と体制安定のため、諸藩の武力を制限し、銃器の製造や所持、移動を厳しく管理する政策を打ち出した 21 。これにより、かつて隆盛を誇った鉄砲鍛冶の技術開発は停滞する。火縄銃は、もはや合戦の主役ではなく、武士の武芸の一つ、あるいは農村部における鳥獣被害対策のための実用的な農具としての性格を強めていった 21 。このような状況下で、コストが高く、特殊な部品を必要とする新型銃(燧石式銃)を開発・生産する動機は、完全に失われたのである。
燧石式銃が普及しなかったのは、日本の技術力が劣っていたからではない。その動かぬ証拠が、軍事以外の分野で花開いた日本の精緻な機械技術にある。
江戸時代中期の天才発明家、平賀源内は、燧石式銃の撃発機構をそっくり応用した「刻みたばこ用点火器」を発明している 6 。これは、ぜんまいと歯車の力で火打石を叩き、もぐさに着火させるというもので、まさにフリントロック式の小型版であった。この事実は、燧石式銃の基本原理を理解し、それを製作するだけの十分な技術力が国内に存在したことを明確に示している。
さらに驚くべきは、日本独自の複雑な時刻制度「不定時法」に対応するために作られた「和時計」の存在である。季節によって昼夜の長さが変わる不定時法を機械式時計で正確に表示するため、日本の時計師たちは、二つの異なる速度で動く天符を自動で切り替える「二挺天符」や、文字盤の時刻表示駒が季節に応じて自動で移動する「割駒式文字盤」など、世界にも類を見ない独創的で複雑な機構を次々と発明した 30 。田中久重が製作した「万年自鳴鐘」に至っては、一度ぜんまいを巻けば一年間動き続けるという、当時の技術水準を遥かに超えた超複雑時計であった 34 。
これらの事実は、当時の日本の職人が、歯車やばね、カムといった機械要素を自在に操り、世界最高水準の精密機械を製作する能力を持っていたことを雄弁に物語っている。したがって、燧石式銃が戦国日本で普及しなかったのは、断じて「技術的に作れなかった」からではない。それは、資源、戦術、そして時代の要請という複合的な要因から、「作る必要がなかった」、あるいは「作るメリットがなかった」という、極めて合理的な「不採用」の帰結だったのである。
戦国時代という激動の時代に選択されなかった燧石式銃であるが、日本の歴史から完全に姿を消したわけではない。時代が下り、再び海外からの脅威が現実のものとなった時、この旧式の銃は皮肉にも日本の近代化の扉を叩く役割の一端を担うこととなる。
徳川幕府による鎖国政策の下、日本の軍事技術は2世紀以上にわたり停滞していた。しかし、長崎の出島は唯一西ヨーロッパに開かれた窓として機能し、オランダを通じて限定的ながらも西洋の文物や情報が流入し続けていた 35 。
19世紀に入り、欧米列強のアジア進出が活発化すると、日本の沿岸にも外国船が頻繁に出没するようになる。1808年(文化5年)にイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入した「フェートン号事件」は、幕府や一部の知識人に西洋の軍事力に対する強い危機感を抱かせた 36 。この事件を契機に、西洋式砲術の導入を痛感したのが、長崎の町年寄であった高島秋帆である。彼は私財を投じてオランダから大砲や小銃を輸入し、その研究と訓練に没頭した。この時、彼が導入した小銃が、ヨーロッパで広く使われていた燧石式の「ゲベール銃」であった 36 。高島は、1841年(天保12年)に江戸郊外の徳丸ヶ原で、幕府の役人たちの前でこのゲベール銃を用いた西洋式の軍事演習を披露し、その威力と効率性を示した。
しかし、この時点での導入は、あくまで高島秋帆のような先見の明を持つ一部の個人や、危機感を抱いた一部の藩による研究レベルに留まった。幕府全体として旧来の火縄銃を置き換えるほどの動きには繋がらず、燧石式銃が全国的に普及することはなかった。
1853年(嘉永6年)のペリー来航は、日本の長い眠りを強制的に覚ます衝撃的な出来事であった。欧米列強との圧倒的な軍事力の差を突きつけられた幕府や各藩は、雪崩を打って軍備の近代化に着手する。ここにきて、銃器の需要は爆発的に高まり、西洋式銃が大量に輸入され、また国内でも盛んに複製されるようになった 13 。
この近代化の初期段階において、安価で入手しやすかったゲベール銃などの燧石式銃も一定数が導入された 37 。しかし、この時点で燧石式銃はヨーロッパではすでに旧式化しており、より信頼性の高い新技術が登場していた。それが、撃鉄で雷管(パーカッションキャップ)を叩いて発火させる「雷管式(パーカッションロック式)」である 6 。雷管式は、燧石式が抱えていた不発の問題を大幅に改善し、より確実な点火を可能にした。
日本の鉄砲鍛冶たちは、輸入した燧石式ゲベール銃を、より信頼性の高い雷管式へと改造する技術を早々に習得した 41 。そして、時代はさらにその先へと進む。戊辰戦争(1868年-1869年)の頃には、薩長軍は射程と命中精度に優れる後装式のミニエー銃やスナイドル銃を主力とし、旧式のゲベール銃を主力としていた旧幕府軍の一部を圧倒した 11 。
結果として、日本における燧石式銃の時代は極めて短く、本格的な軍事装備として広く普及する前に、次世代の雷管式、そして後装式へとその主役の座を譲った。これは、250年間の技術的停滞の後、世界の最前線に一気に追いつこうとした幕末日本の、圧縮された技術革新の過程を象徴する出来事であった。戦国時代に「選択されなかった」技術は、数世紀の時を経て、より新しい技術への「通過点」として、日本の歴史にわずかな足跡を残したのである。
本報告書で詳述してきた通り、燧石式銃が戦国時代の日本で普及しなかったのは、単一の決定的な理由によるものではない。それは、技術、資源、そして社会という三つの側面からなる要因が複合的に作用した、歴史的な必然の帰結であった。
第一に、 良質な銃用燧石の安定供給という資源的・産業的制約 が存在した。燧石式銃の心臓部であるフリントは、単なる石ではなく、専門的な知見と技術によって採掘・加工される工業製品であった。当時の日本には、この銃専用フリントを大規模に生産する産業基盤が欠けており、これが導入の根本的な障壁となった。
第二に、 日本独自の進化を遂げた火縄銃という、強力な既存技術の存在 である。日本の鉄砲鍛冶は、瞬発式からくりに代表される画期的な改良を加え、命中精度と信頼性において世界最高水準の火縄銃を完成させていた。この高度に最適化された兵器の前では、燧石式銃が持つ即応性という利点は、命中精度の低下や信頼性の不安、コストの増大といった欠点を相殺するには至らず、全面的な技術転換を促すほどの魅力を持ち得なかった。
第三に、 戦乱の終結による軍事技術革新への需要の消滅 である。1615年の大坂の陣以降、日本は長期にわたる平和な時代に突入し、兵器開発を牽引する最大の動機であった大規模な合戦がなくなった。これにより、技術革新のサイクルは停止し、既存の火縄銃がそのまま維持されることになった。
これらの分析は、燧石式銃の「不在」が、日本の技術的劣後を示すものではないことを明確に示している。むしろ、その逆である。平賀源内の点火器や、和時計に見られる精緻なからくり技術は、当時の日本の職人が燧石式銃の機構を製作するだけの十分な、あるいはそれを凌駕するほどの機械技術力を保持していたことを証明している。
したがって、燧石式銃の「不採用」は、技術的な「不能」ではなく、当時の日本が置かれた特異な環境下における、極めて合理的な歴史的「選択」であったと結論付けられる。それは、ある技術の価値が、その絶対的な性能だけで決まるのではなく、それが導入される社会の資源的、技術的、そして政治的な文脈によって相対的に決定されるという、技術史における普遍的な法則を示す、示唆に富んだ一事例なのである。