戦国時代、農民の種籾保存用だった素朴な「種壺」は、侘び茶と見立ての美学により茶道具として珍重され、時代の価値観を映す象徴となった。
もとは農民たちが来季の豊穣を願い、大切な種籾を貯蔵するために用いた素朴な焼締の壺。後に「種壺」と総称されるこれらありふれた器が、戦国時代の茶人たちによって見出され、茶の湯の席で水を蓄える「水指」として、あるいは一輪の花を生ける「花入」として珍重された 1 。この事象は、単に美しい器が「発見」され、その用途が「転用」されたという単純な物語に留まるものではない。
本報告書は、この「種壺」の価値転換を、戦国という未曾有の社会・文化的大変革が生んだ、一つの必然的な帰結として捉え直すことを目的とする。この現象の背後には、三つの大きな歴史的潮流が存在する。第一に、華美を尊ぶ旧来の価値観に対抗する、新たな美意識「侘び」の確立。第二に、モノの本来の意味を読み替え、新たな価値を創造する知的遊戯「見立て」の流行。そして第三に、戦国大名や堺の豪商といった新興勢力が、文化的ヘゲモニーを掌握していくダイナミズムである。これら三つの潮流が交差する一点にこそ、「種壺」は時代の象徴として浮かび上がるのである。
本報告はまず、種壺が茶の湯以前に持っていた実用的な器としての起源を明らかにする(第一章)。次に、それが「侘び茶」の思想と「見立て」の美学によっていかにして文化的価値を獲得したかを詳述する(第二章)。さらに、信楽、備前といった主要な産地ごとの特徴と、茶人たちによる受容のされ方を具体的に分析し(第三章)、その美意識が「名物」と呼ばれる後代の茶道具にいかなる影響を与えたかを考察する(第四章)。最後に、これらの分析を通じて、一介の雑器がいかにして戦国の世を映す鏡となり得たのかを結論づける。
茶の湯の道具として光を当てられる以前、「種壺」は名もなき陶工たちの手によって、日々の暮らしを支えるために作られた実用の器であった。その価値転換の劇的な様相を理解するためには、まずその原点である、農村社会における機能性と、作為のない造形美の源泉に光を当てる必要がある。
中世日本の農村社会において、次代の生命を繋ぐ種籾の保存は、共同体の存続を左右する死活問題であった。収穫された種籾を、翌年の種蒔きまで湿気や鼠、虫害からいかにして守り抜くか。この切実な要求に応えるべく作られたのが、堅牢な焼締の壺であった 3 。
これらの壺は、その機能性において極めて優れていた。特に備前焼の壺は、通気性を保ちつつも水を通しにくく、「水を腐らせない」という特性を持つとされ、穀物や水の長期保存に最適であった 5 。釉薬を施さず高温で長時間焼き締める「焼締」の技法は、器に強度と耐久性を与え、日々の過酷な使用に耐えうるものであった 6 。壺によっては肩部に「耳」と呼ばれる突起が付いているものがあるが、これは単なる装飾ではなく、蓋を載せ、紐を通して固く縛るための実用的な意匠であったと考えられている 4 。
その優れた貯蔵機能から、用途は種籾の保存に留まらなかった。当時の記録や出土例からは、葉茶や味噌、胡麻油、さらには酒の醸造用など、多岐にわたる貯蔵容器として人々の生活に深く根差していたことが窺える 3 。まさに、暮らしの中から生まれ、暮らしを支えるための「用の器」であった。
「種壺」とは特定の産地や形状を指す固有名詞ではなく、主に中世から近世にかけて、日本各地の窯で焼かれた貯蔵用の壺に対する総称である。その代表的な産地として挙げられるのが、信楽、備前、丹波、常滑、瀬戸、越前からなる「日本六古窯」であった 2 。これらの窯では、古代の須恵器生産の技術的系譜を汲み、多くは釉薬(うわぐすり)を意図的に施すことなく、土をそのまま焼き締める手法が取られていた 3 。
ここに、後の茶人たちを魅了することになる美の源泉が存在する。これらの壺の作り手である陶工たちの関心は、芸術的な表現ではなく、あくまで実用的な器をいかに効率よく、かつ頑丈に作るかという点にあった。彼らが目指したのは美しさではなく、貯蔵性能であり、壊れにくさであった。しかし、その徹底した実用性の追求が、期せずして比類なき造形美を生み出すことになったのである。
窯の中で燃え盛る炎は、陶工の意図を超えて器に作用する。降りかかった薪の灰は、土の成分と溶け合って自然の釉薬となり、予期せぬ色の流れ(景色)を生む。炎の当たり具合によって土は赤く焼け、あるいは黒く焦げる。高熱の中で器体は僅かに歪み、陶工が土を捏ねた際の指跡やヘラの跡が、生々しい造形として刻まれる。これらはすべて、作り手が積極的に狙ったものではない、「無作為の造形」であった。茶人たちは、計算され尽くした中国渡来の美術工芸品(唐物)の完璧な美とは対極にある、この人間の技巧を超えた自然の作為、土と炎が織りなす偶然の美にこそ、深い精神性を見出すことになる。種壺の美の原点は、作り手の美意識ではなく、土と炎と実用性という三つの要素が織りなす「無作為の美」にこそあったのである。
一介の農具に過ぎなかった種壺が、なぜ戦国時代の文化シーンの表舞台へと躍り出たのか。その背景には、単なるモノの価値観の変遷に留まらない、思想的、美意識的な大革命が存在した。それは「侘び」という新たな精神性の勃興と、「見立て」という創造的な行為の流行である。この二つの潮流が交わる時、種壺は単なる器から、時代の精神を体現する文化的記号へと変貌を遂げる。
室町時代中期までの茶の湯は、足利将軍家や守護大名が主導する「書院の茶」が主流であった。そこでは、中国大陸からもたらされた豪華絢爛な絵画や工芸品、いわゆる「唐物」が珍重され、それらを飾り立てた広間で威勢を誇示することが一つの目的であった 9 。この唐物至上主義ともいえる価値観に、静かな、しかし根源的な異議を唱えたのが、侘び茶の祖と称される村田珠光であった。
珠光は「月も雲間のなきは嫌にて候」という言葉を残したと伝えられる 10 。雲ひとつない完璧な満月よりも、雲の合間から見え隠れする月にこそ深い趣がある、というこの思想は、完全無欠な美よりも、不足や不完全さの中にこそ真の美を見出すという、革命的な美意識の表明であった。さらに珠光は「和漢の境をまぎらかすこと肝要」と説き、唐物一辺倒の風潮を批判し、日本の風土から生まれた素朴な道具(和物)にも目を向け、その価値を認めることの重要性を唱えた 11 。
この珠光の思想をさらに深化させたのが、堺の商人であった武野紹鷗である。紹鷗は、侘びの精神を「冷え枯れる」という言葉で表現した 11 。これは、華やかさが削ぎ落とされ、本質だけが残った静寂で厳しい美の世界を指す。この思想の登場により、種壺のような、飾り気のない、土の肌合いを露わにした焼締の器が、美の対象として積極的に評価される素地が整ったのである。
しかし、ここで極めて重要な点を指摘しなければならない。「侘び」とは、単なる質素倹約や、高価な道具を持てないことの言い訳では断じてなかった。紹鷗は、弟子に宛てた書簡の中で「初心者がわけもなく備前焼や信楽焼などの和物を用いて、さも茶の湯の極意に達したかのような顔をするのは言語道断である」と厳しく戒めている 12 。彼によれば、真に「枯れた」境地とは、「まず第一等の良い道具(唐物)を持ち、その良さを骨の髄まで味わい尽くし、美に対する深い見識ができて初めて到達できる、『冷え』て『やせ』た境地」にこそあるという 12 。
これは、侘び茶の精神が、最高の贅沢を知り尽くした文化人たちが、その価値体系を自ら乗り越えようとする、極めて高度で知的な遊戯であったことを示している。種壺のような雑器の美を見出す行為は、物質的な価値基準から精神的な価値基準へと、意図的に価値観を転換させる試みであり、豊かな文化的素養を持つ者のみが享受しうる、洗練の極みにあった。それは貧しさの肯定ではなく、豊かさの超克だったのである。
侘びの思想が、種壺を評価するための「土壌」であったとすれば、それを茶の湯の世界に引き入れる具体的な「行為」が「見立て」であった。「見立て」とは、ある物を、それが本来持つ役割や意味とは別の物として「見なす」ことである 13 。その語源は、和歌や漢詩における比喩や掛詞といった修辞技法にあり、単に代用品をあてがう「代用」とは本質的に異なる 15 。
真の「見立て」は、単なる用途の変更ではない。それは、目の前のモノの姿や景色から、新たな物語や情景を立ち上げる(立てる)という、創造的な知的遊戯であった 16 。例えば、千利休が京都・桂川の漁師が使っていた魚籠(びく)を茶席の花入として取り上げた時、それは単に花の容れ物として機能しただけではない 18 。その魚籠は、茶室という閉ざされた空間に、桂川の清流のせせらぎや、素朴な漁師の営みといった「物語」を持ち込み、一座の客の想像力をかきたてる装置となったのである。
利休はこの「見立て」の精神を縦横無尽に駆使した。ありふれた水筒であった瓢箪を唯一無二の花入とし 13 、船に乗るための小さな潜り口から着想を得て、茶室の象徴である「にじり口」を創案した 13 。彼の功績は、日常の中に非日常的な美を「発見」し、茶の湯の世界を飛躍的に豊かにした点にある。
この観点から種壺の茶道具化を捉え直すと、その本質がより明確になる。種壺には、元来「茶道具としての価値」が内在していたわけではない。茶人がそれを「水指」として「見立てる」という創造的な行為によってはじめて、その価値はゼロから「創造」されたのである。この行為は、茶会を主催する亭主の美意識、教養、そして遊び心を示す絶好の機会となった。そして、招かれた客人もまた、その見立ての妙を読み解き、亭主が仕掛けた知的ゲームに応答するだけの見識が試された。
したがって、種壺の茶道具への転用は、単なるモノの移動ではなく、亭主と客人の間で行われる高度な精神的コミュニケーションの一環であった。それは、種壺というモノの物理的な属性(土の質感、形、窯変)を共通の「テクスト」として、亭主がそこに茶会のテーマや季節感、あるいは何らかの「物語」という新たな「コンテクスト」を付与し、客人がそれを解読し、共有するプロセスそのものであったと言える。価値は発見されるのではなく、創造されたのである。
「侘び」の思想と「見立て」の精神によって、価値転換の準備が整った種壺。しかし、茶人たちは手当たり次第に雑器を取り上げたわけではない。彼らは鋭い審美眼をもって、それぞれの産地の焼物が持つ個性を見抜き、自らの美意識に合致するものを選び抜いた。ここでは、特に戦国時代の茶の湯で愛された信楽、備前を中心に、その産地別の特徴と受容のされ方を具体的に分析する。
滋賀県甲賀市信楽。かつて琵琶湖の湖底であったというこの地の古琵琶湖層からは、良質な陶土が産出される 7 。その土は、石英や長石の粒を多く含んだ粗い質感が特徴で、これが信楽焼の個性を決定づけた 20 。釉薬をかけずに穴窯や登り窯で高温焼成すると、燃料である薪の灰が器に降りかかり、土中の長石分と溶け合って、美しい青緑色のガラス質となる。これは「自然釉」あるいは「ビードロ釉」と呼ばれ、窯の中の炎の加減で様々に変化し、流れるような景色を生み出す 19 。また、炎が直接当たった部分は赤褐色に発色し、「火色(緋色)」と呼ばれる温かみのある表情を見せる 19 。
この、人の計算を超えた土の力強さ、偶然が生み出す厳しくも美しい自然釉の景色、そして全体を覆う古びて寂びた風情は、まさに武野紹鷗が追求した「冷え枯れた」美意識と完全に共鳴するものであった 11 。茶人たちは、この信楽焼の壺に、華美な唐物にはない、日本の風土に根差した素朴で奥深い美を見出したのである。
室町時代後期から桃山時代にかけての茶会の記録には、信楽焼が水指として頻繁に用いられたことが記されている 20 。中でも、もとは農家で種子を貯蔵するために使われていたであろう小壺は、その丸みを帯びた姿が人がうずくまっているように見えることから「蹲(うずくまる)」という雅名を与えられ、花入として茶人たちにことのほか愛された 7 。無骨な土の塊が、一輪の野花を生けることで、茶室に凛とした生命感をもたらしたのである。
岡山県備前市伊部周辺で焼かれる備前焼は、信楽焼とはまた異なる魅力で茶人たちを虜にした。備前では、近隣の田畑から採れる「ひよせ」と呼ばれる、鉄分を多く含んだ粘土質の土が用いられる 5 。これを成形した後、釉薬を一切かけずに窯に詰め、一週間から十数日間にもわたって松の割木を燃料に焚き続ける 8 。この長く過酷な焼成の過程で、土と炎が対話し、二つとして同じものはない「窯変(ようへん)」と呼ばれる景色を生み出す。
備前焼の「景色」には、多彩な表情がある。窯の中で降りかかった灰が溶け、まるで胡麻を振りかけたように見える「胡麻(ごま)」 26 。窯の床で灰に埋もれ、酸素の少ない状態でいぶし焼きになることで生まれる、青、黒、灰色が混じり合った複雑な色合いの「桟切り(さんぎり)」 27 。器同士がくっつくのを防ぐために巻かれた稲藁が、土の鉄分と化学反応を起こし、鮮やかな緋色の襷(たすき)のような文様を残す「緋襷(ひだすき)」 28 。そして、大きな器の上に小さな器を重ねて焼いた際に、火が直接当たらなかった部分が丸く元の土の色を残す「牡丹餅(ぼたもち)」 26 。これらの景色はすべて、窯の中での作品の置かれ方や炎の当たり方という偶然の産物であり、その無限の多様性が茶人たちの蒐集欲と遊び心を刺激した。
備前焼と茶の湯の関わりは極めて古い。公家・山科教言の日記『教言卿記』には、応永13年(1406年)に彼が「備前茶壺」を購入したとの記述が見られる 3 。これは、千利休の時代より150年近くも前に、すでに備前焼の壺が茶の湯の世界で価値あるものとして流通していたことを示す、極めて重要な史料である。さらに時代が下り、戦国時代の茶の湯がまさに最盛期を迎えようとしていた元亀元年(1572年)には、堺の豪商であり当代随一の茶人であった今井宗久が、自らの茶会で「ヒセン(備前)水指」を用いている 3 。この事実は、備前焼が侘び茶の中心地で、確固たる地位を築いていたことを雄弁に物語っている。
信楽、備前ほど顕著ではないものの、他の古窯の焼物もまた、その素朴な魅力によって茶の湯に取り入れられた。兵庫県の丹波焼は、平安時代末期に始まり、当初は生活雑器を中心に生産していた 30 。その飾り気のない自然釉の味わいは侘び茶の精神に通じ、江戸時代前期には当代一流の文化人であった大名茶人・小堀遠州の指導のもと、「遠州丹波」と称される洗練された茶陶も作られている 32 。
また、信楽に隣接する三重県の伊賀焼は、同様の土を用いながらも、より高温で長時間焼成されることで、器体が歪み、豪快な焦げや分厚いビードロ釉が生じるのが特徴である 33 。その作為を超えた「破格の造形」は、特に桃山時代の武将茶人たちの豪放な気風に合致し、水指や花生に多くの傑作が生まれた 34 。これらの壺もまた、元をたどれば種壺と同様の生活雑器であり、見立てによってその価値を飛躍させたのである。
産地 |
主な歴史的背景 |
陶土の特徴 |
焼成方法と「景色」 |
茶人に見出された美 |
信楽焼 |
鎌倉後期開窯。農耕用の壺・甕が中心 19 。 |
粗く、長石粒(石はぜ)を多く含む 7 。 |
穴窯・登窯による無釉焼締。自然釉(ビードロ)、火色 19 。 |
「冷え枯れた」趣、土の力強さ、自然の作為 11 。 |
備前焼 |
平安後期から。須恵器が源流 3 。 |
鉄分を多く含む粘土質の田土(ひよせ) 5 。 |
長時間無釉焼成。窯変(胡麻、緋襷、桟切り、牡丹餅) 25 。 |
土と炎が作る無限の表情、用の健やかさ、土味の深さ 3 。 |
丹波焼 |
平安末期開窯。生活雑器を生産 30 。 |
鉄分を多く含む 37 。 |
穴窯・登窯。自然釉、赤土部など 36 。 |
飾り気のない素朴さ、温かみのある風情 32 。 |
伊賀焼 |
信楽に隣接。桃山期に茶陶で開花。 |
信楽と類似するが、より耐火度が高い。 |
高温焼成。豪快な焦げ、厚いビードロ釉 33 。 |
破格の造形、歪みやヘタリの景色 33 。 |
種壺に見出された「無作為の美」という価値観は、単なる一過性の流行では終わらなかった。それは、その後の日本の美意識、特に茶道具の価値基準を根底から変革し、新たな「名物」と称される傑作群を生み出す強大な原動力となった。この章では、種壺から始まった美意識が、いかにして深化し、結晶化していったのか、その影響の広がりを追う。
当初、茶人たちは既存の生活雑器の中から、自らの美意識にかなうものを「見立て」ていた。しかし、種壺に代表されるような和物の雑器の価値が社会的に確立されると、次なる段階として、その「無作為の美」を、意図的に作り出す試みが始まる。これは、茶人の好みを反映し、茶道具として使うことを前提として作られた「注文品」の登場を意味する 7 。
例えば、安土桃山時代の備前焼の中には、壺の胴や内側の見込み(底)に、特定の印が刻まれたものが存在する 38 。これらの印は、共同窯で焼かれた製品の中から自らの作品を識別するための窯印であると同時に、一部は茶道具として特別に作られたことを示す、いわばブランドマークのような役割を果たしていた可能性が指摘されている。特に、見込みに印があるものは一級品であるとの伝承もあり、実際に名品が多いとされる 38 。
ここに、「作為の無作為」という、一見すると矛盾した美意識の深化が見られる。価値の源泉は、作り手の意図を超えた「無作為」な景色にあった。しかし、その価値が広く認知されると、今度はその「無作為さ」を、人為的な「作為」によって再現しようとする動きが生まれる。このパラドックスは、文化の成熟過程においてしばしば見られる現象である。ある先進的な個人や集団によって見出された美のスタイルが、やがて社会的に共有され、様式化されていくプロセスそのものである。この段階に至り、侘び茶の美意識は、もはや一部の数寄者の個人的な発見の対象から、社会的に認知され、生産すら可能な一つの確立された「スタイル」へと昇華・定着したことを示している。種壺の美は、もはや「見出す」対象から、「作る」対象へと変化したのである。
種壺から始まった、ありふれた器に美を見出す精神の、究極的な到達点ともいえるのが、桃山時代に生まれた「名物」と称される一連の水指である。これらの器は、もはや単なる道具ではなく、武将たちが一国一城にも値すると考えたほどの、絶対的な価値を持つ文化的アイコンであった。
その代表格が、古伊賀水指 銘「破袋(やぶれぶくろ)」(五島美術館所蔵)である。この水指は、焼成の過程で高熱に耐えきれず、器体が大きく歪み、一部が破れたかのようにへたってしまった 33 。通常であれば失敗作として打ち捨てられるはずのこの形が、逆に計算された均整の美を嘲笑うかのような「破格の造形」として、当時の茶人たちから熱狂的に支持された 39 。燃え盛る炎に焼かれて赤く発色した土肌と、その上を滝のように流れ落ちる厚いビードロ釉の鮮やかな緑との対比は圧巻であり、人間の計算を超えた、土と炎と偶然が生んだ造形の極致と評される。
もう一つの名物が、信楽水指「鬼桶(おにおけ)」(湯木美術館所蔵ほか)である。この名は、本来、苧麻(ちょま)という麻の繊維を紡いで入れておくための民具「苧桶(おおけ)」が転じたものとされ、その出自が農村の日常にあったことを示している 40 。この水指が特筆すべきは、その伝来である。現存する「鬼桶」の箱には、武野紹鷗がこれを見て賞賛したことや、千利休の孫である千宗旦が自ら「これは古い信楽の水指である」と書き付けた箱書(はこがき)が残されている 41 。これは、種壺のような雑器からの「見立て」という行為が、もはや異端の試みではなく、茶の湯の歴史の正統の中に、その創始者たちによって明確に位置づけられたことを証明する動かぬ証拠である。
これらの「名物」の価値は、その物理的な造形美だけに由来するのではない。それらは、幾重にも重ねられた「物語」の結晶体なのである。「破袋」という銘(名前)そのものが、器の持つ「不完全さ」を欠点ではなく、むしろ最大の魅力として肯定し、物語化している。「鬼桶」は、その名の由来によって、常にその出自である「民衆の日常」という物語を背負い続ける。さらに、伊賀藤堂家伝来 33 や紹鷗所持 42 といった「伝来」の来歴が、器に新たな権威と歴史の物語を付け加えていく。これらの名物は、種壺から始まった「モノに物語を付与する」という見立ての精神の、いわば最終形態である。器そのものが持つ「土と炎の物語」の上に、茶人による「銘の物語」と、歴史上の人物たちが紡いできた「伝来の物語」が幾重にも積層し、唯一無二の価値を持つ「文化的結晶」へと昇華したのである。
本報告書で詳述してきたように、戦国時代における「種壺」の価値転換は、単なる陶磁器史上の一事象に留まるものではない。それは、日本の文化史における地殻変動を映し出す、極めて象徴的な現象であった。豪華絢爛な唐物を至上とする美意識に象徴された旧来の権威(足利将軍家、公家)から、内省的で質朴な「侘び」の精神を新たな価値として掲げる新興勢力(戦国大名、堺の商人)へと、文化の主導権が劇的に移行する時代のダイナミズムが、この素朴な壺の中に凝縮されている。
種壺の価値は、時代と共に多層的なものへと変化した。まず、無名の農民が日々の糧を得るために作った、純粋な実用の器としての価値(第一の価値)。それが商品として流通網に乗り、経済的な価値を持つに至る(第二の価値)。そして、侘び茶という新たな思想と出会うことで、その土くれの器は、深い精神性を帯びた美の対象へと昇華し、一国にも値するとされる文化的な価値を獲得したのである(第三の価値)。
この種壺の物語は、現代に生きる我々にも重要な示唆を与える。それは、モノの価値が絶対的・固定的なものではなく、時代や社会の価値観によっていかにダイナミックに変化し、また創造されうるかという事実である。ありふれた日常の中に非凡な美を見出す「見立て」の精神は、情報が溢れ、既成の価値観に追われがちな現代において、我々の生活や文化をより豊かにするための、普遍的な視座を提供してくれる。下剋上が常であった戦国の世の激しい緊張感と、そのような乱世であったからこそ希求された、静謐な内面への眼差し。その両義的な時代の精神が、一つの名もなき壺の中に、今なお静かに息づいているのである。