国宝「稲葉江」は、幻の刀工・江義弘作の名刀。稲葉重通が所持し、関ヶ原前夜に徳川家康から結城秀康へ託された。美術的価値と歴史的物語を併せ持つ。
国宝「刀 金象嵌銘天正十三十二月日江本阿彌磨上之(花押) 所持稲葉勘右衛門尉(名物稲葉江)」、通称「稲葉江(いなばごう)」は、日本の刀剣の中でも特異な輝きを放つ一振りである 1 。本報告書は、この一口の刀が持つ多層的な価値を、特にそれが生まれ、そして最も劇的な役割を果たした「戦国時代」という時代を基軸に、包括的かつ徹底的に解き明かすことを目的とする。
利用者が既に有する「稲葉重通が所持した、刀工・江義弘の作」という基礎情報を出発点としながら、本報告書ではその枠を大きく超える。すなわち、作者である「幻の名工」江義弘の実像、初代所持者・稲葉重通という一人の戦国武将の栄光、天下分け目の合戦前夜に徳川家康からその子息・結城秀康へと託された歴史的宿命、そして美術品としての卓越した価値と、近代から現代に至る数奇な伝来の全容を明らかにする。
稲葉江は、単なる武器や美術品という範疇に留まらない。それは、稲葉重通という武将が自身の栄達を刻んだ記念碑であり、徳川家康による天下統一戦略の象徴であり、そして江義弘という天才刀工の魂の結晶でもある。この報告書を通じて、一振りの刀が語る壮大な歴史物語を紐解いていく。
稲葉江を鍛えた刀工、江(郷)義弘(ごうのよしひろ)は、日本刀の歴史において最も高く評価されながら、その実像が謎に包まれた名工である。
義弘は、南北朝時代に越中国新川郡松倉郷(現在の富山県魚津市)で活動したと伝えられる 2 。その通称は右馬允(うまのじょう)とされ、本姓を大江氏とすることから「江」と称したという説、あるいは居住地の地名「郷」に由来するという説がある 4 。時代が下るにつれて「郷」の草書体が似ている「江」の字が当てられるようになり、特に江戸時代以降に定着した 5 。稲葉江の金象嵌銘が入れられた天正13年(1585年)の時点ですでに「江」の字が使われていることから、この呼称が古くから存在したことがわかる 5 。伝承によれば、義弘はわずか27歳という若さでこの世を去ったとされる、稀代の天才であった 3 。
その師については、相模国の五郎入道正宗、あるいは同じ越中の則重であったと伝えられており、特に正宗の優れた弟子たちを指す「正宗十哲」の一人に数えられている 3 。
義弘の作風の最大の特徴は、その地鉄の美しさにある。小板目肌が非常によく詰み、地沸(じにえ)と呼ばれる微細な粒子が厚くつき、全体が明るく冴えわたる様は、まるで澄み切った水面を思わせる 4 。これは、地鉄が黒ずんだ色合いを呈することが多い他の北国産の刀剣とは一線を画すものであり、義弘の技量の高さを物語っている 3 。刃文は、小湾れ(このたれ)に互の目(ぐのめ)が交じる華やかなものから、直刃調の穏やかなものまで作域は広い 4 。地刃ともに明るく冴えるその出来栄えは、師である正宗を凌ぐとさえ評される作も存在するほどである 7 。
江義弘の評価を語る上で欠かせないのが、「郷とお化けは見たことがない」という有名な諺である 3 。これは、義弘自身が銘を切った「在銘作」が今日一本も現存しないことに由来する 3 。現存し、義弘の作として伝わる刀はすべて、本阿弥家のような後世の鑑定家によって「義弘の作に間違いない」と極められた無銘の刀なのである 3 。
この事実は、逆説的に江義弘の権威を絶対的なものへと高める要因となった。在銘作が存在しないため、誰もが容易にその真贋を断定することはできない。その作であると最終的に判定を下せるのは、当代最高の審美眼を持つ本阿弥家のような権威に限られる。大名や天下人といった時の権力者たちは、本阿弥家によって「義弘」と極められた刀を手にすることで、単に優れた刀を所有するだけでなく、「最高の鑑定家によって認められた、幻の刀工の作」という二重の権威性を手に入れることができた。したがって、「郷とお化けは見たことがない」という言葉は、単にその希少性を嘆くものではなく、むしろその神秘性と、所有するために必要な審美眼や権威との繋がりを誇示する、一種のステータスシンボルとしての価値を強調する言葉として機能したのである。
江義弘は、山城国の粟田口吉光、相模国の五郎入道正宗と並び、徳川吉宗の命により編纂された『享保名物帳』において最高位の刀工として位置づけられる「天下三作(名物三作)」の一角を占める 5 。その卓越した作風は後世の刀工にも多大な影響を与え、新刀期の長曽祢興里(虎徹)や井上真改といった名工たちが、彼の作風を目標とし、その写しを制作しようと試みたことからも、その影響力の大きさが窺える 3 。
「稲葉江」の名は、その初代所持者である戦国武将・稲葉重通(いなばしげみち)に由来する。彼の生涯と、この刀に名を刻んだ背景を探ることは、稲葉江の本質を理解する上で不可欠である。
稲葉重通は、美濃の有力国人であり、織田信長の斎藤道三攻めを支援したことで知られる猛将・稲葉良通(一鉄)の庶長子として生まれた 13 。通称を勘右衛門尉といい、稲葉江の茎(なかご)に金象嵌で刻まれた「所持稲葉勘右衛門尉」の名は、まさしく彼を指すものである 1 。
重通は、はじめ織田信長に馬廻として仕え、本能寺の変後は父と共に羽柴(豊臣)秀吉の家臣となった 15 。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは戦功を挙げ、河内国に知行を加増されている 18 。その後も天正15年(1587年)の九州平定、天正18年(1590年)の小田原征伐といった秀吉の主要な戦役に従軍し、晩年には秀吉の側近である御伽衆の一員を務めた 15 。父・一鉄の死後、家督は嫡流である異母弟の貞通が継承したが、重通も美濃国清水に1万2000石を与えられて別家を立て、大名としての地位を確立した 15 。
稲葉江の歴史において、天正13年(1585年)という年は決定的に重要である。茎に刻まれた金象嵌銘には「天正十三十二月日」と鮮明に記されている 1 。この年は、稲葉重通の武将としてのキャリアが頂点に達した時期と完全に一致する。
この年の7月、重通は従五位下・兵庫頭に叙任される 15 。武家社会において官位を得ることは、その地位が公に認められたことを意味する。さらに同年8月には、秀吉の命令により、滅亡した姉小路氏の旧領である飛騨一国の支配を一時的ながら任されるという大役を拝命した 15 。
この一連の出来事は、重通が秀吉から高い評価と信頼を得ていたことを示している。一介の武将が、幻の名工・江義弘の傑作を入手し、それを当代の流行であった打刀に仕立て直し(磨り上げ)、さらに最高権威である本阿弥家の手で、高価な金を用いて自身の通称と日付を刻ませるという行為は、相応の財力と、それを許容されるだけの地位がなければ不可能であった。
したがって、この金象嵌銘は単なる所有者を示すための記録ではない。それは、稲葉重通が武将として最も輝かしい瞬間を迎えたことを記念し、その栄光を不朽のものとするために作られた「勝利の記念碑(トロフィー)」としての意味合いを強く持つ。この銘は、「この刀は稲葉勘右衛門の物である」という事実表示に留まらず、「従五位下・兵庫頭にまで上り詰めた稲葉重通が、その栄光の証として天下の名刀をこのように仕立てた」という、後世に向けた彼の矜持の表明そのものであったと考えられる。
稲葉重通は、後の三代将軍・徳川家光の乳母として絶大な権勢を誇った春日局(お福)の伯父にあたる 15 。春日局の母・安は重通の妹であり、父は明智光秀の重臣・斎藤利三であった。本能寺の変後、父・利三が処刑されると、幼いお福は母方の縁を頼り、伯父である重通の養女として引き取られた 15 。この縁が、後に春日局の夫である稲葉正成の系統が譜代大名として徳川幕府で栄える礎となり、稲葉家の歴史に大きな影響を与えることとなった 19 。
稲葉重通の誇りの象徴であった稲葉江は、彼の死後、日本の歴史が大きく動く転換点において、極めて重要な役割を担うことになる。その所有権の移動は、戦国時代の終焉と江戸幕府の成立という、権力構造の地殻変動を象徴する出来事であった。
稲葉重通が所持した後、この刀は次なる天下人、徳川家康の目に留まる。家康は優れた刀剣の熱心な収集家としても知られており、この名刀を所望し、五百貫という当時としては破格の値段で召し上げたと伝えられている 6 。豊臣政権下で栄達した武将の象徴であった刀が、次代の覇者である家康の手に渡ったこの出来事は、富と権威が豊臣から徳川へと移行しつつあった時代の流れを如実に反映している。
稲葉江が歴史の表舞台で最も劇的な役割を演じたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦前夜である。会津の上杉景勝討伐のため、家康率いる東軍本隊が下野国小山(現在の栃木県小山市)まで進軍していた時、石田三成らが大坂で挙兵したという報せが届く 6 。
世に言う「小山評定」である。ここで家康は、上杉討伐を中止し、全軍を西へ転進させて三成らを討つという天下分け目の決断を下す。この時、大きな懸念材料となったのが、背後で東軍を窺う会津の上杉勢と、北関東から東北にかけての諸大名の動向であった。家康はこの「奥州の押さえ」という極めて重要な任務を、自身の次男であり、勇猛で知られた結城秀康に託すことを決断した 6 。
『享保名物帳』などの記録によれば、当初、秀康は本隊から離れて宇都宮に残留するこの命令に不満を示し、西上軍の先鋒を強く望んだという 6 。しかし家康は、この任務の重要性を説いて秀康を諭し、彼への絶対的な信頼と大任を託す証として、秘蔵していたこの稲葉江と、軍を指揮するための采配を授けたとされている 6 。
この逸話は、稲葉江が単なる美しい刀や高価な褒賞品ではなく、国家の命運を左右する重要な局面において、父から子へ、最高司令官から方面軍司令官へと、戦略的な意図と信頼関係を伝えるための政治的シンボルとして機能したことを示している。稲葉江は、「豊臣の臣の刀」から「天下人の刀」へ、そして「徳川体制を支える親藩大名の刀」へと、その性格を変えながら歴史の舞台を渡り歩いた。その伝来を追うことは、そのまま日本の権力移行の歴史を追うことに等しいのである。
なお、秀康を祖とする津山松平家に伝わる『浄光公年譜』には、この時に家康から下賜されたのは備前福岡一文字派の「吉房」の太刀であったとする異説も記されており、報告の客観性を期すために付記しておく 6 。
稲葉江が持つ歴史的価値と並び立つのが、美術品としての卓越した完成度である。ここでは、江義弘の技量の粋を集めたこの名刀の、専門的な見所を詳述する。
本章で詳述する美術的特徴の基礎となる客観的データを以下に示す。これにより、刀の全体像と公的な評価を把握することができる。
項目 |
詳細 |
典拠 |
種別 |
国宝(工芸品) |
1 |
正式名称 |
刀〈金象嵌銘天正十三十二月日江本阿彌磨上之(花押)/所持稲葉勘右衛門尉(名物稲葉江)〉 |
1 |
時代 |
南北朝時代(14世紀) |
1 |
刀工 |
郷義弘(江義弘) |
2 |
刃長 |
70.9 cm (二尺三寸四分) |
6 |
反り |
2.0 cm |
6 |
元幅 |
2.9 cm |
6 |
先幅 |
1.9 cm |
6 |
鋒長 |
4.2 cm |
6 |
形状 |
鎬造、庵棟、大磨上、目釘孔1個 |
9 |
旧国宝指定 |
1936年(昭和11年)9月18日 |
6 |
国宝指定 |
1951年(昭和26年)6月9日 |
6 |
稲葉江は、もとは長大な太刀であったものを、安土桃山時代に流行した打刀として用いるために茎を切り詰めた「大磨上(おおすりあげ)」の刀である 9 。しかし、磨り上げられてなお、身幅は広く、重ねも厚く、鋒(きっさき)が大きく伸びた堂々たる姿を保っている 9 。これは、豪壮な造り込みを特徴とする南北朝時代の刀剣の特色を色濃く残しており、元の姿がいかに雄大であったかを想像させる 20 。
稲葉江の美術的価値の中核をなすのが、江義弘の真骨頂ともいえる地鉄の美しさである。鍛えは、細かな板状の模様である小板目肌が非常によく詰み、精緻を極めている 9 。その表面には、地沸(じにえ)と呼ばれる鋼の粒子が細かく厚くつき、光を反射してきらめく 9 。さらに、地景(ちけい)と呼ばれる黒く光る線状の働きが随所に見られ、地鉄に深い景色を与えている 7 。全体として、潤いに満ち、一点の曇りもなく明るく冴えわたる地鉄は、まさに至芸の域に達している。
刃文は、小湾れ(このたれ)と呼ばれる緩やかな波状の線を基調としながら、互の目(ぐのめ)という規則的な波形が交じる、変化に富んだ構成となっている 9 。焼刃と地の境界線である匂口(においぐち)は深く、小沸(こにえ)がよくつき、非常に明るく冴えている 9 。
刃中には、足(あし)や葉(よう)といった、匂口から刃先に向かう細かな線が無数に入り、生命感あふれる動きを見せる 9 。さらに、所々に見られる金筋(きんすじ)や砂流し(すながし)といった光の線が、刃文に複雑な表情と輝きを与えている 9 。これらの多彩な「働き」が一体となり、華やかで格調高い刃文を形成しているのである。
刀身の鎬地には、重量を軽減しつつ強度を保つための溝である棒樋(ぼうひ)が、表裏ともに掻き通されている 9 。そして、この刀の来歴を物語る最も重要な要素が、茎に施された金象嵌銘である。これは、当時の刀剣鑑定の最高権威であった本阿弥光徳が鑑定し、その証明として彼の花押と共に「天正十三十二月日」の日付と「所持稲葉勘右衛門尉」の名を刻ませたものである 6 。この鮮明な象嵌銘は、美術品としての価値に加え、歴史資料としての第一級の価値をこの刀に与えている。
関ヶ原の合戦前夜に結城秀康の手に渡った稲葉江は、その後、江戸時代を通じて一つの大名家で大切に守り伝えられ、近代以降は時代の荒波に揉まれながらも、奇跡的に現代へと継承された。
結城秀康は関ヶ原の合戦後、越前一国を与えられ、松平姓を名乗った。稲葉江は秀康とその子孫である津山藩松平家に、江戸時代を通じて代々受け継がれていく 6 。徳川吉宗が編纂させた『享保名物帳』にも、「松平越後守殿(津山)」の所持品としてその名が記載されており、江戸時代を通じて名刀としての評価が確立していたことがわかる 6 。
明治維新後も同家が所有し続け、昭和11年(1936年)には、当主であった松平康春子爵の所持品として、文化財保護法(旧法)のもとで国宝(通称「旧国宝」)に指定された 6 。
日本の歴史が大きく転換した第二次世界大戦の終結前後、稲葉江の運命もまた大きく動く。昭和20年(1945年)1月、津山松平家を離れ、中島飛行機の創業者一族であり、当代屈指の刀剣コレクターであった中島喜代一氏の所有となった 6 。この時、同じく国宝の「三日月宗近」や重要文化財の「亀甲貞宗」といった天下の名刀も同時に取得しており、戦中戦後の混乱期における文化財の移動の一端を垣間見ることができる 6 。
昭和26年(1951年)、新たな文化財保護法の下で国宝に再指定された際の所有者は、中島たま氏であった 6 。しかしその後、所有者の死去などに伴い、この名刀の所在は長らく不明となっていた 6 。
文化庁による所在確認調査などが行われる中、事態が動いたのは平成28年(2016年)であった。文化庁は、稲葉江の所在が確認されたと発表した。これは、平成27年(2015年)にこの刀を購入した個人が、所在不明文化財に関する報道を見て、自ら文化庁に連絡を入れたことによるものであった 6 。
そして2019年、山口県岩国市に本社を置く総合プラントメンテナンス企業、カシワバラ・コーポレーションがこの刀を取得し、同社が運営する公益財団法人柏原美術館(旧・岩国美術館)に寄贈した 6 。これにより、稲葉江は安住の地を得て、その姿を再び公衆の面前に現すこととなった。現在、稲葉江は同美術館の至宝として大切に収蔵されており、定期的に開催される展覧会でその輝きを鑑賞することができる 1 。
稲葉江の価値を正しく理解するためには、日本刀という広大な世界の中で、それがどのような位置を占めるのかを明らかにすることが重要である。
「天下三作」とは、刀工個人の技量を基準とした称号であり、山城国の粟田口吉光、相模国の五郎入道正宗、そして越中国の江義弘という、三人の至高の名工を指す 10 。稲葉江は、現存する江義弘の作刀の中でも、その出来栄え、健全さ、そして伝来の確かさにおいて群を抜いており、義弘の最高傑作の一つとして、また「天下三作」の一角を担うにふさわしい代表作と見なされている 22 。
しばしば混同されるが、「天下五剣」は「天下三作」とは異なる概念である。「天下五剣」は、室町時代頃から特に名高いとされてきた五振りの太刀、すなわち「童子切安綱」「三日月宗近」「鬼丸国綱」「大典太光世」「数珠丸恒次」を指す、個別の刀に対する称号である 26 。稲葉江は「天下五剣」には含まれない。この二つの称号は、選定の基準も時代も異なる、全く別個のカテゴリーであることを理解する必要がある。
江義弘の作と伝えられる名刀は、稲葉江のほかにもいくつか存在する。
これらの名刀はいずれも美術品として極めて高い価値を持つが、稲葉江はそれらに加え、他の「江」の刀にはない独自の物語性を宿している。それは、「一人の武将がキャリアの頂点で自身の名を刻んだ」という個人的な栄光の物語と、「天下分け目の合戦において、未来の天下人が後継者に国家の命運を託した」という壮大な歴史的物語である。この二重の物語性こそが、稲葉江を単なる「モノ」から、歴史的瞬間の「証人」へと昇華させ、その価値を唯一無二のものとしている。稲葉江を評価する際には、美術的側面と歴史的側面が不可分に結びつき、互いの価値を高め合っている「物語る文化遺産」として捉える必要がある。
最後に、しばしば混同される「稲葉天目」との関係を明確にしておく。「稲葉天目」とは、世界に三碗しか現存しない国宝「曜変天目茶碗」のうち、最も華麗とされる一碗の通称である 34 。この名は、徳川家光が乳母・春日局に下賜し、その後、春日局の嫁ぎ先である淀藩主稲葉家に長く伝来したことに由来する 37 。
一方で、「稲葉江」の名は、初代所持者である稲葉重通(春日局の伯父)に由来するが、刀そのものは早くに稲葉家を離れている。両者は同じ「稲葉」の名を冠する至宝であるが、その名の由来となった人物(家系)と伝来の経緯は全く異なる。この点を明確に区別することは、両者の価値を正しく理解する上で不可欠である。
国宝「稲葉江」は、江義弘という幻の名工の卓越した技、戦国武将・稲葉重通の燃えるような誇り、そして天下人・徳川家康の冷徹な決断という、幾多の情念と歴史の記憶をその刀身に宿している。それは、一人の武将の個人的な記念碑として生まれ、やがて時代の転換を象徴する政治的なシンボルとなり、数世紀にわたる大名家の秘蔵品として守られ、近代以降の混乱期を乗り越えてきた、まさに「歴史の結晶」と呼ぶべき存在である。
一時期の所在不明という危機を乗り越え、現在は美術館で大切に保管・公開されているその姿は、文化財を保護し、後世に伝えていくことの重要性を我々に改めて教えてくれる 6 。
稲葉江は、これからも戦国時代の気風と、そこに生きた人々の息吹を、その静謐な輝きの中に伝え続けるであろう。この名刀が語る物語に耳を傾け、その美と歴史を未来へと継承していくことは、現代に生きる我々に課せられた重要な責務と言えるだろう。