籠筒は、駕籠警護や内部応戦に特化した短筒。瞬発式機構で即応性に優れ、護身・奇襲・暗殺に活用された。要人警護や忍務で活躍した特殊火器。
日本の戦国時代は、鉄砲の伝来によって戦術、城郭の構造、そして武士の戦闘思想そのものが根底から覆された変革の時代であった。長大な銃身を持つ火縄銃が合戦の主役として戦場を支配する一方で、その影では特殊な状況下での運用を目的とした多様な形態の銃が開発、使用されていた。本報告書が主題とする「籠筒(かごづつ)」もまた、そうした特殊火器の一つとして、その名が示唆する謎に満ちた存在である。
利用者より提示された「籠筒は短筒の一種である」という基礎的な理解は、この兵器を探求する上での重要な出発点となる。しかし、この呼称は「国友筒」や「薩摩筒」といった生産地に基づく一般的な分類 1 、あるいは「士筒(さむらいづつ)」や「狭間筒(はざまづつ)」といった用途に基づく公式な分類 2 のいずれにも見られない、極めて特異なものである。この事実は、「籠筒」が特定の銃器モデルを指す固有名詞ではなく、その運用形態や機能に由来する通称、あるいは俗称であった可能性を強く示唆している。
本報告書では、この「籠筒」という呼称が、大名や公家といった高貴な身分の者が用いた乗り物である「駕籠(かご)」に深く関連する兵器、すなわち「駕籠を守るため、あるいは駕籠の中から用いるための短筒」を指すという中心的な仮説を立て、その実態の解明を試みる。戦国時代から江戸時代にかけて、鉄砲という新技術が社会に浸透していく過程で、騎馬戦闘や護身、奇襲といった多様な戦術的需要に応えるべく「馬上筒」や「短筒」といった小型火器が生まれた 1 。これらの兵器体系の中に「籠筒」を位置づけ、その構造的特徴、戦術的価値、そして武士社会における役割を、現存する史料の断片や類推、当時の社会的・技術的背景から多角的に分析し、徹底的に論考することが本報告書の目的である。
「籠筒」の実態を解明するにあたり、まずその基礎となる「短筒(たんづつ)」という兵器カテゴリーを明確に定義し、関連する他の小型火器との比較を通じてその特性を浮き彫りにする必要がある。
短筒とは、一般に全長が50cm以下の火縄銃を指す総称である 2 。その最大の特徴は、小型軽量化によって片手での操作を可能とした点にある。現存する資料や研究によれば、その全長は多くの場合30cmから40cm程度、弾丸の重量は2匁から3匁(1匁は約3.75g)程度であったとされる 2 。この徹底した小型化は、従来の長大な火縄銃では考えられなかった携帯性と取り回しの良さを実現し、腰に差したり、あるいは隠し持ったりすることを可能にした 2 。これにより、短筒は従来の合戦における集団運用とは異なる、個人的な戦闘や特殊な状況下での運用という新たな戦術的価値を獲得するに至った。
短筒としばしば比較対象とされるのが「馬上筒(ばじょうづつ)」である。馬上筒は、その名の通り馬上での使用を想定した騎兵銃であり、全長は50cmから80cm程度と、短筒よりは長いものの、標準的な火縄銃よりは短く作られている 2 。重要な差異は、馬上筒が基本的に両手で構えて操作するのに対し、短筒は片手での発射が可能である点にある 2 。
この物理的な差異は、両者が依拠する戦術思想の違いを明確に反映している。馬上筒は、騎射戦の名残や、関ヶ原の戦いにおける島津軍の「捨てがまり」戦法のように、計画的な戦闘の中で特定の役割を果たすために設計された兵器であった 2 。一方、短筒は、より突発的な近接戦闘、護身、あるいは奇襲といった、瞬間的な判断と即応性が求められる状況を想定して開発された。つまり、両者は単なる大小関係にあるのではなく、それぞれが異なる戦術的ニッチを埋めるために分化した、独立した兵器カテゴリーと理解すべきである。
「籠筒」という呼称の核心である「籠」の字義について考察する。この文字は、一般的には竹や籐で編んだ「かご(basket)」を指す 4 。また、武具の世界では腕を保護する「籠手(こて)」という用例もある 6 。しかし、これらの意味を火器である「筒」と結びつけるには、文脈的な飛躍が大きい。
ここで最も合理的かつ説得力のある仮説が、本報告書の中心をなす「駕籠(かご、palanquin)」との関連性である。駕籠は、戦国時代から江戸時代にかけて、大名や公家、高位の武士が用いた主要な乗り物であった 7 。これらの要人は常に暗殺や襲撃の危険に晒されており、その移動手段である駕籠は、極めて脆弱な標的であった。事実、徳川家康が関ヶ原の戦いで使用したとされる竹駕籠には、鉄砲の弾痕が残されているという逸話が存在し 8 、駕籠が実際に攻撃対象となっていたことを示している。
このような状況下では、駕籠の警護や、万が一警護が突破された際に内部から応戦するための専用の武器が必要となる。長大な鉄砲は、密集した行列の中や狭い駕籠の内部では全く役に立たない。対照的に、小型で取り回しに優れる「短筒」は、この特殊な用途に完全に合致する。したがって、「籠筒」という名称は、特定の銃器モデルを指す固有名詞ではなく、「駕籠の中から、あるいは駕籠を守るために用いられた短筒」という、その運用方法に由来する機能的な通称・俗称であったと結論付けるのが最も自然な解釈である。
名称 |
推定全長 |
銃身長 |
口径 |
弾丸重量(匁) |
主な用途 |
特徴 |
短筒 |
30 - 40 cm |
15 - 25 cm |
約1.3 cm |
2 - 3 |
護身、奇襲、近接戦闘、特殊用途(駕籠警護など) |
片手での操作が可能。携帯性に優れる 2 。 |
馬上筒 |
50 - 80 cm |
30 - 50 cm |
約1.0 - 1.3 cm |
約5 |
騎馬戦闘、計画的戦闘(捨てがまり戦法など) |
両手で操作する騎兵銃。短筒より射程と威力に優れる 2 。 |
忍び短筒 |
約29 cm |
約14 cm |
約1.3 cm |
不明(2匁程度か) |
暗殺、諜報活動、特殊破壊工作 |
極端に小型化され、身元を隠すため無銘が多い 10 。 |
この表は、それぞれの小型火器が持つ独自の戦術的価値を明確に示している。「籠筒」は、この中で「短筒」のカテゴリーに属しつつ、その中でも特に要人警護という極めて特殊かつ重要な任務に特化した存在であったと考えられる。
「籠筒」を含む日本の短筒が、戦術的に有効な兵器として成立し得た背景には、ヨーロッパから伝来した技術を独自に発展させた、日本特有の火縄銃機構の存在があった。その核心が「瞬発式カラクリ」である。
1543年に種子島に伝来した火縄銃は、その後、日本の刀鍛冶たちの手によって驚くべき速さで国産化された 11 。この過程で、日本で主流となったのは、引き金を引くと内蔵された強いバネの力で火縄を取り付けた火挟みが瞬時に火皿を叩き、発火させる「瞬発式(スナッピング式)」と呼ばれる機構であった 11 。
これは、当時のヨーロッパで主流であった「緩発式(シアロック式)」とは一線を画すものであった。緩発式は、引き金を引く力に連動して火挟みがゆっくりと火皿に降りていく仕組みであり、引き金を引いてから実際に発射されるまでに僅かながら時間差(タイムラグ)が生じた 14 。これに対し、日本の瞬発式は、引き金を引く動作と発射がほぼ同時のタイミングで起こるため、即応性と命中精度において格段に優れていたのである 12 。
この瞬発式機構の採用こそが、短筒という兵器カテゴリーの実用化を決定づけたと言っても過言ではない。その理由は、短筒が想定する戦術的状況と深く関わっている。馬上での片手射撃、不意の襲撃に対する護身、狭い場所からの奇襲など、短筒が用いられる場面は、いずれも瞬間的な判断と精密な照準が要求される 2 。
もし、これらの状況で緩発式の銃を用いた場合、引き金を引いてから発射までのタイムラグの間に標的が動いたり、射手自身の体勢が崩れたりして、狙いが外れる可能性が非常に高くなる。特に、不安定な馬上や狭い駕籠の中といった悪条件下では、この欠点は致命的であっただろう。
瞬発式機構は、このタイムラグを限りなくゼロに近づけることで、射手の意図した瞬間に弾丸を発射することを可能にした。これにより、動く標的や不安定な姿勢からの射撃成功率が劇的に向上したのである。つまり、瞬発式という技術的基盤が存在しなければ、短筒が戦術的に意味のある兵器として戦国時代の武士たちに受け入れられることはなかったであろう。これは、技術の革新が新たな戦術を生み出し、兵器の多様化を促した典型的な事例と言える。
火縄銃の国産化が進む中で、二大生産地として栄えたのが近江の国友村と和泉の堺であった 1 。これらの生産地は、それぞれ異なる特色を持つ銃を世に送り出した。
国友の鉄砲鍛冶が作る「国友筒」は、実用本位で質実剛健な作りが特徴であり、戦場で実戦を戦う武士たちの需要に応えた 17 。一方、貿易港として繁栄した堺で作られる「堺筒」は、実用性に加えて、豪華な象嵌(ぞうがん)や金具が施された美術工芸品としての一面も持ち合わせており、大名への献上品や贈答品としても重宝された 18 。
「籠筒」のベースとなった短筒もまた、これらの生産地で製造されたと考えられる。護身や暗殺といった実用性を最優先する場合には国友製のものが、あるいは要人がその権威を示すために所持する場合には堺製の華麗な装飾が施されたものが、それぞれの目的に応じて選択されたであろう。
「籠筒」を含む火縄銃の発砲には、一連の定められた手順と、それを補助する様々な装具が必要であった。まず、銃口から発射薬である「胴薬(どうぐすり)」と弾丸を入れ、朔杖(かるか)と呼ばれる棒で銃身の奥までしっかりと突き固める 16 。次に、機関部にある火皿に、より細かく燃えやすい点火薬「口薬(くちぐすり)」を盛り、湿気を防ぐために火蓋を閉じる。そして、あらかじめ火をつけておいた火縄の先端を火挟みに固定し、火蓋を開けて照準を合わせ、引き金を引くことで発射に至る 16 。
この一連の動作を円滑に行うため、武士たちは様々な装具を身につけていた。火のついた火縄を安全に持ち運ぶための「火縄入れ」、口薬を収納する「口薬入れ」、胴薬を入れる「火薬入れ」、そして弾丸と火薬を一つの筒に収め、装填時間を劇的に短縮する「早合(はやごう)」などがその代表である 21 。これらの装具一式が、火縄銃という兵器システムを構成する不可欠な要素であり、「籠筒」を運用する際にも同様の装備が必要であったことは言うまでもない。
小型で携帯性に優れる短筒は、集団戦での使用を主とする長大な鉄砲とは異なり、個人の武勇や智謀が問われる領域、すなわち護身と暗殺においてその真価を発揮した。「籠筒」もまた、この文脈の中で理解する必要がある。
江戸時代に入ると、幕府による銃規制(刀狩り)が行われたが、庶民であっても鳥獣駆除を目的とした「威し鉄砲」や、許可を受けた「用心鉄砲」の所持は認められていた 24 。武士階級にとっては、刀剣が「武士の魂」とされる一方で、鉄砲、特に短筒は実用的な護身用具として重要な位置を占めていたと考えられる。その携帯性の高さから、懐に忍ばせることが可能な短筒は、まさに「用心鉄砲」として重宝されたであろう 10 。
しかし、短筒の護身用具としての価値を考える上で、火縄式という機構がもたらす根本的な制約を無視することはできない。火縄銃は、発射の際に火種となる燃え盛る火縄が必須である。そのため、常に火のついた火縄を準備しておく必要があり、これを懐や衣服の下に隠し持つことは、火傷や衣服への引火の危険性が極めて高く、非現実的であった 25 。
この事実は、短筒による「護身」が、現代の拳銃のように「常時携帯し、脅威に対して即座に応戦する」という概念とは全く異なるものであったことを示唆している。映画や小説で描かれるような、懐から瞬時に取り出して撃つというシーンは、あくまで創作上の演出と考えるべきである。
では、戦国時代の「護身」とは、具体的にどのような状況を指したのか。それは、敵地への赴任、危険が予測される会合への出席、あるいは長旅の道中など、襲撃の蓋然性が高いと予測される状況下において、あらかじめ準備・配備しておくという、より限定的かつ計画的な運用を意味したと考えられる。例えば、従者が「火縄入れ」 21 のような専用の道具で安全に火種を管理し、主君の合図や有事の際に即座に銃に装着して手渡す、といった運用方法が考えられる。また、火打ち道具を携帯し、必要に迫られた際にその場で火縄に着火することも想定されたであろう 26 。したがって、短筒の護身用具としての価値は、「いつでも使える手軽さ」ではなく、「いざという時に、刀剣では対抗不可能な脅威を排除しうる、絶大な威力を持つ切り札」としての側面にこそあったと結論付けられる。
短筒が単なる護身具に留まらず、戦局を左右する戦略的な暗殺兵器として実際に使用されたことを示す、極めて貴重な事例が存在する。永禄9年(1566年)、備前の戦国大名・宇喜多直家が、敵対する備中の大名・三村家親を暗殺した事件である。
『備前軍記』などの記録によれば、直家の命を受けた遠藤又次郎・喜三郎兄弟は、家親が陣を敷いていた美作国(現在の岡山県)の興善寺に潜入。又次郎は隠し持っていた「二つ玉の短銃」で、仏壇に寄りかかって居眠りをしていた家親を狙撃し、その頭を撃ち抜いて殺害したとされる 27 。この記述は、短筒が暗殺という任務において、いかに有効な兵器であったかを雄弁に物語っている。隠密裏に標的に接近し、至近距離から確実に致命傷を与えるという、短筒の持つ特性が最大限に活かされた作戦であった。この事件は、一発の銃弾が一個人のみならず、一つの勢力の運命をも変えうることを示した、戦国史における画期的な出来事であった。
武士が用いた護身用武器は短筒だけではない。打刀よりも短い「脇差」や、鎧の隙間を突くための「鎧通し」といった刀剣類 28 、そして刀を持てない場所で重宝された「鉄扇」 30 など、多様な武器が存在した。
これらの白兵戦武器と比較した際、短筒の持つ利点は圧倒的である。それは、相手の間合いの外から一方的に、かつ絶大な威力で攻撃できるという点に尽きる。いかに剣術の達人であっても、銃弾の前では無力であった。一方で、鉄扇のように、より厳しい武器規制のある場所でも携帯できる利便性や、脇差のように次弾装填の必要なく連続して使用できる利点も存在した。
結局のところ、短筒はこれらの既存の護身武器を代替するものではなく、それらの弱点を補い、それらでは対応不可能な脅威に対抗するための、全く異なる次元の兵器であった。武士たちは、状況に応じてこれらの武器を使い分けることで、自らの生存確率を高めようとしたのである。「籠筒」もまた、この多元的な護身思想の体系の中に位置づけられるべき存在である。
本報告書の中心的な仮説である「籠筒=駕籠用の短筒」という見方を、当時の社会背景と具体的な運用シナリオから深く掘り下げる。大名行列という、華やかさと同時に常に危険と隣り合わせであった特殊な空間において、「籠筒」はどのような役割を果たしたのか。
江戸時代に制度化された参勤交代に代表される大名行列は、藩の威光を示す壮麗なデモンストレーションであったと同時に、藩主の身柄を江戸と国元の間で安全に輸送するための軍事行動でもあった。行列の中心に位置する藩主の乗る駕籠は、徒士侍(かちざむらい)と呼ばれる護衛の武士たちによって厳重に固められていた 32 。
その警戒は道中のみならず、宿泊地である本陣においても徹底されていた。紀州徳川家の事例では、藩主が寝る床の下に刺客の侵入を防ぐため、幅三メートルにも及ぶ鉄の延べ板を敷いていたという記録がある 34 。こうした事実から、大名や要人が日常的に暗殺の脅威に晒されており、その警護がいかに重要視されていたかがうかがえる。
警護が厳重であったということは、裏を返せば駕籠がそれだけ魅力的な攻撃目標であったことを意味する。前述の通り、徳川家康が関ヶ原の戦いで乗っていたとされる竹駕籠には弾痕が残っており、戦陣において駕籠が直接的な射撃目標となり得たことを示している 8 。
また、時代は下るが、幕末の安政7年(1860年)に発生した桜田門外の変は、駕籠が襲撃されるリスクを象徴する事件である。大老・井伊直弼の行列が水戸浪士らに襲撃された際、彦根藩の警護の武士たちは、雨天のために刀に柄袋を付けたままという不利な状況で応戦を強いられ、結果として直弼は駕籠の中で絶命した 35 。この事件は、平時と思われる状況下でさえ、駕籠とその搭乗者がいかに脆弱な存在であったかを物語っている。
これらの歴史的背景を踏まえると、「籠筒」とは単一の武器を指すのではなく、駕籠を中心とした統合的な防衛システムの一環として機能した、複数の運用形態を含む概念であった可能性が浮かび上がってくる。長柄の槍や通常の鉄砲は、密集した行列や狭い駕籠の内部では取り回しが極めて悪い。この問題を解決する最適な解こそが、小型の短筒、すなわち「籠筒」であった。
具体的には、以下の二つの運用シナリオが考えられる。
これら二つのシナリオは相互に排他的なものではなく、むしろ両立することで、より重層的な防衛体制を構築し得たはずである。「籠筒」という呼称は、これら両方の運用形態を包含する機能的な名称であったと考えるのが最も妥当であろう。
駕籠の内部から射撃を行うというシナリオには、戦術的な利点と同時に、無視できない欠点も存在する。
これらの利害得失を勘案すると、駕籠内からの射撃は、まさに窮地に陥った際の起死回生の一手であり、その使用には相応の覚悟が求められたであろう。
「籠筒」が要人警護という「守り」の側面で論じられる一方、短筒はその秘匿性から、忍者による諜報や暗殺といった「攻め」の側面でも重要な役割を果たした。
伊賀や甲賀といった忍者の里では、古くから火薬の扱いに長けた者が多く、火器は「忍器(にんき)」と呼ばれる特殊な道具・武器体系の中で極めて重要な位置を占めていた 37 。彼らは単に鉄砲を使用するだけでなく、大筒や木砲といった多様な鉄砲を開発し、巧みに操ったとされる 37 。
その技術力の高さは、戦国時代が終わった後の江戸時代においても評価されていた。徳川幕府は、江戸城の警備などを担う鉄砲部隊「百人組」として伊賀者や甲賀者を召し抱えており、彼らの鉄砲術が公的に認められた高度な専門技術であったことを示している 39 。
忍者が火器を用いる目的は、単なる敵の殺傷に留まらなかった。狼煙(のろし)を上げて遠くの味方に合図を送る、あるいは「百雷銃」と呼ばれる連続爆竹のような道具で大きな音を立てて敵を威嚇・攪乱する、「焙烙火矢」のような手榴弾状の兵器で陣地を破壊・炎上させるなど、その用途は多岐にわたった 38 。
短筒もまた、この文脈の中で理解する必要がある。すなわち、直接的な射殺兵器としてだけでなく、これらの多様な忍務を遂行するための多機能ツールとして活用された可能性が高い。例えば、音の小さい短筒で特定の標的を無音に近い形で暗殺する、あるいは逆に、わざと大きな銃声を発することで陽動を行うなど、状況に応じた使い分けがなされたと考えられる。
忍術における火器の重要性は、江戸時代に編纂された伊賀・甲賀忍術の集大成である忍術書『万川集海(ばんせんしゅうかい)』からも明らかである。この全22巻に及ぶ秘伝書には、「忍器四 火器編」および「忍器五 続火器編」という独立した巻が設けられており、多種多様な火薬の調合方法、松明、火矢、照明具、放火具などが詳細に記載されている 42 。
この事実は、忍術において火器がいかに体系化され、研究され、重視されていたかを示す動かぬ証拠である。短筒もまた、この精緻な火器体系の一部として、特定の忍務を達成するために特殊な改良が加えられ、独自の運用法が確立されていたと考えるのが自然であろう。
忍者によって用いられた短筒は、その特殊な用途から「忍び短筒」とも呼ばれ、いくつかの際立った特徴を持っていた。現存する作例や記録からその実像に迫ると、忍者にとっての短筒の価値が、単なる殺傷能力だけに留まらなかったことが見えてくる。
第一に、その極端な小型化と、「無銘」であることが挙げられる 10 。全長が30cmにも満たないような短筒は、衣服の下に隠し持つことを容易にする。そして、製造者を示す銘が意図的に刻まれていない「無銘」であることは、万が一捕らえられたり、武器を現場に残してしまったりした場合でも、その出所や使用者の身元が発覚することを防ぐための、まさに隠密行動を前提とした仕様であった。
第二に、その心理的効果の重要性である。忍務の目的は、必ずしも標的の殺害とは限らない。例えば、深夜の敵城内で一発の銃声を轟かせれば、城内の守備兵はたちまち大混乱に陥る。この混乱に乗じて重要文書を盗み出す、あるいは捕らえられた味方を救出するなど、銃声そのものが戦術的な目的を達成するための強力な手段となり得た。
したがって、忍者が用いた短筒は、敵を物理的に倒す「武器」であると同時に、敵の警戒網を破り、その心を乱すための「道具」でもあった。その価値は、弾丸が持つ物理的な破壊力と、銃声がもたらす心理的な影響力の両面に存在したのである。
本報告書では、「籠筒」という謎多き呼称を手掛かりに、戦国時代における特殊な小型火器の実像を探求してきた。以下にその分析結果を総括し、歴史的意義を論じる。
第一に、「籠筒」の実像について、本報告書はこれが特定の銃器モデルを指す固有名詞ではなく、主に大名などの要人が乗る「駕籠」の警護、あるいは駕籠内部からの応戦という、極めて特殊かつ重要な状況下で用いられた短筒の機能的呼称であったと結論付ける。この兵器は、常に襲撃の脅威に晒されていた要人にとって、最後の護身手段であり、警護体制の脆弱性を補うための重要な切り札であった。
第二に、「籠筒」は技術と戦術が結実した産物であった。その背景には、日本で独自に発展を遂げた「瞬発式」火縄銃の機構という技術的基盤があった。この即応性に優れた技術が、護身、奇襲、そして駕籠警護といった、瞬間的な判断が求められる特殊な戦術的要求と結びつくことで、「籠筒」という兵器カテゴリーは実用的な価値を獲得した。それは、戦国時代の武士たちが、新たな技術をいかにして自らの直面する多様な脅威に適応させようとしたかの証左に他ならない。
第三に、「籠筒」は時代の変化を象徴する武器であったと言える。長篠の戦いに代表されるような、集団戦術の中で数を頼りに運用された長大な鉄砲とは対照的に、「籠筒」は個人の武勇や智謀、そして覚悟が問われる近接戦闘や特殊戦闘の領域でその価値を発揮した。これは、大規模な合戦が中心であった戦乱の世から、個人の身分や役割がより固定化され、日常的な危険への備えが重要視される泰平の世へと移行していく過渡期において、武器の役割が多様化・専門化していく様を象徴する存在として評価できる。
本報告書は、現存する文献や資料、そして歴史的状況からの類推を基に、「籠筒」という一つの呼称から、戦国武士の戦闘思想や技術の有り様の一端を明らかにした。この謎多き兵器の探求は、我々が戦国時代を理解する上で、新たな視点を提供してくれる。今後、考古学的発見や未発見の古文書の中から、この「籠筒」という呼称を持つ具体的な銃、あるいはその運用を直接的に示す一級史料が発見されることに期待を寄せ、本報告の結びとしたい。