最終更新日 2025-08-12

米沢筒

米沢筒は上杉家存続のため直江兼続が開発した短銃身・大口径火縄銃。白布で極秘製造され、大坂の陣で「上杉の雷筒」と恐れられた。霞流砲術は通説と異なる。
米沢筒

米沢筒の深層 ― 上杉家の叡智と実戦思想の結晶

序章:米沢筒とは何か ― 既知の概念を超えて

日本の戦国時代が生んだ数多の火縄銃の中でも、特異な存在感を放つ「米沢筒」。一般には「他地域の鉄砲と比べ、銃身が短いのが特徴」であり、また「霞流という砲術を生み出した」という情報で知られている。本報告書は、この認識を出発点としつつも、その範疇に留まることなく、米沢筒の多面的な実像に深く迫ることを目的とする。

米沢筒は、単なる一地方の鉄砲ではない。それは、存亡の危機に瀕した上杉家が、その叡智を結集して生み出した「戦略兵器」であり、執政・直江兼続の合理的精神と先見性を映し出す「物質的証拠」であり、そして米沢という土地の地理的・文化的特性が生んだ「必然の産物」である。本報告では、この三つの側面から米沢筒を多角的に分析し、その本質を解き明かしていく。

さらに、本報告は利用者様の疑問の核心にある「霞流」の真相にも挑む。米沢藩の砲術史料と、他地域の武術史料を丹念に照合し、通説の検証を試みる。この探求を通じて、米沢筒をめぐる歴史の霧を晴らし、その真の価値を明らかにすることを目指す。一つの武具の深層を探る旅は、戦国の世を生き抜いた人々の知恵と誇りを読み解く、知的な探求となるであろう。

第一章:米沢筒の誕生 ― 上杉家の存亡と直江兼続の先見

1.1 関ヶ原後の苦境と鉄砲の戦略的価値転換

米沢筒の誕生を理解するためには、まずその背景にある上杉家の置かれた絶望的な状況に目を向けねばならない。慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの結果、上杉家は徳川家康によって会津120万石から米沢30万石へと、実に四分の一の規模にまで大減封された 1 。これは単なる領地の縮小に留まらず、動員可能な兵力、経済力、そして政治的影響力の劇的な低下を意味した。

この国家存亡の危機に際し、上杉家、特に藩政を実質的に主導した執政・直江兼続は、思考の根本的な転換を迫られた。もはや、かつての戦国大名のように領土拡大を目指す攻撃的な戦略は不可能である。いかにしてこの痩せた領国を守り抜き、家の存続を図るか。そのための国家的防衛戦略の構築が、喫緊の課題となった。

この守勢戦略の切り札として、兼続が着目したのが鉄砲であった。減封後の米沢藩における鉄砲生産は、織田信長や豊臣秀吉が行ったような、天下統一のための軍備増強とは全く性質が異なる。それは、限られた兵力で、隣接する伊達藩のような潜在的脅威に対抗するための、極めて合理的な防衛投資であった。なぜなら、鉄砲、とりわけ大口径のものは、少数の兵士で多数の敵を圧倒しうる「力の増幅器(フォース・マルチプライヤー)」として機能するからである。兵力で劣る弱者が、強大な敵の進撃を食い止め、その士気を挫く。この「非対称戦」を企図した戦略において、鉄砲はまさに要となる存在であった。したがって、米沢における鉄砲の重点的な生産と配備は、上杉家の存亡をかけた防衛戦略の、必然的な帰結だったのである。

1.2 直江兼続の秘密兵器開発プロジェクト ― 白布鍛冶場の設立

戦略を定めた兼続は、直ちに行動に移す。慶長9年(1604年)、彼は当代随一の鉄砲生産地であった近江国友村から鉄砲師・吉川惣兵衛を、そして自治都市として鉄砲生産の一大拠点であった和泉堺から泉谷松右衛門を招聘した 2 。これは、当時最高水準の技術を米沢に導入しようとする、明確な意図の表れであった。

そして、兼続はこの技術者たちを、城下ではなく、人里離れた山深い白布高湯(現在の白布温泉)に送り込み、そこに鍛冶工場を設けて火縄銃の極秘製造に着手させた 2 。その数は1000挺にも及んだと伝えられる 2 。このプロジェクトは、徳川幕府や周辺大名の監視の目をかいくぐり、藩の軍事的中核を再建するための、極めて大胆かつ周到な計画であった。

白布という場所の選定には、兼続の多角的な合理性が凝縮されている。その理由は、単に「人目を避けるため」という一次元的なものではない。第一に、山奥の僻地であることによる「秘密保持」。第二に、鍛冶に不可欠な木炭を供給する広大な森林と、火薬の原料の一つである硫黄を産出する火山地帯に近いという「資源確保」の利便性 3 。そして第三に、外部から招いた最高技術者集団を俗世から隔離し、開発作業に集中させるという「技術の囲い込み」。これら兵器開発における複数の重要条件を、白布という一つの場所が見事に満たしていたのである。それは、一種の隔離された研究開発施設として機能し、兼続の戦略的判断がいかに優れていたかを物語っている。

1.3 「鉄砲稽古定」に見る兼続の思想 ― 近代的マネジメントの萌芽

兼続の先見性は、鉄砲という「ハードウェア」の製造に留まらなかった。彼は、それを扱う「人間」と「組織」の重要性を深く理解していた。その思想が結晶したのが、鉄砲製造と並行して藩士たちに示した「鉄砲稽古定」十五ヵ条である 2

この規定は、単なる射撃技術のマニュアルではない。その内容は、教える者と教わる者の心構えといった精神論から、銃口の向きの注意、不発時の処置といった具体的な安全管理、さらには銃や火薬の貸し借りの禁止といった規律・兵站管理、そして稽古は実戦を想定して一発のみとするといった実戦的な訓練方針まで、極めて多岐にわたる 2

ここに、兼続の類稀なる組織マネジメント能力が見て取れる。彼は、鉄砲を単なる「モノ」としてではなく、「製造(ハードウェア)」「訓練(ソフトウェア)」「運用規律(ヒューマンウェア)」が三位一体となって初めて機能する「兵器システム」として捉えていた。この思想は、現代の軍事組織論やプロジェクトマネジメントにも通じる、時代を遥かに超越したものである。

さらに、有事の際には溶かして鉄資源として転用できるよう、平時には大鉄瓶として使用する「直江釜」を造らせたという逸話 5 は、彼の長期的かつ重層的な戦略思考、すなわち平時における資源備蓄という概念までをも見据えていたことを物語っている。優れた銃を造り、それを扱う兵士を育て、厳格な規律で組織を動かす。この体系的なアプローチこそが、のちに「上杉の雷筒」と恐れられる精強な鉄砲隊の礎を築いたのである。

第二章:米沢筒の構造的特徴と技術的背景

米沢筒は、その外見と構造に、米沢藩が置かれた地理的環境と、そこから導き出された独自の戦術思想を色濃く反映している。それは、堺筒のような美術品でも、国友筒のような汎用品でもない、明確な目的のために特殊進化した「専用兵器」であった。

2.1 形態分析:短銃身・大口径に込められた戦術思想

米沢筒を特徴づける最も顕著な点は、他国の鉄砲に比べて「銃身が短い」こと、そしてその短い銃身に不釣り合いなほどの「大口径」であることだ 6 。現存する遺物や記録によれば、その多くは十匁、二十匁、そして三十匁といった大口径の筒であった 4

この特異な形状は、デザイン上の偶然や未熟さの表れではない。それは、米沢藩の「山岳地帯における待ち受け・迎撃戦術」に特化した、極めて合理的な設計思想の結晶である。米沢藩の領国は山が多く、江戸や他国へ通じる街道は、板谷峠や十三峠に代表されるような、狭く険しい峠道が中心であった 9 。敵が侵攻してくるルートは自ずと限定され、待ち伏せや隘路での迎撃が最も有効な防衛戦術となる。

このような戦術思想が、米沢筒の形状を決定づけた。

第一に、「短銃身」は、見通しの悪い森林や狭隘な地形で、銃を素早く構え、方向転換することを容易にする。長大な鉄砲では取り回しが利かない場面で、その機動性は大きな利点となる。

第二に、「大口径」は、迎撃戦において絶大な効果を発揮する。待ち伏せ戦では敵との交戦距離は比較的短くなるため、長大な射程は必ずしも必要ではない。それよりも、至近距離で放たれる一撃の破壊力が重視される。大口径の弾丸は、当時の甲冑を貫通しうるほどの威力を持っていた 11。

第三に、大口径が生み出す「轟音」である。狭い谷間や森で反響するその大音響は、敵兵に多大な恐怖を与え、その士気を挫く心理的効果を持つ。特に、騎馬武者の馬を驚かせ、混乱させてその機動力を奪う効果も期待された 12。

このように、米沢筒の「短銃身・大口径」という特徴は、平野での大規模な会戦ではなく、自領の地勢を最大限に活かした防衛戦を想定した、いわば「要害の地形」が生んだ特殊進化の形であり、適者生存の証左なのである。

2.2 鑑定の要点:堅牢性を物語る独自の意匠

米沢筒の鑑定における要点は、その実用性と堅牢性を追求した独自の構造に見出される。堺筒に見られるような華美な装飾 13 はほとんどなく、すべてが過酷な実戦での使用に耐えるために設計されている。

主な特徴として、以下の三点が挙げられる 14

  1. 台しめ金による固定 : 銃身と銃床(台木)を、伝統的な目釘ではなく、金属の輪(バンド)とネジを用いた「台しめ金」のみで固定している 6 。この方式は、射撃の強い衝撃に対する耐久性が高く、また分解・整備が比較的容易であったと考えられる。
  2. 大きく頑丈な用心鉄 : 引き金を保護する用心鉄(トリガーガード)が、鉄製で非常に大きく、頑丈な作りになっている 6 。これは単なる保護部品としてだけでなく、銃全体、特に機関部(カラクリ)の剛性を高める補強材としての役割も担っていた可能性がある。
  3. 下方に湾曲した銃床 : 銃床の末端が、下方へ強く湾曲している 6 。これは大口径の強い反動を肩で受け止め、制御しやすくするための工夫と考察される。

これらの特徴は、米沢筒が「鑑賞品」ではなく、あくまで「戦場の道具」として、徹底した実用本位の思想で設計されたことを雄弁に物語る物証である。また、その外観は土浦の鉄砲(關流砲術で用いられる銃)と類似性が指摘されており、技術的な交流があった可能性も示唆されている 6

2.3 製造技術と物理的諸元

米沢の鉄砲師たちは、国友や堺から招聘された経緯から、当時の最高水準の鍛造技術を駆使していたと考えられる。鉄板を心金に巻き付けて筒状にし、合わせ目を鍛接する「うどん張り」と呼ばれる技法や、銃身の強度を高めるために鉄の薄板を螺旋状に巻き付けて鍛接する「葛巻」といった技術が用いられたであろう 17 。これにより、大口径の強大な爆発圧力に耐えうる、強靭な銃身が造られたのである。

米沢筒の物理的な特性を具体的に把握するため、宮坂考古館が所蔵する代表的な遺物のデータを以下にまとめる。

【表1:米沢筒の主要諸元】

種別

口径

銃身長

全長

出典

米沢藩三十匁火縄筒

2.8 cm

63.3 cm

94.3 cm

1

米沢藩二十匁火縄筒

2.5 cm

63.7 cm

93.2 cm

1

米沢藩十匁火縄筒

1.9 cm

64.1 cm

93.8 cm

1

この表から、全長が1メートルに満たない短い銃であるにもかかわらず、三十匁筒では口径が3センチに迫るという、その異質な設計思想が数値からも明確に読み取れる。一般的な火縄銃の口径が二匁から三匁(約1.2 cm - 1.4 cm)程度であったことを考えれば、その大口径ぶりは際立っている。

2.4 日本の火縄銃史における米沢筒の位置づけ

日本の火縄銃は、生産地ごとに独自の発展を遂げ、多様な「お国柄」を形成した。その中で米沢筒がどのような位置を占めるのかを理解するため、他の主要な生産地の鉄砲と比較する。

【表2:主要鉄砲生産地の特徴比較】

生産地

外見・構造上の特徴

設計思想・評価

主要な機関部

出典

米沢筒

短銃身・大口径。鉄製の大きな用心鉄。台しめ金で固定。

実戦での破壊力と堅牢性を最優先した「特定戦術特化型」。

ゼンマイカラクリが多い。

6

堺筒

八角銃身。銃床に美しい飾り金具。美術工芸品としての価値が高い。

豪華絢爛な「ステータスシンボル」。武将への贈答品としても重用。

平カラクリ。

13

国友筒

機能性重視で飾りは少ない。良質な鉄を使用し、信頼性が高い。

幕府御用達の「実用量産品」。一流ブランドとして武将に信頼された。

平カラクリ、外カラクリなど多様。

13

仙台筒

八角と丸の銃身。用心金がなく、銃床に火縄通しの穴が必ずある。

伊達藩の質実剛健な気風を反映した、独自の様式。

外記カラクリ。

15

備前筒

丸みを帯びた「備前柑子」が銃身後端に必ずある。鉄製の平カラクリ。

独特の意匠を持つ、地方色豊かな実用銃。

鉄製の平カラクリ。

15

この比較から、米沢筒が日本の多様な火縄銃文化の中で、いかに特異な存在であったかが浮き彫りになる。堺の「美術工芸品」、国友の「機能本位の量産品」といった二大ブランドに対し、米沢筒は「特定戦術特化型兵器」という、他に類を見ない独自の立ち位置を確立している。それは、単なる模倣や亜流ではなく、上杉家の置かれた厳しい現実と、それを乗り越えようとする明確な目的意識から生み出された、独創的な存在であった。

第三章:米沢藩の砲術 ― 実戦を貫く射法と流派

米沢筒という優れたハードウェアは、それを最大限に活用するための運用思想、すなわち独自の砲術と分かちがたく結びついていた。米沢藩の砲術は、儀礼的な美しさよりも、戦場での有効性をひたすらに追求する、実戦的な性格を色濃く持っていた。

3.1 「上杉の雷筒」― 大坂の陣で轟いた武名

直江兼続が心血を注いだ鉄砲開発と訓練の成果が、天下に鳴り響いたのが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣であった。この戦いに参陣した上杉軍は、50挺の大筒と680挺の鉄砲という、当時としては破格の火力を持ち込んでいた 5

上杉軍は、大坂城に向けて大筒を一斉に放った。その轟音は雷鳴にも勝るほど凄まじく、城内の人々を恐怖のどん底に陥れたと伝えられる。特に、豊臣方の総大将であった淀殿は、この「上杉の雷筒」の音に震え上がり、戦意を喪失して和議への道を歩む一因になったとまで言われている 5 。また、実戦においても、鴫野の戦いで上杉鉄砲隊は目覚ましい活躍を見せ、その功績により徳川秀忠から感状を授けられている 2

この「雷筒」の伝説は、極めて重要な示唆を含んでいる。それは、米沢筒が単に弾丸を投射する物理的な兵器としてだけでなく、敵の士気を砕く「音響兵器」「心理兵器」としての側面を強く意識されていたことである。堅固な城郭に対する攻城戦において、物理的な破壊力以上に、城内の人々の心を折り、戦意を喪失させる心理的効果は絶大である。大坂の陣での成功体験は、その後の米沢藩における大口径・大音量への志向を決定づけ、藩の砲術のアイデンティティを形成する上で大きな役割を果たしたと考えられる。

3.2 米沢藩の砲術流派 ― 実利を求めるプラグマティズム

米沢藩の砲術に対する姿勢は、一つの流派の権威に固執することなく、実戦での有効性を最優先する、極めてプラグマティック(実利的)なものであった。藩内には、時期に応じて様々な流派が導入され、互いに競い合う環境が作られていた。

上杉家が最初に導入した流派は、景勝公の上洛時に鉄砲組を編成した際に用いられた岸和田流であった 1 。米沢移封後は、種子島流の丸田九左ェ衛門盛次や、当時最も先進的な砲術とされた稲富流の大熊伝兵衛といった高名な砲術家を召し抱え、彼らを鉄砲頭として重用した 1 。江戸中期、上杉鷹山公の時代には森重流も招かれている 1 。その他にも、小野里流、關流、そして後述する霞流など、複数の流派が藩内に存在した記録がある 1

この状況は、米沢藩が砲術流派の「総合商社」あるいは「セレクトショップ」のようであったことを示している。藩の目的は、特定の流派の看板を守ることではなく、あくまで戦闘に勝利することであった。そのため、各流派の長所(例えば、稲富流の集団射法や關流の大筒射法)を柔軟に吸収し、自藩の実情に合わせた最適な砲術体系を構築しようとしたのである。この実利を重んじる姿勢こそが、米沢藩砲術の強さの源泉であった。

3.3 集団運用の妙 ― 実戦射法の継承

米沢藩の砲術が特に重視したのは、個人の射撃技術もさることながら、集団として火力を最大化する運用法であった。火縄銃の最大の弱点は、一発撃つごとに弾込めが必要で、連射速度が遅いことである。この欠点を克服するため、長篠の合戦で織田信長が用いたとされるような、実戦的な集団射法が徹底して訓練された 1

その代表が、鉄砲隊を三隊に分け、一隊が射撃している間に他の隊が弾込めを行い、間断なく連続して発砲する「段打ち(段射ち)」である 1 。これにより、途切れることのない弾幕を形成し、敵の突撃を阻止する。現代に継承されている演武においても、基本的な立ち撃ちや膝撃ちのほか、地面に伏せた姿勢で撃つ「這い撃ち」など、儀礼的ではない実戦的な射法が中心となっている 4 。これらは、米沢藩の砲術が、いかに戦場の現実を見据えていたかを示すものである。

3.4 霞流砲術の真相 ― 通説の検証と結論

さて、利用者様が当初の認識として提示された「米沢が霞流を生み出した」という説について、ここで詳細な検証を行う。

まず、武術史において「霞流(かすみりゅう)」として全国的に著名なのは、常陸国(現在の茨城県)の戦国武将、真壁氏幹(まかべうじもと)が創始した**棒術(杖術)**の流派である 22 。これは刀ではなく、樫の棒を用いて戦う武術であり、その使い手であった真壁氏は「鬼真壁」と恐れられた。この霞流棒術が、米沢藩で創始されたという記録は存在しない。

一方、米沢藩の史料を調査すると、藩に伝わった砲術流派のリストの中に「霞流」という名称が確かに見られる 1 。しかし、これは稲富流や種子島流といった主流派と並んで数ある流派の一つとして名前が挙げられているに過ぎず、その創始者や具体的な内容、藩内での位置づけなど、詳細を伝える史料は確認できない。米沢藩がこの「霞流砲術」を創始した、あるいはそれが藩の砲術の主流であったという直接的な証拠は、収集した資料の中には見出すことができなかった。

この食い違いをどう解釈すべきか。最も合理的な結論は、「歴史的情報の混同」である。すなわち、(A) 全国的に有名でインパクトの強い「霞流棒術」の名称と、(B) 米沢藩に存在したとされる、同名あるいは類似名を持つマイナーな砲術流派が、長い年月の間に人々の中で混同され、やがて結合して「米沢は霞流砲術を生んだ地」という伝承が形成された可能性が極めて高い。有名な武術流派の名前が、別の地域のあまり知られていない同名の流派や、全く別の事象に、後世の人々によって結びつけられてしまうことは、歴史伝承においてしばしば見られる現象である。

したがって、本報告としては、「 米沢藩が霞流砲術を創始した、あるいはそれが主流であったという説は、現状の史料からは確認できず、著名な霞流棒術との混同から生まれた通説である可能性が高い 」と結論づける。米沢藩の砲術の神髄は、特定の流派の創始にあるのではなく、稲富流などを中心に諸流派の長所を取り入れた、実戦的な集団運用法にあったと見るべきである。

第四章:戦国から現代へ ― 米沢筒の遺産と継承

戦国の世が終わり、徳川の泰平が訪れると、米沢筒とその砲術の役割もまた、大きな変容を遂げていく。実戦の道具から、武家の誇りと伝統を象徴する存在へ。そして、その精神は幾多の危機を乗り越え、現代にまで脈々と受け継がれている。

4.1 泰平の世における練磨 ― 「鉄砲上覧」の意味

戦乱が終息した江戸時代においても、米沢藩では藩士による鉄砲訓練が途絶えることはなかった。特に、正月に藩主の前で日頃の訓練の成果を披露する「鉄砲上覧」は、藩士にとって最高の栄誉であり、重要な晴れ舞台であった 4

実戦の機会がなくなった時代において、この「鉄砲上覧」が持った意味は大きい。それは、単なる軍事訓練の成果発表会ではなかった。上杉謙信以来の「尚武(武を尊ぶ)」の気風と、関ヶ原以降の苦難を乗り越えて家名を保ったという「誇り」を、世代を超えて藩士たちに再認識させ、藩への帰属意識とアイデンティティを強固にするための、文化的・精神的な装置として機能していたのである。轟音を城下に響かせることは、平時においても「我ら上杉、武備を怠らず、未だ健在なり」と内外に示す、象徴的な行為であったのだ。

4.2 近代化の波と伝統の灯火

明治維新という大変革の波は、武士の世を終わらせ、伝統的な砲術にも存続の危機をもたらした。藩制度の解体とともに、鉄砲訓練は次第に途絶えていった 4

しかし、その灯は完全には消えなかった。転機となったのは、明治38年(1905年)の日露戦争・旅順陥落祝勝会である。この催しで行われた甲冑行列と川中島合戦の模擬戦において、旧藩士らによって砲術が披露された 4 。これが大きな反響を呼び、米沢の武の伝統を絶やすまいとする気運が高まった。これをきっかけに、宮坂善助翁といった中心的人物を擁する旧藩士らによって「尚武要鑑会」が結成され、上杉神社の例大祭などで演武が奉納されるようになり、伝統は復活の道を歩み始めた 1 。大正14年(1925年)には、米沢を行啓された皇太子殿下(後の昭和天皇)の前でも、三十匁筒隊が見事な発砲を披露している 23

その後、組織は第二次世界大戦による一時中断を挟みながらも、昭和30年(1955年)に「米沢尚武要鑑会」として再興。昭和36年(1961年)には「上杉藩火縄筒保存会稲富流砲術隊」となり、昭和54年(1979年)に現在の「米沢藩古式砲術保存会」へと改称・再編され、その伝統を現代に繋いでいる 1

4.3 現代に生きる「雷筒」

現在、米沢の砲術は「米沢藩古式砲術保存会」と、上杉神社直轄の「上杉砲術隊」(昭和43年結成)という二つの団体によって継承されている 4 。彼らは、米沢最大の祭りである「米沢上杉まつり」での川中島合戦模擬戦を始め 4 、東京・札幌オリンピックや国民体育大会、さらにはフランスやスペインでのジャパンウィークなど、国内外の様々な舞台でその勇壮な発砲演武を披露している 1

彼らの演武で用いられるのは、藩政時代から伝わる十匁から三十匁の大筒である 4 。その凄まじい発砲音と、空気を震わせる大迫力は、観る者に強烈な印象を与える 25 。それは、米沢の歴史と文化を伝える、生きた文化遺産となっている。

現代における演武は、単なる歴史の再現ではない。甲冑を身にまとい 20 、実戦さながらの射法を行い 4 、腹の底に響く轟音と火薬の匂いを五感で体感することは、文献を読むだけでは決して得られない、米沢の歴史的記憶の「身体的継承」と言える。それは、演じる者と観る者の双方にとって、四百年の時を超えて「上杉の雷筒」の記憶と、その根底にある不屈の精神を共有する、貴重な文化的体験となっているのである。

結論:米沢筒が物語るもの

本報告書は、「銃身が短く、霞流を生み出した」という米沢筒に関する一般的な認識を起点に、その深層を多角的に探求してきた。調査の結果、米沢筒の実像は、当初の認識を遥かに超える、豊かで重層的な物語を内包していることが明らかになった。

第一に、米沢筒は単なる「銃身の短い鉄砲」ではなく、関ヶ原後の大減封という逆境の中から生まれた「生存戦略の結晶」であった。限られた兵力で、山国の地の利を最大限に活かし、強大な敵を迎え撃つ。そのための「非対称戦」を想定して設計された、短銃身・大口径という特異な形状は、上杉家の置かれた厳しい現実と、それを乗り越えようとする人々の知恵の証左である。

第二に、その開発と運用を主導した直江兼続の存在である。彼は、鉄砲というハードウェアの製造だけでなく、訓練法や規律といったソフトウェア、ヒューマンウェアまでを一体の「兵器システム」として構想した。その合理的かつ体系的な思考は、米沢筒を単なる武具から、藩の存亡をかけた戦略的資産へと昇華させた。米沢筒は、まさに兼続の「合理的精神の具現」であった。

第三に、利用者様の疑問の核心であった「霞流」の問題については、米沢藩が霞流砲術を創始、あるいはそれを主流としたという説は、現状の史料からは確認できず、常陸国の著名な「霞流棒術」との歴史的情報の混同から生まれた通説である可能性が極めて高いと結論づける。米沢藩砲術の本質は、稲富流などを中心に諸流派の長所を実利的に取り入れた、実戦的な集団運用法にあった。

そして最後に、米沢筒は過去の遺物ではなく、その轟音と精神を現代に伝える「生きた歴史の語り部」である。泰平の世には武家の誇りを支え、近代化の波に一度は消えかけながらも、人々の情熱によってその灯は守られた。現代の演武で響き渡る音は、四百年の時を超え、我々に上杉家の不屈の魂を語りかけてくる。

一つの武具を深く掘り下げることは、その時代の技術、思想、文化、そして人々の苦悩と誇りを読み解くことである。米沢筒の重厚な鉄の肌触りと、天を衝く轟音の中に、我々は今なお、戦国の世を生き抜いた先人たちの力強い息吹を感じることができるのである。

引用文献

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  17. 3 次元 CG による火縄銃製造工程の 可視化に関する基礎検討 https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/24297/files/KU-0240-20230331-06.pdf
  18. カラクリ、銃床、銃身:火縄銃の製作 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001653329.pdf
  19. 3 、火縄銃の種類と寸法 - 日本の武器兵器 http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/17
  20. 鉄砲伝夹 - 西之表市市制施行50周年記念 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/41/41411/91137_1_%E9%89%84%E7%A0%B2%E4%BC%9D%E6%9D%A5%E4%BB%8A%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%8C%E3%81%88%E3%82%8B%E7%A8%AE%E5%AD%90%E5%B3%B6%E5%85%A8%E5%9B%BD%E7%81%AB%E7%B8%84%E9%8A%83%E5%A4%A7%E4%BC%9A.pdf
  21. 全国火縄銃大会 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/41/41411/91137_1_%E9%89%84%E7%A0%B2%E4%BC%9D%E6%9D%A5%E4%BB%8A%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%8C%E3%81%88%E3%82%8B%E7%A8%AE%E5%AD%90%E5%B3%B6%E5%85%A8%E5%9B%BD%E7%81%AB%E7%B8%84%E9%8A%83%E5%A4%A7%E4%BC%9A.pdf
  22. 真壁氏幹-最強の剣豪・剣士/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/73542/
  23. 米沢藩古式砲術保存会 - 宮坂考古館 https://www.miyasakakoukokan.com/hojutsu.html
  24. 大砲のような大迫力!【上杉砲術隊】火縄銃発砲演武|あがの市民まつり2023 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=-avRZdM2Oq8
  25. 兼続公まつりで米沢藩稲富流砲術隊が迫力の砲術実演 - 南魚沼市 https://www.city.minamiuonuma.niigata.jp/docs/2615.html
  26. 兼続公まつりで披露された大迫力の古式砲術 - 南魚沼市 https://www.city.minamiuonuma.niigata.jp/docs/2911.html