『舟戦以律抄』は、村上水軍の海戦術を伝える兵法書。能島・来島・因島の三島村上氏が瀬戸内海を支配し、潮を制する戦術やほうろく火矢で名を馳せた。海賊停止令で終焉するも、近代に継承。
村上水軍の戦法を伝えるとされる研究書、『舟戦以律抄』。この書物は、瀬戸内海にその名を轟かせた海の武士団の精髄を今に伝えるものとして、歴史愛好家の知的好奇心を強く惹きつけてきた。しかし、その実態は謎に包まれており、一つの書名が指し示す内容は、決して単純なものではない。
調査を進めると、この『舟戦以律抄』という名称が、時代や編者によって異なる複数の伝本を内包している可能性が浮かび上がってくる。例えば、今治市村上水軍博物館が所蔵する『舟戦以律抄』は、能島村上家に伝来した「近世の兵法書」とされており、戦国時代の当事者が直接記したものではないことが示唆される 1 。一方で、幕末の兵学者である窪田清音の著作には、それよりさらに遡る明和3年(1766年)に奥村好昌が著したとされる『舟戦以律抄』への言及が見られる 2 。
さらに、村上水軍の兵法を伝える書物としては、能島村上氏の伝説的な大将・村上武吉(むらかみ たけよし)が著したと伝わる『村上舟戦要法』 3 や、江戸時代後期に長州藩の兵学者・森重都由(もりしげ くによし)が編纂した『合武三島流船戦要法』(ごうぶさんとうりゅうふないくさようほう) 5 といった、異なる名称を持つ兵法書の存在も確認されている。
これらの錯綜した情報は、一つの重要な可能性を示している。『舟戦以律抄』とは、特定の単一の書物を指す固有名詞というよりも、村上水軍の兵法を伝える一連の伝本の「総称」に近い概念であるのかもしれない。その内容は、戦国時代の過酷な実戦から生まれた「生きた知恵」が、泰平の世となった江戸時代において、兵学という学問の枠組みの中で体系化・理論化される過程で、編者や時代の要請に応じて変容していったものと考えられる。つまり、村上武吉が遺したとされる実践的な戦訓が源流となり、それが江戸時代の兵学者たちの手によって解釈・再編され、『舟戦以律抄』や『合武三島流船戦要法』といった複数の写本や伝本として、後世に流布していったのではないだろうか。
したがって、本報告書は、『舟戦以律抄』という一つの書物のみを単体で論じるのではなく、その源流に存在する「戦国時代の村上水軍の海戦術と思想」そのものに焦点を当てる。彼らがいかなる組織であり、いかにして瀬戸内海の覇者となり、どのような戦術で敵を圧倒したのか。その実像を歴史的文脈の中に深く位置づけることで、兵法書に記された知識の真の意味を解き明かすことを目的とする。まず村上水軍そのものの実像を多角的に解明し、その上で兵法書の系譜を論じ、最後にその歴史的意義を総括するという構成で、この壮大な海の物語の全貌に迫る。
村上水軍の出自については、清和源氏の流れを汲む、あるいは村上天皇の皇子・具平親王を祖とする村上源氏であるなど諸説が存在するが、いずれも確固たる定説には至っていない 3 。その出自の不確かさ自体が、彼らが中央の権威とは異なる、海の世界で独自の力をもって成り上がった存在であったことを物語っている。
彼らが本拠地とした瀬戸内海、とりわけ芸予諸島は、古来より畿内と西国、さらには大陸を結ぶ海上交通の大動脈であった。しかし同時に、この海域は大小無数の島々が点在し、潮流は複雑かつ急峻で、航行の難所としても知られていた 8 。この「要衝」と「難所」が混在する特異な地理的条件こそが、村上水軍のような高度な操船技術と地理的知識を持つ海上勢力を生み出す土壌となったのである 11 。彼らはこの海の支配者として、瀬戸内の物流と経済をその手に握っていた。
村上水軍は、単一の組織ではなく、能島(のしま)・来島(くるしま)・因島(いんのしま)の三つの島を本拠地とする同族集団の総称であり、「三島村上氏」とも呼ばれる 14 。伝承によれば、南北朝時代に活躍した村上師清(もろきよ)の子らが三島に分かれて勢力を張ったのが始まりとされる 4 。
彼らは強い同族意識を持ちながらも、それぞれが独立した勢力として活動した。その背景には、各家が提携する陸の大名が異なっていたことがある。能島・因島村上氏は備後・安芸の毛利氏との関係を深めたのに対し、来島村上氏は伊予の河野氏の配下として活動するなど、それぞれの利害関係に応じて独自の外交・軍事行動を展開した 4 。この三家の絶妙なバランスと競合関係が、村上水軍全体のダイナミズムを生み出していた。
家名 |
本拠地 |
主な提携大名 |
活動の特徴・代表的な人物 |
能島村上氏 |
伊予国能島(現 愛媛県今治市) |
毛利氏 |
三島の宗家格とされ、最後まで独立性を保とうとした。海賊大将として名高い 村上武吉 を輩出。 |
来島村上氏 |
伊予国来島(現 愛媛県今治市) |
河野氏、後に豊臣氏 |
伊予の守護大名・河野氏との結びつきが強かったが、後に 来島通総 が豊臣秀吉に仕え大名となる。 |
因島村上氏 |
備後国因島(現 広島県尾道市) |
山名氏、大内氏、毛利氏 |
備後国に近く、遣明船の警固などを担った。中国地方の大名の動向に強く影響された。 |
16世紀に来日したイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で村上氏を「日本最大の海賊」と記している 11 。しかし、彼らの実態は、現代人が想像するような理不尽に金品を略奪する「海賊(パイレーツ)」とは大きく異なる。
村上水軍は、自らが支配する海域(縄張り)を航行する船の安全を保障し、その対価として「帆別銭(ほべちせん)」や「櫓別銭(ろべちせん)」と呼ばれる通行料を徴収する、いわば「海上領主」であった 8 。彼らは独自の「掟」を定め、瀬戸内海の交易と流通の秩序を維持する役割を担っていたのである 11 。彼らの力は、単なる武力だけでなく、航海の安全を提供するという、経済活動に不可欠な機能に裏打ちされていた。人々が彼らを「海賊」と呼んだのは、その圧倒的な力に対する畏敬の念の表れであったと言えよう。
村上武吉は、天文2年(1533年)、能島村上氏の当主・村上義忠の子として生まれた 3 。しかし、幼くして父を失い、一族内の家督争いに敗れて一時は九州へ逃れるなど、その前半生は波乱に満ちていた 3 。成長後、彼は瀬戸内海に戻り、実力で能島村上氏の当主の座を奪還。以後、戦国時代の激動の渦中へと身を投じていく。
村上武吉の生涯は、戦国史の重要な局面と深く結びついている。彼の決断が、西日本の情勢を左右することも少なくなかった。
天文24年(1555年)、毛利元就が陶晴賢(すえ はるかた)と雌雄を決した厳島の戦いは、武吉の名を天下に知らしめた最初の大きな舞台であった。兵力で圧倒的に劣る元就は、村上水軍の協力を得るため、「一日だけの味方で良い」と武吉に援軍を要請したと伝わる 19 。武吉はこの要請に応じ、能島水軍を率いて毛利方に加勢。彼の水軍が陶軍の海上退路を断ち、補給を遮断したことが、毛利軍の奇襲攻撃を成功に導く決定的な要因となった 8 。この一戦を機に、能島村上氏と毛利氏の間に強固な同盟関係が築かれ、村上水軍は毛利水軍の中核として、その勢力をさらに拡大していくことになる。
武吉の武威が最高潮に達したのは、織田信長と石山本願寺の戦いにおいてであった。天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは、武吉は嫡男の村上元吉(もとよし)を大将として派遣。毛利水軍の主力となった村上勢は、後述する特殊兵器「ほうろく火矢」を駆使して、九鬼嘉隆(くき よしたか)率いる織田水軍を焼き払い、壊滅的な打撃を与えた 3 。この勝利により、本願寺への兵糧搬入を成功させ、信長の野望の前に大きく立ちはだかった。
しかし、その2年後の天正6年(1578年)、第二次木津川口の戦いでは状況が一変する。信長が建造させた「鉄甲船」の前に、村上水軍の得意とした戦法は通用せず、手痛い敗北を喫することになる 4 。この敗戦は、村上水軍の栄光と、時代の変化がもたらす限界の両面を象徴する出来事であった。
村上武吉は、単なる勇猛な武将ではなかった。彼は、一族に伝わる海戦術を『村上舟戦要法』として体系化したと伝わる、優れた兵法家でもあった 3 。この行動の背後には、自らが率いる組織の強さの源泉である「実戦の知」を、客観的な知識として整理し、後世に伝えようとする意識があったと考えられる。これは、彼が単なる一介の海賊大将ではなく、戦国期における稀有な「知の継承者」であったことを示唆している。
さらに武吉は、茶や香を嗜み、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)で連歌の会を催すなど、高い教養を備えた文化人としての一面も持っていた 16 。こうした文化的活動は、単なる個人的な趣味に留まらず、一族の結束を固め、自らの権威を高めると同時に、家臣たちとのコミュニケーションや戦術議論の場としても機能した、高度な統治術の一環であったと解釈できる。武勇のみならず、知性と文化を重んじる彼の姿勢は、彼が好んだという「任運自在(にんうんじざい)」(運命の流れに身を任せ、その巡り合わせをあるがままに受け入れる)という禅語に象徴されるように、時代の激しい流れの中で独自の矜持を保とうとした彼の内面性を物語っている 17 。
村上水軍の強さの根幹は、瀬戸内海の地理を熟知し、それを最大限に活用した独自の海戦術と、それを支える技術にあった。
彼らが駆使した船は、戦況に応じて役割が明確に分かれていた。
また、彼らは海に突き出した半島の陰など、航路から見えない場所に船を隠すための「船隠し」と呼ばれる施設を拠点に築いていた 29 。ここから奇襲を仕掛けることで、敵の意表を突く戦術を可能にした。
村上水軍の真骨頂は、芸予諸島の複雑で激しい潮流を読み切り、それを戦術に組み込む比類なき操船技術にあった 8 。彼らは、潮の流れが最も速くなる時間帯や場所を熟知しており、敵船団を意図的にそうした海域へ誘い込んだ。不慣れな敵船が潮流に翻弄されて陣形を乱したところを、一斉に攻撃して撃破するというのが彼らの得意戦法であった 9 。
また、『村上舟戦要法』には「長蛇の陣」といった陣形に関する記述も伝わっており、彼らが海上で統制の取れた集団行動を行い、状況に応じて柔軟に陣形を変化させていたことがうかがえる 3 。
村上水軍の名を天下に轟かせたのが、「ほうろく火矢(びや)」と呼ばれる特殊兵器である。これは、素焼きの土鍋である焙烙(ほうろく)を二つ合わせて球状にし、その中に焔硝(えんしょう)、硫黄、松脂などを調合した黒色火薬を詰めた、一種の手榴弾であった 30 。その起源は、元寇の際に元軍が使用した「てつはう」にあるとも言われている 32 。
使用法は、導火線に点火した後、遠心力を利用してハンマー投げのように回転させ、敵船に投げ込むというものであった 30 。木造船が主流であった当時、この兵器の威力は絶大であった。着弾すると甲板上で爆発し、火薬と陶器の破片をまき散らして敵兵を殺傷するだけでなく、船体に火災を発生させ、敵船を戦闘不能に陥れた 24 。第一次木津川口の戦いでは、このほうろく火矢の集中投入により、織田水軍の艦隊はなすすべなく焼き払われたのである 30 。
第一次木津川口の戦いでの大敗を受け、織田信長は従来の海戦の常識を覆す新兵器を開発させる。それが「鉄甲船」である。これは、村上水軍のほうろく火矢による攻撃を防ぐため、船体の喫水線より上の部分を厚さ3ミリほどの鉄板で覆い、さらに大砲を複数門搭載した、巨大な安宅船であった 36 。
この二つの兵器の激突は、単なる一合戦の勝敗を超え、戦国時代の海戦における「戦術思想の転換点」を象徴する出来事となった。村上水軍の強みは、潮流の利用、巧みな操船による接舷攻撃、そしてほうろく火矢による混乱誘発といった、いわば「機動力とゲリラ戦術」の極致にあった。対する信長の鉄甲船は、防御力を極限まで高め、大砲による「火力の集中と遠距離制圧」を目指す、いわば「要塞化と組織的砲撃戦」という新たな思想の産物であった。
天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いにおいて、鉄甲船はその圧倒的な性能を発揮する。村上水軍が投じるほうろく火矢は、鉄の装甲に弾かれて効果がなく、逆に鉄甲船に接近しようとすれば、搭載された大砲の餌食となった 8 。この戦いは、伝統的な水軍の卓越した「技量」が、中央集権権力が投入する革新的な「技術」と圧倒的な「物量」によって覆された瞬間であった。海戦の主役が、個々の操船技術から兵器の性能へと移行する、新たな時代の到来を告げる戦いであったと言える。
村上水軍の力は、単なる軍事力だけではなかった。彼らは瀬戸内海に独自の支配システムを構築し、それを巧みに運用することで、長期にわたり海の覇者として君臨した。
村上水軍は、芸予諸島の航路上の要衝に海城を築き、そこを拠点として「海の関所」を運営していた 11 。彼らの縄張りを通過するすべての船舶に対し、船の規模、すなわち帆の数や櫓の数に応じて「帆別銭」や「櫓別銭」と呼ばれる通行料の支払いを義務付けたのである 8 。この通行料収入が、彼らの巨大な組織を維持し、軍備を整えるための安定した経済基盤となっていた。
通行料を支払った船に対して、村上水軍はその航海の安全を保障する証として、「過所旗(かしょき)」と呼ばれる通行許可証を発行した 4 。このシステムは、単なる通行料徴収の仕組みではなく、現代の「保険」や「航行認証システム」にも通じる、極めて高度で洗練された統治システムであったと言える。
現存する実物資料からは、その詳細な仕様がうかがえる。山口県文書館が所蔵する「芸州厳島祝師」宛のものや、和歌山県立博物館が所蔵する「紀州雑賀向井」氏宛の過所旗は、いずれも絹でできており、中央には能島村上氏の旗印である「上」の字が大きく記されている 41 。そして、旗の隅には「天正玖年四月廿八日」といった発行年月日、通行を許可された者の名(宛先)、そして発行者である村上武吉の署名と花押(かおう、サイン)がはっきりと記されている 41 。
このように、誰が、誰に、いつ発行したかが明記された過所旗は、単なる目印ではなく、法的な効力を持つ「契約書」としての性格を帯びていた。この旗を掲げた船は、村上水軍の庇護下にあることを示し、他の海賊勢力から攻撃されることなく安全に航行することができた 23 。これは、村上水軍の権威が瀬戸内海の隅々にまで及んでいたことの証左である。彼らは武力による支配だけでなく、信用と契約に基づく「法と秩序」による支配を、広大な海の上に確立していた。この点こそ、彼らが単なる武装集団ではなく、一個の独立した「海上国家」とも呼ぶべき実体を持っていたことを示している。
過所旗の発行に加え、村上水軍は「上乗り(うわのり)」と呼ばれる制度も運用していた。これは、通行料を支払った船に、水先案内と警護を兼ねて配下の者を同乗させるというものであった 23 。複雑な潮流が渦巻く瀬戸内海において、彼らの案内は航海の安全に不可欠であった。
彼らは、自らが定めた独自の「掟」に従って、これらの安全保障活動を行った 11 。合言葉を間違えた足軽を処刑したという逸話が残るほど、その掟は厳格であったとされ、理不尽な殺傷や略奪を禁じていたことがうかがえる 17 。このような厳格な規律と秩序維持機能があったからこそ、多くの商人や大名は、通行料を支払ってでも彼らの庇護を求めたのである。
戦国時代に村上水軍が培った海戦術は、口伝や実戦を通じて継承されるだけでなく、やがて書物として体系化され、後世へと伝えられていった。その過程で、名称や内容は変容を遂げながらも、その中核にある思想は生き続けた。
村上水軍の兵法書の源流として最も重要なのが、能島村上氏の大将・村上武吉自身が著したと伝わる『村上舟戦要法』である 3 。残念ながら現存する写本は確認されていないが、その内容は、潮流の利用法、船団の陣形、小早船や関船といった艦船の運用法、そしてほうろく火矢などの兵器の使用法といった、極めて実践的なものであったと推測される。これは、戦国時代の過酷な現実から生まれた「実戦の記録」そのものであり、後世に編纂されるすべての村上流兵法書の原点となったと考えられる。
江戸時代に入り、世が泰平となると、戦国の実戦的な戦術は「兵学」という学問として研究・体系化されるようになる。村上水軍の兵法もその例外ではなかった。関ヶ原の戦いの後、毛利氏の家臣となった村上氏の子孫たちに伝えられた戦法は、江戸時代後期、長州藩の兵学者であった森重都由の手によって『合武三島流船戦要法』として編纂された 5 。
元治2年(1865年)の日付を持つ写本などが現存しており、その内容からは、太鼓や法螺貝、鐘といった鳴り物による合図などが詳細に規定され、戦術がより儀礼的・教練的な形式に整えられていく様子がうかがえる 6 。これは、かつての「実戦の知」が、平時の武士の教養としての「兵学」へと姿を変えていったことを示している。
そして、本報告書の主題である『舟戦以律抄』は、この兵法書の系譜の中に位置づけられる。現在、今治市村上水軍博物館が所蔵する『舟戦以律抄』は、能島村上家に伝来した兵法書であり、その成立は近世とされている 1 。その内容は、戦国時代の生々しい実戦記録というよりも、江戸時代にまとめられた教本としての性格が強いと考えられる。すなわち、『村上舟戦要法』を源流とし、『合武三島流船戦要法』などと同様に、江戸時代の兵学思想の影響を受けながら編纂されたものと推測される。この書物は、後に近代日本の海軍にまで影響を与えることとなり、村上水軍の兵法思想を後世に伝える上で、極めて重要な役割を果たした。
書名 |
推定成立年代 |
著者/編者 |
内容の特色 |
主な所蔵・伝来 |
『村上舟戦要法』 |
戦国時代末期 |
村上武吉(伝) |
実践的。潮流、陣形、兵器運用など、実戦に即した内容と推測される。 |
現存せず(後世の兵法書の源流) |
『舟戦以律抄』 |
江戸時代(近世) |
奥村好昌(1766年)など複数存在か |
理論的・教練的。江戸期の兵学として体系化された内容。 |
今治市村上水軍博物館(能島村上家伝来)など |
『合武三島流船戦要法』 |
江戸時代末期 |
森重都由(編) |
儀礼的・体系的。太鼓や鐘の合図など、より形式化された内容を含む。 |
東京大学史料編纂所(元治2年写本)など |
戦国時代を通じて瀬戸内海に君臨した村上水軍であったが、その力も時代の大きなうねりには抗えなかった。天正16年(1588年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、全国に「海賊停止令(海賊取締令)」を発令した 14 。これは、大名の私的な海上武力を禁じ、海上交通の支配権を中央集権権力の下に一元化することを目的としたものであった。
この命令により、村上水軍は「海の関所」としての通行料徴収権という最大の経済基盤を失い、その組織は急速に解体へと向かう 41 。これは、戦国の世が終わり、独自の武力と経済圏を持つ地域勢力がもはや許容されない、新たな時代の到来を意味していた。
海賊停止令の後、三島村上氏の運命は分かれた。来島村上氏の当主・来島通総は、早くから秀吉に仕えていたため、豊臣大名としてその地位を保った 14 。一方、最後まで毛利氏と共にあった能島・因島村上氏は、関ヶ原の戦いで西軍に与して敗北。戦後は毛利氏の家臣団に組み込まれ、長州藩の船手組(ふなてぐみ)として、藩主の御座船の警護や朝鮮通信使の曳航などを担い、江戸時代を通じてその家名を存続させた 4 。
一度は歴史の表舞台から姿を消したかに見えた村上水軍の遺産は、思わぬ形で近代日本に蘇ることになる。日露戦争において、連合艦隊の作戦参謀として日本を勝利に導いた天才戦略家・秋山真之は、故郷である伊予松山の出身であった 46 。彼は、日本海海戦に臨むにあたり、同じ伊予の海を舞台に活躍した英雄、村上水軍の兵法を深く研究したと伝えられている 8 。
近年の研究では、彼が参考にした兵法書の一つが、今治市村上水軍博物館に所蔵されている『舟戦以律抄』であったことが指摘されている 1 。村上水軍が得意とした「長蛇の陣」に代表される、敵の側面を突くための柔軟な艦隊運動の思想は、ロシアのバルチック艦隊を殲滅した「丁字戦法」の着想に大きな影響を与えた可能性がある 3 。戦国の海で培われた戦術思想が、数百年後の近代海戦の帰趨を決したとすれば、それはまさに歴史の奇跡と言えよう。
『舟戦以律抄』とその源流にある村上水軍の海戦術は、単なる過去の遺物ではない。それは、瀬戸内海という特異な地理と、戦国という激動の時代が生んだ、独自の生存戦略の結晶である。彼らの築いた海の秩序は、戦国の終焉と共に一度は過去のものとなった。しかし、その実践的な知恵は兵法書として記録・編纂され、形を変えながらも後世へと継承された。そして、近代日本の存亡をかけた大海戦において、一人の天才参謀の思考を通じて再び輝きを放ったのである。本報告書は、『舟戦以律抄』という一つの書物を入り口に、その背後に広がる村上水軍という壮大な海の物語と、時代を超えて受け継がれる「知の遺産」の全貌を明らかにする試みであった。
年代 |
主な出来事 |
14世紀末頃 |
村上氏が能島・来島・因島の三島に分立したとされる。 |
15世紀 |
三島村上氏がそれぞれ守護大名と結びつき、瀬戸内海で活動を活発化させる。 |
1533年 |
村上武吉、生まれる。 |
1555年 |
**厳島の戦い。**村上武吉、毛利元就に加勢し、陶晴賢軍の撃破に大きく貢献する。 |
1576年 |
**第一次木津川口の戦い。**村上水軍、ほうろく火矢を用いて織田水軍に大勝する。 |
1578年 |
**第二次木津川口の戦い。**織田方の鉄甲船の前に村上水軍が敗北する。 |
1581年 |
村上武吉が「過所旗」を発行(現存資料による)。 |
1588年 |
豊臣秀吉が 海賊停止令 を発令。村上水軍の経済基盤が失われる。 |
1600年 |
**関ヶ原の戦い。**能島・因島村上氏は西軍に属し、戦後、毛利氏家臣となる。 |
1604年 |
村上武吉、死去。 |
1766年 |
奥村好昌による『舟戦以律抄』が成立したとされる記録が残る。 |
1865年 |
森重都由編『合武三島流船戦要法』の写本が作成される。 |
1868年 |
秋山真之、生まれる。 |
1905年 |
**日本海海戦。**秋山真之が参謀として活躍。村上水軍の兵法を参考にしたと伝わる。 |