戦国時代の藤弓は、日本の気候に適応した複合弓で、技術・戦術・文化が凝縮された。鉄砲と共存し、武士の精神性や権威を象徴。現代弓道にも継承される「用の美」を体現する。
戦国時代—それは、絶え間ない戦乱の中で旧来の秩序が崩壊し、新たな技術と戦術が激しく火花を散らした変革の時代である。この時代を象徴する武器として、多くの人々は火縄銃の劇的な登場を思い浮かべるかもしれない。しかし、その陰で、日本の伝統的な飛び道具である弓矢もまた、その技術的頂点を極めていた。その究極の姿こそが、本報告書で詳述する「藤弓」である。
一般に藤弓は、「竹弓に藤を巻きつけて強度を高めた弓」と認識されている 1 。この理解は決して間違いではないが、その簡潔な言葉の背後には、日本の多湿な気候風土への適応、素材科学の粋、そして実用性から象徴性へと昇華する文化的なプロセスという、幾重にも重なる深い意味が隠されている。藤を巻くという行為は、単なる物理的な補強にとどまらず、当時の武士たちが直面した技術的課題に対する独創的な解答であり、やがては彼らの世界観や権威を体現するに至ったのである。
本報告書は、この藤弓という存在を、単なる武器としてではなく、戦国時代の技術、戦術、そして文化が凝縮された工芸品として捉え直すことを目的とする。そのために、藤弓を以下の三つの側面から立体的に解剖し、その本質に迫る。
この多角的な分析を通じて、戦国の空を支配した藤弓の真の姿を明らかにしていく。
藤弓の卓越した性能は、一朝一夕に生まれたものではない。それは、日本の弓師たちが数世紀にわたり、素材の特性を最大限に引き出し、気候風土という制約と向き合いながら、技術革新を積み重ねた末にたどり着いた一つの到達点であった。その構造は、竹、木、そして動物由来の接着剤という有機素材の組み合わせを、藤という植物繊維で締め上げるという、絶妙な均衡の上に成り立っていた。
藤弓の構造を理解するためには、まずその母体となった和弓の進化の歴史を遡る必要がある。日本の弓の原型は、梓(あずさ)や檀(まゆみ)といった単一の木材から作られた「丸木弓」であった 2 。構造は単純だが、その性能は木材の弾力性のみに依存するため、威力や飛距離には限界があった。
この限界を打ち破ったのが、平安時代末期に登場した「伏竹弓(ふせだけのゆみ)」である 3 。これは、丸木弓の外側(射手から見て向こう側)に竹を貼り合わせた画期的な複合弓(コンポジット・ボウ)であった。竹の持つ優れた反発弾性を利用することで、弓はより引きやすく、矢を遠くまで飛ばすことが可能となり、同時に弓幹が折れにくくなるという耐久性の向上も実現した 3 。
この複合化の技術は、鎌倉時代から室町時代にかけてさらなる発展を遂げる。弓の内側にも竹を貼り、木芯を挟み込む構造の「三枚打弓(さんまいうちのゆみ)」 3 、さらに木芯の四方を竹で囲むことでさらなる性能向上を図った「四方竹弓(しほうだけゆみ)」へと進化した 1 。
そして、これらの技術的蓄積の集大成として戦国時代に主流となったのが、「弓胎弓(ひごゆみ)」である 4 。これは、弓の芯材に木だけでなく、複数の竹ひごを精緻に組み合わせたものを使い、その外側を木と竹で挟み込むという、より複雑で洗練された構造を持つ 3 。この弓胎弓の登場により、弓はさらなる軽量化と高い反発力を両立させ、三十三間堂の通し矢(約120m先の的を射通す競技)を可能にするほどの飛躍的な性能向上を果たした 3 。戦国期に活躍した「藤弓」とは、まさにこの高性能な弓胎弓を母体とし、その最終仕上げとして藤巻きによる補強と装飾が施された弓なのである。
弓胎弓の複雑な構造を成り立たせていたのが、厳選された素材と、それらを強力に一体化させる特殊な接着剤であった。
弓の性能を直接左右する素材として、主に弾力性に富む「真竹(まだけ)」と、粘り強い「櫨(はぜ)」の木が用いられた 5 。特に竹は、生育してから3年経ったものの中から、節の間隔や高さ、曲がり具合など、厳しい基準を満たすものだけが選ばれたという 5 。これらの自然素材の個性を的確に見抜き、適材適所に配置する眼力こそ、弓師に求められる重要な技量であった。
そして、これらの竹と木を貼り合わせるために用いられたのが、「鰾(にべ)」と呼ばれる動物性の接着剤である 6 。一般的には膠(にかわ)の一種であるが、弓の製作に用いられるものは特に鰾と呼ばれ、その製法は各々の弓師が秘伝として守り通した 6 。主に鹿の皮などを長時間湯煎してコラーゲンを抽出し、精製して作られるこの接着剤は、強力な接着力を誇る一方で、致命的な弱点を抱えていた。それは、温度と湿度によって接着力が大きく変化する性質である 6 。特に日本の多湿な気候は、鰾の接着力を著しく低下させ、最悪の場合、弓の各部材が剥離してしまう「ニベが切れる」という故障を引き起こす原因となった。大陸の乾燥地帯で発達した、動物の腱や角を用いた複合弓が日本では普及しなかった一因も、この湿度への脆弱性にあったと考えられる 7 。
この「湿気」という宿命的な課題を克服するために生み出された技術こそが、次節で述べる「藤巻き」なのである。
藤弓の最大の特徴である「藤巻き」は、当初、極めて実用的な目的から生まれた。それは、湿気によって弱まった鰾膠の接着力を物理的に補い、弓の構造材が剥離・分解するのを防ぐための、いわば外的な補強策であった 1 。籐(とう)という素材は、丈夫でしなやかであると同時に、通気性にも優れ、湿気を吸収・放出する性質を持つため 10 、弓の補強材として理想的だったのである。
この実用的な補強策は、室町時代に入ると新たな意味合いを帯びるようになる。籐を「滋く(しげく)」、つまり隙間なく密に巻き締めた弓は「重籐弓(しげとうのゆみ、または、しげどうのゆみ)」と呼ばれ、単なる補強弓ではなく、武家の威信を示す正式な弓としての地位を確立した 1 。
さらに、武士たちはこの藤巻きに多様なデザインを施し、流派や個人の格式を示す装飾としての意味合いを付加していった。籐の巻き方や巻く位置、間隔によって、様々な名称の様式が生まれた。
中でも最も格式が高いとされたのが、宇宙観を象徴する巻き方である。故実によれば、大将が持つべき正式な重籐弓は、握りから上を地上世界の生き物を象徴する「三十六禽」になぞらえて36ヶ所、下を天界の星座を示す「二十八宿」にかたどって28ヶ所巻くものとされた 1 。これは、大将が手にする弓が、単に敵を殺傷する道具ではなく、天と地の秩序をその身に体現する神聖な器であるという思想の表れであった。
また、装飾的な意味だけでなく、特定の機能を持つ藤巻きも存在した。握り革のすぐ上に巻かれる「矢摺籐(やずりどう)」は、矢を発射する際に矢羽根が弓幹を擦って傷つけるのを防ぐ保護材であり、同時に狙いを定める際の目安ともなった 15 。弓の両端を補強する「切詰籐(きりつめどう)」も、弦の張力に耐えるための重要な部品であった 16 。
このように、藤弓における藤巻きは、湿気対策という実用的な要請から始まり、やがて武家の威信を示す格式となり、ついには宇宙観を表現する象徴へと昇華した。そこには、機能性が装飾性、そして精神性と分かちがたく融合する、日本の工芸品に共通する「用の美」の精神が色濃く反映されている。
時代 |
弓の名称 |
主な構造 |
技術的特徴 |
戦国期への影響 |
古墳〜平安中期 |
丸木弓 |
単一の木材から削り出した弓(単弓) |
構造が単純で製作が容易。性能は木材の弾力性に依存。 |
弓矢文化の基礎を形成。 |
平安末期〜 |
伏竹弓 |
木の弓胎の外側に竹を貼り合わせた複合弓。 |
竹の反発力を利用し、威力と飛距離が向上。耐久性も増した 3 。 |
複合弓技術の第一歩。後の発展の礎となる。 |
鎌倉時代〜 |
三枚打弓 |
木芯を内外から竹で挟み込んだ複合弓。 |
表裏の張力と圧縮力のバランスが取れ、さらなる威力向上を実現 3 。 |
より強力な弓を求める技術的探求を加速させた。 |
室町時代〜 |
四方竹弓 |
木芯の四方を竹で囲んだ複合弓。 |
弓の断面積全体で効率的に力を分散・蓄積し、反発力を高めた 1 。 |
弓胎弓に至る前段階の高度な複合技術。 |
戦国時代 |
弓胎弓 |
複数の竹ひごを組み合わせた芯材を持つ、高度な複合弓。 |
軽量化と高反発力を両立。飛躍的な性能向上を達成した 3 。 |
藤弓の母体。 戦国時代の弓の基本構造となる。 |
戦国時代の合戦場は、新兵器である鉄砲の登場によって、その様相を大きく変えた。しかし、それは旧来の武器である弓矢の即時退場を意味するものではなかった。むしろ、弓と鉄砲はそれぞれの長所と短所を補い合う形で共存し、戦術の多様化と高度化を促した。この新しい戦術体系の中で、藤弓は不可欠な役割を担い続けたのである。
かつて、合戦の開始は双方から音の出る鏑矢(かぶらや)を射かけ合う「矢合わせ」によって告げられるのが常であった 17 。しかし、鉄砲が普及すると、その役割は一斉射撃の轟音に取って代わられ、戦闘開始を意味する言葉も「火蓋を切る」へと変化していった 17 。
この変化は、鉄砲が持つ圧倒的な威力と貫通力を象徴している。しかし、戦場の現実はそれほど単純ではなかった。鉄砲には、次弾の装填に時間がかかる、雨天では火縄が濡れて使用不能になる、発射音が大きいため隠密行動に向かない、といった無視できない欠点があった 17 。
対照的に、弓矢は熟練者であれば文字通り「矢継ぎ早」に連射が可能であり、発射音も小さいため夜襲や伏兵に極めて有効であった 17 。さらに、山なりに矢を放つ「曲射」によって、遮蔽物の背後にいる敵や、広範囲の敵部隊を「面」として制圧することができた 17 。これは、基本的に直線的な弾道で「点」を攻撃する鉄砲にはない、弓矢独自の大きな利点であった。
この性能差を理解していた戦国武将たちは、両者を巧みに組み合わせた混成部隊を編成した。『軍法侍用集』などの兵法書にも、鉄砲隊と弓隊を併用する陣形が記されている 18 。典型的な戦術としては、まず鉄砲隊の一斉射撃で敵の隊列に衝撃を与え、敵が混乱している間に鉄砲隊が次弾を装填する。その致命的な「時間の隙」を、弓隊が絶え間ない射撃で埋め、敵の前進や反撃を抑制するというものであった 2 。鉄砲の「衝撃力」と弓の「持続制圧力」を組み合わせることで、途切れることのない遠距離攻撃を実現したのである。
性能項目 |
弓矢(藤弓) |
火縄銃 |
戦術的考察 |
有効射程 |
約80m 2 |
50m〜100m |
射程に大差はなく、両者ともに中距離での主力兵器として運用された。 |
最大射程 |
約400m 2 |
約500m |
弓の曲射は、直接照準できない敵への嫌がらせや牽制射撃(威嚇射撃)に有効であった。 |
発射速度 |
速い(1分間に数発〜十数発) |
遅い(1分間に1〜2発) |
弓の連射性が鉄砲の装填時間を補い、持続的な弾幕を形成した 17 。 |
命中精度 |
技量に依存 |
比較的高い(近距離) |
熟練武士による精密射撃と、足軽による集団での制圧射撃で役割が分かれた。 |
威力/貫通力 |
高いが、鎧の形状に影響される 20 |
非常に高い。鎧を貫通可能 21 |
鉄砲は対甲冑目標に、弓は非装甲目標(兵士の露出部、馬など)や面制圧に効果を発揮した。 |
隠密性 |
高い(発射音が小さい) |
低い(発射音が大きい) |
弓は夜襲、伏兵、奇襲といった作戦において鉄砲より優位であった 17 。 |
天候耐性 |
比較的高い |
低い(雨天では使用困難) |
雨天時には、弓が唯一の有効な飛び道具となる場面も多かった。 |
訓練期間/コスト |
長い/比較的高い |
短い/非常に高い |
鉄砲は兵士の早期戦力化を可能にしたが、弓兵の価値が失われたわけではなかった。 |
戦国時代の軍隊において、弓を扱う兵士は一様ではなかった。大将や高名な武士が用いる最高級の藤弓と、徴募された足軽が手にする弓との間には、明確な質の差が存在した。これは、軍隊内での階級と役割分化を武具の面から裏付けている。
江戸時代初期に成立した『雑兵物語』は、足軽の視点から戦場の実態を描いた貴重な史料であり、弓足軽の装備や心得について生き生きと伝えている 22 。例えば、弓を引く際に弦が胸元に引っかからないよう、食料を入れた「うちかえ袋」の結び目を首の真後ろにずらしておくといった、実戦的な知恵が記されている 24 。
また、同書によれば、足軽が使う弓の弦は武士のものに比べて弱く、交換用の予備も十分ではなかったとされる 24 。矢の補給も潤沢ではなく、遠くの敵にうろたえて矢を射尽くしてしまい、いざ敵が迫ってきた時には丸腰になってしまった足軽の失敗談も紹介されている 24 。これは、個人の武勇よりも、指揮官の命令に従い、定められた距離で一斉に射撃するという集団戦術の規律が重視されていたことを示唆している。
一方で、足軽たちは窮地を脱するための工夫も凝らしていた。矢を全て射尽くした場合に備え、弓の先端(弭)に15cmほどの小型の槍を結びつけた「はずやり」という武器を装備することがあった 24 。これは、弓兵が単なる射手で終わらず、最後の局面では槍兵として近接戦闘もこなす、多機能な兵士であったことを物語る興味深い事例である。
このように、武士が個人の技量と高品質な藤弓で戦局を左右する一矢を放つ役割を担ったのに対し、弓足軽は量産品の弓を用いて、集団での弾幕形成という戦術的役割を担っていた。両者は同じ弓兵でありながら、その質と役割において明確に区別されていたのである。
藤弓は、野戦、攻城戦、奇襲といった様々な戦術局面でその特性を活かして運用された。
野戦においては、弓隊は鉄砲隊と共に陣形の前方や側面に配置され、開戦初期の牽制射撃や、敵の突撃に対する迎撃射撃を担った。特に、騎馬隊に対しては、馬を狙ってその機動力を奪う上で極めて有効な兵器であった。
攻城戦における弓の重要性はさらに高まる。籠城側にとっては、城壁の上から眼下の敵兵に矢の雨を降らせることは、最も効果的な防衛手段の一つであった。一方、攻め手側にとっては、味方の兵士が城壁に取り付いたり、破城槌で城門を破壊したりするのを援護するため、城壁上の敵兵を黙らせる支援射撃が不可欠であった。豊臣秀吉が得意とした水攻めや、地下トンネルを掘るもぐら攻めといった特殊な戦術においても、作業を行う兵士たちを敵の妨害から守るため、弓による援護射撃は重要な役割を果たしたと考えられる 25 。
そして、弓がその真価を最も発揮したのが奇襲戦術である。1555年の厳島の戦いにおいて、毛利元就は嵐の夜に紛れて海から密かに上陸し、陶晴賢の大軍の背後を突いて壊滅させた 26 。このような奇襲作戦において、大きな発射音で自らの位置を暴露してしまう鉄砲は使いにくい。敵に察知されることなく静かに攻撃を開始できる弓矢は、奇襲の成否を分ける上で決定的な要素となり得たのである 17 。
藤弓、特に大将クラスが用いた重籐弓の威力は絶大であった。その有効射程は約80mに達し、最大飛距離は400mにも及んだと伝えられる 2 。この有効射程内であれば、当時の標準的な鎧を貫通させることは十分に可能であったと考えられる。
しかし、戦国後期の鎧、いわゆる「当世具足(とうせいぐそく)」は、鉄砲の脅威に対抗するために防御力を大幅に向上させていた。鉄板の厚みを増すだけでなく、弾丸が命中した際に滑らせて威力を逸らす(避弾経始)ために、表面を湾曲させる設計が取り入れられた。ある実験によれば、弓矢は鉄板そのものを貫く威力はあるものの、鎧の傾斜した部分に当たると滑ってしまい、致命傷を与えられない場合があったという 20 。
したがって、鎧をまとった武士を確実に射倒すためには、弓の威力だけでなく、矢の先端に取り付けられた「鏃(やじり)」の性能が極めて重要であった。特に、鋭く尖っているだけでなく、重さによって貫通力を高めた「鎧通し」と呼ばれる種類の鏃が、対甲冑戦闘では効果的だったと考えられる 20 。
とはいえ、鉄砲の弾丸が鎧を貫通する事例があったことを考えると 21 、純粋な貫通力において弓が鉄砲に劣っていたことは否めない。しかし、合戦では全ての兵士が堅牢な鎧で全身を固めていたわけではなく、顔や手足の隙間、あるいは軽装の足軽や非装甲の馬といった目標は無数に存在した。そのような多種多様な目標に対し、連射性と面制圧能力を活かして持続的に損害を与え続ける兵器として、藤弓は戦国時代の終わりまでその価値を失うことはなかったのである。
戦国時代における藤弓は、単に敵を殺傷するための「道具」ではなかった。それは武士の技量と精神力を示す「武芸」の象徴であり、使い手の社会的地位を誇示する「権威」の証でもあった。実戦での有効性を追求する中で生まれた射法は流派として体系化され、名手たちの超人的な逸話は伝説として語り継がれた。藤弓は、武士の「生き様」そのものを体現する存在だったのである。
戦国時代の弓術は、実戦での必要性から飛躍的な進歩を遂げた。その技術革新の中心にあったのが「日置流(へきりゅう)」である。後世、「礼は小笠原、射は日置」と評されるように、小笠原流が儀礼的な側面を重視したのに対し、日置流は戦場での実用性を徹底的に追求した「武射(ぶしゃ)」の代名詞であった 28 。
日置流の流祖とされる日置弾正政次(へきだんじょうまさつぐ)は、室町時代中期の人物と伝えられるが、その実像は謎に包まれている 30 。しかし、彼によって確立されたとされる射法が、それまでの弓術を革新し、戦場で勝つための合理的で体系的な技術として、戦国武士の間に急速に広まったことは間違いない。日置流の登場は、弓術が個人の天賦の才や経験則に頼る段階から、理論と型に基づいた訓練によって誰もが習得可能な「技術体系」へと進化したことを意味する。これは、弓が純粋な「戦闘技術(術)」から、精神性や様式美をも内包する「武芸(道)」へと歩み始める、重要な一歩であった。
日置流は戦国時代を通じて大いに栄え、多くの分派を生み出した。日置弾正の教えを受けたとされる吉田重賢(出雲守)を祖とする流れは「大和日置」とも呼ばれ、ここからさらに山科派、印西派、左近右衛門派などが分派した 29 。また、石堂竹林坊如成を祖とする竹林派も日置流の系統とされ、江戸時代に三十三間堂の通し矢で名を馳せる尾州竹林派や紀州竹林派の源流となった 30 。
これらの流派は、各大名家に弓術師範として召し抱えられ、それぞれの藩で独自の発展を遂げながら、実戦的な弓術の伝統を後世に伝えていったのである 30 。
流派名 |
創始者(伝) |
成立時期 |
特徴 |
思想/重視する点 |
日置流(総論) |
日置弾正政次 |
室町時代中期 |
戦場での実用性を追求した射法。後の武射系流派の源流となる 30 。 |
武射 (実戦的射術) |
印西派 |
吉田重氏(印西) |
室町時代後期 |
日置流出雲派からの分派。将軍家指南役も務め、江戸や岡山藩などで栄えた 30 。 |
一子相伝 の厳格な伝承。 |
竹林派 |
石堂竹林坊如成 |
室町時代後期 |
江戸時代の通し矢(堂射)で名を馳せたが、本来は実戦的な的前射法も伝承 30 。 |
実用性 と後の 競技性 |
小笠原流 |
小笠原長清 |
鎌倉時代 |
弓馬故実の家として、室町・江戸幕府に重用された。流鏑馬などの騎射も伝承 29 。 |
礼射 (儀礼・作法) |
大和流 |
森川香山 |
江戸時代初期 |
日置流の射術と小笠原流の礼法を融合し、神道・儒教・仏教思想を取り入れた 28 。 |
射礼融合 と 精神性 |
藤弓の性能は、卓越した使い手と一体となることで、時に人知を超えた伝説を生み出した。戦国時代には、その武勇を弓矢と共に後世に伝える名手たちが数多く存在する。
その筆頭に挙げられるのが、「雲八」の異名を持つ**大島光義(おおしま みつよし)**である。斎藤道三に始まり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、戦国の覇者たちに仕え、53度の合戦に参加した歴戦の武将であった 32 。彼の弓技は「百発百中」と評され 32 、その逸話は枚挙にいとまがない。敵兵が鉄砲で狙ってきた際には、相手が火蓋を切るよりも速く矢を放って射殺し、大木の陰に隠れた敵兵を、矢で樹木ごと貫いて討ち取ったという、にわかには信じがたい伝説が残されている 33 。極めつけは、84歳の時に豊臣秀次の命を受け、京都・八坂の塔(高さ46m)の最上階の小窓へ、10本もの矢を立て続けに射込んだという逸話である 2 。彼の97年に及ぶ生涯は、藤弓という名器と人間の技量が融合した時、いかなる驚異的な到達点に至るかを雄弁に物語っている。
「武士の中の武士」と称えられた名将、**立花宗茂(たちばな むねしげ)**もまた、弓の名手として知られる。朝鮮出兵後のある日、黒田長政と「鉄砲と弓矢のどちらが優れているか」で口論となり、互いの技量を試すことになった。宗茂が放った矢は、的として置かれた武士の髪飾り(笄)に見事命中し、その場にいた者たちを感嘆させたという 2 。これは、鉄砲が戦場の主役となりつつあった時代にあっても、弓の名手が抱いていた自らの技への絶対的な自信と誇りを象徴するエピソードである。
これらの名手たちの物語は、単なる武勇伝にとどまらない。それは、藤弓が単なる「モノ」ではなく、使い手の技量、精神力、そして人格までもが一体となった、文化的アイコンであったことを示している。
戦場において、ひときわ豪華な装飾が施された重籐弓は、単なる高性能な武器ではなく、それを所有する武将の社会的地位と権威を視覚的に示す、重要なシンボルであった 13 。黒漆塗りの弓幹に、金や朱で彩られた藤が緻密に巻かれた弓は、遠目にも際立ち、それが大将のいる本陣であることを敵味方に知らしめる役割も果たした。
『長篠合戦図屏風』などの合戦図屏風には、大将の側に、その主君の弓と矢を捧げ持つ「弓持ち」の武士が描かれていることがある 35 。これは、弓が戦闘時以外においても、主君の武威を構成する重要な儀仗品として扱われていたことの証左である。特に、二十八宿や三十六禽といった宇宙観を象徴する巻き数が施された重籐弓は、その持ち主が単なる軍事指導者ではなく、天命を受けた特別な存在であることを示すための装置でもあった。藤弓は、戦場で敵を討つと同時に、味方の士気を鼓舞し、自らの権威を誇示するための、極めて雄弁なメディアだったのである。
本報告書で詳述してきたように、戦国時代の「藤弓」は、単に「藤を巻いた弓」という言葉で片付けられる存在ではない。それは、日本の多湿な気候風土という制約の中で、威力、耐久性、そして使いやすさという相克する要求を、竹、木、鰾膠、そして藤という素材の絶妙な組み合わせによって満たした、世界的に見てもユニークな複合弓であった。藤弓の発展の軌跡は、当時の最先端の素材科学、合理的な戦術思想、そして武士の精神文化が凝縮された、まさに戦国という時代を象徴する物語そのものである。
火縄銃の登場と普及は、弓矢を戦場の主役の座から引きずり下ろしたが、完全に駆逐することはなかった。むしろ、弓矢は鉄砲にはない独自の利点を活かして戦術的な地位を維持し、両者が共存する新たな戦いの形を生み出した。そして、戦乱の世が終わり泰平の時代が訪れると、弓はその武器としての役割を徐々に終えていく。しかし、日置流などに代表される武射の技術と、その根底に流れる精神性は失われることなく、武士の心身を鍛錬する「道」としての「弓道」へと昇華し、洗練されていった 3 。
この流れは現代にまで続いている。今日の弓道で最高級品とされる竹弓は、戦国時代の弓胎弓の構造と製法を色濃く受け継いでおり、数百年の時を超えてその技術が継承されている 4 。一方で、グラスファイバーやカーボンファイバーといった新素材を用いた、安価で扱いやすい弓も広く普及し、弓道の裾野を広げる上で大きな役割を果たしている 4 。伝統的な竹弓の中にカーボン繊維を内蔵し、性能と安定性を両立させたハイブリッドな弓も生まれている 37 。
これは、伝統と革新が共存する現代弓道の姿であり、その源流には、常に最高の性能を求め、時代の変化に対応しながら進化を続けた藤弓の姿が重なる。藤弓に込められた、機能性を極めることで美しさと精神性に至るという「用の美」の思想は、形を変えながらも、現代に生きる我々が引く一射一射の中に、確かに受け継がれているのである。