日本の歴史において、単なる香木という物質的な存在を超え、時代の権力者たちの憧憬の的となり、文化的な象徴として特異な位置を占めてきたものがある。それが「蘭奢待(らんじゃたい)」である。奈良・東大寺の正倉院に秘蔵されるこの香木は、その希少性もさることながら、数々の歴史的逸話に彩られ、特に戦国時代から近世にかけて、天下人たちの間でその所有や切り取りが権威の証と見なされてきた。本報告書は、この蘭奢待が持つ多面的な価値、すなわち物質的、歴史的、文化的、そして何よりも象徴的な側面を、戦国時代の動向を中心に据えつつ、関連する歴史上の人物や出来事と深く絡めながら解き明かすことを目的とする。
蘭奢待への関心は、その物質的な希少性のみに由来するものではない。むしろ、それにまつわる「物語性」や、天皇を中心とする「歴史的権威との結びつき」によって、その価値は増幅されてきたと考えられる 1 。そして、「蘭奢待」という雅名そのものが、既にその神秘性と権威性を高める装置として機能してきた側面も見逃せない。本報告は、この香木が日本の歴史の中で紡ぎ出してきた、芳香だけではない、奥深い物語へと読者を誘うものである。
蘭奢待は、正倉院の宝物目録においては「黄熟香(おうじゅくこう)」という名で記載されている 3 。その名の通り、木肌が黄色みを帯びていることが特徴とされる 4 。しかし、一般には「蘭奢待」という雅称で広く知られている。この「蘭奢待」という名称には、それぞれの文字の中に「東」「大」「寺」の三文字が巧みに隠されており、東大寺そのものを指し示すとも言われる 1 。
この雅名の由来については諸説ある。聖武天皇によって命名されたという伝承が存在する一方で 1 、足利義満の時代から「蘭奢待」と呼ばれるようになったという説もある 3 。また、その字面から「蘭(らん=猛々しい)」「奢(じゃ=奢った)」「待(たい=侍)」、すなわち「猛々しく奢った侍が必ず欲しがる」という意味合いで名付けられたという俗説も伝えられている 3 。
「蘭奢待」という雅名は、単なる別名を超えて、この香木に特別な意味と権威性を付与する意図的な命名であった可能性が考えられる。「東大寺」という聖なる空間との関連性を暗示することで宗教的な権威と結びつき、また、複雑な漢字を用いることで知識層や権力者層にとっての知的遊戯の対象ともなり得たであろう。聖武天皇命名説と足利義満時代説は時代的に隔たりがあるが、いずれもその時々の最高権力者が関与することで、香木の価値を高めようとした意図が読み取れるかもしれない。そして、「黄熟香」という物質的特徴を表す名から、より物語性や権威性を帯びた「蘭奢待」へと呼称が移り変わったとすれば、それはこの香木が単なる宝物から、より政治的・社会的な意味合いを帯びた存在へと変容していく過程を反映しているのかもしれない。
蘭奢待の材質は、香木の中でも特に珍重される沈香(じんこう)の一種であり、その中でも最上級品とされる「伽羅(きゃら)」であるとされている 1 。この事実は、1996年(平成8年)に行われた宮内庁正倉院事務所による科学的な調査によって、その香り成分が伽羅と一致することが確認されている 1 。伽羅は沈香の中でも特に樹脂分を多く含み、生成に長い年月を要するため、その価値は他の沈香とは比較にならないほど高い 6 。
産地は東南アジア、具体的にはベトナムやタイ周辺と推定されている 1 。その形状は、全長が約1.5メートルから1.56メートル、最大直径は37.8センチメートルから43センチメートル、重量は約11.6キログラムにも及ぶ巨大な錐(きり)形の原木である 1 。特筆すべきは、その内部が空洞になっている点である 1 。
この巨大さと特異な形状は、蘭奢待の神秘性を高める要因の一つであったろう。同時に、内部が空洞であることは、良質な樹脂が外周部に集中している可能性を示唆し、また、一部を切り取る際に全体の形状を大きく損なうことなく、かつ比較的容易に加工できた可能性も考えられる。そして何よりも、「伽羅」であるという事実が、蘭奢待の価値を絶対的なものとし、古来より権力者たちがこれを渇望した最大の理由と言えるだろう。
蘭奢待が日本へいつ、どのようにしてもたらされたかについては、正確な記録は残っていない。9世紀頃に伝えられたとする説 1 や、鎌倉時代以前には日本に存在したとする説 1 があり、詳細は不明である。しかし、少なくとも800年以上前の平安時代末期には正倉院に納められていたと推定されている 4 。
最も有力な説としては、聖武天皇(在位724年~749年)が入手し 2 、天皇の崩御後、光明皇后が夫の遺愛の品々の一つとして、756年(天平勝宝8年)に東大寺大仏に奉献し、それが正倉院に納められたというものである 9 。正倉院宝物目録では「黄熟香」として記載され、宝物番号は中倉135とされている 3 。
正倉院に納められた当初は、必ずしも今日知られるような著名な存在ではなかったようであるが、長い年月を経てその素晴らしい香木の評判が世に広まっていったと考えられている 3 。この伝来経路の不明瞭さが、かえって蘭奢待の神秘性を高め、例えば源頼政が鵺(ぬえ)退治の褒美として天皇から下賜されたといった伝説 12 を生む土壌となったのかもしれない。そして何よりも、正倉院という天皇家の宝庫、いわば「聖域」に「勅封の宝物」として納められたことが、蘭奢待を単なる香木から「国家の至宝」へと昇華させ、それを切り取る行為が最高権力者の特権として認識される基盤となったと言えるだろう 1 。
蘭奢待は、その希少性と高い価値から、歴史を通じて多くの権力者たちの関心を集め、その一部を切り取ることは、彼らの権威を象徴する行為と見なされてきた。
室町幕府の足利将軍家は、蘭奢待と深い関わりを持った。第3代将軍・足利義満(1358年~1408年)は、「蘭奢待」という雅名の由来とされる時代にその名が登場し 3 、彼自身もこの香木を切り取った記録が残されている 1 。
続く第6代将軍・足利義教(1394年~1441年)も、1429年(永享元年)に、父・義満の先例に倣って蘭奢待の一部を切り取ったと伝えられている 1 。これは、単に香木への興味だけでなく、父の権威を継承するという意思表示でもあったのかもしれない。
そして、第8代将軍・足利義政(1436年~1490年)は、特に香道に深く傾倒し、蘭奢待を切り取ったことで、この香木の名声を一層高めた人物として知られる 1 。彼の切り取りは、東山文化の創出者としての文化的権威が香木に転移した結果とも言え、蘭奢待に「箔をつけた」と評されるほどであった 15 。また、義政が蘭奢待を切り取った時期が、銀閣寺の建立計画と関連していた可能性も示唆されている 15 。応仁の乱(1467年~1477年)後の社会不安の中で、失墜しつつあった幕府の権威を、武力ではなく文化的な側面から再構築しようとする試みの一環として、この至宝の切り取りが行われたとも考えられる。
これらの足利将軍家による蘭奢待の切り取りは、単なる個人的な趣味や嗜好を超え、将軍家の権威を天皇家や他の武家勢力、さらには民衆に示すための政治的行為としての側面が強かったと言えるだろう。
戦国時代、天下統一を目前にした織田信長(1534年~1582年)もまた、蘭奢待に強い関心を示し、これを切り取ったことで知られる。
信長が蘭奢待を切り取ったのは、1574年(天正2年)3月のことであった 2 。彼はまず正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅許を得て、東大寺の僧侶たちの立ち会いのもと、奈良の多聞城(たもんじょう)で蘭奢待を閲覧した 4 。そして、仏師に命じて、足利義政が切り取った跡の隣から、1寸8分(約5.5センチメートル)四方の木片を二片切り取らせたと記録されている 1 。この時、信長は家臣たちに対し、「末代の物語に拝見しておけ」と述べたと伝えられており 2 、自身の行為が歴史的な偉業であるという強い自己認識と、それを後世に伝えようとする意志がうかがえる。
信長が切り取りの場所として多聞城を選んだことには、戦略的な意図があったと考えられる。多聞城は、かつて松永久秀の居城であり、東大寺や正倉院を見下ろす位置にある大和支配の拠点であった 15 。当時、信長は畿内の制圧を進めており、特に寺社勢力の強い大和国に対する自身の支配権を誇示する目的があったのだろう。正倉院から蘭奢待を「運ばせる」という行為自体が 14 、東大寺に対する信長の優位性を示すものであった。
信長は蘭奢待を切り取るにあたり、正親町天皇の勅許を得るという手続きを踏んでいる 2 。この行為は、信長が朝廷を支え、新たな関係を構築しようとしたものと解釈する見方がある 15 。一方で、天皇を威圧し、自身の権力を誇示する目的、さらには自身を天皇を超える存在として神格化しようとする意図があったとする説も根強い 1 。
事実、正親町天皇は、元関白の九条稙通(くじょうたねみち)に宛てた手紙の中で、信長の強引な要請に応じざるを得ず、「このたび不慮に勅封をひらかれ」たと、その無念の思いを綴っている 1 。このことは、勅許という形式は踏まえつつも、実質的には信長の強大な武力を背景とした圧力の結果であり、当時の朝廷と武家権力の力関係を象徴する出来事であったことを示唆している。渡邊大門氏のように、信長の行為を「マウント説」や「威圧説」と単純化することに否定的な見解(手続きを遵守し、単に至宝への欲求があったとする説)もあるが 1 、結果として天皇に無念を抱かせたという事実は、その行為が持つ政治的影響の大きさを物語っている。
信長が切り取った二片の蘭奢待のうち、一片は正親町天皇に献上された 1 。天皇はこれをさらに九条稙通に贈ったとされている 1 。
もう一片は信長自身が所有し、後に茶会でその香りを披露し、千利休らに分け与えたという説がある 1 。また、この一片が毛利輝元を経て徳川家康の手に渡ったという異説も伝えられている 15 。信長が切り取った蘭奢待を天皇に献上し、さらに有力者に分け与えた行為は、蘭奢待を自身の権威を象徴する「恩賞」として活用する高度な政治戦略であったと考えられる。蘭奢待の断片は、信長を中心とする新たな権力構造の中で流通する「政治的通貨」のような役割を担い、その希少価値をさらに高め、伝説を広める効果をもたらしたと言えるだろう。
時代は下り、明治維新後の1877年(明治10年)、明治天皇(1852年~1912年)は奈良行幸の際に正倉院を訪れ、蘭奢待の一部を切り取り、その一片を焚いたと記録されている 1 。
この行為の背景には、明治初期の政情不安があった。士族の反乱が相次ぐなど不安定な状況の中、天皇の行幸を通じて民衆の心を掴み、新たな天皇家の権威を伝統と結びつけて再確立しようとする意図があったと考えられる 15 。過去の権力者、特に天皇や将軍の行為を意識し、近代における天皇の権威を伝統的な権威の象徴である蘭奢待に関与することで、新政府と天皇の正統性をアピールする狙いがあったのだろう。蘭奢待を「自らの手で裂き、炊いた」とされる行為は 15 、香りを直接体験することを通じて、過去の権力者との精神的な繋がりや、文化の継承者としての立場を強調する意図も含まれていたのかもしれない。
戦国時代を終焉させ、江戸幕府を開いた徳川家康(1543年~1616年)は、大の香木好きとして知られ、蘭奢待を手に入れた際にはこの上ない喜びを示したと伝えられている 15 。しかし、彼は正倉院に納められている蘭奢待そのものを切り取ることはしなかった 20 。
その理由として、過去に蘭奢待を切り取った足利義教が嘉吉の乱で暗殺され、足利義政が応仁の乱を引き起こし、そして織田信長が本能寺の変で討たれるなど、不吉な出来事が続いたというジンクスを気にしたためではないかという説がある 13 。
家康は切り取る代わりに、むしろ蘭奢待を収めるための豪華な唐櫃(からびつ)を寄進するなど、正倉院の宝物の保護に貢献したとされている 15 。この唐櫃は、後に五代将軍・綱吉の時代にも新たに寄進されている 15 。家康が蘭奢待を切り取らなかったのは、単なるジンクスへの恐れだけでなく、新たな支配体制である江戸幕府の安定と正統性を、破壊的な行為ではなく「保護」という形で示そうとした、高度な政治的判断であった可能性も考えられる。文化の保護者としての側面を強調し、幕府の権威を別の形で確立しようとしたのかもしれない。
蘭奢待の表面には、歴史上の権力者たちによって切り取られた跡が数多く残されている。特に、足利義政、織田信長、そして明治天皇が切り取ったとされる箇所には、その旨を記した付箋が貼られていることが知られている 2 。
しかし、2006年(平成18年)1月に行われた大阪大学の米田該典(よねだかいすけ)助教授(当時、薬史学)による詳細な調査の結果、これらの著名な3ヶ所以外にも、合計で38ヶ所もの切り取り跡が確認された 1 。さらに、同じ箇所が複数回にわたって切り取られた可能性も考慮すると、実際には50回以上切り取られたのではないかと推定されている 1 。この事実は、記録に残る著名な人物以外にも、歴史の陰で名もなき権力者や、あるいは非公式な形で蘭奢待にアクセスできた人々が存在した可能性を示唆しており、蘭奢待が歴史を通じて極めて広範囲かつ継続的に「権力の象徴」として渇望され、消費されてきたことを物語っている。また、平安時代の権力者である藤原道長(966年~1028年)も蘭奢待を切り取ったという先例が言及されており 14 、蘭奢待を巡る歴史の深さを物語っている。
米田氏の調査は、文献史学だけでは明らかにならなかった蘭奢待の歴史的実態を、科学的なアプローチによって明らかにした点で非常に重要である。薬史学という専門分野からのアプローチが、文化財研究に新たな視点をもたらした好例と言えるだろう。
表1:蘭奢待を切り取った主要人物とその概要
人物名 |
年代(推定) |
主な目的・背景 |
関連資料 |
藤原道長 |
平安時代中期 |
自身の権勢を背景に、正倉院の宝物を自由に検分し、その際に切り取ったとされる。権力誇示の先例。 |
14 |
足利義満 |
室町時代前期 |
「蘭奢待」の雅名の由来に関与した可能性。将軍家の権威確立と文化的関心。 |
1 |
足利義教 |
室町時代中期 |
1429年(永享元年)。父・義満の先例を踏襲し、将軍権威の継承を示す。 |
1 |
足利義政 |
室町時代後期 |
香道への深い関心。東山文化の創出者としての文化的権威を背景に、蘭奢待の名声を高める。応仁の乱後の幕府権威再構築の一環の可能性。 |
1 |
織田信長 |
戦国時代~安土桃山時代 |
1574年(天正2年)。天下人としての権威誇示、朝廷への影響力行使、畿内(特に大和)支配の確立。 |
1 |
明治天皇 |
明治時代 |
1877年(明治10年)。明治初期の政情不安の中、天皇家の権威再確立と伝統文化の継承者としての立場を示す。 |
1 |
蘭奢待がこれほどまでに歴史上の人物を魅了してきた背景には、その物質的な希少性や権威性だけでなく、実際に放つとされる類稀な香りがあった。
蘭奢待の香りについては、いくつかの歴史的記録が残されている。明治天皇が1877年(明治10年)に切り取らせた一片を焚いた際には、その香りを「薫烟芳芬(くんえんほうふん)」、すなわち豊かで素晴らしい香りが立ち込めたと記録されている 2 。
また、同じく明治天皇がその香りを「古めきしずか」と表現したという話も広く知られている 5 。この表現の直接的な一次史料は必ずしも明確ではないものの、蘭奢待の香りの印象を的確に捉えたものとして語り継がれている。「古めき」という言葉は、その香木が持つ長い歴史と由緒を、「しずか」という言葉は、派手さではなく奥ゆかしく落ち着いた品格を想起させる。この表現には、単に香りの質だけでなく、蘭奢待が内包する歴史的背景や文化的価値への敬意が込められているのかもしれない。
明治時代の研究家である蜷川式胤(にながわのりたね)は、その香りを「香気軽く清らかにして、誠にかすかのかほり有り」と評価している 4 。他にも、「爽やかで軽い香り」「複雑な香りではなく単一の香り」といった記録も見られる 1 。これらの表現は、時代や評価者によって微妙なニュアンスの違いこそあれ、共通して「清らかさ」「上品さ」「奥深さ」、そして1200年以上の時を経てもなお香りを保ち続けるという「持続性」といった要素を示しており 1 、香木としての質の高さを裏付けている。
日本の伝統文化である香道(こうどう)においても、蘭奢待は特別な位置を占めている。香道では、香りを単に嗅ぐのではなく、精神を集中させてその奥深さを感じ取ることを「聞く(もんこう)」と表現する 10 。
室町幕府8代将軍・足利義政は香道に深く関与し、蘭奢待の調査を命じたとも言われる 15 。彼が編纂に関わったとされる香木のリスト『六十一種名香』の中では、蘭奢待が最高峰に位置づけられ、香りの要素とされる五味(甘い、苦い、辛い、酸っぱい、塩辛い)のすべてを備えていると記されたという 15 。五味の全てを持つという評価は、香りの調和がとれ、極めて奥深いことを意味し、このような香りを「聞き分ける」能力は、一種の教養やステータスを示すものとされたであろう。
香木は、その産地や香質によって「六国五味(りっこくごみ)」という体系で分類されることがある 15 。蘭奢待は伽羅であるため、六国の一つ「伽羅」に分類される。香道の世界において、蘭奢待は単に希少な香木というだけでなく、その輝かしい歴史的背景や時の権力者たちとの関わりによって、特別な「物語」を持つ香として別格の扱いを受けてきたと言える。濱崎加奈子氏の論文では、香と王権の関係、特に蘭奢待と王権の結びつきについて論じられており 27 、香道家元が蘭奢待を扱う際に「重厚感、威圧感がすごかった」と語るように 15 、その存在は香り以上の何かを感じさせるものであった。
近代以降、蘭奢待の香りの正体やその特質について、科学的なアプローチからの解明も試みられてきた。前述の通り、1996年(平成8年)に宮内庁正倉院事務所が行った科学調査では、蘭奢待の香り成分が最高級の香木である伽羅のものと一致することが確認された 1 。
また、薬史学者の米田該典氏の研究によれば、沈香の主要な香り成分としてセスキテルペン類であるdihydrokaranoneなどが検出され、その組成からベトナムやその近隣地域に産するジンチョウゲ科アキラリア属(Aquilaria属)の樹木に樹脂が沈着して形成されたものと考えられると報告されている 28 。現代の科学技術、例えばガスクロマトグラフィー法などを用いれば、香木の成分を詳細に分析することが可能である 21 。
これらの科学的分析は、蘭奢待に関する古来からの伝承や評価、特にそれが伽羅であるという点に客観的な裏付けを与え、その価値を現代においても揺るぎないものにしたと言える。しかしながら、成分が特定されたとしても、それが「古めきしずか」といった感覚的な表現や、歴史の中で培われてきた文化的な評価とどのように結びつくのかは、科学だけでは説明しきれない。香りの評価には、化学的組成だけでなく、歴史、文化、そして個人の感性が複雑に絡み合っているのである。
蘭奢待は、その歴史的背景と希少性から、日本の様々な文化領域に影響を与え、現代においてもその名は特別な響きを持っている。
蘭奢待は、そのドラマチックな歴史から、多くの文学作品や芸能、美術の題材として取り上げられてきた。歌舞伎の演目である『仮名手本忠臣蔵』の大序には、新田義貞が兜に焚きしめた香としてその名が見え、『加賀見山旧錦絵』ではお家騒動の重要な小道具として登場するなど、物語に深みと権威を与える存在として描かれている 16 。
また、平安時代末期の武将・源頼政が、宮中に出現した怪物「鵺(ぬえ)」を退治した褒美として、天皇から獅子王の太刀とともに蘭奢待を下賜されたという伝説も広く知られている 12 。この逸話は、蘭奢待が武勇の象徴としても捉えられていたことを示唆している。
美術の分野では、織田信長が蘭奢待を切り取り権力を誇示したという逸話は、岐阜駅前に立つ信長像のモチーフの一つとなっている可能性も指摘されている 8 。また、明治初期の奈良一刀彫の名工・森川杜園(もりかわとえん)は、1873年(明治6年)に蘭奢待の精巧な模刻を制作しており、これは現在東大寺に所蔵されている 29 。
現代においても、蘭奢待の名は高級品や最高級の品質を想起させるブランドイメージとして用いられることがある。例えば、日本酒の銘柄 1 や固形墨の商品名 30 などにその名が見られ、本物を直接手にすることが難しい多くの人々にとって、その権威性や高級なイメージを間接的に享受する手段となっている。これらの事例は、蘭奢待が時代を超えて日本人の権力観や美意識に影響を与え続け、その文化的影響力を拡大させてきたことを示している。
正倉院に厳重に保管されている蘭奢待本体とは別に、歴史の中で切り取られた断片の一部が、各地に伝世している。その代表的なものとして、徳川美術館が所蔵する「香木 銘 蘭奢待」が挙げられる 31 。付属する由来書によれば、この0.4グラムの小片は、かつて源頼政が所持し、室町時代末期には太田道灌の手に渡り、その後、越前松平家の家臣松平十蔵を経て徳川将軍家に献上されたという。さらに東福門院和子が入手し、後に香道志野流七世の蜂谷宗清が拝領したと記されており、その複雑な伝来は、蘭奢待の断片がいかに貴重な品として権力者や文化人の間を移動してきたかを物語っている。
また、滋賀県の三井寺には、明治時代の初期に、当時の政府高官であった町田久成が明治天皇の命により切り取ったとされる蘭奢待の断片が残されている 15 。これらの断片は、正倉院の蘭奢待本体の権威を背景に持ちつつ、それぞれの所有者のもとで新たな物語を紡いできたと言えるだろう。
前述の森川杜園による蘭奢待の模刻も 29 、本物の蘭奢待を直接見ることが叶わない人々にとって、その威容と歴史的価値を伝える重要な役割を担ってきた。特に明治期の奈良における文化財保護と伝統工芸振興という文脈の中で制作されたこの模刻は、蘭奢待の文化的価値を後世に伝えようとする意識の表れと言える。
正倉院の至宝である蘭奢待(黄熟香)は、奈良国立博物館で毎年秋に開催される正倉院展において、過去に何度か出陳された実績がある 11 。その公開は国民にとって、日本の歴史と文化を象徴するこの貴重な香木を目の当たりにする稀有な機会となるため、常に大きな注目を集めてきた。
しかし、蘭奢待本体の出陳は頻繁ではなく、例えば令和4年(2022年)の第74回正倉院展では、蘭奢待と並び称されるもう一つの名香「全浅香(ぜんせんこう)」が出陳されたものの、蘭奢待(黄熟香)本体の出陳記録は近年では確認されていないようである 11 。提供された資料からは、2008年(平成20年)以降の蘭奢待本体の具体的な出陳記録を明確にすることは困難であった 34 。
近年の傾向として、実物の展示が文化財保護の観点から慎重にならざるを得ない場合、関連する宝物や、蘭奢待をテーマとしたVR(仮想現実)映像などが代替的に展示されることもある 36 。これは、文化財の保存という至上命題と、より多くの人々にその価値を伝えたいという普及啓発の試みとの間で、バランスを模索している現代的な状況を反映しているのかもしれない。
蘭奢待は、単なる香木という物質的な存在を遥かに超え、日本の歴史の中で権力、文化、信仰、そして美意識と深く結びつき、時代を超えて人々の心を捉え続けてきた稀有な存在である。その名は東大寺の文字を秘め、材質は最高級の伽羅とされ、聖武天皇の時代から正倉院に納められてきたという由緒は、それ自体が比類なき価値を物語っている。
本報告で詳述したように、足利将軍家、織田信長、明治天皇といった各時代の最高権力者たちが、それぞれの思惑と時代背景のもとに蘭奢待と関わり、その一部を切り取るという行為は、彼らの権威を象徴する出来事として歴史に刻まれた。一方で、徳川家康のように、その力を畏敬し、あえて切り取らずに保護に努めた権力者の存在もまた、蘭奢待が持つ特別な意味合いを際立たせている。
「薫烟芳芬」「古めきしずか」と記録されたその香りは、多くの人々を魅了し、文学や芸能、美術の世界にもインスピレーションを与え続けてきた。米田該典氏らによる科学的な調査は、38ヶ所にも及ぶ切り取り痕の存在を明らかにし、文献記録だけでは知り得なかった蘭奢待の歴史の奥深さを示した。
現代においても、蘭奢待は日本の貴重な文化遺産として大切に守られると同時に、その名は高級品や最高級の品質を象徴する言葉として生き続けている。蘭奢待の物語は、日本の歴史における「権威の象徴」が時代とともにどのように変容し、また継承されてきたかを示す一つの縮図と言えるだろう。そして、目に見えない「香り」という要素が、いかに大きな物質的・文化的価値を持ち得るか、また、文化財の保存と活用という普遍的な課題を、この一本の香木がいかに体現してきたかを、我々に問いかけ続けているのである。