赤楽茶碗「臨済」は利休七種の一つ。口縁の山疵と見込みの五徳目が特徴で、臨済宗五山に見立てられた。作者は長次郎説と織田有楽斎説があり、戦国時代の美意識と権威を象徴する。
安土桃山時代、日本の文化が絢爛たる花を咲かせたその中心に、茶の湯はありました。そして、その茶の湯の世界に一つの大きな指標を打ち立てたのが、千利休の審美眼によって選び抜かれたとされる七つの茶碗、「利休七種」あるいは「長次郎七種」です 1 。黒楽茶碗三種(「大黒」「鉢開」「東陽坊」)と赤楽茶碗四種(「早船」「木守」「検校」「臨済」)からなるこの一群は、単なる優れた茶碗の集まりではありません。それらは、利休が追求した「わび茶」の理念を体現する器として、後世の茶道における「名物」の価値観を根底から方向づけ、今日に至るまで絶対的な規範として君臨しています 2 。
しかし、この栄光に満ちた七種の中に、ひときわ異彩を放つ存在があります。それが赤楽茶碗「臨済」です。「臨済」は、同じく赤楽の「検校」と共に、その歴史の早い段階で姿を消し、本歌(ほんか、オリジナルの作品)が今日に伝わっていません 1 。この「不在」という事実は、一つの逆説を生み出しました。実物を見ることができないがゆえに、「臨済」をめぐる伝説や言説は時代と共に増幅され、その謎めいた存在は後世の陶工たちの創作意欲を絶えず掻き立てるインスピレーションの源泉となったのです 6 。
本報告書は、この失われた名碗「臨済」について、単に伝承される情報を整理、再説するに留まりません。その作者、名称、意匠にまつわる諸説を、それが生まれた「戦国時代」という激動の時代の社会的、文化的文脈の中に置き直し、再解釈することを試みます。一つの茶碗が、いかにして当時の政治的権威、宗教的思潮、そして革新的な美意識を映し出す鏡となり得たのか。本報告は、その多角的な解明を目的とします。
赤楽茶碗「臨済」をめぐる言説の中心には、その命名の由来となったとされる二つの特徴的な意匠が存在します。一つは口縁部の「山疵」、もう一つは内面の「五徳目」です。本章では、これら二つの要素を深く掘り下げ、それらが単なる形状の描写を超え、戦国時代の美意識と価値観を反映した、多層的な意味を帯びていた可能性を探ります。
「臨済」の名の由来として最も広く知られている説は、茶碗の口縁部に生じた五箇所の「山疵」を、京都の臨済宗寺院の格付け制度である「京都五山」に見立てた、というものです 5 。この「山疵」とは、窯の中での焼成中に生じる焼き破れや亀裂、すなわち「窯疵(かまきず)」を指します。
通常であれば、このような窯疵は陶磁器において「欠陥」と見なされます。しかし、わび茶が勃興した桃山時代においては、その価値観が大きく転換しました。作為を排し、不完全さや自然の成り行きの中にこそ深い美しさを見出すという美意識が、茶の湯の世界を席巻したのです 10 。例えば、江戸時代初期の芸術家である本阿弥光悦が作陶した楽茶碗では、「窯割れ」や「山疵」が欠点どころか、器に力強い表情と作為を超えた景色を与える重要な見所として、積極的に評価されています 12 。この文脈に照らせば、「臨済」の山疵もまた、単なる偶然の産物ではなく、わびの美意識によって選び取られ、価値を与えられた重要な特徴であったと理解できます。
ここに、一つの深い洞察が生まれます。この「見立て」は、単に不完全なものを美しいと捉えるわびの精神の発露に留まりません。それは、本来「欠陥」であるはずの窯疵を、当代最高の文化的・宗教的権威の象徴であった「臨済宗五山」へと昇華させる行為です。偶然の産物である「疵」を、最高の「格」を持つ象徴へと意味転換させるこの所作は、極めて高度な知的遊戯であり、茶碗というミクロコスモスに社会の権威構造を投影する、意図的な価値付与の行為であったと言えるでしょう。欠陥の美が、権威の象徴へと転化する瞬間がここにあります。
「臨済」の意匠をめぐる考察において、これまで見過ごされがちであったものの、極めて重要な特徴が、茶碗の見込み(内側の底部分)に存在します。複数の資料が、口縁の山疵とは別に、「臨済」には「大きな五徳目」があったことを特筆しているのです 4 。この特徴は、「臨済」を他の利休七種から明確に区別する鍵となります。
「目跡(めあと)」とは、本来、窯の中で器を重ねて焼く際に、器同士が釉薬で融着するのを防ぐために挟む、小さな粘土片や道具土の跡を指します 4 。利休七種の他の茶碗、例えば「早船」や長次郎作の他の赤楽茶碗にも、五つの目跡が見られる例は存在します 1 。しかし、「臨済」のそれは単なる目跡ではなく、「大きい」と特記され、さらに「装飾として使っている」のではないかという、極めて示唆に富んだ指摘がなされています 4 。これは、機能的な痕跡が、意図的なデザインへと転用された可能性を示しています。
この事実は、さらなる解釈の扉を開きます。「臨済」には、外側の「五つの山疵」と、内側の「五つの五徳目」という、二つの「五」を象徴する意匠が共存していたことになります。この二つの「五」の響き合いは、単なる偶然の一致とは考えにくいものです。ある資料が「奇遇か、五徳跡も5つあり、これを利休は臨済の名の由来にした可能性」を指摘しているように 4 、この二つの要素は意図的に関連付けられていたと推察するのが自然です。
これにより、「臨済」の命名は、口縁の景色という単一の要素にのみ基づいていたのではなく、茶碗の内と外に響き合う「五」という数字のシンボリズム全体に基づいていた、というより深く、構造的な解釈が可能になります。これは、利休の「見立て」の精神が、器の一部分を切り取るのではなく、その全体構造を捉え、内包された複数の意味を読み解く、極めて高度なものであったことを物語っています。
利用者様が事前に把握されていた情報にもあるように、「臨済」の名には、「最も優れた祖師は臨済宗であるという説から随一の意もある」という解釈が伴います。これは、この茶碗が単に七つの名碗の一つとして並び称されるだけでなく、その中でも筆頭、あるいは特別な地位にあると認識されていたことを強く示唆します。
この「随一」という意識は、単なる愛好家の主観的な評価ではありません。それは、後述する京都五山の絶対的な権威性と、それを名に冠することの重みに直結しています。戦国時代、有力な武将たちは領地や兵力だけでなく、茶器などの「名物」を渇望し、その所有を通じて自らの文化的権威と社会的地位を誇示しました。この「名物狩り」に象徴される文化は、道具を通じた厳格な格付けと序列化のシステムを社会に浸透させました。「臨済」に込められた「随一」のニュアンスは、まさにこの時代の価値観を色濃く反映しており、この茶碗が美しさだけでなく、序列の頂点を示す記号としての役割を担っていたことを物語っているのです。
赤楽「臨済」の出自をめぐる謎は、その作者とされる二人の人物、楽長次郎と織田有楽斎の存在によって、さらに深みを増しています。この作者論争は、単なる歴史的事実の認定という問題に留まりません。それは、戦国時代の茶の湯を支えた二つの異なる階層、すなわち「わび」の精神を具現化する専門職人と、茶の湯を武家の教養と権威の象徴とした大名茶人という、二つの価値観の相克を象徴しているのです。
「臨済」が、楽焼の祖である長次郎の作である、というのが最も広く受け入れられている通説です。この説によれば、「臨済」は千利休の直接的な指導と美意識のもとに生み出された「利休七種」の一つとして位置づけられます 1 。
長次郎の作陶は、当時の陶芸技術において画期的なものでした。彼は轆轤(ろくろ)の回転運動による均整の取れた形ではなく、両の手のひらで土を捏ね上げて形作る「手捏ね(てづくね)」という技法を用いました。その結果生み出される器は、静かで内省的、そして過度な作為を排した独特の造形を持っています 16 。この作風は、まさしく利休が茶の湯の理想として追求した「わび」の精神性を、器という具体的な形として結晶させようとする試みそのものでした 11 。
「臨済」の具体的な姿を推し量る上で、現存する長次郎作の赤楽茶碗は重要な手がかりとなります。特に、同じく利休七種に数えられる赤楽茶碗「早船」(畠山記念館蔵)は、現存する唯一の七種赤楽であるため、比較対象として極めて重要です 19 。また、長次郎初期の赤楽の傑作とされ、利休・宗旦が所持したと伝わる重要文化財「無一物」(頴川美術館蔵)も、「臨済」が持ち得たであろう釉薬の調子や柔らかな土の質感、端正でありながら温かみのある佇まいを想像させます 16 。これらの名碗との比較を通じて、失われた「臨済」の姿を、ぼんやりとではありますが、その輪郭のうちに捉えることが可能となります。
長次郎作という通説に対し、古くから有力な異説として存在するのが、織田有楽斎(長益)の作であるという説です。この説の根拠は、表千家四代家元である江岑宗左(こうしんそうさ)が残した茶書の中の記述に遡ります 21 。これは単なる後代の俗説として片付けられるものではなく、複数の茶書や資料で繰り返し言及されており、看過できない重みを持っています 4 。
織田有楽斎は、戦国時代を代表する大名茶人の一人です。織田信長の実弟という血筋に生まれながら、本能寺の変や関ヶ原の戦いといった激動の時代を巧みに生き抜き、武将としてだけでなく、文化人としても大きな足跡を残しました 23 。彼は千利休に茶を学び、その高弟である「利休十哲」の一人に数えられるほどの実力者であり、後には独自の茶道流派「有楽流」を創始しました 25 。また、彼が建立した茶室「如庵(じょあん)」は、現存する国宝茶席三名席の一つとして知られ、その独自の美意識の高さを今に伝えています 23 。
この有楽斎作説を一層説得力のあるものにしているのが、彼と臨済宗との極めて深い関係です。有楽斎は晩年、京都の臨済宗大本山・建仁寺の塔頭(たっちゅう、大寺院の敷地内にある小寺院)である正伝院を再興し、そこを終の棲家と定めました 28 。臨済宗の寺院を自らの精神的な拠点とした人物が、「臨済」と名付けられた茶碗を作ったとするならば、その命名には極めて個人的かつ深い動機があったと考えるのは自然な推論です。
「臨済」の作者は長次郎か、それとも有楽斎か。この問いは、一つの茶碗の出自をめぐる単なる学術的な論争ではありません。それは、戦国時代の茶の湯が内包していた二つの異なる価値観のせめぎ合いを、象徴的に映し出す鏡なのです。
長次郎は、利休という絶対的な思想家でありプロデューサーの下で、その「わび」の理念を具現化することに専心した専門職人(アルチザン)です。もし「臨済」が彼の作であれば、その価値の源泉は、利休の美意識の純粋な結晶であるという点に求められます。それは、政治や権力の世界から一歩引いた、精神性の高い造形物として評価されるでしょう。
一方、織田有楽斎は、茶の湯を深く愛好するだけでなく、彼自身が政治と権力の世界に生きる当事者(大名)です。もし「臨済」が彼の作であれば、この茶碗は単なる茶の道具という側面に加え、武家の高い教養と社会的威信を示すステータスシンボルとしての性格を色濃く帯びることになります。その価値は、作り手の精神性だけでなく、その社会的地位によっても担保されるのです。
したがって、「臨済」の作者をどちらと見なすかによって、この茶碗が持つ意味合いは大きく変容します。この作者論争は、一つの名碗をめぐり、戦国時代の茶の湯が内包していた「精神性の追求(わび)」と「社会的威信の表明(権威)」という二つの側面が、互いに拮抗している様相を呈しているのです。この茶碗の価値が、その出自をめぐる言説によって揺れ動くこと自体が、戦国という時代の価値観の複雑さと豊かさを何よりも雄弁に物語っています。
視点を個々の人物から、彼らが生きた時代の精神世界へと広げるとき、「臨済」という名に込められた意味は、より一層の深みを帯びてきます。なぜ「臨済」という名が選ばれたのか。その問いは、戦国時代の宗教観と権威構造、そして茶の湯と禅宗の不可分な関係を解き明かすことで、その答えを見出すことができます。
「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」という言葉が示すように、茶の湯の道と禅の教えは、その根源において一つに結びついています 32 。そもそも日本に喫茶の文化、特に抹茶を飲む習慣をもたらしたのは、鎌倉時代の禅僧・栄西であり、その文化は禅院の儀礼である「茶礼(されい)」の中で育まれてきました 33 。茶の湯の歴史は、禅宗、とりわけ臨済宗の歴史と分かちがたく結びついているのです 36 。
この伝統は、千利休の時代において頂点を迎えます。利休自身、京都紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山、大徳寺の僧・春屋宗園(しゅんおくそうえん)に参禅し、同寺の塔頭である聚光院(じゅこういん)を自らの菩提寺と定めるなど、禅宗と極めて深い精神的な結びつきを持っていました 38 。彼が確立した「わび茶」の簡素で静澄な世界観は、禅の思想、すなわち虚飾を排し、自己の内面と向き合うという精神性を抜きにしては到底語ることができません 10 。
この禅宗との深い関わりは、利休個人のものに留まりませんでした。戦国の世を生きる武将たちにとって、臨済宗の禅僧は単なる宗教家ではなく、乱世を生き抜くための精神的な指導者であり、時には外交や内政を担う政治的なブレーン(軍師)としての役割も果たしました 41 。心を鍛え、生死を超克しようとする禅の厳しい修行は、常に死と隣り合わせであった武士の精神性と高い親和性を持っていたのです 42 。このように、茶の湯の精神的支柱であり、武家社会の指導理念でもあった臨済宗の名を茶碗に冠することは、茶の湯の源流への深い敬意を示すと同時に、その時代の精神文化の核心に触れる行為であったと言えます。
「臨済」という名が直接的に参照しているのは、臨済宗という宗派全体であると同時に、より具体的には「京都五山」という制度です。この五山制度は、鎌倉時代に始まり、室町幕府三代将軍・足利義満の時代に確立された、臨済宗寺院の公式な格付けシステムでした 43 。
この制度では、南禅寺が全ての禅寺の上に立つ「別格」とされ、その下に天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺が「京都五山」として定められました 45 。これらの寺院は、幕府の手厚い庇護を受け、単なる宗教施設に留まらず、漢文学(五山文学)や水墨画などの学問・芸術の中心地として、また日明貿易などを通じた大陸との文化交流の窓口として、絶大な文化的権威を誇りました 47 。
戦国時代に入り、応仁の乱などの戦乱によって多くの寺院が被災し、荘園からの収入が不安定になるなど、その政治的・経済的な影響力は往時の勢いを失っていました 44 。しかし、文化の最高峰としての象徴的な権威は、依然として揺るぎないものがありました。武家政権が公認した文化の序列の頂点、それが「五山」だったのです。
この事実を踏まえると、一つの茶碗に「臨済」と名付ける行為が持つ、戦略的な意味合いが浮かび上がってきます。戦国時代、武将たちは茶器などの「名物」を領地や城と同じように渇望し、その所有が自らの権威と教養を証明する手段となりました。一方で、京都五山は、武家政権自らが作り上げた、文化における最高の権威システムです。
この二つの事象を結びつけると、赤楽茶碗に「臨済」と命名する行為は、その器に「五山」という当代最高の文化的「ブランド」を冠する行為に他なりません。それは、この茶碗が単に造形的に美しいだけでなく、文化的にも正統であり、最高の「格」を持つものであると高らかに宣言する、極めて意識的なネーミング戦略であったと考えられます。利休(あるいは有楽斎)は、器の形や釉薬の調子といった物質的な要素だけでなく、それに付与する「名」という非物質的な要素によっても、茶碗の価値を最大限に高めようとしたのです。
実物が失われた今、「臨済」の具体的な姿を完全に知ることは叶いません。しかし、断片的な伝承や、現存する他の名碗、そして後世に作られた「写し」を手がかりとすることで、その失われた造形美の輪郭を、ある程度の確度をもって再構築することは可能です。本章では、それらの間接的な証拠を丹念に分析し、幻の名碗の姿に迫ります。
「臨済」を理解するためには、それを孤立した存在としてではなく、「利休七種」という体系の中の一要素として捉える視点が不可欠です。特に、現存する黒楽「大黒」「東陽坊」、そして同じ赤楽である「早船」との比較は、失われた「臨済」の姿を類推する上で極めて有効な手法となります。
名称 |
分類 |
現存状況 |
所蔵先(判明分) |
寸法(高さ×口径、cm) |
主な造形的特徴・逸話 |
命名の由来・逸話 |
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大黒 |
黒楽 |
現存 (重文) |
個人蔵 |
8.5 × 10.7 50 |
堂々とした大ぶりの姿。静かで気品があり、宗易形茶碗の典型とされる。正面の鋏痕とカセた釉肌が見所 51 。 |
形が大ぶりで福々しい趣があるため 3 。 |
|
鉢開 |
黒楽 |
紛失 |
不明 |
不明 |
宗旦の門人による「細川三斎所持の茶碗によく似ていた」との箱書付が残る 53 。 |
托鉢をする僧の鉢を連想させるためか 9 。 |
|
東陽坊 |
黒楽 |
現存 (重文) |
個人蔵 |
8.5 × 12.3 54 |
静かな作行き。光沢のある黒釉で、懐が広く素朴な見込みを持つ。口縁は高低差のない一文字作り 19 。 |
利休の高弟、真如堂の僧・東陽坊長盛に贈られたため 9 。 |
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臨済 |
赤楽 |
紛失 |
不明 |
不明 |
口縁に五つの山疵。見込みに大きな五徳目が五つあったとされる 4 。 |
|
口縁の景色が京都臨済宗五山を連想させるため。随一の意も [利用者情報]。 |
木守 |
赤楽 |
焼失後復元 |
永青文庫 |
不明 |
浅めの半筒形。飴色の光沢ある釉調。関東大震災で被災し、惺入が残片を継ぎ復元 1 。 |
利休が手元に一つだけ残したことから、柿の木守になぞらえた 9 。 |
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早船 |
赤楽 |
現存 |
畠山記念館 |
8.0 × 11.3 20 |
七種赤楽で唯一の現存品。六つに割れたものを漆で継いだ景色が見所。見込みに不正五角状の目跡 1 。 |
利休が茶会のため、京から大坂へ早船で取り寄せたという逸話から 19 。 |
|
検校 |
赤楽 |
紛失 |
不明 |
不明 |
写しからは、鉢が開いた大ぶりの、楽としては珍しい形であったと推察される 53 。 |
「これほどの良い茶碗が残っていたとは、皆々検校(盲人)同然だ」と利休が言ったため 9 。 |
この一覧表は、「臨済」が置かれていた状況を客観的に示しています。まず、赤楽四種のうち三種までが紛失または焼失という憂き目に遭っており、赤楽茶碗がいかに脆弱な性質を持っていたかが窺えます 1 。同じ赤楽である「早船」と比較すると、「臨済」もまた、やや赤みを帯びた柔らかな土に透明釉が薄くかかり、永年の使用によって落ち着いた風合いを呈していた可能性が考えられます。しかし、決定的な違いは、その意匠の由来にあります。「早船」の価値が「継ぎ」という後天的な傷と逸話に大きく依存しているのに対し、「臨済」の価値は「山疵」と「五徳目」という、焼成時に意図された、あるいは見出された、より根源的な造形に結びついていたと推察されます。
本歌が失われた「臨済」の姿を今に伝えるもう一つの重要な媒体が、後世の陶工たちによって作られてきた「写し(うつし)」です。特に、京都の楽焼窯元である佐々木昭楽や吉村楽入といった作家は、利休七種の写しを精力的に制作しており、その中には「臨済」も含まれています 5 。
これらの写しを分析すると、作り手たちが「臨済」の本質をどこに見出しているかが明らかになります。彼らの作品に共通して見られるのは、口縁部の穏やかな起伏(山疵の再現)と、見込みに配された五つの目跡(五徳目の再現)です。これは、伝承されてきた二つの大きな特徴が、「臨済」を「臨済」たらしめる不可欠な要素として、後世の陶工たちに認識されていることを示しています。彼らは、文献や伝承に残るわずかな情報を頼りに、失われた名碗の姿を自らの手で再構築しようと試みているのです。
もちろん、これらの写しはあくまで後世の解釈に基づいたものであり、桃山時代に作られた本歌そのものではありません。しかし、それらは単なる模倣品に留まらない重要な価値を持っています。写しは、「臨済」という失われた名碗をめぐるイメージと物語が、どのように時代を超えて継承され、解釈され、そして再生産されてきたかを示す、生きた証拠となるのです。本歌の「不在」が、かえって豊かな創造の連鎖を生み出している、その興味深い文化的現象を、これらの写しは体現しています。
本報告書における多角的な調査と分析を通じて、赤楽茶碗「臨済」が、単なる一つの失われた茶道具ではない、極めて重層的で象徴的な文化的存在であることが明らかになりました。その実物が現存しないという事実、すなわち「不在」こそが、逆説的に「臨済」の価値を規定し、豊かな物語性と多義的な解釈を許容する、類い稀な文化的アイコンへと昇華させたのです。
「臨済」は、それが生まれた戦国時代という時代の精神を映し出す鏡でした。その作者をめぐる長次郎説と織田有楽斎説の並立は、利休の「わび」の精神性を追求する専門職人と、茶の湯を武家の教養と権威の象徴とした大名茶人という、当時の社会における異なる立場と価値観の相克を反映しています。その「臨済」という名は、茶の湯の根底に流れる禅宗の精神性と、武家社会が希求した文化的権威の頂点である「京都五山」を結びつける、極めて戦略的な命名でした。さらに、その意匠の根幹をなす「山疵」と「五徳目」は、不完全さの中に美を見出す「わび」の美意識と、器という物質に壮大な世界観を投影する「見立て」の精神が、高度に融合した成果であったと言えます。
最終的に、「臨済」の探求は、一つの失われた茶碗の来歴を追う作業に留まりませんでした。それは、物質的な存在を超え、言説とイメージの中で生き続ける文化的存在の本質と、それが生まれた戦国という時代の精神性の核心に迫る試みでした。「臨済」は、その形を失ったことで、かえって不滅の存在となったのです。その「不在」こそが、この名碗を永遠の謎として、我々の知的好奇心を未来永劫にわたって刺激し続ける、尽きることのない源泉となっているのです。