戦国日本の赤葡萄酒は「珍陀酒」と呼ばれ、外交、薬、信仰の象徴。信長・秀吉・家康が関わり、細川忠利は国産化を試みるも禁教で挫折。開国と鎖国の相克を映す。
日本の戦国時代史において、赤葡萄酒はしばしばフランシスコ・ザビエルが薩摩の太守、島津貴久に献上した異国の珍酒として、その名を刻んでいる 1 。この一献は、日本と西洋の文化が公式に接触した象徴的な瞬間として語り継がれてきた。しかし、この著名な逸話は、葡萄酒が日本の歴史に投じた長く、そして複雑な影の序章に過ぎない。本報告書は、この赤き液体を単なる珍奇な舶来品としてではなく、戦国乱世の政治力学、激化する宗教対立、異文化受容の様相、そして当時の医療観を鮮やかに映し出す「液体の鏡」として捉え直し、その多面的な意味の深層を徹底的に解明することを目的とする。
ザビエルによる献上が、日本の歴史において葡萄酒の存在を公的に決定づけた事件であったことは間違いない。だが、その歴史はさらに半世紀以上も遡る可能性が史料によって示唆されており 3 、また、単なる輸入消費に留まらず、国内での能動的な生産へと展開した事実も近年の研究で明らかになっている 5 。
この時代、赤葡萄酒は「珍陀酒(ちんたしゅ)」という異名で呼ばれ 7 、ある時はキリスト教の神聖な秘跡に用いられる「聖なる血」であり 10 、またある時は病身の武将を癒す貴重な「薬」として珍重された 2 。そして、天下人たちの間では、外交を円滑に進めるための「政治的贈答品」としても機能したのである 12 。本報告書は、これらの多岐にわたる役割を各章で詳述し、一滴の葡萄酒がいかにして戦国という時代のダイナミズムと深く結びついていたかを明らかにする。
年代 |
出来事 |
概要 |
文明15年 (1483) |
『後法興院記』に記録 |
公家の日記に「ちんた」の飲用記録が登場。ザビエル来日の66年前に、既に葡萄酒が京都に存在した可能性を示す 3 。 |
天文18年 (1549) |
ザビエル、鹿児島に来着 |
フランシスコ・ザビエルが島津貴久に赤葡萄酒を献上。日本史における公式な最初の記録とされる 1 。 |
天文20年 (1551) |
大内義隆への献上 |
ザビエルが周防の大内義隆に葡萄酒を含む多数の品を献上し、布教の正式な許可を得る 2 。 |
永禄12年 (1569) |
フロイス、信長に謁見 |
ルイス・フロイスが織田信長に謁見。この時、葡萄酒が献上されたかは不明だが、南蛮文化への関心の高まりを示す 12 。 |
天正14年 (1586) |
秀吉、葡萄酒を受領 |
豊臣秀吉がガスパル・コエリョらイエズス会士と大坂城で謁見した際、進物の中に葡萄酒2樽が含まれていた 12 。 |
天正15年 (1587) |
秀吉、葡萄酒を賞味 |
秀吉が九州平定後、博多にてポルトガル産の葡萄酒を賞味。同年にバテレン追放令を発布し、警戒を強める 13 。 |
慶長16年 (1611) |
家康への献上 |
スペインの使節が徳川家康に「甘い葡萄酒」(シェリー酒と推定)を献上。外交儀礼品としての性格が強まる 12 。 |
寛永4年 (1627) |
国産葡萄酒の醸造開始 |
小倉藩主・細川忠利が、薬用として領内での葡萄酒醸造を命じる。日本初の本格的な国産ワイン製造の試み 15 。 |
寛永9年 (1632) |
醸造計画の継続 |
細川忠利が肥後へ国替えとなる直前まで、葡萄酒醸造が計画されていた記録が発見される 17 。 |
寛永15年 (1638) |
入手困難の記録 |
島原の乱の最中、忠利が薬用として葡萄酒を求めるも、「キリシタンの酒」として売買が禁じられ入手困難となる 11 。 |
葡萄酒が日本の歴史に登場する最初期の記録を丹念に検証することは、ザビエル来航という画期的な出来事が持つ真の意味を再定義する上で不可欠である。通説ではザビエルがその歴史の扉を開いたとされるが、史料はそれ以前から日本社会に葡萄酒が静かに浸透していた可能性を示唆している。
日本の葡萄酒史における最も重要な記録の一つが、室町時代後期の公家、近衛政家の日記『後法興院記』に見られる。文明15年(1483年)の条に、「ちんた」と呼ばれる飲み物を飲んだという趣旨の記述が存在するのである 3 。これは、ザビエルが鹿児島に上陸する実に66年も前の出来事であり、葡萄酒の歴史が戦国時代の幕開け以前にまで遡ることを示す、極めて貴重な史料である。
この「ちんた」が何を指すのかについては、ポルトガル語で赤色を意味する「ティント(tinto)」がその語源であるとする説が最も有力視されている 7 。問題は、大航海時代の本格的な到来以前に、いかなる経路でポルトガルの赤葡萄酒が京都の中央に座す公家の許まで届けられたのかという点である。直接的な証拠はないものの、いくつかの可能性が考えられる。当時の日本は、勘合貿易(日明貿易)や、中継貿易で栄えた琉球王国を介して、アジア各地と結ばれていた。これらの公式な交易ルートのどこかで、あるいは、東アジアの海を縦横に活動した倭寇のような非公式な担い手によって、断続的にもたらされた可能性は十分に考えられる 1 。この一条の記録は、ザビエル以前の日本が、公式史には残りにくい、より偶発的で小規模ながらも多様な異文化接触の場であったことを物語っている。
天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルが薩摩の守護大名・島津貴久に謁見した際の出来事は、日本の葡萄酒史における画期として広く知られている。宣教師兼通訳であったジョアン・ロドリゲスの著作『日本教会史』などの記録によれば、ザビエルは数々の献上品と共に、「美しいガラスびんに入った赤き酒」を貴久に差し出した 1 。
この献上は、単なる異国の珍品を贈るという行為に留まらない、高度に計算された外交戦略の一環であった。ザビエルは、この酒がキリストの血を象徴する神聖なものであると説明し、キリスト教の教義の核心に触れることで、布教活動への理解と許可を求めた 2 。同時に、葡萄酒やガラス瓶、大時計といった品々は、当時の日本には存在しないヨーロッパ文化の先進性や豊かさを誇示するための、強力な視覚的メディアでもあった。
これを受け取った島津貴久の反応は、当時の戦国大名の現実的な思考を如実に示している。彼はザビエル一行を歓迎し、家臣に対してもキリスト教への信仰を許可したが、貴久自身が改宗することはなかった 21 。この事実は、彼の関心が宗教的な救済よりも、南蛮船がもたらす貿易の利益、特に鉄砲や火薬といった軍事物資にあったことを強く示唆している。
同様の事例は、その2年後、天文20年(1551年)にザビエルが周防の大内義隆に謁見した際にも見られる。最初の謁見では成果を得られなかったザビエルは、二度目の謁見で正装に身を包み、葡萄酒を含む豪華な献上品を贈ることで、ついに布教の公認を得ることに成功した 2 。ここでも葡萄酒は、宗教的象徴であると同時に、相手の歓心を買うための有効な外交カードとして機能したのである。
これらの事実を総合すると、ザビエルの功績は、葡萄酒を日本に「初めてもたらした」ことにあるのではなく、それを日本の「権力構造の中心」に初めて公式に持ち込み、外交と宗教という明確な文脈の中に位置づけた点にあると再評価できる。ザビエル以前の「ちんた」が歴史の闇に埋もれた偶発的な一点であったのに対し、ザビエルの一献は、その後の日本の歴史と深く関わっていく葡萄酒の物語の、公式な幕開けを告げる号砲となったのである。
戦国時代の人々が口にした赤葡萄酒とは、一体どのようなものであったのか。その実像に迫るためには、「珍陀酒」という呼称の由来、大洋を渡る長旅が品質に与えた影響、そして当時の日本人の味覚がそれをどのように受け止めたのかを、多角的に検証する必要がある。
戦国時代から安土桃山時代にかけて、日本に渡来した赤葡萄酒は「珍陀酒(ちんたしゅ)」という名で知られていた 7 。この異国情緒あふれる響きを持つ呼称の語源については、いくつかの説が存在する。
最も有力なのは、ポルトガル語で赤ワインを意味する「ヴィーニョ・ティント(vinho tinto)」に由来するという説である 23 。この「ティント(tinto)」という部分が、当時の日本人の耳には「ちんた」と聞こえ、それが定着したと考えられている 7 。また、これとは別に、ポルトガル語で農園やワイナリーを意味する「キンタ(quinta)」が転訛したという説も存在する 7 。いずれにせよ、その語源がポルトガル語にあることは、当時の日本と最も深く関わった南蛮人がポルトガル人であったことを物語っている。
そして、この「ちんた」という音に「珍陀」という漢字が当てられたのは、「天下に珍しい陀羅尼(だらに)のような酒」といった意味合いや、単純に「珍しい酒」という意味合いから、その希少性と異国性を表現するためであったと推測される 2 。この呼称自体が、当時の日本人にとって葡萄酒がいかに目新しく、貴重な存在であったかを物語っている。
ポルトガルのリスボンから日本の長崎まで、喜望峰を回る航路は数ヶ月から一年以上を要する過酷な旅であった。この長期間の船旅は、積み荷である葡萄酒の品質に深刻な影響を与えずにはいられなかった。
当時の木樽や瓶は密閉性が完全ではなく、赤道を二度通過する際の灼熱の気温や、絶え間ない船の揺れは、ワインの酸化や劣化(酸敗)を促進させるには十分すぎる環境であった 7 。そのため、日本に到着した葡萄酒の中には、本来の風味を失い、強い酸味を持つものが少なくなかったと想像される。織田信長が口にしたとされる珍陀酒が、もし酸味の強いものであったとしても不思議ではない 7 。
このような品質劣化の問題を克服するために、大航海時代のヨーロッパでは新たな技術が生み出されていた。それが、ワインの醸造工程の途中または最後にブランデーなどの蒸留酒を添加することでアルコール度数を高め、保存性を格段に向上させた「酒精強化葡萄酒」である 14 。スペインのシェリーやポルトガルのポートワイン、マデイラワインなどがその代表例であり、これらは長い船旅にも耐えうるため、世界中に輸出された 14 。
日本に輸入された葡萄酒の中にも、こうした酒精強化葡萄酒が相当数含まれていた可能性は極めて高い。事実、後の小倉藩主・細川忠利が長崎で買い求めるよう命じたのは「甘いのがよい」葡萄酒であり 11 、徳川家康に献上されたのも「ヨーロッパの甘い葡萄酒」であった 12 。これらの記録は、単に甘口が好まれたというだけでなく、品質が安定し、腐敗しにくい酒精強化葡萄酒が、極めて合理的な選択として求められていたことを示唆している。甘口のポートワインやマデイラワインは、まさにこの需要に応えるものであっただろう。
当時の日本人の食文化は、現代とは大きく異なっていた。ルイス・フロイスの『日本史』などの記録によれば、彼らの食事は米を主食とし、味噌で調味した汁物を好み、全体的に塩辛い味付け(鹹味)を良しとしていた 31 。このような味覚を持つ人々にとって、ヨーロッパの葡萄酒が持つ特有の酸味やタンニンの渋みは、必ずしも心地よいものとは感じられなかった可能性が高い 33 。織田信長が珍陀酒を「血のようだ」と評したという逸話(真偽は不明)も、その外見の異様さだけでなく、味わいの異質さに対する率直な感想であったのかもしれない 7 。
こうした味覚上の違和感からか、葡萄酒は嗜好品として広く普及するには至らず、むしろ「薬」としての側面が強く認識されることとなった。フロイス自身、「(ヨーロッパから輸入される)ブドウから造られたワインは、ミサ用として使うか、大人用の薬として用いるだけである」と明確に記している 2 。また、輸入された葡萄酒に砂糖や蜂蜜を加えて甘くしたり、さらには漢方薬などを混ぜたりして、薬用酒として服用されていたという記録もある 33 。
この「薬」としての認識は、単に飲みにくさを緩和するためだけではなかったかもしれない。古来、中国医学(漢方)の影響が強かった日本では、酒類は血行を促進し、薬物の効果を高めるものとして薬用に使われていた 35 。また、葡萄自体も薬効を持つものとして認識されていた 36 。南蛮渡来の葡萄酒は、こうした既存の医療観の枠組みの中で、「異国の高貴な薬」として理解され、受容されたのである。これは、異文化の産物が土着の価値観と接触する際に起こる「意味の再解釈」の典型的な一例と言えるだろう。甘美な嗜好品というよりも、良薬としての価値が、戦国日本の葡萄酒の第一の姿だったのである。
戦国乱世から天下統一へと向かう激動の時代、日本の頂点に立った三人の英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、南蛮渡来の象徴である葡萄酒と、それぞれ異なる形で関わりを持った。彼らの葡萄酒への態度は、単なる個人の好悪に留まらず、それぞれの個性や対外政策、そして文化への姿勢を映し出す鏡であった。
織田信長といえば、南蛮文化を積極的に取り入れた革新的な君主として知られ、ビロードのマントを羽織り、ワイングラスを傾ける姿がしばしばイメージされる 26 。しかし、意外なことに、信長が葡萄酒を愛飲したという逸話を明確に裏付ける同時代の一次史料は、実のところ存在しない 1 。
むしろ、信長と最も親しく接した宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、信長は「酒を飲まず、食を節する」人物であり、当時の酒豪揃いの戦国武将の中では、むしろ下戸に近かった可能性が高い 3 。フロイスが信長に謁見した際、献上したのは金平糖や蝋燭であり、葡萄酒が含まれていたという記録はない 12 。
信長の関心は、葡萄酒の味そのものよりも、それが象徴する南蛮文化全体に向けられていたと考えるのが妥当であろう。彼は宣教師たちがもたらす地球儀や地図、西洋音楽、そして世界情勢に関する情報に強い知的好奇心を示した。葡萄酒もまた、彼が旺盛に取り入れた数多の南蛮文化の断片の一つに過ぎず、その政治的・軍事的価値に比べれば、優先順位は決して高くなかったのかもしれない。信長が葡萄酒を愛したというイメージは、彼の革新的で異国趣味な人物像と、葡萄酒の持つエキゾチックな魅力が後世において結びつき、一種の「歴史的伝説」として形成された可能性が考えられる。それは、史実の信長像と、後世に創られた理想の信長像との間の興味深い乖離を示している。
信長とは対照的に、豊臣秀吉が葡萄酒を好んで賞味したことは、複数の史料によって明確に記録されている。イエズス会の年報によれば、天正15年(1587年)、九州平定を終えた秀吉は博多に滞在中、イエズス会士の船を訪れ、そこで供された糖菓とポルトガル産の葡萄酒を喜んで楽しんだという 12 。また、その前年の天正14年(1586年)には、大坂城で副管区長ガスパル・コエリョら一行の謁見を受け、その際の進物として「葡萄酒2樽」を確かに受け取っている 12 。
これらの記録は、秀吉が南蛮文化の享楽的な側面に強い関心を持っていたことを示している。しかし、彼の態度は単純な異文化礼賛ではなかった。まさに博多で葡萄酒を楽しんだその直後、秀吉は突如として「バテレン追放令」を発布し、キリスト教への厳しい弾圧へと舵を切るのである 12 。
この一見矛盾した行動は、秀吉の二面性、すなわち個人的な好奇心や享楽と、天下人としての冷徹な政治的判断との間の鋭い緊張関係を浮き彫りにしている。彼は葡萄酒の甘美な味わいを楽しみながらも、その背後にあるキリスト教という組織化された宗教が、日本の支配体制を揺るがしかねない潜在的な脅威であることを鋭く見抜いていた。秀吉にとって、葡萄酒は甘美な毒を含む杯であったのかもしれない。彼の時代は、南蛮文化との出会いがもたらした好奇心と楽観の時代が終わり、文化の浸透に伴う「摩擦と警戒」の時代へと移行する転換点であった。
徳川家康の時代になると、葡萄酒の持つ意味合いはさらに変化する。キリスト教への禁教政策がより徹底される中で、葡萄酒はかつてのような宗教的・政治的な危険性を帯びた存在から切り離され、純粋に希少価値の高い贈答品としての性格を強めていく。
慶長16年(1611年)、スペイン国王の使節が駿府の家康を訪れ、「ヨーロッパの甘い葡萄酒5壺」を献上したという記録がある 12 。この「甘い葡萄酒」とは、前述の通り、保存性に優れた酒精強化葡萄酒であるシェリー酒であった可能性が高い 14 。家康の関心は、教義や文化そのものよりも、あくまで海外諸国との実利的な外交・貿易関係の構築にあった。彼にとって葡萄酒は、そのための儀礼的な道具立ての一つであり、政治的意図を円滑に進めるための潤滑油であった。
信長の時代が南蛮文化との「出会いと好奇心」の段階であり、秀吉の時代が「摩擦と警戒」の段階であったとすれば、家康の時代は、やがて来る鎖国体制を見据えた「管理と統制」の段階へと入っていく。葡萄酒との関わり方の変遷は、戦国末期から江戸初期にかけて、日本が世界に対して開かれ、そして再び閉じようとする大きな歴史の転換点を、鮮やかに映し出しているのである。
人物 |
主な逸話・記録 |
関連史料 |
葡萄酒への態度・認識 |
特記事項 |
島津貴久 |
ザビエルから日本で最初に献上されたとされる 1 。 |
『日本教会史』 |
外交儀礼品、南蛮貿易への期待の対象。宗教的関心は薄い 21 。 |
記録上、葡萄酒を飲んだ最初の日本人大名。 |
大内義隆 |
ザビエルから豪華な献上品の一つとして贈られ、布教を許可 2 。 |
『日本史』、『聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄』 |
文化的先進性の象徴、外交上の贈答品。 |
献上品の内容が布教許可の判断に大きく影響した。 |
織田信長 |
「血のようだ」と評した逸話があるが真偽不明 7 。愛飲説は後世のイメージか。 |
『イエズス会士日本通信』(フロイス書簡) |
嗜好品としての関心は薄い可能性 3 。南蛮文化全体への好奇心の一部。 |
フロイスは「酒を飲まない」と記録。通説との乖離が著しい。 |
豊臣秀吉 |
博多や大坂城で賞味 12 。贈答品として受領。 |
『イエズス会日本年報』 |
享楽の対象であると同時に、背景にあるキリスト教勢力への警戒も併せ持つ。 |
南蛮文化を享受しつつ、政治的には弾圧するという二面性を示した。 |
徳川家康 |
スペイン使節から甘口の葡萄酒(シェリー酒)を献上される 12 。 |
『日本史』(フロイス) |
純粋な外交儀礼品、希少な舶来品。宗教色は希薄。 |
時代が下り、葡萄酒の政治的・宗教的意味合いが薄れていく象徴。 |
細川忠利 |
薬用として愛飲し、自ら国内での醸造を命じる 5 。 |
永青文庫資料(『日帳』など) |
個人的な薬、健康維持のための必需品。 |
輸入消費に留まらず、国内生産を試みた唯一の事例。 |
戦国時代から江戸初期にかけて、日本における葡萄酒は一貫して南蛮からの輸入品であった。しかし、その常識を覆す画期的な試みが、九州の地で行われていたことが近年の研究によって明らかになった。それは、小倉藩主・細川忠利による、日本初の本格的な国産葡萄酒醸造の挑戦である。
この歴史的な事実を明らかにしたのは、熊本大学永青文庫研究センターの後藤典子特別研究員らによる、細川家に伝わる膨大な古文書(永青文庫資料)の詳細な調査であった 6 。藩の公式記録である『日帳』などを丹念に読み解く中で、寛永4年(1627年)から数年間にわたり、藩主・細川忠利の直接の命令によって、領内で葡萄酒が組織的に醸造されていたことが突き止められたのである 5 。
この発見は、日本の葡萄酒史、ひいては食文化史を書き換えるほどの大きな衝撃をもたらした。それは、日本人が単に西洋文化の「受動的な消費者」であっただけでなく、その技術を主体的に導入し、自国の資源を用いて「能動的な生産者」になろうとした、極めて稀有な事例を示しているからである。この計画は、南蛮伝来の技術を習得した家臣、上田太郎右衛門という専門の担当者まで置いて進められた、本格的な事業であった 17 。
細川家の葡萄酒造りがさらに驚異的であるのは、その独創的な醸造法にある。原料として用いられたのは、ヨーロッパ系の栽培品種ではなく、「がらみ」と呼ばれる、日本に自生する野生の山葡萄であった 6 。
しかし、山葡萄は一般的に糖度が低く、それ単独ではアルコール発酵が十分に起こりにくいという課題があった。この問題を解決するために、彼らが用いたのが「黒大豆」であった 6 。黒大豆の表面に付着する天然の酵母を利用して、がらみ果汁の発酵を促進させようとしたのである 15 。これは、ルイ・パスツールによってアルコール発酵の仕組みが科学的に解明される200年以上も前に、経験知と鋭い観察眼によって編み出された、驚くべき醸造技術であった。
この製法によって造られた液体は、単に葡萄を焼酎などに漬け込んだ果実酒(混成酒)とは一線を画す。葡萄自体の糖分を酵母の力でアルコールに転換させた、正真正銘の「醸造酒」、すなわち「ワイン」であった 5 。南蛮の技術を模倣するに留まらず、日本の在来種である山葡萄と黒大豆という、身近な資源を応用して実現しようとした点に、彼らの主体的かつ創造的な姿勢が窺える。
忠利はなぜ、かくも先進的で、かつ政治的リスクを伴う事業に乗り出したのか。その最大の動機は、極めて個人的かつ切実なものであった。幼少期から病弱であった忠利にとって、葡萄酒は健康を維持するための「薬」として不可欠な存在だったのである 11 。
彼はそれまで、長崎の商人を通じて甘口の輸入葡萄酒を定期的に買い付けていた 11 。しかし、輸入品は高価である上に、ポルトガル船の来航に左右されるため供給も不安定であった。そこで忠利は、高価で入手も不確実な輸入品に依存するのではなく、自領内で安定的に生産する道を模索したのである。これは、単なる物珍しさや趣味ではなく、「健康維持」という切実な個人的動機と、「輸入品への依存からの脱却」という経済的・合理的動機が結びついた、極めて先進的な試みであったと言える。
細川家による葡萄酒醸造が行われた寛永年間(1627年~1632年頃)は、徳川幕府によるキリスト教禁教令が次第に厳格化され、全国でキリシタンへの弾圧が強化されていった時期と正確に重なる 18 。
このような時代状況において、葡萄酒は「キリシタンの飲み物」という極めて危険な烙印を押された存在であった 10 。その製造は、幕府の国策に背く行為と見なされかねない、一歩間違えれば藩の存亡に関わるほどの政治的リスクをはらんでいた。寛永15年(1638年)の島原の乱に際し、病を押して出陣した忠利が、陣中見舞いとして薬用の葡萄酒を所望したところ、ある大名から「葡萄酒はキリシタンを勧めるときに要る酒なので、心配して一切売買がない」と返答されたという逸話は、当時の葡萄酒がいかに危険視されていたかを雄弁に物語っている 11 。
最終的に、この画期的な国産葡萄酒の醸造が途絶えた直接的な契機は、寛永9年(1632年)の小倉から肥後(熊本)への国替えであった可能性が高い 17 。慌ただしい領地替えの混乱の中で、特殊な技術を要する事業を継続する余裕がなかったと推測される。しかし、その背景には、日に日に増大する政治的リスクがあったことは間違いない。忠利は、自身の健康を支える薬への個人的な希求と、幕府への忠誠を誓う模範的な大名としての公的な立場との間で、深い苦悩を抱えていたに違いない 11 。細川忠利の挑戦と挫折は、近世初期における合理的な技術探求が、時代の政治イデオロギーという巨大な壁の前に屈せざるを得なかった悲劇の物語なのである。
戦国時代の葡萄酒が持つ歴史的意味を理解する上で、その最も根源的な役割、すなわちキリスト教における宗教的象徴としての側面を避けて通ることはできない。当初は聖なる儀式の中心にあった葡萄酒が、日本の禁教政策の荒波の中で、いかにして危険な「禁制の象徴」へとその姿を変貌させていったのか。その軌跡は、日本社会の異文化に対する態度の変遷を映し出している。
キリスト教、とりわけカトリック教会において、ミサ(聖餐式)は信仰生活の中心に位置づけられる最も重要な儀式である。この儀式において、パンはイエス・キリストの肉(御体)に、そして葡萄酒はキリストの血(御血)に聖変化すると信じられている 10 。信徒はこれを拝領することで、キリストとの一体化を体験する。したがって、葡萄酒は単なる飲み物ではなく、救済の神秘に直接関わる、この上なく神聖な意味を担う存在であった。
ザビエルをはじめとする宣教師たちが、遠路はるばる日本まで葡萄酒を携えてきた最大の理由は、この聖餐式を執り行うためであった。彼らにとって、葡萄酒なくして布教活動の根幹を成すミサを執り行うことは不可能だったのである。しかし、日本での葡萄酒の調達は困難を極めた。ヨーロッパからの輸入品は極めて高価であり、その輸送には多大な費用と危険が伴った 10 。宣教師たちは、限られた貴重な葡萄酒をやりくりしながら、日々の布教活動に臨んでいたのである。
豊臣秀吉による天正15年(1587年)のバテレン追放令を皮切りに、徳川幕府の下でキリスト教が国家の支配体制を脅かす「邪教」として弾圧の対象となるにつれて、ミサに不可欠な葡萄酒もまた、危険な「キリシタンの道具」と見なされるようになっていった。
かつては南蛮渡来の珍品として権力者たちの好奇の的であった葡萄酒は、その宗教的背景ゆえに、社会的な禁忌の対象へとその意味を180度転換させた。第四章で述べた細川忠利の逸話が示すように、大名ですら公然と入手することが困難になり、商人の間でも売買が手控えられていった 11 。葡萄酒を所持していること自体が、キリシタンであることの疑いを招きかねない状況が生まれたのである。こうして葡萄酒は、幕藩体制に対する反逆性や、日本社会の秩序を乱す異質性の象徴という、負の烙印を押されることとなった 10 。この意味の変遷は、当初は好奇心をもって迎えられた異文化が、体制の安定を揺るがす脅威と認識されるや、徹底的な排除の対象へと転化していく過程を如実に示している。
禁教令が厳しさを増し、鎖国によって南蛮船の来航が途絶えると、正規の葡萄酒の入手は絶望的となった。このような状況下で、信仰を捨てずに潜伏したキリシタンたちは、どのようにして信仰の核心であるミサの儀式を守り続けたのだろうか。
直接的な史料は乏しいものの、彼らが葡萄酒の代用品として、日本古来の酒、すなわち日本酒などを用いていた可能性が指摘されている。例えば、加賀乙彦の歴史小説『高山右近』には、追放される右近が最後のミサで、パンと葡萄酒の代わりにおにぎりと日本の酒を捧げる場面が描かれている 42 。これはあくまでフィクションではあるが、信仰の本質を物質的な形式そのものよりも、その根底にある精神性に求めた信徒たちの苦心の様を想像させるに十分である。
もし、このような代用が実際に行われていたとすれば、それは文化の「土着化」あるいは「混淆(こんこう)」の非常に興味深い事例と言える。ヨーロッパ起源のキリスト教の儀礼という「型」が、外部との断絶という極限状況の中で、日本の米と酒という土着の文化要素を「器」として取り込み、存続しようとする。それは、文化が抑圧された際に示す強靭な生命力と適応能力の証左である。葡萄酒という「モノ」そのものが失われても、それが担っていた「意味」や「機能」は、別の「モノ」に代替され、信仰の灯は密やかに受け継がれていったのかもしれない。
本報告書は、日本の戦国時代から江戸初期にかけての歴史を、「赤葡萄酒」という特異な舶来品を軸に再検証する試みであった。その調査を通じて明らかになったのは、一滴の葡萄酒が、単なる飲み物の域をはるかに超え、時代の政治、宗教、文化、医療の諸相を映し出す、極めて多層的な意味を担っていたという事実である。
その歴史は、ザビエル来航の半世紀以上前に、既に京都の公家社会にその存在を記されていた。やがて大航海時代の本格的な到来と共に、葡萄酒は日本の権力構造と深く結びつき、時の権力者たちの思惑によって様々な意味を付与されていく。ある時は布教許可を得るための外交の道具となり(島津・大内)、ある時は革新的な君主の好奇心を刺激し(信長)、またある時は天下人の享楽と警戒の的となり(秀吉)、そして最後には幕府の儀礼を彩る希少な贈答品へとその姿を変えた(家康)。
一方で、日本側の受容のされ方も一様ではなかった。ヨーロッパ人の嗜好とは異なる味覚を持つ人々にとって、その酸味や渋みは馴染みにくいものであり、葡萄酒は主に滋養強壮の「薬」として理解された。この実利的な認識は、やがて細川忠利による国産化という、単なる消費者に留まらない主体的かつ合理的な挑戦へと繋がっていく。日本の在来種である山葡萄と黒大豆を用いて本格的な醸造酒を生み出そうとしたこの試みは、日本の技術史における特筆すべき一頁である。
しかし、葡萄酒の歴史は、常にキリスト教との分かちがたい関係性という影を背負っていた。聖餐の秘跡に用いられるがゆえの神聖さは、禁教政策が強化されるにつれて、幕藩体制を脅かす危険な象徴へと反転した。かつて権力者たちがこぞって求めた赤き液体は、やがて歴史の表舞台からその姿を消していくことを余儀なくされたのである。
結論として、戦国日本の赤葡萄酒が辿った軌跡は、この時代が経験した世界への扉を開こうとする開放性と、国内の秩序を維持するためにそれを固く閉じようとする閉鎖性との間の、激しい相克そのものであったと言える。グローバル化の第一波に洗われた戦国日本が経験した、希望と葛藤、そして最終的な選択の物語を、その一滴は鮮やかな赤色で内包している。それは、激動の時代を生きた人々の姿を今に伝える、雄弁な歴史の証人なのである。