最終更新日 2025-08-11

関流砲術書

関流砲術は、関之信が創始。大筒技術を継承し、猿渡り銃や町打で遠距離射撃を極めた。土浦藩で武芸として発展、関家文書は技術と経営の実態を伝える。地方藩の誇りとして現代に伝わる。
関流砲術書

『関流砲術書の総合的研究 ―戦国終焉の軍事技術と武芸化への道程―』

序章:武芸としての砲術の黎明

戦国乱世の終焉と徳川幕府による泰平の世の到来は、日本の社会構造のみならず、武士階級のあり方そのものに根源的な変化をもたらした。大規模な合戦が過去のものとなるにつれ、戦場で直接的な効力を発揮するための技術体系であった「兵法」は、その役割を大きく変容させることを余儀なくされた。かつては生死を分かつ実用の術であった武術は、次第に心身を鍛え、武士としての品格や家格を維持・向上させるための教養、すなわち「武芸」としての性格を強めていったのである 1 。この歴史的転換期において、鉄砲術、すなわち砲術もまた例外ではなかった。

天文12年(1543年)に種子島に伝来して以来、鉄砲は合戦の様相を一変させる決定的な兵器として急速に普及した 2 。特に、織田信長が長篠の戦いで見せたような、足軽による集団での弾幕射撃は、従来の戦術を根底から覆すものであった 3 。しかし、平和な時代が訪れると、このような集団戦術の訓練は実用的な意味を失っていく。その一方で、砲術は新たな価値を見出され、一つの流派として体系化され、精神性や様式美を重んじる武芸へと昇華していく道を歩み始めた 1

本報告書の主題である「関流砲術」およびその伝書群は、まさにこの過渡期に誕生した。流祖・関八左衛門之信(せき はちざえもん ゆきのぶ)は慶長元年(1596年)の生まれであり、戦国の気風が色濃く残る時代に生を受け、徳川の世が盤石となる過程を見届けた人物である 5 。彼の砲術は、大坂の陣に至るまでの実戦的な鉄砲運用の知見を基礎としながら、それを平時における武芸として再構築し、技術の極致を追求したものであった。したがって、「関流砲術書」を深く理解するためには、その成立の背景にある「戦国時代という視点」が不可欠となる。それは、単に戦闘の道具であった鉄砲が、いかにして高度な技術と理論、そして美学を備えた武芸へと変貌を遂げたのか、そのダイナミックな過程を解き明かす鍵となるからである。

興味深いことに、砲術の「武芸化」は、技術の停滞や衰退ではなく、むしろ技術の保存と先鋭化という、一見すると逆説的な現象を引き起こした。通常、戦乱が終結すれば兵器の需要は減少し、関連技術は失伝していくのが自然な流れである。しかし、日本の砲術は「武芸」という新たな存在意義を獲得したことで、実戦における効率性、例えば大量生産の容易さや操作の簡便性といった制約から解放された。その結果、砲術家たちは、射撃の極限的な精度、驚異的な射程距離、火薬の最適な調合、あるいは銃そのものの機構美といった、より専門的で難易度の高い領域を探求する自由を得たのである。後述する関流の代名詞ともいえる「町打(ちょううち)」と呼ばれる遠距離射撃術 6 や、一流の職人に特注した精巧な鉄砲 7 は、この「武芸化」が生んだ技術の先鋭化を象徴するものである。実戦では極めて限定的な状況でしか用いられないであろう高度な技術が、武芸の世界では最高の価値を持つに至った。これは、戦争の道具が、平和な時代の中で洗練され、芸術の域にまで達するという、日本武芸史における特筆すべき変化を示すものである。


第一部:関流砲術の源流と創始

第一章:戦国時代の鉄砲と集団戦術の遺産

関流砲術が誕生した歴史的土壌を理解するためには、まずその源流である戦国時代、特にその末期における鉄砲の役割の変遷を把握する必要がある。流祖・関之信が青年期までに直接的、間接的に見聞したであろう、大筒や石火矢が戦局を左右した時代の記憶は、彼の技術と思想の形成に決定的な影響を与えたと考えられる。

鉄砲が伝来して以降、その運用法は急速に進化を遂げた。当初、その威力は個人の武技としてよりも、専門的な訓練を必要としない足軽による集団運用において最大限に発揮された 4 。しかし、戦国時代が終盤に差し掛かり、関ヶ原の戦いを経て世の中が統一へと向かう中で、戦いの主舞台は大規模な野戦から、堅固な城をめぐる攻城戦へと移行していく。この段階において、城壁を破壊し、籠城する敵の戦意を打ち砕くための、より強力な火器、すなわち和製の大砲である「大筒」や、鋳物師によって鋳造された「石火矢」の戦略的価値が飛躍的に高まった 9

この流れを決定づけたのが、慶長19年(1614年)から翌20年(1615年)にかけて起こった大坂の陣である。この戦いは、徳川家康が豊臣氏を滅ぼし、二百数十年続く泰平の世を確立した最後の戦いであると同時に、日本の歴史上、砲撃戦が極めて重要な役割を果たした画期的な合戦であった 10 。徳川方は、英国から輸入したカルバリン砲をはじめとする大砲を駆使し、難攻不落を誇った大坂城に対して猛烈な砲撃を加えた 12 。この砲撃は、物理的に城の一部を破壊しただけでなく、豊臣方の継戦意欲を打ち砕く上で決定的な役割を果たした。特に、淀殿の居室近くに着弾した一発の砲弾が、豊臣方を和議交渉の席に着かせる直接的なきっかけとなったという逸話は、砲撃の持つ心理的効果の大きさを物語っている 13 。この戦いにおいて、田付流砲術の祖である田付景澄が徳川方としてカルバリン砲を放ち、大坂城天守に命中させた功績は、砲術家の地位を大いに高めることとなった 12

関之信は、この歴史的な大坂の陣が勃発した当時、18歳から19歳という多感な青年期を、主家である米沢上杉家で過ごしていた 5 。上杉家も徳川方としてこの戦いに参陣しており、之信自身が直接戦地に赴いたという明確な記録は見当たらないものの、主家が関わった国家的な大事件の衝撃と、そこで繰り広げられた最新の戦術、とりわけ砲術の威力に関する詳細な情報は、米沢藩内に生々しく伝わっていたはずである。

そもそも、之信が籍を置いていた上杉家は、藩祖・上杉謙信の時代から鉄砲の重要性を深く認識し、その導入と運用に力を入れていたことで知られる 16 。二代藩主・上杉景勝とその腹心・直江兼続の時代には、先進地から鉄砲職人を招聘して銃の製造にあたらせるなど、軍備の近代化を積極的に推進した 16 。その大筒の轟音は遠くまで鳴り響き、他家からは「上杉の雷筒(らいづつ)」と呼ばれ、畏怖の対象となっていたという伝承も残っている 17 。このような尚武の気風と先進的な鉄砲運用思想を持つ藩で育ったことは、之信が砲術家としての道を歩む上で、極めて重要な素地となったに違いない。

大坂の陣における砲撃の劇的な効果は、当時の武士たちに強烈な印象を与えた。それは、単なる物理的な破壊力以上に、たった一発の砲弾が戦局全体を、ひいては天下の趨勢さえも左右し得るという「政治的・心理的効果」の発見であった。従来の集団による弾幕射撃が「面」の制圧を目的とするのに対し、大坂城への砲撃は、特定の目標を精密に狙い撃つ「点」の攻撃が持つ決定的な力を示した。この事実は、青年・関之信の心に、砲術の新たな可能性を深く刻み込んだ可能性がある。彼が後年、単なる集団戦術の道具としてではなく、一撃必殺の威力と超人的な精度を追求する「大筒」と「遠距離射撃」の専門家へと向かった背景には、戦国時代最後の、そして最大規模の攻城戦で示されたこの歴史的教訓が存在したのではないか。彼の砲術は、戦国末期の軍事技術の集大成を、来るべき泰平の世における武芸として、より高度な次元へと昇華させたものと解釈することができる。

第二章:流祖・関之信の実像 ―上杉家臣から砲術の大家へ―

関流砲術の神髄を理解するためには、その創始者である関八左衛門之信という人物の生涯を丹念に追う必要がある。彼の足跡は、戦国の遺風が残る江戸初期という時代の中で、一人の武芸家が如何にして自らの技術を磨き、藩の枠を越えて活躍し、後世に名を残す一流を築き上げたかを示す、貴重な事例である。

関之信は、慶長元年(1596年)に生まれ、寛文11年(1671年)に76歳でその生涯を閉じた 5 。彼の父・上信も米沢藩士であったことから、之信は武家の伝統の中で育った 6 。当初は父祖同様に上杉家に仕え、この米沢藩士時代に、彼の砲術家としての基礎が築かれた。米沢藩には当時、岸和田流や霞流、稲富流など、様々な砲術流派が伝わっており、藩士たちは互いに技を競い合っていた 19 。之信は、この中で霞流の丸田九左衛門盛次に師事し、その奥義を極めたと伝えられている 19 。関ヶ原の戦いを経て120万石から30万石へと大幅に減封されたとはいえ、米沢藩には上杉謙信以来の尚武の気風が脈々と受け継がれており、鉄砲は「戦用第一の利器」として重視されていた 19 。このような、多様な技術が交差し、切磋琢磨される環境が、若き之信の才能を開花させるための肥沃な土壌となったことは想像に難くない。

しかし、之信はある時期に米沢藩を辞し、特定の主君に仕えることなく諸国を遍歴する「回国修行」の道を選ぶ 1 。これは、自らの技をさらに高めるため、安住の地を捨てて未知の世界へ飛び出すという、当時の求道的な武芸家に見られた生き方であった。この修行の過程で、彼は当時、江戸幕府の砲術師範として最高の権威を誇っていた稲富流、田付流、井上流といった他流派の技術にも触れ、積極的に学んだとされる 21 。これは、単一の流派の教えに固執するのではなく、諸流の長所を貪欲に吸収し、それらを統合して独自の技術体系を構築しようとする、彼の卓越した探求心の表れであった。

諸国を巡った後、之信は新たな仕官先として上総国久留里藩(現在の千葉県君津市)の藩主・土屋利直(1607-1675)に召し抱えられる 18 。利直は慶長17年(1612年)にわずか6歳で家督を継ぎ、大坂夏の陣にも(幼少のため家臣を代理として参陣させたものの)名を連ねた経験を持つ大名であった 22 。若くして藩主となり、戦国の終焉を目の当たりにした利直は、藩の武備、とりわけ時代の最先端技術であった砲術の重要性を深く認識していたと推察される。彼が、他藩の出身である之信の卓越した技量と知識を高く評価し、自藩の砲術指南役として抜擢したのは、極めて合理的な判断であったと言えよう。

その後、土屋家は常陸国土浦藩(現在の茨城県土浦市)へと移封され、之信もそれに従って土浦へと移った。そして寛文9年(1669年)以降、彼は正式に土浦藩の砲術指南役となり、その地位と技術は幕末に至るまで関家の子孫によって代々世襲されることとなる 24 。関家の指導のもと、土浦藩の砲術は飛躍的な発展を遂げ、やがて「土浦にはすぎたるものが二つある。刻の太鼓と関の鉄砲」と謳われるまでになった 24 。これは、関流砲術が単なる一武芸にとどまらず、土浦藩の誇りであり、その権威を象徴する存在となっていたことを示している。

関之信の生涯を俯瞰すると、それは江戸初期における「専門技術者」の新たな生き方と、当時の社会に残されていた流動性の高さを象徴しているように見える。戦国時代において、武士が主家を変更することは、領地や家門の存続を賭けた政治的・軍事的な判断に基づく、いわば日常的な行為であった。しかし、徳川幕府による支配体制が安定するにつれて、武士が主君を替えることは原則として許されなくなり、身分制社会は次第に硬直化していく。

その過渡期にあった江戸初期において、関之信は上杉家という名門を離れ、自らの専門技術である砲術を高く評価してくれる新たな主君・土屋利直のもとで活躍の場を見出した。これは、中世的な主従関係における「裏切り」や「没落」といった文脈で語られるべきものではなく、自らの技能を資本としてより良い待遇と環境を求める、近代的な意味での「フリーランスの専門家」としてのキャリアアップと捉えることができる。一方で、藩主である土屋利直が、他藩出身の浪人であった之信を藩の指南役という要職に登用したことは、藩の軍事力を実質的に強化するためには、出自や経歴を問わず真に有能な人材を確保するという、極めて実利的な経営判断があったことを示している。この事実は、江戸初期の社会が、後の時代にイメージされるような完全に固定化されたものではなく、卓越した専門技能を持つ者にとっては、藩という組織の枠組みを越えて自らの価値を問い、活躍の場を切り拓くことが可能な、一定の社会的流動性を依然として保持していたことを物語っている。関之信は、まさにその時代の可能性を体現した、先駆的な武芸家の一人であったと言えるだろう。


第二部:関流砲術の技術体系と伝書

第三章:関流の技法と特色 ―大筒にかける情熱―

関流砲術を他の数多ある砲術流派から一線を画すものとしているのは、その技術体系の核心に「大筒」の運用を据え、一撃の威力と驚異的な射程距離を徹底的に追求した点にある。これは単なる技術的な選択に留まらず、流祖・関之信の砲術に対する哲学と情熱の表れであった。その思想は、特注された鉄砲の独特な構造、語り継がれる伝説的な大筒の性能、そして秘伝の射撃術「町打」に具体的に見て取ることができる。

関流は、武士の中でも士分以上の者が自らの費用で備える「持筒(もちづつ)」や、とりわけ口径の大きな大筒の射撃を最も得意とする流儀であった 7 。これは、小口径の鉄砲による集団での制圧射撃よりも、一発の弾丸が持つ破壊力を最大限に高め、戦術的に重要な目標を遠距離から無力化するという、明確な技術的指向性を示している。この思想を実現するため、関流で用いられる鉄砲は、当代一流とされた近江の国友丹波といった鉄砲鍛冶に特注された、最高品質のものであった 7

その特注銃には、関流ならではの工夫が凝らされている。第一に、大筒でありながら「肉薄の銃身」を持つ点が挙げられる。これは、高度な鍛造技術によって強度を保ちつつ銃身を薄く仕上げることで、銃全体の重量を軽減し、大口径銃の弱点である操作性の低さを克服しようとする試みであったと考えられる。第二に、最も象徴的な特徴が「猿渡り(さるわたり)」と呼ばれる長く伸びた用心金(トリガーガード)である 7 。この猿渡りは、引き金部分から銃床の先端近くまで伸びており、射撃時の強烈な衝撃から銃床を保護し、銃全体の剛性を高めるという構造力学的な役割を果たした。同時に、銃を構える際に左手を添えるための補助的な握りとしても機能し、安定した射撃姿勢を可能にした可能性がある。この猿渡りは、機能性と独特の美観を両立させた、関流の代名詞とも言える仕様である。

関流の技術的頂点を象徴するのが、伝説的な二つの大筒、「震天銃」と「抜山銃」である。流祖・之信の子である二代目・昌信が巧みに操ったと伝わる「震天銃」は、その「天を震わせる」という名が示す通り、凄まじい威力と轟音を伴う大筒であったと推察される [ユーザー提供情報]。

一方、「抜山銃(ばつざんじゅう)」は、その実物が土浦市指定文化財として現存しており、関流の技術力を具体的に今に伝えている 6 。この銃は口径二百五十匁(弾丸重量約937.5g)の巨大な火縄銃で、「動かないとされる山さえも抜き崩す」という勇壮な名が与えられている。資料によれば、総重量は25kg、射程距離は2.8kmにも及んだとされ、その名に恥じない破格の性能を誇っていた 6 。この抜山銃の砲身裏には、寛永10年(1633年)から寛文6年(1666年)にかけて、後述する遠距離射撃「町打」が実際に行われたことを示す記録が金象嵌で刻まれており、この銃が単なる飾りではなく、実用的な訓練と研究のために用いられていたことを物語っている 6

そして、関流砲術の奥義中の奥義とされるのが、この「町打」である。これは、10町(約1.1km)から、時には30町(約3.3km)という、常識を遥かに超えた遠距離にある的を狙撃する技術であった 6 。このような射撃は、もはや実戦での汎用性を超越し、流派の技術の極致を披露し、その権威を示すための、いわば究極の演武であったと言える。

この驚異的な「町打」を可能にしたのが、「櫓(やぐら)」と呼ばれる特殊な照尺(リアサイト)と、それを使いこなすための高度な計算技術であった 20 。遠距離射撃では、目標までの距離、高低差、風向風速、さらには弾丸の重量と使用する火薬の量や質に応じて、弾丸が描く放物線(弾道)を正確に予測する必要がある。勘や経験則だけに頼っていては、到底実現不可能な精度が要求される。この課題を解決するために、関流では当時日本で独自に発展していた数学、すなわち「和算」の知識が応用されていた可能性が極めて高い。特に、直角三角形の辺の長さを計算する「鈎股弦(こうこげん)の定理」(現代のピタゴラスの定理)などの三角法の知識は、目標までの距離と高低差から射角を割り出す上で不可欠であったはずである 27

このことから、関流の砲術は、単なる射手の身体的な技量や精神力に依存する武術から、科学的・数学的な知性を駆使する技術へと変貌を遂げていたことがわかる。戦国時代の鉄砲運用が、依然として経験と勘に頼る部分が大きかったのに対し、関流の「町打」は、①弾丸の飛翔原理(弾道学)への深い理解、②それを計算するための数学的知識(和算)、そして③計算結果を実際の射撃に反映させるための精密な道具(櫓という照尺)という三つの要素が有機的に結合して初めて成立する、画期的なシステムであった。これは、砲術が単なる武勇の証明から、知的な探求と実験の対象へと昇華したことを意味する。流祖・関之信は、卓越した武芸家であると同時に、当代一流の応用科学者であったと言っても過言ではない。そして、彼が遺した「関流砲術書」は、単なる武術の伝書という側面に加え、当時の日本の応用科学技術の到達点を示す貴重な技術書としての価値をも内包していたと推察されるのである。

第四章:『関流砲術書』の解読 ―関家文書が語るもの―

本報告書の表題ともなっている「関流砲術書」とは、一体どのような書物なのであろうか。実際には、それは単一の完結した書物を指すのではなく、関流砲術の宗家、すなわち常陸国土浦藩の砲術師範役を代々務めた関内蔵助家に伝来した、膨大な文書群の総称と捉えるのが最も正確である。これらの文書群は現在、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館に「関家文書」として収蔵されており、その数は約2,000点にも及ぶ 25 。この「関家文書」こそ、関流砲術の理論、技術、哲学、そして教育体系を解き明かすための、最も信頼性の高い第一級の一次資料群である。

「関家文書」の内容は多岐にわたる。その中核をなすのは、もちろん流派の技術的な秘伝を記した伝書や、免許皆伝に至るまでの段階的な教えを記した巻物類であろう。これらには、関流が得意とした大筒による「町打」をはじめとする様々な射撃術の稽古記録や、その具体的な方法論が詳細に記されていると考えられる 25 。日本武道館が制作した映像資料などによれば、関流の射法には「立放(たちばなし)」「膝台打ち(ひざだいうち)」、そして遠距離射撃である「膝台打ち(町打ち)」といった、状況に応じた体系的な構えが存在したことが確認できる 20 。伝書には、これらの射法に加え、射撃の精度を左右する極めて重要な要素である火薬の調合方法や、弾丸の重量に応じた火薬量の加減などについても、詳細な研究の成果が記されていたはずである 20 。また、関流の象徴とも言える特殊な照準具「櫓」の精密な構造図や、それを駆使した照準方法に関する記述も、秘伝書の中核をなす部分であったと推測される。

教育体系に関しても、関流は極めて体系的であったことがうかがえる。一説には、入門してから免許皆伝を授かるまでには10年もの歳月を要したとされ 5 、一朝一夕には習得できない、段階的かつ長期的な教育カリキュラムが確立されていたことがわかる。「関家文書」には、このカリキュラムの具体的な内容、すなわち各段階で習得すべき技術や、昇級のための試験基準などが記録されている可能性が高い。

さらに、伝統的な武芸の伝書がそうであるように、「関流砲術書」にも単なる技術論に留まらない、武芸家としての精神的な心構えや流派の哲学が記されていたことは間違いない。日本に鉄砲が伝来した当初から、その相伝の第一条に「心を正しくして思邪なし」という精神論が掲げられていたように 18 、砲術は単なる射撃技術ではなく、精神修養の道と見なされていた。関流において、この種の精神論がどのように解釈され、弟子たちに教えられていたのかを解明することは、流派の全体像を理解する上で不可欠である。

ここで重要なのは、「関家文書」が単なる技術伝書の集合体ではないという点である。これらの文書群を詳細に分析すると、それは一個の武芸流派を組織として維持・運営していくための、いわば「経営・管理アーカイブ」としての性格を色濃く持っていることが見えてくる。文書の中には、技術的な秘伝書や稽古記録だけでなく、特注の鉄砲を発注した際の鉄砲鍛冶との書状のやり取り、土浦藩士はもとより、遠く諸国の大名やその家臣に至るまで、広範囲にわたる門弟たちの名簿や入門後の進捗を管理した記録、そして藩の指南役としての公務に関する報告書など、組織運営に関わる実務的な文書が数多く含まれていると推測される 24

この事実は、関家が単に高度な技術を父子相伝で継承するだけの存在ではなく、多数の門弟を抱え、高価で特殊な装備品(鉄砲)を管理し、藩から給禄を得て公的な役務を遂行するという、高度に組織化された「家業」を営んでいたことを示している。したがって、「関家文書」を読み解くことは、関流砲術という一つの武芸の技術体系を解明するという目的を超えて、江戸時代の武芸流派が一個の社会組織として、どのようにして維持・運営されていたのか、その経営実態を明らかにする上で、他に類を見ない貴重な手がかりとなる。そこからは、弟子を育成するための教育システム、流派の財政を支える財務管理、門弟たちの統率や免許発行に関わる人事、そして流派の名声を高めるための広報活動といった、現代の組織経営にも通じるような、極めて合理的で体系的な武芸流派の運営の姿が浮かび上がってくる可能性がある。


第三部:歴史的文脈における関流の位置づけ

第五章:諸流派との比較分析

関流砲術の歴史的意義と独自性をより明確に理解するためには、同時代に存在した他の主要な砲術流派との比較分析が不可欠である。特に、江戸幕府の公式な砲術師範として絶大な権威を誇った稲富流、田付流、井上流といった流派との技術的・思想的な違いを明らかにすることは、関流がどのような位置づけにあったのかを浮き彫りにする上で極めて重要である。

江戸幕府の鉄砲方(てっぽうかた)は、幕府の軍事力を支える中核的な役職であり、主に三つの流派が世襲でその任にあたった。

第一に、**稲富流(いなとみりゅう)**である。流祖・稲富一夢(祐直)は、関ヶ原の戦いにおいて主君である細川忠興の勘気に触れて窮地に陥るも、徳川家康自らがその卓越した砲術の腕と知識が絶えることを惜しみ、助命したという逸話を持つ人物である 30 。彼の流派は、射手の正しい姿勢を裸形で図解するなど、極めて詳細で理論的な伝書を作成したことや、照尺(照準器)を用いた精密射撃を重視したことで知られる 21 。その技術は家康や二代将軍秀忠にも高く評価され、幕府の鉄砲政策に大きな影響を与えた 30

第二に、**田付流(たつけりゅう)**である。流祖・田付景澄は、大坂の陣において徳川家康の命により大砲を放ち、戦局を動かす活躍を見せたことでその名を知られる 12 。その功績により、彼の子孫は代々幕府の鉄砲方として、主に外国から伝来した銃や大筒の管理・運用を担当した 15 。大筒を専門的に扱ったという点で関流と共通項を持つが、田付流が幕府の公式な兵器廠としての役割を担っていたのに対し、関流は一藩のお抱え流派として、より武芸的な側面を追求した点に違いが見られる。

第三に、 井上流(いのうえりゅう) 、または外記流(げきりゅう)とも呼ばれる流派である。流祖・井上外記正継によって創始され、田付流が外国製の銃を扱ったのに対し、主に国産の火縄銃の運用を担当し、同じく幕府鉄砲方を世襲した 33 。井上流は、幕府の標準的な砲術として、全国の諸藩にも広く影響を与えたと考えられる。

これら幕府お抱えの流派に対し、関流はどのような独自性を持っていたのだろうか。以下の比較表は、その違いを概観する助けとなるだろう。

流派名

創始者

成立時期

主要な庇護者・藩

技術的特徴・専門

備考

関流

関之信

寛永期

土屋家(久留里、土浦)、相馬家

大筒による遠距離射撃(町打) 、特注の和製銃(猿渡り)

地方藩の武芸として独自の発展を遂げた 6

稲富流

稲富祐直

慶長期

細川家、徳川家(幕府)

射手の姿勢を図解した詳細な伝書、照尺の使用

幕府の鉄砲政策に影響を与えた理論派 21

田付流

田付景澄

慶長期

徳川家(幕府鉄砲方)

外国製銃・大筒の運用 、大坂の陣での活躍

幕府の公式な大砲部隊としての性格 12

井上流(外記流)

井上正継

元和期

徳川家(幕府鉄砲方)

国産火縄銃の運用

幕府の標準的な砲術として普及 33

この比較から浮かび上がるのは、関流が幕府の「中央集権的な標準砲術」とは明確に一線を画し、「地方藩の独自性とプライドを象徴する砲術」として発展したという事実である。稲富、田付、井上の三流派は、いずれも徳川将軍家に直接仕え、「鉄砲方」という幕府の公職を世襲するエリートであった。彼らの技術は、いわば幕府の「公式標準(オフィシャルスタンダード)」であり、その権威は全国の諸大名に対しても大きな影響力を持っていた。

その一方で、関流は土屋家という特定の譜代大名に仕える「お抱え」の流派として、その歴史を歩んだ。これは、関流の技術が必ずしも幕府の標準に準拠する必要がなかったことを意味し、結果として、他流には見られない独自の進化を遂げる自由をもたらした。関流の象徴である、一流の職人に特注させた「猿渡り」付きの銃 7 や、常識を超えた遠距離射撃術「町打」 6 といった際立った特色は、まさにこの自由な環境から生まれたものである。これらの卓越した技術は、他流派との明確な差別化を図り、「我が土浦藩の砲術は、幕府お抱えの流派に決して劣るものではない。いや、特定の分野においてはむしろ凌駕している」という、藩主・土屋家および藩士たちの強い自負心を育む上で、極めて重要な役割を果たしたに違いない。かつて「土浦にはすぎたるもの」とまで称された「関の鉄砲」という言葉 24 は、まさにその誇りの証左であった。

また、関流が陸奥国の相馬中村藩において、藩の公式な砲術として採用された事例も興味深い 35 。これは、三代藩主・相馬忠胤が、元は関流を庇護していた久留里藩主・土屋家から養子として相馬家に入ったという縁によるものであり、大名家間の婚姻や養子縁組といった政治的な結びつきが、武芸流派の伝播に直接的な影響を与えたことを示す好例である。

このように、関流砲術の歴史を追うことは、江戸時代の武芸が、幕府という中央の権威と、各藩という地方の独自性という二つの軸の間で、いかに緊張感を保ちながら多様に展開していったかを理解するための、格好の事例を提供してくれるのである。

第六章:継承と変容 ―土浦藩の武芸から現代へ―

一流の武芸として確立された関流砲術は、その後、江戸時代を通じて土浦藩においてどのように継承され、時代の変化の中で如何なる変容を遂げていったのだろうか。その足跡は、泰平の世における武芸の役割、そして近代化の波に洗われた伝統文化の運命を物語っている。

流祖・関之信の後、関家はその嫡流である内蔵助家によって、幕末に至るまで土浦藩の砲術師範職を代々世襲した 25 。関家は主に藩の江戸屋敷に詰めており、土浦藩士への指導はもちろんのこと、その名声を聞きつけて入門を願う諸国の大名や藩士たちにも、その門戸を開いていた 24 。砲術は土浦藩を代表する武芸として藩内で高く位置づけられ、藩士たちは定期的に射撃訓練に励み、その技量を競う射撃大会なども開催されていた記録が残っている 36 。これは、砲術が単なる戦闘技術としてだけでなく、藩士の士気高揚や組織の結束を強めるための重要な行事として、藩政の中に組み込まれていたことを示している。

しかし、江戸時代も末期になると、日本の武芸は大きな転換期を迎える。アヘン戦争における清の敗北など、西洋列強の脅威が現実のものとなると、日本の軍事技術は急速に西洋化へと舵を切った。従来の火縄銃に代わり、雷管式のゲベール銃やミニエー銃、そしてより強力な西洋式の大砲が導入され始めたのである。この近代化の大きな波に対し、多くの藩が伝統的な和流砲術を旧式のものとして廃止していく中で、土浦藩が取った対応は極めて興味深いものであった。土浦藩では、最新の西洋流砲術を導入する一方で、伝統的な関流砲術も並行して存続させ、両者は同等の評価をもって扱われていたという記録が残っている 37

この事実は、幕末の段階において、関流がもはや単なる「兵器の操作術」としてではなく、武士の精神と身体を鍛錬し、藩の伝統と誇りを体現する「教育システム」あるいは「文化的象徴」としての価値を、藩内で確固として確立していたことを強く示唆している。実用的な兵器としての役割は西洋流に譲りつつも、武芸としての関流は、その存在意義を失わなかったのである。

明治維新という未曾有の変革は、全ての武芸にとって存続の危機であった。新政府による「壬申の銃登録」といった法令により、軍用以外の銃の所持・使用が厳しく制限されたため、関流砲術もその活動を一時的に休止せざるを得なくなった 37 。武士という階級が解体され、多くの古武道がその担い手を失い、歴史の闇に消えていった時代であった。

しかし、関流砲術は断絶の淵から蘇る。その最大の功労者は、他ならぬ関家自身であった。彼らは、活動が禁じられた困難な時代にあっても、流派の秘伝書や稽古の記録、そして何よりも貴重な特注の鉄砲といった「関家文書」を大切に保存し続けたのである 37 。この行為の背景には、それらを単なる古い武器やその使用説明書としてではなく、自らの家の歴史そのものであり、先祖から受け継いだ後世に伝えるべき「文化遺産」であると認識する、強い意志があったに違いない。

そして昭和の時代に入り、日本の伝統文化を見直す機運が高まる中で、関流砲術の歴史的・文化的価値が再認識されることとなる。現在、流派発祥の地である茨城県土浦市において、宗家を中心に保存会が組織され、その貴重な技の保存と伝承活動が続けられている 7 。近年では、文化財である鉄砲そのものの経年劣化や保存上の理由から、往時のように頻繁に公開演武が行われる機会は少なくなっているようであるが 38 、過去には日本武道館で開催される「日本古武道演武大会」などの晴れの舞台で、その勇壮な大筒の射撃が披露されることもあった 38

関流砲術が現代にまで命脈を保ち得た歴史は、一つの技術体系がその本来の目的であった「武器」としての役割を終えた時、それに付随して育まれてきた歴史、物語、様式美、そして精神性といった無形の価値が、それに新たな生命を吹き込み、「文化遺産」として再生させるという、文化継承における普遍的なプロセスを見事に体現している。それは、兵器としての火縄銃の役割の終焉を、歴史と伝統を重んじる文化としての価値の発見によって乗り越えた、稀有な成功例であると言えるだろう。


終章:結論

本報告書では、「関流砲術書」という主題を、その源流である戦国時代の軍事技術史から、江戸時代の武芸としての発展、そして現代に至る文化継承の文脈の中に位置づけ、多角的な分析を試みた。その調査と考察を通じて、以下の結論を導き出すことができる。

第一に、関流砲術は、戦国時代から江戸時代への移行期における、日本の軍事思想の変遷を体現する「架け橋」としての役割を果たした点である。その技術は、大坂の陣に象徴される戦国末期の攻城砲術、すなわち一撃の威力が戦局を左右するという思想を色濃く継承している。しかし、関流はそれを単なる戦闘技術に留めず、「町打」に代表されるような、平時における技術の極致と様式美を追求する「武芸」へと見事に昇華させた。それは、戦いの記憶を、平和な時代の精神的支柱へと転換させる営みそのものであった。

第二に、関流砲術は、技術と精神、そして科学知の融合体であったという点である。流派の特色である大筒への特化、猿渡りを持つ特注の銃、そしてそれを支えたであろう和算の応用は、近世の砲術が単なる射手の腕力や度胸といった身体的要素だけでなく、弾道学的な理解や数学的な計算能力といった、高度な科学的知性と不可分に結びついていたことを明確に示している。「関流砲術書」は、武芸の伝書であると同時に、当時の日本の応用科学技術の到達点を示す貴重な資料なのである。

第三に、関流は、江戸幕府という中央の権威とは異なる、地方藩の誇りと独自性を体現する「地方文化の精華」であったという点である。幕府お抱えの流派が「公式標準」としての権威を誇る中で、土浦藩の関流は、それに比肩し、あるいは特定の分野では凌駕するほどの独自の技術体系を築き上げた。その存在は、「土浦にすぎたるもの」と称された藩のプライドの源泉であり、江戸時代における中央と地方の文化的緊張関係の中で花開いた、多様な武家文化の豊かさを今に伝えている。

最後に、本報告書の主題である「関流砲術書」、すなわち国立歴史民俗博物館に所蔵される「関家文書」の歴史資料としての計り知れない価値である。この文書群は、単に一つの武芸流派の技術と思想を解明するための手がかりであるに留まらない。それは、江戸時代における専門技術者集団が、如何にして組織を運営し、教育システムを構築し、財政を維持し、そしてその伝統とアイデンティティを次代へと継承していったのか、その具体的な経営実態を解き明かすための、他に類を見ない第一級の社会史・経営史の資料である。

結論として、「関流砲術書」の研究は、戦国という時代の視点を通して、一つの武芸流派の深奥を探る旅であると同時に、日本の武芸史、技術史、さらには社会史に新たな光を当てる可能性を秘めた、未来に向けた知的探求なのである。その全容解明には、今後さらなる学際的な研究の進展が期待される。

引用文献

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