阿蘭陀水指は、戦国期の南蛮趣味、日蘭貿易、たばこ文化を背景に日本で受容されたデルフト陶器。薬壺が水指に見立てられ、利休、織部、遠州の美意識に合致し、京阿蘭陀として模倣され定着した文化交流の結晶。
鮮烈な色彩と、日本の伝統的なやきものとは一線を画す異国的なフォルム。茶道具の世界において、ひときわ目を引く存在感を放つのが「阿蘭陀水指(おらんだみずさし)」である。特に、胴部に描かれた大胆な植物文様が、舶来したばかりの珍奇な植物の葉を想起させることから「莨葉文(たばこのはもん)」と俗称される一群は、数寄者たちの垂涎の的となってきた。その華やかな佇まいは、静謐を旨とする茶の湯の空間に、予期せぬ驚きと華やぎをもたらす。
しかし、この「阿蘭陀水指」を単にオランダからの美麗な舶来品としてのみ捉えることは、その本質を見誤ることになる。この一つの水指には、日本の近世初期における激動の歴史と、それに伴う文化の変容、そして日本人の美意識の深奥が凝縮されているからである。利用者様がご関心をお寄せの「戦国時代」という視点は、この器物を理解する上で極めて重要な出発点となる。なぜなら、阿蘭陀水指そのものが日本にもたらされたのは江戸時代初期であるが、それを受容する精神的土壌は、まさしく戦国時代に育まれた「南蛮趣味」という文化的潮流にその源流を見出すことができるからである。
本報告書は、この「阿蘭陀水指」という文化遺産を多角的かつ徹底的に解明することを目的とする。まず第一章では、戦国時代に花開いた南蛮趣味、江戸時代に本格化する日蘭貿易、そして水指の名称の由来となったたばこ文化の三つの歴史的背景を詳述し、阿蘭陀水指が日本で受け入れられるに至った必然性を論じる。続く第二章では、器物そのものに焦点を当て、その生産地であるオランダ・デルフトの製陶技術、器形の源流、そして文様の解読を美術史的・科学的見地から深く掘り下げる。第三章では、この異国の器が日本の精神文化の精髄たる「茶の湯」の世界でいかにして独自の価値を見出されたのかを、「見立て」という美意識を軸に、千利休、古田織部、小堀遠州といった大茶人たちの思想と絡めて考察する。第四章では、舶来品であった阿蘭陀水指が日本の陶工たちによって模倣され、「京阿蘭陀」として新たな創造の段階へと昇華していく様を追う。そして終章において、現存する名品の紹介と共に、本報告全体の議論を総括し、文化交流の結晶としてのア蘭陀水指の現代的価値を展望する。この重層的な分析を通じて、一つの茶道具が内包する豊饒な物語を紐解いていきたい。
阿蘭陀水指が日本の茶の湯文化に華々しく登場し、珍重されるに至った背景には、一過性の流行では説明できない、深く重層的な歴史的・文化的土壌が存在する。それは、戦国時代に萌芽し、天下人たちによって育まれた異国への強い好奇心「南蛮趣味」、江戸幕府の成立と共に確立された安定的かつ特殊な対欧州貿易体制「日蘭貿易」、そして同時期に日本社会に急速に浸透した新奇な文化「たばこ」という、三つの大きな潮流の合流点に位置づけられる。これらの要素が複雑に絡み合うことで、阿蘭陀水指を受容し、その価値を最大限に引き出すための舞台が整えられたのである。
阿蘭陀水指が持つ異国情緒溢れる美が、日本の数寄者たちの心を捉えた素地は、戦国時代末期にまで遡ることができる。この時代、ポルトガルやスペインといった南欧諸国、すなわち「南蛮」からもたらされた文物は、当時の日本の支配者層に強烈なインパクトを与え、一大ブームを巻き起こした。その中心にいたのが、天下人・織田信長である 1 。信長は、ビロードや羅紗といった珍しい布地で仕立てた洋套(マント)を身にまとい 2 、南蛮由来の菓子を好んで食したと伝えられる 3 。
特に、南蛮菓子は単なる嗜好品に留まらなかった。永禄12年(1569年)、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが織田信長に謁見した際、献上品としてフラスコ入りの金平糖(コンフェイトス)を贈ったことは有名である 4 。当時、砂糖そのものが極めて貴重であった上に、その不可思議な形状と強烈な甘さは、信長を大いに喜ばせた。この献上は、キリスト教布教の許可を得るための重要な外交的手段であり、南蛮文物が政治的な駆け引きの道具としても機能していたことを示している 4 。
信長に代表される戦国武将たちの南蛮趣味は、他の大名たちにも瞬く間に伝播した。陣羽織や軽衫(かるさん)と呼ばれるズボンといった南蛮風の衣装をこぞって取り入れ 2 、舶来の品々を所有することが、自らの権威、先進性、そして国際的な情報に通じていることを示す一種のステータスシンボルとなった。この時代に形成された「異国のモノは珍しく、価値が高い」という価値観は、後の時代にオランダからもたらされる文物、すなわち阿蘭陀水指が、単なる日用品ではなく、特別な価値を持つ美術品として受け入れられるための重要な精神的下地を形成したのである。
戦国時代が終わりを告げ、徳川の世が始まろうとしていた慶長5年(1600年)、日本の対外関係史における画期的な出来事が起こる。オランダ船「リーフデ号」が豊後国臼杵(現在の大分県臼杵市)に漂着したのである 7 。東洋の香辛料と日本の銀を目指してロッテルダムを出港した5隻の船団のうち、唯一日本にたどり着いたこの船には、後に徳川家康の外交顧問となるイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)とオランダ人のヤン・ヨーステンらが乗船していた 8 。
当初、先行して日本で影響力を持っていたイエズス会士らから「海賊船」との讒言を受けた彼らであったが、家康との引見において、ヨーロッパの情勢を臆することなく説いたことでその嫌疑を晴らし、逆に家康の知遇を得るに至った 8 。この出会いが、日本とオランダの400年にわたる交流の幕開けとなった。
家康の信頼を得たアダムスらの尽力もあり、慶長14年(1609年)、オランダ東インド会社の船が平戸に来航し、幕府から正式に通商許可の朱印状を得て、平戸にオランダ商館を設立した 7 。ここに、組織的かつ継続的な日蘭貿易が開始される。その後、江戸幕府はキリスト教の禁教政策を強化する中で、布教を伴うポルトガルやスペイン(南蛮人)を排除し、貿易に専念するオランダ(紅毛人)と中国を唯一の貿易相手国とする、いわゆる「鎖国」体制を確立していく 8 。寛永18年(1641年)には、オランダ商館は平戸から長崎の出島へと移され、厳格な管理貿易体制の下で、ヨーロッパとの唯一の窓口としての役割を担うことになった 10 。
この出島貿易は、元禄11年(1698年)以降、長崎会所が一元的に管理する官営貿易の性格を強めた 12 。輸入品は会所が買い上げ、その価値は「目利(めきき)」と呼ばれる専門の役人が査定し、日本の商人へと売り渡された 12 。このような安定的かつ長期的な交易ルートが確立されたこと、そして幕府の管理下で価値が厳正に評価されるシステムが存在したことが、阿蘭陀水指のような工芸品が継続的に日本にもたらされ、さらには後述するような日本からの「特別注文」に応えることを可能にしたのである。
阿蘭陀水指の最もポピュラーな俗称である「莨葉文(たばこのはもん)」。この名称は、水指に描かれた文様がたばこの葉に似ているという視覚的な類似性から来ているが、その背景には、阿蘭陀水指が渡来したのとほぼ同時期に、日本社会に爆発的に広まった「たばこ」という新しい文化の存在がある。
たばこが日本に伝来した正確な時期は定かではないが、16世紀末から17世紀初頭にかけて、ポルトガル人やスペイン人によってもたらされたと考えられている 11 。確かな記録としては、慶長6年(1601年)、フランシスコ会の修道士が徳川家康にたばこの種子を献上したというものがある 11 。当初、薬草として認識されていたたばこは、その嗜好性の高さから瞬く間に喫煙の風習として広まった。
幕府は当初、火災の危険性や風紀の乱れ、さらには米麦といった主要作物の作付けを妨げるとして、たばこの喫煙や耕作に対してしばしば禁令を出した 11 。慶長17年(1612年)から元和8年(1622年)にかけて、繰り返し禁令が公布された記録が残っている 11 。しかし、その流行を止めることはできず、幕府は次第に容認へと方針を転換。新田畑での耕作を許可したり、藩による専売制を認めたりすることで、喫煙文化は江戸時代を通じて庶民の間に深く根付いていった 11 。人々は刻んだ葉を煙管(きせる)で嗜み、たばこ盆やたばこ入れといった日本独自の喫煙具も次々と生み出された 11 。
このように、阿蘭陀水指が日本にもたらされた17世紀は、まさに日本人が「たばこ」という異国の植物とその文化に初めて出会い、熱狂した時代であった。当時の人々にとって「たばこ」は、最新の流行であり、異国情緒を象徴するアイコンであった。したがって、阿蘭陀水指に描かれた見慣れぬ異国風の植物文様を見て、人々が当時最も今日的でインパクトのあった「たばこの葉」を連想し、その名を冠したのは、極めて自然な成り行きであったと言える。それは単なる形状の類似性に基づく命名ではなく、異国の器と異国の植物という、二つの新奇な文物を結びつける、当時の人々の知的な遊戯、すなわち「見立て」の一つの発露だったのである 16 。
阿蘭陀水指の歴史的背景を理解した上で、次はその器物自体に深く分け入り、その材質、製法、形状、そして文様を美術史的、工芸技術史的な観点から分析する。この水指は、オランダのデルフトという地で、ヨーロッパの伝統的な製陶技術を基盤としながら、東洋への強い憧憬を反映して生み出された。そして、その形状や寸法には、遠く離れた日本の茶人たちの洗練された要求が色濃く影響している可能性が指摘されている。その物理的特性を解き明かすことは、この器が内包する複雑な文化の交錯を理解する鍵となる。
まず、「阿蘭陀焼」という呼称について整理する必要がある。この言葉は広義には、江戸時代にオランダ船によって日本にもたらされたヨーロッパ製陶磁器の総称として用いられる。そのため、オランダのデルフト焼だけでなく、イギリスのウェッジウッド、イタリアのマジョリカ、フランス、スペイン、さらには中近東の陶器まで含まれることがある 18 。しかし、本報告で扱う「阿蘭陀色絵莨葉文水指」は、その中でも特に17世紀にオランダの都市デルフトで生産された「デルフト陶器」に分類されるものである 16 。
デルフト陶器の技術的な核心は、「ファイアンス焼」と呼ばれる製法にある 21 。これは、9世紀頃にメソポタミアで開発され、イスラム世界を経てヨーロッパに伝わった「マヨリカ技法」に源流を持つ 16 。その最大の特徴は、酸化錫(すず)を釉薬に混ぜ込むことで、不透明な純白の地肌を作り出す点にある 22 。有色の粘土(陶胎)で成形した器を一度素焼きし、その上にこの錫釉を掛けて本焼きすることで、まるで磁器のような白い表面を得ることができるのである。
この技法によって作られたデルフト陶器は、材質的には「軟陶」に分類される 16 。これは、陶石を高温で焼き締め、素地自体がガラス化して吸水性がほぼ無い「磁器」とは根本的に異なる。陶器であるため素地は多孔質で、磁器に比べて柔らかく、強度的にも劣る 25 。しかし、この「不完全さ」こそが、デルフト陶器の魅力の源泉となっている。多孔質な素地は熱伝導率が低く、熱い液体を入れても器が急激に熱くなることがない 26 。そのため、手にした時に磁器のような冷たさはなく、土の温かみが感じられる。また、軽く叩いた時の音も、磁器の「キーン」という金属的な響きとは異なり、「コン」という鈍く柔らかな音がする 25 。この錫釉特有の不透明で温かみのある白色と、軟陶ならではの柔和な質感は、日本の茶人たちにとって、硬質で完璧な美しさを持つ中国磁器とは全く異なる、新たな美的価値を持つものとして映ったのである 16 。
阿蘭陀水指のもう一つの大きな特徴は、その独特な器形にある。上下がわずかにくびれた筒型の形状は「アルバレロ(Albarello)」と呼ばれ、中世から近世にかけてヨーロッパの薬局で広く用いられていた薬壺(やっこ)の形式である 16 。本来は軟膏や薬草、薬液などを保存するための容器であり、コルクなどで栓をして使用されていた 16 。日本に渡来した初期のオランダ陶器の中には、こうした本来の薬壺を茶人が水指や花入に「見立て」て用いた例も存在する 28 。
しかし、藤田美術館が所蔵する「阿蘭陀色絵莨葉文水指」に代表される優品は、単なる薬壺の見立て品とは考えにくい側面を持つ。この水指は、高さ14.7cm、最大径19.3cmという寸法を持つが、この大きさは茶の湯で水指として用いるのにまさに絶妙なサイズ感である 16 。一方で、ヨーロッパの薬局で使われていたアルバレロは、より細長い竹筒形のものや、もっと小ぶりなものが一般的であり、この水指ほどの大きさと安定感を持つ類例はヨーロッパではほとんど確認されていない 16 。
この事実から、極めて説得力のある仮説が導き出される。それは、これらの阿蘭陀水指が、ヨーロッパで薬壺として作られたものを日本人が転用したのではなく、初めから日本の茶の湯で「水指」として使うことを目的として、日本の茶人や商人から長崎・出島のオランダ商館を通じてデルフトの工房に特別に注文された「特注品」であるという説である 16 。残念ながら、この注文に関する直接的な記録は現存しないが、状況証拠は極めて有力である。この仮説が正しければ、阿蘭陀水指は単なる異文化からの輸入品ではなく、日本の洗練された美意識が遠くオランダの地にまで影響を及ぼし、新たなモノづくりを促したという、極めて能動的かつ双方向的な文化交流の記念碑的産物であると位置づけることができる。
阿蘭陀水指の代名詞ともいえる「莨葉文」。しかし、胴部に鮮やかな黄色や青で描かれたこの大きな葉のモチーフは、実際にはたばこの葉を写生したものではない 16 。これは、唐草文様を基調とした、ヨーロッパの陶工による装飾的な植物文様である。この文様の成り立ちを理解するためには、17世紀のヨーロッパを席巻した「シノワズリ(Chinoiserie)」、すなわち中国趣味という大きな文化的潮流を視野に入れる必要がある。
17世紀、オランダ東インド会社(VOC)は、中国・明末清初の景徳鎮窯で焼かれた磁器を大量にヨーロッパへともたらした。芙蓉手(ふようで)や古染付(こそめつけ)、祥瑞(しょんずい)といった中国磁器の、それまでヨーロッパには存在しなかった白く硬質な素地と、コバルトブルーで描かれたエキゾチックな文様は、ヨーロッパの王侯貴族や富裕層を熱狂させた 32 。デルフトの陶工たちは、この高価で入手困難な中国磁器の模倣品をファイアンス焼で製造することから発展した。彼らは、中国磁器に描かれた山水、人物、花鳥、幾何学文様などを熱心に学び、それを自らの陶器の上で再構成していったのである 33 。
つまり、阿蘭陀水指に描かれた「莨葉文」は、中国の伝統的な植物文様が、オランダの陶工のフィルターを通してヨーロッパ的に解釈・再創造され、それが製品として日本に渡り、さらに日本の茶人たちによって、当時最新の異国文化の象徴であった「たばこの葉」に「見立て」られた、という三重の文化的翻訳を経て成立した、極めてハイブリッドな意匠なのである。この複雑な出自こそが、単なる異国趣味の器とは一線を画す、阿蘭陀水指の奥深い魅力を形成している。それは、東洋と西洋の美意識が、海を越えて幾重にも交差し、変容を遂げた末に生まれた、奇跡的なデザインと言えるだろう。
オランダの工房で生まれ、貿易船に揺られて日本の地にたどり着いた異国の薬壺。それがなぜ、日本の精神文化の精髄ともいえる「茶の湯」の世界で、これほどまでに高く評価され、茶席の主役の一つとして迎え入れられたのだろうか。その答えは、茶の湯に深く根ざした「見立て」という独自の美意識と、千利休以降の茶の湯を牽引した大茶人たちの、より自由で闊達な価値観の内に求めることができる。阿蘭陀水指は、その鮮烈な個性によって、泰平の世を迎えつつあった時代の新たな美の要請に見事に応えたのである。
茶の湯の世界における「見立て」とは、単なる代用品をあてがうことではない。それは、物の本来の用途や社会的な評価、既成概念といった軛(くびき)からそれを解き放ち、亭主自身の審美眼というフィルターを通して、新たな価値と物語を付与する、極めて創造的な精神活動である 36 。
この「見立て」の精神を大成させたのが、茶聖・千利休である。利休は、京都の桂川で漁師が魚を獲るために使っていたありふれた魚籠(びく)を茶席に持ち込み、花入として用いた(桂川籠) 36 。また、名もなき職人が作ったであろう、どこにでも売っているような平凡な棗(なつめ)の中から優れたものを選び出し、自らの茶会で用いたり、署名を入れて人に贈ったりした(町棗) 36 。これらの逸話は、高価な名物や由緒ある唐物だけが茶道具ではないこと、日常の中にこそ、あるいは誰もが見向きもしない物の中にこそ、茶の湯の精神である「侘び」に通じる真の美が潜んでいることを、利休が身をもって示したものである。
この「見立て」の文化は、亭主と客との間で交わされる高度な知的コミュニケーションの基盤ともなる。客は、亭主がしつらえた道具の意外な取り合わせから、その日の茶会のテーマ(趣向)や亭主の教養、遊び心を読み解く 37 。阿蘭陀水指は、この「見立て」の精神を体現する上で、まさに格好の素材であった。ヨーロッパの薬局で薬を入れていた実用的な「薬壺」が、日本の茶室では水を蓄える神聖な「水指」へと生まれ変わる。この劇的な用途の転換、価値の飛躍こそが、「見立て」の醍醐味そのものであり、茶人たちはその意外性と物語性を大いに楽しんだのである。
千利休が「わび・さび」の美学を完成させた後、桃山時代末期から江戸時代初期にかけての茶の湯は、さらに多様な展開を見せる。その潮流を主導したのが、古田織部と小堀遠州という二人の大名茶人であった。彼らが打ち立てた新たな美意識こそが、阿蘭陀水指のような大胆で華やかな器を、茶の湯の世界に迎え入れるための審美的土壌を決定づけた。
古田織部 は、利休の弟子でありながら、師の静謐な「わび」の世界とは対照的な、動的で大胆な美を追求した。彼の美意識は「へうげもの(剽げ者)」と評されるように、意図的に器を歪ませた「沓形(くつがた)茶碗」に代表される、既成の調和を破壊する「破格の美」にその真骨頂がある 39 。左右非対称、予測不能な造形、強烈な色彩、そして異質なものの組み合わせを好み、そこに生まれる緊張感や面白さを積極的に評価した 41 。この織部の審美眼から見れば、阿蘭陀水指の持つ、日本の陶磁にはない鮮烈な色彩、異国的なフォルム、そして薬壺という出自の意外性は、まさに「面白い」ものであり、彼の「破格の美」に完璧に合致するものであった。
一方、 小堀遠州 が確立した美意識は「綺麗さび」と称される 44 。これは、利休の「わび・さび」が持つ閑寂な精神性を基盤としながらも、そこに王朝文化的な明るさ、理知的な秩序、そして洗練された華やかさを加味した、全く新しい美の概念である 45 。遠州は、異なる性質のものを巧みに組み合わせ、新たな調和を生み出すことに長けていた。阿蘭陀水指が持つ、軟陶ならではの素朴で温かみのある質感と、色絵の華やかで明朗な装飾性。この一見矛盾する二つの要素が一つの器の中で共存している様は、まさに遠州が理想とした「綺麗さび」の世界観を体現するものであったと言える。
このように、利休が創始した「見立て」の精神を土台として、織部の「破格」、遠州の「綺麗」という新たな価値基準が生まれたことで、茶の湯の世界はより豊かで多様な美を受容する器量を獲得した。阿蘭陀水指は、この時代の拡大する美意識の要請に応える、まさに時宜を得た存在だったのである。
【表1】利休・織部・遠州の美意識比較
項目 |
千利休 |
古田織部 |
小堀遠州 |
キーワード |
わび・さび |
へうげもの、破格の美 |
綺麗さび、調和の美 |
美意識の方向性 |
内省的、静的、非対称の美 |
動的、大胆、意外性の美 |
理知的、明朗、洗練の美 |
好んだ道具の例 |
黒楽茶碗、竹一重切花入、無作為の美 |
歪んだ沓形茶碗、織部焼、意図的な崩し |
七宝繋文、均整の取れた和物、秩序ある華やかさ |
阿蘭陀水指との関連性 |
「見立て」の精神的創始者として、異国の器を茶道具として用いる発想の源流となる。 |
その大胆な色彩、異国的なフォルム、出自の意外性を「破格の美」として積極的に評価した。 |
その華やかさと軟陶の温かみが調和した様を「綺麗さび」の体現として評価した。 |
土壁、障子、畳といった、極限まで色彩と素材が抑制されたミニマルな空間。それが日本の伝統的な茶室である。その静寂の中に、一点、阿蘭陀水指が置かれた時、どのような視覚的効果が生まれるだろうか。その鮮やかな黄、青、緑の彩りは、空間全体の緊張感を和らげ、茶席を「ぱっと華やがせる」効果をもたらす 16 。それは、暗闇に灯る一点の燭光のように、周囲の静けさを際立たせると同時に、見る者の心に祝祭的な高揚感を与える。
しかし、この異質な存在は、決して単なる不調和や異物として浮遊するわけではない。茶の湯において、道具は亭主がその日の茶会の物語を紡ぐための重要な演者である 37 。亭主は、その日の客、季節、そして茶会の趣旨に合わせて、掛物、花、そして茶道具一式を慎重に選び、一つの調和した世界観を構築する。阿蘭陀水指は、その特異な出自と華やかな意匠によって、亭主の創意を表現するための強力な武器となった。
例えば、夏の茶事であれば、その涼しげな青色は客に清涼感を与え、冬の茶事であれば、その暖色系の彩りが温もりを演出したであろう。また、南蛮渡来の人物が描かれた掛物や、異国の香木を入れた香合と取り合わせることで、茶席全体を「オランダ趣味」という一つのテーマで統一する、といった趣向も考えられる。客人は、この意外性に富んだ道具の取り合わせから、亭主の深い教養や粋な遊び心を読み取り、道具を介した豊かで知的な対話を楽しむ。阿蘭陀水指は、その唯一無二の存在感によって、茶の湯のコミュニケーションをより一層奥深いものへと高める役割を果たしたのである。
舶来品であった阿蘭陀水指は、その希少性と異国情緒溢れる魅力から、茶人や数寄者の間で極めて高い人気を博した。しかし、その需要に対して供給は常に限られていた。この状況が、日本の優れた陶工たちの創作意欲を刺激し、新たな展開を生み出すことになる。それは、本歌(ほんか)であるオランダ製の器を模倣する「写し(うつし)」の文化である。この「写し」の制作を通じて、阿蘭陀水指の美は単なる憧れの対象から、日本の陶芸文化に深く根ざし、新たな創造の源泉へと昇華していくのである。
江戸時代も後期に入ると、阿蘭陀水指の「写し」が日本の各地で盛んに作られるようになる。その中でも中心的な役割を担ったのが、都の洗練された美意識を背景に持つ京焼の陶工たちであった 48 。彼らが手がけた精巧な写しのやきものは、今日「京阿蘭陀(きょうおらんだ)」と呼ばれ、一つのジャンルを形成している 48 。その作風は、野々村仁清に代表される色絵技術の系譜を汲むものであり、中村与平といった陶工の名も、阿蘭陀写しの茶碗の作者として伝わっている 50 。
阿蘭陀写しの生産は、京都に限ったことではなかった。例えば、鳥取藩の御用窯であった因久山窯(いんきゅうざんがま)でも、杉本勘助(1789~1870)のような名工が、莨葉文をあしらった阿蘭陀写しの水指を制作した記録が残っている 52 。これは、阿蘭陀焼のデザインが持つ魅力が、京の都だけでなく、地方の窯業地にまで広く伝播し、各地の陶工に影響を与えていたことを示している。茶の湯文化の全国的な広がりと共に、阿蘭陀写しの需要もまた、日本各地に存在したのである。
「写し」の文化は、単なるデッドコピーの制作を意味しない。それは、手本となる「本歌」の美の本質を深く理解し、分析した上で、それを自らの技術と感性、そして時代の美意識をもって再構築する、極めて高度で創造的な行為である。「京阿蘭陀」の作例を本歌であるデルフト陶器と比較すると、この模倣と創造のダイナミズムを明確に見て取ることができる。
京阿蘭陀の技術的な最大の特徴の一つは、ヨーロッパの陶器に用いられていた銅版転写プリントによる細密な描線を、手描きによって再現しようと試みた点にある 49 。銅版画特有のハッチング(平行線を重ねて陰影を表す技法)などを、染付の呉須(ごす)の濃淡や筆のタッチを駆使して巧みに表現しており、日本の陶工たちの驚異的な技術力の高さを示している 48 。
さらに、意匠の面でも日本の職人たちは独自の解釈を加えた。彼らは、本歌の文様を忠実に写すだけでなく、そこに日本的なモチーフや中国風の意匠を自由に組み合わせ、和洋中の要素が混然一体となった、全く新しいハイブリッドなデザインを生み出した 48 。例えば、西洋風の風景画の中に、日本の着物を着た人物を描き込んだり、器の窓絵に西洋人を配したりするなど、その表現は大胆かつ遊び心に満ちている。
材質の面でも、日本的な解釈が見られる。本歌であるデルフト陶器が、前述の通り軟質の陶器であるのに対し、日本で作られた写しの中には、磁器の素地で作られたものも存在する。これは、本歌の持つ温かみのある風合いを再現しつつも、より丈夫で扱いやすい磁器という素材を選択するという、日本の職人ならではの合理性と工夫の表れであろう。このように、「京阿蘭陀」に代表される写しの数々は、異文化への深い理解と尊敬を基盤としながらも、それに留まることなく、自らの文化の文脈の中でそれを再創造しようとする、日本の職人たちの旺盛な創造精神の結晶なのである。その存在は、阿蘭陀水指という異国の美が、一過性の流行に終わることなく、日本文化の血肉となり、新たな美を生み出すための触媒として機能したことを、雄弁に物語っている。
戦国の気風が残る桃山から、泰平の江戸へ。時代の大きなうねりの中で、阿蘭陀水指は、日本人の異国への憧れと、茶の湯という洗練された美意識の交差点に生まれた。その旅路は、オランダの工房から日本の茶室へ、そして舶来の「本歌」から日本の「写し」へと続き、日本文化の中に確固たる地位を築いた。本章では、今日に伝わる主要な伝世品を紹介し、その文化遺産としての価値を再確認すると共に、本報告全体の議論を総括し、この類まれな工芸品が現代に投げかける意味を考察する。
幸いなことに、数世紀の時を経て、数多くの優れた阿蘭陀水指およびその写しが、今日まで大切に受け継がれ、各地の美術館や博物館でその姿を見ることができる。これらの伝世品は、本報告で論じてきた歴史と美意識の物言わぬ証人である。
代表的な所蔵先としては、まず大阪の 藤田美術館 が挙げられる。同館所蔵の「阿蘭陀色絵莨葉文水指」は、本報告でも度々言及した、この種の水指の代表格である 16 。また、
神戸市立博物館 は、実業家・池長孟(いけながはじめ)が蒐集した南蛮・紅毛美術の一大コレクションを収蔵しており、その中には阿蘭陀焼や京阿蘭陀の優品が多数含まれている 53 。この池長コレクションの存在なくして、近世日欧交渉美術史の研究は成り立たないと言っても過言ではない。
東京の 根津美術館 も、茶道具の名品コレクションで知られ、1987年には伝説的な「阿蘭陀」展を開催するなど、この分野の研究を牽引してきた 56 。長野県の
サンリツ服部美術館 も、国宝・重要文化財を含む茶道具コレクションを有し、その中に「色絵阿蘭陀水指」が含まれている 57 。さらに、日蘭交流の起点となった九州では、
大分市歴史資料館 が所蔵する「阿蘭陀色絵細水指」が注目される 28 。この水指は、桃山時代から江戸初期の作とされ、徳川二代将軍・秀忠の墓所からの出土品との関連も指摘されるなど、その使用年代を考える上で極めて重要な考古資料でもある 28 。
これらの作品の文化財指定については、一部情報に錯綜が見られる。例えば、サンリツ服部美術館の所蔵品を「重要美術品」とする資料がある一方で 57 、同館の収蔵品リストではその指定が確認できない場合もある 57 。しかし、大分県指定有形文化財に指定されている作例が存在することからも 28 、阿蘭陀水指が歴史的・芸術的に高く評価されてきたことは間違いない。
【表2】主要な「阿蘭陀水指」及び「阿蘭陀写し」の所蔵先と文化財指定
名称/分類 |
時代 |
所蔵機関 |
文化財指定 |
備考 |
阿蘭陀色絵莨葉文水指 (本歌) |
17世紀 |
藤田美術館 |
- |
莨葉文水指の代表作例 16 |
阿蘭陀色絵細水指 (本歌) |
桃山-江戸初期 |
大分市歴史資料館 |
大分県指定有形文化財 |
アルバレロ型。徳川秀忠墓からの出土品との関連が指摘される 28 |
色絵阿蘭陀水指 (本歌) |
17世紀 |
サンリツ服部美術館 |
重要美術品(※) |
国宝・重文を多数所蔵する茶道具コレクションの一部 57 |
阿蘭陀焼各種 (本歌) |
江戸時代 |
神戸市立博物館 |
- |
池長孟コレクション。南蛮・紅毛美術の一大コレクション 53 |
藍絵狂言袴文透彫向付 (本歌) |
17世紀 |
根津美術館 |
- |
赤星家伝来品。西田宏子氏寄贈 56 |
京阿蘭陀 刀掛 (写し) |
19世紀前期 |
神戸市立博物館 |
- |
京阿蘭陀の中でも複雑な構造を持つ。銅版画風の精緻な手描きが特徴 48 |
因久山焼 和蘭陀写水指 (写し) |
江戸時代 |
(個人蔵等) |
- |
杉本勘助の作。地方窯における阿蘭陀写しの作例 52 |
※重要美術品指定については、資料により記述が異なり、現状では確定的な情報とは言えない点に留意が必要である。
本報告書を通じて詳述してきたように、「阿蘭陀水指」は、単一の文化圏から生まれた純粋な工芸品ではない。それは、歴史の大きな潮流が奇跡的に交差する地点に生まれた、他に類を見ない文化遺産である。
その成立には、まず戦国武将たちが育んだ、未知なる異国への飽くなき好奇心と、それをステータスとして顕示する「南蛮趣味」という精神的土壌があった。次に、徳川幕府が築いた厳格な管理貿易体制の下で、唯一ヨーロッパとの窓口として機能したオランダとの、安定的かつ長期的な交易関係という物理的ルートが存在した。そして、その器が日本に到着した時、そこには、物の本来の価値を転換させて新たな美を見出す「見立て」という、日本の茶の湯文化が育んだ独自の審美眼が待ち受けていた。さらに、利休の「わび・さび」に加え、織部の「破格の美」や遠州の「綺麗さび」といった、より多様で自由な価値観が、その異国的な美を積極的に評価し、茶席の主役へと押し上げたのである。
中国の意匠がオランダで解釈され、ヨーロッパの薬壺が日本の水指として生まれ変わり、その華やかな姿が日本の陶工たちの手によって再び写し取られる――。この多重の文化的翻訳と創造の連鎖こそ、阿蘭陀水指の物語の核心である。それは、17世紀という大航海時代のグローバルな交易の波と、茶の湯という極めてローカルで洗練された精神文化とが見事に融合して結実した、「文化交流の結晶」に他ならない。この一つの水指が内包する複雑で豊かな物語は、異なる文化が出会う時に生まれる創造性の輝きを、現代の我々に鮮やかに示してくれるのである。