伝説の弓「飛燕」は、中国の弓聖・飛衛の技と燕の俊敏さを象徴。戦国武将の実用武芸と異なり、弓を忘れる「不射の射」という道家思想の境地を表す。
古代中国の弓の名手・飛衛(ひえい)が愛用したと伝えられる伝説の弓、「飛燕(ひえん)」。百歩離れた柳の葉を射抜き、渡り鳥の群れを一羽残らず射落としたという神技を支えたとされるこの弓は、武芸を志す者にとって究極の象徴として語り継がれてきた。しかし、この「飛燕」という弓は、果たして歴史的に実在した特定の固有名を持つ弓なのであろうか。それとも、ある種の理想や概念を体現する文化的な記号なのであろうか。本報告書は、この根源的な問いを解き明かすことを目的とする。
そのために、まず伝説の源流である古代中国の文献を精査し、その思想的背景を探る。次に、その伝説が日本でどのように受容され、変容したかを分析する。そして最終的に、本報告書の核となる「日本の戦国時代」という独自の視座からこの伝説を照射し、戦国の武士たちが求める武芸のあり方と、「飛燕」が象徴する境地との間に横たわる思想的な差異を浮き彫りにする。
初期の調査段階で明らかになったのは、「飛燕」という名称が単一の固有名詞ではなく、複数の要素が融合して形成された複合的な文化概念である可能性が高いという点である。すなわち、弓の名手「飛衛」の名、彼の弟子が用いた「燕角之弧(えんかくのこ)」という弓の名に含まれる「燕」の字、そして矢の速さや技の鋭さを象徴する「飛ぶ燕」という比喩的イメージ。これらが時代を経て混淆し、「飛燕」という一つの象徴的な呼称へと昇華されていったのではないか。この仮説を念頭に置き、伝説の深層へと分け入っていく。
「飛燕」の伝説の源流をたどる旅は、古代中国の道家の書物『列子(れっし)』に行き着く。特にその「湯問(とうもん)第五篇」に記された物語が、飛衛と彼の弟子・紀昌(きしょう)の逸話の原典である 1 。
物語は、趙の都・邯鄲(かんたん)に住む男、紀昌が天下第一の弓の名人になろうと志し、当代随一の名手と謳われる飛衛の門を叩くところから始まる 4 。飛衛が紀昌に課した修行は、常人の理解をはるかに超えるものであった。
第一段階「不瞬の行」
飛衛が最初に命じたのは、「瞬きをしないこと」を学ぶことであった 5。家に帰った紀昌は、妻が機を織る台の下に仰向けに寝転がり、目のすぐ上を往復する機躡(まねき)を瞬きせずに見つめ続けた。この奇妙な修行を続けること二年、ついに錐(きり)の先で瞼を突かれても瞬き一つしないほどの不動の集中力を体得した。夜、熟睡している時でさえ彼の目は大きく見開かれたままで、ついには睫毛の間に蜘蛛が巣を張るに至ったという 4。これは単なる身体的な訓練ではなく、外的刺激に動じない精神の不動性を確立する行であった。
第二段階「視微の行」
次に飛衛は「視ること」を学べと命じた。小さなものを大きく、微かなものをはっきりと見ることができるようになってから報告に来い、というのである 4。紀昌は再び家に帰り、虱(しらみ)を一本の髪の毛で繋ぎ、それを南向きの窓に吊るして終日睨み続けた 8。三年という歳月が流れたある日、その虱が車輪のように大きく見えるようになった。彼の視界では、他のすべてのものが丘や山のように巨大に見えたという 6。これは、対象との一体化を通じて、自己の認識スケールを自在に変化させるという、より高度な精神的段階を示している。
技術の完成と驕り
この二つの基礎訓練を終えた紀昌は、飛衛から本格的な射術を学び始めると、驚くべき速さで上達し、十日後には百歩先の柳葉を百発百中で射抜く腕前となった 6。しかし、もはや師から学ぶべきものが無くなったと感じた紀昌の心に、ある邪念が芽生える。「天下第一の名人となるためには、師である飛衛を殺めねばならぬ」と 11。これは、技の頂点に達した者が陥りがちな、自我の肥大化と驕りを象徴している。
師弟対決
原典『列子』によれば、野で出会った二人は互いに矢を射かける。放たれた矢はことごとく空中で衝突し、塵一つ立てずに地に落ちた。やがて飛衛の矢が尽き、紀昌が最後の一矢を放つと、飛衛は野に生えていた棘(いばら)の枝先でその鏃(やじり)を叩き落とし、事なきを得たという 2。この神業の応酬は、二人の技術が人間業を超えた領域にあることを示すと同時に、技術だけでは超えられない壁の存在を暗示している。
師弟の対決と和解の後、飛衛は紀昌をさらなる高みへと導くため、西方の高峰に住む老師・甘蠅(かんよう)を訪ねるよう勧める 9 。この甘蠅こそが、飛衛自身の師でもあった 10 。
山頂で紀昌を迎えた甘蠅は、紀昌の神技を一瞥するも、「それは所詮、射の射(しゃのしゃ)。いまだ不射の射(ふしゃのしゃ)を知らぬと見える」と評する 9 。そして、弓も矢も持たずに、天空高く飛ぶ鳶(とび)を睨み、あたかも見えざる弓を引き絞るかのような仕草をすると、鳶は羽ばたきもせずに石のように墜落した 6 。
この「不射の射」こそ、この伝説の核心である。それは、弓という道具、射るという行為、そして名人になろうとする自我すらも超越した、無為自然の境地を象徴している。紀昌はこの老師の下で九年間修行し、山を下りてきた時には、以前の精悍な面魂は消え、何の表情もない木偶(でく)のような風貌に変わっていた 5 。その姿を見たかつての師・飛衛は、「これこそ真の天下の名人だ」と感嘆した 6 。
最終的に紀昌は弓を手に取ることさえなくなり、やがては弓という道具が何であったかさえ忘れてしまう 5 。この物語が示すのは、弓の技を極めることの先に、弓を「忘れる」という境地があるという逆説である。弓は「道」に至るための手段に過ぎず、真の達人とは、その手段すらも手放した存在なのだ。この思想は、老荘思想、特に「無為(むい)」の哲学と深く共鳴している。伝説の主役は弓そのものではなく、弓を忘れ去ることによって完成される人間の精神なのである。
興味深いことに、『列子』の原典は、紀昌が虱を射た際に用いた弓について、具体的な記述を残している。それは「燕角之弧、朔蓬之簳(えんかくのこ、さくほうのかん)」、すなわち「燕の角の弓に、北方の蓬(よもぎ)の矢」である 2 。
この「燕角之弧」という名称は、二つの解釈が可能である。一つは、文字通り「燕(つばめ)の角で作られた弓」という幻想的な解釈。もう一つは、より現実的な「古代中国の燕(えん)国で作られた角(つの)の弓」という解釈である。後者の解釈は、古代中国の弓の製法と符合する。当時の先進的な弓は、木や竹を芯に、弓の内側に動物の角、外側に腱(けん)を膠(にかわ)で張り合わせた複合弓(コンポジットボウ)であった 15 。この複合弓は、日本の和弓とは構造を異にし、小型でありながら極めて高い威力を誇り、特に騎馬民族によって重用された。
「朔蓬之簳」もまた、北方の良質な蓬の茎で作られた矢であることを示唆しており、伝説が単なる空想の産物ではなく、当時の最高水準の武具技術に裏打ちされていたことを物語っている。超人的な技芸の伝説は、それを可能にする先進技術の存在によって、より一層の説得力を持っていたのである。
前章で見たように、原典『列子』には「飛燕」という名の弓は登場しない。では、なぜ「飛衛の弓は飛燕」という伝説が生まれたのか。その謎を解く鍵は、「飛燕」という言葉が持つ複合的な意味合いと、その形成過程にある。
「飛燕」という呼称は、主に三つの源流から派生し、融合した文化的概念と考えられる。
これらの要素、すなわち「飛衛」の音、「燕角」の字、「飛ぶ燕」のイメージが、長い年月をかけて人々の間で語り継がれるうちに分かち難く結びつき、「飛燕」という一つの凝縮された象徴的呼称が生まれたと推察される。
「飛燕」という言葉が持つ「速さ」「軽やかさ」というイメージは、中国の他の歴史的文脈においても確認できる。
後漢末期に勢力を誇った黒山賊の頭目・張燕(ちょうえん)は、その軍勢の動きが極めて機敏であったことから「飛燕」という渾名で呼ばれた 20 。これは、「飛燕」が武人の素早さや戦闘能力を称賛する言葉として用いられていたことを示す好例である。
また、漢の成帝の皇后、趙飛燕(ちょうひえん)は、その名の通り燕のように身軽で、掌の上で舞うことができたと伝えられるほどの絶世の美女であった 22 。これにより、「飛燕」という言葉には、武勇だけでなく、優美さや美しさといった含意も加わることになった。
これらの事例は、「飛燕」という言葉が、単なる弓の名にとどまらず、中国文化圏において「卓越した速さ」「武勇」「美」などを内包する、豊かで多義的な記号として機能していたことを示している。
したがって、「飛燕」とは特定の弓を指す固有名詞ではなく、名手・飛衛の神技を象徴し、燕角の弓の記憶を留め、飛ぶ燕の俊敏さを比喩とする、豊穣な文化的背景から生まれた象徴的名称であると結論付けられる。
古代中国で生まれた飛衛と紀昌の伝説が、現代の日本で広く知られるようになった最大の功労者は、作家・中島敦(1909-1942)である。彼が1942年に発表した短編小説『名人伝』は、この伝説を日本人の心に深く刻み込む決定的な役割を果たした 1 。
『名人伝』は、多くの日本人にとって、飛衛と紀昌の物語に触れる最初の、そして最も印象的な体験となっている 6 。中島敦の格調高く、かつ読みやすい筆致は、難解とも言える道家の寓話を、普遍的な人間ドラマとして読者の前に提示した。この作品を通じて、技術の研鑽、自我との葛藤、そして芸の道における究極の境地といったテーマが、日本の読者に広く共有されることとなった。
しかし、注意すべきは、中島敦の『名人伝』が『列子』の単なる忠実な翻訳ではないという点である。中島は原典の骨子を尊重しつつも、登場人物に豊かな心理描写と近代的な人間像を吹き込み、物語を再創造した。
例えば、師を殺めようとした紀昌が抱く「道義的慚愧の念」という内面の葛藤は、中島による創作である 13 。原典『列子』では、師弟対決の後、二人は涙を流して和解し、父子の契りを結ぶという、より素朴で神話的な結末を迎える 2 。
また、紀昌に甘蠅老師の存在を教える場面の動機も異なる。『列子』では純粋に弟子を導くための助言であるが、『名人伝』の飛衛は、「再び弟子が斯かる企みを抱くやうなことがあつては甚だ危い」と考え、危険な弟子の気を逸らすために新たな目標を与えるという、より計算高く、人間臭い動機付けがなされている 9 。
このように、中島敦は古代の寓話に近代的な自我の苦悩や心理的リアリズムを投影し、単なる伝説の紹介ではなく、一個の文学作品として昇華させた。その結果、多くの日本人が「飛衛の伝説」として認識している物語は、実際には中島敦という文学的プリズムを通して屈折し、再構成された物語なのである。この事実を認識することは、原典の持つ道家思想と、その日本における近代的受容とを区別する上で極めて重要である。
ここまで「飛燕」の伝説の源流と日本での受容を追ってきた。いよいよ本報告書の核心である、「日本の戦国時代」という視点からこの伝説を考察する。もし戦国の武士が飛衛と紀昌の物語を耳にしたとしたら、彼らはそれをどう受け止め、自らの武芸観といかに比較しただろうか。
戦国時代の戦場において、弓は極めて重要な実用兵器であった。当時の武士が用いた和弓は、全長七尺三寸(約221cm)を標準とする、竹と木を膠で張り合わせた長大な複合弓である 26 。特に身分の高い武将は、補強と装飾を兼ねて黒漆を塗り、籐(とう)を幾重にも巻きつけた「重藤の弓(しげとうのゆみ)」を好んで用いた 27 。
鉄砲の伝来後も、弓の価値が失われることはなかった。火縄銃が弾込めに時間を要するのに対し、弓は速射性に優れていたため、鉄砲隊が次弾を装填する間、敵の突撃を防ぐために矢継ぎ早に矢を放ち、弾幕を張る「防ぎ矢」という戦術が不可欠だったのである 29 。戦国時代の弓は、あくまで戦場で勝利を収めるための、即物的な道具であった。
日本の歴史にも、弓の名手として名を馳せた武将は数多い。しかし、彼らの逸話は、紀昌が到達した「無為自然」の境地とは全く異質な価値観に基づいている。
これらの日本の弓の名手たちの物語は、いずれも「武功」「名誉」「忠義」といった武士道の価値観に貫かれている。彼らの弓術は、現実世界で勝利を収め、主君に貢献し、家名を高めるための実用的な「術」なのである。
ここに、飛衛・紀昌の伝説と日本の武士道との間に、決定的な思想的断絶が浮かび上がる。紀昌が最終的に到達した「弓を忘れる」という境地は、自己と世界の対立を超越し、作為を捨て去る道家の理想である。これは、戦場で敵を殺傷し、勝利することを使命とする武士のアイデンティティとは、根本的に相容れない。
戦国の武士にとって、弓は自己の存在証明そのものであり、生涯をかけて磨き上げるべき相棒であった。大島光義のように90歳を超えても戦場に立ち、弓を手にし続けることが理想とされた。弓を忘れ、木偶のようになることは、武士としての死を意味したであろう。
この対比を明確にするため、以下の表を作成した。
項目 |
飛衛・紀昌の伝説(『列子』より) |
日本の弓の名手(那須与一、大島光義など) |
修行法 |
精神的・感覚的な訓練(不瞬、視微) 4 |
実戦的・反復的な稽古 30 |
到達した境地 |
弓を忘れる「不射の射」、無為自然 5 |
百発百中の実用的な神技、驚異的な速射 30 |
逸話の性質 |
哲学的、寓話的 1 |
武勇伝、具体的な戦功や技の誇示 30 |
弓の役割 |
「道」に至るための手段、最終的には不要 5 |
戦場で勝利を収めるための実用的な武器 29 |
もし戦国武将が『列子』の物語を聞いたなら、それを模範とすべき生き方とは見なさなかっただろう。それは興味深い異国の寓話ではあるが、あくまで哲学的な遊戯であり、生死を賭ける戦場の現実とはかけ離れたものと捉えたに違いない。彼らが目指したのは、弓を忘れる聖人ではなく、弓と共に生き、弓と共に死ぬ武人であった。
『列子』がいつ日本に伝来したか、正確な記録はない 36 。唐代の中国では道教の経典として尊ばれたが 38 、儒学や兵法書が重んじられた日本の戦国時代に、この道家思想の書が武士の間で広く読まれていた可能性は極めて低い。この伝説が日本で広く認知されるようになったのは、前述の通り中島敦の『名人伝』以降の、近代的な現象である。したがって、戦国時代の武士の精神性に「飛燕」の伝説が直接的な影響を与えたとは考え難い。
「飛燕」の物語は、その原典の文脈を離れ、後世の様々な文化領域で「速さ」「美しさ」「卓越した技」を象徴する便利な記号(トロープ)として繰り返し引用、変奏されてきた。
これらの事例が示すように、「飛燕」という言葉は、もはや特定の物語に縛られることなく、時代やジャンルを超えて「俊敏さ」「優美さ」「神技」といった概念を喚起する、非常に汎用性の高い文化表象となっているのである。
本報告書における詳細な調査の結果、「飛燕」とは、歴史的に実在した特定の弓の固有名詞ではなく、古代中国の道家思想に源流を持つ、豊かで複合的な文化概念であることが明らかになった。それは、名手・飛衛の名と技、燕角の弓という物象、そして飛ぶ燕の比喩が一体となり、武芸の極致とそれに伴う精神的境地を象徴する言葉として結晶化したものである。
そして、この伝説を「日本の戦国時代」という視点から分析した時、武芸が目指すべき「頂」には、全く異なる二つの峰が存在することが鮮明に浮かび上がった。
一つは、戦国の武士たちが目指した**「実用の武」の頂**である。那須与一や大島光義に代表されるこの道は、弓をあくまで現実世界で勝利を収めるための武器として捉え、生涯をかけてその技術を磨き、武功と名誉を追求する。ここでの弓は、自己の存在を証明するための不可分な一部であり、それを手放すことは武士としての死を意味する。
もう一つは、飛衛と紀昌の伝説が示す**「求道の芸」の頂**である。この道は、弓を精神的な高みへと至るための方便として捉える。技術の完全な習得は出発点に過ぎず、その先には、弓という道具、射るという行為、そして名人たらんとする自我さえも忘れ去る「不射の射」の境地が待っている。ここでの弓は、悟りを得るための梯子であり、頂上に達した暁には捨て去られるべきものなのである。
「飛燕」の伝説を戦国武士の視点から読み解くという試みは、期せずして、この二つの対照的な武芸の頂点を照らし出すことになった。それは、技とは何か、芸とは何か、そして人は自らの道の極みに何を見るのか、という普遍的な問いを我々に投げかける。弓を握りしめる意味と、弓を忘れ去る意味。その対比の中に、武の道の無限の深さと多様性が示されていると言えよう。