「鬼切安綱」は源氏重代の太刀で、鬼退治伝説を持つ。髭切、友切など異名を持ち、最上家を経て北野天満宮に奉納された重要文化財。
本報告は、源氏重代の太刀として知られる「鬼切安綱」について、その起源にまつわる伝説から、戦国時代における役割、そして現代に伝わる重要文化財としての価値まで、あらゆる側面から徹底的に考証し、その全貌を解明するものである。単に伝説をなぞるのではなく、軍記物語、歴史記録、そして現存する美術品としての物理的分析を横断することで、この一振りが持つ多層的な意味を明らかにしていく。論の構成として、まず伝説が形成された平安時代、次に歴史の奔流に揉まれた中世・戦国時代、最後に安住の地を得た近代以降という三部構成で、その長大な物語を紐解いていく。
「鬼切安綱」という名は、この太刀が持つ複雑な来歴の一面に過ぎない。この一振りは、その生涯を通じて「髭切(ひげきり)」、「鬼切丸(おにきりまる)」、「獅子の子(ししのこ)」、「友切(ともきり)」といった数多の異名で呼ばれてきた 1 。これらの名称は単なる別名ではなく、それぞれが特定の物語や逸話と分かちがたく結びついており、刀そのものの来歴を雄弁に物語っている。この「物語を纏う」性質こそ、本太刀が時代を超えて人々を魅了する魅力の根源と言えよう。
利用者様がご提示された「徳川秀忠が朝廷に献上した」という逸話は、本太刀を巡る情報の錯綜を象徴する一例である。詳細な調査の結果、この逸話は天下五剣の一つに数えられる「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」の伝来と混同されたものである可能性が極めて高い 3 。このような混同は、両者が共に名工・安綱の作であり、鬼退治の伝説を共有することに起因する。本報告では、こうした複雑に絡み合った情報を丁寧に整理し、それぞれの刀が歩んだ正確な歴史を明らかにすることを一つの目的とする。
「鬼切安綱」の作者とされるのは、伯耆国(ほうきのくに、現在の鳥取県中西部)の刀工、大原安綱(おおはらのやすつな)である 5 。安綱は、日本刀が直刀から反りのある彎刀(わんとう)へと姿を変え、その様式が確立する平安時代後期に活動した、現存最古級の刀工の一人と目されている 6 。彼の作風は、優美さの中に力強さを秘め、後の日本刀のあり方を方向づけるほどの大きな影響を与えたと評価されており、日本刀剣史の黎明期を飾る巨匠として位置づけられている 8 。
この名工・安綱に刀を打たせたのが、清和源氏の礎を築いた武将・源満仲(みなもとのみつなか)であったと、『平家物語』の異本「剣巻(つるぎのまき)」は伝える 1 。満仲は、武士の力の象徴として、安綱に二振りの優れた太刀を注文した。完成した太刀の切れ味を試すため罪人の首を斬ったところ、一振りは首と共に顎の髭まで見事に切り落としたことから「髭切」と名付けられた。もう一振りは、両膝を斬り揃えたことから「膝丸(ひざまる)」と命名されたという 1 。この「髭切」と「膝丸」は、源氏の嫡流に代々伝えられる一対の宝剣として、長大な物語の幕開けを飾ることになる。
この命名の逸話は、単に切れ味の良さを示すだけでなく、一つの重要な文化的行為であった。名将・源満仲によって名を与えられることで、この刀は単なる「よく切れる道具」から、個別の由緒と人格を持つ「名物(めいぶつ)」へと昇華したのである。この「命名」こそが、刀剣に物語性を付与する最初のステップであり、後に続く数々の伝説が生まれる豊かな土壌となった。
また、「髭切」と「膝丸」という双剣の設定は、物語に深みを与える巧みな仕掛けと言える。一対の宝剣が、時に共にあり、時に離散し、そして再び巡り会うという運命を辿ることで、源氏一族そのものの栄枯盛衰のドラマと見事に重ね合わせることが可能となる。「膝丸」の存在は、「髭切」の物語をより劇的に演出し、一族の運命を象徴するための重要な装置として機能しているのである。
なお、作刀した刀工については、安綱説が最も広く知られているが、異伝として筑前国の文寿(ぶんじゅ)や、三条宗近の弟子である有国(ありくに)といった名も挙げられており、伝説が形成される過程で様々な伝承が取り込まれていった様子が窺える 10 。
「髭切」がその名をさらに高める契機となったのが、源頼光(みなもとのよりみつ、らいこう)の配下である四天王の筆頭・渡辺綱(わたなべのつな)による鬼退治の伝説である 12 。ある夜、主君・頼光の命で使いに出た綱は、頼光からこの「髭切」を預かり、京の一条戻橋を渡っていた。そこで美しい女性に姿を変えた鬼に遭遇し、馬に乗せて送る途中、鬼は正体を現して綱を連れ去ろうとする。しかし綱は少しも慌てず、「髭切」を抜き放つや、鬼の腕を見事に切り落とした 12 。この一件により、「髭切」は新たに「鬼切」、あるいは「鬼切丸」という、最も象徴的で力強い異名を得ることになったのである 12 。
この鬼の正体については、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)の配下である茨木童子(いばらきどうじ)であったとする説 13 や、古くから宇治の地に伝わる鬼女・橋姫(はしひめ)の化身であったとする説 9 など、物語によって様々なバリエーションが見られる。さらに、綱が持ち帰った鬼の腕を、後に綱の伯母(あるいは義母)に化けた鬼が言葉巧みに取り返しに来るという後日譚も広く知られており、物語に一層の深みを与えている 12 。
この「鬼切」という名の獲得は、刀の価値を飛躍的に増大させた。単なる物理的な切れ味の伝説(髭切)の上に、超自然的な存在を打ち破る霊威の伝説(鬼切)が重ねられたのである。逸話が加わるごとに刀の霊的な力と希少価値は増幅していく。この刀が持つ数々の名は、その価値が雪だるま式に形成されていった各段階を示す、歴史の地層のようなものと見なすことができる。
「鬼切」の名を得た後も、この太刀の物語は留まることを知らず、『平家物語』「剣巻」は、さらに目まぐるしい改名の経緯を記している 1 。
源為義(みなもとのためよし)の代、源氏の二振りの宝剣「髭切」と「膝丸」を共に置いておくと、夜な夜な唸り声を発するようになった。これを不気味に思った為義は、「髭切」の名を獅子の咆哮になぞらえて「獅子の子」に、「膝丸」を「吼え丸(ほえまる)」に改めたという 1 。
さらに為義は、「吼え丸」を熊野権現に奉納し、その代わりに「小鳥(こがらす)」という銘の太刀を新たに作らせ、「獅子の子」の傍らに置いた。ところがある時、「獅子の子」がひとりでに倒れ、隣にあった「小鳥」の柄(つか)を切り落としてしまう事件が起きた。これを見た為義は、友であるはずの刀を切ったことから、「獅子の子」の名を今度は「友切」と改めた 1 。
この「友切」という不吉な名は、源氏の運命に暗い影を落とすことになる。物語における「挫折」や「試練」を象徴する重要な装置として機能したのである。事実、この名を持つ期間に、源氏は平治の乱(1159年)で平清盛に敗れ、為義の子・義朝(よしとも)は討たれ、一族は没落の淵に沈む。
乱に敗れて東国へ落ち延びる途中、義朝の子である頼朝(よりとも)は、夢の中で八幡大菩薩から「友切という名は縁起が悪い。元の名に戻せば武運が開けるだろう」とのお告げを受ける。これに従い、頼朝は名を再び「髭切」に戻した。すると、それ以降、頼朝は再起を果たし、やがて平家を滅ぼして鎌倉幕府を開くに至ったと物語は結ばれる 15 。不吉な名からの改名は、源氏の運命の暗転と、その後の劇的な復活を演出するための、計算された物語的プロットであった可能性が高い。
「鬼切安綱」の物語を追う上で避けて通れないのが、他の著名な名刀との混同である。特に「鬼丸国綱(おにまるくにつな)」と「童子切安綱」は、名称の類似や共通の伝説により、古くからしばしば同一視されてきた。
御物(ぎょぶつ、皇室の私有財産)である「鬼丸国綱」は、「鬼切」と「鬼丸」という名称の近さ、そして共に鬼退治の伝説を持つことから、最も混同されやすい刀である 13 。その混同の源流の一つは、『平家物語』「剣巻」に、渡辺綱が鬼の腕を斬った後、「髭切」は「鬼丸」と呼ばれるようになった、と記されている点にある 11 。しかし、刀剣史的に見れば両者は全くの別物である。「鬼丸国綱」は、鎌倉時代中期の刀工・粟田口国綱(あわたぐちくにつな)の作であり、作者も時代も異なる 5 。
もう一振り、天下五剣の筆頭と名高い「童子切安綱」もまた、混同の原因となってきた。こちらは「鬼切安綱」と同じく伯耆国安綱の作であり、さらに源頼光が丹波国大江山に棲む鬼の首魁・酒呑「童子」を斬ったという伝説を持つためである 4 。利用者様がご存じであった「徳川秀忠の献上」という逸話も、この「童子切安綱」が足利将軍家から豊臣秀吉、徳川家康へと伝わり、秀忠の代に娘の嫁入り道具として越前松平家へ贈られたという伝来に属するものである 3 。
これら三振りの名刀が持つ複雑な関係性を明確にするため、以下の表にその特徴を整理する。
比較項目 |
鬼切安綱(髭切) |
鬼丸国綱 |
童子切安綱 |
刀工 |
(伝)伯耆国 安綱 18 |
粟田口 国綱 5 |
伯耆国 安綱 19 |
時代 |
平安時代後期 18 |
鎌倉時代中期 5 |
平安時代後期 4 |
主要な伝説 |
渡辺綱の一条戻橋での鬼の腕切り 13 |
北条時頼の夢の小鬼退治 |
源頼光の大江山での酒呑童子退治 17 |
主な伝来 |
源氏→新田氏→斯波氏→最上氏→北野天満宮 20 |
北条氏→新田氏→足利氏→織田氏→豊臣氏→皇室 13 |
源氏→足利氏→豊臣氏→徳川氏→松平氏→国立博物館 21 |
文化財指定 |
重要文化財 22 |
御物 |
国宝(天下五剣) 19 |
現所蔵者 |
北野天満宮 14 |
宮内庁 |
東京国立博物館 21 |
この表から明らかなように、三振りはそれぞれが独自の由緒と伝来を持つ、全く異なる存在である。しかし、その名称や伝説に共通項が多いことが、長きにわたる混同の歴史を生み出してきたのである。
伝説の時代が終わり、「鬼切」が歴史の表舞台に確かな姿を現すのは、南北朝時代の軍記物語『太平記』においてである。
『太平記』によれば、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の忠臣・新田義貞(にったよしさだ)は、源氏の嫡流として、源家重代の宝刀である「鬼切」と「鬼丸」の二振りを佩いていたとされる 23 。これにより、「鬼切」は伝説上の存在から、歴史上の人物が所有した実在の宝刀として認識されるようになる。
延元3年/建武5年(1338年)、義貞は北朝方の軍勢と戦い、越前の藤島城で壮絶な最期を遂げる。その際、彼の首と共に佩刀の「鬼切」は、敵将であった斯波高経(しばたかつね)の手に渡った 23 。この名刀の行方は、敵味方を超えて大きな関心事であった。北朝方の総大将であった足利尊氏が、同じ源氏の嫡流としてこの刀の引き渡しを高経に求めたが、高経はこれを拒否したという逸話も残っており、当時からこの刀が単なる戦利品ではなく、武家の威信を象Cる至宝と見なされていたことがわかる 14 。
「鬼切」が戦国大名・最上家の手に渡る経緯は、この斯波高経に繋がる。高経の子である斯波兼頼(しばかねより)は、羽州探題として出羽国(現在の山形県・秋田県)に下向し、現地の土着豪族を束ねて最上氏の祖となった人物である。通説では、この兼頼が父・高経から「鬼切」を譲り受け、出羽の地へ携えてきたとされている 23 。
しかし、高経から兼頼へ直接渡ったのか、あるいは高経の父・家兼など他の親族を経由したのか、その具体的な経路を証明する確たる史料は現存していない 17 。この伝来の空白期間は、歴史のミッシングリンクとして研究者の探求心を刺激すると同時に、宝刀の来歴に一層の神秘性を与える効果ももたらしている。
時代は下り、戦国時代。「鬼切丸」と号されたこの太刀は、出羽の地に勢力を拡大した戦国大名・最上家(もがみけ)の至宝として、新たな役割を担うことになる。特に、「奥羽の驍将」と恐れられた第11代当主・最上義光(もがみよしあき)の時代、この刀は単なる武器や美術品に留まらない、極めて重要な意味を持っていた。それは、自らが源氏の名門・斯波家の流れを汲む由緒正しい大名であることを、内外に誇示するための権威の象徴であった 25 。
戦国時代から江戸初期にかけて、名刀は武将間の贈答品や家臣への恩賞として頻繁に用いられ、家の格を示す重要な「政治資産」としての側面を強めていた 27 。最上家が、関ヶ原の戦いの功により徳川家康から名工・正宗の短刀(後に「大黒正宗」と呼ばれる)を拝領した逸話 26 と、「鬼切丸」を代々伝えてきた事実を併せ見ると、彼らが巧みに刀剣を政治利用していた様子が浮かび上がる。すなわち、徳川家との主従関係を示す新たな宝刀(正宗)と、自家の伝統と由緒を物語る古来の宝刀(鬼切丸)を両輪とすることで、その権威を盤石なものにしようとしたのである。
最上義光は、長谷堂城の戦いで上杉軍の猛攻を寡兵で凌ぎきるなど、生涯を通じて数々の武功を挙げた勇将として知られる 30 。しかし、彼が実際の合戦で「鬼切丸」を振るったという直接的な記録は見当たらない。このことから、「鬼切丸」は実戦で用いられる刀としてよりも、むしろ家の権威を象徴する儀礼的な「御家重代」の宝物として、城の奥深くで大切に保管されていた可能性が高いと考えられる。
戦国の世が終わり、江戸時代に入ると、「鬼切丸」の役割は再び変化を遂げる。最上家が幕府の命により山形から近江国大森(現在の滋賀県)へ移封された後も、この宝刀は秘蔵され続けた。そして、藩主の参勤交代の際には、江戸と領地の間を往復したと伝えられる 23 。
その道中、興味深い逸話が生まれる。「鬼切丸」の入った長持(ながもち)の評判が道中の民衆の間に広まり、その下をくぐると「おこり(マラリアなどの熱病)」にかからないという信仰が生まれたのである。人々はご利益にあやかろうと、冥加金を出してまで箱の下をくぐりたがったという 23 。これは、この刀が持つ意味合いが、武家の権威の象徴から、民衆の現世利益を叶える霊的な加護の対象へと移行・拡大したことを示す重要な事例である。鬼という「目に見えぬ恐ろしい存在」を斬る力は、人々の意識の中で、同じく「目に見えぬ恐ろしい存在」である病魔をも打ち払う力へと、自然に転換されていったのである。
現在、北野天満宮に所蔵される本太刀を鑑定すると、その茎(なかご、刀身の柄に収まる部分)には「國綱」という二字銘が刻まれている。しかし、これは刀剣研究家の間では、元々あった「安綱」の銘に後世、人為的な手が加えられ改竄されたものであるというのが定説となっている 5 。具体的には、「安」の字のウ冠に一画を加え、下の「女」の部分を改変して「國」の字に見せかけるという、巧妙な細工が施されているのである 17 。
この改竄が、いつ、誰によって、そして何故行われたのか。これは「鬼切丸」が抱える最大の謎であり、その背景には戦国末期から江戸初期にかけての武家社会の価値観が色濃く反映されていると考えられる。
【仮説1】桃山~江戸初期の刀剣価値観の変化説
この時代、豊臣秀吉による刀狩りを経て、刀剣は武器としての実用性以上に、美術品・ステータスシンボルとしての価値を飛躍的に高めた。刀剣鑑定の権威であった本阿弥家によって刀工の格付けが行われ、特に鎌倉時代の粟田口国綱や相州正宗といった刀工が最高峰として珍重される風潮が生まれた 5。このような状況下で、最上家が自家の宝刀の「ブランド価値」をさらに高めるため、当時、より市場評価の高かった「国綱」の銘へと意図的に改変したのではないか、という説である。これは、自らの「資産価値」を高めるための、現代でいうブランド戦略にも似た行為と解釈できる。
【仮説2】「童子切安綱」への対抗意識説
一方、徳川将軍家が所持する天下五剣「童子切安綱」が、当代随一の名刀として絶大な名声を誇っていたことも無視できない。同じ「安綱」作である自家の「鬼切」では、将軍家の宝刀に対して格下に見られかねない、という気後れや対抗意識が最上家にあったのではないか。そこで、全く別の系統の名門である「国綱」の名を騙ることで、権威の張り合いを試みたのではないか、という見方も存在する 5。
いずれの説が真実であれ、この銘の改竄は、戦国武将のリアリズムと、名刀が持つ政治的・経済的価値を如実に物語る、極めて生々しい歴史の痕跡と言えるだろう。
元和8年(1622年)、最上家は内紛などを理由に幕府から改易を命じられ、57万石の大大名からわずか五千石の小身へと転落する。その後も「鬼切丸」は家宝として秘蔵されたが、やがて家の衰退と共に同家の手を離れ、一時は民間に流出したと伝えられている 14 。
源氏以来の名刀が、由緒ある大名家から失われ、市井に埋もれることを惜しんだのが、当時の滋賀県令であった籠手田安定(こてだやすさだ)であった。彼は旧最上家や有志に呼びかけ、資金を募ってこの宝刀を買い戻すことに成功する。そして、この霊威ある刀を未来永劫安らかに祀るため、その奉納先が検討されることになった 23 。
数多の流転の末、「鬼切丸」が安住の地として選ばれたのは、京の都に鎮座する北野天満宮(当時は官幣中社北野神社)であった 23 。この奉納先には、明確な理由があった。
第一に、北野天満宮が平安京の鬼門(北西)に位置し、非業の死を遂げた菅原道真の怨霊を鎮めるために創建された、日本を代表する御霊信仰の聖地であったことである。都の災厄を払う強力な厄除けの社として、古来より篤い信仰を集めていた 23 。鬼を斬り、魔を払うという絶大な霊力を持つ「鬼切丸」を奉納するに、これほどふさわしい場所はなかった。
第二に、祭神である菅原道真が、学問の神であると同時に、火雷天神(からいてんじん)として武勇を司る武神としての性格も持ち合わせていたことである 33 。武家の宝刀を祀る神としても、極めて相応しいと考えられた。
一説には、この刀を一時的に所有した民間人が、夜な夜な刀が鞘走り、「最上に帰りたい」と叫ぶ夢に悩まされ、その霊威を鎮めるために奉納を決意したとも伝えられており、この刀が持つ尋常ならざる霊的な力を物語っている 9 。この奉納によって、「鬼切丸」の長大な物語は、あるべき場所に還るという、一つの美しい結末を迎えたのである。
昭和2年(1927年)に当時の国宝(現在の重要文化財に相当)に指定され、昭和25年(1950年)の文化財保護法施行に伴い改めて重要文化財となった本太刀は、その数奇な運命だけでなく、美術品としても極めて高い価値を有している 18 。
その姿は、平安時代後期の太刀の特徴をよく示している。腰元で強く反り、切先に向かって反りが浅くなる優美な曲線を描き、身幅が広く、堂々として力強い 34 。地鉄(じがね)は、古伯耆物(こほうきもの)特有の、木材の板のような模様である板目肌(いためはだ)が明瞭に現れ、地沸(じにえ)と呼ばれるきらめく粒子が厚くつき、地景(ちけい)という黒く光る線状の模様が交じるなど、野趣に富みながらも精緻な鍛えが見どころである 21 。刃文(はもん)は、直線的な直刃(すぐは)を基調としながらも、ゆったりとした波のような湾れ(のたれ)や、小さな波が連なる小乱れ(こみだれ)を交える。刃の中には、金筋(きんすじ)や稲妻(いなずま)と呼ばれる光の線が盛んに現れ、変化に富んだ景色を生み出している 10 。
この刀の美術的価値と、数々の伝説は、互いを高め合う不可分の関係にある。もしこの刀が凡作であったなら、これほど多くの物語は生まれなかったであろう。逆に、どれほどの名刀であっても、これほど豊かな物語がなければ、人々の心をここまで強く惹きつけることはなかったに違いない。鑑賞者は、その刃文の輝きに鬼を斬った一閃の光を重ね、その優美な反りに源氏の栄華を幻視するのである。
太刀 銘安綱(号 鬼切丸) 刀剣情報 |
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種別 |
太刀 18 |
文化財指定 |
重要文化財 18 |
時代 |
平安時代 18 |
刀工 |
(伝)伯耆国 安綱 18 |
刃長 |
84.4 cm (二尺七寸八分五厘) 35 |
反り |
3.69 cm (一寸二分二厘) 35 |
茎(なかご) |
生ぶ茎、銘は「國綱」(「安綱」より改竄) 5 |
地鉄 |
板目肌、地沸つき、地景入る 21 |
刃文 |
湾れ調に小乱れ交じり、沸よくつき、金筋・砂流しかかる 10 |
所蔵 |
北野天満宮 14 |
本報告で詳述してきたように、「鬼切安綱」は三つの異なる顔を持っている。それは、「伝説の英雄の剣」という物語上の顔、「武家の権威の象徴」という歴史上の顔、そして「日本刀創成期を代表する美術品」という芸術上の顔である。これら三つの側面は、時に重なり合い、時に影響を与え合いながら、分かちがたく結びつき、「鬼切安綱」という唯一無二の存在を形成している。
そして、この太刀の物語は過去のもので完結したわけではない。近年、所蔵者である北野天満宮は、失われて久しい太刀の外装である「拵(こしらえ)」を、現代最高の技術と伝統工芸を結集して新たに制作し、奉納するという事業を進めている 33 。これは、この刀が単なる博物館の陳列品ではなく、現代においても新たな歴史が刻まれ続ける「生きた文化財」であることを象徴する出来事である。
結論として、「鬼切安綱」は単なる鉄の塊ではない。それは平安の伝説、南北朝の動乱、戦国の野望、江戸の太平、そして近代の混乱という、日本の歴史そのものを映し出し、人々の記憶と祈りを吸収してきた、一つの文化的な記憶装置である。その物語は、これからも新たな担い手によって語り継がれ、未来永劫、我々を魅了し続けるに違いない。