「麦落雁」は、館林の伝統菓子。戦国期の記憶と江戸の文化が融合。麦と砂糖、袴腰と亀甲紋の形状が、武家の精神と長寿を象徴。
上州館林(現在の群馬県館林市)に伝わる銘菓「麦落雁」。大麦を焙煎した粉と砂糖を主原料とするこの打物菓子は、その素朴な見た目と香ばしい風味で知られる。しかし、その奥深くには、戦国時代の武張った記憶と、泰平の世である江戸時代に洗練された文化が交錯する、稀有な文化的結晶としての側面が秘められている。
一見すると、この菓子の歴史には一つの謎が存在する。製造元が語る来歴は、戦国末期の天正年間(1573年-1592年)に館林城への出入りを許されたことに端を発するとしながらも、麦落雁という菓子そのものの「創製」は、二百数十年後の江戸後期、化政文化が花開いた文政年間(1818年-1830年)のこととされる 1 。この時間的な隔たりは、単なる矛盾として片付けるべきではない。むしろ、この二つの時代を繋ぐ物語こそが、麦落雁の本質を解き明かす鍵となる。
本報告書は、この菓子を構成する「麦」と「砂糖」という、戦国時代においては社会的・経済的に対極にあった素材、そして「袴腰(はかまごし)」と「亀甲(きっこう)」を想起させる特異な形状を手がかりに、一見隔絶された「戦国の記憶」と「江戸の創作」がいかにして一つの菓子の中に統合されたのかを解明することを目的とする。この探求を通じて、麦落雁が単なる郷土菓子ではなく、日本の歴史と文化の重層性を体現する一種の「文化的装置」であることを論証する。それは、過去を現代に呼び起こし、地方の風土を普遍的な価値へと昇華させる、職人の卓抜な創意工夫の物語でもある。
麦落雁の誕生を理解する上で、その揺籃の地である上州館林の地理的・経済的背景を無視することはできない。館林は、関東平野の北部に位置し、利根川や渡良瀬川がもたらす豊かな水資源と肥沃な土壌に恵まれていた 4 。さらに、冬季に吹きつける乾燥した「赤城おろし」と長い日照時間は、小麦の生育に最適な環境を提供した 5 。こうした自然条件により、この地域は古くから全国有数の麦の産地として知られ、「麦都」とも称されるほどの地位を確立していた 4 。
この土地のアイデンティティと麦との結びつきがいかに強固であったかは、歴史的な事実からも裏付けられる。近世(江戸時代)には、館林藩の特産品として精製された「饂飩粉(うどんこ)」(小麦粉)が、将軍家への献上品に選ばれていた 5 。これは、館林の麦が単なる農作物ではなく、藩の威信をかけた最高品質の産品として認識されていたことを示している。麦落雁が、主原料として米ではなく、この土地の誇りである大麦を選んだのは、歴史的・文化的な必然であったと言える。
館林の麦落雁の歴史を紐解くと、一つの興味深い事実に突き当たる。それは、酷似した屋号を持つ二つの老舗、「三桝屋總本店(みますやそうほんてん)」と「三桝家総本舗(みますやそうほんぽ)」の存在である 8 。両者は共に麦落雁を製造・販売しており、その歴史的叙述には重なり合う部分と、それぞれ独自の主張が見られる。
三桝屋總本店(大越家)の系譜
「三桝屋總本店」を名乗る大越家は、その起源を約430年前の天正年間(1570年頃)に遡ると主張する 1。当時「佐貫町」と呼ばれた城下で、代々館林城中に菓子を納める御用商人であったという 1。その歴史の中で、土地の良質な大麦に着目した初代「与兵衛」が麦落雁を「思いつき」、文政元年頃(1818年頃)に焙煎した大麦粉(はったい粉)と讃岐和三盆を用いて、現在の形の麦落雁を完成させたとされる 1。この三桝屋總本店は、2020年に株式会社としては清算され、以降は栃木県足利市の社会福祉法人愛光園の一事業としてその伝統を継承している 3。
三桝家総本舗(丸山家)の系譜
一方、「三桝家総本舗」を名乗る丸山家は、江戸寛永年間の創業を掲げ、約350年の歴史を持つとする 2。こちらの伝承では、麦落雁は文政年間(1820年代)に、当家の七代目であった「丸山与兵衛」が刻苦研究の末に「創製」した逸品であるとされている 2。
この二つの店の存在と、それぞれが語る「与兵衛」という創製者の物語は、単なる商業的な競合関係を超えて、銘菓の「正統性(オーセンティシティ)」を巡る歴史の解釈そのものを映し出している。本報告書では、どちらか一方を「元祖」と断定するのではなく、両者がそれぞれに紡いできた歴史の物語を客観的に記述し、比較検討することで、麦落雁という文化が持つ多層的な性格を明らかにしたい。
麦落雁の起源譚において繰り返し現れる「天正年間」と「文政年間」という二つの時代は、一見矛盾しているように見えるが、実は意図的に構築された二重の物語構造を形成している。これは、菓子の価値を多角的に高めるための、洗練されたナラティブ戦略と解釈することができる。
第一に、「天正年間(戦国時代)に城へ出入りしていた」という主張は、菓子の**「精神的起源」**を確立するものである。戦国時代は、武士が社会の頂点に立ち、城が権威と権力の象徴であった時代である。その時代から城主と直接的な関係を持っていたという来歴は、店と製品に歴史的な深みと由緒正しさ、そして揺るぎない格式を与える。これにより、麦落雁は単なる美味しい菓子ではなく、武家社会との長きにわたる繋がりを持つ「伝統ある品」としての価値を獲得する。
第二に、「文政年間(江戸時代)に創製された」という主張は、製品としての**「技術的完成」**の時点を示すものである。文政年間は、江戸の町人文化が爛熟期を迎えた「化政文化」の時代であり、食文化もまた高度に洗練された 13 。この時代に、特定の祖先(与兵衛)の創意工夫によって、当代最高級の素材(和三盆)を用いて菓子が完成したという物語は、その製品が時代遅れの遺物ではなく、洗練された技術と美意識の産物であることを証明する。
この「精神的起源(天正)」と「技術的完成(文政)」の二重構造によって、麦落雁は「歴史的権威」と「現代的洗練」という二つの価値を同時に手に入れた。この巧みな物語構築こそが、麦落雁が館林城主秋元家のみならず、徳川将軍家、さらには明治以降の皇室にまで献上・お買い上げの栄誉を賜るに至った 3 、強力なブランドイメージの源泉であったと考えられる。菓子は、その味だけでなく、それが纏う物語によっても消費されるのである。
麦落雁は、主原料として「麦こがし(はったい粉)」と「砂糖」を用いる。この二つの素材は、戦国時代という文脈においては、決して同じ食卓に並ぶことのない、社会的・経済的に隔絶された存在であった。この「矛盾の結合」こそが、麦落雁の文化的独創性を理解する上で極めて重要である。
麦落雁の主原料である「はったい粉」は、大麦や裸麦を焙煎して粉末にしたもので、「麦こがし」とも呼ばれる 15 。焙煎による香ばしさと素朴な甘みを持ち、古くから庶民の簡便食やおやつとして親しまれてきた 16 。湯や茶で練るだけで手軽に食べられるため、特に子供の間食として広く普及していた 15 。
その保存性の高さと栄養価から、戦国時代においては武士の携行食、すなわち兵糧としても重要な役割を果たしたと考えられる。事実、徳川家康の好物であったという伝承が残されており、大坂の陣の際には、落ち延びた家康に寺の住職がはったい粉を振る舞い、大変喜ばれたという逸話も伝わっている 20 。さらに、織田信長が徳川家康を饗応した際、自ら麦こがしに砂糖を混ぜて練り固めた菓子を作ってもてなしたという記録も存在する 22 。これらの逸話は、麦こがしが単なる庶民の食べ物ではなく、戦国武将にとっても身近で、時にはもてなしにも用いられる実用的な食材であったことを示している。それは、戦場の厳しさと日常の糧を象徴する、まさに「地の食材」であった。
一方、麦落雁のもう一つの主原料である砂糖は、戦国時代の日本においては全く異なる文脈に存在した。当時、砂糖は中国や東南アジアからの輸入に頼るしかなく、その価値は金にも匹敵すると言われるほどの超高級品であった 23 。甘味料というよりは、むしろ貴重な薬品として扱われることも多かった 26 。
砂糖の希少価値は、それを権力と富の象徴へと押し上げた。1569年(永禄12年)、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが織田信長に謁見する際、献上品としてガラス瓶に入った金平糖(砂糖菓子)を持参したエピソードはあまりにも有名である 27 。信長がこれを大いに喜んだとされるこの出来事は、砂糖が単なる嗜好品ではなく、外交を左右しうるほどの価値を持つ戦略物資であったことを物語っている。当時の日本における甘味料は、蔦の樹液を煮詰めた「甘葛煎(あまづらせん)」や蜂蜜、干し柿といった自然由来のものが主流であり 22 、精製された砂糖の直接的で強烈な甘さは、まさに革命的な体験であった。砂糖は、天下人や一部の大名のみが手にできる、渇望の対象であり、「天の食材」であったと言えよう。
戦国時代において、「麦」に象徴される武士や庶民の日常と、「砂糖」に象徴される最高権力者の非日常は、決して交わることのない二つの世界であった。しかし、麦落雁はこの二つを一つの菓子の中で見事に結びつけている。この文化的な飛躍を可能にしたのが、江戸時代における国産高級砂糖「和三盆」の誕生と普及であった。
戦国時代が終わり、泰平の世が訪れると、食文化は大きく変化する。特に、八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として糖業を奨励したことは、日本の砂糖事情を根底から変えた 26 。これにより、それまで南西諸島に限られていたサトウキビ栽培が、気候の温暖な西南日本の各地、特に四国の讃岐(香川県)や阿波(徳島県)で本格的に行われるようになった 32 。
そして、度重なる研究と改良の末、これらの地で、サトウキビから不純物を取り除き、丹念に精製する独自の製法が生み出された。これが、きめ細かく、口溶けが良く、上品な風味を持つ純国産の白砂糖「和三盆糖」である 33 。麦落雁が創製された文政年間には、この和三盆は、輸入品に代わる最高級の砂糖として、京や江戸の菓子職人たちの間で珍重されるようになっていた 35 。
麦落雁の製造元が、その材料として特に「讃岐和三盆」の使用を謳っている点 3 は、極めて示唆に富む。創製者である与兵衛は、自らの土地の誇りである「麦」という日常的な素材を、当代最高級の甘味料である「和三盆」と組み合わせることで、その価値を飛躍的に高めようとしたのである。これは、戦国時代にはあり得なかった、異なる社会的階層を象徴する素材同士の「食文化における和解」であり、地方の特産品を、将軍家への献上品たりうる普遍的な銘菓へと「昇華」させる、卓抜な文化的戦略であった。こうして、武士の力強さと公家の洗練が、一つの菓子の中に同居することになったのである。
表1:戦国時代から江戸初期における甘味料の比較
甘味料名 |
主な原料 |
主な流通時代 |
入手難易度 |
主な用途 |
文化的意味合い |
甘葛煎(あまづらせん) |
ナツヅタ等の樹液 |
古代〜中世 |
非常に高い |
食用(貴族層) |
雅な王朝文化の象徴 26 |
干し柿・干し栗 |
柿、栗 |
古代〜 |
比較的低い |
食用、保存食 |
庶民にも身近な自然の甘み 22 |
蜂蜜・水飴 |
花の蜜、穀物 |
古代〜 |
やや高い |
食用、薬用 |
貴重な天然甘味料 26 |
輸入黒砂糖 |
サトウキビ |
室町〜江戸 |
非常に高い |
薬用、食用(富裕層) |
南蛮貿易がもたらした異国の味 26 |
輸入白砂糖 |
サトウキビ |
安土桃山〜江戸 |
極めて高い |
贈答用、権力者の嗜好品 |
権力と富の象徴、外交の道具 25 |
和三盆糖 |
サトウキビ(竹糖) |
江戸中期〜 |
非常に高い |
高級和菓子、献上品 |
国産化された洗練の極み 33 |
麦落雁が「落雁」という菓子の一種であることは、その文化的背景を理解する上で重要な要素である。落雁は、その様式自体が長い歴史を持ち、特に日本の茶の湯文化と深く結びつきながら発展してきた。
落雁のルーツは、室町時代に日明貿易を通じて中国(明)から伝来した「軟落甘(なんらくかん)」という菓子にあるとされるのが通説である 37 。これは、小麦粉や米粉に水飴などを加えて練り固めたものであった 38 。この「軟落甘」という名称から「軟」の字が取れ、「落甘」となり、やがて「落雁」という優美な名に転じたと考えられている 39 。
その製法は、穀物の粉(米、麦、豆など)に砂糖や水飴を混ぜ、水分を調整した生地を、精巧な彫刻が施された木型に詰めて固く押し固め、型から打ち出すようにして取り出すことから、「打物菓子(うちものがし)」と総称される 37 。この木型を用いる製法は、四季折々の草花や縁起の良い動植物など、多様な意匠を表現することを可能にし、菓子の芸術性を飛躍的に高めた。
日本に伝わった落雁が、独自の発展を遂げる大きな原動力となったのが、戦国時代から安土桃山時代にかけて、千利休らによって大成された「茶の湯」の流行である 42 。茶の湯の席では、茶の味を引き立てるための菓子(茶菓子)が不可欠な要素となり、その需要の高まりが和菓子全体の質を向上させた。
中でも落雁は、その上品な甘さと繊細な口溶け、そして木型による美しい造形が、特に薄茶に添える「干菓子(ひがし)」として最適であった 26 。茶の湯は、武将たちが政治的な駆け引きや精神的な修養の場として重んじた文化であり、彼らの間で茶会が頻繁に催されるようになると、それに伴って落雁もまた、大名や高位の武士、公家たちの間で広く知られ、洗練されていった 27 。江戸時代に入ると、落雁は茶席菓子や供物の定番としての地位を確立し、全国各地で様々な種類の落雁が作られるようになったのである 42 。
全国に数多ある落雁の中で、館林の麦落雁が際立った個性を持つ理由は、その主原料の選択にある。一般的な落雁が、もち米やうるち米を加工した米粉(みじん粉、寒梅粉、白雪粉など)を主原料とするのに対し 26 、麦落雁は、その名の通り、焙煎した大麦の粉(はったい粉)を一貫して用いる 37 。
この「焙煎」という一手間が、決定的な違いを生み出す。米粉を原料とする落雁が、雪のように淡白で繊細な口溶けと甘みを特徴とするのに対し、麦落雁は、焙煎された大麦由来の力強く、こうばしい独特の風味を持つ。口に含んだ瞬間に広がるその香りは、他の落雁では決して味わうことのできない、麦落雁ならではのアイデンティティである。これは、単に流行の菓子を模倣したのではなく、自らの土地の産物である「麦」の特性を最大限に活かすという、地域に根差した創造的な再解釈であった。館林の風土と職人の創意が、伝統的な落雁という様式の中で見事に結実した例と言えるだろう。
麦落雁の最も特徴的な要素の一つが、その「六角の袴腰の形」である。この形状は単なるデザインではなく、戦国時代に生きた武士たちの精神性や美意識を凝縮した、極めて象徴的な意味を持つ記号の集合体として読み解くことができる。
麦落雁の形状を指す「袴腰」という言葉は、本来、建築用語である。特に、城郭建築において、天守や櫓の壁面から張り出して設けられた防御施設「石落とし」の代表的な形状を「袴腰型」と呼ぶ 47 。これは、裾が広がる武士の袴の腰部分に似ていることから名付けられたもので、石垣を登ってくる敵兵に対し、真上から石や熱湯を落としたり、鉄砲を撃ちかけたりするための、極めて実践的な軍事設備であった 51 。
城は戦国武将にとって、単なる住居ではなく、権力と武威の象徴であり、その生活と精神性の中心であった。その城の、しかも戦闘に直結する部分の意匠を、城主への献上品である菓子に取り入れるという行為は、極めて深い意味を持つ。それは、武家社会への深い理解と敬意を示すとともに、その武威を称え、自らがその庇護下にあることを示すメッセージとなる。麦落雁の「袴腰」の形状は、この菓子が武家の世界に由来するものであることを雄弁に物語る、力強い記号なのである。
麦落雁の六角形は、同時に日本の伝統文様である「亀甲紋」をもかたどっている。正六角形を単位とするこの幾何学文様は、亀の甲羅に由来し、「鶴は千年、亀は万年」という言葉に象徴されるように、古くから長寿と吉祥のシンボルとして尊ばれてきた 53 。その縁起の良さから、衣服の柄や調度品、そして家紋として広く用いられてきた。
特に重要なのは、この亀甲紋が多くの戦国武将や武家によって家紋として採用されていたという事実である 57 。戦乱の世に生きる武士たちにとって、亀甲紋は単なる装飾ではなく、自らの一族が永続し、繁栄することへの切実な祈りが込められた紋章であった。武功を立てて家名を上げると同時に、その家が末永く続くことを願うのは、武家の根源的な欲求であった。
表2:亀甲紋を用いた主な戦国武将・武家
武将名・氏族名 |
主要拠点 |
家紋の例 |
備考 |
浅井氏(あざいし) |
近江国 |
三つ盛亀甲に花菱 |
浅井長政が使用したことで有名 58 |
堀氏(ほりし) |
越前国など |
亀甲に花菱 |
織田信長、豊臣秀吉に仕えた堀秀政などが使用 59 |
遠藤氏(えんどうし) |
美濃国 |
亀甲に花菱 |
郡上八幡城主・遠藤慶隆などが使用 57 |
直江氏(なおえし) |
越後国 |
亀甲に花菱 |
上杉家の重臣・直江兼続が使用 57 |
二階堂氏(にかいどうし) |
陸奥国 |
三つ盛亀甲に七曜 |
須賀川城主・二階堂氏が使用 59 |
金森氏(かなもりし) |
飛騨国 |
亀甲 |
飛騨高山藩主・金森長近が使用 57 |
ここまで見てきたように、麦落雁の形状は、「袴腰」と「亀甲」という二つの意味を内包している。これは、武家社会の根幹をなす二つの価値観、すなわち「武威の象徴」と「永続への祈り」を、一つの意匠の中に融合させた、極めて洗練されたシンボルの創造であったと言える。
この形状は、献上される相手である武士の心に深く響く、二重のメッセージを伝えたはずである。一方では、城郭の意匠(袴腰)をもってその武威と権威を称え、もう一方では、吉祥の紋(亀甲)をもってその家の長久と繁栄を祈念する。武功によって身を立て、その家名を後世に永く伝えたいと願う武士の精神性そのものを、この菓子は見事に体現している。それは、単に味覚を満足させるだけでなく、送り手の深い理解と敬意、そして祝福の念を伝える、高度なコミュニケーションの媒体として機能したのである。
さらに、製造元である三桝屋の商標「三桝紋」にも言及しておく必要がある。この紋は、三つの枡を組み合わせて正六角形(亀甲)をかたどったもので、一説には、江戸時代に絶大な人気を誇った歌舞伎役者、初代市川團十郎の俳名(ペンネーム)「三桝屋兵庫(みますやひょうご)」に影響を受けたものだとされる 8 。
この事実は、麦落雁の出自が武家社会の記憶に深く根差しながらも、その作り手や享受者が、江戸時代に花開いた町人文化、特に歌舞伎の世界とも密接な関わりを持っていたことを示唆している。戦国の記憶をその身に宿しながらも、泰平の世である江戸の活気の中で生まれ、愛された菓子。その複合的な文化的背景を、この「三桝紋」は象徴していると言えよう。
本報告書は、上州館林の銘菓「麦落雁」を、戦国時代という視点から多角的に分析してきた。その結果、この素朴な菓子が、日本の歴史と文化の複雑で豊かな重層性を内包する、類い稀な「記憶の器」であることが明らかになった。
麦落雁の物語は、単純な一本の線では描けない。そこには、幾重にも折り重ねられた意味の層が存在する。
第一に、 起源の重層性 である。戦国末期の「天正」を格式の源泉とする「精神的起源」と、江戸後期の「文政」を技術の頂点とする「技術的完成」。この二重の物語構造が、菓子に歴史的権威と現代的洗練の両方を与えている。
第二に、 素材の二元性 の昇華である。戦国時代には決して交わることのなかった「日常の麦」と「非日常の砂糖」。この二つを、江戸時代に誕生した国産高級砂糖「和三盆」を触媒として結びつけ、土地の誇りを普遍的な価値へと高めるという、文化的な創造を成し遂げた。
第三に、 様式の独創性 である。中国伝来の「落雁」という伝統的な様式を、単に模倣するのではなく、土地の産物である「焙煎した大麦」を用いることで、他にはない香ばしい風味という独自のアイデンティティを確立した。
そして最後に、 形状の象徴性 の統合である。城郭建築の「袴腰」が象徴する「武威」と、吉祥文様の「亀甲」が象徴する「永続への祈り」。武家社会の根源的な価値観を一つの意匠に凝縮し、菓子を高度なメッセージ伝達の媒体へと昇華させた。
結論として、麦落雁は単なる江戸時代の創作菓子ではない。それは、過ぎ去った「戦国」という時代への憧憬と敬意を、当代の素材と技術、そして洗練された美意識をもって再構築した、極めて知的な文化的創造物である。一つの小さな菓子の中に、武家の精神、土地の誇り、職人の創意、そして時代の文化が見事に凝縮されている。麦落雁を深く味わうことは、その香ばしい風味の奥に広がる、日本の歴史そのものの複雑で豊かな味わいを再発見する行為に他ならない。