上平寺城の戦い(1573)
天正元年、織田信長は上平寺城を無血開城させた。竹中半兵衛の調略により、城将・堀秀村と家老・樋口直房が織田に内応。この静かなる落城が浅井氏滅亡の引き金となり、信長の合理的な戦略を示した。
静かなる落城:天正元年、上平寺城をめぐる調略戦の全貌
序章:戦わずして落ちた城
天正元年(1573年)、近江国にその威容を誇った浅井氏の要衝、上平寺城が織田信長の手によって陥落しました。この出来事は、一般的に「上平寺城の戦い」として知られ、浅井氏滅亡という大きな歴史的転換点に至る過程の一幕として語られます。しかし、この「戦い」の実態を深く探求すると、そこには鬨の声も、刃を交える音も存在しなかったことが明らかになります。上平寺城の陥落は、物理的な戦闘の結果ではなく、水面下で繰り広げられた緻密な情報戦と心理戦、すなわち「調略」による無血開城でした 1 。
本報告書は、この「静かなる落城」を単なる局地的な城の明け渡しとしてではなく、織田信長の天下統一戦略、特に彼の合理主義的な戦争観と敵内部を切り崩す巧みさを示す象徴的な事例として捉え直すことを目的とします。さらに、この一件が如何にしてドミノ倒しのように浅井氏の家臣団の結束を崩壊させ、わずか一ヶ月足らずでの浅井家滅亡という悲劇的な結末へと直結したのか、その因果関係を時系列に沿って徹底的に解明していきます。上平寺城をめぐる一連の出来事は、戦国時代の勝敗が、兵力や城郭の堅固さといった目に見える要素だけで決まるものではないことを、我々に雄弁に物語っているのです。
第一部:国境の要塞 ― 上平寺城の戦略的位置づけ
第一章:京極氏の詰城から浅井氏の対織田拠点へ
上平寺城の歴史は、浅井氏の時代より古く、元は北近江の守護大名であった京極氏によって築かれました。伊吹山から南へと伸びる尾根上に位置するこの城は、山麓に構えられた京極氏の居館「上平寺館」有事の際の最終防衛拠点、すなわち「詰城(つめのしろ)」としての役割を担っていました 2 。その立地は、軍事的に極めて優れていました。眼下には、美濃国関ヶ原から北近江の中心地である木之本へと抜ける主要街道「北国脇往還」が走り、さらに南には近江と美濃を結ぶ大動脈である「東山道(中山道)」を睥睨することができました 4 。この地理的優位性により、上平寺城は国境地域の交通と軍事を一手におさえる戦略的要衝としての価値を、その誕生の時から有していたのです。
京極氏の衰退後、北近江の支配者となった浅井氏の時代、特に三代目当主・浅井長政の代になると、上平寺城の戦略的重要性は飛躍的に高まります。元亀元年(1570年)、長政が義兄である織田信長との同盟を破棄し、旧来の盟友である越前の朝倉義景方についたことで、両者の関係は決定的に破綻します(金ヶ崎の退き口)。この瞬間から、美濃国を本拠とする信長の侵攻は、浅井氏にとって最大の脅威となりました。長政はこの脅威に対抗すべく、美濃との国境線防備を最優先課題とし、その最前線拠点として上平寺城に白羽の矢を立てたのです 4 。
信長との対立が鮮明になった直後、長政は上平寺城の大規模な改修に着手します。この時の様子は、信長の伝記である『信長公記』に「浅井備前(長政)越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす両所に要害を構へ候」と記されています 1 。この「かりやす」こそが上平寺城を指しており、特筆すべきは、この改修に「越前衆」、すなわち同盟者である朝倉氏の築城技術が導入された点です 1 。
この改修によって、上平寺城は当時の最新技術を結集した強力な要塞へと生まれ変わりました。現在もその遺構として確認できる、尾根を完全に遮断する巨大な「堀切(ほりきり)」、山の斜面を敵兵が容易に登れないよう放射状に多数の竪堀を掘り下げた「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」、そして城の入り口を二重の門で囲み、侵入した敵を袋小路にして殲滅するための「枡形虎口(ますがたこぐち)」などは、この浅井氏による改修で施されたものと考えられています 1 。
これらの防御設備は、単なる城の強化以上の意味を持っていました。それは、兵力で圧倒的に勝る織田軍の大軍による力攻めを想定し、地形と城の構造を最大限に利用してこれを食い止めるという、浅井長政の固い決意の物理的な現れでした。朝倉氏の技術協力があったという事実は、この防衛線が浅井・朝倉連合軍全体の戦略構想の中に組み込まれた、極めて重要な拠点であったことを示唆しています。天正元年の時点において、上平寺城は、浅井氏がその命運を託した、難攻不落の国境要塞であったのです。
第二部:盤上の駒 ― 調略の担い手たち
上平寺城の運命を決定づけたのは、城壁の高さや兵の数ではなく、盤上を動く駒、すなわち「人」でした。浅井方、織田方双方のキーパーソンたちの思惑と関係性が、この静かなる落城の筋書きを描き出したのです。
第二章:揺れる忠誠 ― 城将・堀秀村と家老・樋口直房
上平寺城の守備を任されていたのは、堀秀村でした。彼は近江国坂田郡を治める国人領主であり、鎌刃城を本拠とする当主でした 1 。しかし、その内実は盤石とは言えませんでした。『当代記』によれば、彼が織田方に寝返った元亀元年(1570年)の時点で15歳であったとされ、経験の浅い若き当主であったことが窺えます 7 。このような若年の主君を支え、堀家、そして上平寺城の実質的な意思決定を担っていたのが、家老の樋口直房(通称:三郎兵衛)でした 1 。
樋口直房は、単なる一介の家老ではありませんでした。彼は兵法・軍略に通じ、優れた民政家でもあったため人望も厚く、「近江一の智謀の将」と謳われた傑物であったと伝えられています 8 。幼い主君に代わって家中を巧みに取り仕切る経営手腕も持ち合わせていました 8 。彼の卓越した知性と現実的な分析能力は、堀家を支える最大の強みであると同時に、後に主家である浅井家の将来性を見限り、内応という非情な決断に至らせる最大の要因ともなったのです。彼の忠誠は、浅井家という「公」よりも、自らが直接仕える堀家とその領民の安泰という、より身近な「私」に向けられていたのかもしれません。
第三章:忍び寄る影 ― 羽柴秀吉と軍師・竹中半兵衛
一方、上平寺城に狙いを定めた織田信長は、真正面からの力攻めという選択肢を取りませんでした。彼の戦争観は極めて合理的であり、無用な兵の損耗を避け、最小のコストで最大の効果を上げることを常に目指していました。そのための最も効果的な手段が、敵の内部結束を崩壊させる「調略」でした。大和国において、松永久秀と筒井順慶という二大勢力を巧みに操り、互いに争わせることで国を平定した事例に見られるように、調略は信長の得意とする戦術でした 9 。
この北近江戦線において、信長の意を受け、調略という名の「静かなる戦い」の実行部隊長として頭角を現していたのが、木下藤吉郎、後の羽柴秀吉でした 8 。そして、その秀吉の傍らには、天才軍師として名高い竹中半兵衛(重治)の姿がありました。この上平寺城調略の立案者であり、成功の鍵を握っていたのは、まさしくこの半兵衛でした 6 。
半兵衛の策が巧みであったのは、彼がかつて斎藤家を離れた後、一時期、近江の浅井家に身を寄せていたという経歴にありました。その際に、彼は樋口直房と深い親交を結んでいたのです 13 。この個人的な繋がりこそが、難攻不落の要塞を内側から崩すための、唯一にして最大の突破口となりました。
上平寺城をめぐる攻防は、軍勢同士の衝突ではなく、竹中半兵衛と樋口直房という二人の知将の、知略と人間関係を賭けた盤上の戦いでした。半兵衛は、旧知の仲である直房の知性、そして堀家家老としての責任感を深く理解していたはずです。彼が持ちかけたのは、単なる脅しや甘言ではなかったでしょう。それは、友として、同じく乱世を生きる知将として、浅井家の将来性の欠如、信長の圧倒的な国力と時代の趨勢、そして織田方につくことこそが主君・堀氏の安泰と直房自身の才能を活かす唯一の道であるという、冷徹な情勢分析と未来像であったと推察されます。この「友としての説得」こそが、直房の心に深く根差した浅井家への忠義という壁を、静かに乗り越えさせたのです。
第三部:刻一刻 ― 上平寺城、落城のリアルタイム分析
天正元年夏、北近江の情勢は、浅井氏にとって絶望的な速度で悪化していきます。上平寺城の無血開城は、この破局的な流れの中で、決定的な一撃となりました。
第四章:決戦前夜(天正元年7月~8月初旬)
1573年(天正元年)の春から夏にかけて、浅井長政を取り巻く状況は急速に暗転していました。長年にわたり信長を苦しめてきた「信長包囲網」が、その根幹から崩れ始めたのです。4月には、包囲網の東の要であった甲斐の武田信玄が病死し、西上作戦は頓挫しました 14 。さらに7月、信長は包囲網の盟主であった将軍・足利義昭を京から追放し、室町幕府は事実上滅亡します 15 。
これにより、信長は後顧の憂いを断ち、全戦力を浅井・朝倉連合軍の殲滅に集中させることが可能となりました。そして天正元年8月8日、信長は3万と号する大軍を率いて本拠地・岐阜城を出陣し、北近江への最後通牒ともいえる侵攻を開始したのです 16 。
この織田軍本隊の侵攻と並行して、あるいはその直前から、水面下では羽柴秀吉の部隊による調略活動が活発化していました。竹中半兵衛からの接触を受けた樋口直房は、刻一刻と迫る織田の大軍を前に、究極の選択を迫られていました。
第五章:内なる崩壊(天正元年8月某日)
樋口直房の胸中には、激しい葛藤が渦巻いていたことでしょう。一つは、長年仕えてきた主家・浅井家への忠義。もう一つは、自らが直接補佐する若き主君・堀秀村と、その領民を戦火から守るという現実的な責任です。旧知の半兵衛が提示したであろう客観的な情勢分析は、浅井家に未来がないことを冷徹に示していました。信玄亡き今、信長の力に抗する術はなく、抵抗すれば城兵と領民を無益な死に追いやるだけです。
熟慮の末、直房は決断します。浅井家を見限り、織田に降る。それは裏切りであると同時に、彼が守るべき人々にとっては唯一の活路でした。決断した直房は、主君である堀秀村を説得にかかります 6 。絶対的な信頼を寄せる家老からの、理路整然とした進言を前に、若き秀村に否やを唱える力はありませんでした。城内で開かれた重臣会議でも大勢は覆せず、上平寺城は、織田軍を前に沈黙を守ることが決定されたのです。
第六章:無血開城(天正元年8月8日以降)
織田軍の侵攻開始から間もなく、その先鋒が上平寺城下に到達しました。浅井方が総力を挙げて築き上げた要塞を前に、兵士たちは激しい抵抗を覚悟したことでしょう。しかし、彼らが目にしたのは、信じがたい光景でした。
城からは一本の矢も放たれず、鬨の声も聞こえません。やがて、固く閉ざされているはずの城門が、静かに内側から開かれます。そして、城将・堀秀村と家老・樋口直房が、織田軍を丁重に迎え入れたのです 1 。この「戦いの不在」こそが、上平寺城の落城における最も劇的な瞬間でした。
この無血開城がもたらした戦略的影響は、計り知れないものがありました。織田軍は、美濃から北近江への進軍ルートと兵站線を完全に確保し、何の障害もなく浅井氏の本拠地・小谷城の喉元にまで迫ることが可能になりました。一方、浅井長政にとっては、多大な労力と費用を投じて築き上げた国境防衛線が、一瞬にして無力化されたことを意味します。この報が小谷城にもたらされた時の、浅井陣営の衝撃と動揺は察するに余りあります。それは、物理的な防衛線の喪失以上に、家臣団の結束という精神的な城壁に、修復不可能な亀裂が入った瞬間でもありました。
第四部:崩壊の連鎖 ― 浅井氏滅亡への道
上平寺城の静かなる落城は、単一の出来事では終わりませんでした。それは、浅井氏の屋台骨を根底から揺るがす巨大な連鎖反応の、最初の引き金となったのです。
第七章:ドミノの始まり
あれほど堅固に改修された上平寺城が、戦わずして降伏したという事実は、周辺の浅井方国人領主たちに深刻な心理的打撃を与えました。それは、浅井家の求心力がもはや完全に失われ、信長への抵抗が無意味であることを内外に証明する出来事でした。
この影響は、即座に具体的な形となって現れます。上平寺城の無血開城とほぼ時を同じくして、8月8日、小谷城の西に位置する山本山城の城主・阿閉貞征(あつじ さだゆき)が、織田方への内応を表明したのです 16 。阿閉氏は浅井家の譜代重臣であり、その裏切りは致命的でした。これにより、小谷城は東の国境(上平寺城)と西の守り(山本山城)を同時に失い、急速に孤立を深めていきました。上平寺城の内応が、阿閉の決断を後押しし、あるいはその時期を早めさせたことは疑いようがありません。一つ目のドミノが倒れたことで、二つ目、三つ目のドミノが次々と倒れ始めたのです。
第八章:友軍の壊滅と本拠地の終焉(8月12日~9月1日)
内部からの崩壊と並行して、外部からの軍事的圧力も凄まじい速度で浅井氏に襲いかかりました。
長政の援軍要請に応じ、2万の軍勢を率いて小谷城の北方まで進出していた朝倉義景でしたが、織田軍の勢いに押され、戦意を喪失します。8月12日から13日にかけて、織田軍は小谷城を見下ろす大嶽砦などを攻撃し、これを占領します 16 。これにより、朝倉軍は撤退を開始しますが、信長はこの好機を見逃しませんでした。退却する朝倉軍を織田軍が猛追し、刀根坂(とねざか)で壊滅的な打撃を与えました(刀根坂の戦い) 17 。
勢いに乗る織田軍は、そのまま越前国へとなだれ込みます。8月17日には朝倉氏の壮麗な本拠地・一乗谷城が焼き払われ、逃亡した義景も8月20日、家臣の裏切りによって自刃し、100年の栄華を誇った名門・朝倉氏は滅亡しました 14 。
最後の頼みの綱であった朝倉氏を失い、完全に孤立無援となった浅井長政に、もはや打つ手は残されていませんでした。8月26日、越前を平定した信長は小谷城の包囲網へと帰還し、全軍に総攻撃を命じます 16 。翌27日、羽柴秀吉の部隊が長政のいる本丸と父・久政のいる小丸の中間に位置する京極丸を占拠し、父子の連絡を断ち切ることに成功します 17 。これにより万策尽きた久政は、8月29日(一説に27日)に自害 17 。そして、天正元年9月1日、長政もまた、妻・お市と三人の娘たちを城から脱出させた後、重臣・赤尾清綱の屋敷にて自刃しました 17 。享年29。ここに、浅井氏は三代でその歴史の幕を閉じたのです。
8月8日の織田軍侵攻開始から、9月1日の長政自刃まで、わずか25日間。難攻不落を誇った小谷城がこれほど短期間で陥落したのは、上平寺城と山本山城の内応によって、籠城戦の前提となる外部との連携と補給路が完全に断たれたからに他なりません。上平寺城の「静かなる落城」が、小谷城の「騒がしき落城」の帰趨を、事実上決めていたと言えるでしょう。
表1:浅井氏滅亡に至る時系列表(1573年8月8日~9月1日)
日付(天正元年) |
織田軍の動向 |
浅井・朝倉軍の動向 |
主要な出来事 |
8月8日 |
信長、3万の軍を率いて岐阜を出陣、北近江へ侵攻開始 17 。 |
浅井長政、小谷城に5千で籠城 17 。 |
上平寺城、無血開城 。山本山城主・阿閉貞征が織田方に内応 17 。 |
8月12日~13日 |
小谷城を見下ろす大嶽砦、丁野山砦を攻撃、占領 16 。 |
朝倉義景、2万の援軍を率いて小谷城北方へ進出するも、前哨戦で敗北 17 。 |
朝倉軍が撤退を開始。信長はこれを追撃(刀根坂の戦い) 17 。 |
8月17日 |
朝倉氏の本拠地・一乗谷城に侵攻し、焼き払う 17 。 |
義景、一乗谷城から逃亡 17 。 |
朝倉氏の支配体制が完全に崩壊。 |
8月20日 |
- |
朝倉義景、家臣・朝倉景鏡の裏切りにより自刃 17 。 |
名門・朝倉氏が滅亡。浅井氏は完全に孤立無援となる。 |
8月26日 |
信長、越前平定を終え、小谷城包囲網に帰還。総攻撃を命令 16 。 |
小谷城、完全に包囲される。 |
小谷城への最終攻撃が開始される。 |
8月27日~29日 |
羽柴秀吉隊が京極丸を占拠し、本丸と小丸を分断 17 。小丸への攻撃を激化させる。 |
浅井久政、小丸にて自害(享年49) 17 。 |
小谷城の主要な曲輪が陥落し、父・久政が自刃。 |
9月1日 |
小谷城本丸を制圧。 |
浅井長政、お市と三姉妹を城外へ逃がした後、赤尾屋敷にて自刃(享年29) 20 。 |
小谷城落城 。浅井氏三代の歴史が終焉を迎える。 |
表2:上平寺城の調略に関わった主要人物とその役割
人物名 |
所属 |
役職・立場 |
調略における役割 |
その後の運命 |
織田信長 |
織田方 |
織田家当主・総大将 |
調略戦の最高意思決定者。武力制圧と並行して調略を仕掛け、最小のコストで最大の効果を上げる戦略を指示。 |
天下統一を目前にした天正10年(1582年)、本能寺の変で自刃。 |
羽柴秀吉 |
織田方 |
信長の家臣・北近江方面軍司令官 |
調略の実行部隊長。軍師・半兵衛を駆使して、樋口直房との交渉を担当。 |
信長の後継者となり、天下を統一。豊臣政権を樹立する。 |
竹中半兵衛 |
織田方 |
秀吉の軍師(与力) |
調略の立案者・実行者。樋口直房との旧交を活かし、説得工作の中心を担う。彼の存在なくして無血開城はあり得なかった。 |
天正7年(1579年)、播磨三木城の陣中にて病死。 |
樋口直房 |
浅井方 |
堀秀村の家老・上平寺城の実質的指揮官 |
調略の対象者。半兵衛の説得を受け入れ、主君・堀秀村を説得し、無血開城を決断。浅井氏滅亡の直接的な引き金を作る。 |
秀吉の与力となるが、後に一揆勢との単独講和が秀吉の怒りを買い、追討されて殺害される 8 。 |
堀秀村 |
浅井方 |
鎌刃城主・上平寺城の城将 |
調略の対象者。若年の当主であり、家老・樋口直房の進言を受け入れて織田方への寝返りを決定。 |
家老・直房の死の責任を問われ改易。後に秀吉に仕えるが、大名としての復権は果たせず、1599年に没した 23 。 |
結論:上平寺城の「戦い」が戦国史に刻んだもの
上平寺城の無血開城は、戦国時代の合戦の様相が、単なる兵力の衝突から、より高度で複雑な次元へと移行していたことを示す、画期的な事例です。この一件は、戦国史にいくつかの重要な教訓を刻み込みました。
第一に、それは 情報戦・心理戦の完全なる勝利 でした。織田方は、上平寺城の物理的な堅固さを正面から攻めるのではなく、城を守る人間の心理、忠誠心、そして将来への不安という「弱点」を的確に突きました。竹中半兵衛と樋口直房という二人の知将の個人的な関係性を突破口としたこの調略は、戦国時代の勝敗が、情報、交渉、そして人間の心理を巧みに操る能力にいかに大きく左右されるかを示す一級の史料と言えます。
第二に、この一件は 織田信長の合理主義的な戦略性の再評価 を促します。彼は、無益な血を流し、兵力を損耗させる攻城戦を極力避けました。最小の犠牲で最大の戦略的利益(=国境防衛線の無力化と兵站線の確保)を得るという彼の思考は、この調略戦に見事に結実しています。これは、彼の天下統一事業が、単なる武力による制圧ではなく、高度な政治・外交戦略に裏打ちされた、近代的な側面を持っていたことの証左です。
第三に、この出来事は 巨大勢力の狭間で翻弄される国人領主の悲哀 を浮き彫りにします。浅井家への忠義と、自らが守るべき堀家と領民の安泰という現実の間で、苦渋の決断を下した樋口直房。彼の選択は、結果として浅井家を滅亡に導きましたが、それは同時に、巨大な時代のうねりの中で生き残りをかけてもがいた、一人の地方領主の必死の選択でもありました。彼の姿は、戦国という時代の過酷さと、そこに生きた人々の実像に光を当てています。
そして最後に、この物語は皮肉な悲劇で幕を閉じます。調略を成功させ、織田方で新たな道を歩み始めた樋口直房は、その功績を認められながらも、最終的には自らの判断(一揆勢との単独講和)が原因で、新しい主君である羽柴秀吉に粛清されてしまいました 8 。浅井家臣時代には許されたであろう自律的な判断は、織田・豊臣という中央集権的な支配体制下では、主君の命令を無視した許されざる越権行為と見なされたのです。
樋口直房は、自らが作り出すのに加担した新しい時代の論理によって、自らが滅びました。上平寺城の静かなる落城は、戦国乱世の終焉と、それに続く新しい秩序がいかに非情なものであったかを象徴する、忘れがたい一幕として、歴史にその名を刻んでいるのです。
引用文献
- 上平寺城跡 - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/material/files/group/47/site2.pdf
- 京極氏遺跡群 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042774.pdf
- 上平寺城跡:近畿エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/14513
- 長比城・上平寺城 - 近江の城めぐり | 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 https://shiroexpo-shiga.jp/column/no27/
- 上平寺城 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/025shiga/049jyoheiji/jyoheiji.html
- 堀秀村 Hori Hidemura - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/hori-hidemura
- 堀秀村 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%9D%91
- 樋口直房 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E7%9B%B4%E6%88%BF
- 大和国を巡って18年攻防。松永久秀と筒井順慶、ライバル関係の真相【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/1011657
- 松永久秀との激闘(1) - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/sakon0105a.html
- 筒井順慶のエピソードから考える判断のタイミング|Biz Clip(ビズクリップ) - NTT西日本法人サイト https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-067.html
- 竹中半兵衛年表 https://www.town.tarui.lg.jp/uploaded/attachment/4300.pdf
- まるで婦人のような優男! 織田信長が惚れ込んだ戦国時代の天才軍師「竹中重治」の逸話【後編】 https://mag.japaaan.com/archives/234016
- 浅井長政の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7483/
- 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第20回【浅井長政】信長を苦しめた北近江の下克上大名 https://shirobito.jp/article/1787
- 1573年 – 74年 信玄没、信長は窮地を脱出 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1573/
- 小谷城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- sengokumap.net https://sengokumap.net/history/1573/#:~:text=%E5%A4%A9%E6%AD%A31%E5%B9%B4%EF%BC%881573%E5%B9%B4%EF%BC%898%E6%9C%888%E6%97%A5%E3%80%81,%E5%8C%97%E8%BF%91%E6%B1%9F%E3%81%B8%E4%BE%B5%E6%94%BB%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82
- 其の六・小谷城攻略と浅井氏の滅亡 - 国内旅行のビーウェーブ https://bewave.jp/history/nobunaga/hs000106.html
- 小谷の歴史|小谷城戦国歴史資料館 https://www.eonet.ne.jp/~odanijou-s/azai.html
- 浅井長政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E9%95%B7%E6%94%BF
- 近江浅井氏 ・一族・部将たち - harimaya.com http://www2.harimaya.com/azai/html/az_kasin.html
- 堀秀村 - Hiking/Trekking from Nagoya and Kyoto 東海ハイキング https://guide.isekinotabi.com/article/person%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%9D%91