最終更新日 2025-09-05

上田合戦(1585)

天正十三年、真田昌幸は沼田領を巡る徳川家康との戦いで、上田城の地の利と巧みな偽装退却、神川の増水で大軍を大敗させた。この勝利で昌幸の武名は天下に轟き、真田氏の独立を確立した。

第一次上田合戦(1585年):小が大を呑む、戦国屈指の知謀戦の全貌

序章:表裏比興の者、乱世に立つ

天正10年(1582年)6月、本能寺にて織田信長が斃れたという報は、瞬く間に日本全土を駆け巡り、新たな動乱の時代の幕開けを告げました。信長という絶対的な権力者の死は、各地に権力の真空地帯を生み出し、特に旧武田領であった信濃・甲斐・上野(現在の長野県、山梨県、群馬県)は、主を失った広大な「草刈り場」と化しました 1 。この混沌の中から、一人の稀代の戦略家がその頭角を現します。後の世に豊臣秀吉から「表裏比興の者(味方になったり敵になったり、油断ならぬ狡猾な人物)」と評されることになる、真田安房守昌幸です 2

当時の真田氏が置かれた状況は、まさに絶体絶命でした。北には越後の上杉景勝、東には関東の覇者たる北条氏政・氏直父子、そして南には甲斐・駿河を手中に収め、勢力を拡大する徳川家康。この三大勢力に囲まれた信濃の小豪族に過ぎない真田氏が生き残る道は、極めて限られていました 1 。しかし昌幸は、この絶望的な状況を、むしろ自らの才覚を天下に示す好機と捉えます。彼の行動原理は、単なる裏切りや日和見主義ではありませんでした。巨大勢力同士の力学を冷静に見極め、その狭間で巧みに立ち回り、自家の存続と独立を確保するという、極めて合理的かつ高度な生存戦略でした。

本報告書では、この真田昌幸の知謀が最も鮮烈な形で発揮された戦い、天正13年(1585年)の「第一次上田合戦」の全貌を、その背景から戦闘のリアルタイムな推移、そして歴史的意義に至るまで、徹底的に詳解します。これは単なる一地方の籠城戦ではなく、戦国末期の日本の政治力学を凝縮した、知略と戦略の結晶とも言うべき一戦なのです。

第一章:第一次上田合戦に至る道程:動乱の天正壬午と沼田領問題

第一次上田合戦の直接的な引き金は、「沼田領」と呼ばれる一地域の領有権問題にありました。しかし、その根源をたどると、本能寺の変直後に勃発した旧武田領争奪戦「天正壬午の乱」における、真田昌幸の巧みな外交戦略と、徳川家康の外交政策上の失策に行き着きます。

1.1. 天正壬午の乱と昌幸の生存戦略

武田家滅亡後、昌幸は織田家の重臣・滝川一益の配下となりますが、本能寺の変と、それに続く神流川の戦いでの一益の敗走を機に、自立への道を模索し始めます 4 。わずか数ヶ月の間に、昌幸は上杉、北条、そして徳川へと、目まぐるしく主君を乗り換えるという離れ業を演じました 4 。これは単なる変節ではなく、各勢力の動向を冷静に見極め、常に自らが生き残るための最適解を選択し続けた結果でした。特に、当初属していた北条氏から離反し徳川方へ寝返った際には、信濃に侵攻していた北条軍の補給線を断つという決定的な軍功を挙げており、これが徳川家康との関係を築く上で重要な意味を持ちました 7

1.2. 沼田領問題の勃発

この合戦の核心となるのが、上野国(群馬県)に位置する沼田領の存在です。沼田城は利根川と薄根川に挟まれた河岸段丘上に築かれた天然の要害であり、越後と関東、信濃を結ぶ交通・軍事上の最重要拠点でした 7 。この地は、昌幸の父・幸隆の代から攻略を目指した悲願の土地であり、昌幸自身も自力で手に入れた所領として、極めて強い執着を持っていました 7

しかし、天正壬午の乱を終結させるにあたり、徳川家康と北条氏直は和睦を結びます。その際の領土分割の取り決めとして、「信濃・甲斐は徳川領、上野は北条領」とされました 7 。当時、家康にとって最大の脅威は西方の羽柴秀吉であり、背後を固めるために北条氏との安定した同盟関係を優先する必要がありました。この大局観に基づき、家康は北条側の要求を呑み、形式上は自らの配下である真田氏が領有する沼田領を、北条へ引き渡すことを密約してしまったのです 8 。これは、大名間の力学としては合理的な判断に見えましたが、家康は昌幸という人物の「国衆としての矜持」と、沼田という土地が持つ「戦略的価値」を完全に見誤っていました。

1.3. 決裂、そして新たな同盟へ

天正13年(1585年)4月、家康は昌幸に沼田領の引き渡しを正式に命令します。しかし、家康が満足な代替地を示さなかったこともあり、昌幸は「沼田は父祖伝来、骨を折って手に入れた地。渡す謂れはない」として、これを断固拒否しました 8 。この瞬間、徳川との軍事衝突は避けられないものとなりました。

昌幸の動きは迅速でした。彼は即座に、徳川と敵対関係にあった上杉景勝に接近します。同年7月15日には正式に起請文を取り交わして和議を結び、徳川との手切れを内外に明確にしました 11 。この同盟を確固たるものにするため、昌幸は次男の信繁(後の幸村)を人質として越後へ送ります 1 。これは、徳川という巨大な敵を前にして、背後の安全を確保するための極めて重要な外交的布石でした。

結果として、家康は北条との一時的な安定と引き換えに、信濃における最も厄介な敵を自らの手で作り出してしまいました。第一次上田合戦は、昌幸が反旗を翻したというよりも、本質的には家康の外交政策の失敗によって引き起こされた、必然の戦いであったと言えるでしょう。

第二章:両軍の対峙:兵力、武将、そして戦場たる上田城

天正13年(1585年)閏8月、徳川家康はついに真田討伐軍を派遣します。圧倒的な兵力差にもかかわらず、なぜ真田軍は勝利し得たのか。その要因を、両軍の戦力構成と、戦いの舞台となった上田城の特性から分析します。

2.1. 両軍の戦力分析

徳川軍の総勢は約7,000名 6 。明確な総大将は置かれなかったものの、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉といった、徳川四天王に次ぐ歴戦の宿将たちが軍を率いていました 14 。一方の真田軍は、その3分の1にも満たない約2,000名 13 。数字の上では、勝敗は火を見るより明らかに見えました。

しかし、両軍の質には決定的な違いがありました。徳川軍は、譜代の三河武士団を中核としつつも、諏訪頼忠や保科氏といった信濃・甲斐の国衆を多く含む「寄せ集め」の軍勢でした 11 。彼らの中には、旧武田家臣として昌幸と旧知の仲である者も少なくなく、真田討伐への戦意は必ずしも高くなかった可能性があります 11 。軍全体の結束力に、潜在的な脆弱性を抱えていたのです。

対する真田軍は、昌幸、そして嫡男の信幸(信之)を中心とした一族郎党で固められ、指揮系統は明確であり、自らの郷土と家族を守るという極めて高い士気で満ち溢れていました。また、同盟を結んだ上杉景勝からは、領内の反乱(新発田重家の乱)のために大規模な派兵は叶わず、送られたのは老人や若輩を含む少数の兵でした 11 。しかし、この援軍の真の価値は兵力そのものではありませんでした。上田城にほど近い虚空蔵山城に「上杉の旗が翻っている」という事実そのものが、徳川軍に「上杉本隊がいつ介入してくるかわからない」という心理的圧力を与え、その行動を掣肘する効果を持っていたのです 11

【表1】両軍の兵力と主要武将一覧

軍勢

総兵力(推定)

主要指揮官

構成と特徴

徳川軍

約7,000名 6

鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉、柴田康忠 14

徳川譜代の家臣団に加え、諏訪頼忠、保科氏など信濃・甲斐の国衆を多く含む連合軍。結束力に課題があった可能性 11

真田軍

約2,000名 13

真田昌幸、真田信幸 14

昌幸を頂点とする真田一族郎党が中核。郷土防衛の意識が高く、士気は旺盛。上杉からの少数の援軍も存在 11

2.2. 戦いの舞台:上田城の戦略的構造

この戦いのもう一方の主役は、戦場となった上田城そのものです。天正11年(1583年)に築城が開始されたこの城は、当初、徳川家康の支援のもと、対上杉・北条の拠点として計画されました 18 。しかし、昌幸が徳川と袂を分かつと、その設計思想は大きく転換されます。大手(正面)は、対徳川を想定した東向きに変更され、城そのものが巨大な迎撃装置へと姿を変えたのです 19

上田城は、南を千曲川の分流が刻んだ「尼ヶ淵」と呼ばれる数十メートルの断崖に守られた天然の要害でした 19 。これにより、敵の攻撃方向は事実上、東と北に限定されます。そして、昌幸はこの東側に巧妙な罠を仕掛けました。大手門から三の丸、二の丸、本丸へと続く道筋は、一見すると攻めやすそうな直線構造になっています。しかし、これは徳川軍の「数に任せた力押し」という戦術的特性を逆手に取り、敵を城の奥深くまで誘い込むための心理的な仕掛けでした 21

昌幸の狙いは、敵兵を狭隘な二の丸に密集させ、身動きが取れなくなったところを、本丸や周囲の櫓から一斉に集中砲火を浴びせて殲滅することにありました 21 。つまり、上田城は徳川軍の長所を無力化し、逆に混乱を増幅させる「キルゾーン」として設計された、「対徳川用特殊要塞」だったのです。当時の記録では天守のない「小城」とされていますが 19 、その防御思想は、同時代のいかなる大城郭にも劣らない、極めて高度で実戦的なものでした。

第三章:合戦の刻:神川合戦、そのリアルタイム時系列詳解

天正13年(1585年)閏8月2日、ついに両軍は激突します。この戦いは、上田城の東を流れる神川(かんがわ)周辺が主戦場となったことから、「神川合戦」とも呼ばれます 10 。以下に、その戦闘経過を複数の史料を基に再構成し、時系列に沿って詳述します。

3.1. 開戦前夜(閏8月1日)

徳川軍7,000余は、上田盆地を見下ろす千曲川南岸の八重原台地に着陣しました 22 。眼下に上田城を望み、圧倒的な兵力を背景に、将兵の間には真田方を侮る空気が流れていたと推察されます。一方、城中の昌幸は、徳川来襲の報に際し、城下の領民に「妻子を引き連れて籠城せよ。城下の者は皆、わが子も同然じゃ」と呼びかけ、領民一体となった徹底抗戦の覚悟を固めていました 21

3.2. 緒戦:神川の誘引(閏8月2日 早朝)

夜が明けると、徳川軍は神川東岸の蒼久保に進出し、一気に渡河を開始しました 22 。神川の西岸では、昌幸の命を受けた常田出羽守らが率いる真田方の前衛部隊約200名が待ち構えていました。しかし、彼らは徳川軍の渡河をほとんど妨害せず、矢や鉄砲を放つこともなく、じりじりと後退を始めます 21

これは、徳川軍に「敵は寡兵で戦意が低い」と誤認させ、油断を誘うための、昌幸が仕掛けた巧妙な「偽装退却」でした。案の定、勢いづいた徳川軍の先鋒は、これを好機と見て追撃を開始。鳥居元忠や大久保忠世といった歴戦の将さえも、「城は無勢ぞ、一気に付け入れ!」と下知を飛ばし、雪崩を打って上田城下へと殺到しました 21

3.3. 城下の死闘:巨大な罠の作動(同日 午前)

徳川軍は、逃げる真田勢を追って、大手門から三の丸、そして二の丸へと殺到します 21 。この間、真田方からの抵抗は散発的で、徳川軍の慢心は頂点に達しました。この時、本丸の櫓では、昌幸が家臣を相手に悠然と囲碁を打っていたと伝えられています 21 。これは、自軍の将兵の動揺を鎮め、敵を最後まで油断させるための、計算され尽くした演出でした。

そして、徳川軍の主力が二の丸という狭い空間に密集し、動きが取れなくなった瞬間、事態は一変します。昌幸が碁盤を返し、「太鼓だ、鉦だ、貝を吹け!」と命じたのを合図に、城の各所から一斉に反撃の狼煙が上がりました 21 。門や塀に設けられた無数の狭間から鉄砲と矢が雨のように降り注ぎ、あらかじめ用意されていた大石や丸太、さらには煮え湯までが頭上に浴びせかけられました 21 。籠城していた猟師は鳥銃を放ち、農民や町人は石礫を投じて、城全体が徳川軍を屠る巨大な罠と化したのです 21

3.4. 伏兵の奇襲:信幸の奮戦(同日 昼)

城内で大混乱に陥り、進むことも退くこともできなくなった徳川軍の側面を、予期せぬ方向からの攻撃が襲います。支城である砥石城に控えていた、昌幸の嫡男・真田信幸(信之)が率いる別動隊が、完璧なタイミングで徳川軍の側面に突撃したのです 6

これにより、徳川軍の指揮系統は完全に崩壊。正面からの猛攻と側面からの奇襲により完全に包囲され、兵たちはパニック状態に陥りました。

3.5. 壊走と追撃:神川の悲劇(同日 午後)

万策尽きた徳川軍は、ついに総崩れとなり、唯一の退路である神川に向かって敗走を開始しました 6 。しかし、昌幸の策はまだ終わっていませんでした。真田方は追撃の手を緩めず、敗走する兵たちを討ち取ります。さらに、あらかじめ神川の上流に堰を設けて溜めておいた水を、このタイミングで一気に放流したのです 2

穏やかだった川は瞬く間に濁流と化し、鎧兜に身を固め、逃げ惑う徳川兵の多くが為す術もなく溺死しました 6 。大久保忠世・忠教(彦左衛門)兄弟らの奮戦によって辛うじて全滅は免れたものの、徳川軍は文字通り死屍累々の惨状を呈しました 26 。昌幸の戦術は、城だけでなく、周囲の地形全てを味方につけた、立体的かつ多層的なものでした。

第四章:戦後の波紋:天下に轟く真田の名と昌幸の次なる一手

一日で終結したこの戦いは、戦国史上稀に見る一方的な結果に終わりました。この勝利は、真田氏の運命を大きく変えるとともに、天下の情勢にも少なからぬ影響を及ぼしました。

4.1. 驚異的な戦果とその影響

この戦いにおける両軍の損害には、驚くべき差がありました。徳川軍の戦死者は1,300名以上(一説には2,000名とも)に上ったのに対し、真田軍の損害はわずか40名程度であったと記録されています 10 。この圧倒的な戦果は、真田昌幸の武名を一躍天下に轟かせることになりました 10 。徳川家康にとって、この敗北は若き日の三方ヶ原の戦い以来の大敗であり、その軍事的な威信に大きな傷をつけました 22 。特に、自らが築城を支援した城で手痛い反撃を受けたことは、家康にとって生涯忘れ得ぬ屈辱となったことでしょう。

【表2】第一次上田合戦における両軍の損害比較

軍勢

戦死者数(推定)

損害に関する注記

徳川軍

約1,300名 1

一説には2,000名とも 10 。神川での溺死者が多数を占めた 6

真田軍

約40名 24

徳川軍の30分の1以下という驚異的な少なさ。

4.2. 戦いは終わらず:丸子城攻防と徳川軍の撤退

上田城の攻略を諦めた徳川軍は、目標を南の支城である丸子城に変更して攻撃を続けますが、ここでも真田方の頑強な抵抗に遭い、攻略に失敗します 6 。戦いが長期化し、徳川軍が信濃の地で泥沼にはまり込んでいる最中の同年11月、徳川家中を揺るがす大事件が発生します。譜代の重臣筆頭であった石川数正が、豊臣秀吉のもとへ出奔したのです 6 。徳川家の内情と軍事機密を知り尽くした人物の離反は、家康に真田攻めどころではない深刻な衝撃を与えました。これが決定打となり、家康は信濃からの全面撤退を決断します。

4.3. 昌幸の次なる一手:中央への接近

昌幸の真の凄みは、軍事的な勝利に驕ることなく、常に次の一手を打っていた点にあります。彼は徳川軍と対陣している最中から、すでに天下人への道をひた走る羽柴(豊臣)秀吉との外交交渉を開始していました 29

現存する天正13年10月17日付の秀吉から昌幸への書状には、「其の方進退の儀、何れの道にも迷惑せざる様に申し付くべく候の間、心易かるべく候(あなたの身の振り方については、どのようなことになっても困らないように取り計らうので、安心するように)」という一文が見られます 30 。当時、秀吉は家康を臣従させるための圧力を強めており、家康の足元で反旗を翻した昌幸は、家康を牽制するための格好の駒でした。秀吉は昌幸を支援することで、直接兵を動かすことなく家康の力を削ごうとしたのです。

昌幸もまた、その秀吉の思惑を理解した上で、その権威を最大限に利用しようとしました。この上田での軍事的勝利は、昌幸が自らの価値を中央政権に売り込むための、この上ない実績となりました。これにより、昌幸は単なる「家康に反抗する信濃の国衆」から、「秀吉が庇護する有力大名」へと、その立場を劇的に向上させることに成功したのです 32 。この戦いは、信濃の一地方における局地戦であると同時に、秀吉と家康の全国的な覇権争いにおける、重要な「代理戦争」としての側面も持っていたのです。

結論:第一次上田合戦の歴史的意義

天正13年(1585年)の第一次上田合戦は、戦国時代の数多の戦いの中でも、特筆すべき歴史的意義を持つ一戦であったと結論付けられます。

第一に、 軍事史における意義 として、兵力で圧倒的に劣る側が、周到な準備、地形の利、巧みな戦術、そして敵の心理を操る知謀を駆使して大軍を破った「非対称戦」の輝かしい典例として挙げられます。昌幸が上田城と城下、そして神川を用いて構築した多層的な防御システムは、戦国時代の戦いにおける知略の重要性を象徴するものであり、後世の軍学にも大きな影響を与えました。

第二に、 真田氏にとっての意義 として、この一戦は真田氏が徳川氏という巨大勢力の支配下から事実上脱却し、独立した戦国大名としての地位を天下に認めさせた、画期的な転換点でした 14 。この戦いで得た「徳川を二度も退けた」という武名と名声は、後の関ヶ原の戦いにおける第二次上田合戦での奮戦、そして大坂の陣における真田信繁(幸村)の「日本一の兵」という伝説の礎となったのです。

そして第三に、 天下の情勢における意義 として、この戦いは徳川家康の天下取りの道程における、数少ない軍事的・政治的敗北として明確に記録されます。この手痛い敗戦と、それに続く石川数正の出奔は、家康が秀吉に臣従する遠因の一つとなり、結果として豊臣政権の安定に間接的に寄与したと評価できます。また、この勝利によって真田氏が豊臣大名として認知されたことは、後の沼田領問題の裁定にも影響を及ぼし 33 、最終的には秀吉による小田原征伐、すなわち北条氏の滅亡へと繋がる遠い伏線ともなりました。

以上のように、第一次上田合戦は、信濃の一地方における戦いに留まらず、真田氏の運命を決定づけ、徳川家康の戦略に狂いを生じさせ、ひいては戦国時代の終焉と天下統一への大きな流れの中で、確かな存在感を放つ極めて重要な一戦であったと言えるでしょう。

引用文献

  1. 第一次上田合戦 http://ogis.d.dooo.jp/sanada2.html
  2. 【上田城・神川の戦い】1585年閏8月2日|Mitsuo Yoshida - note https://note.com/yellow1/n/nb55373ffd033
  3. 天正壬午の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A3%AC%E5%8D%88%E3%81%AE%E4%B9%B1
  4. どうする家康解説!生き残りの天才『真田昌幸』家康を翻弄する"表裏比興の者" - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/sanadamasayuki-survival/
  5. 神流川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%B5%81%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  6. 家康を苦しめた戦国屈指の食わせ者・真田昌幸 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12008/
  7. 天正壬午の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/99866/
  8. 信州上田観光ガイド 上田城の歴史 真田氏 仙石氏 松平氏 第一次上田合戦 第二次上田合戦 - 上田城下町観光協会 https://nagano-ueda.gr.jp/archive/uedajo/history.html
  9. 上田城の戦い(神川の合戦) - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/UedaJou~Kangawa.html
  10. 神川合戦(第一次上田合戦) https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/070099.html
  11. 第一次上田合戦と真田昌幸の戦術 | WEB歴史街道|人間を知り ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2925
  12. 上田城と歴代上田城主 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/
  13. 上田城の歴史 - 上田市ホームページ https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/shogaku/2378.html
  14. 上田合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6
  15. 第一次上田合戦 https://ueda-kanko.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/9d5b86a758efb333c4d40e45042683b5.pdf
  16. どうする家康・33話『裏切り者』ネタバレ解説!信雄の単独講和、真田昌幸の軍略、石川数正の出奔 https://sengokubanashi.net/history/dosuruieyasu-33-traitor/
  17. 真田信幸 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/sanada-nobuyuki/
  18. 真田昌幸の人生と最期をわかりやすく解説【どうする家康/真田丸/天正壬午の乱/犬伏の別れ/上田合戦/逸話】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=151Bp26Hn7E
  19. 上田城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%9F%8E
  20. 城と城下町 上田編 | 株式会社サンプロ https://sunpro36.co.jp/column/column6077/
  21. 徳川勢を震え上がらせた真田昌幸・上田合戦の策略 | WEB歴史街道 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2818?p=1
  22. 徳川勢を震え上がらせた真田昌幸・上田合戦の策略 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2818
  23. 《第3回 第一次上田合戦》天下に真田の名を知らしめた 徳川との長い戦いが始まる - LIVING和歌山 https://www.living-web.net/%E3%80%8A%E7%AC%AC3%E5%9B%9E-%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6%E3%80%8B%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E3%81%AB%E7%9C%9F%E7%94%B0%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%97/
  24. 【真田昌幸】知謀を尽くして小大名になった、徳川家康が最も恐れ ... https://shirobito.jp/article/1624
  25. 神川合戦とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%A5%9E%E5%B7%9D%E5%90%88%E6%88%A6
  26. 【合戦図解】第一次上田合戦 ~罠には嵌る徳川軍!冴えわたる真田昌幸の戦略~ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5iA4rwrPNY8
  27. 真田家臣団 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_sengoku/06/
  28. 第一次上田合戦 https://takato.stars.ne.jp/kiji/meigen.html
  29. 【昌幸の秀吉への接近】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096130
  30. 上田軍記史料 https://museum.umic.jp/uedagunki/chronological/materials.html
  31. 天正13年(1585)10月17日 真田昌幸宛豊臣秀吉書状 https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/070202.html
  32. 真田幸村(真田信繁)の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8106/
  33. 臣従したはずなのに…なぜ秀吉は北条氏討伐に踏み切った?沼田領問題から名胡桃城奪取事件 https://fujinkoron.jp/articles/-/9733?display=full