最終更新日 2025-09-02

今治・来島周辺海戦(1573~92)

瀬戸内の村上水軍は、毛利氏と織田氏の狭間で激動の時代を迎えた。来島通総は秀吉の調略に応じ、旧主を滅ぼし大名となる。海賊停止令により海賊の時代は終焉し、来島氏は新たな時代の担い手となった。

瀬戸内の潮流、天下の潮目―今治・来島周辺海戦史(1573-1592)―

関連年表

西暦(和暦)

月日

中央政局の動向(信長・秀吉)

中国地方の動向(毛利氏)

伊予・瀬戸内海の動向(河野氏・村上三家)

1573(天正元)

7月

足利義昭が追放され、室町幕府が事実上滅亡。

1576(天正4)

7月13日

第一次木津川口の戦い 。織田水軍が毛利水軍に大敗。

石山本願寺への兵糧搬入を成功させる。

村上水軍が主力として活躍。焙烙火矢で織田水軍を撃破 1

1578(天正6)

11月6日

第二次木津川口の戦い 。鉄甲船を投入し、織田水軍が勝利。

石山本願寺への補給路を絶たれる。

毛利水軍が大敗。来島通総も毛利方として参戦した可能性が高い 1

1580(天正8)

8月

石山本願寺が信長に降伏。

1582(天正10)

4月

羽柴秀吉、備中高松城を包囲(水攻め開始は5月8日) 3

毛利輝元ら、高松城救援のため出陣 5

秀吉の調略に応じ、 来島通総が毛利・河野方から離反 6

5月7日

来島城攻防戦、開始 。能島村上軍が来島方の支城を攻撃 6

6月2日

本能寺の変 。織田信長が死去。

6月4日

秀吉、毛利氏と和睦し、高松城開城 3

清水宗治が切腹 4

6月13日

山崎の戦い。秀吉が明智光秀を破る。

来島城は依然として毛利・河野・能島連合軍に包囲され続ける。

1583(天正11)

3月

約10ヶ月の籠城の末、 来島城落城 。通総は秀吉のもとへ脱出 8

1585(天正13)

6月

秀吉による四国征伐開始

小早川隆景が伊予方面軍の総大将として出陣 10

来島通総、小早川軍の先鋒として伊予に凱旋 1

7月

高尾城の戦い(天正の陣)などで長宗我部方を破る 13

8月

長宗我部元親が降伏。

河野通直が降伏し、戦国大名としての河野氏が滅亡 15

(戦後)

小早川隆景が伊予一国を領有 17

通総、戦功により伊予風早・野間郡1万4000石の大名となる 12

1588(天正16)

7月

海賊停止令(海賊禁止令)発布 18

能島・因島村上氏は毛利氏の家臣(船手組)に。来島氏は大名として存続 18

1592(文禄元)

4月

文禄の役(朝鮮出兵)開始

毛利氏も主力として出兵。

来島通総、豊臣水軍の一員として朝鮮へ渡海 18


序章:鼎立する海の領主―決戦前夜の村上三家―

戦国時代の日本列島が統一へと向かう激動の中、西国航路の心臓部である瀬戸内海には、陸上の大名とは一線を画す独自の秩序が存在した。その秩序の守護者にして支配者であったのが、因島・能島・来島の三島を拠点とする村上氏、すなわち「村上水軍」あるいは「村上海賊」と称される海上勢力である 22 。彼らは単なる略奪者ではなく、複雑な潮流が渦巻く海の難所において水先案内や海上警固を担い、通行する船舶から帆別銭・櫓別銭といった通行料を徴収することで、海の安全保障と交易の秩序を維持していた 22

村上氏は一枚岩の組織ではなく、地理的役割と政治的背景を異にする三家の連合体であった 25

  • 因島村上氏 は、本州側の備後水道を押さえ、早くから中国地方の覇者である毛利氏との関係を深め、その水軍組織の一翼を担う存在となっていた 1
  • 能島村上氏 は、芸予諸島の中心に位置し、最短航路を掌握していた 25 。当主・村上武吉の時代に最盛期を迎え、宣教師ルイス・フロイスをして「日本最大の海賊」と言わしめるほどの勢力を誇った 26 。彼らは強烈な独立志向を持ち、毛利氏とは対等な同盟者としての立場を堅持し、時にはその意向に反することも厭わない気概を持っていた 1
  • 来島村上氏 は、四国・伊予国側の来島海峡を拠点とし、島全体を城塞化した来島城を本拠としていた 25 。地理的な関係から、伊予の守護大名である河野氏と密接な関係を築き、形式的にはその配下、実質的には強力な同盟者として活動していた 15

この三家の関係は、毛利氏と河野氏が友好関係にある限りにおいては、緩やかな連携を保ち機能していた。しかし、その構造には本質的な脆弱性が内包されていた。能島・因島が毛利氏と直接的な関係を結ぶ一方で、来島はあくまで主家である河野氏を介して毛利氏と繋がるという、間接的な関係にあったのである。この政治構造の差異は、平時においては問題とならなかったが、中央から織田信長という巨大な外部圧力が及び、西国のパワーバランスが根底から揺さぶられた時、三家の運命を分かつ決定的な亀裂へと発展する火種を宿していた。1573年頃、瀬戸内海は、来るべき時代の大きなうねりを前に、束の間の静けさを保っていたのである。

第一章:信長の影、木津川口の激闘(1576-1578年)

天下布武を掲げる織田信長と、それに抵抗する勢力との争いが激化する中、瀬戸内海の制海権は戦略的に極めて重要な意味を持つようになった。その帰趨を決したのが、大坂湾の入り口で二度にわたって繰り広げられた木津川口の戦いである。この戦いは、村上水軍の栄光と挫折を象徴すると同時に、若き来島村上氏当主・村上通総(後の来島通総)に時代の潮目の変化を痛感させる転機となった。

第一次木津川口の戦い(1576年):伝統戦術の極致

天正4年(1576年)、信長に包囲され窮地に陥った石山本願寺は、同盟関係にあった毛利輝元に救援を要請した 28 。これに応えた毛利氏は、村上水軍を中核とする約800艘の大船団を組織し、兵糧を積んで大坂湾へと進出した 1 。対する織田方は、九鬼嘉隆率いる約300艘の水軍でこれを迎え撃った 1

戦いの趨勢は、村上水軍が有する圧倒的な海戦経験と、彼らが独自に開発した兵器によって決した。それは「焙烙火矢(ほうろくひや)」と呼ばれる、陶器製の球体に火薬を詰めた一種の焼夷弾であった 1 。村上水軍の兵士たちは、潮流を巧みに読んで敵船に接近すると、この焙烙火矢を次々と投げ込み、あるいは大弓で射掛けた。木造船である織田方の安宅船や関船はひとたまりもなく炎上し、大混乱に陥った 20 。結果は毛利水軍の圧勝に終わり、石山本願寺への兵糧搬入は成功。村上水軍の名は「海の鬼神のごとし」と天下に轟いた 33

第二次木津川口の戦い(1578年):技術革新の衝撃

第一次の屈辱的な敗北に激怒した信長は、旧来の海戦術では村上水軍に勝てないと判断し、九鬼嘉隆に全く新しい概念の軍船の建造を命じた 1 。そして天正6年(1578年)、再び兵糧搬入を試みる毛利水軍の前に姿を現したのが、船体を鉄板で覆った巨大な「鉄甲船」6隻であった 18

この第二次木津川口の戦いは、第一次とは全く様相を異にした。村上水軍はいつものように焙烙火矢で攻撃を仕掛けたが、鉄の装甲はそれをことごとく弾き、効果はなかった 1 。逆に鉄甲船に搭載された大砲が火を噴くと、村上水軍の主力である小型で機動力に優れた小早船は、その圧倒的な火力の前に次々と粉砕されていった 1 。伝統的な操船技術や白兵戦、火器といった村上水軍の得意戦術は、信長の経済力と革新性が生み出した新兵器の前に完全に無力化されたのである。毛利水軍は壊滅的な打撃を受け敗走し、大坂湾の制海権は織田方の手に落ちた 2

この敗戦は、村上水軍、とりわけ当時10代後半であった来島通総にとって、計り知れない衝撃を与えた。史料によっては、この時点で既に通総が織田方に与していたとする記述もあるが 18 、1582年の離反が画期的であったとする複数の記録を踏まえれば 7 、この敗北を毛利方の一員として経験したと考えるのが自然である。彼は、海の戦の常識が覆される瞬間を目の当たりにし、毛利氏という旧来の勢力に付き従うことの限界と、織田氏が持つ圧倒的な技術力・国力に、未来の日本の姿を見たに違いない。この経験は、単なる一回の敗北ではなく、伝統的な海洋勢力が生き残るためには、戦略思想そのものを転換しなければならないという、時代の強烈な宣告であった。

第二章:決裂の刻―来島通総、秀吉に降る(1582年)

第二次木津川口の戦いから4年後の天正10年(1582年)、日本の歴史は大きな転換点を迎える。織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、毛利氏の領国である中国地方へ侵攻し、備中高松城を前代未聞の水攻めによって包囲していた 3 。この中央での激しい攻防と並行して、瀬戸内海では水面下で熾烈な情報戦と調略が繰り広げられていた。その中心にいたのが、来島通総であった。

秀吉の調略と村上三家の選択

備中高松城で毛利軍主力を釘付けにした秀吉は、戦局をさらに有利に進めるため、毛利氏の生命線である瀬戸内海の制海権を揺るがす策に出た。毛利水軍の中核をなす村上三家を切り崩し、味方に引き入れることで、毛利氏の背後を突き、同時に自軍の水軍力を強化しようと図ったのである 26

秀吉からの誘いは、能島と来島の両氏にもたらされた。能島の村上武吉は、一度は秀吉の誘いに同調する姿勢を見せたものの、小早川隆景らの説得と、独立領主としての矜持から、最終的には毛利方への残留を決断する 6

一方で、来島通総はこの誘いに積極的に応じた。その背景には、木津川口での敗戦を通じて感じた毛利方の将来性への疑問に加え、主家である河野氏との間に生じていた確執があった可能性も指摘されている 37 。通総にとって、旧来の枠組みに留まるよりも、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田・羽柴政権に与することこそが、自らの家を存続させ、さらには独立した大名として立身する道であると判断したのである。毛利方の小早川隆景は、因島村上氏などを介して懸命に説得を試みたが、同年4月7日には来島の離反は決定的となった 6

戦略的決断としての「離反」

通総のこの決断は、単なる裏切りや寝返りといった言葉で片付けられるものではない。それは、天下の情勢を冷静に分析し、絶好の「時」を捉えた高度な戦略的判断であった。彼は、毛利の主力が備中高松城に集中し、身動きが取れない状況にある今こそ、離反を実行に移す最大の好機であると見抜いていた。

もちろん、離反すれば即座に、主家の河野氏、そして同族である能島・因島村上氏を主力とする毛利方の連合軍から猛攻撃を受けることは必至であった。しかし、毛利の主力部隊が備中から動けない以上、来島城に大規模な援軍を送ることは不可能であり、島全体が要塞である地の利を活かして籠城戦に持ち込めば、時間を稼ぐことができると計算したのである。通総の行動は、大きなリスクを伴う「賭け」であったが、それは彼が単なる海の武人ではなく、瀬戸内という閉じた世界から天下の動きを読み解くことのできる、優れた戦略家であったことを示している。この決断が、今治・来島周辺の海を、同族が血で血を洗う凄惨な戦場へと変貌させることになる。

第三章:同族相食む―来島城攻防、三百日の死闘(1582年5月-1583年3月)

来島通総の離反は、毛利・河野陣営にとって到底看過できるものではなかった。裏切り者への報復として、そして瀬戸内海の秩序を維持するため、河野氏を盟主とし、能島・因島村上氏を主力とする連合軍が編成され、来島城へと殺到した。こうして、約10ヶ月、三百日に及ぶ壮絶な籠城戦の幕が切って落とされた。

電撃的な緒戦と海上封鎖

天正10年(1582年)5月7日、連合軍の先鋒である能島村上軍が行動を開始した。彼らはまず、来島方の支城であった伊予国和気郡の葛籠葛城(現在の松山市)を攻撃して城下に火を放つと、翌8日には通総の兄・得居通幸が守る鹿島城とその周辺を襲撃した。さらに同日中には、来島村上氏の本拠地である来島城に迫り、周辺の大浜浦を焼き払うなど、電撃的な攻撃で瞬く間に来島方を孤立させた 6

連合軍の戦略は、来島城を海上から完全に封鎖し、兵糧攻めによって干上がらせることであった。来島城は、周囲を激しい潮流が渦巻く海に囲まれた天然の要害であり、島全体が城として機能する「海城」であった 25 。攻防の鍵を握るのは、陸上の戦いとは異なり、来島海峡の複雑な潮流をいかに読み解き、制するかという高度な操船技術であった 22 。連合軍は大小の船を繰り出して封鎖線を維持し、籠城側は小舟を駆使したゲリラ的な反撃で補給路を確保しようと試みる。海峡では、かつては仲間であった者同士が、互いの操船技術の粋を尽くして小競り合いを繰り広げるという、悲惨な光景が続いたと推察される。

本能寺の変と絶望的な籠城

籠城戦の最中であった6月2日、中央で「本能寺の変」が勃発し、織田信長が横死した。この報を受け、秀吉は毛利氏と急遽和睦を結び、世に言う「中国大返し」を敢行する 3 。これにより、来島城を攻める連合軍の後ろ盾であった毛利氏の立場は微妙なものとなった。しかし、河野氏や能島村上氏にとって、通総への憎しみは毛利氏の都合とは別次元の、個人的なものであった。攻撃の手が緩むことはなく、来島城は依然として絶望的な状況に置かれ続けた 18

城内の兵糧や飲料水は日増しに尽きていき、兵士たちの士気も限界に達していたであろう。極限状態の中、通総は卓越したリーダーシップで籠城軍を支え続けた。

決死の脱出と落城

約10ヶ月にわたる抵抗も空しく、天正11年(1583年)3月、来島城はついに落城の時を迎えた 8 。しかし、城と運命を共にするかに見えた当主・通総は、最後の賭けに出る。彼は、嵐の吹き荒れる夜の闇と風雨に紛れて手勢と共に小舟で出航し、厳重なはずの連合軍の包囲網を奇跡的に突破したのである 9

この決死の脱出劇は、単なる幸運の産物ではなかった。常人ならば航海を躊躇うような荒天こそ、敵の警戒が最も緩む千載一遇の好機であると見抜いた、通総の冷静な判断力。そして、その荒れ狂う海を乗りこなす、村上海賊として生まれ育った者だけが持つ卓越した航海技術の賜物であった。瀬戸内海を南下した通総は、大坂にいた羽柴秀吉のもとへと無事たどり着き、再起を誓うことになる 7 。故郷を追われた若き海の領主の戦いは、まだ終わってはいなかった。

第四章:凱旋、そして旧主の滅亡―四国征伐の先鋒として(1585年)

来島城を脱してから2年後、運命は劇的な逆転を見せる。天下統一事業を本格化させた羽柴秀吉が、四国の雄・長宗我部元親を討つべく、大軍を派遣したのである。この「四国征伐」において、故郷を追われた来島通総は、侵攻軍の道案内人という重要な役割を担い、かつての主君と敵を滅亡へと追い込む皮肉な凱旋を果たすことになった。

四国征伐の先鋒

天正13年(1585年)6月、秀吉は四国平定を開始。伊予方面には、毛利氏の重鎮であり、当代随一の知将と謳われた小早川隆景を総大将とする3万以上の大軍が差し向けられた 10 。この時、秀吉のもとに身を寄せていた通総は、伊予の地理と海路に精通していることを見込まれ、隆景軍の先鋒(さきがけ)、すなわち水先案内人として軍に加わるよう命じられた 1 。これは、通総にとって、失った領地を取り戻し、自らを追放した河野氏や能島村上氏らへの復讐を果たす、またとない機会であった。

秀吉の戦略は、通総個人の復讐心や失地回復への渇望を、天下統一という大きな事業の推進力として巧みに利用するものであった。一方の通総もまた、秀吉の強大な軍事力を借りることで、自らの目的を達成しようとした。ここに、天下人のマクロな戦略と、一地方領主のミクロな動機が完璧に合致し、伊予平定は驚くべき速さで進んでいく。

天正の陣と河野氏の終焉

来島水軍の先導により、小早川隆景率いる大軍は安全かつ迅速に来島海峡を渡り、今治浦への上陸を果たした 41 。上陸後、軍は長宗我部方の拠点へと進撃。特に、長宗我部方の勇将・金子元宅が守る高尾城周辺では激しい戦いが繰り広げられ、これは後に「天正の陣」として語り継がれることになる 13

しかし、金子元宅らの奮戦もむなしく、圧倒的な兵力差の前には為す術もなかった。伊予の諸城は次々と陥落し、長宗我部勢力は一掃された。そして、侵攻軍はついに伊予の守護大名・河野氏の本拠地である湯築城へと迫った。最後の当主・河野通直は、小早川隆景の降伏勧告を受け入れ、戦うことなく城を明け渡した 15

これにより、伊予に長きにわたり君臨した戦国大名・河野氏は、その歴史に幕を下ろした。通直は領地を没収され、後に隆景の庇護下で23歳の若さで不遇の死を遂げる 15 。かつて仕えた主家の滅亡を目の当たりにしながら、通総は自らの手で新たな時代の扉をこじ開けたのである。

終章:海賊の時代の終焉―大名・来島氏の誕生(1588-1592年)

約20年にわたる今治・来島周辺の海を舞台とした動乱は、一人の武将の劇的な立身出世と、一つの時代の終わりという形で終着点を迎えた。来島通総は、時代の潮流を読み、大きな賭けに勝ったことで、海の独立領主から近世大名へと華麗な転身を遂げる。その一方で、彼がかつて属した「海賊」という存在そのものが、天下統一の波に呑み込まれ、歴史の表舞台から姿を消していくことになる。

海賊から大名へ

四国征伐における戦功を高く評価された来島通総は、秀吉から伊予国風早・野間郡において1万4000石の所領を与えられ、豊臣政権下の正式な大名として認められた 12 。この時、彼は一族の姓を、本拠地の名にちなんで村上から「来島」へと改めている 37 。これは、海を基盤とする独立勢力から、土地(石高)を基盤とする中央集権的な封建領主へと、その存在意義を完全に転換させたことを象徴する出来事であった。

海賊停止令と村上水軍の変質

来島氏が大名として新たな道を歩み始めた一方で、瀬戸内海の他の「海賊」たちには厳しい現実が待ち受けていた。天正16年(1588年)、天下人となった豊臣秀吉は「海賊停止令」を発布する 18 。これは、全国の海上勢力に対し、私的な通行料の徴収や海上での武力行使を禁じ、いずれかの大名の家臣となるか、あるいは武装を解除して農民・漁民になるかの二者択一を迫るものであった 26

この命令により、かつて瀬戸内海に覇を唱えた能島・因島村上氏は、その独立性を完全に失い、毛利氏の家臣団に「船手組」として組み込まれることになった 18 。彼らが築き上げてきた、航海の安全保障と引き換えに通行料を得るという「海の秩序」は、石高制と統一された法に基づく「陸の秩序」によって完全に上書きされたのである。

新たな時代の幕開け

大名となった来島通総は、その後も九州征伐(1587年)、小田原征伐(1590年)に水軍を率いて参陣し、豊臣家臣として忠実にその役割を果たした 12 。そして1592年、秀吉が文禄の役(朝鮮出兵)を開始すると、通総も豊臣水軍の一員として朝鮮半島へと渡海する 21 。彼の戦場は、もはや勝手知ったる瀬戸内海ではなく、国家の威信をかけた国際紛争の場へと移っていた。

来島通総の生涯は、中世的な海の独立国家群が、近世的な統一国家の海軍へと再編されていく、壮大な歴史的プロセスの縮図であった。彼が下した1582年の決断は、古い秩序と共に沈むことを拒み、新しい時代の秩序の担い手として生き残る道を選んだ、先見性に満ちた選択だったのである。今治・来島周辺の海戦史は、単なる一地方の勢力争いに留まらず、日本の歴史が中世から近世へと大きく舵を切る、その潮目を示す重要な物語として、今に伝えられている。

引用文献

  1. 織田信長をも悩ませた瀬戸内海の覇者・村上水軍のその後とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/12188
  2. 第二次木津川口の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  3. 備中高松城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E4%B8%AD%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  4. 「備中高松城の戦い(1582年)」秀吉が水攻めで毛利軍の防衛ラインを破壊! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/410
  5. 1582年(前半) 武田家の滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-1/
  6. 久枝 修理進 ひさえだ しゅりのじょう - 戦国日本の津々浦々 ライト版 https://kuregure.hatenablog.com/entry/2023/12/02/210153
  7. 来島城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-311.html
  8. 海賊の声が聞こえる~村上海賊ミュージアム スタッフブログ~: 2017 http://suigun-staff.blogspot.com/2017/
  9. 小湊城跡 龍神社(今治市・近見地区) - 神仏探訪記 https://shintobuddhajourney.com/sbj/kominatojo-ryu-shrine-imabari/
  10. 羽柴秀吉御内書 六月廿四日付 小早川左衛門尉宛 - 文化遺産データベース https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/610440
  11. 三 豊臣秀吉の四国征圧 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7859
  12. 来島通総 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E9%80%9A%E7%B7%8F
  13. 天正の陣古戦場:愛媛県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tensyo-no-jin/
  14. 小早川隆景の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46494/
  15. 河野氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%B0%8F
  16. 中央の政争や一族の争いに翻弄され続けた伊予国守護【河野氏の繁栄と衰退】私のぷらぷら計画(まいぷら) https://z1.plala.jp/~hod/trip_home/38/0101.html
  17. 一 小早川隆景の支配 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8023
  18. 来島通総とは 李舜臣に挑んだ村上水軍の雄 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/kurushimamitifusa.html
  19. 戦国時代に瀬戸内海で大活躍した日本の海賊王「村上水軍」について紹介 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/175906
  20. 熊野水軍について | 三段壁洞窟【公式】 https://sandanbeki.com/suigun/index3.php
  21. 毛利水軍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%B4%E8%BB%8D
  22. 【日本遺産ポータルサイト】“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story036/
  23. 村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課 https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/suigun/about/
  24. 瀬戸内海に見る村上水軍の歴史的役割 - IMG2PDF document https://cres.hiroshima-u.ac.jp/06-kichoukouen.pdf
  25. 芸予諸島 -よみがえる村上海賊 “Murakami KAIZOKU” の記憶-|日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/special/129/
  26. 日本の海賊【村上水軍】の歴史やライバルに迫る! 関連観光スポットも紹介 - THE GATE https://thegate12.com/jp/article/494
  27. 村上水軍の性格 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/24/view/3374
  28. 「村上武吉」 毛利水軍の一翼を担った、村上水軍当主の生涯とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1187
  29. にっぽん風土記 -瀬戸内海- | 花まるグループ コラム https://www.hanamarugroup.jp/column/2012/302/
  30. 秩序 | 日本遺産 村上海賊 https://murakami-kaizoku.com/themes/heritage/
  31. 村上通康 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E9%80%9A%E5%BA%B7
  32. 特集!河野氏と海賊衆 - (公財) 愛媛県埋蔵文化財センター http://www.ehime-maibun.or.jp/kankobutsu_hoka/yudukijo_dayori/yudukijo_dayori5.pdf
  33. 来島通総(くるしま みちふさ) 拙者の履歴書 Vol.264~瀬戸内の海を制した水軍の生涯 - note https://note.com/digitaljokers/n/n87d0952fd5eb
  34. 木津川口の戦い古戦場:大阪府/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kidugawaguchi/
  35. 火矢 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%9F%A2
  36. 村上水軍とは 後編 厳島、織田、李舜臣との最期の戦い - 戦国未満 https://sengokumiman.com/murakamisuigun02.html
  37. 【戦国でSWOT】来島通総-大名になった村上海賊の男|モリアドの森岡 - note https://note.com/moriad/n/nffce432c3bfa
  38. 「順中逆西」航法 https://www6.kaiho.mlit.go.jp/kurushima/info/tab/guide/guide_j/jyunchu.htm
  39. 中国大返し - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E8%BF%94%E3%81%97
  40. 来島城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/shikoku/kurushima/kurushima.html
  41. 毛利家 小早川軍上陸による天正の陣開戦 https://tenshonojin.jimdofree.com/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%99%A3-%E6%88%A6%E8%A8%98/%E9%96%8B%E6%88%A6/
  42. 伊予水軍・最後の当主「河野通直」の死の真相とは?【伊予水軍の終焉に迫る】 - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/kawano-mitinao/
  43. 内憂外患に翻弄された河野通宣、そして謎多き最期を遂げた養子・通直の死の真相は!? https://www.youtube.com/watch?v=DhUsJUVjcfc
  44. 【来島通総】大名になった村上海賊の男 - 戦国SWOT https://sengoku-swot.jp/swot-kurushimammichifusa/
  45. Contents - 尾道市 https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/47870.pdf