佐土原・木崎浜口の戦い(1587)
天正十五年、豊臣秀吉の九州平定において、島津家久は佐土原・木崎浜口で陸海からの圧力を受け無血開城。根白坂の敗北後、家久は謎の急死を遂げ、九州の覇者の終焉と新時代の到来を告げた。
天正十五年、日向の終焉:佐土原・木崎浜口における島津の退勢と降伏
序章:九州の覇者、天下人に屈す
天正15年(1587年)、日向国(現在の宮崎県)の沿岸部で繰り広げられた一連の軍事行動は、日本の歴史における大きな転換点を象徴する出来事であった。本報告書で「佐土原・木崎浜口の戦い」と定義するこの戦役は、単一の合戦を指す固有名詞ではない。それは、九州平定の最終局面において、天下人・豊臣秀吉の圧倒的な軍事力の前に、九州の覇者たる島津氏がその牙を抜かれ、降伏へと追い込まれていく過程そのものを指し示すものである。この戦役を理解するためには、まず、その背景にある二つの巨大な力の衝突を把握せねばならない。
九州統一目前の島津氏
戦役の直前、島津氏はその勢威の絶頂にあった。当主・島津義久の下、次弟で勇猛果敢な戦術家である義弘、知略に長けた三弟・歳久、そして「戦の天才」とまで称された末弟・家久という、稀代の兄弟が結束し、薩摩・大隅・日向のいわゆる「三州統一」を成し遂げていた 1 。その勢いは留まることを知らず、天正6年(1578年)の耳川の戦いでは、九州最大の版図を誇った豊後の大友氏に壊滅的な打撃を与え、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは、肥前の「熊」と恐れられた龍造寺隆信を討ち取り、その勢力圏を事実上吸収した 1 。九州のほぼ全土がその手中に収まろうとしていたこの時期、島津家中には連戦連勝によって培われた強烈な自負と、九州の事は九州の論理で決するという独立の気風が満ち溢れていた。この圧倒的な成功体験こそが、間もなく対峙することになる中央政権の巨大さを見誤らせる、最大の要因となるのである。
豊臣秀吉の天下統一事業と九州戦略
一方、畿内では織田信長の後継者として台頭した羽柴秀吉が、破竹の勢いでその支配領域を広げていた。天正13年(1585年)には四国を平定し、関白・豊臣秀吉として名実ともに天下人の地位を確立する 3 。彼の視線は、もはや国内の統一に留まっていなかった。その構想は、日本を完全に掌握した後、朝鮮半島、さらには明国にまで及ぶ壮大なものであり、九州平定はその野望を実現するための不可欠な第一歩であった 4 。
この秀吉にとって、島津氏の九州における覇権拡大は看過できるものではなかった。天正14年(1586年)、島津の圧迫に耐えかねた大友宗麟が、大坂城の秀吉に拝謁し救援を要請したことは、秀吉に九州介入への絶好の口実を与えることになった 4 。秀吉は、天皇の権威を背景とした「惣無事令(私戦停止命令)」を大友・島津双方に発令する。これは、劣勢の大友にとっては渡りに船であったが、九州の覇者たる自負を持つ島津にとっては、到底受け入れがたい屈辱的な要求であった 5 。島津氏がこれを事実上黙殺したことで、秀吉は「勅命に背いた逆賊」を討伐するという大義名分を完全に手中にしたのである。
この両者の衝突は、単に九州の領有権を巡る争いではなかった。それは、地方の論理と武力によって成立していた戦国時代の秩序が、中央集権化を目指す天下人の新たな秩序によって塗り替えられようとする、歴史の必然であった。島津が惣無事令を受け入れたとしても、秀吉の大陸政策にとって、南九州に強大な独立勢力が存在すること自体が障害であり、いずれ何らかの口実を設けてその力を削ぎに来たことは想像に難くない。
また、この重大な局面において、島津家が一枚岩でなかったことも見逃せない。後に徹底抗戦を叫ぶことになる島津歳久が、当初は「農民から身を興した秀吉は只者ではない」とその実力を正確に評価し、和睦を主張していたという記録がある 1 。しかし、九州での連勝に沸く家中の主だった意見は、歳久の慎重論を一蹴した。この内部における中央政権に対する認識の齟齬は、巨大な圧力がかかった際に、島津氏の意思決定を揺るがす潜在的な要因となっていたのである。
「佐土原・木崎浜口の戦い」の定義
本報告書が主題とする「佐土原・木崎浜口の戦い」とは、この九州平定の最終段階、天正15年4月の「根白坂の戦い」で島津軍主力が壊滅的な打撃を受けた後、豊臣秀長率いる日向方面軍が日向沿岸部を制圧しながら南下し、島津家久が籠る佐土原城を降伏に至らしめるまでの一連の軍事作戦の総称である。これには、佐土原城への直接的な陸路からの圧力に加え、日向灘に面した木崎浜を含む沿岸部からの海上封鎖という、陸海双方からの立体的な圧迫が含まれる。それは、島津氏が日向国における最後の組織的抵抗力を失い、全面降伏へと至る、終焉の序曲であった。
第一部:崩れゆく日向防衛線
天正15年(1587年)春、豊臣秀吉が動員した九州征伐軍の規模は、島津氏の想像を遥かに超えるものであった。それは、戦国時代を通じて九州の武士たちが経験したことのない、圧倒的な物量と兵站に裏打ちされた近代的な軍事行動であった。島津氏が得意とした寡兵で大軍を破る戦術は、この巨大な戦略の前に、その効力を失っていく。
二方面からの侵攻作戦
天正15年3月1日、秀吉は自ら大軍を率いて大坂城を出陣 4 。同月25日に赤間関(現在の下関市)で軍議を開き、九州を挟撃する壮大な作戦を最終決定した 6 。作戦は二手に分かれて進められた。
- 秀吉本隊(西ルート): 秀吉自らが率いる本隊約10万は、小倉に上陸後、筑前、筑後、肥後を経由して島津氏の本拠地である薩摩を目指す 4 。
- 豊臣秀長軍(東ルート): 秀吉の弟である豊臣秀長を総大将とする別働隊は、豊前、豊後から日向国を南下し、薩摩へ侵攻する 4 。
日向方面を担当する秀長軍の陣容は、まさに西日本のオールスターとも言うべきものであった。総大将・秀長の下、軍監として黒田孝高(官兵衛)が付き、毛利輝元、小早川隆景の毛利勢、宇喜多秀家、宮部継潤といった有力大名がその麾下に組み込まれていた 8 。その総兵力は資料によって8万から15万と幅があるが 6 、いずれにせよ、島津氏が日向方面に動員可能であった兵力を遥かに凌駕する大軍であったことは間違いない。
【表1】九州平定における両軍の兵力比較(日向方面)
軍勢 |
総兵力(推定) |
主要指揮官 |
豊臣秀長軍 |
約80,000 - 150,000 |
総大将: 豊臣秀長 軍監: 黒田孝高 主要部隊: 毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家、宮部継潤、藤堂高虎 |
島津軍 |
約35,000 |
総大将格: 島津義久 現地指揮官: 島津義弘、島津家久 高城守将: 山田有信 |
出典:
6
この兵力差は、単なる数の優劣以上の意味を持っていた。秀吉の九州平定は、もはや個々の戦闘における戦術の巧みさを競うものではなかった。20万を超える大軍を長期間にわたって九州の地に展開させ、兵糧や弾薬を途絶えることなく供給し続ける兵站能力、そして二つの大軍を連携させて同時に圧力をかける高度な戦略性こそが、この戦いの本質であった。島津氏は、得意の野戦に持ち込む以前に、この圧倒的な「戦略」の前に防衛線を後退させざるを得なかった。それは、戦国時代の戦いが、個々の武将の武勇や局地的な戦術から、大名の国力そのものを競う総力戦へと変質したことを示す、象徴的な局面であった。
豊後からの撤退戦(天正15年3月)
秀長軍の九州上陸の報が届いた時、島津義弘と家久が率いる部隊は、前年の戸次川の戦いでの勝利の余勢を駆って、大友氏の本拠地である豊後府内城を占拠していた 12 。しかし、背後から迫る秀長軍の巨大さを知るや、彼らは戦略的撤退を決断する。天正15年3月15日、義弘・家久軍は府内城を放棄し、日向国への退却を開始した 8 。
この撤退は困難を極めた。息を吹き返した大友軍が執拗な追撃を仕掛けてきたからである 8 。島津軍は、これまで攻め続けてきた立場から一転して、追われる立場となった。これは、彼らが九州における軍事的主導権を完全に失い、戦略的守勢に立たされたことを明確に意味していた。
都於郡城での軍議と決戦準備(天正15年3月20日)
豊後から撤退した義弘、家久は、日向国の都於郡城(現在の宮崎県西都市)にいる当主・義久と合流した。3月20日、この地に島津兄弟と主要な家臣たちが集結し、今後の防衛方針を定めるための軍議が開かれた 8 。
彼らが立てた作戦は、島津氏の伝統的な戦術思想に則ったものであった。まず、日向国中部の要衝であり、名将・山田有信が守る高城(現在の宮崎県木城町)を最前線の防衛拠点とする。圧倒的な兵力を誇る秀長軍は、必ずやこの高城を包囲するであろう。その時、都於郡城から島津軍の主力を後詰(救援部隊)として出撃させ、包囲にかかる豊臣軍の背後を突く。これこそが、島津氏がこれまで幾度となく大軍を打ち破ってきた、得意の戦法であった 10 。しかし、彼らが対峙している敵は、もはや大友や龍造寺ではなかった。軍監・黒田孝高をはじめとする豊臣軍の首脳部は、島津の戦術を徹底的に研究し、その上で、それを逆手に取るための周到な罠を準備していたのである。島津軍は、自らが描いた決戦の筋書き通りに、破滅へと誘い込まれていくことになる。
第二部:根白坂の激闘 ― 時系列詳解
天正15年4月、日向国高城南方の根白坂(ねじろざか)において、九州の命運を賭けた激戦が繰り広げられた。この戦いは、島津氏の組織的抵抗力を事実上打ち砕き、九州平定を決定づけた戦いとして知られる。利用者様の要望に応じ、この戦いの推移を時間の経過と共にリアルタイムで詳解する。
前哨戦:高城包囲(天正15年4月6日~)
豊後から南下した豊臣秀長軍は、3月末には日向国へと侵入。4月6日、遂に耳川を渡り、島津方の山田有信が約1,300の兵で守る高城を、8万ともいわれる大軍で幾重にも包囲した 6 。しかし、これは単なる力押しの包囲ではなかった。秀長軍の真の狙いは、高城を「餌」として、島津の主力部隊を誘い出すことにあった。
軍監・黒田孝高らは、島津軍が高城救援のために必ずや南から進軍してくること、そしてその進軍経路が、高城の南に位置する根白坂を通過せざるを得ないことを正確に予測していた 11 。彼らはこの根白坂に、宮部継潤、尾藤知定らを中心とする1万の兵を配置。急ごしらえながらも、空堀、土塁、板塀、そして多数の鉄砲陣地を備えた堅固な野戦築城(砦)を構築し、万全の迎撃態勢を整えた 8 。これは、島津軍の救援行動を予測し、逆にその力を殲滅するための、周到に仕掛けられた巨大な罠であった。
島津軍の決断(4月16日~17日未明)
高城が包囲されたとの報は、都於郡城の島津義久のもとに届いた。城兵の士気は高く、山田有信は奮戦していたが、圧倒的な兵力差の前に落城は時間の問題であった。義久、義弘、家久の兄弟は、予定通り高城救援のための主力を出撃させることを決断する。兵力は約3万5千 8 。豊臣軍に数では劣るものの、百戦錬磨の島津精鋭軍団である。彼らは、根白坂に布陣する豊臣軍を突破し、高城を包囲する敵本隊の背後を突くことで、戦局を打開できると信じていた。
4月17日、未明。漆黒の闇の中、島津軍は行動を開始した。先鋒となって根白坂の砦に突撃するのは、島津家久、そして島津義弘の婿養子であり、次代を担う若武者として期待されていた島津忠隣らの部隊であった 8 。
戦闘経過(4月17日 早朝~午後)
- 午前4時頃(夜襲開始): 島津軍の先鋒が、鬨の声を上げて根白坂の砦に殺到する。島津伝統の夜襲である。不意を突かれたかに見えた豊臣軍であったが、その対応は冷静沈着であった。砦を守る宮部継潤の指揮の下、無数の鉄砲が一斉に火を噴き、闇を切り裂いた 10 。島津軍は得意の突撃戦法を、砦の堅固な防御施設と圧倒的な火力によって阻まれ、いきなり足止めを食らう形となった。
- 午前6時頃(膠着状態): 夜が明け始めると、戦いの様相が明らかになる。島津軍は、砦の各所で猛攻を繰り返すが、豊臣軍は巧みな兵の入れ替えと鉄砲隊の連続射撃によって、これをことごとく撃退。島津兵の死傷者は増え続け、戦線は完全に膠着状態に陥った 11 。島津軍は、敵を誘い出して殲滅する「釣り野伏せ」を得意としていたが、この戦いでは逆に、敵が構築した堅固な陣地に誘い込まれ、攻めあぐねるという、全く逆の立場に立たされていた。これは、島津の戦術が敵に完全に見切られていたことを意味しており、単なる一戦闘の苦戦ではなく、島津の軍事的優位性が崩壊した瞬間であった。
- 正午頃(豊臣軍増援到着): 戦いが長引く中、島津軍にとって最悪の事態が発生する。根白坂の砦を後方から支援するため、藤堂高虎、黒田孝高、小早川隆景らが率いる豊臣軍の増援部隊が戦場に到着したのである 10 。これにより、両軍の兵力差は決定的となった。
- 午後2時頃(島津軍の総崩れ): 増援を得た豊臣軍は、満を持して反撃に転じた。砦からも打って出ると同時に、側面からも猛攻を仕掛け、島津軍を包囲殲滅する態勢に入った。この乱戦の中、島津軍の先頭に立って奮戦していた島津忠隣が、敵の集中攻撃を受けて討死を遂げる 1 。次代を嘱望された若き将の死は、島津軍の兵士たちに絶望的な衝撃を与えた。
敗走と離散
忠隣の戦死をきっかけに、島津軍の統制は完全に崩壊した。兵士たちは我先にと逃げ惑い、戦線は一瞬にして瓦解した。島津義久と義弘は、僅かな供回りと共に、命からがら本拠である都於郡城へと敗走した 11 。そして、この戦いの主攻を担っていた島津家久もまた、打ち破られた手勢を必死にまとめ上げ、自らの居城である佐土原城へと退却していった 3 。
この根白坂での完敗により、島津軍の野戦における組織的抵抗は事実上終焉を迎えた。島津忠隣の死という個人的な悲劇は、島津一門に深い傷を残し、特に和平交渉に最後まで抵抗したとされる島津歳久の心に、豊臣への消えぬ怨恨を刻み付けた可能性も指摘されている 1 。日向における戦いの趨勢は、この一日で完全に決してしまったのである。
第三部:佐土原城、最後の抵抗と開城
根白坂での惨敗は、島津氏の日向国防衛計画を根底から覆した。敗走した将兵が向かう先は、それぞれの居城であった。中でも、この方面の軍事的中核を担っていた島津家久が籠る佐土原城は、豊臣軍にとって日向平定を完了させるための最後の標的となった。ここから、佐土原城が開城に至るまでの緊迫した数日間を、城の地理的特徴、包囲軍の圧力、そして水面下の交渉という三つの視点から再構築する。
敗将・家久、佐土原城へ(4月17日夜~)
根白坂の戦場から離脱した島津家久は、残存兵力を率いて居城である佐土原城(現在の宮崎市佐土原町)に帰還した 3 。城内は、主力の壊滅という衝撃的な報に大きく動揺していた。龍造寺隆信や長宗我部信親といった名だたる大名の将を討ち取ってきた常勝の将軍、家久の敗北は、城兵にとって信じがたい事実であった 15 。家久は直ちに城内の混乱を収拾し、籠城に備えて防衛体制の再構築を急いだ。
当時の佐土原城は、一ツ瀬川と三財川が形成した湿地帯に臨む標高約75mの丘陵(鶴松山)に築かれた、堅固な山城であった 16 。山頂に本丸を置き、二の丸、三の丸を地形に沿って巧みに配置し、各曲輪は堀切や土塁で厳重に防御されていた 18 。麓には城下町が広がり、政治・経済の中心地としても機能しており、まさに日向国における島津氏支配の最重要拠点の一つであった 20 。家久はこの天然の要害に拠り、最後の抵抗を試みようとしたのである。
迫りくる豊臣の大軍(4月下旬)
根白坂で決定的勝利を収めた豊臣秀長軍の行動は迅速であった。まず、抵抗の意思を失った高城を降伏させると、その勢いのまま日向国を南下。その一部隊が佐土原城へと差し向けられ、城を遠巻きに包囲する陣を敷き始めた。
この時、豊臣軍が用いたのは陸路からの包囲だけではなかった。佐土原城は日向灘から数キロメートルの距離にあり、その沿岸部には広大な砂浜、すなわち木崎浜が広がっている。秀吉が動員した軍勢には、九鬼嘉隆らに率いられた強力な水軍も含まれていた。彼らは日向灘の制海権を掌握し、木崎浜を含む沿岸部を完全に封鎖したと考えられる。これにより、佐土原城は海からの補給や援軍、あるいは万一の場合の脱出路といった、海に面した城が持つ戦略的利点をすべて奪われた。陸からの大軍による包囲と、海からの完全な封鎖。この陸海双方からの立体的な圧迫こそが、佐土原城を「袋の鼠」とし、家久の戦意を削いでいった決定的な要因であった。利用者様のクエリにある「木崎浜口の戦い」という呼称は、この海からの圧力を象徴する言葉として、極めて重要な意味を持つ。それは、伝統的な陸上戦闘に長けた島津氏が、近代的な兵站と水軍を駆使する豊臣軍の総合的な軍事力の前に屈したことを示している。
降伏交渉と開城(5月初旬)
佐土原城が孤立を深める一方、島津宗家では既に降伏への道筋がつけられつつあった。当主・島津義久は、根白坂の敗戦からわずか4日後の4月21日には人質を差し出し、豊臣秀長との和睦交渉を開始していたのである 8 。さらに、秀吉本隊は肥後を南下し、4月末には薩摩国境にまで迫っていた 5 。もはや島津氏全体の降伏は避けられない情勢であった。
このような状況下で、佐土原城においても水面下の交渉が開始された。豊臣方からは、後に築城の名手として名を馳せる藤堂高虎らが交渉役として派遣されたと伝わる 21 。高虎は、家久の類稀なる武勇を高く評価しており、これ以上の無益な抵抗によってその才能を失うことを惜しみ、名誉を保った形での降伏を粘り強く説得したという。
島津家久は、絶望的な状況の中で苦渋の決断を迫られた。第一に、宗家が既に和睦へと大きく傾いている以上、一城で抵抗を続けても「逆賊」となるだけで、島津家の存続そのものを危うくする。第二に、籠城を続ければ、城兵を無駄死にさせることになる。第三に、豊臣方は家久個人の武人としての名誉を尊重する姿勢を見せている。家久は、島津最強の猛将であると同時に、大局を見据えることができる現実主義者でもあった。彼は、これ以上の抵抗は無意味であると判断し、開城を決意した 17 。
正確な日付は史料に残されていないが、天正15年5月初旬、佐土原城は戦闘を交えることなく静かに城門を開いた。これにより、日向国における島津氏の組織的抵抗は完全に終結し、豊臣秀吉による九州平定は事実上の完成を見たのである。
第四部:終戦と謎
佐土原城の無血開城は、九州全土を巻き込んだ大戦役の終わりを告げる象徴的な出来事であった。これにより、九州の覇権を巡る争いは終結し、新たな支配秩序が構築されることになる。しかし、その平和の到来の直後、この戦役で最も鮮烈な輝きを放った一人の武将が、謎に包まれた最期を遂げる。
島津宗家の全面降伏(天正15年5月8日)
日向方面の抵抗が終息する中、豊臣秀吉の本隊は薩摩国へと進軍し、5月3日には川内(現在の薩摩川内市)の泰平寺に本陣を構えた 8 。もはや抗戦の術を持たない島津氏にとって、残された道は全面降伏のみであった。
5月8日、島津家当主・島津義久は、家臣の伊集院忠棟を伴い、泰平寺の秀吉の陣所へ赴いた。義久は、武士の身分を捨てる覚悟を示すため、自ら髪を剃り落として僧形となり、「龍伯」と号した 1 。秀吉との謁見の場で、義久は深々と頭を下げ、これまでの非礼を詫び、正式に降伏の意を伝えた。
この時、秀吉は島津氏に対して、予想外に寛大な処分を下した。一族の完全な取り潰しや大幅な減封ではなく、義久には本領である薩摩一国を、そして弟の義弘には大隅国と日向国の一部(諸県郡)を安堵したのである 14 。これは、島津氏が鎌倉時代以来の名族であることを尊重したという側面もあるが 5 、それ以上に、南九州の複雑な情勢を円滑に統治するためには、在地で強い影響力を持つ島津氏の力を利用する方が得策であるという、秀吉の高度な政治的判断があったからに他ならない。
名将の急逝(天正15年5月)
九州全土に和平が訪れた矢先、佐土原城で衝撃的な事件が起こる。豊臣秀長に降伏し、本領安堵の約束を得ていたはずの島津家久が、城内で急死したのである 21 。天正15年5月、享年41。あまりにも若く、そしてあまりにも唐突な最期であった。
公式な記録では病死とされているが、その死のタイミングがあまりに不自然であったため、当時から毒殺説が根強く囁かれていた 17 。毒殺説が信憑性をもって語られる背景には、いくつかの理由がある。第一に、家久の戦歴である。彼は沖田畷で龍造寺隆信を、戸次川では長宗我部元親の嫡男・信親と十河存保を討ち取っており、豊臣方、特に四国勢にとっては不倶戴天の仇であった 3 。第二に、その圧倒的な軍事的才能である。家久の存在は、たとえ島津氏が降伏した後でも、秀吉にとって潜在的な脅威であり続けた。将来の禍根を断つために、この機会に排除しようと考えたとしても不思議ではない。一部では、降伏交渉の相手であった豊臣秀長が毒殺を命じたという説まである 25 。
この家久の死が、もし暗殺であったとするならば、それは秀吉の九州統治における冷徹な「アメとムチ」の政策を象徴している。当主である義久は所領を安堵して懐柔する(アメ)。一方で、島津氏の軍事力を象徴し、最も危険な存在であった家久は密かに排除する(ムチ)。これにより、島津氏から軍事的な牙を抜き、豊臣政権への反抗心を根絶やしにすることができる。家久の死後、その嫡男である島津豊久に佐土原の所領が問題なく安堵されたことは 3 、島津家臣団の過度な反発を抑え、あくまで家久個人の不幸な病死としてこの一件を処理するための、巧妙な政治的配慮であった可能性も考えられる。この名将の謎に満ちた死は、戦国時代の終焉が、単なる軍事力の優劣だけでなく、非情なまでの政治的計算によってもたらされたことを、静かに物語っている。
戦後の日向国
島津氏の降伏後、秀吉は「九州国分(くにわけ)」と呼ばれる大規模な領地再編を行った。これにより、島津氏が支配していた日向国は細分化され、新たな支配体制が構築された。かつて島津氏に日向を追われた伊東祐兵は、旧領である飫肥に3万石で復帰。同じく島津に降っていた秋月種実は、日向国内の財部(高鍋)に移封された 8 。そして、家久が命と引き換えに守った佐土原は、その子・豊久の所領として認められた 27 。これにより、日向国における島津氏の圧倒的な支配は終わりを告げ、豊臣政権の直接的な管理下に置かれる諸大名が割拠する地へと変貌を遂げたのである。
結論:九州平定における佐土原開城の歴史的意義
天正15年(1587年)春に日向国で繰り広げられた一連の戦役、すなわち「佐土原・木崎浜口の戦い」は、単なる一地方の合戦に留まらない、日本の歴史全体における重要な意義を持つ出来事であった。
第一に、 島津氏の軍事的限界の露呈 である。耳川や沖田畷での輝かしい勝利によって「九州最強」と謳われた島津軍団も、豊臣秀吉が動員した国家規模の圧倒的な物量、高度な兵站能力、そして陸海からの立体的な戦略の前には、その伝統的な戦術が無力であることを証明された。特に根白坂の戦いでの完敗は、島津の軍事的優位性が完全に過去のものとなったことを象徴するものであった。
第二に、 日向方面戦線の終結と九州平定の決定 である。島津家久の降伏と佐土原城の無血開城は、日向国における島津氏の組織的抵抗に終止符を打った。これにより、秀吉本隊が薩摩本国に侵攻するまでもなく、九州平定の大勢は事実上決した。佐土原の開城は、九州全土が豊臣政権の支配下に組み込まれることを決定づける、最後の重要な一歩であった。
第三に、 全国統一の完成と新たな時代の到来 である。島津氏の降伏をもって、秀吉の天下統一事業は、関東の北条氏、東北の諸大名を残すのみとなり、事実上の完成を見た。これにより、日本は100年以上にわたる長き戦乱の時代を終え、中央集権的な統一国家へと大きく舵を切ることになった。地方の武力と論理が支配した「戦国」という時代は終わりを告げ、天下人の秩序が全国を覆う新たな時代が始まったのである。
その時代の大きな転換点において、島津家久という一人の稀代の武将が、その軍事的才能を最も恐れられ、そして謎に満ちた最期を遂げたことは、決して偶然ではない。彼の死は、古い時代が終わり、新たな時代の非情な論理が始まったことを、何よりも雄弁に物語っている。佐土原・木崎浜口での一連の出来事は、九州の覇者の終焉であると同時に、日本の歴史が新たな段階へと移行したことを示す、重大な画期であったと言えるだろう。
【表2】根白坂の戦いから佐土原城開城までの時系列表
日付(天正15年/1587年) |
出来事 |
豊臣軍の動向 |
島津軍の動向 |
3月1日 |
秀吉、大坂出陣 |
秀吉本隊、九州へ向けて進発。 |
- |
3月15日 |
島津軍、豊後撤退 |
秀長軍の接近を受け、府内城を放棄。 |
義弘・家久軍、大友軍の追撃を受けながら日向へ撤退開始 8 。 |
3月20日 |
都於郡城軍議 |
秀長軍、豊後国内を制圧しつつ南下。 |
義久・義弘・家久が都於郡城に集結。高城を拠点とした迎撃作戦を決定 8 。 |
4月6日 |
高城包囲戦開始 |
秀長軍(約8万)、高城を包囲。同時に根白坂に砦を構築 8 。 |
高城守将・山田有信、籠城戦を開始。 |
4月17日 |
根白坂の戦い |
宮部継潤らが守る砦で島津軍を迎撃。増援を送り込み、島津軍を壊滅させる 11 。 |
義久・義弘・家久(約3万5千)、高城救援のため根白坂を攻撃するも大敗。島津忠隣が戦死 8 。 |
4月17日夜~ |
島津軍敗走 |
勝利に乗じて高城を降伏させ、日向沿岸部を南下。佐土原城へ圧力をかける。 |
義久・義弘は都於郡城へ、家久は佐土原城へそれぞれ敗走 3 。 |
4月19日 |
秀吉本隊、肥後八代入り |
秀吉本隊、肥後国を南下し、八代に到着 8 。 |
- |
4月21日 |
島津義久、和睦交渉開始 |
秀吉本隊、八代城に入城。 |
義久、秀長に人質を送り、和睦を打診 8 。 |
5月初旬(日付不詳) |
佐土原城開城 |
藤堂高虎らが家久と交渉。陸海から佐土原城を包囲し、圧力を強める。 |
家久、宗家の降伏と城兵の助命を条件に、無血開城を決断 17 。 |
5月3日 |
秀吉本隊、薩摩川内入り |
秀吉本隊、薩摩国川内の泰平寺に本陣を設置 8 。 |
- |
5月8日 |
島津義久、正式降伏 |
秀吉、泰平寺にて義久を引見。降伏を正式に受諾し、所領を安堵する 1 。 |
義久、剃髪して「龍伯」と号し、秀吉に謁見。全面降伏する。 |
5月某日 |
島津家久、急死 |
- |
佐土原城内で急死(享年41)。病死とされるが、毒殺説も根強い 25 。 |
引用文献
- 特集/金吾さあ ・島津歳久(2) 秀吉の九州征伐 ~ 自害まで https://washimo-web.jp/KingoSa/Profile/toshihisa02.htm
- 島津義久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
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