最終更新日 2025-09-02

児島湾口の海戦(1573~92)

備前児島湾では、宇喜多氏と毛利氏、海賊衆が二十年にわたり覇権を争った。直家は海賊を討伐し、秀家は水軍を確立。最終的に豊臣秀吉の海賊停止令により、この地の戦乱は終焉を迎えた。

備前児島湾 海上制覇全史:宇喜多氏、毛利氏、海賊衆が織りなす二十年の興亡(1573-1592)

序章:混沌の海、吉備の穴海

戦国時代の日本列島において、瀬戸内海は経済と軍事を繋ぐ大動脈であった。その中でも、備前国(現在の岡山県南東部)に広がる児島湾、古くは「吉備の穴海」と呼ばれた内海は、特異な地理的条件から、秩序と混沌がせめぎ合う独自の歴史を刻んできた。本報告書は、天正年間(1573年)から文禄年間(1592年)に至る約二十年間にわたり、この海域の支配権を巡って繰り広げられた宇喜多氏と在地海上勢力、そして西国の大大名毛利氏との間の熾烈な抗争の全貌を、時系列に沿って解き明かすものである。

児島湾の地理的特性と海賊衆の実態

児島湾の南、備讃瀬戸に連なる海域は、無数の島々が点在し、複雑な海岸線が入り組む地形を成している 1 。この地形は、身を隠し、奇襲をかけるには絶好の環境であり、古来より海上を生活の場とする者たち、すなわち「海賊」の格好の根城となってきた 1 。特に、児島郡の日比(ひび)と邑久郡(おくぐん)の犬島は、彼らの主要な集結地として知られ、乱世に乗じてその活動はますます活発化した 1

しかし、彼らを単なる略奪者と断じるのは早計である。当時の記録は、彼らが「日比関」「犬島関」と称される海の関所を設け、航行する船舶から金銀米銭を徴収していた事実を伝えている 1 。これは、彼らが一定のルールに基づき、航行の安全を保障する見返りとして通行料を得る、海の領主としての一面を持っていたことを示唆する。村上水軍に代表される、掟に基づき瀬戸内海の交易・流通の秩序を支えた広域海上勢力とは規模こそ異なるものの、その本質には共通点が見られる 2

一方で、その刃は容赦なく往来の船に向けられた。ある時には、周防の国司であった戸板某が犬島に停泊中に襲われ、財宝と共に命を奪われた 1 。また、芸州の穂田備中守も同様に海賊の凶刃に倒れている 1 。このように、児島湾の海賊衆は、航路の管理者と無慈悲な略奪者という二つの顔を併せ持つ、予測不能で危険な存在であった。戦国大名にとっての課題は、単に彼らを討伐することに留まらず、この海の秩序そのものをいかに自らの支配下に組み込むかという、より高度な統治の問題だったのである。

宇喜多氏と海の黎明:乙子城の攻防

この混沌の海に、新たな秩序を打ち立てようと試みたのが、備前の戦国大名・宇喜多氏であった。その萌芽は、宇喜多直家の若き日に遡る。天文13年(1544年)頃、元服を終えたばかりの宇喜多直家(当時16、17歳)は、主君である浦上宗景から邑久郡乙子村(おとごむら)に所領を与えられた 1 。この地は、吉井川の河口に突出し、児島湾を見渡す戦略的要衝であったが、同時に敵対勢力や海賊の脅威に常に晒される最前線でもあった 4

当時、犬島を拠点とする海賊衆は、海上での活動に飽き足らず、頻繁に陸へと上がり、民家を襲撃し乱暴を働いていた 1 。浦上宗景はこれを防ぐため乙子に砦を築こうとしたが、敵地に近く、味方からの支援が難しいことから、誰もが守将になることをためらった。その時、進み出たのが若き直家であった。「私はまだ若輩ですが、この地は私の所領。幸いにも都合が良い。この城を私に守らせてください」と志願したのである 1

宗景はこれを許可し、足軽30人を付けて直家に乙子城を守らせた。直家はこの小さな城を拠点に、陸に上がってくる海賊衆をことごとく撃退した。この戦い方は、後の宇喜多氏の対海上戦略の原点を物語っている。当時の宇喜多氏は、海賊衆と洋上で渡り合える本格的な水軍を保有していなかった。それゆえ直家は、海を主戦場とする敵を、自らが圧倒的優位に立つ陸上へと引きずり込み、これを叩くという非対称な戦術を選択した。それは、彼の謀将としての才覚を示すと同時に、当時の宇喜多氏が抱える海軍力の限界を浮き彫りにするものであった。この乙子城での成功が、宇喜多氏による児島湾支配への長く険しい道のりの第一歩となったのである 1


表1:児島湾口の攻防 年表(1573-1592)

西暦 (和暦)

主な出来事

場所

関連勢力

主要人物

備考

c.1544 (天文13)

宇喜多直家、乙子城を拠点に海賊を討伐

備前・乙子城

宇喜多氏、犬島海賊衆

宇喜多直家

抗争の原点

1575 (天正3)

常山合戦。毛利・宇喜多連合軍が常山城を攻略

備中・常山城

毛利氏、宇喜多氏、三村氏

上野隆徳、鶴姫、小早川隆景、宇喜多直家

備中兵乱の一部

1579 (天正7)

宇喜多直家、毛利氏を離反し織田氏に与する

-

宇喜多氏、毛利氏、織田氏

宇喜多直家、羽柴秀吉

児島湾が最前線となる

1582 (天正10)

八浜合戦 。毛利軍と宇喜多軍が激突

備前・八浜

毛利氏、宇喜多氏

穂井田元清、宇喜多基家

宇喜多基家が戦死

c.1583-

宇喜多秀家、下津井城を水軍拠点として整備

備前・下津井城

宇喜多氏

宇喜多秀家

宇喜多水軍の本格編成

1588 (天正16)

豊臣秀吉、「海賊停止令」を発布

-

豊臣政権、全国の海賊衆

豊臣秀吉

独立勢力としての海賊の終焉

1592 (文禄元)

文禄の役。宇喜多秀家が総大将として渡海

-

豊臣政権(宇喜多軍)

宇喜多秀家

宇喜多水軍が国家事業に動員される


第一章:嵐の予兆 ― 毛利・宇喜多同盟と備中兵乱(1573-1578)

天正年間に入ると、児島湾を巡る情勢は、備前一国に留まらない、より大きな政治的・軍事的文脈の中に組み込まれていく。中国地方の覇者・毛利氏の巨大な影響力の下、宇喜多氏はその一翼を担う同盟者として行動していた。この時期の児島半島は、後の激戦地としての様相とは異なり、毛利氏の勢力圏の安定した一部と見なされていた。

当時の毛利氏は、毛利元就の巧みな政略によって小早川氏を事実上吸収し、その強力な水軍(沼田警固衆)を傘下に収めていた 5 。さらに、芸予諸島に一大勢力を築いていた村上水軍(能島・因島・来島)をもその影響下に置き、瀬戸内海の制海権をほぼ完全に掌握するに至っていた 6 。宇喜多直家は、この西国の巨人の前では、あくまで一地方領主に過ぎず、その戦略に従うことで自家の安泰を図っていた。

この平穏を破ったのが、天正2年(1574年)に勃発した「備中兵乱」である。備中松山城主・三村元親が、父・家親を宇喜多直家に暗殺されたことを恨み、毛利氏と宇喜多氏の同盟に反発。当時、急速に西へ勢力を伸ばしていた織田信長と結び、毛利氏からの離反を表明したのである 7 。これにより、備中・備後地方は一大戦乱の渦に巻き込まれた。

毛利氏は、当主・毛利輝元と、彼を補佐する両川(吉川元春・小早川隆景)を中核とした大軍を派遣。同盟者である宇喜多直家もこれに加わり、三村氏の諸城を次々と攻略していった。そして天正3年(1575年)、三村氏の最後の拠点として毛利・宇喜多連合軍の前に立ちはだかったのが、児島半島に位置する常山城であった 9

城主は三村氏の一族、上野隆徳。城兵はわずか数百名に過ぎなかったが、毛利の大軍を相手に決死の籠城戦を展開した。同年6月7日、毛利軍の猛攻により、ついに本丸直下の二の丸までが敵の手に落ち、落城は時間の問題となった。その時、城主・上野隆徳の妻であった鶴姫が、甲冑に身を固め、長刀を手に取り、城内の侍女たちに檄を飛ばした。「武家の女として、敵に捕らわれ恥辱を受けるより、討ち死にしてこそ本懐である」と。その気迫に呼応し、34名の侍女たちが次々と武器を手に取り、鶴姫と共に城門から打って出た。女たちの決死の突撃は、猛攻を続けていた毛利勢の度肝を抜いたが、衆寡敵せず、彼女たちは次々と討ち取られていった。鶴姫は本丸へと戻り、城主・隆徳ら一族と共に自刃して果てたという 8

この壮絶な戦いの後、常山城は陥落。戦後処理において、毛利氏は同盟の功労者である宇喜多直家にこの常山城を与え、直家は重臣の戸川秀安を城主として入城させた 10 。この時点での毛利氏の判断は、極めて合理的であった。東方から迫る織田勢力に対する防波堤として、宇喜多氏の忠誠と武勇を評価し、その最前線となる児島半島の守りを委ねたのである。しかし、この戦略的判断こそが、数年後、毛利氏自身の喉元に刃を突きつける結果を招く伏線となる。児島半島の要衝の支配権が宇喜多氏の手に渡ったこの瞬間、未来の対立の火種は、静かに燻り始めていた。

第二章:亀裂 ― 宇喜多直家、織田への寝返り(1579-1881)

常山城の攻防から数年、中国地方の政治地図は、中央から押し寄せる巨大な波によって、根底から塗り替えられようとしていた。織田信長が天下統一事業を本格化させ、その矛先を西国、すなわち毛利氏の勢力圏へと向けたのである。総大将に任じられた羽柴秀吉率いる織田の中国方面軍は、播磨を平定し、毛利領との国境線に迫っていた 11

当初、毛利氏はその強大な海軍力を背景に、織田方と互角以上に渡り合っていた。天正4年(1576年)、毛利氏は信長に敵対する石山本願寺を支援するため、村上水軍を中心とする大船団を大坂湾へ派遣。織田方の九鬼水軍と激突した(第一次木津川口の戦い)。この海戦で村上水軍は、焙烙火矢(ほうろくひや)と呼ばれる手榴弾のような兵器を駆使して九鬼水軍の軍船を次々と炎上させ、圧勝を収めた 12 。この勝利により、毛利氏は石山本願寺への兵糧搬入に成功し、瀬戸内海における制海権の優位を改めて天下に示した。

しかし、この海での勝利とは裏腹に、陸での戦況は毛利氏にとって決して楽観できるものではなかった。羽柴秀吉の巧みな調略と圧倒的な物量の前に、毛利方の国人領主たちは次々と切り崩されていく。この状況を、毛利氏の同盟者として最前線で織田軍と対峙していた宇喜多直家は、冷静に見極めていた。彼は、毛利氏の旧態依然とした統治体制と、信長の革新的な軍事・経済政策を比較し、将来の覇権がどちらにあるかを正確に判断した。そして天正7年(1579年)、直家は生存を賭けた大博打に出る。長年の同盟関係にあった毛利氏を裏切り、織田信長に与することを決断したのである 10

この寝返りは、毛利氏にとって戦略的な大打撃であった。備前国が織田方となったことで、毛利領の東端と、播磨・摂津の織田勢力圏との間が分断され、補給線に深刻な脅威が生じた 11 。そして何よりも、児島湾の持つ戦略的意味合いが、この瞬間、根本的に変容した。

直家の離反以前、宇喜多氏にとって児島湾の海賊衆は、領内の治安を脅かす「統治・討伐」の対象であった。しかし、離反によって備前が毛利氏との最前線となった今、彼らは単なる無法者ではなく、毛利方につくか宇喜多方につくかの選択を迫られる政治的存在となった。毛利氏の強大な海軍力、特に村上水軍の影響下にある児島湾の海賊衆は、その多くが毛利方として宇喜多領を脅かす「敵軍の一部」と化した。児島湾口の抗争は、一領主と在地海賊との局地的な戦いから、毛利氏が握る瀬戸内の制海権と、それに挑戦する宇喜多氏の陸上権力が激突する、二大勢力の「代理戦争」の様相を呈し始めたのである。かつて宇喜多氏に与えられた常山城は、今や毛利軍を迎え撃つための最前線基地へとその役割を変え、児島湾はにわかに軍事的な緊張のるつぼと化した。

第三章:炎上する児島 ― 八浜合戦の激闘(1582)

宇喜多直家の離反は、児島湾を挟んだ両勢力の睨み合いという新たな局面を生み出したが、戦況を大きく動かす決定的な出来事が起こる。天正9年(1581年)、梟雄・宇喜多直家が岡山城にて病没。家督は、まだ10歳にも満たない嫡男・秀家が継ぐことになった 14 。幼主の登場は、宇喜多家中に動揺をもたらし、これを好機と見た毛利氏は、一気に備前を制圧すべく大軍を動かした。

天正10年(1582年)2月、毛利氏は輝元の叔父である穂井田元清を総大将とし、児島郡への大々的な侵攻を開始した。彼らはまず、かつて三村氏の拠点であった常山城に進軍し、ここを橋頭堡として宇喜多領への圧力を強めた 15 。この毛利軍の侵攻に対し、宇喜多家中は直家の弟(秀家の叔父)である宇喜多基家を大将として派遣。基家は、児島湾南岸の八浜城に布陣し、毛利軍の東進を阻むべく防衛体制を固めた 8 。両軍は麦飯山を挟んで対峙し、一触即発の睨み合いが続いた。

運命の日、天正10年2月21日の夜が明けた。戦いの火蓋は、些細な出来事から切られた。

早朝: 宇喜多勢が、麦飯山の麓へ馬草を刈るために数名の兵を送り出した。これを察知した毛利勢は、数人の兵を出してこの foraging party を追い払おうと襲いかかった 15

午前: この小競り合いは、瞬く間に両軍の主力を巻き込む大合戦へと発展した。宇喜多方から加勢が送られれば、毛利方もすぐさま増援を繰り出す。次々と兵力が投入され、戦線は拡大。ついに、玉野市八浜町大崎の柳畑の浜辺で、両軍の主力が正面から激突する全面戦争となった 15 。潮の香りと鉄の匂いが入り混じる中、怒号と刃鳴りが浜辺に響き渡った。

戦闘のクライマックス: 激しい乱戦の最中、宇喜多軍を悲劇が襲う。軍を率いていた総大将・宇喜多基家が、毛利勢の猛攻の前に、奮戦虚しく討ち死にしたのである 15 。大将を失った宇喜多軍の士気は一気に崩壊。統制を失った兵たちは、我先にと敗走を始めた。

宇喜多軍の撤退戦: 宇喜多軍の全面崩壊は目前であった。しかし、この絶体絶命の窮地を救ったのが、「八浜七本槍」と後世に称えられる七人の猛将たちであった。岸本惣次郎、国富貞次、宍甘太郎兵衛といった武将たちが、殿(しんがり)となって鬼神の如く奮戦し、追撃してくる毛利軍の足を見事に食い止めた 15 。彼らの命を賭した働きにより、宇喜多軍の残存兵力はかろうじて八浜城へと撤退することに成功した。

この八浜合戦は、毛利方にとっては敵の総大将を討ち取るという戦術的な大勝利であった。しかし、宇喜多方の予想以上に頑強な抵抗に遭い、それ以上の進軍、すなわち岡山城への直接攻撃は断念せざるを得なかった 15 。一方、宇喜多方は総大将を失うという手痛い敗北を喫したが、領国の中枢部を防衛するという戦略目標は辛うじて達成した。彼らは八浜城に籠城し、羽柴秀吉の援軍が到着するのを待つことになる。

この八浜での流血がもたらしたものは、陸上における戦略的な膠着状態であった。毛利氏は、陸路で児島半島を突破し、岡山城を攻略することがいかに困難であるかを悟った。宇喜多氏は、野戦において毛利の主力部隊を撃破する力がないことを痛感した。この陸での手詰まり感こそが、戦いの主戦場を陸から海へと移す決定的な転換点となった。毛利にとって、海上から岡山城の喉元である旭川河口を突くことが次善の策となり、宇喜多にとっては、その海上からの攻撃を防ぎ、四国などからの支援を受け入れるルートを確保することが、まさに死活問題となったのである。八浜の浜辺に流れた血は、児島湾の制海権の価値を飛躍的に高め、次なる海戦の号砲となった。

第四章:新時代の潮流 ― 秀家の台頭と宇喜多水軍の確立(1583-1887)

八浜合戦で辛うじて毛利軍の猛攻を凌いだ宇喜多氏であったが、その運命は、備前一国の戦況ではなく、天下の情勢によって大きく左右されることとなる。天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が横死。備中高松城で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉は、世に名高い「中国大返し」を敢行し、京で明智光秀を討ち、信長の後継者としての地位を確立した。

この政変は、宇喜多氏にとって最大の幸運であった。秀吉は、亡き直家が信長に忠誠を尽くしたことを高く評価し、その遺児である秀家を厚く庇護した。秀家は秀吉の養女である豪姫(前田利家の娘)を娶り、豊臣姓を名乗ることを許されるなど、事実上、豊臣一門に準じる破格の待遇を受けた 14 。この強力な後ろ盾を得たことで、幼き当主を戴く宇喜多家の立場は盤石なものとなった。

秀吉と毛利氏との間に和睦が成立し、「中国国分」と呼ばれる領土協定が結ばれると、児島郡は正式に宇喜多領と定められた 18 。これにより、八浜合戦以来続いていた軍事的な緊張は一時的に緩和され、児島湾に束の間の平穏が訪れた。

この安定期に、宇喜多秀家は父・直家が成し得なかった本格的な水軍の組織化に着手する。単に陸から海賊を迎撃するのではなく、海を積極的に支配するための恒久的な軍事力の構築である。その中核拠点として白羽の矢が立てられたのが、児島半島の南端に位置し、備讃瀬戸の海上交通を一望できる要衝・下津井であった。秀家はここに城を築くか、あるいは既存の砦を大規模に改修し、宇喜多水軍の司令部とした 19 。城主には家臣の浮田家久が任じられ、瀬戸内海の制海権確保という重責を担った 22

宇喜多水軍が単なる在地勢力の寄せ集めではなく、組織化された公的な軍事力として機能し始めていたことは、秀吉の四国征伐や九州征伐における動向からも窺える。これらの戦役において、宇喜多水軍は豊臣軍の一部隊として動員されており、ある史料では、堺の商人でありながら秀吉に仕えた小西行長が、宇喜多水軍の指揮官として下津井に配属されたとの記述も見られる 23 。これは、かつて直家が陸から迎撃していた日比・犬島の海賊衆が、秀家の代には宇喜多氏の統制下に組み込まれ、編成された軍事力へと変貌を遂げていたことを示している。

この変化の背後には、宇喜多氏の置かれた立場の根本的な変質があった。直家時代の海賊対策は、あくまで宇喜多家の領国経営という「私的(パーソナル)」な目的のための軍事行動であった。しかし、秀家が豊臣政権の重鎮、五大老の一人となると、宇喜多水軍の役割は大きく変わる。彼らはもはや宇喜多家のためだけに戦うのではなく、豊臣政権による天下統一事業の一翼を担う「公的(パブリック)」な軍事力としての性格を帯びるようになった。児島湾の海賊衆は、宇喜多氏という一地方領主に支配されるだけでなく、天下人の軍隊に組み込まれるという、より大きな時代の構造変化に巻き込まれていったのである。

第五章:天下人の裁定 ― 海賊停止令と抗争の終焉(1588-1592)

宇喜多秀家による水軍の組織化が進む中、児島湾の長きにわたる騒乱は、一つの決定的な海戦によってではなく、天下統一を成し遂げた最高権力者の政治的裁定によって、その幕を閉じることとなる。これは、戦国という時代の終わりを象徴する出来事であった。

天正16年(1588年)、関白豊臣秀吉は、全国の大名および海上勢力に対し、世に言う「海賊停止令」(または海賊禁止令)を発布した 25 。この法令は、大名の許可なく海上に関所を設けて通行料(帆別銭、警固料)を徴収することや、船舶を襲撃し略奪する行為など、あらゆる私的な海上武力活動を厳禁するものであった。

この法令が発布された目的は、多岐にわたる。第一に、全国の海上交通路の安全を確保し、物流を活性化させ、それを中央政権が一元的に管理すること。第二に、大名や中央政権の統制を受けない独立した軍事力、すなわち海賊衆を解体し、彼らが一揆などの反乱勢力と結びつくことを未然に防ぐこと 27 。そして第三に、大名、大名の家臣、百姓といった明確な身分制度の中に全ての民を組み込み、戦国的な流動性の高い社会から、近世的な固定化された社会へと移行させることにあった。

この天下人の絶対的な命令は、瀬戸内海に生きる者たちに絶大な影響を与えた。児島湾の日比・犬島を拠点とした海賊衆はもちろんのこと、かつて瀬戸内海に覇を唱えた村上水軍のような巨大勢力でさえ、その例外ではなかった 26 。彼らは、独立した海の領主としての活動基盤を完全に失い、大名の家臣団に組み込まれて武士として生きるか、あるいは武器を捨てて漁民や船乗り、百姓として生きるかの二者択一を迫られた 27 。これにより、平安の昔から瀬戸内海を闊歩してきた独立勢力としての「海賊」は、歴史の表舞台からその姿を消すことになった。

この海賊停止令により、宇喜多氏と児島湾の在地海賊衆との間で、直家の時代から断続的に続いてきた約半世紀にわたる抗争は、武力によってではなく、法によって最終的な終止符が打たれた。児島湾の治安は、もはや宇喜多氏という一個大名の力によって維持されるのではなく、豊臣政権という国家権力によって保障される体制へと移行したのである。

この20年間の抗争の結末は、極めて示唆に富んでいる。宇喜多氏も、そして毛利氏でさえも、児島湾の支配権を武力のみで完全に確立することはできなかった。最終的にこの海に恒久的な秩序をもたらしたのは、両者より上位の権力者である豊臣秀吉の「法」であった。これは、戦国時代の「力こそが正義」という価値観が終焉を迎え、中央集権的な法治国家へと日本社会が大きく移行していく時代の転換点を象徴している。児島湾口の戦いの歴史は、一地域の覇権争いの物語であると同時に、日本の歴史が「戦国」から「近世」へと、その重い扉を開ける瞬間の縮図でもあったのだ。

完全に宇喜多氏の統制下に入った児島湾の海上戦力は、その後、豊臣政権の国家事業に動員されることになる。天正20年(1592年)に始まった文禄の役において、宇喜多秀家は日本軍の総大将として朝鮮半島へ渡海するが、その一万の大軍を海のかなたへ輸送する上で、この掌握した水軍が大きな役割を果たしたことは想像に難くない 29

終章:静かなる湾

備前児島湾を舞台に繰り広げられた約二十年間の抗争は、一地域の支配権を巡る単なる武力闘争に留まらず、日本の歴史が大きく転換する時代のダイナミズムを内包した、重層的な物語であった。

その発端は、若き宇喜多直家が乙子城を拠点に、陸に上がった海賊を撃退した局地的な治安対策であった。それは、海軍力を持たない新興勢力が、知略を駆使して海の民に挑んだ非対称の戦いであった。やがて宇喜多氏が毛利氏から離反し、織田氏に与すると、児島湾は二大勢力が激突する国家間戦争の最前線へと変貌した。八浜合戦の激闘は、その緊張が頂点に達した瞬間であり、陸における膠着状態が、海上支配の重要性を決定的に浮かび上がらせた。

父の死後、豊臣秀吉の後見を得て大大名へと成長した宇喜多秀家の時代、宇喜多水軍は下津井城を拠点とする公的な軍事力へと昇華された。それは、宇喜多氏がもはや一地方領主ではなく、天下人の政権を構成する一翼を担う存在となったことの証であった。そして、この長く続いた混沌に終止符を打ったのは、一発の砲声でも一振りの太刀でもなく、天下人・豊臣秀吉が発した一枚の法令、「海賊停止令」であった。武力による覇権争いの時代が終わり、法と秩序による統治の時代が到来したのである。

この一連の出来事は、宇喜多氏が備前の一国人から、豊臣五大老として備前・美作を中心に57万4,000石を領する大大名へと飛躍していく過程と、軌を一にしている 14 。児島湾の海上支配権を確立する歩みは、そのまま宇喜多氏の興隆の歴史そのものであったと言っても過言ではない。

抗争が終焉を迎えた後、かつて海賊船が闊歩した混沌の海は、新たな時代を迎える。宇喜多秀家は、岡山城の大改修と並行し、この吉備の穴海を干拓して新田を開発するという、壮大な事業に着手する 31 。戦乱の舞台であった海は、近世的な開発と生産の対象へと、その姿を変えようとしていた。児島湾は、血と硝煙の記憶をその波間に沈め、静かなる湾として、新しい時代の夜明けを待っていたのである。

引用文献

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  23. 大坂の幻〜豊臣秀重伝〜 - 第253話 常山城にて https://ncode.syosetu.com/n8196hx/254/
  24. 大坂の幻〜豊臣秀重伝〜 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n8196hx/248/
  25. 二 村上三家の興亡 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7853
  26. 武家家伝_村上(能島)氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mura_kai.html
  27. 秀吉株式会社の研究(4)「海賊停止令」で基盤強化|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-055.html
  28. 村上水軍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E8%BB%8D
  29. 宇喜多秀家中編[文禄・慶長の役] - 備後 歴史 雑学 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page025.html
  30. 文禄・慶長の役 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
  31. 児島湾干拓先がけの町・早島町で宇喜多家や戸川家ゆかりのスポットめぐり - 岡山観光WEB https://www.okayama-kanko.jp/okatabi/1298/page