最終更新日 2025-09-07

加久藤城の戦い(1587)

「加久藤城の戦い(1587)」は史実と異なり、1572年の加久藤城防衛、1587年の根白坂での敗北、1600年の関ヶ原「島津の退き口」という三つの戦いが混同された歴史的誤解である。

日本の戦国時代史観に基づく「加久藤城の戦い(1587年)」の総合的再検証

序章:歴史的誤解の解明 ― 「加久藤城の戦い(1587年)」という問いの再定義

本報告書は、提示された「加久藤城の戦い(1587):日向・薩摩境(九州):島津退き口の攻防」というテーマを起点とする。しかしながら、専門的見地から史料を精査すると、このテーマは日本の戦国時代における三つの重要な歴史的事象が、後世の記憶の中で凝縮・混同されたものであると結論付けられる。具体的には、以下の三つの要素に分解される。

  1. 場所:加久藤城 ― この城を主戦場とした攻防戦は、**元亀三年(1572年)**に起こった「木崎原(きざきばる)の戦い」の序曲をなす戦いであった 1
  2. 年代:天正十五年(1587年) ― この年は、豊臣秀吉による「九州平定」が断行された年であり、島津軍は「 根白坂(ねじろざか)の戦い 」で決定的敗北を喫し、組織的撤退の後に降伏へと至った 3
  3. 戦術:島津の退き口 ― 「捨て奸(すてがまり)」という壮絶な戦術を駆使した、最も象徴的な撤退戦は、**慶長五年(1600年)**の「関ヶ原の戦い」において敢行されたものである 6

したがって、本報告書ではこれら三つの事象をそれぞれ独立した部として、時系列に沿って詳細に解き明かす。そして、それらの関連性と歴史的意義を明らかにすることで、当初の問いの背後にある知的好奇心に対し、より深く、より正確な回答を提供することを目的とする。

この歴史的記憶の混同は、単なる事実誤認に留まらない。むしろ、「寡兵で大軍に挑み、絶望的な状況から生還する」という島津氏の強力な武勇伝が、個別の歴史的事象の境界を曖昧にさせた結果と分析できる。特に「島津の退き口」という言葉は、特定の戦術名を超え、島津の不屈の精神性を象徴する神話的アイコンとして語り継がれてきた。1587年の根白坂からの撤退は、組織的抵抗が崩壊した後の「敗走」であり、1600年の関ヶ原で見せた計算され尽くした「戦術的後退」とは全く性質が異なる 4 。しかし、人間の記憶は、個別のデータを羅列するよりも、強力な物語に沿って事象を再編成する傾向がある。島津氏の歴史は、1572年の奇跡的な勝利(興隆)、1587年の屈辱的な敗北(挫折)、そして1600年の伝説的な生還(再生)という、非常に劇的な物語構造を持っている。このため、島津の最も象-徴的な戦術である「退き口」が、彼らの歴史における最大の敗北である「1587年」の出来事と、無意識のうちに結びつけられた可能性は高い。本報告書は、単なる事実の訂正に留まらず、歴史がどのように語り継がれ、記憶されていくかという、より高次のテーマにも踏み込むものである。


第一部:真の「加久藤城の戦い」― 元亀三年(1572年)、九州の桶狭間の序曲

第一章:戦略拠点としての加久藤城

加久藤城は、現在の宮崎県えびの市に位置し、日向国と薩摩国の国境地帯における島津氏の重要な戦略拠点であった。この城は、比高約50メートルから60メートルのシラス台地の突端に築かれ、三方を断崖絶壁に囲まれた天然の要害であった 2 。築城当初は北原氏の支城であったが、永禄七年(1564年)に島津義弘がこの地を領有すると、城は大規模に改修・拡張された 10 。本城を中心に、新城、中城、小城といった曲輪が連なり、曲輪、土塁、竪堀、枡形虎口などを備えた、極めて防御的な縄張りを有していた 2

この城の戦略的重要性は、単なる地理的・構造的堅固さに留まらない。当時、九州南部では薩摩の島津氏と日向の伊東氏が覇権を巡り激しく争っており、加久藤城はまさにその最前線に位置していた。島津義弘にとって、この城は真幸院(まさきいん)支配の拠点であると同時に、彼の妻である実窓夫人(広瀬夫人)と嫡男・鶴寿丸が居住する生活の場でもあった 2 。伊東氏から見れば、加久藤城を攻略することは、島津氏の勢力拡大の楔を打ち砕き、薩摩侵攻の足掛かりを得るための絶対条件であった。

第二章:寡兵、大軍を阻む ― 加久藤城攻防戦のリアルタイム再現

元亀三年(1572年)、島津貴久の死を好機と見た日向の伊東義祐は、島津領への大々的な侵攻を計画した 14 。その最初の標的となったのが、加久藤城であった。

  • 【1572年5月3日 夜半】伊東軍、進発
    伊東義祐の命を受けた総大将・伊東祐安(すけやす)率いる約3,000の大軍が、夜陰に乗じて加久藤城へと進軍を開始した 1。対する加久藤城の守備兵力は、城代を務める島津義弘の家老・川上忠智(かわかみ ただとも)が率いるわずか50名余りに過ぎなかった 2。兵力差は実に60倍にも達しており、客観的に見れば落城は時間の問題と思われた。
  • 【同日 深夜~未明】偽情報と誤認攻撃
    伊東軍は、城の裏手にあたる搦手(からめて)の「鑰掛口(かいかけぐち)」と呼ばれる険しい断崖から攻撃を開始した 11。ここは狭い谷間で、城へは険しい崖となっており登攀は極めて困難であったが、一説には島津側が意図的に流した「鑰掛口こそが城の弱点である」という偽情報に誘引された結果であるとも言われている 2。さらに伊東軍は、城外にあった家臣・樺山浄慶(かばやま じょうけい)の屋敷を城の一角と誤認して攻撃し、貴重な時間と兵力を浪費した。樺山浄慶親子3人は奮戦の末、討ち死にした 2。
  • 【同日 夜明け前】徹底抗戦と援軍到着
    城将・川上忠智の卓越した指揮の下、わずか50名の城兵は断崖の上という地の利を最大限に活かし、岩や弓矢で徹底的に防戦した。これにより、崖をよじ登ろうとする伊東軍に多大な死傷者が出た 17。その時、義弘の本拠である飯野城から遠矢良賢(とおや よしかた)が率いる50名ほどの援軍が駆けつけ、伊東軍の背後を突く挟撃態勢を形成した 2。
  • 【同日 夜明け】心理戦と伊東軍の撤退
    数的劣勢を補うため、島津方は城の各所に多数の幟旗を林立させ、大軍が潜んでいるかのように見せかける「擬兵の計」を用いた 2。夜襲の失敗、予想を遥かに超える頑強な抵抗、そして伏兵の可能性に直面し、伊東軍の士気は大きく揺らいだ。ついに伊東軍の将・米良筑後守が不動寺の僧・久道に火縄銃で狙撃され戦死するに及び、伊東軍は加久藤城の攻略を断念。夜が白みかけた頃、軍を南方の木崎原へと後退させた 17。

第三章:勝利の帰結と戦略的意義

加久藤城の防衛成功は、単なる戦術的勝利に終わらなかった。これは、後の木崎原での本戦において、島津軍が絶対的な数的劣勢を覆すための「時間」「地の利」「心理的優位」という三つの決定的な条件を確保した、戦略的な布石であった。もし加久藤城が早期に陥落していれば、勢いに乗った伊東軍3,000は、義弘がわずか300の兵で守る飯野城に直接殺到していた可能性が高い。しかし、加久藤城は敵の進軍を食い止め、夜通しの行軍と無益な攻城戦によって敵軍を疲弊困憊させた。そして何よりも、敵を島津側が望む決戦場、木崎原へと「誘導」することに成功したのである。この意味で、加久藤城の攻防戦は、「九州の桶狭間」と称される木崎原の戦いの単なる「前哨戦」ではなく、その奇跡的な勝利の条件を創り出した、極めて重要な「第一幕」と評価することができる。


第二部:天正十五年(1587年)、九州の終焉 ― 根白坂の敗北と島津の降伏

第一章:天下人の進軍 ― 豊臣軍、九州を席巻す

天正十四年(1586年)、九州統一を目前にしていた島津氏に対し、天下人・豊臣秀吉は「惣無事令(そうぶじれい)」を発令し、大友氏との停戦を命じた。しかし、島津義久がこれを事実上拒否したことで、秀吉による九州平定が開始される 3 。天正十五年(1587年)、秀吉は20万とも言われる未曾有の大軍を動員した。作戦は、豊臣秀長を総大将とし黒田官兵衛らを配した8万の軍勢が豊後から日向へ進む「東路軍」と、秀吉自らが率いる12万の本隊が筑前から肥後・薩摩へ進む「西路軍」による、二方面からの同時侵攻であった 3 。この圧倒的な物量と周到な計画性の前に、島津軍は各地で後退を余儀なくされた。豊後方面に展開していた島津義弘・家久の軍勢も、秀長軍の侵攻を受け、大友軍の追撃を受けながら日向の都於郡城(とのこおりじょう)へと戦略的撤退を開始した 5

表1:九州平定(1587年)主要日程表

日付(天正15年)

出来事(東路軍・西路軍の動向)

関連武将(豊臣方・島津方)

場所

3月15日

秀長軍の侵攻を受け、豊後府内にいた島津軍が日向へ撤退開始。

(豊)秀長、官兵衛 (島)義弘、家久

豊後府内

3月25日

秀吉本隊が赤間関に到着。軍議により東路・西路の二方面作戦を最終決定。

(豊)秀吉、秀長

赤間関(下関)

4月1日

秀吉軍の先鋒が、島津方の秋月氏が守る岩石城をわずか1日で攻略。

(豊)蒲生氏郷、前田利長

豊前岩石城

4月6日

秀長軍が日向国の高城を包囲。後詰に来る島津本隊に備え、根白坂に砦を構築。

(豊)秀長、宮部継潤 (島)義久、義弘、家久

日向高城・根白坂

4月17日

根白坂の戦い。 高城救援のため進軍した島津軍が、根白坂の豊臣軍砦に夜襲をかけるも大敗。

(豊)秀長、宮部継潤、藤堂高虎 (島)義久、義弘、家久、忠隣(討死)

日向根白坂

4月19日

秀吉本隊が肥後八代に到着。

(豊)秀吉

肥後八代

4月21日

根白坂での敗北を受け、島津義久が人質を出し、秀長軍と和睦交渉を開始。

(豊)秀長 (島)義久、伊集院忠棟

日向

5月3日

秀吉本隊が薩摩川内に進軍し、泰平寺に本陣を置く。

(豊)秀吉

薩摩川内

5月8日

島津義久が剃髪し、泰平寺に出頭。秀吉と会見し、正式に降伏。

(豊)秀吉 (島)義久

薩摩川内泰平寺

5

第二章:根白坂の激闘 ― 時系列で見る島津軍壊滅の全貌

九州の趨勢を決した根白坂の戦いは、天正十五年四月十七日の夜に火蓋が切られた。

  • 【4月6日~】豊臣軍の布陣
    豊臣秀長軍は、島津方の山田有信が守る日向高城を包囲すると同時に、島津本隊による後詰(救援)を完全に予測していた。そして、高城への救援ルート上の要衝である根白坂に、空堀、土塁、板塀などを幾重にも巡らせた、極めて堅固な野戦陣地(砦)を構築した 4。守将には、百戦錬磨の勇将・宮部継潤(みやべ けいじゅん)らが配置され、鉄壁の守りを固めていた 4。
  • 【4月17日 夜】島津軍、夜襲を決行
    都於郡城から出陣した島津義久・義弘率いる2万から3万5千の救援軍は、数的劣勢を覆すべく、伝統の夜襲戦術に打って出た 4。島津軍は根白坂の豊臣軍陣地へ、全軍で突撃を開始した。
  • 【同日 深夜】鉄壁の防御と戦闘の膠着
    しかし、宮部継潤をはじめとする豊臣方の諸将は、島津軍の夜襲を予期しており、動じることなく冷静にこれを迎撃した。継潤は自ら砦の木戸口に走り出て一番槍を合わせるほどの奮戦を見せ、藤堂高虎らの援軍も迅速に駆けつけた 21。島津軍は、堅固な陣地と組織的な防御の前に突破口を見いだせず、猛攻を繰り返すも戦闘は膠着状態に陥った 4。
  • 【4月18日 未明~朝】総崩れと敗走
    夜明けと共に、豊臣秀長の本隊が戦場に到着し、総攻撃を開始した。夜通しの攻撃で疲弊しきっていた島津軍は、豊臣軍の圧倒的な物量の前に完全に崩壊。組織的な抵抗は不可能となり、総崩れとなった。この乱戦の中、島津義久の弟・家久の嫡男である島津忠隣(ただちか)が討死。島津義弘は僅かな手勢と共に、命からがら居城の飯野城へと敗走した 4。

第三章:泰平寺の屈辱と時代の転換

根白坂での完敗は、島津首脳部に組織的抵抗の不可能を悟らせる決定的な一撃となった。4月21日、義久は家臣の伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)を使者として秀長の陣に送り、和睦交渉を開始させた 5 。そして5月8日、島津義久は自ら剃髪して竜伯と号し、薩摩川内(せんだい)の泰平寺(たいへいじ)に置かれた秀吉の本陣に出頭。正式に降伏した 3

この根白坂の戦いは、戦国時代の九州における「地域最強」であった島津の軍事ドクトリンが、織田・豊臣政権下で標準化された「天下の軍事システム」の前に完膚なきまでに破れた象徴的な戦いであった。島津が得意とした個々の武将の武勇や、奇襲による戦術的勝利を目指す戦い方は、秀吉軍の圧倒的な兵力、優れた兵站能力、そして宮部継潤らが見せた高度な陣地構築能力を駆使した組織戦の前には通用しなかった。これは、戦国時代の戦いのパラダイムシフトを示すものであり、島津氏はこの屈辱的な敗北により、天下の物差しを痛感させられることとなった。


第三部:伝説の「島津の退き口」― 慶長五年(1600年)、関ヶ原の死闘

第一章:孤立無援の戦場

慶長五年(1600年)九月十五日、関ヶ原の戦い。当初、戦闘に積極的でなかった島津義弘の部隊は、西軍の総崩れにより、戦場中央で完全に孤立した。その兵力は約1,500。周囲は徳川家康率いる数万の東軍兵に完全に包囲され、降伏か玉砕かの二択しかない絶望的な状況に陥っていた 6

第二章:「捨て奸」 ― 壮絶なる前進退却のリアルタイム再現

この絶体絶命の状況下で、島津義弘は前代未聞の決断を下す。

  • 【1600年9月15日 午後】決断 ― 敵中正面突破
    西軍の敗走が続く中、義弘は降伏でも玉砕でもなく、敵である徳川家康の本陣が存在する「前方」への敵中突破による戦場離脱を決断した 6。これは、背後を見せて逃げるのではなく、敵の中心を突き破って退却するという、常軌を逸したものであった。
  • 【同日 午後】正面突破開始
    島津隊は一つの塊となり、まず前方に布陣していた東軍の福島正則隊に突撃した。その鬼気迫る形相と捨て身の突撃に、歴戦の福島隊ですら気圧され、深追いをためらったと伝えられている 18。
  • 【同日 午後~夕刻】「捨て奸」の発動
    しかし、東軍の追撃は熾烈を極めた。ここで義弘は、島津の歴史にその名を刻む壮絶な遅滞戦術「捨て奸(すてがまり)」を発動する 7。これは、殿(しんがり)部隊から数名ずつの小部隊をその場に残置し、追撃してくる敵部隊の指揮官を火縄銃で狙撃させ、槍で突撃して全滅するまで戦い続ける。そして、その小部隊が全滅すると、また新たな小部隊を配置するという、まさに味方の命を駒として使い、時間を稼ぐ非情の戦術であった 8。
  • 【同日 夕刻】多大な犠牲と戦果
    この戦術により、義弘の甥である島津豊久や、家老の長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)らが次々と犠牲となり、討死した 6。しかし、その犠牲は無駄ではなかった。追撃軍の先頭に立っていた徳川四天王の一人・井伊直政、そして家康の娘婿・松平忠吉に重傷を負わせるなど、東軍の中核部隊に多大な損害を与え、追撃の速度を決定的に鈍らせることに成功した 8。
  • 【戦闘後】奇跡の生還
    数日にわたる逃避行の末、義弘は当初1,500いた兵のうち、わずか80名余りと共に薩摩への帰還を果たした 8。

第三章:生還の意義と政治的勝利

関ヶ原からの「島津の退き口」は、単なる生存のための戦闘ではなかった。これは、大将(藩主)を生還させることで、戦後の領土安堵交渉における「交渉主体」を確保するという、極めて高度な政治的判断に基づいた軍事行動であった。1587年の九州平定において、当主・義久が健在であったからこそ、降伏後も改易を免れ、本領を安堵されたという教訓が生かされていた可能性がある 3 。もし関ヶ原で義弘が戦死していれば、西軍に与した首謀者として、島津家は徳川家康から改易の格好の口実を与えていたであろう。したがって、「捨て奸」という甚大な犠牲を払ってでも義弘を生還させることは、島津家の存続という最高の戦略目標を達成するための、最も合理的(ただし過酷な)選択であった。これは、軍事行動が政治的目的に直結している好例であり、1587年の無秩序な「敗走」とは一線を画す、統率された「戦術的後退」であった。


結論:三つの「島津の戦い」が織りなす歴史の綾

本報告書で詳述した加久藤城(1572年)、根白坂(1587年)、関ヶ原(1600年)の三つの戦いは、それぞれが島津氏の歴史における「興隆」「挫折」「再生」を象徴するマイルストーンであった。

  • 1572年の加久藤城・木崎原の戦い は、寡兵で大軍を破る島津の武勇と戦術の巧みさを示し、その後の三州統一への道を切り開いた「興隆」の戦いであった。
  • 1587年の根白坂の戦い は、豊臣秀吉という中央集権的な権力の前に、地域の軍事ドクトリンが敗れ去るという時代の転換点であり、島津にとって最大の「挫折」であった。
  • 1600年の関ヶ原の戦い における「島津の退き口」は、軍事的敗北の中から、家の存続という政治的勝利をもぎ取るという、島津の強靭な生命力を示した「再生」の戦いであった。

序章で提示した「なぜこれらの出来事が混同されるのか」という問いに立ち返れば、それは島津氏の歴史が持つ劇的な物語性が、個々の史実を超えて人々の記憶に強い影響を与えているからに他ならない。ユーザーが最初に求めた「加久藤城の戦い(1587)」は、史実としては存在しない。しかし、その問いの背後には、島津氏の歴史の核心をなす、これら三つの重要な戦いの記憶が複雑に絡み合い、眠っていたのである。本報告書は、その記憶を丁寧に解きほぐし、それぞれを正確な文脈の中に位置づけることで、より立体的で深い歴史理解を提供したものである。

表2:三つの「島津の戦い」比較表

比較項目

加久藤城の戦い(木崎原の戦い緒戦)

根白坂の戦い

関ヶ原の戦い(島津の退き口)

年代

元亀三年(1572年)

天正十五年(1587年)

慶長五年(1600年)

場所

日向国 加久藤城

日向国 根白坂

美濃国 関ヶ原

島津方指揮官

川上忠智(城代)、島津義弘(総大将)

島津義久、島津義弘

島津義弘

敵将

伊東祐安

豊臣秀長、宮部継潤

徳川家康(東軍諸将)

兵力比(島津:敵)

約1:30 (島津軍 約100:伊東軍 約3,000)

約1:2~4 (島津軍 約2~3.5万:豊臣軍 約8万)

約1:50以上 (島津軍 約1,500:東軍包囲網 数万)

戦術的特徴

籠城戦、地の利の活用、偽情報、心理戦(擬兵の計)

伝統的な夜襲戦術を試みるも、敵の堅固な陣地構築と組織的防御の前に頓挫。

敵中正面突破、および「捨て奸」と呼ばれる、犠牲を前提とした壮絶な遅滞戦術。

結果

防衛成功。敵軍を疲弊させ、決戦場へ誘導。

決定的敗北。軍は壊滅し、組織的抵抗が終焉。

軍事的には敗走だが、大将の生還に成功。

歴史的意義

島津氏の三州統一への道を切り開く「九州の桶狭間」の序曲。 (興隆)

豊臣中央政権の軍事力の前に島津氏が屈服。九州の戦国時代が終焉。 (挫折)

絶望的状況から大将を生還させ、戦後の領土安堵交渉に成功。島津家の存続を確定させた。 (再生)

引用文献

  1. 木崎原古戦場跡にいってみた、島津義弘が10倍もの兵力差をひっくり返した https://rekishikomugae.net/entry/2022/04/17/194611
  2. 加久藤城跡にのぼってみた、大軍から城を守りきって木崎原の決戦へ https://rekishikomugae.net/entry/2022/04/26/161005
  3. 九州平定/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11100/
  4. 根白坂の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E7%99%BD%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  5. 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
  6. 敵中突破!関ケ原合戦と島津の退き口 - 大垣観光協会 https://www.ogakikanko.jp/shimazunonokiguchi/
  7. 島津義弘とは?戦国武将が生んだ薩摩焼の礎 - 銀座 真生堂 https://ginza-shinseido.com/blog/2880/
  8. 死亡率100パーセント!日本史上唯一の玉砕戦法「捨て奸(すてがまり)」とは!? - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/173363
  9. 加久藤城 - しまづくめ https://sengoku-shimadzu.com/spot/%E5%8A%A0%E4%B9%85%E8%97%A4%E5%9F%8E%E5%9D%80/
  10. 加久藤城の見所と写真・全国の城好き達による評価(宮崎県えびの市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2855/
  11. 加久藤城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E4%B9%85%E8%97%A4%E5%9F%8E
  12. 加久藤 城 - 城塞史跡協会ホームページ https://forts-castles.sakura.ne.jp/20230107/kakutou.html
  13. 加久藤城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2837
  14. 薩摩・島津家の歴史 - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/shimadzu-history/
  15. 島津義弘 九州制覇への道のり http://www.shimazu-yoshihiro.com/shimazu-yoshihiro/shimazu-yoshihiro-kyushuseiha2.html
  16. 島津の退き口の「小返しの五本鑓」、関ヶ原で猛追撃を食い止める - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。 https://rekishikomugae.net/entry/2023/10/04/171459
  17. 木崎原の戦い BATTLE OF KISAKIBARU - えびの市歴史民俗資料館 https://www.ebino-shiryoukan.com/shimazu_kisaki_1.html
  18. 敵中突破 関ヶ原の戦いと島津の退き口 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/96652/
  19. 宮部継潤(みやべけいじゅん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E7%B6%99%E6%BD%A4-1113922
  20. 宮部継潤 秀吉からの信頼は絶大!戦うお坊さん - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=h9t1LqgsUms
  21. 豊薩合戦、そして豊臣軍襲来/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(7) https://rekishikomugae.net/entry/2024/01/23/203258
  22. 第一章 織豊政権の但馬進出と豊岡支配 https://lib.city.toyooka.lg.jp/kyoudo/komonjo/7108035bb5c7e98e84e36d873d34600b0e57bae2.pdf
  23. 秀吉が通った道 - 株式会社シナプス https://corp.synapse.jp/staff-blog/20231030-1/
  24. 「島津の退き口」ゆかりの地 - 大垣市 https://www.city.ogaki.lg.jp/cmsfiles/contents/0000042/42898/map.pdf
  25. 島津一族(島津一族と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16998_tour_079/
  26. 関ヶ原の戦いで島津の退き口が成功した理由/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/tokugawa-15th-shogun/shimazunonokiguchi-seiko-riyu/
  27. 島津豊久の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46146/