最終更新日 2025-08-30

加治田城の戦い(1581)

天正十年、本能寺の変後、加治田城は森長可の猛攻に晒された。城主斎藤利堯率いる加治田衆は奮戦し、森軍を退ける戦術的勝利を収めた。しかし、この勝利は却敵城の最後の輝きとなり、加治田城は廃城となった。

却敵城の攻防:美濃加治田城、二つの死闘の真実

序章:戦国の要衝、「却敵城」加治田

日本のほぼ中央に位置する美濃国は、古来より東西を結ぶ交通の要衝として、常に戦略的な重要性を帯びていた。その美濃の中央部、いわゆる中濃地域に、戦国の世を駆け抜けた一つの山城があった。加治田城。その名は、単なる一地方の城砦を指すに留まらない。織田信長の天下布武の起点となり、そして本能寺の変後の混沌の中で自らの存亡を懸けて戦った、誇り高き武士団の拠点の物語である。

地理的・戦略的重要性

加治田城は、美濃国加茂郡の加治田山(現在の梨割山)に築かれた、典型的な山城である 1 。この城が歴史の表舞台に躍り出た理由は、その絶妙な地理的位置にあった。西には斎藤氏の本拠地たる稲葉山城(後の岐阜城)、東には東濃の要である苗木城や岩村城、そして北には飛騨へと通じる街道が延びていた 2 。つまり、加治田城は美濃の主要拠点を結ぶ結節点であり、この地を制する者は中濃地域の交通網を掌握し、美濃全体の動静に大きな影響を与えることができたのである。この地理的条件こそが、織田信長の美濃攻略において、そして本能寺の変後の覇権争奪において、加治田城を避けては通れない係争地たらしめた根本的な要因であった。

城郭の構造と「却敵城」の由来

加治田城は、標高約270メートルの梨割山の険しい自然地形を最大限に活用して築かれていた 3 。山頂に本丸(一の曲輪)を置き、尾根筋に沿って二の曲輪、三の曲輪といった郭が連なる連郭式の縄張りを持つ 4 。各曲輪は土塁や堀切によって厳重に区画され、要所には虎口(城の出入り口)が設けられていた 3 。特筆すべきは、この地域に特有のチャートと呼ばれる硬い岩盤をそのまま城壁として利用した「天然の石垣」であり、人工的な石垣と合わせて鉄壁の防御を誇っていた 1 。さらに、城内には豊富な湧水があり、長期の籠城戦にも耐えうる構造となっていた 7 。麓には城主の居館である御殿屋敷、山腹には中腹屋敷が構えられ、城全体が一大軍事拠点として機能していたのである 1

この難攻不落の堅城は、いつしか「却敵城(きゃくてきじょう)」という異名で呼ばれるようになった 1 。これは「敵を却(しりぞ)ける城」を意味し、単なる別名ではなく、幾多の攻撃を跳ね返してきた城の実績と、そこに籠る武士たちの誇りを象徴する呼び名であった。この「却敵城」の名が、本報告書で詳述する二つの合戦において、いかに試されることになるのか。歴史の歯車は、静かに、しかし確実に回り始めていた。

信長侵攻前夜:「中濃三城盟約」の結託と脆弱性

永禄年間(1558年-1570年)、尾張の織田信長の勢力が美濃に迫ると、中濃の国人領主たちは危機感を募らせた。この脅威に対抗すべく、関城主・長井道利を盟主とし、堂洞城主・岸信周、そして加治田城主・佐藤忠能の間で反信長の軍事同盟が結ばれる。これが世に言う「中濃三城盟約」である 9

しかし、この同盟は、巨大な外部の脅威に対して、利害が必ずしも一致しない国人たちが一時的に手を結んだに過ぎず、その内実には構造的な脆弱性を抱えていた。盟主の長井道利は斎藤本家との繋がりが深い一方、佐藤氏や岸氏は在地性の強い独立領主であった。当時の美濃の主、斎藤龍興は祖父・道三、父・義龍ほどの器量はなく、家臣団の離反が相次ぎ、その権威は失墜しつつあった 12 。このような状況下で、国人領主が自らの家と領地を守り抜くための最善の策は何か。滅びゆく主君に殉じることか、それとも新たな覇者にいち早く接近し、生き残りを図ることか。佐藤忠能が下した決断は後者であった。彼の織田信長への内通 13 は、単なる裏切り行為として断じることはできない。それは、巨大な力のうねりの中で生き残りを図る、戦国武将として極めて合理的かつ冷徹な生存戦略であった。この一つの決断が、中濃三城盟約を内側から崩壊させ、美濃の歴史を大きく動かす引き金となるのである。


第一部:信長の美濃侵攻と加治田城 ― 血と涙の攻防(永禄八年、1565年)

織田信長の美濃侵攻は、単なる軍事行動ではなかった。それは、周到な調略と電撃的な軍事作戦が一体となった、高度な戦略の結実であった。その過程において、加治田城は極めて重要な役割を演じることになる。一つの裏切りが悲劇を生み、その悲劇が新たな英雄を誕生させ、城の運命を大きく変えていった。

背景:揺らぐ斎藤家と城主・佐藤忠能の決断

「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三の死後、その子・義龍、孫・龍興へと代替わりする中で、かつて美濃を席巻した斎藤家の威勢には陰りが見え始めていた 12 。特に龍興の代になると、家臣団の統制は乱れ、尾張から急速に勢力を拡大する織田信長の脅威に有効な手を打てずにいた。この状況を冷静に見極めていたのが、加治田城主・佐藤紀伊守忠能であった。彼は、斎藤家の将来に見切りをつけ、次代の覇者と目される信長に接近する。

『信長公記』によれば、佐藤忠能は丹羽長秀を介して信長に内通の意を伝えた。信長はこれを大いに喜び、「先ずは、このお金で兵粮を確保して、蔵に入れなさい」と述べ、黄金五十枚を使者に渡したという 13 。これは単なる買収ではない。信長が忠能の戦略的価値を高く評価し、来るべき美濃侵攻における重要な拠点として確保しようとした、深謀遠慮の現れであった。忠能の決断は、加治田城を斎藤方から織田方へと、その旗色を鮮明に変えさせるものであった。

合戦の経過(時系列)

【発端:八重緑の悲劇】

佐藤忠能の内通は、かつての盟友たちを激怒させた。特に、盟約によって忠能の娘・八重緑を人質として預かっていた堂洞城主・岸信周の怒りは凄まじかった。信周は裏切りへの報復として、八重緑を惨殺。さらにその遺体を竹槍で串刺しにし、加治田城からよく見える長尾丸山に磔にして晒すという、非情極まりない凶行に及んだ 10 。この悲劇は、もはや後戻りのできない凄惨な戦いの始まりを告げる狼煙となった。

【堂洞城攻略戦:信長の電撃戦】

永禄8年(1565年)8月28日(一部資料では9月28日)、信長は行動を開始した。木曽川を渡り、鵜沼城、猿啄城を瞬く間に攻略すると、その矛先を堂洞城へと向けた 10 。信長は加治田城の南、高畑山に本陣を敷き、堂洞城を完全に包囲 16 。娘を殺された佐藤忠能・忠康父子も加治田城から出撃し、信長軍に合流した 15

正午頃、信長の合図と共に総攻撃が開始された。織田軍は松明を城内へ次々と投げ込み、二の丸は瞬く間に炎上 10 。混乱に乗じて、河尻秀隆や丹羽長秀といった猛将たちが本丸へと殺到した 16 。岸一族は凄まじい抵抗を見せたが、織田軍の圧倒的な物量の前に衆寡敵せず、夕刻には城は陥落。城主・岸信周は妻と刺し違えて自害し、堂洞城は焦土と化したと伝えられる 10

【信長の撤退戦:巧妙なる用兵】

その夜、信長は加治田城に入り、忠誠を尽くした佐藤父子を労った。父子は感涙にむせんだという 17 。翌29日、信長は首実検を終え、尾張への帰路についた。しかし、この動きを好機と見た関城の長井道利と、稲葉山城から救援に駆け付けた斎藤龍興の連合軍、総勢3,000余りが信長軍に襲いかかった。この時、信長の手勢は戦死者や負傷者を除けばわずか700から800。絶体絶命の危機であったが、信長は少しも動じなかった。広野に兵を展開させると、巧みな指揮で陣形を整え、追撃してくる敵軍をあしらいながら、悠々と鵜沼まで撤退してみせたのである 17 。その用兵の見事さは、敵将をして「本意無き仕合せ(残念な巡り合わせだ)」と嘆かせたほどであった。

【関・加治田合戦:却敵城の真価】

信長本隊が去った後、危機は再び加治田城に訪れた。長井道利と、東から迫る肥田忠政の連合軍が、復讐の念に燃えて加治田城へ総攻撃を仕掛けてきたのだ 14 。信長はこの事態を予測しており、即座に援軍を派遣する。その部隊を率いていたのが、斎藤道三の末子、斎藤新五利治であった 20

加治田城は西と東から挟撃される形となった。城主・佐藤忠能は自ら陣頭に立ち、東の川浦川を天然の堀として利用し、押し寄せる肥田軍と実に5度にわたって激突した 14 。加治田衆の決死の奮戦と、斎藤利治率いる織田の援軍の到着により、戦況は膠着。しかし、この激戦の中で、佐藤忠能は嫡男である忠康を失うという大きな代償を払うことになった 8 。それでも彼らは屈しなかった。ついに敵軍を撃退し、「却敵城」の名に恥じない鉄壁の守りを見せつけたのである。

結果と影響:斎藤利治の入城と織田家の橋頭堡

戦いは織田・加治田連合軍の勝利に終わった。しかし、佐藤忠能は嫡男という後継者を失った。これを受け、信長は一つの命令を下す。斎藤利治を忠能の養子とし、加治田城を継がせるというものであった 7

これは、単なる論功行賞や、後継者のいない忠能への温情措置ではなかった。ここにこそ、信長の深謀遠慮が見て取れる。斎藤利治は、他ならぬ斎藤道三の実子である 7 。一方、当時の美濃国主・斎藤龍興は、父・義龍が祖父・道三を討って家督を継いだという経緯から、その正統性には常に疑問符が付きまとっていた。その龍興と対峙するにあたり、道三の血を引く正統な後継者である利治を美濃の重要拠点・加治田城の城主に据える。この人事は、他の美濃国人衆に対して、「織田方につくことは、斎藤家の正統を助けることであり、簒奪者である龍興を討つ大義はこちらにある」という強烈な政治的メッセージを発信するものであった。

信長は、物理的な軍事力による攻略と並行して、大義名分という心理的な武器で敵の結束を切り崩しにかかったのである。加治田城は、単なる織田方の前線基地ではなく、信長の美濃攻略を正当化するための象徴的な橋頭堡となった。軍事と政治を巧みに連動させる、信長ならではの戦略眼が光る一着であった。


第二部:本能寺の変と加治田城 ― 独立と誇りを懸けた死闘(天正十年、1582年)

永禄8年(1565年)の戦いを経て、加治田城は織田信長の支配体制下で中濃の要として安定期を迎えた。城主となった斎藤利治は、信長の嫡男・信忠の側近として重用され、その武勇と忠誠を示した。しかし、天正10年(1582年)、日本の歴史を震撼させる大事件が、加治田城の運命を再び激動の渦へと叩き込む。

背景:権力の真空と「鬼武蔵」の野心

天正10年6月2日、京都・本能寺にて織田信長が明智光秀の謀反によって斃れた 22 。この報は瞬く間に天下を駆け巡り、巨大な権力の真空を生み出した。信長の嫡男・信忠もまた、光秀軍の攻撃を受け、京都二条新御所にて自刃。この時、信忠と共に戦い、命を落とした者の中に、加治田城主・斎藤利治の姿があった 3

主君を失った加治田城では、利治の留守居役を務めていた兄の斎藤利堯が、混乱する城内をまとめ上げ、新たな城主となった 7 。利堯は一時、主不在となった岐阜城を掌握するなど、機敏な動きを見せた。

一方、この天下の動乱を好機と捉えた男がいた。東濃の金山城主・森長可。勇猛果敢な戦いぶりから「鬼武蔵」の異名で恐れられた猛将である。彼は信濃に出兵中であったが、本能寺の変の報を受けるや、すぐさま本拠地である美濃へ帰還 25 。信長亡き後の混乱に乗じ、美濃一国を自らの手で統一せんと、その野心を剥き出しにした 27 。鬼武蔵の最初の標的となったのが、加治田城であった。

合戦の経過(時系列)

【発端:米田城からの亡命者】

7月2日未明、森長可は電撃的に行動を開始した。手始めに、近隣の米田城主・肥田玄蕃忠政を急襲する 27 。肥田忠政は病の床にあり、抵抗する術もなく城を脱出。彼が頼った先こそ、加治田城の斎藤利堯であった。

長可は、肥田が加治田城へ逃げ込んだと聞くと、不敵に笑ったと伝えられる。「加治田は川を背にした要害。そこに籠もるとは天晴れな大将よ。ならば、まとめて叩き潰してくれる」 27 。肥田忠政の追撃と、美濃統一の障害となる加治田城の攻略。二つの目的が一つとなり、森長可は全軍に加治田への進軍を命じた。これが「加治田・兼山合戦」の直接的な引き金となった。

【緒戦:牛ヶ鼻砦の攻防】

森軍の進路上に位置する前哨拠点、牛ヶ鼻砦で両軍は最初の火花を散らした。鬼武蔵の率いる森軍の猛攻は凄まじく、斎藤軍は奮戦するも支えきれず、40名余りの死者を出す痛手を受けながら加治田城へと撤退した 27 。緒戦は森軍の圧勝であった。

【本戦:堂洞城址での軍議と総攻撃】

勢いに乗る森長可は、加治田城の眼前にまで迫ると、かつて織田信長によって滅ぼされた堂洞城の跡地に本陣を構えた 27 。これは、17年前の合戦の記憶を呼び覚まし、加治田城兵に心理的な圧力をかける狙いがあったと考えられる。

対する斎藤利堯は、冷静に城の守りを固めた。家老の長沼三徳を東の三徳櫓に、古参の勇将・西村治郎兵衛を西の砦に配置し、万全の態勢で鬼武蔵を迎え撃つ 28 。やがて、森軍の総攻撃が開始された。加治田衆は、城の防御施設と川浦川の天然の堀を巧みに利用し、鬼武蔵の猛攻をことごとく跳ね返した 27

【逆転:加治田衆、三方よりの猛反撃】

攻めあぐねる森軍に焦りの色が見え始めたその時、加治田城の城門が開かれた。斎藤利堯率いる加治田衆が、城から打って出たのである。彼らは敵の側面を突くように三方向から猛然と反撃を開始した 27 。この予期せぬ奇襲に森軍の陣形は大きく乱れ、混乱状態に陥った。加治田衆は勢いに乗り、三度にわたる激戦の末、ついに森軍を打ち破った。多くの将兵を失った森長可は敗走し、本拠地である金山城へと撤退していった 27

加治田城は、織田家という巨大な後ろ盾を失った状況で、自らの力のみで「鬼武蔵」の猛攻を退けるという、輝かしい大勝利を収めたのである。

結果と影響:束の間の栄光と悲劇的な結末

この勝利は、斎藤利治・利堯兄弟のもとで17年間にわたり培われてきた「加治田衆」という地域武士団の結束力と、その卓越した武勇を天下に示すものであった 24 。しかし、この輝かしい勝利は、皮肉にも彼らの最後の輝きとなる。

歴史の大きな流れの中で見れば、この勝利は「ピュロスの勝利(損害の大きい勝利)」であったと言わざるを得ない。この一戦で加治田衆は力を消耗し、さらに大黒柱である指導者・斎藤利堯が合戦後ほどなくして病死(あるいは史料から姿を消す)したことで、彼らは求心力を失ってしまった 23

1582年という時点において、戦国大名が生き残るための条件は、もはや個々の戦いの勝敗ではなかった。羽柴秀吉や柴田勝家といった、次代の覇権を争う巨大勢力とどのような関係を築くかが、その運命を決定づけていた。森長可は、この戦いには敗れたものの、いち早く秀吉方に与するという政治的な嗅覚を発揮していた 27 。一方で斎藤利堯は、当初は中立を保ち、後に織田信孝に仕えるも、親族である稲葉一鉄の勧めもあって最終的には信孝から離反するなど、巨大勢力間の争いの中で確固たる立ち位置を築けずにいた 23

その結果、起こったのは歴史の逆説であった。指導者を失い、政治的に孤立した加治田の所領は、戦いには敗れたはずの森長可によって、最終的に吸収・統合されてしまう 7 。そして長可は、東濃から中濃にかけて広大な領地を支配するにあたり、領内に城が多すぎることによる管理の煩雑さを理由に、難攻不落を誇った加治田城を廃城とする決定を下したのである 1

つまり、加治田城の運命は、一合戦の勝敗によってではなく、本能寺の変後の新たな政治秩序が再編されていく大きなうねりの中で決定づけられたのであった。彼らの勝利は、戦国の世に散っていった数多の独立国人領主たちの、誇り高くも悲しい、最後の抵抗の記録だったのである。


終章:却敵城の記憶

加治田城を巡る二つの死闘は、その性格において実に対照的であった。一つは巨大な権力への編入を決定づけた戦いであり、もう一つは、その権力の崩壊の中で独立を懸けた最後の戦いであった。この二つの合戦を比較することで、戦国という時代の激動を生き抜いた一つの城の、数奇な運命が浮かび上がってくる。

二つの合戦が残した歴史的意義の比較

永禄8年(1565年)の「関・加治田合戦」は、加治田城が織田信長の天下布武という壮大な事業の過程に組み込まれ、その支配体制下で重要な役割を担うことになる「始まり」の戦いであった。この戦いを経て、加治田城は斎藤利治という新たな城主を迎え、織田家の中濃支配の拠点として生まれ変わった。

一方、天正10年(1582年)の「加治田・兼山合戦」は、織田体制という秩序が崩壊した中で、自らの独立と誇りを懸けて戦い、そして歴史の波に呑まれて消えていく「終わり」の戦いであった。鬼武蔵・森長可の猛攻を独力で退けた輝かしい勝利は、同時に彼らの力の限界を露呈させ、結果的に廃城という悲劇的な結末を招いた。

この対照的な二つの戦いは、戦国時代の国人領主が置かれた厳しい現実を物語っている。巨大な勢力に従属することで生き残る道と、独立を貫こうとして滅びる道。加治田城の歴史は、その両方を体現していたのである。

【比較表】加治田城、二つの死闘

二つの合戦の相違点を以下の表にまとめる。これにより、それぞれの戦いが置かれた歴史的文脈と、その結果がもたらした意味の違いが一目瞭然となる。

項目

関・加治田合戦(1565年)

加治田・兼山合戦(1582年)

時代背景

織田信長の美濃統一戦

本能寺の変直後の権力闘争

加治田方 指揮官

佐藤忠能、斎藤利治(援軍)

斎藤利堯

敵方 指揮官

長井道利、肥田忠政

森長可

合戦のきっかけ

佐藤忠能の織田方への内通

肥田忠政の加治田城への亡命

合戦の性質

巨大勢力(織田)の一部としての防衛戦

独立勢力としての存亡を懸けた防衛戦

結果

織田・加治田連合軍の勝利

斎藤軍(加治田衆)の戦術的勝利

城の運命

織田家支配下の重要拠点として存続

合戦後、間もなく新領主により廃城

その後の加治田衆と史跡としての現在

指導者・斎藤利堯を失った後、加治田衆は離散の道を辿った。しかし、その忠義の心は失われなかった。家老の長沼三徳と古参の西村治郎兵衛は、本能寺の変で討死した斎藤利治の遺児二人を密かに養育し、その血筋を後世に伝えたという 23 。彼らの多くは浪人となったり、森家をはじめとする他家へ仕官したりと、それぞれの道を歩んでいった。

廃城となった加治田城は、やがて静かな山林へと還っていった。現在、その跡地には、かつての激戦を物語る曲輪や土塁、石積みの遺構がひっそりと残されている 1 。麓にある富加町郷土資料館では、加治田城にまつわる資料が展示され、訪れる人々にその歴史を伝えている。

「却敵城」と呼ばれた難攻不落の城も、天下統一という大きな時代の流れには抗えなかった。しかし、その城を舞台に繰り広げられた二つの死闘の記憶は、今もなお、美濃の地に生きる人々の心に、そして歴史の中に、深く刻み込まれている。

引用文献

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  11. 加治田城の案内板 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/734/memo/1831.html
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  14. 歴史人物語り#32 中濃三城盟約を破って娘を犠牲にしてでも織田信長に与した加治田城主・佐藤忠能 - ツクモガタリ https://tsukumogatari.hatenablog.com/entry/2019/08/28/210000
  15. 加治田城と堂洞城 - 富加町 https://www.town.tomika.gifu.jp/docs/243.html
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