最終更新日 2025-09-05

勝賀城の戦い(1585)

天正十三年、秀吉の四国征伐で勝賀城は無血開城。圧倒的物量と戦略的包囲に城主香西佳清は降伏し、家と領民の存続を選んだ。これは戦国末期の中央集権化を示す典型例である。

天正十三年 勝賀城の戦い ― 四国平定における無血開城の時系列分析

序章:天下統一の奔流、四国へ

天正13年(1585年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えつつあった。天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が非業の死を遂げた後、その政治的遺産を継承したのは羽柴秀吉であった 1 。秀吉は山崎の戦いで明智光秀を、翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田家中の主導権を完全に掌握。さらに小牧・長久手の戦いを経て徳川家康と和睦し、その権力基盤を盤石なものとしていた 3 。天下統一事業を着実に進める秀吉が、紀州征伐を終えて次なる標的として見据えたのが、長宗我部元親が支配する四国であった 4

その頃、四国では「土佐の出来人」と称された長宗我部元親が、まさにその覇業を完成させようとしていた 1 。色白で「姫若子」と揶揄された少年期から一転、初陣で勇猛さを示して「鬼若子」と恐れられた元親は、破竹の勢いで土佐を統一 6 。土佐は山が多く耕地が少ないため、麾下の将兵に与える恩賞地を確保するという内政的・経済的必然性から、その目は自然と四国全土に向けられた 8 。阿波、讃岐、伊予へと次々に侵攻し、天正13年春には伊予の河野氏を降伏させ、四国全土のほぼ完全な統一を成し遂げていたのである 3

当初、織田信長を介して友好的であった秀吉と元親の関係は、信長の死と秀吉の台頭によって根本的に変化した。秀吉の目指す天下統一とは、すべての地方勢力を自身の支配体制下に組み込むことであり、畿内に近接する四国に独立した強大な勢力が存在することは断じて許容できなかった 3 。秀吉は元親に対し、四国のうち讃岐・伊予を返上し、自身の臣下となるよう要求した。これに対し元親は、伊予一国を割譲することで和睦を図ろうとしたが、両者の立場には埋めがたい隔たりがあった 3 。元親は自らを「四国の主」として対等な交渉を望んだが、秀吉は元親をあくまで「支配下に組み込むべき一武将」としか見なしていなかったのである。

この根本的な認識の齟齬により交渉は決裂。秀吉は天下統一事業の総仕上げの一つとして、四国への大規模な軍事侵攻を断行する。天正13年5月、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将に任じ、四国征伐の大号令を発した 4 。勝賀城の運命は、この中央の巨大権力と地方の地域覇者が激突するという、戦国末期を象徴する歴史の大きな潮流の中で決定づけられることとなる。元親の四国統一事業は、その完成とほぼ同時に、より強大な政治権力によって解体される宿命にあったのである。

第一章:四国征伐の始動 ― 鉄壁の包囲網

秀吉が発動した四国征伐は、単なる兵力の投入ではなく、長宗我部方の戦意を根底から覆すべく周到に計画された、近代的な戦略思想に基づくものであった。その核心は、圧倒的な物量と、敵の戦力を分断し心理的に追い詰める「戦略的包囲」にあった。

豊臣軍の編成と兵力

総大将には、秀吉が最も信頼を寄せる弟の羽柴秀長が、副将には甥の羽柴秀次(当時は信吉)が任じられた 10 。動員された総兵力は10万を超え、長宗我部方が動員可能であった約4万の兵力を遥かに凌駕していた 3 。この動員力そのものが、秀吉政権の確立された権力基盤と経済力の証左であった。

三方面同時侵攻作戦

秀吉の戦略の巧みさは、この大軍を三方面に分け、同時に四国へ侵攻させた点にある。これにより、元親は防衛戦線を一点に集中させることができず、全方位からの圧力に晒されることになった。

  • 阿波方面軍 :羽柴秀長・秀次が率いる約5万の主力部隊。淡路島を経由し、元親が主戦場と想定していた阿波国に侵攻した 3
  • 伊予方面軍 :毛利輝元の重臣である小早川隆景・吉川元長が率いる約3万の毛利勢。瀬戸内海を渡り、伊予国に上陸した 3 。かつての敵対勢力であった毛利氏を動員している点も、秀吉の政治的影響力の大きさを示している。
  • 讃岐方面軍 :備前国の宇喜多秀家を将とし、軍監の黒田官兵衛、蜂須賀正勝らを加えた約2万3千の部隊。讃岐国に侵攻し、勝賀城が直接対峙することになる部隊である 3

この三方面からの同時侵攻は、長宗我部軍に兵力の分散を強い、各個撃破を容易にするだけでなく、各戦線の連携を断ち、補給路や退路への不安を煽ることで、前線の将兵に「味方は来ない」という絶望感を与え、組織的抵抗を内側から崩壊させる狙いがあった。元親が阿波の白地城に本陣を構え、描いていた防衛構想は、この鉄壁の包囲網によって緒戦から破綻をきたしていたのである 4


【表1】四国征伐における両軍の兵力比較

陣営

総兵力

方面軍

主要武将

兵力

豊臣軍

約100,000

阿波方面軍

羽柴秀長、羽柴秀次

約50,000

伊予方面軍

小早川隆景、吉川元長

約30,000

讃岐方面軍

宇喜多秀家、黒田官兵衛

約23,000

長宗我部軍

約40,000

-

長宗我部元親、香宗我部親泰など

-


兵力と装備の質的格差

両軍の差は、兵の数だけに留まらなかった。長宗我部軍の主力は「一領具足」と称される半農半兵の兵士たちであり、その装備は決して潤沢ではなかった。後に長宗我部方の将・谷忠澄が元親に降伏を説得した際の言葉として、『南海治乱記』にはその歴然たる差が記録されている。豊臣軍の武具や馬具は光り輝き、兵糧も潤沢で憂いがないのに対し、味方の兵は粗末な鞍をつけた土佐駒に乗り、古びた鎧を麻糸で繕っている有様だと述べ、経済基盤の脆弱さを指摘した 9 。これは単なる誇張ではなく、中央政権と地方勢力が持つ国力の差を如実に物語っている。豊臣軍の勝利は、戦術レベルの戦闘が始まる以前に、戦略レベルでほぼ決定づけられていたと言っても過言ではなかった。

第二章:讃岐侵攻 ― 宇喜多・黒田軍、屋島上陸

四国征伐において、勝賀城の運命を直接左右することになったのが、讃岐方面から侵攻した宇喜多・黒田軍の動向である。彼らの迅速かつ合理的な軍事行動は、讃岐の長宗我部方勢力に組織的な抵抗の機会すら与えず、戦線を瞬く間に無力化した。

讃岐方面軍の陣容

讃岐方面軍の総大将は、備前・美作を領する宇喜多秀家であった。当時13歳から14歳という若年であり、父・直家の死後、秀吉の後見を受けていた 16 。秀家を総大将に据えたのは、秀吉が彼を豊臣一門に準ずる存在として厚遇し、その初陣に箔をつけさせるという政治的配慮があったためと考えられる。実際の作戦指揮は、軍監として従軍していた黒田官兵衛(孝高)が担っていた 10 。官兵衛の卓越した戦略眼と、脇を固める蜂須賀正勝、仙石秀久といった歴戦の武将たちの存在が、この方面軍の実質的な戦闘力を担保していた 13

進軍と初期の戦闘(天正13年6月〜7月)

天正13年6月下旬頃、宇喜多秀家率いる約2万3千の軍勢は、備前から瀬戸内海を渡り、讃岐東部の屋島に上陸した 10 。源平合戦の古戦場としても知られる屋島は、高松平野を一望でき、讃岐攻略の橋頭堡として絶好の地点であった。

上陸後、軍勢はただちに長宗我部方の拠点攻略に着手した。まず、高松頼邑が守る喜岡城(現在の高松城の前身)を攻撃し、これを短期間で陥落させる 10 。続いて、勝賀城の目と鼻の先に位置する香西氏の拠点の一つ、香西城、そして牟礼城も抵抗を受けることなく、相次いで制圧した 10 。この電撃的な進軍は、讃岐の国人たちに豊臣軍の強大さを強烈に印象付け、戦意を削ぐのに十分な効果を発揮した。

黒田官兵衛の戦略的判断

宇喜多・黒田軍の前に、戸波親武が守る植田城が立ちはだかった。植田城は守りが堅固であり、力攻めを行えば多くの時間と兵力を消耗することが予想された。ここで軍監・黒田官兵衛は、戦史に残る戦略的判断を下す。彼は、植田城の攻略に固執することを避け、これを無視して西進し、阿波で戦う羽柴秀長の本隊と合流することを進言したのである 10

この判断は、四国征伐全体の最終目標、すなわち長宗我部元親本体の屈服という大局を見据えた、極めて合理的なものであった。個別の城の攻略という戦術的勝利よりも、全戦線における戦略的勝利を優先したのである。植田城を迂回することで、自軍の損害を回避すると同時に、敵中に取り残された植田城をはじめとする讃岐中西部の長宗我部方勢力は、後方を遮断された形で戦略的に孤立し、その戦闘能力を事実上無力化された。

この官兵衛の「選択と集中」とも言うべき戦略思想こそ、讃岐戦線の早期終結を決定づけた最大の要因であった。そして、この迅速な軍事行動は、勝賀城の香西氏に対し、抵抗か降伏かの決断を、物理的にも時間的にもほとんど猶予のない状況で迫ることになった。彼らは戦う前に、すでに戦略的に敗北していたのである。

第三章:勝賀城、開城 ― 戦わずして迎えた終焉

「勝賀城の戦い」は、その名とは裏腹に、大規模な攻城戦や壮絶な籠城戦が繰り広げられたわけではない。むしろ、圧倒的な軍事力を背景とした情報戦と心理戦の末に、城方が戦わずして降伏した「無血開城」であった。その過程を時系列で再構築することは、戦国末期の権力移行の実態を解き明かす上で極めて重要である。

合戦前夜の勝賀城と香西氏

天正13年、豊臣軍の侵攻を前にした勝賀城と城主・香西氏が置かれていた状況は、決して万全とは言えなかった。

  • 城主・香西佳清の苦境 :香西氏は、室町幕府管領・細川氏の重臣として「細川四天王」に数えられた讃岐の名門であった 18 。しかし、当時の当主・香西佳清は、元亀元年(1570年)の野田城・福島城の戦いに参陣した際の病がもとで失明していたと伝わる 20 。軍事指揮官として、これは計り知れないハンデキャップであった。
  • 長宗我部氏への従属 :天正10年(1582年)、長宗我部元親の讃岐侵攻を受け、西讃の雄・香川氏の仲介を経て降伏。長宗我部氏の配下となっていた 18 。つまり、秀吉と戦うことは、わずか3年前に屈服した新たな主君のために戦うことを意味し、その忠誠心が絶対的なものであったかは疑問が残る。
  • 本拠の移転と勝賀城の位置づけ :長宗我部氏の脅威に備えるため、天正3年(1575年)頃から新たに藤尾城の築城を開始し、天正5年(1577年)には本拠をそちらへ移していた 20 。これにより、勝賀城は香西氏にとって「死守すべき唯一の本拠」ではなく、詰城、あるいは副次的な拠点へとその戦略的価値が変化していた可能性が高い。

降伏への道 ― 無血開城のリアルタイム再現

以下は、断片的な史料と当時の状況から推察される、勝賀城が開城に至るまでの時系列である。


【表2】四国征伐(讃岐方面軍)主要時系列表

年月日(天正13年)

出来事

関連する城

主要人物

備考

6月中旬

豊臣軍、四国侵攻開始

-

羽柴秀長、秀次

総兵力10万超

6月下旬頃

宇喜多・黒田軍、屋島に上陸

-

宇喜多秀家、黒田官兵衛

讃岐方面軍(約2万3千)

7月上旬

喜岡城、陥落

喜岡城

高松頼邑

宇喜多軍の攻撃による

7月上旬

香西城・牟礼城、陥落

香西城、牟礼城

-

喜岡城陥落後、間もなく

7月上旬

勝賀城、無血開城

勝賀城

香西佳清

周辺情勢から降伏を決断

7月中旬

豊臣軍、阿波の一宮城を攻略

一宮城

谷忠澄

阿波戦線の事実上の決着

8月上旬

長宗我部元親、降伏

白地城

長宗我部元親

四国平定が完了


  1. 第一報(6月中旬) :豊臣軍10万が四国へ向けて出陣したという情報が、主君である長宗我部元親の本拠・白地城経由、あるいは瀬戸内海の海上交通網を通じて勝賀城にもたらされる。城内では緊張が走るが、主戦場は阿波と想定され、まだ直接的な脅威とは認識されていなかった可能性が高い。
  2. 第二報(6月下旬〜7月上旬) :宇喜多・黒田軍が屋島に上陸したとの急報が届く。それに続き、近隣の喜岡城、そして目と鼻の先にある香西城までもが瞬く間に陥落したという衝撃的な情報が矢継ぎ早にもたらされる。豊臣軍の進軍速度は想定を遥かに超え、勝賀城は突如として最前線に立たされた。城内の動揺は頂点に達したであろう。
  3. 城内の評定 :城主・香西佳清を中心に、一族・重臣による緊急の評定が開かれたと推察される。議題は「籠城か、降伏か」。籠城を主張する者は、主君・長宗我部元親への忠義や武士としての面目を説いたであろう。一方、降伏を主張する者は、絶望的な兵力差、周辺城郭の迅速な陥落、そして援軍の望みが薄い現実を指摘し、城兵と領民の生命を救うことを最優先すべきと訴えたと考えられる。これは、後に江戸城が無血開城される際に勝海舟が江戸の市民を守ることを最優先した論理と通じる 24
  4. 最終決断 :当主の佳清は、この評定において極めて現実的な決断を下す。圧倒的な兵力差、黒田官兵衛の巧みな戦略による戦略的孤立、そして自らが盲目であるという現実を鑑み、抗戦は無益な殺戮を招くだけであると判断。香西家の存続と領民の安寧を第一に考え、豊臣軍へ降伏する道を選んだ。
  5. 開城 :宇喜多軍が勝賀城下に姿を現した時、すでに城に戦意はなかった。香西方は城を明け渡し、豊臣軍は一人の犠牲者を出すこともなく、この要害を接収したのである。

勝賀城の無血開城は、香西佳清の現実主義的決断の賜物であった。彼は、武士としての意地や旧来の忠誠観念よりも、「家と領民の存続」という領主としての根源的な責任を優先した。これは、巨大な権力の前に地方の国人が取りうる、最も合理的で人間的な選択肢であったと言えよう。

第四章:合戦後の勝賀城 ― 陣城としての改修と歴史的意義

勝賀城の歴史は、香西氏の降伏によって終わりを迎えたわけではない。むしろ、その後の豊臣軍による接収と改修こそが、この城に戦国時代の終焉を象徴する特別な歴史的価値を与えることになった。勝賀城跡は、在地領主の時代の終わりと、中央集権権力の時代の始まりを、その構造自体に刻み込んだ生きた歴史資料なのである。

豊臣軍による接収と「陣城」への改修

無血開城によって勝賀城を接収した豊臣軍は、この城をそのまま放置せず、自軍の拠点として改修を加えた。これは、勝賀城が一時的な軍事拠点、すなわち「陣城(じんじろ)」として利用されたことを意味する 26 。その目的は、第一に讃岐平定後の残敵掃討や治安維持の拠点として、第二に主君・長宗我部元親が降伏しなかった場合の長期戦に備えた前線基地として、そして第三に、麓の港に近く、大坂との連絡や兵站を維持する上で戦略的価値が高かったためと考えられる 20

城郭構造に見る改修の実態

勝賀城の縄張り(設計)は、大きく二つの部分に分けられる。北側の尾根に連なる曲輪群は、比較的古い「連郭式」と呼ばれる構造であるのに対し、山頂の主郭を含む南側は、より複雑で防御機能の高い構造となっている 28 。この南側こそが、豊臣軍によって大規模な改修が加えられた部分であると推測されている。

その改修内容は、当時の最先端の築城技術を反映したものであった。

  • 堅固な土塁 :主郭部は、高く険しい土塁によって二重に囲まれている。特に外側の土塁は、敵兵が容易によじ登れないよう急峻に築かれており、防御への強い意識がうかがえる 18
  • 技巧的な虎口(虎口) :城の入口である虎口には、敵の直進を防ぎ、側面から攻撃を加えるための工夫が凝らされている。土塁をずらして何度も折れをつくる「喰い違い虎口」や、鉤状に土塁を配置した虎口などが設けられ、防御力を格段に高めている 21
  • 横矢掛かりの縄張り :城壁や土塁に「折れ」を多用することで、城内に侵入しようとする敵に対し、正面だけでなく側面からも矢や鉄砲を射掛けることができる「横矢掛かり」の構造が採用されている 21

これらの改修は、居住性や権威の象徴性を重視する在地領主の城とは一線を画し、純粋に戦闘拠点としての機能性を追求したものである。城を単なる「軍事ツール」と捉える豊臣軍の合理的で実用的な思想が、勝賀城の構造に色濃く反映されている。

考古学的知見と歴史的意義

近年の発掘調査では、改修された主郭部周辺から、恒常的な建物が建てられていた痕跡や、生活を示す遺物がほとんど検出されていない 26 。これは、豊臣軍の兵士たちが天幕などで起居し、あくまで一時的な軍事目的でこの城を利用したことを裏付ける強力な証拠である。四国平定が完了すれば、この城は不要になるという明確な見通しのもと、最低限の機能が付加されたのである。

勝賀城の最大の歴史的価値は、この「香西氏時代の古い城郭遺構」と「豊臣軍による最先端の陣城遺構」が、一つの城跡に重層的に存在している点にある 26 。それは、四国統一をめぐる戦乱の舞台となり、歴史が大きく転換した瞬間が、城の構造そのものに物証として刻まれていることを意味する。四国において、豊臣秀吉の軍事思想をこれほど具体的に示す城跡は他に類例がなく、その稀有な価値から、勝賀城跡は国の史跡に指定された 23

終章:四国の平定と香西氏の終焉

勝賀城の無血開城は、讃岐戦線における趨勢を決定づける出来事であった。それはやがて四国全体の戦局に波及し、長きにわたった戦国の乱世の終焉を告げる一つの画期となった。

長宗我部元親の降伏と四国国分

讃岐・伊予の両戦線が早々に崩壊し、主戦場と目された阿波においても、羽柴秀長率いる主力部隊の前に木津城、牛岐城といった拠点が次々と陥落。最後の牙城であった一宮城も、数に勝る豊臣軍の包囲と水の手を断たれる戦術の前に、7月中旬には開城を余儀なくされた 4

全ての防衛線が突破され、本拠の白地城にまで豊臣軍が迫る中、長宗我部元親はついに抗戦を断念。家臣・谷忠澄らの説得を受け入れ、天正13年8月上旬、総大将・羽柴秀長に降伏した 2

戦後、秀吉による裁定、いわゆる「四国国分」が行われた。元親は、その覇業の結晶であった阿波・讃岐・伊予の三国を没収され、旧来の領地である土佐一国のみの領有を安堵された 2 。これにより、元親は四国の覇者から、豊臣政権下の一大名へとその地位を大きく変えることになった。

香西氏の末路

勝賀城を開城した香西佳清とその一族は、豊臣軍の軍門に降ったものの、領主としての地位を保つことは許されなかった。四国征伐後、香西氏はその所領を失い、歴史の表舞台から姿を消すこととなる(下野) 19 。鎌倉時代から讃岐に根を張り、室町時代には中央政界でも重きをなした名門・香西氏の、領主としての歴史はここに幕を閉じたのである 18

「勝賀城の戦い」が戦国史に刻んだ意味

「勝賀城の戦い」は、戦国時代の終焉期における、中央の巨大権力による地方平定の典型的な一例であった。それは、武力と武力が激突する従来の「合戦」のイメージとは異なり、圧倒的な物量と合理的な戦略、そして情報戦によって、物理的な戦闘が開始される以前に勝敗が事実上決していたことを示している。

香西佳清の降伏という決断は、個人の勇気や武士としての意地といった価値観がもはや通用しない、新たな時代の到来を告げるものであった。巨大な権力の前に、地方の国人が取りうる選択肢は、恭順か滅亡かの二つに一つしか残されていなかったのである。

そして、戦いの舞台となった勝賀城は、在地領主の城から天下人の陣城へとその姿を変え、二つの時代が交錯した歴史の転換点を今に伝える貴重な遺産として、静かにその記憶を留めている。

引用文献

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