厳島沖小海戦(1555~61)
天文二十四年、毛利元就は厳島の戦いで村上水軍を得て陶晴賢を破り、防長経略を完遂。関門海峡の制海権を巡る大友氏との激戦にも勝利し、瀬戸内海の覇者として中国地方の覇者へと飛躍した。
厳島沖小海戦(1555~61年):毛利氏制海権確立への道程
序章:覇権への序曲 ― 厳島前夜の安芸水道
「厳島沖小海戦」の定義と本報告書の射程
日本の戦国史において、「厳島沖小海戦(1555~61年)」という呼称は、特定の単一海戦を指すものではない。本報告書では、この呼称を、天文24年(1555年)に毛利元就が陶晴賢を破った画期的な「厳島の戦い」を起点とし、その後、弘治3年(1557年)に大内氏を滅亡に至らしめた「防長経略」、そして永禄4年(1561年)に九州の雄・大友氏との間で繰り広げられた「門司城の戦い」に至るまで、約6年間にわたる一連の海上軍事行動の総称として定義する。これは、毛利氏が安芸灘から周防灘、さらには関門海峡へと至る瀬戸内海西部の制海権を段階的に掌握し、中国地方の覇者へと飛躍していく過程そのものを、海という視点から連続的に捉え直す試みである。この一連の闘争は、単なる水上での戦闘の連続ではなく、毛利氏の地政学的戦略の進化と、それに伴う勢力圏拡大の軌跡を鮮明に描き出している。
西国の動乱:大内家の内訌と毛利の胎動
この一連の海上闘争の根源をたどると、その震源は海ではなく、陸における巨大な権力構造の崩壊にあった。天文20年(1551年)、西国に広大な領土を誇った大内義隆が、その重臣である陶晴賢(当時は隆房)によって長門大寧寺に追い詰められ、自刃に追い込まれるという事件が発生した(大寧寺の変) 1 。このクーデターにより、晴賢は大友宗麟の弟である大内義長を新たな当主として擁立し、大内家の実権を完全に掌握した。これにより、西国全体のパワーバランスは劇的に変化し、安芸の一国人に過ぎなかった毛利元就が歴史の表舞台へと躍り出る直接的な契機が生まれたのである。
当初、元就はこのクーデターに加担する形で、安芸・備後における大内氏の直轄領を次々と攻略し、自らの勢力基盤を固めていた 4 。しかし、元就の真意は、晴賢への従属ではなかった。彼は、晴賢が主君を弑逆した「逆臣」であるという大義名分を巧みに利用し、大内家中の混乱に乗じて完全な独立を果たす好機と捉えていた 6 。
その対立が決定的となったのが、天文22年(1553年)の「防芸引分」である。大内義長が、毛利氏を介さずに安芸の国人衆へ直接指示を下したことを盟約違反とみなし、元就は大内氏からの離反と完全独立を宣言した 4 。これに対し、晴賢は毛利討伐軍を派遣するが、翌天文23年(1554年)の「折敷畑の戦い」において、元就は巧みな誘導作戦で宮川房長率いる陶軍を撃破する 3 。この勝利により、毛利氏は安芸国内における主導権を確立し、陶晴賢との全面対決はもはや避けられない情勢となったのである。このように、後に瀬戸内海を舞台に繰り広げられる壮絶な海戦の数々は、その実、陸における大内家の支配構造の崩壊という地殻変動によって引き起こされた、巨大な津波であったと位置づけることができる。
第一部:乾坤一擲 ― 厳島の戦いと安芸灘の掌握(1555年)
第一章:謀略の網 ― 元就、晴賢を誘う
折敷畑での勝利を経てもなお、毛利と陶の戦力差は歴然としていた。毛利方が動員できる兵力は最大でも4,000程度であったのに対し、陶晴賢は大内家の軍事力を背景に20,000を超える大軍を擁していた 1 。平野部での会戦となれば、毛利の敗北は火を見るより明らかであった。この圧倒的な劣勢を覆すため、智将・毛利元就は、生涯で最も緻密かつ大胆な謀略を巡らせる。
その核心は、敵の大軍を狭隘な厳島に誘い込み、その機動力を削いだ上で奇襲によって殲滅するというものであった。まず元就は、厳島における大内方の拠点であった桜尾城を攻略し、厳島そのものを制圧下に置いた 4 。そして、あえて島の要害とは言えない場所に、防御力の低い宮尾城を築城する 2 。城主には、元大内家臣であった己斐直之と新里宮内少輔を配置した。彼らを起用したのは、晴賢から見れば寝返り者であり、その存在自体が晴賢の自尊心を刺激し、攻撃意欲を掻き立てるための挑発であった。
さらに元就は、心理戦を仕掛ける。家臣の桂元澄に命じ、「もし晴賢殿が厳島に渡って宮尾城を攻撃するならば、その隙に私が元就の居城である吉田郡山城を攻め落としましょう」という内容の偽りの密書を晴賢に送らせたのである 2 。元澄の父は過去に元就によって自刃に追い込まれており、元澄が元就に遺恨を抱いていても不思議ではないと晴賢が考えたとしても無理はなかった。加えて、「元就は宮尾城を築いたことをひどく後悔しているらしい」という噂を意図的に流布させ、晴賢に「今こそ毛利を討つ絶好の機会である」と誤認させた 2 。これらの周到な謀略により、陶晴賢は家臣の「狭い島に大軍を投入するのは危険」という忠告を退け、大軍を率いて厳島へ渡るという、元就の描いた筋書き通りの決断を下すに至ったのである。
第二章:勝敗の鍵 ― 村上水軍の帰趨
厳島での決戦において、陸上の戦術以上に勝敗を左右する決定的な要因となったのが、水軍の存在であった。当時の瀬戸内海は、伊予の能島、来島、そして安芸の因島を拠点とする三つの村上家、すなわち村上水軍が事実上の支配者として君臨していた 8 。彼らは特定の戦国大名に完全に従属しない独立した海上勢力であり、その動向一つで戦局が根底から覆るほどの強大な軍事力を有していた 1 。
元就はこの戦いに勝利するためには、村上水軍の協力が不可欠であると深く認識していた。彼は三男であり、沼田小早川家の養子となって水軍を率いていた小早川隆景を通じて、村上水軍の懐柔に全力を注いだ 10 。特に、三家の中でも最大勢力を誇る能島村上氏の当主・村上武吉の説得は難航を極めた。しかし、隆景は粘り強く交渉を重ね、「毛利に仕官する必要はない。ただ、この戦いの一日だけ味方になってほしい」と、彼らの独立性を最大限に尊重する姿勢を示した 9 。この条件が功を奏し、最終的に村上三家は毛利方への加担を決断する。
一方、陶晴賢は自らが擁する500艘の船団に絶対的な自信を持っており、毛利方の水軍を120艘程度と侮っていた 7 。彼は村上水軍の重要性を軽視し、その調略を怠った。この慢心こそが、彼の運命を決定づける致命的な判断ミスとなる。毛利方が村上水軍という瀬戸内最強の「切り札」を手にしたことで、元就の奇襲作戦は、単なる陸上での博打から、陸海共同による必勝の作戦へと昇華されたのであった。
第三章:嵐を呼ぶ奇襲 ― 厳島合戦のリアルタイム展開
弘治元年(1555年)9月20日、元就の張り巡らせた謀略の網にかかった陶晴賢は、ついに厳島への渡海を開始する。ここから、日本三大奇襲戦の一つに数えられる厳島の戦いの火蓋が切られた。その詳細な戦況の推移は、以下の時系列で追うことができる。
日付・時間 |
陶軍の動向 |
毛利軍(陸上部隊)の動向 |
毛利軍(水軍部隊)の動向 |
天候・特記事項 |
9月21日 |
2万の大軍を率いて厳島に上陸。大元浦に陣を構え、宮尾城を包囲する 1 。 |
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9月22日 |
本陣を厳島神社東方の塔の岡に移し、宮尾城への攻撃を本格化させる 2 。 |
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9月24日 |
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吉川元春を先鋒として吉田郡山城を出陣 2 。 |
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9月27日 |
宮尾城への攻勢を続ける。 |
元就、隆元が本隊を率いて出陣。安芸草津城(広島市西区)に着陣し、村上水軍の到着を待つ 2 。 |
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9月30日 夜 |
暴風雨のため警戒を緩める 2 。 |
激しい暴風雨を天佑と判断し、全軍に出航を命令。元就・隆元・元春の主力部隊(約3,500)は敵の背後を突くため、厳島東岸の包ヶ浦を目指す 1 。 |
小早川隆景率いる小早川水軍と村上水軍が合流。陶軍の退路を断つため、厳島神社正面の海上を封鎖する態勢に入る 1 。 |
激しい暴風雨。視界不良と轟音が、毛利軍の渡海を隠蔽する。 |
10月1日 未明 |
奇襲を全く予期せず、宿営地で休息中。 |
包ヶ浦に上陸成功。夜陰と雨音に紛れて険しい博奕尾根を越え、塔の岡の陶軍本陣背後に到達する 2 。 |
厳島水道を完全に封鎖し、攻撃開始の合図を待つ。 |
雨は降り続く。 |
10月1日 早朝(午前6時頃) |
元就本隊の鬨の声と奇襲攻撃を受け、大混乱に陥る 2 。 |
鬨の声を合図に、塔の岡の陶軍本陣へ一斉に突撃を開始。 |
陸上部隊の攻撃開始に呼応し、大鳥居沖から陶軍の船団へ攻撃を開始。同時に上陸部隊を送り込み、正面からも圧力をかける 1 。 |
夜が明け始める。 |
10月1日 朝~昼 |
狭い島内で組織的抵抗ができず、四方八方に敗走。退路である海上は封鎖され、完全に包囲される 2 。 |
混乱する陶軍を一方的に撃破。 |
陶軍の船団を壊滅させ、海上からの脱出を完全に阻止。上陸部隊は敗走する陶兵を追撃する 7 。 |
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10月1日 午後 |
晴賢、島の西岸・大江浦まで逃れるも、脱出を断念し自刃。主力を失い、軍は完全に崩壊する 1 。 |
掃討戦を展開。 |
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戦闘は終結。 |
この戦いの勝利は、単なる奇襲の成功として片付けることはできない。その背後には、元就の周到な戦略が隠されている。第一に、これは「情報戦」の完全な勝利であった。偽の内応工作や流言飛語によって敵の判断を誤らせ、暴風雨という偶然の要素すらも最大限に活用して敵の警戒を解いた 2 。陶軍は、毛利軍がすぐそこに迫っているという最も重要な情報を、最後の瞬間まで掴むことができなかったのである。
第二に、これは当時としては画期的な「陸海共同作戦」の完成形であった。元就率いる陸上部隊が敵本陣を奇襲して混乱させる「槌」の役割を果たし、隆景率いる水軍が退路を断って敵を殲滅する「金床」の役割を担った。陸の部隊がどれほど奮戦しても、海からの逃げ道を断たなければ、敵主力を取り逃がしていた可能性が高い。陸戦、海戦、兵站、情報戦、心理戦という複数の要素が、元就という一人の指揮官の下で完璧に連動したからこそ、この奇跡的な勝利は生まれたのである。戦後、元就は神域である厳島を血で汚したことを恐れ、戦死者を対岸に移して島を清めたと伝えられている 2 。この勝利は、毛利氏が安芸の一国人から中国地方の覇者へと駆け上がる、まさにその第一歩となった。
第二部:防長経略 ― 制海権の拡大と残敵掃討(1555年~1557年)
厳島の戦いで陶晴賢という大黒柱を失った大内家は、急速に弱体化していく 14 。元就はこの好機を逃さず、戦後処理を終えるや否や、大内氏の領国である周防・長門両国への全面侵攻作戦、すなわち「防長経略」を開始した 14 。この作戦の成功は、陸上部隊の進撃のみならず、厳島で確立した制海権をいかに効果的に行使するかにかかっていた。
第一章:最初の「小海戦」 ― 宇賀島水軍の殲滅(1555年11月)
防長経略における最初の海上作戦は、厳島の戦いの残敵掃討から始まった。周防大島沖の浮島(宇賀島とも呼ばれる)を拠点とする宇賀島水軍は、独立性の高い海賊衆であり、厳島の戦いでは陶方の中核として参戦し、その頭取である宇賀島忠重は陶軍の水軍大将を務めていた 16 。
厳島での敗戦により忠重は戦死したが、その残存勢力は毛利氏にとって周防灘への進出における潜在的な脅威であった。弘治元年(1555年)11月、元就は報復と後顧の憂いを断つため、小早川・村上水軍を派遣して宇賀島を徹底的に攻撃させた 15 。この掃討作戦は苛烈を極め、島は一時的に無人島になったと伝えられるほどであった 16 。この宇賀島水軍の殲滅は、毛利に敵対する海上勢力に対する強烈な見せしめとなり、周防灘における制海権掌握の重要な布石となった。これにより、毛利軍は防長経略を海上から支援する上での障害を一つ取り除くことに成功したのである。
第二章:周防・長門への海上侵攻と兵站維持
防長経略は、陸上を進む元就の本隊や吉川元春の山陰道部隊と、沿岸部を制圧していく小早川隆景の水軍部隊が連携する形で進められた 18 。毛利水軍は、周防沿岸の港湾を次々と掌握し、大内方の諸城が海路を通じて補給を受けたり、相互に連絡を取り合ったりすることを不可能にした。特に岩国のような沿岸の重要拠点の攻略においては、村上水軍も積極的に参加し、陸海からの挟撃作戦が展開された 19 。
厳島での圧倒的な勝利は、大内方に属していた水軍衆の戦意を完全に喪失させた。安芸の白井氏、周防の小原氏や冷泉氏、さらには屋代島や玖珂郡の警固衆といった大小の海上勢力は、雪崩を打って毛利氏に降伏、あるいは帰順した 8 。これにより、大内氏は海上における抵抗手段をほぼ全て失い、毛利水軍はこれらの勢力を吸収することで、さらにその規模と影響力を拡大させていった。制海権の確保は、敵の補給路を断つだけでなく、自軍の兵員や物資を海上から迅速かつ安全に輸送することを可能にし、陸上作戦を円滑に進める上で絶大な効果を発揮したのである。
第三章:関門海峡の封鎖と大内氏の滅亡(1557年)
陸海からの猛攻に晒され、家臣団の離反も相次ぐ中、大内義長は弘治3年(1557年)3月、ついに本拠地である山口を放棄する 15 。彼に残された最後の望みは、実兄である九州の雄・大友宗麟の援軍を得て再起を図ることであった。義長は、九州への脱出口である長門の且山城(現在の下関市)へと敗走する 14 。
しかし、元就の戦略は義長の行動を完全に先読みしていた。彼は義長が九州へ逃れることを予期し、乃美宗勝を主力とする毛利水軍と村上水軍を派遣して、関門海峡を海上から完全に封鎖させていたのである 8 。義長が且山城に到着したときには、すでに海への退路は断たれていた。
さらに元就は、外交においても決定的な一手を打っていた。彼は事前に大友宗麟に使者を送り、「毛利が周防・長門に侵攻することに干渉しないのであれば、大友氏が旧大内領である豊前・筑前へ進出することを黙認する」という密約を交わしていた 14 。実の弟である義長からの必死の救援要請にもかかわらず、宗麟が動かなかった背景には、この冷徹な政治的取引があった。
陸からの追撃軍が迫り、海からの脱出路は封鎖され、最後の頼みであった兄からの援軍も来ない。全ての希望を断たれた大内義長は、弘治3年(1557年)4月3日、長福寺(現在の功山寺)において自刃した 20 。ここに、西国に栄華を誇った名門・大内氏は完全に滅亡した。大内氏の最期は、陸戦の帰趨が、最終的に制海権の有無によって決定づけられた典型例であった。元就は、敵の最後の希望を軍事(海上封鎖)と外交(密約)という両面から完璧に打ち砕くことで、防長経略を完遂させたのである。
第三部:新たなる敵 ― 関門海峡の攻防(1558年~1561年)
大内氏を滅亡させ、周防・長門を完全に支配下に置いた毛利氏の次なる目標は、九州への進出であった。その戦略的要衝となるのが、関門海峡である。この海峡の支配権を巡り、毛利氏は九州最大の大名・大友氏との間で、これまでとは比較にならない大規模かつ熾烈な戦いを繰り広げることとなる。毛利氏の制海権闘争は、「内海の平定」から「海峡の支配」という新たな段階へと移行した。
第一章:門司城争奪戦 ― 九州への橋頭堡
関門海峡の北岸(長門)を制圧した毛利氏にとって、南岸(豊前)に位置する門司城は、九州への橋頭堡であり、海峡の完全支配を象徴する最重要拠点であった 22 。永禄元年(1558年)、毛利軍は門司城を攻略し、その支配下に置く 23 。
これに対し、豊前・筑前を自らの勢力圏と見なす大友義鎮(宗麟)は、毛利氏の九州進出を座視するはずがなかった。彼はただちに門司城の奪還作戦を開始し、ここから数年間にわたり、両家の間で一進一退の激しい攻防が繰り広げられることになる 23 。永禄2年(1559年)には大友軍が門司城に大軍を差し向けるが、小早川隆景率いる毛利水軍が迅速に海を渡って救援に入り、これを撃退 23 。翌永禄3年(1560年)には、毛利軍が再び奇襲によって門司城を奪回するなど、海峡を挟んだ両軍の睨み合いは長期化の様相を呈していた 23 。
第二章:最大規模の激突 ― 豊前今井元長船合戦(1561年)
永禄4年(1561年)、大友宗麟は門司城の完全攻略を目指し、これまでにない大規模な軍事行動を開始する。吉岡長増、臼杵鑑速といった重臣に1万5千の大軍を預け、門司城を陸路から完全に包囲させた 26 。宗麟自身は後方の松山城に本陣を構え、全軍の指揮を執った 28 。
この戦いにおいて、大友方は日本の合戦史上でも極めて異例な戦術を用いた。宗麟は、豊後の府内に寄港していたポルトガル船に協力を依頼し、その艦載砲(大砲)を用いて海上から門司城を砲撃させたのである 27 。轟音とともに飛来する砲弾は城壁や櫓を破壊し、城内の毛利兵に多大な物理的・心理的ダメージを与えた。これは、後の織田信長の鉄甲船などに繋がる「火力による海戦」の萌芽とも言える先進的な試みであった。
この危機に対し、毛利元就は三男の小早川隆景に全権を委ねて救援を命じた。隆景は毛利水軍の主力を率いて対岸の赤間関に布陣すると、巧みな機動作戦を展開する。水軍の輸送能力を活かして、大友軍の背後や側面に部隊を次々と上陸させ、敵の補給路を脅かし、包囲網を内と外から切り崩そうと試みた 27 。
そして、この門司城攻防戦のクライマックスとなる大規模な海戦が、豊前の今井・元長沖(現在の福岡県行橋市沖)で勃発する。門司城を包囲する大友陸上部隊を支援するため、奈多氏や鶴崎氏などが率いる大友水軍の兵船300余艘がこの海域に集結していた 29 。これを、村上武吉、来島通康、因島吉充ら村上三家の当主が揃い踏みとなった毛利水軍が襲撃したのである。その戦力は、兵船800艘、小型の丸木船400艘、総勢3,700余騎という圧倒的なものであった 29 。
項目 |
毛利方 |
大友方 |
総指揮官 |
小早川隆景 |
吉岡長増、臼杵鑑速 |
水軍主要武将 |
村上武吉、来島通康、因島吉充 |
奈多鑑基、鶴崎鎮義など |
兵船数 |
兵船800艘、丸木船400艘 |
兵船300余艘 |
総軍勢(推定) |
3,700余騎 |
(水軍兵力不明) |
特記戦力 |
- |
ポルトガル船による艦砲射撃 |
海戦の結果は、兵船の数で勝り、かつ実戦経験で優る毛利水軍の圧勝に終わった。大友水軍は壊滅的な打撃を受けて敗走し、海上からの支援を完全に失った大友の陸上部隊も、門司城の攻略を断念して撤退を余儀なくされた 23 。この勝利により、毛利氏は門司城、ひいては関門海峡の制海権を確固たるものとした。この一連の戦いは、毛利氏がもはや安芸の一勢力ではなく、九州の大大名と互角以上に渡り合う西日本の一大勢力へと成長したことを天下に示すものであった。
結論:瀬戸内の覇者、毛利水軍の確立
天文24年(1555年)の厳島の戦いから永禄4年(1561年)の門司城の戦いに至る約6年間の一連の海上での勝利、すなわち本報告書が定義する広義の「厳島沖小海戦」は、毛利氏が安芸の一国人から中国地方十カ国を領有する覇者へと飛躍する上で、決定的な役割を果たした。この期間を通じて、毛利氏は小早川水軍を中核とする強力な直轄水軍を組織し、同時に、独立勢力であった村上水軍を事実上の同盟軍としてその軍事体制に組み込むことに成功した 8 。
その勝利の要因は、複数の要素が奇跡的に噛み合った結果であった。第一に、毛利元就の卓越した戦略眼である。敵を有利な戦場へ誘い込む謀略、戦わずして敵の援軍を無力化する外交工作など、戦う前に勝敗の趨勢を決する能力は、同時代の他の武将の追随を許さなかった。第二に、小早川隆景の優れた水軍指揮能力である。彼は父・元就の戦略を深く理解し、それを海上において具体的な戦術として実行する類稀な才能を持っていた。そして第三に、村上水軍の圧倒的な戦闘力である。彼らの存在なくして、厳島での海上封鎖も、防長経略における沿岸制圧も、そして門司城沖での大勝利も成し遂げることはできなかったであろう。特に、陸戦と海戦を巧みに連携させ、一体として運用する戦術は、他の戦国大名には見られない毛利氏固有の強みとなり、その後の躍進の原動力となった。
この6年間で築き上げられた毛利水軍の力と、瀬戸内海西部における盤石な制海権は、単に大内氏や大友氏を退けたという戦術的勝利に留まるものではなかった。それは、やがて西進してくる織田信長という中央の巨大権力と対峙する際の、毛利氏最大の戦略的資産となる。後に、石山本願寺への兵糧輸送を成功させ、織田水軍を壊滅させた「第一次木津川口の戦い」での輝かしい勝利は、まさにこの「厳島沖小海戦」で培われた経験と組織力、そして自信の直接的な成果であった 31 。この一連の海を巡る闘争なくして、その後の毛利氏の栄華はあり得なかったと結論づけることができる。
引用文献
- 厳島の戦(いつくしまのたたかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8E%B3%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6-817972
- 「厳島の戦い(1555年)」まさに下剋上!元就躍進の一歩は見事な奇襲戦だった | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/87
- 厳島の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11092/
- 【合戦解説】厳島の戦い 大内 vs 毛利 〜 陶晴賢と毛利元就 智将の両雄が遂に激突 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=O_OVTyrvc5g
- さらば!! 西国一の大名・大内氏「最後の当主」大内義長 - 山口県魅力発信サイト「ふくの国 山口」 https://happiness-yamaguchi.pref.yamaguchi.lg.jp/kiralink/202303/yamaguchigaku/index.html
- 本当に逆臣?! 陶晴賢の虚像。そして今 - 山口県魅力発信サイト「ふくの国 山口」 https://happiness-yamaguchi.pref.yamaguchi.lg.jp/kiralink/202109/yamaguchigaku/index.html
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- 毛利水軍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%B4%E8%BB%8D
- 「村上武吉」 毛利水軍の一翼を担った、村上水軍当主の生涯とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1187
- 【特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち https://www.mihara-kankou.com/fp-sp-sengoku
- 「小早川隆景」すべては毛利のために。宗家を支えた元就三男の生涯 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/585
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- 【合戦解説】防長経略[後編] - 勝山籠城戦 - 〜須々万の沼城を落とした毛利軍は遂に大内の本拠山口へ攻め上る - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=sCNvBd2Ti4Y
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