最終更新日 2025-08-31

名胡桃城奪取(1589)

名胡桃城奪取事件(1589年):天下統一の最終章を告げた一城

序章:天下統一の最終章を告げた一城

天正17年(1589年)、上野国(現在の群馬県)の利根川沿いに位置する一基の山城、名胡桃城が北条氏によって奪取された。この事件は、一見すれば戦国乱世にはありふれた国境紛争の一齣に過ぎない。しかし、その実態は、100年以上にわたって続いた戦国時代の終焉を告げ、豊臣秀吉による天下統一事業を完成させる最後の戦い、小田原征伐の直接的な導火線となった歴史的転換点であった 1

この「名胡桃城奪取事件」は、単なる領土を巡る武力衝突ではない。それは、豊臣秀吉が構築しようとした「天下の秩序(公儀)」と、関東に独立を保とうとする後北条氏が固執した「旧来の価値観(私戦)」が激突した、象徴的な出来事であった。本報告書は、この事件の背景にある複雑な政治力学、沼田領問題の根深い宿怨、事件発生から落城に至るまでの詳細な時系列、そしてそれが如何にして巨大な戦乱へと発展していったのかを、多角的な視点と史料に基づき徹底的に解明する。通説に加え、事件の裏に隠された政治的謀略の可能性にも深く踏み込み、この歴史的事件の全貌を明らかにする。

まず、本件を理解する上で不可欠な主要人物の関係性を以下に示す。

表1:名胡桃城奪取事件 関連人物一覧

所属勢力

人物名

役職・立場

事件における役割

豊臣政権

豊臣秀吉

関白・太政大臣

天下人。「惣無事令」を発布し、沼田領を裁定。事件を口実に北条討伐を断行。

豊臣政権

徳川家康

内大臣

豊臣・北条間の仲介役。真田氏の寄親(後見人)。

後北条氏

北条氏政

(隠居)

北条家四代目当主。事実上の最高権力者。対秀吉強硬派の中心人物。

後北条氏

北条氏直

北条家五代目当主

公式上の当主。対秀吉和睦派とされるが、氏政の影響下にあった。

後北条氏

猪俣邦憲

沼田城代

事件の実行者。北条氏邦の家老。通説では猪武者とされるが、実態は異なる。

真田氏

真田昌幸

信濃上田城主

名胡桃城の所有者。知略で知られ、巧みに秀吉・家康を利用し領土を確保。

真田氏

鈴木重則(主水)

名胡桃城代

猪俣の謀略により城を奪われ、責任を取り自刃したとされる悲劇の城代。

真田氏

中山九郎兵衛

名胡桃城番衆

猪俣に内応し、城乗っ取りに加担したとされる人物。


第一部:火種―沼田領を巡る宿怨と天下人の介入

1. 惣無事令という「新秩序」の創出

名胡桃城事件を理解する上で、まず豊臣秀吉が天下に示した「惣無事令」の本質を把握する必要がある。天正15年(1587年)12月、九州を平定した秀吉は、関東・奥羽の諸大名に対し惣無事令を発令した 3 。これは、単に「大名間の私的な戦闘を禁ずる」という法令に留まるものではない 4 。その真の狙いは、戦国時代を通じて大名の権力の源泉であった「自力救済」、すなわち武力によって領土紛争を解決する権利そのものを剥奪し、すべての裁定権を豊臣政権という中央権力に一元化することにあった 5

この法令は、従来の戦国の価値観を根底から覆す、いわば政治的パラダイムシフトであった。惣無事令に従うことは、独立した戦国大名であることを放棄し、豊臣政権という新たな秩序の一構成員となることを意味した。それ故に、この法令は諸大名の服従の意思を測る「踏み絵」として機能したのである。

この「新秩序」に対し、関東の覇者・後北条氏は極めて曖昧な態度を取った。天正16年(1588年)8月には当主・氏直の叔父である北条氏規が上洛し、表向きは恭順の意を示した 6 。しかし、当主である氏直、そして実権を握る隠居の氏政の上洛は、様々な理由をつけて引き延ばされ続けた。その一方で、領内では15歳から70歳までの男子を動員対象とする厳格な「人改め」を実施し、総動員体制を敷くなど、明らかに戦備を整えていた 3 。この和戦両様の構えは、秀吉の疑念を深めるに十分であった。

2. 沼田領裁定の光と影

惣無事令と並行して、事件の直接的な背景となったのが、長年にわたる真田・北条両氏の懸案、「沼田領問題」である。上野国に位置する沼田領は、越後と関東を結ぶ交通の要衝であり、天正10年(1582年)の「天正壬午の乱」以降、独立大名となった真田昌幸と、関東の支配を固めたい北条氏との間で、血で血を洗う熾烈な争奪戦が繰り広げられていた 7

この問題に対し、秀吉は天下人として仲裁に乗り出す。天正17年(1589年)2月、秀吉は以下の裁定を下した。

  • 沼田城および沼田領の3分の2を北条氏に引き渡す。
  • 名胡桃城および領地の3分の1は真田氏の所領とする 7
  • 真田氏が失う領地の代替として、信濃国箕輪を与える 7

この裁定は、一見すると両者の顔を立てた公平なものに見える。北条氏は長年の悲願であった沼田城を手に入れ、真田氏も代替地を得て面目を保った。同年7月には、豊臣家臣の津田盛月と富田一白、徳川家臣の榊原康政が現地に派遣され、裁定通りに沼田城は北条方へ引き渡された 7

しかし、この裁定には巧妙に仕掛けられた政治的な罠が潜んでいた。沼田城から利根川を挟んでわずか3キロメートル、目視できるほどの至近距離に位置する名胡桃城が、真田領として残されたのである 11 。これは軍事的な観点から見れば、極めて不安定かつ危険な国境線であった。沼田城を保持する北条方にとって、名胡umi城は喉元に突き付けられた匕首に等しい。戦略家である秀吉が、この地政学的な緊張関係を見過ごしたとは考え難い。むしろ、この配置が北条の軍事行動を誘発する可能性が高いことを予見した上で、意図的に紛争の火種を残した可能性が指摘されている。この裁定の真の目的は、和平の実現ではなく、「北条が惣無事令という新秩序を真に受け入れ、目の前の軍事的脅威を私戦ではなく、豊臣政権を通じた外交で解決しようとするか」を試すことにあった。もし北条が旧来の価値観通り武力に訴えれば、それは「惣無事令違反」として、討伐の格好の口実となるからである。

3. 最前線の対峙―猪俣邦憲と鈴木主水

この緊迫した最前線で対峙したのが、北条方の猪俣邦憲と真田方の鈴木重則(主水)であった。

沼田城代に就任した 猪俣邦憲 は、後世の軍記物などで思慮の浅い猪武者のように描かれることが多い。しかし、その実像は大きく異なる。彼の元の名は富永助盛といい、北条氏譜代の家柄の出身である 13 。主君・北条氏邦の宿老として箕輪城代や沼田城代を歴任した、経験豊富な指揮官であった 13 。彼が主家の意向を無視して独断で行動するような、単なる現場の暴走者であったとは考えにくい。

一方、名胡umi城代を務めていたのが**鈴木重則(通称:主水)**である。彼は真田昌幸に仕える重臣であり、足軽大将として活躍した武将であったと伝えられる 16 。ただし、彼の名は同時代の一次史料には見られず、その具体的な人物像は江戸時代に成立した軍記物『加沢記』などによって形作られた側面が強い点には留意が必要である 19 。悲劇的な最期を遂げた忠臣として、その名は後世に語り継がれることとなる。彼の子、鈴木忠重(右近)は、後に真田信之の家老として重用されている 20


第二部:閃光―名胡桃城、落城の刻(時系列による再構成)

沼田領の引き渡しからわずか4か月後、秀吉が仕掛けた罠は現実のものとなる。事件は、周到に準備された謀略によって、瞬く間に決着した。

表2:名胡桃城奪取事件 タイムライン

年月日 (天正17年)

出来事

関係者の動き

典拠資料

11月3日

名胡桃城奪取

猪俣邦憲が謀略を実行。鈴木主水は偽書状で城外へ誘い出される。中山九郎兵衛が内応し、北条勢が城を占拠。

7

11月3日以降

鈴木主水、自刃

鈴木主水は岩櫃城付近で計略に気づき引き返すも間に合わず、沼田城下の正覚寺で自刃したと伝わる。

10

11月上旬

凶報、伝達

真田昌幸・信幸が事件を把握。直ちに寄親の徳川家康に報告。

7

11月10日

家康の指示

家康が真田信幸に返書。「まずは裁定の検使であった津田・富田に知らせるように」と指示。

22

11月中旬

秀吉、事件を把握

家康および検使らを通じて、秀吉の耳に事件の報が届く。

(推測)

11月21日

秀吉、昌幸に書状

秀吉が真田昌幸に朱印状を送付。北条氏の非を断じ、実行犯の処罰なくして赦免はないと約束。

23

11月24日

秀吉、北条に宣戦布告

秀吉が北条氏直に13か条の詰問状(事実上の宣戦布告状)を送付。

23

1. 天正17年11月3日―謀略の実行

天正17年(1589年)11月3日、猪俣邦憲はかねてより準備していた謀略を実行に移した。『加沢記』などの記録によれば、邦憲はまず名胡桃城の城番衆の一人であった中山九郎兵衛を調略し、内応させることに成功した 7 。中山は、城代である鈴木主水の家臣(一説には義弟)であったとされる。

次に、中山を通じて、主君・真田昌幸からのものと偽った書状が鈴木主水のもとへ届けられた 1 。書状の内容は、主水を至急の軍議のため、あるいは別の任務のために城外の岩櫃城へ呼び出すというものであった 7 。主君からの命令を疑わなかった主水は、少数の供回りのみを連れて名胡桃城を発った。

主水が城を留守にした、まさにその隙を突いて、内応した中山九郎兵衛が城門を開け放った。そこへ猪俣邦憲率いる北条勢が雪崩れ込み、抵抗を受けることなく、一滴の血も流さずに名胡桃城を占拠したのである 7

2. 城代の絶望と死

城外へ向かう道中、岩櫃城に近づいたあたりで、鈴木主水はこれが謀略であることに気づいたとされる 7 。急ぎ名胡桃城へと引き返したが、時すでに遅く、城には北条の旗が翻っていた。

少数の手勢では、城を奪還することは不可能であった。奪還を試みたものの果たせなかった主水は、城代として城を奪われた責任を痛感し、武士としての覚悟を決める 1 。彼は敵地である沼田城下へ向かい、正覚寺の門を叩くと、その場で自刃して果てたと伝えられている 10 。この悲劇的な最期は、彼の忠義を象徴する逸話として後世に語り継がれ、正覚寺には現在も主水のものとされる墓が残されている 16


第三部:燎原の火―一通の書状が戦国を終わらせるまで

名胡桃城の落城は、一個の城代の死に留まらなかった。その報は瞬く間に中央へと駆け巡り、天下人・豊臣秀吉の逆鱗に触れ、関東全土を巻き込む巨大な戦乱の引き金となる。

1. 凶報、上田から京へ

事件の報せは、直ちに主君である真田昌幸・信幸父子のもとへ届けられた。彼らは即座に、寄親(後見人)である徳川家康に事の次第を報告した 7 。これは、感情的に報復攻撃を仕掛けるのではなく、豊臣政権が定めた序列と手続きを遵守した行動であり、真田氏が秀吉の「新秩序」のルールの中で動いていることを内外に示す、極めて冷静な対応であった。

この報告に対し、11月10日付で家康が真田信幸に送った返書が現存している 22 。その中で家康は、自身が直接介入することや、秀吉に直接訴えることを指示していない。まず、先の沼田領裁定で検使を務めた豊臣家臣の津田盛月と富田一白に報告するよう冷静に指示している。

この家康の対応は、極めて計算されたものであった。家康は真田の寄親であると同時に、北条氏直の舅でもあり、両家の板挟みとなる非常に難しい立場にあった 6 。ここで彼が真田に加勢すれば北条との関係が破綻し、逆に北条を擁護すれば秀吉から北条への加担を疑われかねない。家康の「検使に報告せよ」という指示は、この問題を「徳川・真田・北条の私的な問題」から、「豊臣政権の公式な裁定に対する違反」という公的な問題へと昇華させる最善手であった。これにより、家康は仲介者の立場を保ちつつ、最終的な判断のすべてを秀吉に委ねることに成功したのである。

2. 天下人の激怒―秀吉の書状を読み解く

家康および検使らを通じて事件の報告を受けた秀吉の反応は、迅速かつ激烈であった。彼はこの事件を、北条討伐の絶好の機会と捉え、矢継ぎ早に書状を発した。

真田昌幸宛朱印状(11月21日付)

まず秀吉は、被害者である真田昌幸に対し、怒りと慰撫を込めた朱印状を送った 23

  • 北条の非難: 「其の方相抱ふるなくるミの城へ、今度北条境目の者共手遣せしめ…彼の用害北条方へ法(のっと)るの旨に候」と、北条の行為を明確に「乗っ取り」と断定した。
  • 赦免の条件: 「此の上北条出仕申すに於いても、彼のなくるミヘ取り懸り討ち果たし候者共、成敗せしめざるに於いては、北条赦免の儀これ在るべからず候」と、事件の実行犯(猪俣邦憲ら)の処罰なくして、北条氏の赦免はあり得ないという絶対的な条件を突きつけた。
  • 恩賞の約束: さらに、「北条一札の旨相違に於いては、其の方儀、本知の事は申すに及ばず、新知等仰せ付けらるべく候」と、もし北条を討伐することになれば、真田の旧領安堵はもちろん、新たな領地も与えると約束し、その忠誠を繋ぎ止めた。

北条氏直宛詰問状(11月24日付)

その3日後、秀吉は北条氏直に対し、13か条からなる長文の詰問状を送付した。これは、単なる詰問ではなく、秀吉の政治的プロパガンダの集大成ともいえる、事実上の宣戦布告状であった 23

  • 罪状の列挙: 「近年公儀を蔑にし上洛する能はず」「関東に於いて雅意に任せ狼藉の条、是非に及ばず」など、名胡桃城事件以前からの北条氏の非協力的な態度を改めて列挙した。
  • 自己の正当化: 織田信長の後継者として柴田勝家らを討ち、天下を静謐にしてきた自身の功績を一代記風に語り、「秀吉一言の表裏これ有るべからず」と、自らの行動の正当性を天命と結びつけた 23
  • 天罰としての断罪: そして、北条の行為を「然る処に氏直天道の正理に背き、帝都に対し奸謀す。何ぞ天罰を蒙らざらん哉」「所詮普天の下、勅命に逆らふ輩、早く誅伐を加へざるべからず」と断じた 23 。これは、北条氏の行動を単なる惣無事令違反から、「天の道」と「天皇の命令」に対する反逆へと問題をすり替え、自らの討伐を「天罰」として絶対的に正当化する論理であった。
  • 最終通告: 書状の最後は、「来歳必ず節旄を携へ進発せしめ、氏直首を刎ぬべき事、踵を廻らすべからざる者也」という、翌年の出兵と氏直の斬首を明確に宣言する、戦慄すべき言葉で締めくくられていた 23

3. 小田原評定の迷走と致命的判断

この激烈な詰問状に対し、北条方の対応は迷走を極めた。当主の氏直は12月7日付の書状で、「名胡桃城は(裁定によって)真田から引き渡されたものであり、奪ってはいない。全く知らないことだ」と、事実と異なる弁明を行った 7 。また、秀吉に対しては「家臣が独断でやったこと」という趣旨の弁明書も送っている 27

しかし、この弁明は北条首脳部の実際の行動とは全く矛盾していた。実権を握る隠居の氏政は、秀吉が赦免の絶対条件とした事件の実行犯・猪俣邦憲を処罰するどころか、一切不問とし、引き続き沼田城代の任に当たらせた 15 。それどころか、年が明けた天正18年(1590年)正月には、氏政自ら猪俣へ激励の書状と贈り物を届けている 9 。この行動は、北条氏が猪俣の行為を是認していたことを示す動かぬ証拠であり、秀吉との交渉の道を自ら完全に閉ざす、致命的な判断であった。

この背景には、氏政を中心とする主戦派と、氏直や叔父の氏規ら和睦派との間で家中の方針が統一されていなかったことがあるとされる 4 。結局、北条氏は秀吉の要求を拒否する道を選び、12月17日、氏直は領内の諸将に対し、翌年1月15日までの小田原参陣を命じ、日本全土を巻き込む大戦への臨戦態勢に入ったのである 24


第四部:歴史的深層―事件の裏に隠された真実

名胡桃城奪取事件は、通説で語られるような「現場の暴走が招いた悲劇」という単純な構図では説明できない。その裏には、天下人の周到な戦略と、旧時代の覇者の致命的な認識のズレが存在した。

1. 仕組まれた罠か、必然の暴発か―秀吉「口実説」の検証

今日、多くの研究者が指摘するように、この事件は秀吉が北条討伐の口実を得るために、周到に仕組んだ罠であった可能性が極めて高い 9

  • 根拠1:周到な戦争準備。 秀吉は、名胡桃城事件が発生する20日以上も前から、重臣の長束正家に対して小田原攻めのための兵糧や馬の飼料の準備を命じていた。さらに、越後の上杉景勝に対しても、来春3月には小田原を攻めるとして軍役を指示する書状が残されている 9 。これらの史料は、秀吉が事件の発生以前から対北条戦を具体的に計画していたことを示している。
  • 根拠2:計算された裁定。 前述の通り、「沼田領裁定」そのものが、北条の軍事行動を誘発する極めて挑発的な内容であった。目の前に軍事的脅威を置くことで、北条が惣無事令という「建前」を破り、武力行使という「本音」に出ることを予期していたと考えられる。

これらの状況証拠から、名胡umi城事件は小田原征伐の「原因」ではなく、すでに決定されていた征伐を開始するための、完璧な「口実」として利用されたと結論付けられる。

2. 猪俣邦憲は「猪武者」にあらず

事件の実行者である猪俣邦憲の行動を「独断専行」とする見方もまた、再考を要する。これは、北条氏が責任を回避するために用いた弁明の論理であり、後世の軍記物がそれを増幅させたに過ぎない 9

彼の譜代の家臣という出自と、城代という重責を担う立場から見て、主家の意向を完全に無視して、天下の情勢を揺るがすほどの重大な軍事行動を独断で起こすとは考え難い 13 。そして何よりも、事件後に処罰されるどころか、事実上の最高権力者である氏政から直接激励されているという事実は、彼の行動が北条首脳部の承認、あるいは少なくとも黙認のもとに行われたことを強く示唆している 9

猪俣の行動は、北条氏が「惣無事令」を絶対的な規範とは受け入れず、「現場レベルでの多少の武力衝突は、既成事実化してしまえば中央も黙認せざるを得ない」という、旧来の戦国的な価値観に基づいて行った「実力行使」であったと解釈すべきである。戦国時代の常識では、目の前の軍事的脅威を謀略や奇襲によって排除することは当然の行為であった 15 。彼らは、遠い上方から発せられた惣無事令を一種の「建前」と捉え、関東の現場の実情にはそぐわないと考えていた可能性がある。この「天下の法」に対する認識の甘さが、結果的に秀吉の思う壺にはまる最大の要因となった。

3. 滅びの序曲―北条氏の外交・情報戦略の完全な敗北

結局のところ、名胡桃城事件が露呈したのは、後北条氏の外交・情報戦略の完全な敗北であった。彼らは、秀吉が構築した「惣無事令」という新たな政治秩序のルールを、最後まで本質的に理解することができなかった。北条氏がこの事件を「国境の領土」という物理的な問題として捉えていたのに対し、秀吉はこれを「天下の秩序への挑戦」という政治的・思想的な問題として捉えていた。この致命的な認識のズレが、両者の運命を分けた。

氏政と氏直による二頭体制は、家中の方針統一を妨げ、意思決定の遅れと混乱を招いた 28 。そして、秀吉が張り巡らせた圧倒的な情報網と、諸大名を巧みに操る政治力の前には、100年にわたり関東に君臨した名門・北条氏もなすすべがなかった。天正18年(1590年)に開始された小田原征伐は、20万を超える豊臣の大軍の前に、わずか数か月で北条氏の滅亡という結末を迎える。それは単なる軍事力の差だけではなく、時代の変化に対応できなかった旧時代の覇者が、新時代の創造者の前に敗れ去る、歴史の必然であった。


結論:名胡桃城が歴史に刻んだもの

天正17年(1589年)の名胡桃城奪取事件は、戦国大名の力の源泉であった「私戦」の論理が、豊臣政権が掲げる「公儀」の論理によって完全に否定され、断罪された画期的な出来事であった。

北条氏は、旧来の戦国的価値観に基づき、自領の安全保障のために当然の軍事行動を起こした。しかし、その行動は豊臣秀吉が構築した新秩序においては「天下への反逆」を意味した。一人の城代・鈴木主水の死と、上野の辺境にある一つの城の陥落は、結果として関東の巨大勢力・後北条氏の滅亡を招き、秀吉による天下統一事業の完成を決定づけたのである 2

事件後、全沼田領は真田氏に安堵され、その歴史的役割を終えた名胡桃城は廃城となった 7 。しかし、この小さな山城が動かした歴史の歯車はあまりにも大きい。名胡桃城は、戦国という時代の終わりと、統一政権による新たな時代の始まりを告げる、歴史の転換点として、その名を日本史に深く刻み込んでいる。

引用文献

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  4. 【3万5千 VS 22万】小田原征伐|北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由 - 【戦国BANASHI】日本史・大河ドラマ・日本の観光情報サイト https://sengokubanashi.net/history/odawara-seibatsu/
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  6. Web版 有鄰 第420号 [座談会]小田原合戦 −北条氏と豊臣秀吉− /永原慶二・岩崎宗純・山口 博・篠﨑孝子 - 有隣堂 https://www.yurindo.co.jp/yurin/article/420
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  8. 秀吉による沼田領問題の裁定 - 櫛渕史研究会 - Ameba Ownd https://kushibuchi.amebaownd.com/posts/6109112/
  9. 「名胡桃城事件(1589年)」とは?北条氏が滅んだきっかけとなった一大事件! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/461
  10. 名胡桃城(名胡桃城址)の歴史や見どころなどを紹介しています - 戦国時代を巡る旅 https://www.sengoku.jp.net/kanto/shiro/nagurumi-jo/
  11. 名胡桃城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Gunma/Nagurumi/index.htm
  12. 【群馬県】沼田城の歴史 並み居る戦国大名が争奪戦を繰り広げた要衝 https://sengoku-his.com/1953
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  21. 鈴木忠重 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%BF%A0%E9%87%8D
  22. 【北条の兵、名胡桃城を奪取】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096210
  23. 【北条氏討伐へ】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096220
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  25. 真田の人々と歴史/沼田城 | 【公式サイト】さなだんごの旅 http://sanadango.jp/j_nagurumijo.html
  26. 五代氏直の家督相続 - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/010/
  27. 豊臣秀吉 北条氏宛宣戦布告状/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/search-calligraphy/art0006240/
  28. 北条氏政の長男・北条氏直が辿った生涯|義父・家康と通じて北条家存続の道を探る五代目当主【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1142312/2
  29. 【3万5千 VS 22万】北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=CGECWJu-7I4
  30. 名胡桃城 余湖 http://yogoazusa.my.coocan.jp/nagurumi.htm
  31. 猪俣邦憲(いのまた くにのり) 拙者の履歴書 Vol.184~名胡桃一城の奪取 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf7e902d85779