大崎合戦(1588~89)
天正16年、伊達政宗は大崎氏の内紛に介入するも、最上義光の妨害や同盟国の裏切りに遭い大敗。この政宗の生涯唯一の敗北は、彼の野望に初めて現実の壁を突きつけた。
大崎合戦(天正十六~十七年)詳細報告書:奥州の秩序を揺るがした独眼竜の蹉跌
序章:奥州の巨星、独眼竜の蹉跌
天正年間後期、奥州の空にその名を轟かせていた若き巨星、伊達政宗。摺上原の合戦で会津の蘆名氏を滅ぼすなど、破竹の勢いで版図を拡大していた彼にとって、その輝かしい戦歴に唯一の汚点として刻まれる戦いがある。それが天正十六年(1588年)から翌年にかけて繰り広げられた「大崎合戦」である 1 。
この合戦は、表面的には伊達氏と、かつて奥州の支配者であった名門・大崎氏との衝突であった。しかしその内実は、奥州の覇権を巡る伊達政宗と伯父・最上義光の代理戦争であり、中央に台頭しつつあった豊臣政権の影が色濃く差し込む、時代の転換点を象徴する戦いであった。政宗が格下と見なしていたはずの大崎氏に対し、なぜかくも無惨な敗北を喫したのか。そして、戦術的には勝利を収めた大崎氏が、なぜ最終的に滅亡の道をたどったのか。
本報告書は、単なる戦闘の記録に留まらず、合戦に至るまでの奥州に渦巻く複雑な力学、合戦のリアルタイムな経過、そしてその後の歴史的帰結までを徹底的に詳述する。これにより、大崎合戦が戦国末期の奥州史において持つ多層的な意味を解き明かし、若き独眼竜の野望が初めて現実の壁に突き当たったこの戦いの全貌を明らかにするものである。
第一章:合戦前夜―奥州に渦巻く力学
大崎合戦は、天正十六年のある日、突発的に始まったわけではない。その根源は、数十年にわたって蓄積されてきた奥州の地政学的変動、そして主要な登場人物たちの間に張り巡らされた複雑な人間関係の網の目にあった。伊達、最上、大崎、そして彼らの間で翻弄される小領主たち。それぞれの思惑が絡み合い、合戦という一点に向かって収斂していく過程を、まずは解き明かす必要がある。
第一節:名門の落日、大崎氏の苦悩
大崎氏の祖は、室町幕府を開いた足利尊氏と同じ清和源氏の流れを汲む名門・斯波氏である。南北朝時代、奥州管領として下向した斯波家兼を始祖とし、その子孫は代々「奥州探題」の職を世襲、陸奥国と出羽国を管轄する幕府の出先機関として絶大な権威を誇った 1 。その探題府が置かれた名生城には、伊達氏や葛西氏をはじめとする奥州の国人領主たちが参勤し、大崎氏は名実ともに奥州の盟主として君臨していた 4 。
しかし、戦国乱世の到来とともに、その権威は徐々に揺らぎ始める。下剋上の風潮の中、各地で実力を持つ戦国大名が台頭。特に伊達氏が陸奥守護職に任じられると、探題職の権威は名目だけのものとなり、大崎氏の力は急速に衰退していった 1 。さらに、「大崎氏天文の内訌」に代表されるように、一族や家臣団を強力に統制する力を失い、度重なる内紛によって自らの領国支配さえも危うくしていた 1 。政宗の時代には、かつての栄光は見る影もなく、一地方勢力へと転落していたのである。
第二節:伊達氏の膨張と大崎氏への圧力
大崎氏の衰退と反比例するように、南奥州で勢力を急拡大させたのが伊達氏であった。伊達氏による大崎氏への圧力は、政宗の祖父・晴宗、曾祖父・稙宗の代から執拗に続けられていた。
その象徴的な出来事が、伊達稙宗による家督介入である。稙宗は、自らの次男・小僧丸(後の義宣)を大崎義直の養子として送り込み、大崎氏の家督を継がせようと画策した 1 。これは事実上の乗っ取りであり、この一件によって、それまで主従にも似ていた両家の力関係は完全に逆転した 3 。その後、伊達家中で天文の乱が勃発し、義宣が殺害されたことで大崎氏の血統は保たれたものの、伊達氏の優位は揺るぎないものとなった。
さらに決定的だったのは、政宗の祖父・伊達晴宗が奥州探題職に補任されたことである 6 。これにより、家格の面でも伊達氏が大崎氏を完全に凌駕した。もはや大崎氏は、伊達氏の顔色を窺いながら存続を図る、従属的な一大名に過ぎない、というのが政宗の代における奥州での共通認識となっていた 6 。
第三節:伯父と甥の相克―最上義光と伊達政宗
この複雑な奥州の情勢に、さらなる緊張感をもたらしていたのが、伊達政宗と出羽の雄・最上義光の関係である。政宗の母・義姫は義光の妹であり、二人は血の繋がった伯父と甥であった 7 。しかし、領土を接する戦国大名同士、その関係は親族としての情愛よりも、覇権を争う競争相手としての敵愾心が常に上回っていた。
最上氏もまた、大崎氏と同じく斯波一門の分家であり、羽州探題を世襲した名門であった 6 。それゆえに、本家筋である大崎氏への同族意識と、同じく奥州の覇権を目指す甥・政宗への強い警戒心が混在していた 12 。義光にとって、領土を急拡大させる政宗の存在は脅威そのものであり、常にその動きを牽制する必要があった 13 。
このような状況下で発生した大崎氏の内紛は、義光にとってまさに渡りに船であった。大崎氏を救援するという大義名分のもと、合法的に軍事介入し、甥の野心を挫き、自らの影響力を大崎領に及ぼす絶好の機会と捉えたのである 6 。
第四節:鍵を握る小領主、黒川氏の二方面外交
伊達と大崎という二大勢力の狭間、黒川郡を所領とする鶴楯城主・黒川晴氏は、まさにこの合戦のキャスティングボートを握る存在であった 16 。彼は、小領主が乱世を生き抜くための巧みな二方面外交を展開していた。
- 伊達氏との関係: 晴氏の祖父は伊達一門の出身であり、伊達氏とは深い血縁関係にあった。さらに晴氏は、自らの娘・竹乙姫を伊達政宗の叔父であり伊達一門の重鎮である留守政景に嫁がせていた 16 。これにより、伊達家との間に強力な姻戚関係を築いていた。
- 大崎氏との関係: 一方で、晴氏には男子がいなかったため、大崎義直の子である義康を養子として迎え入れていた 16 。これにより、大崎家ともまた、家督相続を通じた深い繋がりを持っていたのである。
この伊達・大崎双方に張り巡らされた姻戚の網は、黒川氏の安全保障であると同時に、彼を極めて曖昧な立場に追い込んだ。合戦が勃発した際、彼がどちらの陣営につくのかは誰にも予測できず、この「不確定要素」の存在が、特に伊達軍の戦略立案を著しく困難にさせることになる。
これらの背景を整理すると、大崎合戦が単なる二者間の領土紛争ではないことが明らかになる。それは、旧宗主(大崎)と新興勢力(伊達)の力関係の最終的な清算、奥州の覇権を争う同族(伊達と最上)の代理戦争、そして両者の間で生き残りを図る小領主(黒川)の苦渋の選択という、三つのドラマが同時に進行した複合的な事象であった。大崎氏の弱体化という「内因」と、伊達・最上の覇権争いという「外因」が、黒川氏という不安定な触媒を介して、避けがたい大規模な衝突へと発展していったのである。
表1:主要登場人物と勢力関係
人物名 |
所属勢力 |
合戦における役割 |
主要な関係性 |
伊達政宗 |
伊達家当主 |
侵攻軍の総大将(米沢にて後詰) |
最上義光の甥、義姫の子 |
最上義光 |
最上家当主 |
大崎氏の救援、伊達領への牽制 |
伊達政宗の伯父、義姫の兄 |
大崎義隆 |
大崎家当主 |
防衛軍の総大将 |
最上義光の姻戚、氏家吉継の主君 |
義姫 |
(伊達家) |
停戦の仲介者 |
政宗の母、義光の妹 |
氏家吉継 |
大崎家執事 |
内紛の当事者、伊達への救援要請 |
大崎義隆の家臣 |
黒川晴氏 |
黒川家当主 |
当初中立→大崎方へ加勢 |
留守政景の舅、大崎義康の養父 |
留守政景 |
伊達家一門 |
侵攻軍大将(慎重論派) |
黒川晴氏の婿 |
泉田重光 |
伊達家家臣 |
侵攻軍大将(強硬論派) |
留守政景との対立 |
第二章:内紛の火種―大崎家の亀裂と伊達政宗の介入
大崎領に戦雲が垂れ込める直接の引き金となったのは、極めて個人的な感情のもつれから始まった大崎家中の内紛であった。この小さな火種が、いかにして奥州全体を巻き込む大火へと燃え広がっていったのか。その経緯は、戦国大名が抱える内部の脆弱性と、それを好機として利用しようとする外部勢力の冷徹な計算を浮き彫りにする。
事の発端は、天正十四年(1586年)頃、大崎家当主・大崎義隆が寵愛していた二人の小姓、伊場野惣八郎と新井田隆景の間の諍いであった 17 。主君の寵愛を巡る嫉妬は、やがて家臣団を二分する派閥争いへと発展。この個人的な対立が、大崎家の統治構造そのものを揺るがす亀裂へと拡大していく。
この争いは、ついに当主・義隆と、大崎家の執事として最大の権力を持っていた岩手沢城主・氏家吉継との深刻な対立へと発展した 6 。義隆が新井田派を支持したのに対し、吉継は伊場野派を庇護したことで、両者の関係は修復不可能なまでに悪化。主君と執事の対立は、大崎家の屋台骨を根底から蝕んでいった。
追い詰められた氏家吉継は、ついに外部の力に頼るという禁断の手段に打って出る。彼は、隣国の若き覇者、伊達政宗に使者を送り、援軍を要請したのである 18 。これは単なる助けを求める行為ではなかった。それは、自家の内政問題に、領土的野心を隠さない強大な隣国を引き入れるという、極めて危険な賭けであった。
この報せは、政宗にとってまさに天佑であった。長年、併呑の機会を窺っていた大崎領に対し、「家中の内紛を鎮圧し、困窮する重臣を救う」という、またとない大義名分が転がり込んできたからである 17 。背後で大崎氏と姻戚関係にある伯父・最上義光が介入してくることは十分に予測されたが、政宗はこの千載一遇の好機を逃さなかった 6 。彼は氏家吉継の救援要請を受諾し、即座に大崎領への出兵を決定した。
こうして、一人の主君の個人的な寵愛問題から始まった小さな亀裂は、家臣団の派閥対立を激化させ、孤立した執事に外部への救援要請を決断させた。そしてその要請は、介入の口実を待ち望んでいた伊達政宗にとって、計画を実行に移すための完璧な「引き金」となったのである。奥州の勢力図を塗り替える大戦の幕は、かくして切って落とされた。
第三章:戦いの記録―大崎合戦の時系列詳解
天正十六年(1588年)1月、伊達政宗の号令一下、大崎領に向けて進軍を開始した伊達軍。しかし、その行く手には、指揮官の不和、予測不能な天候、そして同盟国の裏切りという、数々の困難が待ち受けていた。ここでは、合戦の推移を時系列で追い、伊達軍がなぜ敗北へと追い込まれていったのかを克明に記録する。
表2:大崎合戦 詳細年表(天正16年)
日付 |
出来事 |
伊達軍の動向 |
大崎・最上連合軍の動向 |
備考 |
1月 |
伊達軍侵攻開始 |
浜田景隆を陣代、留守政景・泉田重光を大将とする約1万の軍勢を派遣。 |
中新田城を拠点に籠城戦の準備。 |
伊達軍内部で政景(慎重論)と重光(強硬論)が対立。 |
2月2日 |
中新田城攻防戦 |
泉田重光率いる先陣が成瀬川を渡り中新田城へ攻撃開始。 |
低湿地帯を利用し伊達軍の進軍を阻害。 |
折からの大雪で伊達軍の動きが鈍る。 |
2月2日午後 |
伊達軍敗走 |
撤退を開始するも、城から打って出た大崎軍と、背後を突いた黒川晴氏軍に挟撃され大敗。 |
大崎軍が城から出撃。黒川晴氏が大崎方に加勢し、伊達軍の退路を遮断。 |
黒川氏の離反が決定打となる。 |
2月中旬 |
新沼城籠城 |
敗走した泉田重光らの部隊が新沼城に孤立。食糧難に陥る。 |
新沼城を包囲。 |
政宗、最上義光の軍事圧力により援軍を出せず。 |
2月23日頃 |
和睦交渉開始 |
留守政景が舅・黒川晴氏を介して和睦を打診。 |
交渉に応じる。 |
泉田重光らが人質となる条件で籠城軍の撤退が認められる。 |
第一節:天正16年1月―指揮官たちの不協和音
政宗は、背後の最上義光や南方の蘆名・佐竹連合への備えから、自らは米沢城を動かなかった 18 。大崎侵攻軍の総大将(陣代)には宿老の浜田景隆を、そして実質的な指揮官として、一門衆の重鎮である留守政景と、政宗が重用する若き猛将・泉田重光の二人を任命した 17 。兵力はおよそ一万、政宗にとってこの戦は、数で圧倒できる楽な戦のはずであった 1 。
しかし、伊達軍は出陣前から深刻な問題を抱えていた。大将に任命された留守政景と泉田重光が、犬猿の仲だったのである。その対立は、出撃拠点である松山千石城で開かれた軍議の席で爆発した 24 。
- 泉田重光(強硬論): 「兵は拙速を尊ぶ」と主張。最新装備を誇る自軍の力を過信し、敵の拠点である中新田城を一気に攻め落とし、内応している氏家吉継と速やかに合流すべきだと強硬に迫った 16 。
- 留守政景(慎重論): 大崎平野の地理を知り尽くし、また舅である黒川晴氏の動向が不透明であることを深く懸念。敵を侮らず、慎重に進軍すべきだと反論した 16 。
この対立の根底には、八幡氏の家督相続を巡る両者の長年の個人的な確執があった 6 。結局、血気にはやる泉田の意見が通り、伊達軍は内部に亀裂を抱えたまま、統制を欠いた状態で進軍を開始するという、最悪のスタートを切ることになった。
第二節:天正16年2月2日―雪と泥、そして裏切り
天正十六年二月二日、泉田重光率いる伊達軍の先陣は、成瀬川を渡河し、大崎軍が防衛拠点と定めた中新田城へと殺到した 18 。しかし、彼らを待ち受けていたのは、三つの予期せぬ障害であった。
第一に、 地理的要因 。中新田城の周囲は低湿地帯であり、冬の雪解け水を含んだ深田が天然の要害となっていた 18 。最新鋭の鉄砲隊を擁する伊達軍も、ぬかるみに足を取られては思うように進軍できず、その攻撃力は大幅に削がれた。
第二に、 天候の急変 。伊達軍が攻城に手間取っている最中、天候が急変し、猛烈な大雪が戦場を襲った 1 。視界は奪われ、火縄銃は湿気で使い物にならなくなる。季節外れの大雪は、完全に大崎方に味方した。攻勢を維持できなくなった泉田勢は、やむなく撤退を開始する 6 。
そして第三の、最も致命的な要因が 裏切り であった。伊達軍の撤退を好機と見た大崎軍が城から打って出ると同時に、これまで伊達軍の後方に位置し、その動向が注目されていた黒川晴氏が突如として大崎方への加勢を表明。伊達軍の背後から襲いかかったのである 6 。前方に大崎軍、後方に黒川軍。完全に挟撃される形となった伊達軍先陣は総崩れとなり、壊滅的な打撃を受けた。
第三節:天正16年2月中旬―新沼城の絶望
九死に一生を得た泉田重光ら敗残兵は、近くの小さな城である新沼城へと逃げ込んだ 1 。しかし、それは一時しのぎに過ぎなかった。城はたちまち大崎・黒川連合軍に包囲され、完全に孤立。兵糧も日に日に尽きていき、城内は絶望的な雰囲気に包まれた 28 。
この報せを受けた政宗は、自ら本隊を率いて救援に向かおうとした。だが、それも叶わなかった。伯父・最上義光が「大崎救援」を名目に、大軍を率いて伊達領との国境に進出し、政宗の米沢城に圧力をかけてきたからである 6 。もし政宗が米沢を留守にすれば、たちまち最上軍に侵攻されることは火を見るより明らかであった。最上義光の巧みな牽制によって、政宗は身動きを封じられ、新沼城の将兵を見殺しにするしかない状況に追い込まれたのである。
第四節:天正16年2月下旬―屈辱の和睦
万策尽きた伊達軍に残された道は、屈辱的な条件を呑んでの和睦しかなかった。後陣を率いていた留守政景は、舅である黒川晴氏を仲介役として、大崎方との交渉を開始する 18 。
交渉の結果、大崎方は伊達軍の撤退を認める代わりに、厳しい条件を突きつけた。それは、侵攻軍の大将である泉田重光、そして同じく将の一人であった長江月鑑斎を人質として差し出すことであった 18 。自軍の将を敵に引き渡して、命からがら撤退する。これは、これまで連戦連勝を誇ってきた伊達政宗にとって、キャリア初の、そして完全な軍事的敗北を意味するものであった。
伊達軍の敗北は、指揮官の不和、地理と天候の軽視、同盟国の裏切り、そして敵対勢力の的確な介入という、いくつもの失敗が連鎖して引き起こされた必然の結果であった。この手痛い敗戦は、若き独眼竜に、戦が兵力や武勇だけで決まるものではないという厳しい現実を、骨身に染みて教え込むことになった。
第四章:戦場の調停者―母・義姫の介入と和平交渉
天正十六年二月の局地的な和睦により、新沼城の伊達軍は壊滅を免れたものの、伊達・大崎・最上の三者間の対立は依然として解消されず、奥州は一触即発の緊張状態にあった。この膠着状態を打ち破ったのは、武将たちの刀槍ではなく、一人の女性の類稀なる胆力と行動力であった。その人物こそ、伊達政宗の母であり、最上義光の妹である義姫(保春院)である。
戦場に突如として現れた義姫は、兄と息子が睨み合う伊達・最上国境の中山口に、自らの輿を乗り入れ、両軍のちょうど中間地点に仮屋を建てて座り込んだ 18 。その期間は実に八十日にも及んだという 30 。これは「戦を続けるのであれば、まずこの私を斬ってからにせよ」という、母として、妹としての強烈な意思表示であった 12 。
この常軌を逸した行動の裏には、三者三様の複雑な思惑が絡み合っていた。
- 義姫の動機: 彼女の第一の動機は、愛する息子(政宗)と兄(義光)が全面戦争に突入し、共倒れになるのを防ぎたいという、純粋な家族愛にあったと考えられる 7 。伊達家と最上家の安泰こそが、彼女の生涯をかけた願いであった。
- 最上義光の計算: 義光は、この戦が豊臣秀吉の耳に達することを極度に恐れていた。当時、秀吉は天下統一事業の総仕上げとして、全国の大名に私闘を禁じる「惣無事令」を発令していた 33 。この命令に違反したことが露見すれば、いかに奥州の雄といえども、改易・討伐の対象となりかねない。実際に義光が義姫に送った書状には、停戦仲介の話が秀吉にまで届いてしまったことへの懸念が記されている 21 。さらに、この隙を突いて上杉景勝が庄内地方に侵攻を開始するという新たな脅威も発生しており、義光は伊達との戦いを長引かせる余裕を失っていた 21 。義姫の仲介は、彼にとって体面を保ちつつ停戦するための絶好の口実となったのである。
- 伊達政宗の受諾: 軍事的に手痛い敗北を喫した政宗にとっても、これ以上の戦闘継続は不利であった 6 。母の仲介という形を取ることで、敗戦の体裁を整え、兵を引く名分を得ることができた。
正規の外交ルートが、留守政景が戦闘当事者となったことで機能不全に陥っていた状況下で 21 、血縁に基づく義姫の非公式なチャネルが、唯一の解決策となった。彼女の粘り強い交渉の結果、天正十六年七月、ついに三者間の正式な和睦が成立。人質として大崎方にいた泉田重光も、一旦は最上義光のいる山形城へ送られた後、程なくして政宗のもとへと返還された 21 。
義姫の介入は、表面的には家族間の争いの調停であった。しかしその実態は、豊臣政権という中央からの強大な圧力に対応するための、奥州の二大勢力による苦肉の「手打ち」であった。この和睦は、もはや奥州の地域秩序が、地方の論理だけでは動かせなくなっている時代の到来を告げる、象徴的な出来事であった。
第五章:束の間の勝利と名門の終焉
大崎合戦において、大崎義隆は伊達政宗の侵攻を撃退するという、戦術的には見事な勝利を収めた。名門の意地を見せつけ、一時は安堵したことであろう。しかし、その勝利はあまりにも束の間のものであり、彼らの運命を好転させるには至らなかった。戦国時代の終焉という巨大な歴史の潮流は、奥州の小さな勝利者を手加減なく飲み込んでいく。
和平成立後も、政宗は決して大崎征服を諦めてはいなかった。合戦での手痛い敗北を教訓に、彼は戦略を切り替える。もはや正面からの武力衝突ではなく、水面下での調略によって、大崎家臣団を切り崩し、内部から崩壊させる道を選んだのである 23 。合戦の勝利に浮かれる大崎氏の足元で、政宗の謀略は着々と進行していた。
そして、大崎氏にとっての最終的な審判は、全く別の場所から下された。天正十八年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、関東の北条氏を討伐するための小田原征伐を発令。全国の大名に参陣を命じた。しかし、大崎義隆はこれに応じなかった。中央の情勢に疎かったのか、あるいは旧来の奥州の秩序に固執したのか、その理由は定かではない。だが、この判断が致命的であった。秀吉は、小田原に参陣しなかった大崎義隆、葛西晴信らを「天下への反逆者」とみなし、問答無用でその所領を没収、改易処分としたのである 35 。
大崎合戦での輝かしい勝利は、二年後のこの結末の前には何の意味もなさなかった。彼らは目の前の敵(伊達)に勝つことに固執するあまり、時代の大きな潮流(豊臣政権による天下統一)を見誤ったのである。
歴史の皮肉は、さらに続く。大崎・葛西の旧領には、秀吉の家臣である木村吉清・清久父子が新たな領主として入った。しかし、彼らの苛烈な統治は領民や旧臣の激しい反発を招き、大規模な一揆(葛西大崎一揆)が勃発する 35 。この一揆の鎮圧を命じられたのは、他ならぬ伊達政宗であった。かつて大崎の地で苦杯をなめた政宗が、今度は天下人の代理として、かつての敵であった大崎の旧臣たちを討伐する側に回ったのである。この一連の出来事は、戦国という時代が終わりを告げ、新たな秩序が奥州の地に到来したことを、誰の目にも明らかにした。
結論:大崎合戦が奥州史に残した教訓
大崎合戦は、伊達政宗の生涯における単なる一敗戦に留まらない。それは、戦国末期の奥州が経験した構造的な地殻変動を凝縮した、極めて象徴的な出来事であった。この合戦が奥州の歴史に残した教訓は、三つの側面に集約することができる。
第一に、 旧秩序の完全なる崩壊 である。この合戦は、室町時代から二百年以上にわたって奥州の権威の象徴であった「奥州探題」大崎氏が、もはやその実力を完全に失っていることを白日の下に晒した。彼らが伊達軍に戦術的勝利を収めたにも関わらず、最終的に滅亡したのは、彼らが固執した旧来の地域秩序そのものが、もはや時代遅れとなっていたからに他ならない。この戦いを経て、奥州は伊達・最上という新たな実力者が覇を競う、新しい時代へと完全に移行した。
第二に、 若き覇者・伊達政宗の成長 である。二十二歳の政宗にとって、この合戦は軍事、外交、情報戦のあらゆる面で、その未熟さを露呈した手痛い失敗であった。指揮官の人選ミス、敵地の地理・気象条件の軽視、そして何よりも中央政権の動向への認識の甘さ。しかし、この蹉跌こそが、彼を単なる地方の勇将から、天下の情勢を見据える近世大名へと脱皮させるための、苦いが必要な教訓となった。この敗北がなければ、後の小田原参陣における現実的な判断も、徳川の世を生き抜く巧みな政治感覚も、生まれなかったかもしれない。
そして第三に、 中央と地方の力関係の逆転 である。最終的に、合戦の当事者たちの運命を決定づけたのは、彼ら自身の武力や策略ではなかった。それは、京に座す関白・豊臣秀吉という、圧倒的な中央政権の意思であった。義光が停戦を急いだのも、大崎氏が滅亡したのも、全ては秀吉の「惣無事令」と「奥州仕置」という、中央の論理によるものであった。大崎合戦は、戦国乱世の終焉と、日本全土が統一政権の下に組み込まれていく時代の到来を、奥州の地で告げる号砲だったのである。
引用文献
- 武家家伝_大崎氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/osaki_k.html
- 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・大崎一族編) - FC2 https://tm10074078.web.fc2.com/historyoosaki100.html
- 「大崎義隆」代々奥州探題を補任してきた名門出身も、秀吉に取り潰された!? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/714
- 大崎氏が権勢を誇った室町時代!名生館の屋敷で伊達氏らが拝謁 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/6291/?pg=2
- 奥州探題大崎氏 - 奥羽:温故知新 - Seesaa https://syory159sp.seesaa.net/article/a21091288.html
- 「大崎合戦(1588年)」政宗、”勝算あり” と計算したはずなのに、結果は大敗だった!? https://sengoku-his.com/111
- 伊達政宗の母 義姫 - 最上義光歴史館 https://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=120067
- 伊達政宗の母公は最上義光の 姉か妹か - 仙台市図書館 https://lib-www.smt.city.sendai.jp/wysiwyg/file/download/1/647
- 伊達と上杉の宿敵「最上義光」...梟雄と語られてきた戦国大名の知られざる素顔 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10839
- 虎将と恐れられた“最上義光”の妹にして独眼竜“伊達政宗”の母として群雄が割拠する戦国でお家を守ろうとした【義姫】とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/44892
- 義姫 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46544/
- 武家家伝_最上氏-2 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mogami_k2.html
- 最上家をめぐる人々#7 【伊達政宗/だてまさむね】 - 最上義光歴史館 https://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=110427
- 伊達政宗の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/29927/
- 最上家と最上義光について:最上義光歴史館 - samidare https://samidare.jp/yoshiaki/lavo?p=list&o=&ca=1&off=48
- 黒川晴氏 -伊達と大崎のはざまで - みちのくトリッパー https://michinoku-ja.blogspot.com/2014/10/blog-post_5.html
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