大洲城再包囲(1589)
天正15年、伊予南予の新領主戸田勝隆の圧政に対し、旧西園寺家臣団が蜂起。しかし、旧主公広の暗殺と徹底的な粛清により鎮圧された。大洲城再包囲とはこの動乱の終結を指す。
天正南予騒乱史 ― 「大洲城再包囲」の真相と戸田勝隆による血の再編成
序章:天正17年、「開城」の謎
天正17年(1589年)の伊予国に起きたとされる「大洲城再包囲」は、「南予再編の詰めとしての開城」という、示唆に富む言葉で伝えられている。しかし、史料を精査すると、この年に大洲城が物理的に敵軍に包囲されたという明確な記録は見当たらない。この事象は、単一の軍事行動を指すのではなく、天正15年(1587年)から南予全域を揺るがした一連の動乱、すなわち「戸田騒動」の終結と、それによる新支配体制の確立を象徴的に表現したものであると解釈するのが妥当である 1 。
豊臣秀吉による四国平定後、南予の新たな領主として送り込まれた戸田勝隆は、中央政権の意向を体現し、中世以来の在地領主層が持つ権益を根底から覆す「太閤検地」を強行した。これに対し、旧領主を精神的支柱とする国人、土豪、そして農民たちは、自らの存亡をかけて大規模な武装蜂起に踏み切る。板島丸串城(後の宇和島城)や黒瀬城などを舞台に繰り広げられたこの抵抗は、新旧支配体制の激突であり、南予における中世的秩序の最後の組織的抵抗であった。
本報告書は、この「戸田騒動」の全貌を、その背景、勃発、展開、鎮圧、そしてその後の粛清に至るまで、可能な限り時系列に沿って詳細に解明するものである。戸田勝隆という武将が、単なる暴君ではなく、豊臣政権による「国家改造」を代行する冷徹な代理人として、いかにして南予の「再編成」を断行したのか。そして、天正17年という年が、なぜ旧体制が完全に扉を閉ざした「開城」の時として記憶されるに至ったのか。その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。
まず、この複雑な騒乱を理解するため、主要な関係者と一連の出来事の時系列を以下に提示する。
表1:南予騒乱 主要関係者一覧
勢力 |
人物名 |
出自・立場 |
騒乱における役割 |
結末 |
豊臣政権(戸田方) |
戸田 勝隆(とだ かつたか) |
豊臣秀吉子飼いの武将。南予の新領主。 |
太閤検地の強行、一揆の鎮圧と粛清を主導。大洲城を本拠とする。 |
文禄3年(1594年)、朝鮮出兵中に病死。家は無嗣断絶。 |
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戸田 与左衛門(とだ よざえもん) / 戸田 左衛門信種(とだ さえもんのぶたね) |
戸田勝隆の配下。 |
板島丸串城の城代として一揆勢の包囲に耐える。 |
不明。 |
|
岩城 小右衛門尉信家(いわき こえもんのじょうのぶいえ) |
戸田勝隆の配下。 |
黒瀬城の城代として南予支配の拠点を守る。 |
不明。 |
在地勢力 |
西園寺 公広(さいおんじ きんひろ) |
南予宇和郡の旧領主。 |
豊臣政権に所領安堵を求めるも叶わず。一揆勢の精神的支柱と見なされる。 |
天正16年(1588年)、戸田勝隆に謀殺される。 |
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土居 清良(どい きよよし) |
旧西園寺氏の有力家臣。 |
戸田勝隆の命を受け、在地の人脈を駆使して一揆の鎮圧にあたる。 |
新支配体制下で家名を保つ。『清良記』のモデルとなる。 |
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大野 直之(おおの なおゆき) |
旧伊予宇都宮氏の家臣。宇都宮豊綱の娘婿。 |
宇都宮氏滅亡後も喜多郡に影響力を保持。騒乱への関与は不明確だが、旧勢力の一角。 |
天正13年の四国平定後、小早川隆景に降伏。 |
表2:「戸田騒動」関連年表
年月 |
出来事 |
天正13年(1585年) |
豊臣秀吉の四国平定。伊予国は小早川隆景の所領となる。 |
天正15年(1587年) |
6月、小早川隆景が九州へ転封。戸田勝隆が南予(宇和・喜多郡)16万石の領主となり大洲城へ入城。 |
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7月14日、勝隆、太閤検地実施の触書を発布。 |
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8月、西園寺旧臣団に対し、38城からの退去を命令。 |
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11月頃、検地と重税に反発し、宇和郡で大規模な一揆が蜂起。板島丸串城を包囲。 |
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12月、西園寺公広が黒瀬城を追われ、願成寺に隠棲。 |
天正16年(1588年) |
2月12日、戸田勝隆が板島丸串城に入り、一揆を完全鎮圧。 |
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2月13日以降、捕らえられた首謀者に対する大規模な粛清(磔刑など)を開始。 |
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4月、勝隆、西園寺公広を謀殺。 |
天正17年(1589年) |
南予における旧勢力の組織的抵抗が完全に終息。戸田勝隆による支配体制が確立される(=「開城」)。 |
天正18年(1590年) |
勝隆、小田原攻めに従軍。 |
文禄3年(1594年) |
10月23日、勝隆、朝鮮で病死。 |
第一部:嵐の前の静けさ ― 秀吉四国平定後の南予
第一章:旧勢力たちの黄昏
天正13年(1585年)、圧倒的な物量で四国に侵攻した豊臣秀吉の軍勢は、長宗我部元親を降伏させ、長きにわたる戦乱の時代に終止符を打った。この「四国平定」後、伊予一国は秀吉の宿老である小早川隆景に与えられた 3 。隆景は道後の湯築城を本拠とし、南予の要衝である大洲城(当時は大津城、あるいは地蔵ヶ岳城とも呼ばれた)を枝城として統治下に置いた 5 。
この隆景による約2年間の統治は、南予の在地勢力にとって、いわば嵐の前の静けさであった。経験豊富で人望も厚い隆景は、長年の戦で疲弊した在地社会を過度に刺激することなく、穏健な支配を行ったと推察される。秀吉の戦略としても、まずは豊臣政権への帰属を円滑に受け入れさせ、その後に本格的な体制変革に着手する意図があったと考えられる。隆景の統治は、後の戸田勝隆のような急進的な「改革の断行者」を投入する前の地ならしであり、意図的に設けられた「緩衝期間」としての役割を担っていた。
この束の間の平穏の中で、南予の旧支配者たちは複雑な思いで自らの将来を測っていた。南予は長らく、宇和郡を拠点とする西園寺氏と、喜多郡を支配した伊予宇都宮氏という二大国人領主によって勢力が二分されていた 7 。伊予宇都宮氏は、戦国末期の永禄11年(1568年)、河野・毛利連合軍との戦いに敗れて既に滅亡していたが 7 、最後の当主・豊綱の娘婿であった大野直之をはじめとする旧臣たちは、在地に依然として一定の影響力を保持していた 7 。
一方、宇和郡の西園寺公広は、四国平定後も旧領の安堵を諦めていなかった。彼は毛利氏を介して秀吉への嘆願を続けるなど、在地における伝統的な権威の維持に奔走していた 12 。彼ら在地勢力は、豊臣という新たな中央権力の下で、自らの家名と所領がどう扱われるのか、一縷の望みと深刻な不安を抱きながら、固唾をのんで情勢を見守っていたのである。
第二章:豊臣政権の尖兵、南予に入る
天正15年(1587年)、小早川隆景が九州征伐の功により筑前・筑後へ転封されると、伊予の政治地図は一変する 6 。秀吉は伊予国を分割し、東予・中予には福島正則を、そして南予の宇和・喜多両郡16万石(石高については諸説あり)には戸田勝隆を新たな領主として送り込んだ 6 。秀吉は正則に宛てた朱印状の中で「伊予は九州・中国之かなめ所」と述べ、勝隆との連携を強く指示しており、この地を軍事・政治上の要衝とみなしていたことがわかる 12 。
この南予統治という重責を担った戸田勝隆は、美濃あるいは尾張の出身とされ、織田信長に仕えた後、早くから羽柴秀吉の家臣となった古参の武将である 1 。彼は秀吉の馬廻衆の中でも精鋭中の精鋭で構成される「黄母衣衆」に選ばれ、その筆頭を務めるほどの武功の士であった 12 。軍記物である『武家事紀』には、宮田光次や神子田正治らと並び「これに越える勇功の士あらず」と称賛されるほどの猛将として知られていた 12 。
しかし、勝隆は単なる武辺者ではなかった。四国攻め以前には、近江国で検地奉行や城割奉行を務めた経験も持ち合わせており、豊臣政権の新しい支配政策を現地で実行する行政能力も高く評価されていた 12 。秀吉が彼を南予に送り込んだのは、その武勇によって在地勢力を威圧すると同時に、その行政手腕をもって中世的な支配構造を解体し、豊臣政権の直接支配を徹底させるという、極めて困難な任務を遂行させるためであった。
大洲城に入城した勝隆は、直ちに新たな支配体制の構築に着手する。大洲城を自らの主城と定め、南の拠点である板島丸串城には戸田左衛門信種(あるいは戸田与左衛門)を、西園寺氏の旧本拠地であった黒瀬城には岩城小右衛門尉信家を城代として配置し、領内を軍事的に掌握した 12 。特に板島丸串城には大規模な改修を加え、これが現在の宇和島城の原型となった 12 。
その一方で、勝隆は硬軟織り交ぜた統治術も見せている。旧河野氏の家臣で、在地に強い影響力を持つ豪商でもあった武井宗意を蔵入地の代官に任命したのである 12 。これは、在地勢力を一枚岩にさせないための高度な政治的計算であった可能性が高い。旧領主である西園寺氏のような伝統的権威を徹底的に排除する一方で、武井宗意のような実力者に新たな支配体制下での役割と利益を与える。これにより、在地勢力の結束を弱め、内部分裂を誘う。この「分断統治」ともいえる戦略は、後の騒乱鎮圧の過程でも見られる、勝隆の統治手法の根幹をなすものであった。
第二部:戸田騒動 ― リアルタイム・クロニクル
第一章:導火線 ― 太閤検地の衝撃
戸田勝隆による南予支配が始まって間もない天正15年(1587年)7月14日、彼は宇和・喜多両郡の領民に対し、豊臣政権の根幹政策である「太閤検地」の実施を告げる触書を発布した 1 。これは、単なる検地ではなく、土地と人民に対する支配権のあり方を根本から変革する、いわば社会革命であった。
触書そのものは、検地役人(上使)への食事や薪の提供を村々に命じる一方で、個人的な贈り物や酒肴を一切禁じるなど、一見すると公正な体裁を保っていた 16 。しかし、その本質は、戦国時代を通じて複雑に絡み合っていた荘園的な土地所有関係や、国人・土豪が独自に行っていた「指出検地」を全て否定し、全ての土地を「石高」という統一された基準で再測定し、年貢を豊臣政権が直接把握・収取する体制へと移行させることにあった。この「荒検地」とも呼ばれた強引な手法は、土地に根差した伝統的な支配権を基盤とする土豪層にとっては、自らの存在意義を根こそぎ奪われるに等しいものであり、また、農民にとってはより厳格で過酷な年貢収取に繋がるものであったため、南予全域に深刻な動揺と激しい反発をもたらした 16 。
この検地強行の背後には、秀吉自身の「一郷も二郷もなで斬りにしてでも断行せよ」という不退転の決意があった 16 。勝隆は、その秀吉の意志を忠実に実行する代理人として、一切の妥協を許さなかった。
検地の実施と並行して、勝隆は旧勢力の物理的な解体にも着手する。同年8月、彼は西園寺公広や土居清良などごく一部の有力者を除き、旧西園寺家臣団に対して、彼らが拠点としていた38の城や砦からの即時退去を命じた 12 。さらに12月には、最後まで在地勢力の精神的支柱であり、抵抗の核となる可能性があった西園寺公広本人をも、その居城であった黒瀬城から追放し、宇和海に浮かぶ九島の願成寺に事実上軟禁した 12 。これにより、南予の国人・土豪たちは組織的な抵抗の拠点を失い、完全に追い詰められた。経済的基盤(土地支配権)と軍事的拠点(城)の両方を奪われた彼らにとって、残された道は、沈黙して新たな支配を受け入れるか、あるいは絶望的な武装蜂起に賭けるかの二者択一であった。
第二章:戦端開かる ― 南予全土を揺るғаす蜂起
天正15年の冬が深まる頃、過酷な検地と厳格な年貢取り立てに耐えかねた宇和地方の民衆は、ついに蜂起した。時期は冬も半ばを過ぎ、納税のための作物を準備することもままならない逼迫した状況下での決起であった 16 。これは単なる農民の暴動ではなく、旧西園寺氏配下の土豪層に率いられた、約2,000人規模の組織的な武装蜂起であった 16 。
彼らが最初の主目標としたのは、南予支配の要であり、戸田氏の城代が置かれていた板島丸串城であった。天正15年11月頃、一揆勢は城を幾重にも包囲し、城代・戸田与左衛門(または戸田左衛門信種)が立てこもる城に対して、激しい攻撃を開始した 16 。この攻防は、豊臣政権の出先機関に対する、南予在地勢力による公然たる挑戦であり、騒乱の火の手が南予全土に広がったことを示す象徴的な出来事であった。
戦火は板島丸串城だけに留まらなかった。西園寺氏の旧本拠地であり、岩城小右衛門尉信家が守る黒瀬城など、宇和・喜多両郡に点在する戸田方の拠点も、次々と攻撃対象となったと推察される 12 。騒乱は、戸田勝隆の支配領域全域を巻き込む大規模なものへと発展した。大洲城に座す勝隆にとって、支配を開始してわずか半年足らずで直面したこの同時多発的な反乱は、彼の支配体制そのものを揺るがす深刻な危機であった 16 。
第三章:鎮圧と懐柔 ― 土居清良の苦渋
広範囲にわたる一揆に対し、大洲城からの兵力だけでは鎮圧が困難であると判断した戸田勝隆は、極めて老獪な一手を打つ。それは、武力による正面からの鎮圧と並行して、在地社会の内部から反乱を切り崩すことであった。そのための駒として白羽の矢が立てられたのが、旧西園寺氏の家臣の中でも特に武勇と人望で知られた在地領主、土居清良であった 16 。
勝隆は清良に一揆の鎮圧を命じた。これは、清良が持つ在地社会での影響力と人間関係を利用し、一揆勢を内側から瓦解させようとする戦略であった。この命令を受けた清良は、絶体絶命の窮地に立たされる。一揆勢の中には、旧主家である西園寺氏に連なる者や、旧知の土豪、困窮した農民たちが数多く含まれていたはずである。彼らに刃を向けることは、清良の本意ではなかったであろう。
しかし、勝隆の命令を拒否すれば、自らも一揆の首謀者と見なされ、一族もろとも滅ぼされることは火を見るより明らかであった。一方で、この命令を受け入れて騒乱を鎮めることに成功すれば、新たな支配者である戸田氏の下で家名を保ち、地域のさらなる被害を最小限に食い止めることができるかもしれない。彼の選択は、単なる新権力への迎合ではなかった。それは、滅びゆく中世的秩序の中で、自らの家と地域の存続を賭けた、在地領主としての現実的かつ悲劇的な決断であった。
『清良記』などの記録によれば、清良は武力による討伐と、顔見知りの一揆指導者への説得を巧みに使い分け、鎮圧にあたったとされる 1 。彼の調略によって一揆勢は次第に内部から分裂し、その勢いを失っていった。この鎮圧のプロセスは数ヶ月に及び、南予の地は、冬の厳しい寒さの中、昨日までの隣人同士が矛を交えるという悲惨な状況を呈したのである。
第四章:血の粛清 ― 恐怖による支配の完成
年が明けた天正16年(1588年)2月、土居清良らの働きによって一揆勢が弱体化したのを見計らい、戸田勝隆は満を持して動いた。2月12日、彼は本拠である大洲城から出陣し、騒乱の中心地であった板島丸串城に自ら乗り込んだ 16 。これは、騒動の最終的な後始末を自らの手で下し、南予の民衆に新たな支配者の権威を絶対的なものとして見せつけるという、強い意志の表れであった。
勝隆の到着とともに、散発的な抵抗は完全に終わりを告げた。彼は直ちに、捕らえられた一揆の指導者たちの処分に取り掛かった。しかし、それは罪を裁くための吟味や尋問ではなかった。それは、抵抗する者への見せしめであり、南予の社会に絶対的な恐怖を植え付けるための、計算され尽くした政治的パフォーマンスであった。
翌13日から、凄惨な粛清が始まった。勝隆は、捕らえた者たちの中から、古くからこの地で弓矢を取り、名のある武士として知られた者たちを意図的に選び出し、次々と処刑台へと送った 16 。その方法は残忍を極め、三間(現在の宇和島市三間町)から板島、そして津島(現在の宇和島市津島町)に至る約十里(約40キロメートル)の街道沿いに、782ヶ所もの磔台が林立したと記録されている 16 。その他にも斬首された者の数は知れず、前年から続く騒乱で命を落とした者は、合わせて2,000人余りに上ったという 16 。この常軌を逸した大量処刑は、物理的な抵抗力を完全に奪うだけでなく、人々の心の中に、二度と戸田氏に逆らうことのできない深い恐怖を刻み込むためのものであった。
そして、勝隆にとって最後の仕上げが残されていた。それは、この一揆の背後にいると彼が断定した、旧領主・西園寺公広の抹殺であった。公広が存在する限り、彼は旧勢力の求心力となり、いつか再び抵抗の象徴となりかねない。天正16年4月、勝隆は公広を偽りの宴に招き、謀殺するという凶行に及んだ 12 。『予陽軍記』などによれば、公広は戸田駿河守の邸宅で襲撃の意図を察し、覚悟を決めて戸田駿河守以下9名を斬り倒した末に自刃して果てたと伝えられる 12 。この事件により、南予における中世以来の伝統的権威は完全に消滅し、在地勢力の抵抗を支えてきた精神的支柱は、永遠に失われたのである。
第三部:再編の帰結
第一章:「詰めとしての開城」
西園寺公広の死から一年が経過した天正17年(1589年)、南予の地には静寂が訪れていた。それは平穏による静けさではなく、徹底的な粛清と恐怖によってもたらされた、沈黙であった。大規模な一揆は完全に鎮圧され、その指導者たちは街道沿いに晒され、精神的支柱であった旧領主は謀殺された。もはや、戸田勝隆の支配に組織的に抵抗する勢力は、南予のどこにも存在しなかった。
この状態こそが、「南予再編の詰め」であり、比喩的な意味での「開城」であった。物理的な城が攻め落とされたわけではない。しかし、南予という地域社会を支えてきた中世的な国人領主体制という「見えざる城」が、その門を完全に閉ざし、豊臣政権という新たな支配者に無条件降伏した瞬間であった。大洲城は、かつての伊予宇都宮氏の拠点という性格を完全に脱ぎ捨て、この血塗られた再編事業を完遂した、新しい中央権力の象徴として南予に君臨することになったのである。
戸田勝隆が断行した一連の強硬策は、南予地方における中世の終わりと近世の始まりを画定する、決定的な出来事であった。国人領主たちがそれぞれに割拠し、複雑な主従関係や婚姻関係によって成り立っていた分権的な社会は、わずか2年足らずの間に、豊臣政権を頂点とする中央集権的な支配体制へと、極めて短期間かつ暴力的に移行させられた。この変革は、伊予が近世社会へと生まれ変わるための、避けられない陣痛であった 18 。
第二章:戸田勝隆の治世とその終焉
南予を完全に掌握した戸田勝隆は、豊臣政権の一大名として、その後の軍役を着実に果たしていく。天正18年(1590年)には、天下統一の総仕上げである小田原攻めに従軍し、伊豆韮山城の攻撃などで武功を挙げた 14 。この時、かつて代官に任命した伊予の在地領主・武井宗意から陣中見舞いの鰻が届けられ、それに対する礼状の中で北条氏政・氏照の切腹といった合戦の生々しい状況を報告している書状が残っている 19 。これは、騒乱を乗り越え、勝隆と在地勢力の一部との間に、支配者と被支配者としての安定した関係が構築されていたことを示している。
しかし、彼の治世は長くは続かなかった。その後の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍するが、文禄3年(1594年)10月23日、講和交渉の任にあたっていた朝鮮の巨済島で病に倒れ、帰国の途上でその生涯を閉じた 6 。彼の苛烈な統治に苦しめられた在地の人々によって書かれた『清良記』は、その悪逆非道の報いによって狂死したと、厳しい筆誅を加えているが 16 、これはあくまで旧勢力側から見た評価であろう。
勝隆には跡を継ぐべき男子がおらず、彼が築いた大洲戸田家は一代で無嗣断絶となった 12 。彼の役割は、いわば旧世界の破壊者であった。南予の旧体制を破壊し、豊臣政権の支配を確立するという、極めて困難で血塗られた仕事を、彼は完璧に遂行した。しかし、その強引な手法は、平時の安定した統治には不向きであったかもしれない。彼の死と家の断絶は、あたかもその歴史的役割の終わりを象徴しているかのようである。彼の死後、南予の領地は、築城の名手として知られ、「建設」の時代を象徴する武将・藤堂高虎に与えられた 6 。南予は「破壊」の時代を終え、近世的な城郭と城下町の「建設」の時代へと、新たな一歩を踏み出すことになるのである。
結論:歴史における「大洲城再包囲」の意味
「大洲城再包囲(1589)」という言葉は、特定の軍事行動を指すものではなく、戦国時代の終わりから近世の幕開けにかけて日本各地で起こった、巨大な社会変革の縮図である。それは、豊臣秀吉による天下統一事業の一環として、南伊予地方において断行された、中世的支配体制の解体と、近世的中央集権体制への再編成プロセスの完了を象徴している。
この変革の代行者となった戸田勝隆は、秀吉の強固な意志を背景に、太閤検地の強行、在地勢力の抵抗(戸田騒動)の誘発、そして徹底的な武力鎮圧と大規模な粛清という、極めて暴力的かつ急進的な手段をもってその任務を遂行した。彼の行動は、南予の国人・土豪層が何世代にもわたって築き上げてきた伝統的な権力構造を根底から破壊し、土地と人民に対する支配権を、在地領主の手から中央政権へと移行させるものであった。
この一連の騒乱を経て、大洲城は、旧勢力である伊予宇都宮氏以来の歴史を持つ中世城郭から、豊臣政権による南予支配の拠点という、全く新しい性格を持つ近世城郭へと変貌を遂げる礎が築かれた。天正17年(1589年)という年は、この変革がもはや後戻りできないものとして確定し、南予の地における「戦国の終わり」が真に訪れた画期であった。それは、血と恐怖の上に築かれた新しい時代の幕開けであり、日本の歴史が大きく転換する中で、一つの地域社会が経験した壮絶な産みの苦しみを物語っている。
引用文献
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- 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
- 河野氏滅亡と周辺の武将たち - 東温市立図書館 https://www.toon-lib.jp/H24kounosi.pdf
- 第1章 歴史的風致形成の背景 - 大洲市 https://www.city.ozu.ehime.jp/uploaded/attachment/34965.pdf
- 歴史・沿革 - 大洲城公式ウェブサイト|愛媛県大洲市 https://ozucastle.jp/ozu_castle/history/
- 宇都宮豊綱 https://nanao.sakura.ne.jp/retuden/utsunomiya_toyotsuna.html
- 【大洲城】心揺さぶられる築城と復元のストーリーとは - HISTRIP(ヒストリップ)|歴史旅専門サイト https://www.histrip.jp/180709-ehime-ozu-1/
- 大洲城 ~伊予国攻防の歴史と美しい木造天守 - 戦国山城.com https://sengoku-yamajiro.com/archives/082_oozujo-html.html
- 大野直之 | 信歩行来皆坦道 https://ameblo.jp/hijikawayoryo/entry-10863743671.html
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- 愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行) - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/63/view/7949
- 歴史 - 市のプロフィール - 大洲市ホームページ https://www.city.ozu.ehime.jp/site/information/0892.html