最終更新日 2025-09-07

太田城(常陸太田)再包囲(1590)

天正18年、佐竹義宣は秀吉の権威を背景に常陸統一に乗り出す。小田原不参の江戸氏・大掾氏を次々と攻略し、本拠を太田城から水戸城へ移し、近世大名へと飛躍を遂げた。

天正十八年・常陸統一戦役:豊臣政権下の最終秩序形成と佐竹氏の飛躍

序論:天正十八年、常陸国 ― 変革前夜の地政学

本レポートの主題の明確化:再定義される「太田城の戦い」

天正十八年(1590年)、常陸国(現在の茨城県)太田城をめぐる軍事行動は、しばしば「太田城再包囲」という呼称で言及されることがある。しかし、この年の歴史的実態を詳細に分析すると、その呼称は事象の本質を正確に捉えていないことが明らかとなる。この年に起きたのは、佐竹氏の長年の本拠地であった常陸太田城が敵軍に包囲された防衛戦ではなく、むしろその逆であった。すなわち、太田城を拠点とする佐竹氏が、天下統一を目前にした豊臣秀吉の絶対的な権威を後ろ盾とし、常陸国内に割拠する敵対勢力を一掃するために敢行した、一連の攻勢作戦、すなわち「常陸統一戦役」である 1 。本レポートは、この天正十八年に佐竹氏が主導した軍事行動を、その政治的背景から具体的な戦闘経過、そして歴史的帰結に至るまで、時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。

歴史的混同の指摘:紀伊太田城水攻め(1585年)との明確な区別

「太田城の戦い」という言葉が引き起こす混乱の一因に、戦国史において極めて著名な別の合戦、すなわち天正十三年(1585年)に豊臣秀吉が自ら指揮を執った「紀州征伐」における紀伊国・太田城の水攻めが存在する 4 。この二つの事象は、城名が同じ「太田城」であり、かつ豊臣政権が深く関与しているという共通点から混同されやすい。しかし、その実態は全く異なる。

紀伊太田城の戦いは、秀吉が雑賀衆・根来衆といった紀州の独立勢力を屈服させるために、十万ともいわれる大軍を動員し、城の周囲に数キロメートルに及ぶ堤防をわずか数日で築き上げて城を水没させた、天下統一事業を象徴する大規模な攻城戦であった 6 。この戦いでは、水軍の投入や鉄砲による攻撃が行われ、最終的に城主・太田左近ら五十三名が自刃することで終結した 5 。発掘調査では、当時使用されたとみられる鉛製の鉄砲玉も出土している 10

これに対し、本稿で詳述する天正十八年の常陸国の事象は、秀吉が直接指揮した戦いではない。佐竹氏が豊臣政権の「代行者」として、秀吉から与えられた「大義名分」に基づき、地方の秩序形成を完成させた戦役である。戦術も水攻めではなく、迅速な進軍による電撃的な攻略戦が主体であった。この構造的な違い、すなわち「天下人による直接的な征服戦争」と「天下人の権威を背景とした地方大名による平定戦争」という本質的な差異を認識することが、天正十八年の常陸国を理解する上での第一歩となる。

戦役前夜の常陸情勢

天正十八年を迎える直前、常陸の佐竹氏は存亡の危機に瀕していた。その状況は、主に三つの要因によって構成されていた。

第一に、地政学的な苦境である。北には、摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし、南奥州に覇を唱えた独眼竜・伊達政宗が、佐竹領へ鋭く牙を剥いていた 11 。一方、南には小田原を本拠地とし、関東一円に絶大な影響力を持つ後北条氏が、常に圧力をかけ続けていた 11 。この二大勢力に挟撃される形となった佐竹氏は、いつ領国が蚕食されてもおかしくない、極めて脆弱な立場に置かれていたのである 13

第二に、この苦境を打開するための巧みな外交戦略である。第十九代当主・佐竹義宣と、隠居後も実権を握っていた父・義重は、早くから上方に台頭しつつあった豊臣秀吉と誼を通じ、その巨大な権力に接近していた 14 。特に、豊臣政権の中枢を担う石田三成や、北の有力大名である上杉景勝と親交を深めることで、中央政権とのパイプを強固なものにしていた 11 。これは、地方の武力のみでは生き残れない時代の到来を予見し、中央の権威を自らの生存と発展のために利用しようとする、先進的な戦略であった。

第三に、常陸国内の複雑な権力構造である。佐竹氏は常陸守護の家系として国内に強い影響力を持っていたが、その支配は盤石ではなかった。水戸城を拠点とする江戸氏、府中(現在の石岡市)に勢力を張る大掾氏、そして鹿島・行方両郡に割拠する中小国人領主連合「南方三十三館」など、多くの独立勢力が存在していた 17 。これらの勢力は、時には佐竹氏に従い、時には後北条氏と結ぶなど、独自の判断で行動しており、常陸国は決して一枚岩の領国ではなかったのである 19

この三重の構造、すなわち「外的脅威」「中央政権への接近」「国内の分裂」こそが、天正十八年の常陸統一戦役へと至る全ての伏線であった。

第一章:天下統一の奔流と佐竹氏の決断 ― 小田原への道(1590年春〜夏)

豊臣秀吉による小田原征伐の発令

天正十七年(1589年)十一月、天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉は関東・奥羽の諸大名に対し、後北条氏を討伐するための小田原への出陣を命令した 16 。この命令は、佐竹義宣のもとへも届けられた。しかし、当時の佐竹氏は、南郷(現在の福島県南部から茨城県北部)において、宿敵・伊達政宗と熾烈な対峙を続けている最中であり、即座に大軍を動かして小田原へ向かうことは物理的に不可能な状況にあった 16 。秀吉の命令に従うことは、背後を伊達軍に突かれる危険を意味した。佐竹氏にとって、これは極めて困難な判断を迫られる局面であった。

佐竹義宣の決断と出陣

情勢が動いたのは翌天正十八年(1590年)春、秀吉自らが大軍を率いて京を発し、東海道を下っているという確報がもたらされた時であった。もはや情勢の傍観は許されない。義宣は、同盟関係にあった宇都宮国綱と協議の上、ついに決断を下す。同年五月、義宣は父・義重、そして宇都宮国綱らを含めた一万余の軍勢を率い、本拠地・太田城を発して小田原へと向かった 12 。この出陣は、伊達政宗との戦線を維持しながらの苦しい兵力捻出であったが、佐竹氏の未来を豊臣政権に賭けるという、明確な意思表示であった。彼らは北条方の諸城を攻略しつつ進軍し、佐竹氏が関東の旧勢力ではなく、新しい天下の秩序に与する大名であることを行動で示したのである 14

豊臣軍への合流と忍城攻め

天正十八年(1590年)五月二十七日、佐竹義宣は小田原郊外の秀吉本陣に到着し、ついに天下人との謁見を果たした 16 。この場で臣下の礼をとったことにより、佐竹氏は正式に豊臣大名として認知され、その地位を保証された。これは、長年続いた後北条氏や伊達氏との抗争に、中央政権の権威という強力な後ろ盾を得たことを意味した。

小田原参陣後、義宣の軍勢は、豊臣政権の重臣・石田三成が総大将を務める別働隊の指揮下に入った 14 。彼らに与えられた任務は、武蔵国(現在の埼玉県)における北条方の拠点、忍城の攻略であった 12

この忍城攻めにおいて、三成は周囲の河川を利用した水攻めを決断する。その際、佐竹義宣と彼の軍勢が担ったのは、城を水没させるための長大な堤防を構築するという、極めて重要な土木工事であった 12 。この任務は、単なる一軍役以上の深い意味合いを持っていた。第一に、以前から親交のあった石田三成の指揮下で、困難な任務を遂行することにより、両者の信頼関係を戦場の現場でより強固なものにした。三成は秀吉の側近中の側近であり、彼との良好な関係は、戦後の豊臣政権内での佐竹氏の立場を有利にする上で計り知れない価値があった 21 。第二に、数万の兵を動員して大規模な土木工事を迅速に完遂する能力は、戦闘能力とは別に、領国を経営し、豊臣政権が命じる様々な普請役(軍役)をこなすことができる「使える大名」であることを、秀吉や政権幹部に強く印象付けた。戦国末期から近世へと移行するこの時代、武将に求められる能力は、個人の武勇から、組織を動かし、国家的なプロジェクトを遂行する行政能力へとシフトしつつあった。忍城の堤防構築は、佐竹氏がその新しい時代の要請に応えうる大名であることを証明する、格好の機会となったのである。

第二章:「常陸統一」という名の戦役 ― 1590年、冬の陣

小田原城の開城と後北条氏の滅亡により、豊臣秀吉による天下統一は事実上完成した。しかし、それは関東、特に常陸国における新たな戦乱の始まりを意味していた。佐竹氏にとって、ここからが長年の宿願であった領国統一を果たすための、本当の戦いであった。

【表1:常陸統一戦役 関連年表(1590年)】

年月日

出来事

備考

7月

小田原城が開城し、後北条氏が滅亡。

豊臣秀吉による天下統一が事実上完成。

8月1日

秀吉、宇都宮にて奥州仕置を開始。佐竹氏に対し常陸国等の支配を認める朱印状を発給。

これが常陸統一戦役の「大義名分」となる 14

12月上旬

佐竹義重、水戸城攻略のため太田城より出陣。

当主・義宣は上洛中等のため、父・義重が総指揮を執る 24

12月19日

佐竹軍、水戸城への総攻撃を開始。

義重本隊と別働隊が、大手・搦手の両面から進軍 24

12月20日

水戸城が陥落。城主・江戸重通は結城へ敗走。

160年以上続いた江戸氏の水戸支配が終焉 23

12月22日

佐竹軍、軍を転じて府中城へ進撃を開始。

水戸城制圧後、間を置かずに電撃的に南下 23

12月下旬

府中城が陥落。城主・大掾清幹は自害。

常陸平氏の名門・大掾氏が滅亡 25

発端:豊臣秀吉による「お墨付き」(1590年8月1日)

小田原征伐後、秀吉は軍を北へ進め、宇都宮城に入って「奥州仕置」を開始した。これは、関東・奥羽地方の諸大名の領地を再編し、豊臣政権の支配下に組み込むための戦後処理であった。この過程で、天正十八年八月一日、秀吉は佐竹氏に対し、常陸国全域および下野国の一部にわたる所領、合計二十一万六千七百五十八貫文(後の太閤検地により五十四万石余と確定)の支配を正式に認める朱印状を発給した 14

この一枚の朱印状こそが、佐竹氏の常陸統一戦を絶対的に正当化する「錦の御旗」となった。これまで常陸国内の諸勢力は、佐竹氏も含め対等な国人領主であり、その争いは私戦の域を出なかった。しかし、この朱印状以降、佐竹氏に敵対することは、すなわち天下人である豊臣秀吉に弓を引く「反逆行為」と見なされることになった。これにより、佐竹氏は軍事的優位性に加え、政治的・倫理的にも圧倒的な優位性を手に入れたのである 11 。小田原に参陣しなかった江戸氏や大掾氏らは、この時点で既に「討伐さるべき対象」として運命づけられていた。

【表2:常陸統一戦役 主要勢力対照表】

区分

勢力名

主要人物

本拠地

小田原征伐への対応

末路

攻勢側

佐竹氏

佐竹義重、佐竹義宣

常陸太田城

参陣

常陸国54万石の大名として公認

守勢側

江戸氏

江戸重通

水戸城

不参陣

1590年12月、水戸城を追われ敗走 19

守勢側

大掾氏

大掾清幹

府中城

不参陣

1590年12月、府中城で自害し滅亡 25

第一幕:水戸城攻略(1590年12月19日〜20日)

冬の到来とともに、佐竹氏の具体的な軍事行動が開始された。この時、当主の義宣は秀吉への謁見のため上洛中であったとも伝えられており、軍の総指揮は、老練な隠居の父・義重が執った 24 。これは、義宣が中央で政治工作を行う間に、義重が国内の軍事行動を断行するという、巧みな役割分担であった。

十二月、義重は太田城から兵を発した。その進軍経路は記録に残されており、極めて計画的であったことがわかる。義重が率いる主力部隊は、太田から村松、市毛原、勝倉を経て、水戸城の裏手にあたる枝川方面へ進軍した。一方、義宣の名で呼ばれる別働隊(実際には義重の指揮下の部隊)は、久慈川沿いに南下し、後台、青柳を経て、城の正面である神生平へと迫った 24

この進軍の過程で、江戸方の抵抗も激しかった。特に青柳庄では、江戸方の将・蓑島中務の子息である十郎太郎が奮戦の末に討死するなど、各所で前哨戦が繰り広げられた 22 。しかし、佐竹軍の勢いは止まらない。十二月十九日、大手・搦手の両面から水戸城内へ殺到した佐竹軍は、猛攻を開始した 24 。圧倒的な兵力と、何よりも「天下人の公認軍」という士気の高さの前に、江戸方の防衛線は次々と突破された。

翌十二月二十日、ついに水戸城は陥落。城主・江戸重通はこれ以上の抵抗を不可能と悟り、かねてより縁のあった結城晴朝を頼って城を落ち延びていった 23 。応永年間以来、実に百六十余年にわたって水戸を支配してきた名族・江戸氏の歴史は、この日をもって終わりを告げたのである。

第二幕:府中城陥落(1590年12月22日〜下旬)

水戸城を制圧した佐竹軍の次なる行動は、敵対勢力の予想を遥かに超えるものだった。通常、大規模な攻城戦の後には、城の接収、論功行賞、兵の休養など、数日から数週間の戦後処理期間が置かれる。しかし、佐竹義重は一切の猶予を与えなかった。水戸城陥落からわずか二日後の十二月二十二日、佐竹軍は全軍を南へ転じ、大掾氏の本拠地・府中城へ向けて電撃的な進撃を開始したのである 23

この驚異的な進軍速度は、単なる軍事作戦の効率化以上の、高度な政治的メッセージを含んでいた。それは、「豊臣政権の決定に逆らう者に、再起や交渉の時間は一切与えない」という、冷徹かつ断固たる意志の表明であった。水戸城のあまりにも早い陥落と、間髪入れずに迫りくる佐竹の大軍の報は、府中城の大掾氏、そして常陸南部の国人たちの戦意を根底から打ち砕く、強力な心理的効果をもたらした。

府中城主・大掾清幹は、籠城して抵抗を試みた 26 。大掾氏は常陸平氏の流れを汲む、佐竹氏以上の名門であり、その誇りが安易な降伏を許さなかった。しかし、佐竹軍の勢いはもはや個別の城の抵抗で止められるものではなかった。数日間にわたる攻防の末、府中城は陥落。追い詰められた清幹は自害を選び、ここに常陸大掾氏は歴史からその姿を消した 25 。佐竹軍は、わずか十日ほどの間に、常陸国における二大勢力を立て続けに滅ぼすという、空前の戦果を挙げたのである。

第三章:新秩序の構築と太田城の時代の終焉(1591年〜)

戦後処理:南方三十三館の粛清(天正十九年二月九日)

江戸氏と大掾氏という二大敵対勢力を排除した佐竹氏は、常陸統一の最終段階に着手した。残るは、鹿島郡・行方郡に盤踞する「南方三十三館」と称される国人領主たちである。彼らは小田原に参陣せず、佐竹氏の支配に服していなかった。

佐竹義宣は、これらの勢力を一つずつ武力で攻め滅ぼすという非効率な手段を選ばなかった。代わりに、彼は極めて冷徹かつ合理的な策を用いた。天正十九年(1591年)二月九日、義宣は南方三十三館の当主たち、すなわち鹿島氏、島崎氏、玉造氏、中居氏、烟田氏らを、「領地安堵の朱印状を与える」という名目で、本拠地・太田城に招き寄せた 22 。何の疑いもなく太田城に参集した領主たちを待っていたのは、祝宴ではなく、佐竹父子による一方的な粛清であった。一堂に会した場で、彼らはことごとく謀殺されたのである。

この謀略と並行して、佐竹軍は即座に鹿島・行方両郡へ出兵した。当主を失い、指揮系統が完全に麻痺した三十三館の城々は、何の抵抗もできずに次々と制圧されていった 32 。一部では徹底抗戦した例も伝えられるが、大勢は変わらなかった。この「三十三館の仕置き」により、常陸国内から佐竹氏に対抗しうる独立勢力は完全に一掃され、佐竹氏による一元的な支配体制が確立された。

本拠地の移転:太田城から水戸城へ

長年の悲願であった常陸一国の完全掌握を成し遂げた佐竹義宣は、天正十九年(1591年)、重大な決断を下す。それは、一族が約470年間にわたって本拠地としてきた太田城を離れ、新たに攻略した水戸城へ拠点を移すことであった 11

この本拠地移転は、単なる引っ越し以上の、佐竹氏の統治形態の質的な変化を象徴する画期的な出来事であった。太田城は、里川と源氏川に挟まれた山間の台地に築かれた、防御を主眼とする中世的な城郭であった 2 。その立地は、一族郎党を率いて周辺地域を支配するには適していたが、常陸国全体を統治する行政拠点としては、手狭で交通の便も悪かった 36

一方、水戸城は那珂川と千波湖という天然の堀に守られた広大な台地上に位置し、水運の便にも恵まれていた 34 。広大な城下町を建設するスペースもあり、領国全体の政治・経済の中心地として、太田城とは比較にならないほどのポテンシャルを秘めていた。太田城から水戸城への移転は、佐竹氏が「常陸の国人領主たちの盟主」という中世的な存在から、統一された領国を支配する「近世大名」へと完全に脱皮したことを、内外に示す象徴的な行為だったのである。太田城の時代は終わり、佐竹氏は水戸城を拠点として、五十四万石の大名としての新たな歴史を歩み始めることになった。

結論:1590年の意味 ― 力と権威による領国形成

天正十八年(1590年)に繰り広げられた「太田城を拠点とした常陸統一戦役」は、日本の戦国時代が終焉を迎え、近世へと移行する時代の大きな転換点を象徴する一連の事象であった。この戦役の歴史的意義は、大きく二つの側面に集約される。

第一に、地方勢力の興亡における「中央政権の権威」の決定的な役割を明確に示した点である。戦役以前の佐竹氏は、北の伊達、南の北条という二大勢力に挟まれ、自力のみでの領国統一は困難な状況にあった。しかし、豊臣秀吉という新たな天下人の権威をいち早く認識し、その傘下に入るという政治的決断を下したことで、状況は一変した。秀吉から発給された朱印状は、佐竹氏の軍事行動を「天下の公戦」へと昇華させ、敵対する江戸氏や大掾氏を「朝敵」の立場に追い込んだ。これにより、佐竹氏は単なる武力だけでなく、絶対的な大義名分を手にし、わずか半月足らずで長年のライバルを滅ぼすことができたのである。これは、戦国乱世の終焉が、各地でどのように「力と権威」の融合によって達成されていったかを示す、極めて重要なケーススタディと言える 23

第二に、この戦役を通じて、常陸国における中世的な国人割拠状態が完全に終焉し、佐竹氏を頂点とする近世的な大名領国制が確立された点である 27 。水戸・府中の両城を攻略し、南方三十三館を粛清したことで、国内の独立勢力は一掃された。そして、本拠地を山間の太田城から広大な平野部の水戸城へ移したことは、佐竹氏が単なる軍事集団の長から、領国全体を統治する行政機構のトップへと変貌を遂げたことを象徴している。この一連の改革により、佐竹氏は豊臣政権下で上杉景勝らと並び「六大将」と称されるほどの有力大名へと飛躍を遂げた 14

佐竹氏の栄華は、その後の関ヶ原の戦いにおける曖昧な態度が徳川家康の不興を買い、父祖伝来の地である常陸を追われ、出羽秋田へ転封されるという形で一つの終焉を迎える 11 。しかし、天正十八年の常陸統一戦役で成し遂げた領国経営の集権化と、近世大名への変貌という経験こそが、彼らが新たな土地で秋田藩二十万石の礎を築く上での重要な基盤となったことは間違いない。1590年は、佐竹氏にとって、そして常陸国にとって、中世と近世を分かつ、決定的な一年だったのである。

引用文献

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