最終更新日 2025-09-03

宮部城の戦い(1578)

天正六年、但馬国で織田・毛利の代理戦争が勃発。宵田城を巡る攻防は、羽柴秀吉に但馬平定の教訓を与え、宮部継潤の活躍と共に、後の但馬統一への重要な序幕となった。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

天正六年 但馬国「宮部城の戦い」の歴史的実像:宵田城をめぐる攻防と但馬平定への序曲

序章:戦略的要衝・但馬国-天正六年(1578年)の geopolitical な情勢

天正六年(1578年)、日本の歴史が大きく動く中で、但馬国(現在の兵庫県北部)は、天下統一を目前にする東の織田信長と、西国に覇を唱える毛利輝元という二大勢力が激突する、地政学的な断層線上に位置していた。山陽道、山陰道、そして瀬戸内海という三つの主要な進撃路を想定していた毛利氏にとって、但馬国は京都へ至る山陰道ルートの要であり、織田方にとっては毛利氏の背後を脅かすための重要な侵攻路であった 1 。この地理的条件が、但馬国を必然的に時代の草刈り場としたのである。

織田と毛利、二大勢力の狭間にて

かつて但馬守護として権勢を誇った名門・山名氏も、応仁の乱以降その権威は失墜し、天正年間には国内を完全に統制する力を失っていた。但馬は、事実上、垣屋氏、太田垣氏、八木氏、田結庄(たいのしょう)氏といった国人領主たちが割拠する群雄割拠の状態にあった 2 。これらの在地領主たちは、自らの存亡を賭けて織田方につくか、毛利方につくかの厳しい選択を迫られていた。特に、山名四天王の筆頭格とされた垣屋豊続は毛利方に与し、一方で鶴城主の田結庄是義は織田方に通じるなど、但馬国内は両大勢力の「代理戦争」の様相を色濃く呈していた 2

羽柴秀吉の中国攻めと但馬への波及

この緊張状態に決定的な影響を与えたのが、天正五年(1577年)に始まる羽柴秀吉の中国方面軍総大将就任と、それに伴う中国攻めの本格化である 4 。秀吉の主戦場は当初、播磨国(現在の兵庫県南西部)であったが、別所長治が籠る三木城 6 、そして荒木村重が叛旗を翻した有岡城 4 における凄絶な抵抗に遭い、播磨平定は泥沼の長期戦へと突入していた。

この山陽道における戦線の膠着こそが、山陰道、すなわち但馬国における紛争を激化させる直接的な引き金となった。秀吉の主力が播磨に釘付けにされている状況は、毛利方にとって千載一遇の好機であった。毛利輝元と、その軍事の要である吉川元春・小早川隆景の両川体制は、秀吉が動けない間に山陰方面の支配を盤石にし、織田方に与する但馬の国人を排除することで、秀吉軍の背後を脅かし、播磨戦線への圧力を軽減しようと画策した。逆に織田方からすれば、播磨が平定できない以上、但馬の親織田派が敗北することは、山陰方面からの毛利勢の圧力を増大させ、中国攻め全体の破綻に繋がりかねない致命的な事態であった。

したがって、天正六年に但馬で勃発した武力衝突は、単なる地方領主間の私闘ではない。それは、播磨における秀吉本隊の苦戦という、より大きな戦略的状況から直接的に誘発されたものであり、両陣営が主力軍を投入できない状況下で、現地の同盟勢力を通じて互いの戦略的意図をぶつけ合った「代理戦争の沸点」であったと言える。

この複雑な但馬の情勢を理解するため、当時の主要な国人領主の勢力図を以下に示す。

陣営

氏族名

主要人物

主要拠点(城)

支配地域(郡)

毛利方

垣屋氏

垣屋 豊続

轟城、宵田城

気多郡、美含郡

太田垣氏

太田垣 輝延

竹田城

朝来郡

塩治氏

塩治 氏

芦屋城

二方郡

織田方

田結庄氏

田結庄 是義

鶴城

城崎郡

八木氏

八木 豊信

八木城

養父郡

日和見

山名氏

山名 祐豊

有子山城

出石郡

この表からも明らかなように、但馬国はモザイク状に両陣営の勢力が入り乱れており、いつ火がついてもおかしくない一触即発の状態にあったのである。

第一部:「宮部城の戦い」の謎-歴史的実像の探求

利用者様がご提示された「宮部城の戦い」という名称は、戦国史において非常に興味深い問いを投げかける。結論から述べれば、天正六年(1578年)に「但馬国」で「宮部城」を舞台とした大規模な合戦が行われたという直接的な史料は確認されていない。この名称は、複数の歴史的事実が後世に伝わる過程で結びつき、再構成された結果生まれたものと推察される。

近江宮部城と但馬豊岡城:二つの「宮部」

まず、「宮部城」という城自体は実在する。しかし、その所在地は但馬国ではなく、近江国浅井郡宮部村(現在の滋賀県長浜市宮部町)である 9 。この城の主こそが、宮部善祥坊継潤(みやべ ぜんしょうぼう けいじゅん)その人である。

宮部継潤は、比叡山で修行した僧兵(いわゆる荒法師)であったが、後に還俗して宮部氏の養子となり、近江の戦国大名・浅井長政に仕えたという異色の経歴を持つ 11 。元亀三年(1572年)、織田信長による浅井氏攻めが激化する中、横山城を守る羽柴秀吉の調略に応じ、織田方へと寝返った。彼の居城である近江宮部城は、浅井氏の本拠・小谷城と織田方の拠点・横山城の中間に位置する戦略的要衝であり、小谷城攻めにおいて重要な役割を果たした 9

この功績により、継潤は秀吉の与力(配下で独立性を保つ武将)となり、天正五年(1577年)からの中国攻めに従軍する 11 。そして、彼が但馬国に城を得るのは、天正八年(1580年)の但馬平定戦が終結した後のことである。この時、継潤に与えられたのは「豊岡城」であり、この城は元々「木崎城(または城崎城)」と呼ばれていたものを、継潤が入城後に「豊岡」と改名したとされている 2

つまり、「但馬国の宮部城」という呼称は、人物(宮部継潤)、場所(但馬国)、そして継潤の本来の居城名(宮部城)という三つの要素が、後世において混同・結合した結果生じたものと考えられる。

天正六年の但馬における真の戦場:宵田城・水生古城

では、天正六年(1578年)に但馬国で実際に何が起きていたのか。史料が示すのは、但馬国内の織田方と毛利方の国人領主間で繰り広げられた「宵田城(よいだじょう)・水生古城(みずおいこじょう)の戦い」である 2 。この戦いは、天正三年(1575年)の「野田合戦」から続く、但馬国内の勢力争いが頂点に達したものであり、毛利方の中心人物である垣屋豊続が籠る城に対し、織田方の田結庄是義らが攻撃を仕掛けた激しい攻防戦であった。これこそが、利用者様の言う「但馬再編の過程で要衝が陥落」した戦いの歴史的実像に最も近いものである。

この歴史的記憶の再構成は、逆説的に宮部継潤という武将が但馬平定史においていかに重要な存在であったかを物語っている。天正八年(1580年)の但馬平定、そしてそれに続く因幡攻略において、継潤は多大な戦功を挙げ、戦後は但馬豊岡城主、さらには因幡鳥取城主として山陰地方の統治に深く関与した 11 。彼の名は、織田・豊臣政権下における「山陰方面の責任者」として、後世に強く記憶されることになる。人々が「但馬の重要な戦い」を想起する際、その地で最も名を馳せた宮部継潤のイメージが、天正六年の前哨戦の記憶と分かちがたく重なり合った。そして、継潤の出自を象徴する「宮部城」という名称が、具体的な城名が曖昧なまま、この結びつきの中に組み込まれていった。

したがって、「但馬国、宮部城の戦い」という呼称は、史実そのものではなく、歴史の記憶が再編される過程で生まれた「集合的記憶の産物」と解釈できる。本報告書は、この記憶の核にある、天正六年の但馬を揺るがした真の戦いの姿を、時系列に沿って解き明かすものである。

第二部:宵田城・水生古城の戦い(1578年)-合戦の時系列詳解

天正六年、但馬国の覇権をめぐる緊張は、ついに一つの城を舞台とした激しい攻防戦となって火を噴いた。毛利方の雄・垣屋豊続が守る宵田城である。この戦いは、但馬の国人たちが己の存亡を賭けてぶつかり合った、まさに死闘であった。

開戦前夜:両陣営の対峙

  • 籠城側(毛利方)
  • 総大将: 垣屋駿河守豊続 2 。かつて但馬守護・山名氏を支えた四天王の筆頭格の家柄であり、但馬北部の気多郡・美含郡に強固な地盤を持つ実力者である 3
  • 居城: 宵田城(現在の兵庫県豊岡市日高町岩中)。標高約156メートルの城山に築かれた、典型的な戦国期の山城である。山麓を流れる稲葉川を天然の堀とし、山上には本丸を中心に二の丸、三の丸が連なる。城の各所には土塁、竪堀、堀切が巧みに配置され、守るに易く攻めるに難い堅城であった 18
  • 兵力: 正確な記録はないが、一族郎党と支配下の兵を動員し、数百から多くとも千程度の兵力であったと推定される。毛利本隊は播磨方面に織田軍と対峙しており、直接的な大規模援軍は期待できない状況下での籠城戦であった。
  • 攻撃側(織田方)
  • 主将: 田結庄是義 2 。城崎郡を本拠とする有力国人で、早くから中央の織田信長の力を見抜き、連携を図っていた。
  • 兵力: 田結庄氏単独ではなく、八木氏など周辺の親織田派国人の兵力を結集した連合軍であったと考えられる。総兵力は籠城側を上回っていたと推測されるが、秀吉本隊からの直接的な援軍はなく、あくまで但馬国内の勢力同士による戦いであった。

合戦の推移(リアルタイム・シミュレーション)

合戦の具体的な日付や詳細な経過を記した一次史料は乏しい。しかし、当時の城郭構造や一般的な攻城戦のセオリーに基づき、そのリアルタイムな状況を再現することは可能である。

  • 【時刻 不明】 攻撃開始-狼煙
    田結庄是義率いる織田方連合軍が、宵田城下に姿を現す。鬨(とき)の声を上げ、城の包囲を開始。まず手始めに、城下の町屋に火を放ち、黒煙を天高く立ち上らせたであろう。これは籠城兵の士気を挫くと同時に、周辺の毛利方勢力への威嚇であり、長期戦に備えて敵の物資基盤を破壊する定石であった。城内からは、法螺貝の音が鳴り響き、守備兵が慌ただしく持ち場へと散っていく。
  • 【開戦初期】 大手口での激突
    攻撃軍の主力が、城の正面口である大手口(南側)へと殺到する 20。急峻な坂道を、矢や鉄砲玉の雨を避けながら駆け上がる兵士たち。しかし、高所を押さえる籠城側は圧倒的に有利である。城壁の上から巨大な岩や丸太が落とされ、攻撃側の兵士を薙ぎ倒していく。弓の名手が次々と敵兵を射抜き、数少ない鉄砲が火を噴いては攻撃側の勢いを止める。同時に、別動隊が裏手の搦手口(北側)からも攻撃を仕掛けるが、こちらも堅い守りに阻まれ、容易に城内への侵入を許さない。初日の攻撃は、攻撃側に多大な損害を与えただけで、何の戦果も得られずに終わったであろう。
  • 【攻防の激化】 持久戦への移行
    力攻めでの攻略が困難と悟った田結庄是義は、戦術を兵糧攻めへと転換する。城を幾重にも包囲し、外部からの兵糧や水の補給路を完全に遮断。これにより、戦いは互いの忍耐力を試す持久戦の様相を呈し始める。昼夜を問わず、攻撃側は陣太鼓を打ち鳴らし、矢を射かけては籠城兵に休息を与えない。時には小規模な部隊による夜襲を仕掛け、城の守りが手薄な箇所を探る。城内では、日に日に食料と矢弾が尽きていき、兵士たちの顔には疲労と焦りの色が濃くなっていく。
  • 【戦局の転換点】 水の手か、内応か
    数週間、あるいは一ヶ月以上に及んだかもしれない持久戦の末、戦局を動かす決定的な瞬間が訪れる。史料にその記述はないが、この種の攻城戦で落城の引き金となるのは、いくつかの典型的な要因が考えられる。一つは、城内の水の手(井戸や水源)を断たれること。攻撃側が城の水源に関する情報を掴み、それを破壊、あるいは汚染した場合、籠城は不可能となる。もう一つは、内部からの裏切りである。攻撃側からの調略に応じた者が城門を開け、敵兵を招き入れた可能性も高い。垣屋氏と田結庄氏は、天正三年(1575年)の野田合戦以来の宿敵であり 1、互いの家臣団にも顔見知りが多かったはずだ。恩賞を約束された内応者が、落城の直接的な原因となったのかもしれない。
  • 【落城の瞬間】 strategic な勝利
    最終的に、兵力と物量で勝る織田方が城を攻略した。しかし、天正八年(1580年)に羽柴秀長が但馬へ侵攻した際、垣屋方の城として宵田城が再び攻め落とされている記録があることから 18、天正六年の戦いでは、城が完全に破壊され占領されるという形ではなく、籠城側が甚大な被害を受けて開城・和睦するか、あるいは攻撃側が戦略的目標(垣屋氏の戦力削ぎ)を達成して一時的に撤退したという形で終結した可能性も考えられる。いずれにせよ、この戦いは垣屋氏の勢力を著しく削ぐ「織田方の戦略的勝利」であったことは間違いない。

戦後処理と但馬への影響

この一戦が但馬国に与えた影響は計り知れない。まず、毛利方の中心的存在であった垣屋豊続が手痛い打撃を受けたことで、但馬国内における毛利方の影響力は大きく後退した。他の親毛利派国人たちも、毛利本隊からの援軍が期待できない現実を突きつけられ、動揺が広がった。逆に、勝利した田結庄是義の威信は高まり、但馬国内の親織田派の結束は一層強固なものとなった。

しかし、この局地戦がもたらした最も重要な成果は、戦いの当事者ではなく、播磨で戦況を注視していた羽柴秀吉にもたらされた。この戦いは、秀吉にとって、将来の本格的な但馬侵攻に向けた、極めて価値の高い「実戦データ」収集の機会となったのである。

第一に、宵田城での激しい抵抗は、但馬の親毛利派国人が決して侮れない頑強な戦闘力を持つことを秀吉に教えた。

第二に、田結庄是義らの戦いぶりは、親織田派国人の忠誠心や動員可能な兵力、そして彼らがどこまで自力で戦えるのかという能力の限界を正確に見極める材料となった。

第三に、宵田城のような典型的な山城を攻略する際の困難さ、すなわち、攻略に必要な兵力、時間、そして兵站の重要性を具体的に学ぶことができた。

これらの情報は、二年後の天正八年に但馬へ大軍を送り込む際の作戦計画立案において、不可欠なものであった。一万を超える大軍を投入し、短期間で但馬全土を制圧するという電撃戦の成功は、この天正六年の苦い経験と、そこから得られた冷徹な教訓の上に成り立っていたのである。

第三部:但馬平定(1580年)への道程と宮部継潤の役割

天正六年の宵田城をめぐる攻防が、但馬再編の序曲であったとすれば、天正八年(1580年)の羽柴軍による大攻勢は、その終曲であった。播磨の戦線が片付いたことで、ついに織田軍の主力が但馬へとその矛先を向けたのである。

天正八年の大攻勢:羽柴秀長の電撃戦

天正八年一月、二年近くに及んだ三木城が、城主・別所長治一族の自刃によってついに落城する 6 。播磨を完全に平定し、後顧の憂いを断った秀吉は、満を持して但馬への大攻勢を開始した。

同年四月、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将に任じ、宮部継潤、藤堂高虎といった歴戦の将を配した一万以上の大軍を但馬へ進撃させた 21 。この兵力は、天正六年の国人同士の争いとは比較にならない、圧倒的なものであった。秀長軍はまず、但馬南部の反織田勢力の旗頭であった太田垣氏が籠る竹田城を攻略 23 。続いて、但馬守護・山名祐豊の居城である出石の有子山城に迫った。山名祐豊は、織田の大軍の前に戦意を喪失し、大きな抵抗をすることなく降伏。有子山城は落城し、ここに守護大名としての山名氏は事実上滅亡した 2

但馬の象徴であった山名氏が屈したことで、他の国人たちの抵抗は瓦解した。秀長軍は但馬全域を席巻し、『武功夜話』などの記述によれば、わずか十数日の間に十八もの城を落とすという驚異的な速さで但馬一国を平定した 26 。これは、天正六年の戦いで得た教訓に基づき、中途半端な兵力ではなく、圧倒的な物量で一気に制圧するという秀吉の戦略が完璧に機能した結果であった。

宮部継潤の戦功と豊岡統治

この電撃的な但馬平定戦において、宮部継潤は秀長の指揮下で、特に山陰方面の作戦を担当する重要な役割を担った 11 。彼は、但馬の地理や国人たちの内情にも通じており、秀長の作戦遂行を強力に補佐した。

但馬平定後、秀吉は継潤の功績を高く評価し、彼を但馬北部の要衝である豊岡城(旧・木崎城)の城主とし、二万石の所領を与えた 11 。これは、継潤が単なる一武将としてではなく、方面軍の指揮官として絶大な信頼を得ていたことの証左である。

豊岡城主となった継潤の役割は、単なる領地の統治に留まらなかった。豊岡は、次の目標である因幡国(現在の鳥取県東部)攻めの最前線基地となる。継潤は、この地で因幡の毛利方拠点・鳥取城を攻略するための準備を進めると同時に、降伏した但馬・因幡の国人衆を統率する役目を担った 11 。かつて毛利方として織田軍に抵抗した垣屋光成・豊続兄弟や、後に鳥取城攻めで活躍する亀井茲矩といった在地領主たちは、継潤の配下として織田軍の指揮系統に組み込まれ、山陰方面における対毛利戦線の重要な戦力となっていくのである 11

秀吉が宮部継潤をこの重要な地位に抜擢した背景には、彼の軍事的能力だけでなく、その特異な出自と経験を高く評価した、秀吉ならではの戦略的人事があった。

第一に、継潤は元僧侶であり、浅井氏の重臣から織田方に寝返ったという経歴を持つ。これは、彼が伝統的な武家の価値観だけに縛られない、柔軟な思考と交渉能力を持つ人物であることを示唆している。

第二に、但馬は長年、山名氏や在地国人が支配してきた土地であり、外部から来た武将が統治するには、武力による制圧だけでなく、現地の寺社勢力や国人衆との巧みな交渉が不可欠であった。元社僧である継潤は、こうした在地勢力との交渉において、他の生粋の武将にはない独自のパイプや知見を持っていた可能性が高い。

第三に、継潤が秀吉の甥である羽柴秀次(後の豊臣秀次)を一時的に養子として迎えていたという事実は、両者の間に極めて強い信頼関係があったことを物語っている 11。

したがって、継潤の豊岡城主就任は、単なる戦功への恩賞ではなく、対毛利戦線の最前線を安定させ、新たに獲得した領地を円滑に統治するための、秀吉の深謀遠慮に基づいた「適材適所」の人事であった。継潤は、軍監(いくさめつけ)であると同時に、優れた行政官としての役割を期待されていたのである。

結論:但馬再編史における「1578年の戦い」の歴史的意義

本報告書が探求した、天正六年(1578年)の「宮部城の戦い」は、その歴史的実像としては、但馬国の国人領主、垣屋豊続と田結庄是義の間で繰り広げられた「宵田城・水生古城の戦い」であったと結論付けられる。この戦いは、織田信長の天下統一事業の波が、但馬国へ本格的に波及する狼煙であった。

この天正六年の局地戦は、それ自体が但馬一国の趨勢を決定づけたわけではない。しかし、この戦いを通じて但馬国内の親毛利派勢力は大きな打撃を受け、その力は著しく削がれた。逆に、勝利を収めた親織田派の結束は強まり、織田勢力が但馬へ介入するための素地が整えられた。

この戦いが持つ最も重要な歴史的意義は、羽柴秀吉に「但馬を完全に制圧するには、小規模な代理戦争に頼るのではなく、圧倒的な主力軍による電撃的な侵攻こそが唯一の活路である」という、極めて貴重な戦略的教訓を与えた点にある。天正六年の苦戦の経験があったからこそ、天正八年の但馬平定戦は、周到な準備のもと、驚くべき短期間で達成された。そして、織田軍は山陰道における対毛利戦線の確固たる橋頭堡を確立することに成功したのである。

その総仕上げとして、宮部継潤という稀有な経歴を持つ武将が、平定後の山陰統治の要として豊岡城に配置された。これは、秀吉の壮大な中国攻めの一環として、但馬が完全に織田の支配体制下に組み込まれたことを象徴する出来事であった。

したがって、天正六年の宵田城をめぐる戦いは、但馬の運命を最終的に決定づけた天正八年の大攻勢に直結する、不可欠な「前哨戦」として、日本戦国史の中に明確に位置づけられるべきである。それは、但馬再編という大きな歴史劇の、静かだが決定的な序幕であった。

引用文献

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