富山城再攻囲(1585)
天正十三年・富山の役詳説 ― 関白秀吉の天下布武と佐々成政の落日 ―
序章: 天下、新たなる秩序へ
天正10年(1582年)6月、本能寺の変における織田信長の横死は、日本の歴史における巨大な権力の真空を生み出した。この未曾有の混乱を好機と捉え、驚異的な速度で天下人への階梯を駆け上がったのが、羽柴秀吉であった。彼は山崎の戦いで主君の仇・明智光秀を討ち、続く清洲会議では巧みな政治手腕で織田家の後継者問題に介入し、実質的な主導権を握る。そして天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、織田家筆頭宿老であった柴田勝家を破り、その地位を不動のものとした 1 。秀吉の台頭は、旧来の秩序が崩壊し、力と才覚が新たな序列を決定づける時代の到来を告げるものであった。
この新たな時代の奔流に、敢然と立ち向かおうとした武将がいた。佐々成政である。彼は織田信長の精鋭親衛隊である「黒母衣衆」の筆頭を務め、数多の戦功を重ねて越中一国を領するまでに至った、織田家生え抜きの猛将であった 4 。その人物像は、武勇に優れるのみならず、主君・信長が浅井・朝倉両氏の髑髏を杯にして酒宴を開いた際には、非人道的であるとして諫言したという逸話が残るほど、硬骨で忠義に厚い武士であったと伝わる 1 。天正9年(1581年)に越中の国主となった成政は、本拠である富山城を「安住城」と改名し、領民の安寧を願った 6 。特に、たびたび氾濫を繰り返す河川の治水事業に力を注ぎ、その功績は後世まで語り継がれている 7 。
賤ヶ岳の戦いにおいて、成政は柴田勝方に与した。しかし、東の上杉景勝への備えから越中を動けず、戦局に大きな影響を及ぼすことはできなかった 10 。勝家の敗死後、成政は剃髪して秀吉に降伏の意を示し、一旦は越中一国の所領を安堵される 2 。しかし、その心根では、かつての同輩、いや格下とさえ見ていた秀吉が天下の覇権を握ることを決して認めてはいなかった。彼の胸中には、滅びゆく織田家への忠誠心と、成り上がり者への根深い不信感が燻り続けていたのである 2 。
この両者の対立は、単なる個人的な確執ではなかった。それは、織田家という確立された権威への忠節を重んじる旧時代の価値観と、実力で権力を奪取する新たな時代の論理との衝突であった。成政の存在そのものが、秀吉が築き上げようとする新秩序の正統性に対する、無言の挑戦だったのである。天下を完全に掌握するためには、秀吉にとって、旧織田体制の象徴ともいえる成政のような存在を、完全に屈服させるか、あるいは排除する必要があった。天正13年(1585年)の富山の役は、この必然的な帰結であった。
第一章: 孤立への道程 ― 小牧・長久手の戦いと「さらさら越え」
反秀吉包囲網への参画
天正12年(1584年)、織田信長の次男・信雄が、徳川家康と結び反秀吉の兵を挙げると、成政の胸中に燻っていた反骨の炎は再び燃え上がった。彼はこの機を逃さず、信雄・家康方に呼応。紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らと共に、広域な反秀吉包囲網の一翼を担うこととなる 12 。当初、成政は秀吉からの出陣要請に応じていたものの、戦況が秀吉に不利と見るや離反したとする説もあり、その動向には慎重な計算があったことが窺える 12 。
末森城の戦い
反旗を翻した成政は、まず秀吉方の中核をなす前田利家の勢力を削ぐべく行動を開始した。同年9月9日、成政は総勢1万5千の兵を率いて、利家の領国である加賀国と能登国を分断する要衝・末森城に殺到した 12 。城主・奥村永福は寡兵ながらも必死の防戦を繰り広げ、利家本体の到着まで持ちこたえる。報せを受けた利家は、金沢城から僅かな手勢を率いて嵐のように駆けつけ、佐々軍の背後を強襲した。これにより、成政軍は混乱に陥り、撤退を余儀なくされた 8 。この敗北は、成政の軍事行動における最初の大きな躓きとなった。
同盟の瓦解と執念の立山越え「さらさら越え」
軍事的な失敗以上に成政を絶望させたのは、政治的な裏切りであった。頼みの綱であった織田信雄が、成政に何の相談もなく秀吉と単独講和を結んでしまう。これに続き、徳川家康もまた秀吉と和睦し、戦線から離脱した。これにより、反秀吉包囲網は事実上崩壊し、成政は北陸の地で完全に孤立無援の状態に陥ったのである 3 。
四面楚歌の状況下で、成政は常人には考えも及ばない行動に出る。家康の真意を問い質し、再起を促すため、厳冬の北アルプス・立山連峰を踏破して浜松の家康のもとへ直接向かうことを決意したのだ。これは後に「さらさら越え」として語り継がれる、前代未聞の強行軍であった 4 。ザラ峠を越えたとする説、飛騨から安房峠を越えたとする説、あるいは上杉方の内通者の協力を得て越後を抜けたとする説など、そのルートには諸説あるが 10 、いずれにせよ想像を絶する困難な旅であったことは間違いない。
しかし、この英雄的な行動は、致命的な政治的誤算であった。成政が浜松に到着したとき、家康は既に秀吉との和睦を固め、互いの子を人質として交換するという、後戻りのできない政治的決定を下していた 14 。家康は、秀吉の勢いがもはや止められないことを冷静に判断し、将来の機会を窺うために戦略的な恭順を選んだのである。孤立した成政のために全てを賭けるという選択は、現実的ではなかった。成政の、かつての同盟者としての信義に訴えるという試みは、もはや個人の情や旧来の忠誠心では動かせない、新たな権力構造の前では無力であった。彼の壮絶な山越えは、その不屈の精神力を証明すると同時に、時代の変化を読み違えた武将の悲劇を象徴する出来事となった。説得に失敗し、失意のまま越中へ帰国した成政を待っていたのは、天下人・秀吉による容赦なき報復であった 3 。
第二章: 天下人の抜刀 ― 越中征伐軍の編成と出陣
関白秀吉の天下布武
「さらさら越え」から半年余りが過ぎた天正13年(1585年)7月、羽柴秀吉は朝廷より関白の宣下を受ける。これにより、彼は名実ともに天下人の地位を確立した。その権威を日本全土に知らしめる最初の壮大なデモンストレーションとして選ばれたのが、北陸でなおも反抗を続ける佐々成政の討伐、すなわち「富山の役」であった。この戦役は、単なる一地方大名の征伐ではなく、続く四国攻め、九州平定、そして小田原征伐へと連なる、秀吉の天下統一事業における重要な一里塚と位置づけられていた 20 。
政治的布陣という名の戦場
秀吉の非凡さは、その軍事編成に色濃く表れていた。彼はこの越中征伐軍の総大将に、あろうことか先の戦いで敵対した織田信雄を任命したのである 20 。これは、かつての主筋である信雄を自らの指揮下に組み込むことで、旧織田家臣団に対する自身の絶対的な優位性を内外に可視化する、極めて高度な政治的パフォーマンスであった。信雄を総大将として立て、その下に徳川家康を含む諸大名を従軍させることで、秀吉は自らが織田体制の継承者ではなく、それを超越した新たな支配者であることを天下に宣言したのである。
十万の威容 ― 豊臣軍の編成
秀吉が動員した軍勢は、まさに天を覆い地を埋め尽くすかの如き規模であった。その陣立ては『陸奥棚倉藩主阿部家文書』などの史料に詳細に記されており、総兵力は10万とも、あるいは少なくとも6万から7万に達したと伝えられている 7 。一番手には、成政とは浅からぬ因縁を持つ前田利家、二番手には織田家旧臣の丹羽長重が配され、そのほかにも蒲生氏郷、細川忠興、池田輝政といった、後の世に名を馳せる錚々たる武将たちが名を連ねていた 21 。これは、佐々成政という一個人を屈服させるには明らかに過剰な戦力であり、その目的が軍事的な制圧以上に、諸大名に対する威嚇と秀吉政権の圧倒的な国力を誇示することにあったのは明白であった。
【表1】富山の役における両軍の兵力と主要指揮官
勢力 |
総兵力(推定) |
主要部隊と指揮官 |
備考 |
豊臣軍(攻撃側) |
約57,300~100,000名 |
一番隊: 前田利家 (10,000) 二番隊: 丹羽長重 (20,000) 三番隊: 木村重茲, 堀尾吉晴 他 (約5,300) 四番隊: 加藤光泰, 池田輝政 他 (約7,000) 五番隊: 蒲生氏郷 他 (約5,500) 船手衆: 宮部継潤, 細川忠興 他 (約4,000) 別働隊: 織田信雄 (5,000) |
総大将は名目上、織田信雄。実質的な総指揮は羽柴秀吉。史料により兵数に幅がある 21 。 |
佐々軍(防御側) |
約15,000~20,000名 |
総大将: 佐々成政 |
越中国内三十六の城塞から兵力を富山城に集中させ、籠城戦に備えた 15 。 |
東からの牽制
秀吉の戦略は、陸路からの大軍による圧力だけに留まらなかった。彼はかねてより誼を通じ、今や従属関係にある越後の上杉景勝にも出兵を要請。これに呼応した上杉軍は、越中東部の国境まで進出し、成政の背後を脅かした 21 。これにより、成政は西から迫る秀吉本隊と、東から睨みを利かせる上杉軍によって完全に挟撃される形となり、戦略的な逃げ場を完全に失ったのである。富山城は、文字通り日本列島に浮かぶ孤島と化した。
第三章: 富山城再攻囲 ― 合戦の時系列詳解
この戦役は、大規模な野戦や攻城戦よりも、秀吉による圧倒的な軍事力を背景とした心理的圧迫がその本質であった。以下に、天正13年8月における一連の出来事を時系列で詳述する。
【表2】富山城再攻囲の時系列概要(天正十三年八月)
日付(推定含む) |
豊臣軍の動向 |
佐々軍の動向 |
備考 |
8月4日 |
織田信雄隊、京都を出陣 22 。 |
籠城体制を強化。 |
征伐軍の先鋒が行動を開始。 |
8月6日 |
前田利家隊、越中へ進攻。国境付近で戦闘開始 22 。 |
支城の兵を富山城へ集結させる。 |
事実上の開戦。 |
8月7日 |
秀吉本隊、京都を出立 21 。 |
富山城での徹底抗戦の構えを固める。 |
天下人自らの出陣。 |
8月19日 |
秀吉、加賀国津幡を経て越中入り。呉羽丘陵の白鳥城に本陣を設置 8 。 |
富山城に完全籠城。 |
富山城包囲網が完成。 |
8月19日以降 |
富山城周辺の要所に放火。安田城・大峪城を整備し、包囲網を強化 24 。 |
丹羽長重の陣に夜襲を敢行するも限定的な戦果に終わる 21 。 |
心理的圧迫と散発的な戦闘。 |
8月下旬 |
陣中が暴風雨に見舞われる 21 。神通川を利用した水攻めを検討したとの伝承も残る 21 。 |
圧倒的兵力差を前に、降伏か玉砕かの最終判断を迫られる。 |
成政、決断の時。 |
8月26日 |
秀吉、織田信雄を介した成政の降伏申し入れを受諾。 |
成政、富山城を出て安養坊で剃髪。秀吉本陣へ出頭し正式に降伏 8 。 |
戦役の終結。 |
八月上旬 ― 開戦
戦いの火蓋は、8月6日に切られた。一番隊を率いる前田利家が加賀・越中の国境を越え、佐々方の前線拠点への攻撃を開始したのである 22 。これに先立つ8月4日には、名目上の総大将である織田信雄の部隊が京を発っており 22 、征伐が計画通りに着々と進行していることを示していた。
八月中旬 ― 秀吉、前線へ
8月7日、関白・豊臣秀吉は自ら本隊を率いて京を出立した 21 。そして8月19日、秀吉は加賀国津幡を経て越中に入り、富山城を眼下に見下ろす絶好の strategic point である呉羽丘陵の最高峰、白鳥城に本陣を構えた 8 。これは計算され尽くした配置であった。高所から自軍の威容を敵に見せつけることは、籠城する将兵の士気を著しく削ぐ効果を持つ。秀吉はさらに、白鳥城の支城として安田城や大峪城を整備させ、富山城を完全に包囲する鉄壁の布陣を完成させた 24 。
八月十九日以降 ― 完全なる包囲と心理戦
この戦いは、秀吉による心理戦の巧みさを如実に物語っている。彼は力攻めを急がなかった。その代わりに、陸路からは幾重にも連なる大軍が富山城に迫り、海からは宮部継潤や細川忠興らの船手衆が海上を封鎖し、補給と脱出の望みを完全に断ち切った 21 。さらに、秀吉軍は富山城周辺の要所に次々と放火し、黒煙を上げることで自軍の支配が及んでいる範囲を視覚的に示し、城内の人々に絶望感を与えた 21 。
圧倒的な劣勢の中、佐々軍もただ沈黙していたわけではない。丹羽長重の陣に決死の夜襲を敢行するなど、散発的な抵抗を試みた記録が残っている 21 。しかし、大局を覆すには至らなかった。この時期、豊臣軍の陣営が大規模な暴風雨に見舞われ、少なからぬ被害が出たという逸話もあるが 21 、それすらも戦況を揺るがす要因とはならなかった。秀吉がかつて備中高松城で用いた神通川を利用した水攻めを検討していたという伝説も、籠城側の恐怖を煽るには十分な効果があったであろう 21 。秀吉の主たる武器は、兵士の槍や鉄砲ではなく、敵の心を折る「恐怖」と「絶望」であった。
八月下旬 ― 成政の苦悩と決断
富山城内では、成政が越中各地に配置していた三十六の城塞から兵力をかき集め、徹底抗戦の構えを固めていた 21 。しかし、日に日に狭まる包囲網と、地平線を埋め尽くす敵の旗指物、夜空を焦がす無数の篝火を前に、もはや勝ち目がないことは誰の目にも明らかであった。降伏か、玉砕か。城内では激しい議論が交わされたであろう。領民の安寧を願って「安住城」とまで名付けたこの城で、その領民を無益な戦に巻き込むべきか。織田家への忠義を貫き、武士として潔く散るべきか。成政は、生涯で最も過酷な決断を迫られていた。
第四章: 落城、そして戦後処理
白衣の降人
天正13年8月26日、佐々成政はついに降伏を決意した。もはや抵抗は、将兵と領民の命を無為に失わせるだけだと悟ったのである。彼は、旧主である織田信雄に仲介を依頼し、秀吉に降伏を申し入れた 8 。そして、自ら富山城を後にし、呉羽山麓の安養坊において髪を剃り落として僧衣をまとい、完全な恭順の意を示した 8 。白衣の降人となった成政が、秀吉の本陣である白鳥城へ向かう道中、眼前に展開する豊臣軍の厳粛な陣構えを目の当たりにした。その列の傍らでは、昨日までの敵であった前田軍の兵士たちが、敗将の姿を嘲笑ったと伝えられている 8 。それは、誇り高き武将にとって耐え難い屈辱であったに違いない。
関白の裁定と越中の再編
秀吉は、成政の降伏を受け入れ、その一命を助けた 7 。しかし、下された裁定は極めて厳しいものであった。成政は越中一国のうち、東部の新川郡を除く全ての所領を没収された。本拠であった富山城は破却を命じられ、成政自身も領国に留まることは許されず、妻子と共に大坂へ移住させられた 10 。事実上の改易に近い処分であった。
この戦後処理は、単なる懲罰に留まらず、秀吉による北陸地方の戦略的な勢力再編であった。没収された越中の神通川以西の三郡(婦負・射水・砺波)は、この戦役で先鋒として忠勤に励んだ前田利家の嫡男・利長に与えられた 16 。これにより、長年にわたり北陸で競い合ってきた佐々氏と前田氏の力関係は完全に逆転した。秀吉は、反抗的で予測不能な成政を排除し、信頼できる与党である前田氏の勢力を拡大させることで、この地方に安定した支配体制を築き上げたのである。これは、後の加賀藩百万石の礎を築く重要な一歩となった。
北陸平定の完了と秀吉の威光
富山の役の終結は、秀吉が北陸地方における最後の有力な抵抗勢力を屈服させ、その支配を盤石のものとしたことを意味した。この戦役を通じて、秀吉は自らの圧倒的な軍事力と政治的権威を天下に誇示した。戦後、秀吉が富山城に入城したか、あるいは周辺で茶会などを催したかについての明確な史料は残されていない。しかし、勝利の後に茶会を開き、文化的な優位性をも示すことは秀吉の常套手段であり、この地でも彼の威光を示す何らかの儀式が行われた可能性は高い 1 。いずれにせよ、富山城の降伏は、秀吉による天下統一事業が、もはや誰にも止められない巨大な潮流となったことを決定づける出来事であった。
終章: 硬骨の武将、その終焉
御伽衆としての日々と肥後への栄転
大坂へ移送された成政は、秀吉の側近である「御伽衆」の一人として仕えることになった 7 。それは、かつて一国を領した大名にとっては屈辱的な日々であっただろう。しかし、秀吉は成政を完全に冷遇したわけではなかった。羽柴の姓を与えるなど 10 、その武将としての能力や経験を一定程度評価していた節も見られる。
そして天正15年(1587年)、九州征伐において武功を挙げた成政に、誰もが予想しなかった転機が訪れる。秀吉は成政に、肥後一国を与え、国持大名として奇跡的な復活をさせたのである 5 。この人事の裏には、秀吉の深謀遠慮があった。一説には、成政の武勇を高く評価し、将来の朝鮮出兵における先鋒隊長として活躍することを期待した「大抜擢」であったとも言われる 30 。しかし、別の見方をすれば、肥後は長年の戦乱で国人衆の力が非常に強く、統治が極めて困難な国であった。そこに、融通の利かない性格の成政を送り込むことで、意図的に国人衆との衝突を誘発させ、失脚させることを狙った「陰謀」であったとする説も根強い 7 。
肥後国人一揆と最期
成政の統治は、まさに後者の筋書きをなぞるかのように破綻へと向かった。彼は着任するや否や、性急な検地を強行するなど強権的な政策を推し進め、隈部親永をはじめとする在地国人衆の猛烈な反発を招いた 10 。やがて不満は爆発し、肥後全土を巻き込む大規模な一揆へと発展する。成政は自力での鎮圧に失敗し、結局は秀吉が派遣した鎮圧軍の助けを借りるという失態を演じた 10 。
この責任の追及は苛烈であった。一揆を発生させたこと以上に、「自力で鎮圧できなかった」統治能力の欠如を問われたのである 10 。天正16年(1588年)閏5月、成政は摂津尼崎の法園寺において切腹を命じられた。その最期は、彼の生き様を象徴するかのように壮絶であったと伝わる。一文字に腹を掻き切った後、自らの臓腑を掴み出し、秀吉への怨念を込めて天井に投げつけたとされる 7 。
辞世の句は、「このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり」 10 。
(この頃の災難や妄念を詰め込んでいた鉄鉢袋、すなわち我が肉体を、今こそ打ち破って彼岸へ旅立つのだ)
という、苦悩の末に得た悟りの心境が詠まれている。
歴史的評価 ― 時代の奔流に呑まれた巨岩
佐々成政の生涯は、織田信長という絶対的な中心を失った後、旧来の価値観と忠義に殉じた多くの戦国武将の悲劇を象徴している。彼は、主君への忠誠を絶対とし、義理と面目を重んじる、いわば旧時代の武士であった。その硬骨な精神は、平時であれば名君として称えられたかもしれない。しかし、彼が生きたのは、昨日の友が今日の敵となる、価値観が激しく揺れ動く変革の時代であった。彼は、秀吉が築き上げようとする、実利と権謀術数が支配する新たな秩序に適応することができなかった。
富山の役は、その成政の没落を決定づけた、天下の趨勢を示す分水嶺であった。それは、一個人の武勇や意地では、もはや時代の巨大な奔流には抗えないことを冷徹に示した戦いであった。佐々成政という巨岩は、その奔流に呑み込まれ、砕け散ったのである。彼の悲劇的な最期は、戦国という時代の終焉と、新たなる統一政権の誕生を告げる、一つの象徴的な出来事として歴史に刻まれている。
引用文献
- 富山の怪談・佐々成政にまつわる早百合伝説の真実とは?惨殺された美女の怨念? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/98188/
- 佐々成政(さっさ なりまさ) 拙者の履歴書 Vol.282~志高く 荒波に散る~|デジタル城下町 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf50873d596ec
- 家康の説得に、決死の「さらさら越え」を敢行した、佐々成政の生涯|信長の親衛隊“黒母衣衆”の筆頭【日本史人物伝】 https://serai.jp/hobby/1143832/2
- 出世にとらわれた戦国武将・佐々成政の悲惨すぎる最期 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/27351
- 二度敵対した秀吉からも「期待」された佐々成政 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/36248
- 民衆を愛した佐々成政~真実だった、厳冬の北アルプス"さらさら越え" https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0204.html
- 秀吉と争い続け、信長への忠誠心を失わなかった男|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【佐々成政編】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1025938/2
- 佐々成政と富山 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0201.html
- 暴れ川に挑んだ佐々成政と加藤清正 緒方英樹 連載9 - ソーシャルアクションラボ https://socialaction.mainichi.jp/2020/09/27/1108.html
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- 1584年 小牧・長久手の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1584/
- 本能寺の変で暗転した佐々成政の生涯 富山城を秀吉軍10万に囲まれるも大大名に復活、波乱の結末が待っていた | グルメ情報誌「おとなの週末Web」 https://otonano-shumatsu.com/articles/408607/3
- ふるさと再発見 富山県ができるまで | GOOD LUCK TOYAMA|月刊グッドラックとやま https://goodlucktoyama.com/article/feature/%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%80%80%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%A7
- 佐々成政の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46493/
- 戦国武将が愛した城のある風景~北陸・富山編~ - 金沢について https://kanazawa.hakuichi.co.jp/blog/detail.php?blog_id=99
- 富山城の歴史 - 松川遊覧船 https://matsukawa-cruise.jp/reading/history-of-toyama-castle/
- 特別展「秀吉 越中出陣-「佐々攻め」と富山城」 - 富山市 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/kikakuhaku/list/h22/2203/2203.html
- 富山の役 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%BD%B9
- 「富山の役(越中征伐、1585年)」羽柴秀吉 VS 佐々成政!大軍 ... https://sengoku-his.com/174
- 忠節を貫いた自己信念の武将 佐々成政|まさざね君 - note https://note.com/kingcobra46/n/n84541b4ef0a1
- 安田城を考える2 - 富山市 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/yasuda/y-kouza/y-kouza2.htm
- 佐々成政の居城「富山城」の歴史と巨石「鏡石」 https://sengoku-story.com/2019/05/22/sengoku-trip-etsuhi0002/
- 越飛戦国物語~佐々成政と富山市の観光(歴史・史跡) https://sengoku-story.com/category/etsuhi/
- 秀吉の越中出陣前後の婦負 - 富山市 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/yasuda/event/mini-hideyoshi-shiryou.pdf
- 雑記 神保長織(じんぼながもと) ~ 佐々成政 - つとつとのブログ https://tsutotsuto.seesaa.net/article/202112article_2.html
- とやま文化財百選シリーズ (5) - 富山県 https://www.pref.toyama.jp/documents/14266/osiro.pdf
- 蒲生氏郷、佐々成政ら有力大名が異動になった真相 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62100
- 特別寄稿佐々成政と肥後国衆一揆 ~中世から近世への歴史的転換点 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0205.html
- 肥後国衆一揆 | オールクマモト https://allkumamoto.com/history/higo_uprising_1587
- 肥後国人一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E4%B8%80%E6%8F%86