小幡城の戦い(1582)
「小幡城の戦い」は、本能寺の変後の関東で、滝川一益と北条氏直が激突した神流川の戦いを指す。小幡信真は無血降伏し北条氏に属した。この戦いは天正壬午の乱の序章となり、関東の勢力図を塗り替えた。
天正壬午、関東の激震:いわゆる「小幡城の戦い(1582)」の真相と、神流川合戦に至る権力移行の時系列分析
序章:天正壬午、激動の関東 ―「小幡城の戦い」の真実を求めて―
天正10年(1582年)、武田氏滅亡直後の上野国において、「小幡城が北条方によって確保された」という事実は、戦国時代末期の関東の勢力図を塗り替える上で極めて重要な出来事であった。しかしながら、この権力移行を指して「小幡城の戦い」という、北条軍が小幡氏の居城・国峯城を直接攻略した大規模な攻城戦として捉えることは、史実の正確な理解とは言い難い。
諸史料を精査すると、この年に北条軍と小幡軍が城をめぐって大規模な戦闘を交わしたという記録は、実のところ存在しない。では、いかにして「北条方が確保」という結果がもたらされたのか。その答えは、単一の城をめぐる攻防戦ではなく、織田信長の死という未曾有の権力空白が生んだ、より広範でダイナミックな地政学的変動の中にこそ見出される。
本報告書は、この問いに答えるべく、天正10年という激動の年(干支が壬午であったことから、後に「天正壬午の乱」と呼ばれる一連の動乱の年)における上野国の権力移行の過程を、極めて詳細な時系列で再構築するものである。その中心に据えるべきは、織田信長麾下の関東方面軍司令官・滝川一益と、関東の覇者・北条氏直が激突した関東史上最大級の野戦「神流川の戦い」である。小幡城、すなわち国峯城の運命は、この大会戦の結果と、それに続く一連の政治的・軍事的動向によって決定づけられた。
本報告を通じて、いわゆる「小幡城の戦い」の真相、すなわち、戦火を交えることなく北条氏の支配下に入った小幡氏の決断の背景と、その背後で繰り広げられた壮大な権力闘争のリアルタイムな様相を明らかにしていく。
【付属資料】
表1:天正10年(1582年)上野国関連略年表(3月~7月)
年月日(天正10年) |
主要な出来事 |
関連人物・勢力 |
3月7日 |
小幡信真、織田方に人質を提出し降伏 1 |
小幡信真、織田勝長 |
3月11日 |
武田勝頼、天目山にて自刃。武田氏滅亡 2 |
武田勝頼、織田信長 |
3月23日 |
論功行賞により、滝川一益が上野一国と信濃二郡を拝領 2 |
滝川一益、織田信長 |
5月 |
滝川一益、厩橋城に入り、関東諸将を招き能興行を催す 3 |
滝川一益、北条氏、上野国衆 |
6月2日 |
本能寺の変。織田信長・信忠が自刃 5 |
織田信長、明智光秀 |
6月7日頃 |
本能寺の変の報、滝川一益のもとに到達 3 |
滝川一益 |
6月12日 |
北条氏政・氏直、領国に総動員令を発令 3 |
北条氏政、北条氏直 |
6月12日頃 |
藤田信吉、一益から離反し沼田城を攻撃するも敗退 7 |
藤田信吉、滝川益重 |
6月16日 |
北条軍、上野国へ侵攻開始。倉賀野方面へ進軍 9 |
北条氏直、北条氏邦 |
6月18日 |
神流川の戦い(緒戦) 。金窪原にて両軍が激突。滝川方が勝利 8 |
滝川一益、北条氏邦 |
6月19日 |
神流川の戦い(決戦) 。上野国衆の離反により滝川軍が総崩れとなり敗走 9 |
滝川一益、北条氏直、上野国衆 |
6月20日 |
滝川一益、箕輪城にて上野国衆と別れの宴を開き、深夜に碓氷峠へ向け出発 9 |
滝川一益、倉賀野秀景 |
6月下旬 |
北条軍、上野国の主要部を制圧。小幡信真ら国衆が降伏 1 |
北条氏直、小幡信真 |
7月1日 |
滝川一益、本拠地の伊勢長島に帰還 9 |
滝川一益 |
7月9日 |
小幡信真、北条軍の先手として信濃へ出兵(天正壬午の乱の開始) 1 |
小幡信真、北条氏直 |
表2:主要登場人物一覧
人物名 |
当時の役職・立場 |
本件における役割・動機 |
滝川一益 |
織田家宿老。関東御取次役。上野国・信濃二郡の領主。 |
織田信長の代理として関東を統治するが、本能寺の変により後ろ盾を失う。織田家への忠義と関東からの脱出という二つの目的の間で苦悩し、北条氏との決戦に敗れる悲劇の将 4 。 |
北条氏政 |
相模国の戦国大名。後北条家四代目当主(隠居)。 |
隠居の身ながら実権を掌握。信長の死を関東支配権奪還の好機と捉え、織田氏との同盟を即座に反故にし、上野侵攻を主導した冷徹な戦略家 13 。 |
北条氏直 |
後北条家五代目当主。氏政の子。 |
神流川の戦いにおける北条軍の総大将。父・氏政の戦略のもと、5万の大軍を率いて滝川一益を破り、上野国を制圧。その後の天正壬午の乱でも主役となる 9 。 |
北条氏邦 |
武蔵鉢形城主。氏政の弟。北関東方面軍司令官。 |
北条軍の先鋒として神流川の戦いに臨む。上野国衆の調略を担当し、彼らの離反を促した重要人物。小幡信真の降伏交渉においても取次役を務めたと考えられる 16 。 |
小幡信真(信貞) |
上野国甘楽郡の国衆。国峯城主。 |
武田氏、織田氏、北条氏と主君を変えながらも一族の存続を図った現実主義者。時勢を読む目に長け、神流川の戦いの結果を受け、抵抗することなく北条氏に降伏した 1 。 |
第一部:旧秩序の崩壊と新秩序の胎動(天正10年3月~6月初旬)
第一章:甲州征伐と織田信長による戦後処理
天正10年(1582年)3月11日、織田信長・徳川家康・北条氏政の連合軍による甲州征伐は、天目山における武田勝頼の自刃をもって終結した 2 。これにより、かつて東国に覇を唱えた名門・甲斐武田氏は滅亡し、甲斐・信濃・上野にまたがる広大な旧武田領は、巨大な権力の空白地帯と化した。
この歴史的な転換点において、織田信長は迅速に戦後処理に着手する。3月23日、信長は諏訪において論功行賞を発表し、この戦役で多大な功績を挙げた織田四天王の一人、滝川一益を上野一国ならびに信濃国の佐久・小県二郡の所領主に抜擢した 2 。この人事は、単なる恩賞にとどまらず、関東の覇者として君臨する北条氏を牽制し、東国全域に織田政権の支配を確立するための、信長の明確な地政学的戦略の現れであった 12 。
一益は、信長から「関東御取次役」という重責を任された。これは、関東の諸大名と織田政権との間の交渉窓口であり、事実上の関東方面軍司令官ともいえる役職である 12 。一部では「関東管領」に任じられたとの説も流布しているが 4 、これは室町幕府の伝統的権威を借りた俗称に近いものであり、公式な役職として任命された確証はない。実態としては、信長の絶対的な権威を背景に、関東の秩序を再編する全権代理人であったと解釈するのが最も妥当であろう。
第二章:滝川一益の関東統治 ― わずか三ヶ月の栄華
新たな関東の支配者となった滝川一益は、精力的に統治を開始する。当初は西上野の要衝・箕輪城に入ったが、5月にはより広大な平野部を掌握しやすい厩橋城(現在の前橋城)に本拠を移した 3 。そして、沼田城に甥の滝川益重、松井田城に津田秀政といった一族や重臣を配置し、上野国内の主要拠点を押さえることで、支配体制の基盤を固めようと試みた 3 。
一益の統治政策の中でも特筆すべきは、その「ソフトパワー」を駆使した戦略である。5月、彼は厩橋城に関東の諸将を招き、自ら能の『玉鬘』を舞うなど、大規模な能興行を催した 4 。これは、新たな支配者としての自身の威光と、織田政権が持つ高度な文化的権威を誇示する、巧みなデモンストレーションであった 20 。この催しには、同盟者でありながら潜在的な競争相手でもある北条氏も参加しており、この時点では両者の間に表面的な友好関係が保たれていたことがうかがえる 3 。
しかし、一益の支配は、その華やかさとは裏腹に、構造的な脆弱性を抱えていた。精力的に朱印状を発給し、領国経営に着手したものの 18 、わずか3ヶ月という短期間では、長年武田氏や上杉氏、北条氏の間で揺れ動いてきた上野国衆の心を完全に掌握するには至らなかった 21 。彼の権威は、彼個人の力量もさることながら、その背後にいる主君・織田信長の絶対的な存在そのものに大きく依存していたのである 11 。信長という権威の源泉が失われた時、この新秩序がいかに脆いものであったかが、後に証明されることになる。
第三章:西上野の雄、小幡信真の選択
上野国甘楽郡を本拠とする小幡氏は、古くから西上野に勢力を張る有力な国衆であった 24 。山内上杉氏の重臣として、後には武田信玄に仕え、その軍団の中核として活躍した。特に当主の小幡信真(信貞とも呼ばれるが、同一人物とされる 1 )が率いた部隊は、武具を赤で統一した「赤備え」として知られ、武田軍の中でも屈指の精強さを誇った 27 。その居城である国峯城は、山城、丘城、平城の三つの部分から構成される、南北2.5km、東西2kmにも及ぶ広大な複合城郭であり、西上野における比類なき戦略的要衝であった 27 。
武田氏滅亡という未曾有の事態に際し、小幡信真は極めて迅速かつ現実的な判断を下す。彼は、上野の国衆の中で最も早く、天正10年3月7日には織田方へ人質を差し出して恭順の意を示した 1 。これは、滅びゆく武田家に殉じることなく、新たな覇者である織田氏にいち早く服属することで、一族と所領の安堵を確保しようとする、国衆としての優れた生存戦略であった。
戦後処理の結果、信真は滝川一益の与力、すなわち配下の将として組み込まれることになった 1 。武田軍団最強と謳われた騎馬隊を率いた彼の軍事力は、関東統治を始めたばかりの一益にとって、頼れる存在であったに違いない。しかし、その主従関係は、あくまでも織田信長という絶対的な権威を前提としたものであり、その前提が崩れた時、信真は再び過酷な選択を迫られることになるのである。
第二部:激震、本能寺の変(天正10年6月2日~6月15日)
第一章:京の凶報、関東へ
天正10年6月2日早朝、京都・本能寺において、日本の歴史を根底から揺るがす大事件が勃発した。明智光秀の謀反により、天下統一を目前にした織田信長が自刃したのである 5 。この凶報は、織田氏が整備した伝馬制などの情報網を通じて、驚くべき速度で全国に伝播していった 37 。
遠く離れた関東の地においても、この衝撃は例外ではなかった。上野国厩橋城にいた滝川一益のもとへ本能寺の変の一報が届いたのは、6月7日(あるいは9日)頃であったとされている 3 。ほぼ時を同じくして、相模国小田原城の北条氏政・氏直父子もこの事実を掴んだと考えられる。一つの情報が、受け取る者の立場によって全く異なる意味を持ち、それぞれの運命を大きく左右する瞬間であった。
第二章:各勢力の初動 ― 思惑の交錯
信長の死という同じ情報に接しながら、滝川一益と北条氏の初動は実に対照的であった。この初動の差が、その後の関東の覇権の行方を決定づけることになる。
滝川一益の苦悩と決断
一報を受けた一益は、当初、情報の秘匿を試みたものの、事態の重大さに鑑み、重臣たちの反対を押し切って配下の上野国衆を招集し、信長・信忠父子の死を公式に伝えた 3 。そして、「急ぎ上洛し、明智光秀を討ち、先君の重恩に報いねばならぬ」と、関東を離れて京へ向かう決意を表明した。
この行動は、織田家宿老としての忠義心の発露であったが、関東統治者としては致命的な判断ミスであったと言わざるを得ない 11 。彼の正直な宣言は、上野国衆の耳には「我々の主君である一益が、この上野国を放棄する」という表明に他ならなかった。絶対的な後ろ盾であった信長を失い、さらに統治者自身が撤退の意図を明らかにしたことで、一益の求心力は急速に失墜し、国衆の間に動揺と不信感が広がった 11 。
北条氏政・氏直の迅速な野心
一方、北条氏にとって信長の死は、まさに千載一遇の好機であった 21 。長年、奪取を狙いながらも武田氏や上杉氏、そして織田氏の存在によって阻まれてきた上野国を、完全に自らの版図に組み込む絶好の機会が到来したのである。
彼らの行動は迅速かつ冷徹であった。6月11日付の書状では、一益に対して引き続き協調関係を維持する旨を伝え、油断させる素振りを見せる一方で 3 、その翌日の6月12日には、早くも領国全土に総動員令を発令していた 3 。この巧みな二枚舌外交は、戦国の常道であり、彼らの卓越した戦略的判断力と、上野侵攻への固い決意を物語っている。
上野国衆の動揺と離反
一益の権威失墜と北条氏の軍事行動開始という二つの情報を受け、上野の国衆は一斉に動揺を始める。彼らの最優先事項は、織田家への忠義ではなく、自らの所領と一族の存続である。
その動きを象徴するのが、旧武田家臣であった藤田信吉の離反である。彼は、本能寺の変の報を受けるや否や、いち早く一益を見限り、越後の上杉景勝と通じて、滝川益重が守る沼田城に攻撃を仕掛けた 7 。この反乱は一益の派遣した援軍によって鎮圧されたものの、上野国内の秩序が内部から崩壊し始めたことを示す、最初の狼煙であった。
この頃、小幡信真をはじめとする多くの国衆もまた、水面下で北条氏と接触を開始していたと推測される。特に、北条氏の北関東方面軍司令官であり、上野国との国境に位置する鉢形城主・北条氏邦は、長年にわたって上野国衆との関係を築いており、彼らを取り込むための調略を活発化させていたと考えられる 16 。こうして、来るべき決戦を前に、戦場の外では既に勝敗の趨勢が決まりつつあったのである。
第三部:関東最大の野戦「神流川の戦い」(天正10年6月16日~19日)
本能寺の変によって生じた関東の権力空白は、ついに直接的な軍事衝突へと発展する。滝川一益率いる織田方残存勢力と、北条氏直率いる北条本隊との間で繰り広げられた「神流川の戦い」は、戦国時代を通じて関東地方で最大級の野戦と評される、歴史的な大会戦であった 9 。
第一章:両軍の対峙
天正10年6月16日、北条氏直を総大将とし、父・氏政の後見のもと、5万とも言われる大軍が武蔵国から上野国へと進軍を開始した 7 。先鋒を務めたのは、北関東の事情に精通した猛将・北条氏邦である 9 。
これに対し、滝川一益は上野国内の国衆をかき集め、約1万8千の兵力でこれを迎え撃つことを決断した 7 。兵力差は3倍近くと圧倒的に不利であったが、上洛のための退路を確保し、何よりも織田家宿老としての意地を示すためにも、一戦を交えることは避けられなかった。両軍は、上野と武蔵の国境を流れる神流川を挟んだ一帯、現在の埼玉県上里町から群馬県高崎市新町にかけての地域で対峙した 3 。
第二章:緒戦、金窪原の激突(6月18日)― 滝川軍の善戦
6月18日、ついに両軍の先鋒が金窪原(現在の埼玉県上里町)で激突し、二日間にわたる死闘の火蓋が切られた 8 。
緒戦の展開は、意外にも滝川方の優勢で進んだ。一益の巧みな指揮のもと、特に小幡信真をはじめとする旧武田家臣団で構成された上州衆は、長年の実戦経験を活かして勇猛果敢に戦い、北条氏邦が率いる先鋒隊を打ち破った 9 。滝川軍は北条方の金窪城を攻略し、野戦においても北条勢を追撃して多数の将兵を討ち取るなど、初日は滝川軍の明らかな勝利に終わった 9 。
この緒戦の勝利は、滝川一益の指揮官としての能力の高さと、上州衆の戦闘能力が依然として健在であることを示すものであった。この時点では、一益の求心力は完全には失われておらず、国衆たちも、どちらが真の「勝ち馬」となるかを冷静に見極めている段階であったことがうかがえる。
第三章:決戦の日(6月19日)― リアルタイム・シークエンス
緒戦の勝利に勢いづく滝川軍であったが、決戦の日となった6月19日、戦況は劇的な展開を見せる。
【午前】一益、氏直本隊を破る
19日の早朝、両軍の本隊が激突。滝川一益は自ら手勢3千という寡兵を率い、北条氏直が指揮する2万の本隊に猛然と突撃した。この一益の捨て身の采配は功を奏し、一時は氏直の本隊を敗走させるほどの猛攻を見せた 9 。これは、一益個人の武将としての卓越した力量が遺憾なく発揮された瞬間であり、戦況は再び滝川方に傾いたかに見えた。
【転換点】上野国衆の裏切り
優勢に戦いを進める一益は、勝機と見て、後陣に控えていた上州衆の主力部隊に総攻撃を命じた。しかし、この命令に彼らが応えることはなかった。厩橋城主であった北条高広をはじめとする上野の諸将は、進軍の合図にもかかわらず、その場を動こうとしなかったのである 9 。この沈黙は、単なる逡巡や恐怖ではなかった。それは、一益への見切りと、新たな支配者である北条への恭順の意思を示す、明確な政治的行動であった。緒戦の勝利で織田方への「義理」は果たしたと判断し、これ以上の深入りを避けることで、自らの生き残りを図ったのである。
【午後】一益の絶望と最後の突撃
後陣の裏切りを悟った一益は、勝利の望みが絶たれたことを瞬時に理解した。彼は、「関東衆は頼りにならず。運は天にあり、死生命あり、敵中に打ち入りて、討死せよ」と絶叫し、最後まで付き従った自らの旗本(直属部隊)と共に、玉砕を覚悟した最後の突撃を敢行した 9 。
【夕刻】滝川軍の総崩れ
この決死の突撃も、大勢を覆すには至らなかった。体勢を立て直した北条軍は、その圧倒的な兵力差を活かして滝川軍を包囲し、殲滅にかかる。夕刻になる頃には、滝川軍は完全に総崩れとなり、敗走を余儀なくされた 9 。この戦いで、滝川方の重臣であった篠岡、津田、太田、栗田といった将たちや、最後まで一益と共に戦った上州衆の一部、木部貞朝や倉賀野秀景の子らが討死し、滝川軍は壊滅的な打撃を受けた 9 。神流川の戦いは、北条軍の決定的な勝利に終わったのである。
この戦いの勝敗を決したのは、兵力や戦術以上に、上野国衆の政治的判断であった。彼らの傍観と離反こそが、戦いの流れを決定的に変えた。神流川の戦いは、単なる野戦ではなく、関東の支配権が織田(滝川)から北条へと移譲される、一種の儀式としての意味合いを持つことになったのである。
第四部:支配者の交代と小幡氏の決断(天正10年6月19日夜~7月)
神流川での敗北は、滝川一益による関東支配の終焉を意味した。そして、それは同時に、小幡信真をはじめとする上野国衆が、新たな支配者のもとで生き残るための、次なる選択を迫られる時代の始まりでもあった。
第一章:滝川一益の敗走 ― 関東からの撤退
6月19日の夕刻、戦場から敗走した一益は、からくも厩橋城へと退却した 9 。翌20日の夜、彼は最後まで自分に付き従った倉賀野秀景ら一部の上野国衆を箕輪城に集め、別れの宴を催した。この席で、一益が自ら鼓を打ち、謡曲『羅生門』の一節「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」と謡うと、倉賀野秀景が『源氏供養』の一節「名残今はと鳴く鳥の」と応じたという逸話は、敗軍の将の悲哀と、立場を超えた武士同士の交誼を今に伝えている 9 。
一益は、人質として預かっていた国衆の子弟を解放し、彼らに太刀や金銀などを与えた後、深夜、少数の手勢と共に箕輪城を後にした 9 。西上野の松井田城、そして信濃の小諸城を経て、道中、真田昌幸の母などの人質を木曽義昌に引き渡すことでその協力を得て、険しい碓氷峠を越えた 9 。数々の苦難の末、彼が本拠地である伊勢長島に帰り着いたのは、7月1日のことであった 9 。
この関東からの敗走は、一益の運命を大きく変えた。織田家の後継者を決定する重要な会議であった「清洲会議」に間に合わず、彼は中央政界における影響力を完全に喪失することになったのである 3 。
第二章:北条氏による上野制圧
神流川の戦いに圧勝した北条氏直は、間髪入れずに上野国全土の制圧に取り掛かった。主を失った厩橋城をはじめとする滝川方の諸城は、もはや組織的な抵抗をすることができず、次々と北条氏の支配下に入った 10 。こうして、北条氏はわずか半月のうちに、長年の悲願であった上野国の主要部を完全に掌握した。
しかし、この北条氏の急激な勢力拡大は、新たな火種を生むことになる。旧武田領である甲斐・信濃を狙う徳川家康、そして北信濃を確保した上杉景勝との間で、新たな領土紛争が勃発したのである。これが、甲信地方を主戦場として、徳川・北条・上杉の三つ巴の争いとなる「天正壬午の乱」の始まりであった 7 。
第三章:「小幡城の戦い」の真相 ― 小幡信真の無血降伏
神流川における滝川軍の決定的な敗北は、小幡信真にとって、もはや織田方に与し続ける理由が完全に消滅したことを意味した。彼は、他の多くの国衆と同様、地域の新たな覇者となった北条氏に速やかに恭順の意を示し、その軍門に降った 1 。
この権力移行の過程において、北条軍が小幡氏の居城・国峯城を包囲し、攻撃を仕掛けたという記録は一切見当たらない。信真の降伏は、神流川の戦いの結果を受けて行われた、戦後処理の一環としての政治的な帰属先の変更であり、軍事的な衝突を伴うものではなかった。これこそが、いわゆる「小幡城の戦い」という具体的な合戦が史料に見られない理由である。小幡城の運命は、城壁のはるか外、神流川の戦場において、既に決定されていたのである。
降伏後、信真は北条氏邦の指南(取次役)のもと、後北条家配下の「他国衆」として位置づけられた 1 。そして、休む間もなく始まった天正壬午の乱においては、今度は北条軍の先手として、信濃国へ出兵することになる 1 。彼の行動は、主君のために命を懸けるというよりも、激動の時代の中で、いかにして自らの家と領地を守り抜くかという、国衆としての現実的な生存戦略を貫いた結果であった。
終章:天正壬午の乱へ ― 新たなる秩序の形成
神流川の戦いと、それに続く北条氏による上野国の制圧は、織田信長が構想した関東支配体制を完全に白紙に戻し、関東の覇権を再び北条氏の手に取り戻す決定的な出来事となった。わずか3ヶ月で崩壊した織田の新秩序に代わり、北条氏を中心とした旧来の秩序が、より強固な形で再構築されたのである。
しかし、それは関東に平和をもたらすものではなかった。北条氏の急激な勢力拡大は、徳川家康、上杉景勝との間に新たな緊張を生み出し、旧武田領の広大な遺産をめぐる、より大規模な動乱「天正壬午の乱」の序章となった 8 。小幡信真もまた、新たな主君である北条氏の先鋒として、この次なる戦乱の渦中へと身を投じていくことになるのである 1 。
結論として、1582年のいわゆる「小幡城の戦い」とは、単一の城をめぐる攻防戦を指すものではない。それは、本能寺の変という巨大な権力の真空状態を背景に、神流川の戦いをクライマックスとして、上野国の支配権が織田(滝川)から北条へと劇的に移行した、一連の歴史的過程そのものを指す言葉と解釈すべきである。そして、その渦中で小幡信真が下した無血降伏という決断は、戦国の世を生き抜いた地方領主の、極めて現実的かつ合理的な選択を象徴するものであったと言えよう。
引用文献
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- 神流川の戦い | 倉賀野城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1324/memo/3205.html
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- 1582年(後半) 東国 天正壬午の乱 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-4/
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- 上野国・戦国時代その5 戦国末期から徳川政権へ https://www.water.go.jp/kanto/gunma/sozoro%20walk/the%20age%20of%20civil%20wars%205.pdf
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- 天正壬午の乱~武田氏の旧領をめぐる争い~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/tensho-jingo.html
- 北条氏邦(ほうじょううじくに) 拙者の履歴書 Vol.400~天下を賭けし鉢形の主 - note https://note.com/digitaljokers/n/n8dc4a3f845c8
- 「北条氏政」の評価はイマイチ?天下人秀吉に最期まで抵抗するも… - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/342
- 滝川一益(たきがわ かずます) 拙者の履歴書 Vol.82~織田家の忠臣、関東の夢と挫折 - note https://note.com/digitaljokers/n/nfce6713e376b
- 滝川一益-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44324/
- 滝川一益 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A
- 神流川の戦い古戦場:群馬県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kannagawa/
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- 特集 神流川合戦の衝撃を考える https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/42/42266/91657_1_%E3%81%8B%E3%81%BF%E3%81%95%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9No002%E7%89%B9%E9%9B%86%E7%A5%9E%E6%B5%81%E5%B7%9D%E5%90%88%E6%88%A6%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B.pdf
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