小牧山の戦い(1584)
信長没後、秀吉と家康は天下を巡り小牧山で対峙。秀吉は犬山城を奪取し攻勢に出るも、家康は小牧山を要塞化し堅守。両雄の攻防は戦線を膠着させ、長期戦の様相を呈した。
天正十二年 小牧・長久手の戦い - 秀吉と家康、唯一の直接対決の全貌
序章:天下人への道、交錯する二つの野心
天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって織田信長が横死したことで、日本の政治地図は巨大な権力の空白地帯と化した。この混乱を好機として、驚異的な速度で歴史の表舞台に躍り出たのが、羽柴秀吉であった。備中高松城の攻囲から引き返す「中国大返し」を敢行し、山崎の戦いで主君の仇・明智光秀を討伐した秀吉は、織田家の後継者を定める清洲会議において、信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を擁立することで主導権を握る 1 。翌天正11年(1583年)には、織田家筆頭家老の柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、信長の三男・信孝を自刃に追い込むことで、事実上、織田家の家臣団における第一人者の地位を確立した 2 。大坂に巨大な城の築城を開始するなど、その政策はもはや一介の家臣の域を超え、天下人としての意志を明確に示していた 3 。
しかし、秀吉の急激な台頭は、旧織田家体制の中に深刻な亀裂と反発を生んだ。その中心にいたのが、信長の次男・織田信雄である。清洲会議以降、弟・信孝との対立を経て、反秀吉勢力の象徴的存在となっていた信雄は、秀吉が三法師の後見人として織田家を壟断していく様に強い危機感を抱いていた 4 。単独では秀吉に対抗できないと悟った信雄は、父・信長の盟友であり、五カ国を領する大名として東海地方に強固な地盤を築いていた徳川家康に救援を要請する 5 。
家康にとって、この要請は単なる隣国からの救援依頼ではなかった。それは「主君・信長の遺児を助け、織田家を簒奪せんとする逆臣・秀吉を討つ」という、この上ない大義名分を得る絶好の機会であった 6 。この戦いの根底には、どちらが真に「織田家」の正統な後継者であるかを巡る、二つの異なる理念の衝突があった。秀吉は、信長の孫・三法師を擁立し、自らはその後見人として振る舞うことで「織田政権の継承者」という体裁を整えていた。対する信雄は、信長の次男として血筋の正統性を主張し、家康は信長との旧同盟を根拠に「織田家を守護する者」という立場を取った。これは単なる領土や覇権を巡る争いではなく、次代の統治理念そのものをかけたイデオロギー闘争でもあったのである。
この反秀吉の動きは、尾張・三河にとどまらなかった。紀州の雑賀・根来衆、四国の長宗我部元親、越中の佐々成政、そして関東の北条氏政といった、秀吉の勢力拡大に脅威を感じる各地の大名たちが、信雄・家康と呼応する構えを見せていた 7 。家康はこれらの勢力と連携し、秀吉を多方面から牽制する全国規模の包囲網を形成するという大戦略を描いていたのである。
そして天正12年(1584年)3月6日、信雄は居城の長島城(三重県桑名市)において、秀吉への内通を疑った自身の重臣三名(津川義冬、岡田重孝、浅井長時)を誅殺するという強硬手段に出る 5 。この事件は、両陣営の対立を決定的なものとし、秀吉に「信雄討伐」の口実を与えた。ここに、後に天下人となる二人の英雄、羽柴秀吉と徳川家康が、その生涯で唯一直接対決することになる「小牧・長久手の戦い」の火蓋が切られたのである。
第一部:戦端開く - 伊勢・尾張での初動(天正12年3月)
戦役の初期段階において、両軍は互いの意図を探りつつ、迅速かつ巧妙な軍事行動を展開した。特に秀吉は、陽動と奇襲を組み合わせた見事な戦略連携により、戦いの主導権を握ろうと試みた。
第一章:伊勢戦線の勃発と犬山城の電撃占拠
3月8日、信雄・家康連合軍は、秀吉軍の伊勢国への進軍に対抗するため、主力をそちらへ向ける 9 。秀吉は、信雄の本拠地である伊勢に蒲生氏郷らを先遣隊として派遣し、峯城(三重県亀山市)などを攻撃させた 10 。これは、連合軍主力の注意を伊勢方面に引きつけ、その背後で決定的な一手を打つための巧妙な陽動であった。信雄の重臣である佐久間正勝や、本来尾張を守るべき犬山城主・中川定成までもが伊勢方面に出陣しており、秀吉の狙いは見事に的中した 11 。
連合軍の目が伊勢に釘付けになっている隙を突き、3月13日、衝撃的な事件が起こる。織田家譜代の重臣であり、信雄方に与するものと見られていた池田恒興が、突如として秀吉方に寝返ったのである 7 。恒興は、城主・中川定成が伊勢に出陣中で手薄になっていた犬山城(愛知県犬山市)を電撃的に奇襲し、これを占拠した 10 。木曽川を背後にした要害である犬山城は、尾張と美濃を結ぶ戦略上の最重要拠点であった 15 。この一挙により、秀吉軍は敵地である尾張国内に、極めて強力な橋頭堡を確保することに成功したのである。
第二章:小牧山への道 - 羽黒の戦いと両軍の布陣
犬山城陥落という急報は、同日に清洲城(愛知県清須市)に到着したばかりの家康の元にもたらされた 7 。家康の対応は神速であった。彼は即座に北上を決意し、秀吉軍の南下を阻止すべく動いた。
犬山城に入った池田恒興に呼応し、その娘婿である美濃金山城主・森長可が兵3,000を率いて南下、3月17日には犬山の南方、羽黒(現在の犬山市)に布陣した 10 。この突出した森勢の動きを、家康は見逃さなかった。彼は酒井忠次、榊原康政、松平家忠ら兵5,000を派遣し、同17日の未明に羽黒の森長可勢に奇襲攻撃を敢行した。不意を突かれた森勢は混乱に陥り、300名もの死者を出して敗走した(羽黒の戦い) 9 。
この初戦の勝利で勢いを得た家康は、3月15日には小牧山(愛知県小牧市)に進駐し、本陣を構えた 7 。小牧山は、かつて織田信長が美濃攻略の拠点として築城した場所であり、濃尾平野を一望できる戦略的要衝であった 18 。家康は徳川四天王の一人、榊原康政に命じ、ただちに城の大規模な改修に着手させる。山の周囲には二重の土塁を巡らせ、特に南側には高さ8メートルにも及ぶ巨大な土塁を築き、空堀や虎口(城の出入り口)を設けることで、小牧山を鉄壁の一大野戦陣城へと変貌させた 9 。
一方、羽黒での敗報を受けた秀吉は、3月10日に大坂城を出陣 9 。27日に犬山城に到着すると、28日には小牧山から北へ約5キロメートルの楽田城(犬山市)に本陣を移した 10 。秀吉もまた、家康の小牧山城塞に対抗すべく、その周囲に二重堀砦、岩崎山砦、小松寺山砦、青塚砦などを築かせ、小牧山を半包囲する一大要塞線を構築した 9 。3月28日に家康が、29日には信雄が小牧山に入城し、ここに両軍合わせて10万を超える大軍が、わずか数キロの距離を隔てて対峙するという、壮大な睨み合いの構図が完成したのである 9 。
この初動における両雄の戦略思想は、実に対照的であった。秀吉の戦略(伊勢陽動と犬山奇襲)は、敵の意表を突く「機動」と「調略」を重視し、敵地深くに楔を打ち込むことで戦いの主導権を握ろうとするものであった。対する家康の戦略(羽黒での迎撃と小牧山要塞化)は、敵の突出部を的確に叩き、地の利を得た場所で堅固な「防御」を固めることで、兵力差を無力化しようとするものであった。この戦役は、開始当初から秀吉の「攻」と家康の「守」という、両雄の最も得意とする戦術思想が鮮明に現れた戦いであったと言える。
【表1】小牧・長久手の戦い 主要参戦武将と兵力(小牧対陣時)
陣営 |
総兵力(推定) |
主要武将 |
拠点 |
羽柴軍 |
約100,000 15 |
羽柴秀吉、羽柴秀次、池田恒興、森長可、堀秀政、丹羽長重、稲葉一鉄 |
犬山城、楽田城、二重堀砦、岩崎山砦、小松寺山砦 |
織田・徳川連合軍 |
約17,000 - 20,000 8 |
徳川家康、織田信雄、酒井忠次、榊原康政、井伊直政、本多忠勝 |
清洲城、小牧山城、小幡城、蟹清水砦、北外山砦 |
この圧倒的な兵力差こそが、家康が徹底した防御策を取り、秀吉が力攻めを躊躇した戦況の根本的な構造を物語っている。
第二部:膠着と奇策 - 長久手への序曲(3月下旬~4月上旬)
小牧山と楽田を基点とした両軍の対峙は、やがて戦況を完全な膠着状態へと導いた。この状況は、短期決戦を望む秀吉にとって、次第に焦りを生じさせるものとなっていく。
第三章:小牧での睨み合い
4月に入っても、両軍の睨み合いは続いた。家康は小牧山城の北麓から八幡塚にかけて土塁を築き、秀吉も岩崎山砦と二重堀砦の間に土塁を築くなど、互いに防御線を強化し続けた 9 。最前線に位置する二重堀砦などでは、連合軍による奇襲や小競り合いが繰り返されたが 9 、どちらも決定的な攻勢に出ることはなく、互いに相手の出方を窺う日々が過ぎていった 22 。
この膠着状態は、約10万という大軍を動員し、長期にわたり尾張に留まっている秀吉にとって、戦略的に極めて不利な状況であった。兵站の維持にかかるコストは莫大であり、時間が経過すればするほど、越中の佐々成政や四国の長宗我部元親といった、各地の反秀吉勢力が本格的に動き出す危険性も高まっていた 1 。家康の堅固な防御陣を前に、秀吉は何らかの形でこの均衡を打破する必要に迫られていた。
第四章:乾坤一擲の「三河中入り」作戦
この膠着状態を打開するため、秀吉陣営で一つの大胆な奇策が持ち上がる。それが「三河中入り」作戦である。
4月4日、楽田城で開かれた軍議の席上、池田恒興が「家康配下のほとんどの部隊は小牧山に集結している。今、その本拠地である三河・岡崎城を奇襲すれば、家康軍は必ずや動揺し、小牧山から兵を退くだろう。そこを我らの本隊と挟撃すれば、勝利は間違いない」と進言したとされる 16 。家康の背後を突き、後方を攪乱するというこの作戦は、大きな危険を伴うものであった。秀吉は当初、そのリスクの高さから難色を示したと伝わるが、恒興の執拗なまでの熱意に押され、最終的にこの作戦を承認した 1 。
この作戦の真の発案者については、異なる見解も存在する。秀吉が丹羽長秀に宛てた書状などを根拠に、この作戦は秀吉自身が構想していたものを恒興が進言した、あるいは秀吉が主導権を握っていたとする説である 7 。もし秀吉が主導していたとすれば、この作戦は単なる軍事的な博打ではなかった可能性が浮かび上がる。すなわち、歴戦の将である池田恒興や森長可といった、旧織田家臣団の中でも特に武勇に優れた者たちを、最も危険な任務に就かせる。そして、作戦の総大将には経験の浅い甥の秀次を据えることで、万が一作戦が失敗した場合でも、その責任を回避しつつ、秀吉自身の権力基盤を固める上で潜在的な脅威となり得る旧臣たちを排除するという、冷徹な政治的計算が含まれていたとも考えられる。これは、秀吉の権謀術数家としての一面を強く示唆している。
作戦の実行部隊として、総勢2万を超える大兵力が編成された。これはもはや単なる「別働隊」ではなく、織田・徳川連合軍の総兵力に匹敵する「第二軍」とも言うべき規模であり、秀吉がこの作戦に賭けた期待の大きさを物語っている。
【表2】「三河中入り」別働隊 編成表
部隊 |
総大将/隊長 |
兵力 |
役割 |
総大将 |
羽柴(三好)秀次 |
- |
作戦全体の指揮 |
第一隊 |
池田恒興・元助・輝政 |
約6,000 16 |
先鋒・主力 |
第二隊 |
森長可 |
約3,000 16 |
第二陣 |
第三隊 |
堀秀政 |
約3,000 16 |
第三陣・遊軍 |
第四隊 |
羽柴秀次(本隊) |
約8,000 16 |
後詰・総大将直属 |
合計 |
- |
約20,000 |
- |
4月6日の夜半、この大部隊は家康軍に察知されぬよう、小牧山から東へ大きく迂回するルートを取り、密かに岡崎への進軍を開始した 1 。4月7日には上条村(現在の春日井市)に入り、砦を築いて宿営した 9 。しかし、この隠密行動は長くは続かなかった。同日、篠木(現在の春日井市)の住民からの密告により、別働隊の存在とその進路は、小牧山の家康の知るところとなったのである 9 。戦局は、一気にクライマックスへと動き出す。
第三部:激闘の一日 - 天正十二年四月九日
天正12年4月9日、この一日は小牧・長久手の戦いにおける、そして秀吉と家康の生涯における、極めて重要な一日となった。複数の戦場で同時多発的に繰り広げられた戦闘は、情報の伝達、部隊の移動速度、そして個々の武将の決断が連鎖し、劇的な結末を迎えることとなる。
第五章:岩崎城の奮戦 - 遅滞戦術の真価
4月9日未明、午前4時頃。岡崎を目指し南下する池田恒興率いる別働隊の先鋒が、岩崎城(現在の愛知県日進市)の付近を通過しようとしていた 25 。当時、城主の丹羽氏次は家康に従って小牧山に出陣しており、この城は氏次の弟である丹羽氏重が、わずか300余りの兵と共に守っていた 25 。氏重は、この時まだ16歳の若武者であった 27 。
大軍の前に立ちはだかる小城を、池田隊は無視して通り過ぎようとした 1 。しかし、氏重はその進軍を看過せず、城代としての責務を果たすべく、驚くべき決断を下す。彼はわずかな城兵を率いて城門から討って出て、数で数十倍も上回る池田隊に攻撃を仕掛けたのである 25 。
この無謀とも思える突撃は、進軍を急ぐ池田隊の意表を突いた。氏重と城兵たちは奮戦し、『丹羽氏軍功録』によれば、大手門において三度にわたり攻城隊を撃退したと伝えられる 26 。この予期せぬ抵抗に、池田隊は足を止めざるを得なくなり、岩崎城の攻略に貴重な時間を費やすことになった。数時間にわたる激戦の末、午前8時頃、氏重は討死し、城兵もことごとく討ち取られ、岩崎城は落城した 31 。
軍事的には完全な敗北であった。しかし、この岩崎城の戦いがもたらした戦略的価値は計り知れない。丹羽氏重と城兵たちの命を懸けた数時間の抵抗こそが、秀吉軍別働隊の進軍を決定的に遅滞させ、家康本隊が追撃し、敵を捕捉するための絶対的に必要な「時間」を稼ぎ出したのである。後に家康自身が「此度の戦功第一は、岩崎にて少勢にて敵をくい止めた丹羽氏重である」と賞賛し、氏重の兄・氏次に加増してその功に報いたという逸話は、この遅滞戦術の成功を何よりも雄弁に物語っている 25 。
第六章:長久手、決戦の刻
別働隊の動きを完全に把握した家康の行動は、迅速かつ的確であった。4月7日に先遣隊を小幡城(名古屋市守山区)へ向かわせ 9 、4月8日の夜には、小牧山城の守りを酒井忠次に託し、自ら信雄と共に約9,000の兵を率いて出陣。深夜のうちに小幡城へ到着した 16 。
そして運命の4月9日、夜明けと共に家康軍は行動を開始する。
白山林の戦い(午前9時頃): 家康は、先鋒として榊原康政、大須賀康高、水野忠重らを先行させた。彼らは、現在の尾張旭市にあった白山林で、総大将である羽柴秀次(三好信吉)の部隊が朝食を取り、休息しているところを奇襲した 1 。完全に油断していた秀次隊は、この突然の攻撃に大混乱に陥り、組織的な抵抗もできずに壊滅、秀次自身も命からがら敗走した 1 。
桧ヶ根の戦い(午前10時頃): 秀次隊の敗走を知った第三隊の将・堀秀政は、歴戦の将らしく冷静沈着に対応した。彼はすぐさま部隊を桧ヶ根(現在の長久手市)の丘陵地帯に展開させ、有利な地形で防御陣を構えた 1 。白山林での勝利の勢いに乗って追撃してきた榊原康政の部隊を、鉄砲隊の一斉射撃で迎撃し、その鋭鋒を挫くことに成功する 16 。しかし、堀秀政は深追いをしなかった。東方の色金山に、家康本隊の馬印である「金の扇」が翻っているのを確認すると、これ以上の戦闘は不利と判断し、巧みに兵をまとめて戦場から離脱した 1 。彼の的確な状況判断は、部隊の壊滅を防ぎ、後の秀吉本隊との合流を可能にした。
仏ヶ根の決戦(午前10時頃~午後2時頃): 一方、岩崎城を攻略し、友軍の敗走を知って引き返してきた池田恒興・森長可の主力部隊は、仏ヶ根(現在の長久手市)付近で、色金山から前進してきた家康・信雄の本隊と遂に激突した 1 。
家康は、右翼に自らの本隊3,300、左翼に井伊直政率いる精鋭部隊「赤備え」3,000を配置。対する池田・森軍も、右翼に池田元助・輝政親子、左翼に森長可、後方に池田恒興本隊という布陣で迎え撃った 7。
午前10時頃に始まった戦闘は、両軍一進一退の激戦となった 16。しかし、戦局を大きく動かしたのは、井伊の赤備えであった。井伊直政隊の猛烈な鉄砲攻撃を受け、森長可が眉間を撃ち抜かれて戦死 2。勇猛な指揮官を失った森隊は崩壊した。さらに激戦の中、午後2時頃までには、池田恒興とその長男・元助も相次いで討ち取られ、池田隊もまた壊滅した 9。次男の池田輝政のみが、辛うじて戦場を離脱した 16。
電撃的帰還: 秀次、池田、森という別働隊の中核部隊をことごとく打ち破り、決定的な勝利を収めた家康であったが、彼は勝利の余韻に浸ることはなかった。敗報を受け、楽田の本陣から秀吉自らが大軍を率いて南下してくることを正確に予測していた家康は、秀吉本隊との決戦を巧みに回避する 5 。彼は即座に全軍に撤退を命じ、部隊をまとめて小幡城を経由し、その日の夕刻から夜にかけて、無事に小牧山城へと帰還したのである 9 。この迅速極まりない判断と行動により、家康は長久手での戦術的勝利を、揺るぎないものとした。
この一日の家康の戦いぶりは、単なる武勇や兵の強さだけでは説明できない。それは、住民からの密告という「情報」を制し、岩崎城が稼いだ「時間」を最大限に活用し、敵を分断して各個撃破するという「空間」を巧みに操り、そして勝利の後に即座に撤退するという徹底した「リスク管理」に裏打ちされたものであった。この日の家康は、まさに戦場のあらゆる要素を支配下に置いた指揮官であり、その卓越した戦場管理能力は、後の関ヶ原の戦いでの勝利を予感させるものであった。
【表3】天正十二年四月九日 長久手周辺における戦闘時系列表
時刻(推定) |
場所 |
出来事 |
関連部隊 |
午前4時頃 |
岩崎城 |
丹羽氏重、進軍中の池田隊を発見し攻撃を開始 25 |
丹羽氏重 vs 池田恒興 |
午前8時頃 |
岩崎城 |
激戦の末、岩崎城落城。丹羽氏重戦死 26 |
- |
午前9時頃 |
白山林 |
榊原康政隊、休息中の羽柴秀次隊を奇襲、壊滅させる 16 |
榊原康政 vs 羽柴秀次 |
午前10時頃 |
桧ヶ根 |
堀秀政隊、追撃する榊原隊を鉄砲で迎撃し、その後撤退 16 |
堀秀政 vs 榊原康政 |
午前10時頃 |
仏ヶ根 |
家康本隊と、引き返してきた池田・森隊が対峙、開戦 7 |
徳川家康 vs 池田恒興・森長可 |
正午頃 |
仏ヶ根 |
森長可、井伊直政隊の鉄砲攻撃により戦死 16 |
井伊直政 vs 森長可 |
午後2時頃 |
仏ヶ根 |
池田恒興・元助親子が相次いで戦死。池田隊壊滅 16 |
- |
午後4時頃 |
竜泉寺 |
敗報を受けた秀吉本隊が竜泉寺(名古屋市守山区)に到着するも、家康軍は既に撤退後 9 |
羽柴秀吉 |
夕刻~夜 |
小牧山城 |
家康本隊、小牧山城に無事帰還 9 |
徳川家康 |
第四部:第二の戦場と政治的終幕(5月~11月)
長久手における手痛い戦術的敗北は、秀吉に戦略の根本的な転換を促した。彼は家康との直接的な軍事対決を避け、より確実な勝利を得るために、戦いの焦点を政治と経済、そして連合の最も弱い環へと移していく。
第七章:尾張南部の攻防 - 蟹江城合戦
長久手の敗戦後も、戦役は終わらなかった。5月初旬、秀吉は尾張から兵を退き、美濃の鵜沼などを経て陣を移す 9 。戦線は一時的に膠着したが、6月、秀吉は新たな一手を打つ。
6月16日、秀吉はかつて織田信長に仕え、伊勢湾の水軍を熟知する滝川一益と、水軍の将・九鬼嘉隆に命じ、海上からの奇襲作戦を実行させた 9 。彼らは水軍を率いて伊勢湾を渡り、織田信雄の居城・長島城と徳川家康の清洲城の連絡線上に位置する要衝、蟹江城(愛知県蟹江町)を調略によって占拠。さらに前田城、下市場城をも手中に収めた 35 。これは、連合軍の連携を分断し、尾張南部を脅かす極めて巧妙な作戦であった 37 。
しかし、信雄・家康連合軍の反応は迅速だった。報を受けるや否や、即座に2万の大軍を動員して蟹江城を包囲 35 。水陸両面から徹底的な攻撃を加えた。滝川一益は半月以上にわたって籠城し、奮戦を続けたが、秀吉からの援軍は間に合わず、兵糧も尽きて万策尽きた 38 。7月3日、一益はついに降伏し、蟹江城は再び連合軍の手に戻った 9 。この蟹江城合戦もまた、局地的な戦闘においては家康方の勝利に終わったのである。
第八章:伊勢での圧力と信雄の屈服
長久手での直接対決の敗北、そして蟹江城での奇策の失敗。これらの経験を通じて、秀吉は家康を軍事力のみで屈服させることの困難さを痛感した。ここから、秀吉の戦略は大きく転換する。彼は家康という難攻不落の要塞を直接攻めるのではなく、連合の総大将でありながら、その意志が最も脆い環である織田信雄にターゲットを完全に絞ったのである 5 。
9月に入ると和睦交渉の動きもあったが決裂 9 。10月、秀吉は自ら大軍を率いて信雄の本拠地である伊勢へと侵攻を開始した 9 。蒲生氏郷らの活躍により、信雄方の戸木城など諸城が次々と攻略され、伊勢の大部分が秀吉の手に落ちた 11 。秀吉軍はさらに北上を続け、信雄の居城・長島城、そして桑名城にまで迫り、圧倒的な軍事的圧力で信雄を追い詰めていった 10 。
自らの領国が蹂躙され、重臣たちが次々と降伏していく中で、信雄の戦意は完全に打ち砕かれた 39 。そして11月、信雄はついに家康に何の相談もなく、独断で秀吉との単独講和に踏み切った 22 。その内容は、秀吉に人質を差し出し、領地である伊賀国と南伊勢を割譲するという、事実上の降伏とも言える屈辱的なものであった 39 。
この戦役全体を俯瞰すると、一つの興味深い構図が浮かび上がる。家康は、羽黒の戦い、長久手の戦い、そして蟹江城合戦と、主要な戦闘においてことごとく「戦術的勝利」を収めていた。しかし、戦役全体の最終的な結果は、秀吉の「戦略的勝利」であった。秀吉は、軍事的な敗北を、政治的な勝利へと転換させるという離れ業を演じたのである。彼は、織田・徳川連合の目的が「信雄の保護」にあること、そしてその弱点が「信雄自身の意志の弱さ」にあることを見抜き、そこを的確に突いた。これは、合戦の勝敗が必ずしも戦場の優劣だけで決まるものではないという、戦国時代の複雑な現実を示す最良の事例である。秀吉は戦争そのものに勝利し、家康は個々の会戦に勝利したに過ぎなかった。
終章:勝者なき戦いの真の勝者
織田信雄の単独講和は、戦役の幕をあっけなく下ろした。総大将である信雄が敵と和を結んだ以上、その援軍として参戦していた家康は、もはや戦いを続ける大義名分を完全に失った 34 。彼はやむなく兵を三河へと引き揚げることになった。
その後、秀吉は家康との和睦交渉を進める。家康もこれに応じ、天正12年12月、次男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子という名目で大坂に送った 39 。これは実質的な人質提出であり、この時点で家康は事実上、秀吉の覇権を認めた形となった。こうして、約8ヶ月にわたって日本中を揺るがした大戦役は、静かに終結した。
この戦いが、両雄に与えた影響は profound であった。
秀吉にとっての勝利は決定的であった。織田家の正統な後継者である信雄を屈服させたことで、彼は信長の後継者としての地位を名実ともに確立した 2。この戦いを足掛かりに、彼は翌年には四国の長宗我部元親を、その翌年には越中の佐々成政を討ち、関白に就任するなど、天下統一事業を急速に推し進めていく 13。
一方、家康は政治的には敗北を喫した。しかし、彼が得たものもまた、非常に大きかった。この戦役を通じて、家康は自らの卓越した軍事的才能、特に大軍を相手にしても揺るがない堅固な防御戦術と、機動的な迎撃戦術を天下に知らしめた 5 。長久手で秀吉の精鋭部隊を破り、池田恒興、森長可といった猛将を討ち取った武名は、「秀吉に唯一、土をつけた男」として、その後の彼の地位を特別なものにした 5 。この戦いがあったからこそ、家康は豊臣政権下において、他の大名とは一線を画す別格の存在として、その実力を保持し続けることができたのである。
小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康という、戦国時代の終焉を飾る二人の巨人が、その軍事力と知略の全てをぶつけ合った唯一の直接対決であった 4 。この戦いの結果、秀吉による「豊臣の天下」が確立され、家康はその体制下で最大の諸侯として力を蓄えるという、その後の約15年間にわたる日本の政治体制が決定づけられた。その意味において、この戦いは、最終的な天下分け目である関ヶ原の戦いに至る道筋をつけた、もう一つの「天下分け目の戦い」であったと評価することができるだろう。戦場での勝敗と、歴史的な勝敗が必ずしも一致しないことを、この戦いは我々に教えている。
引用文献
- 小牧長久手の戦い – 武将愛 https://busho-heart.jp/komakinagakute-fight
- 小牧・長久手の戦い~羽柴秀吉 対 徳川家康~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/komaki-nagakute.html
- 【合戦解説】小牧・長久手の戦い[中編] 羽柴 vs 織田・徳川 〜 織田家当主 織田信雄が三家老を処刑した事に端を発した羽柴vs織田・徳川連合軍の8ヶ月に及ぶ戦は始まった 〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=JuDoRW01UpM&pp=0gcJCfwAo7VqN5tD
- 小牧長久手の戦い③ 豊臣秀吉の三河中入り作戦!戦に勝利した家康が秀吉に臣従した狙いは?「早わかり歴史授業58 徳川家康シリーズ26」日本史 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=8MCS3MYETCs&pp=ygUTI-WFq-W5oeael-OBruaIpuOBhA%3D%3D
- 「小牧・長久手の戦い」は、誰と誰が戦った? 場所や経緯もあわせて解説【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/470311
- 徳川家康の「小牧・長久手の戦い」|織田信雄・家康の連合軍と秀吉が対決した合戦を解説【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1130498
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