川中島の戦い(第二次・1555)
天文二十四年、武田信玄と長尾景虎は川中島で二百日対陣。今川義元の仲介で和睦し、血を流さぬ戦略的忍耐の戦いは、両雄の器量を示した。
天文二十四年 犀川の対峙 ― 第二次川中島の戦い 全貌解明
序章:龍虎、再び北信濃へ ― 戦略的背景の再検証
天文24年(1555年)、甲斐の武田信玄と越後の長尾景虎(後の上杉謙信)は、信濃国北部の川中島平を舞台に再び雌雄を決することとなる。通算五度にわたる川中島の戦いのうち、二度目にあたるこの対陣は、第四次合戦のような激しい白兵戦こそ記録されていないものの、両雄の戦略、外交、そして戦争遂行能力が試された、極めて重要な局面であった。この戦いの本質を理解するためには、まず第一次合戦が残した北信濃の複雑な政治的・軍事的状況を再検証する必要がある。
第一次合戦の遺産と北信濃の勢力図
天文22年(1553年)の第一次川中島の戦いは、信玄による信濃侵攻の過程で発生した。信玄は領国拡大を目指し、信濃の小勢力を次々と制圧していた 1 。この過程で本領を追われた村上義清や、武田氏の圧迫に危機感を抱いた高梨・井上といった北信濃の国人衆が、当時、越後統一を成し遂げたばかりの長尾景虎に救援を要請したことが直接の引き金となった 2 。景虎はこの要請に応じ、義を掲げて出陣。この最初の衝突は、武田軍を一時的に後退させるなど景虎が優位に進めたものの 4 、決定的な勝敗には至らず、両軍は兵を引いた 5 。
この結果、北信濃には一種の「力の空白地帯」が生まれることとなった。武田氏は村上義清の旧領である埴科郡や小県郡を完全に掌握し、信濃支配の足がかりを固めた 6 。一方の長尾氏は、長野盆地の北半分(犀川以北)における国人衆への影響力を確保し、武田氏への防壁を築くことに成功した 6 。川中島は、南を武田、北を長尾が睨む、両勢力の最前線として固定化され、次の衝突は時間の問題であった。信玄の狙いは、川中島の豊かな穀倉地帯の確保と、その先にある日本海への交易路掌握にあり 2 、景虎の目的は、本国越後の防衛と、救援を求めてきた者たちを見捨てないという「義」の遂行にあった 3 。この両者の根本的な戦略目標の違いが、この地を巡る長期にわたる抗争の根源となったのである。
武田信玄の深謀遠慮 ― 信濃平定の次なる一手
第一次合戦後、信玄は力攻めだけでなく、謀略を駆使して北信濃の切り崩しを画策する。佐久郡や伊那郡の反抗勢力を鎮圧して後方を固めると 9 、その矛先を再び北へ向けた。信玄の戦略の巧みさは、敵の内部を切り崩す「調略」にあった 1 。彼は越後の国人である北条高広に内通を促し、景虎の背後を揺さぶろうと試みた。この試みは、景虎の迅速な対応により失敗に終わるが 9 、信玄が軍事行動と並行して、常に敵の足元を崩す工作を行っていたことを示している。
そして信玄は、次なる一手として長野盆地の中心に位置する善光寺に目をつけた。この行動こそが、第二次合戦の直接的な引き金となる。第一次合戦が残した未解決の問題、すなわち長野盆地北部の支配権をどちらが先に確立するかという戦略的競争において、信玄は軍事力ではなく調略という形で先手を取ったのである。これは偶発的な衝突ではなく、第一次合戦の必然的な延長線上にあった。
長尾景虎の義戦 ― 越後統一と介入の論理
一方の長尾景虎は、天文20年(1551年)頃までに長年の内乱を収め、22歳にして越後を統一していた 11 。粘り強い外交と、他国を凌駕するほどの潤沢な経済力を背景に、強力な軍事組織を構築 14 。国内の安定を達成した景虎は、その力を国外の問題へと振り向ける余力を得ていた。
彼にとって、信濃への介入は単なる領土的野心からではなかった。村上義清らからの救援要請は、自身の政治的権威を高め、越後の安全保障を確保するための大義名分となった 2 。武田氏の北上は、景虎の居城である春日山城から見れば目と鼻の先への脅威であり、これを座視することはできなかった 1 。信玄の調略が善光寺に及び、北信濃の親長尾勢力が動揺するに及び、景虎にとって再度の出陣は、自らの掲げる「義」と越後の国益を守るための不可避の選択であった。
第一部:戦端の火種 ― 善光寺と旭山城
第二次川中島の戦いの発端は、軍勢の直接的な衝突ではなく、長野盆地の宗教的・政治的中心地である善光寺を巡る信玄の調略に始まる。この一手が、両雄を再び川中島へと引き寄せることになる。
善光寺を巡る攻防 ― 宗教的権威の争奪
古来より全国的な信仰を集めていた善光寺は、単なる寺院ではなく、北信濃における人心掌握の鍵を握る一大勢力であった 16 。当時の善光寺は、別当職を巡って大御堂主の里栗田氏と小御堂主の山栗田氏が対立していた 9 。信玄はこの内部対立に巧みにつけ込み、調略によって山栗田氏の当主・栗田永寿を味方に引き入れることに成功する 9 。これは、単に一つの国人を味方につけた以上の意味を持っていた。善光寺の権威の一部を手中に収めることは、武田氏の信濃支配に宗教的な正当性を与え、民心を味方につける上で絶大な効果が期待できたからである。
旭山城の築城 ― 景虎への挑戦状
信玄の支援を得た栗田永寿は、善光寺の西に位置し、善光寺平を一望できる戦略的要衝・旭山に城を築き、籠城した 9 。この旭山城は、犀川を渡って善光寺平に侵入しようとする長尾軍の側面を完全に脅かす位置にあり、その存在は景虎にとって極めて深刻な挑戦状であった。信玄はこの拠点を重視し、兵3,000、弓800張、鉄砲300丁という、一城の守備兵力としては破格の援軍を送り込んだ 9 。これは、旭山城を単なる前哨拠点ではなく、対長尾戦線の中核として機能させるという信玄の明確な意志の表れであった。
この旭山城の存在こそが、第二次川中島の戦いの性格を決定づける。景虎の目的が信玄本隊の撃破である以上、犀川の渡河は必須であった。しかし、渡河作戦中に側面から旭山城の鉄砲・弓矢による攻撃を受ければ、長尾軍は水際で大損害を被り、作戦は破綻する 18 。景虎は、旭山城を無視して進軍することは不可能であり、かといって堅固な山城である旭山城を力攻めすれば、多大な時間と兵力を消耗してしまう。この戦術的ジレンマが、景虎の動きを封じ込めることになる。旭山城は、両軍数万の兵の動きを止める、巨大な「栓」としての役割を果たしたのである。
景虎の応手 ― 葛山城の構築と越後からの出陣
善光寺が武田方の手に落ち、さらに旭山城という楔を打ち込まれた事態を、景虎は座視できなかった。天文24年(1555年)4月、雪解けを待った景虎は、満を持して越後から出陣する 9 。川中島に到着した景虎は、旭山城の対岸に位置する葛山城を急遽築城し、これに対抗した 9 。これにより、旭山城と葛山城が犀川の支流を挟んで睨み合う形となり、戦線は完全に膠着。両雄が直接対決する舞台は整った。
【特別挿入】第二次川中島の戦い 詳細時系列表(天文24年 / 1555年)
第二次川中島の戦いは、激しい戦闘よりも長期にわたる対陣にその特徴がある。両軍の動きを時系列で追うことで、そのリアルタイムな緊張状態と戦略の応酬をより深く理解することができる。
時期 |
武田軍の動向 |
長尾(上杉)軍の動向 |
関連事項・考察 |
3月 |
大日方氏らに安曇郡千見を占領させ、糸魚川方面からの長尾軍の侵攻路を牽制 9 。善光寺別当・栗田永寿を調略し、旭山城を築城させる 9 。 |
越後の国人・北条高広の反乱を鎮圧。武田方の調略を未然に防ぐ 9 。 |
信玄は軍事行動に先立ち、周到な準備と調略を進めている。景虎は国内の結束を固め、出陣に備える。 |
4月 |
旭山城の栗田永寿へ援軍(兵3,000、弓800、鉄砲300)を派遣 9 。4月末、信玄自ら甲府を出陣。 |
善光寺奪還のため越後を出陣。旭山城の対岸に葛山城を築き、対抗 9 。善光寺横山城に本陣を置く。 |
両軍の主力が川中島に集結。旭山城を巡る攻防が、対陣の直接的な原因となる。 |
5月~6月 |
犀川南岸の更級郡大塚(大堀館)に本陣を構え、景虎と対峙 9 。旭山城を後方から支援し、守りを固める。 |
犀川北岸に布陣。旭山城の存在により渡河できず、膠着状態に陥る 18 。 |
両軍ともに相手の堅い守りを前に動けず、長期にわたる睨み合いが続く。小規模な小競り合いはあったと推測されるが、記録は乏しい 9 。 |
7月19日 |
渡河してきた長尾軍と犀川付近で交戦。しかし、決戦には至らず 17 。 |
意を決して犀川を渡河し、武田軍と交戦(犀川の戦い) 9 。 |
対陣中、唯一記録されている武力衝突。しかし、威力偵察の域を出ない小規模な戦闘だった可能性が高い 9 。 |
8月 |
(別動隊)真田幸隆が東条氏の尼巌城を攻略 20 。 |
引き続き犀川北岸にて対陣を継続。 |
主戦線が膠着する中、武田方は周辺地域の攻略を進め、北信濃の支配を既成事実化しようと動いている。 |
9月~閏10月 |
長期対陣による兵糧問題と士気低下が深刻化 17 。 |
長陣により、同様に兵站に苦しむ。 |
200日に及ぶ対陣は両軍を疲弊させる。特に兵站線の長い武田軍の苦労は大きかったと推測される 3 。 |
閏10月15日 |
駿河の今川義元に和睦の仲介を依頼 17 。 |
今川義元の仲介による和睦案を受け入れる。 |
信玄は軍事的打開が困難と判断し、外交的解決に活路を見出す。三国同盟という外交カードが功を奏した。 |
閏10月下旬 |
和睦成立。旭山城を破却し、甲斐へ撤兵 9 。 |
和睦条件に基づき、越後へ撤兵。 |
長きにわたった対陣は、一つの城の破却と引き換えに終結した。 |
第二部:犀川の対峙 ― 二百日に及ぶ膠着状態のリアルタイム詳解
天文24年4月末、両軍の主力が川中島に集結して以降、戦いは約200日間、すなわち半年以上にも及ぶ長期の対陣へと移行する。この静かなる戦いは、三つの局面を経て、両軍の忍耐力と総合力が試される場となった。
第一局面:布陣と睨み合い(4月~7月)
4月末に川中島に到着した信玄は、犀川の南岸、更級郡大塚の大堀館に本陣を構えた 9 。ここは川中島平の南半分を掌握し、旭山城への補給路を確保できる絶好の位置であった。対する景虎は、善光寺のすぐ北に位置する横山城に本陣を置き、犀川を自然の防壁として信玄と対峙した。両軍は川を挟んで数キロメートルの距離で向き合い、一触即発の緊張状態が続いた。
しかし、戦況は完全に膠着していた。信玄の戦略は、旭山城を「おとり」兼「脅威」として活用し、景虎を犀川の向こうに釘付けにすることにあった。景虎が無理に渡河すれば旭山城がその側面を突き、かといって旭山城を攻めれば、信玄の本隊が背後を襲う可能性がある。景虎はこの二正面作戦の危険を冒すことができず、身動きが取れなくなってしまった 17 。この対陣には、武田の同盟国である駿河の今川氏からも援軍が派遣されており、信玄は万全の態勢で景虎を待ち構えていた 9 。東国全体を巻き込んだ壮大な睨み合いの舞台が、こうして完成したのである。
第二局面:唯一の武力衝突 ― 7月19日の「犀川の戦い」
数か月にわたる静寂は、7月19日に一度だけ破られた。長期間の睨み合いに業を煮やしたのか、景虎は一部の兵に犀川を渡らせ、武田軍の陣に攻撃を仕掛けた 17 。これが「犀川の戦い」と呼ばれる、第二次合戦における唯一の記録された戦闘である。
しかし、この戦闘の実態については不明な点が多い。史料が乏しく、どれほどの兵力で、どのような目的をもって行われたのかは定かではない 9 。大規模な決戦を目指した総攻撃であったとは考えにくく、武田軍の防備の堅さや士気、陣形の配置などを探るための、限定的な威力偵察であった可能性が高い 9 。この小競り合いは、武田方の堅い守りに阻まれ、大きな戦果を挙げることなく終結したとみられる。結果として、この戦闘は両軍に決戦の困難さを再認識させ、戦線をさらに膠着させるだけに終わった。
第三局面:長期化する対陣 ― 兵站と士気の戦い(8月~10月)
7月19日の小競り合い以降、戦場は再び静寂に包まれた。しかし、水面下では別の戦いが熾烈を極めていた。それは、兵站と士気を巡る戦いである。対陣期間は約200日にも及んだ 3 。これほど長期間にわたり数万の軍勢を前線に維持することは、当時の国力にとって計り知れない負担であった。
特に、本国・甲府から川中島まで約160キロメートルもの兵站線を維持しなければならない武田軍の負担は甚大であった 23 。これに対し、春日山城から川中島までは約70キロメートルと、長尾軍の方が地理的には有利であったが、それでも長期にわたる補給は国家の疲弊を招く 23 。両軍ともに兵糧の確保は深刻な問題となり、兵士たちの間には戦のない陣中生活への厭戦気分と士気の低下が蔓延していった 17 。季節は酷暑の夏から実りの秋へと移り、やがて来る厳しい冬を前に、両将ともに焦りを募らせていたに違いない。この戦いは、もはやどちらの軍事力が優れているかではなく、どちらが先に限界を迎え、前線を維持できなくなるかという、国家の総合力、すなわち戦争遂行能力を問う消耗戦の様相を呈していたのである。
第三部:終焉 ― 今川義元の仲介と和睦の成立
軍事的な打開策が見出せないまま、両軍の消耗が限界に近づく中、戦いの幕引きは戦場ではなく、外交の舞台で図られることになった。この局面で動いたのが、甲斐の虎・武田信玄であった。
和平への道 ― なぜ今川義元だったのか
閏10月15日、信玄はついに決断を下す。軍事的膠着と兵站の困難を打開するため、同盟者であり、「海道一の弓取り」と称される当代屈指の実力者、駿河の今川義元に和睦の仲介を依頼したのである 3 。
この選択は、信玄の優れた戦略眼を示すものであった。今川義元は、武田・北条と甲相駿三国同盟を結ぶ枢要な存在であり、東国の安定に直接的な利害関係を持っていた 26 。また、信玄の正室である三条夫人は今川家の斡旋によって迎えられており、両家は単なる同盟国以上の深い姻戚関係にあった 25 。このような背景から、義元は両者の争いを調停するに足る権威と立場を有しており、景虎としてもその仲介を無下に断ることは難しかった。信玄は、軍事的な不利を、強力な外交カードを切ることで補おうとしたのである。
和睦交渉と条件の分析
義元の仲介のもと、両者の間で和睦交渉が進められた。最終的に合意に至った条件は、以下の通りであったと伝えられている。
- 武田方の拠点である旭山城を破却する 6 。
- 武田氏によって追放されていた北信濃の国人衆(須田氏、井上氏、島津氏ら)の旧領への復帰を認める 6 。
- 両軍は互いに川中島から兵を引く 17 。
これらの条件は、一見すると信玄が大きく譲歩したものに見える。戦いの発端となった旭山城を自ら破壊し、敵対していた国人衆の帰還を認めることは、景虎の面目を立てるに十分な内容であった。景虎は、助けを求めてきた者たちを救うという「義」を果たした形となり、勝利を宣言して兵を引くことができた 6 。
しかし、その内実を詳細に分析すると、信玄が決して敗北したわけではないことがわかる。最も重要な点は、この和睦条件が、武田氏が既に実効支配を確立していた村上義清の旧領(埴科郡・小県郡)には一切触れていないことであった 6 。信玄にとって、旭山城はあくまで前線の一拠点に過ぎず、これを失っても信濃支配の根幹は揺るがない。むしろ、消耗戦から早期に兵を引き、木曽氏を降伏させるなど南信濃の平定に戦力を振り向けることができた 6 。信玄は短期的な拠点(旭山城)を失う代わりに、信濃支配の既成事実化という長期的な戦略的利益を確保したのである。
二百日間の対峙の終結
景虎はこの条件を受け入れ、両軍は誓詞を交わした上で、それぞれの領国へと撤兵した 9 。こうして、天文24年の春から約200日間にわたって続いた、血を流さぬ静かなる戦いは、ついに幕を閉じた。これは、景虎にとっては「戦術的勝利」であり、信玄にとっては「戦略的撤退」であった。両者ともに目的の一部を達成し、決定的な打撃を避けるという、極めて高度な政治的決着であったと言えよう。
第四部:第二次合戦の歴史的意義と後世への影響
第二次川中島の戦いは、派手な合戦ではなかったが故に、その歴史的意義が見過ごされがちである。しかし、この戦いは北信濃の勢力図を決定づけ、後の第四次合戦へと繋がる重要な布石となった。
「引き分け」の裏にある両者の得失
この戦いの結果、長野盆地は犀川を事実上の境界線として、北を長尾方、南を武田方の勢力圏とする構図が確立された 6 。これは、両者にとって相応の成果を得たことを意味する 6 。
武田信玄にとっては、長野盆地への即時進出こそ阻まれたものの、村上氏の旧領支配を内外に認めさせ、信濃平定を大きく前進させることに成功した 6 。また、この戦いで信玄が発給した感状は10通確認されるのに対し、景虎のものは1通のみであることから、武田方がより多くの戦功を認め、戦いを優勢に進めたと認識していた可能性が指摘されている 9 。
一方の長尾景虎にとっては、最大の目標であった村上義清の旧領回復は果たせなかった。しかし、武田の圧迫に苦しむ北信濃の国人衆が完全に武田方になびいてしまう最悪の事態を防ぎ、越後を防衛するための重要な緩衝地帯を確保することに成功した 6 。彼の介入により、武田の北上が川中島で食い止められたという事実は、景虎の武威を東国に知らしめる上で大きな意味を持った。
第四次合戦への布石
第二次合戦の和睦は、両者の根本的な対立を解決するものではなく、あくまで一時的な休戦に過ぎなかった。事実、信玄は和睦条件を事実上反故にし、再び北信濃への圧力を強めていく 18 。この第二次合戦で確立された犀川を挟む勢力圏は、6年後の永禄4年(1561年)に繰り広げられる第四次川中島の戦いの舞台設定へと直接繋がっていく。信玄は、今回本陣を置いた大塚のさらに先に、対上杉の恒久的な拠点として海津城を築城する 6 。これを脅威と見た景虎(当時は上杉政虎)は、妻女山に布陣して海津城と対峙する。史上名高い「啄木鳥の戦法」や一騎打ちの伝説が生まれたこの激戦は、第二次合戦で引かれた境界線を巡る、より大規模で、より熾烈な衝突だったのである。
戦史における評価
第二次川中島の戦いは、武力のみが戦のすべてではないことを示す好例である。両雄は、決戦という安易な手段に訴えることなく、外交や兵站といった要素を駆使し、自軍の損害を最小限に抑えながら戦略目標を達成しようと試みた。これは、信玄が標榜した「戦わずして勝つ」という思想の実践例であり 1 、両者が単なる勇将ではなく、国家を経営する大名として成熟した指揮官であったことを示している。この戦いは、戦国時代の抗争が、領土の奪い合いという側面だけでなく、人心掌握、経済力、外交関係といった多様な要素が複雑に絡み合う総力戦であったことを我々に教えてくれる。
結論:動かざること山の如し ― 戦略的忍耐の戦い
第二次川中島の戦いの本質は、動と動が激しくぶつかり合う「合戦」ではなく、互いに動けない状況の中で、いかに耐え抜き、いかに有利な形で戦いを終結させるかという、「戦略的忍耐」の戦いであった。
旭山城という一つの戦術的障害が、戦局全体の動きを規定し、両軍は決戦を回避せざるを得なかった。その結果、勝敗の行方は戦場の優劣から、兵站維持能力と外交交渉力という、国家の総合力が問われる舞台へと移ったのである。武田信玄は、不利な兵站状況という弱点を、今川義元という強力な外交カードで覆し、実利を確保して撤退した。一方の長尾景虎は、目前の敵を撃破することは叶わなかったものの、北信濃における自らの軍事的・政治的存在感を深く刻み込み、大義名分を全うした。
この静かなる戦いにおいて、両雄は「動かざること山の如し」の忍耐力と、状況を的確に判断し、次善の策を講じる柔軟な思考力を遺憾なく発揮した。それは、戦国時代を代表する二人の名将が、力だけではない、大名としての器量の大きさを天下に示した瞬間であったと言えよう。
引用文献
- 【これを読めばだいたい分かる】 武田信玄の歴史 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/n9ff28c2155cc
- 上杉謙信と武田信玄の5回に渡る川中島の戦い https://museum.umic.jp/ikushima/history/takeda-kawanakajima.html
- 川中島の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7085/
- 5分で分かる「川中島の戦い」上杉謙信vs武田信玄。どっちが勝ったの?どこで戦争したの? https://ameblo.jp/sakiju/entry-12778952511.html
- 第1次川中島の戦い八幡の戦い・布施の戦い信玄と謙信の初めての戦いは https://kawanakajima.nagano.jp/illusts/1st/
- 川中島の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- なぜ川中島の戦いは12年にも及んだか【戦国史の意外な真実】 安部龍太郎 - 幻冬舎plus https://www.gentosha.jp/article/12095/
- 武田信玄の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7482/
- 「第二次川中島(1555年)」別名は犀川の戦い。長期滞陣で両軍とも疲弊か? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/775
- 武田信玄の信濃侵攻① ~諏訪への侵攻~ | 歴史の宮殿 https://histomiyain.com/2018/01/03/post-137/
- 上杉謙信の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/33844/
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- 戦国最強の武将、上杉謙信はなぜ山を越えたのか? | SYNCHRONOUS シンクロナス https://www.synchronous.jp/articles/-/73
- 武田軍関連 - 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[史跡ガイド] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/shiseki/list/takedagun.php%3Fpage=all.html
- 第2次川中島の戦い犀川の戦い犀川をはさみ200日におよんだ対陣 https://kawanakajima.nagano.jp/illusts/2nd/
- 【武田信玄と上杉謙信の関係】第一次~第五次合戦まで「川中島の戦い」を徹底解説 - 歴史プラス https://rekishiplus.com/?mode=f6
- 川中島の戦い - 関東戦国史 1438-1590 https://www.kashikiri-onsen.com/kantou/gunma/sarugakyou/sengokushi/kawanakajima.html
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- 旭山城跡 /【川中島の戦い】史跡ガイド - 長野市 - ながの観光net https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/siseki/entry/000184.html
- 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu4.php.html
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