忍山合戦(1555)
天文二十四年、近江国では浅井氏と六角氏の間に恒常的な緊張が続いた。浅井久政は六角氏に従属するも、家中の不満が募り、後に長政が独立。忍山合戦は、この両氏の「冷戦」を象徴する出来事であった。
天文二十四年「忍山合戦」の歴史的実像:近江国境における浅井・六角の抗争史再構築
序論:天文二十四年、「忍山合戦」をめぐる歴史的探求
天文二十四年(1555年)、近江国において浅井氏と六角氏の境目で「忍山合戦」と呼ばれる衝突が発生した――この情報は、戦国時代の近江国、とりわけ長きにわたる両氏の抗争史を理解する上で、一つの重要な座標を示すものである。しかしながら、この合戦は「姉川の戦い」や「野良田の戦い」といった著名な戦闘とは異なり、その具体的な実態は歴史の表舞台に明確な形で記録されていない。『信長公記』をはじめとする同時代の主要な編纂史料や、後世に成立した『浅井三代記』、『江北記』といった軍記物語を精査しても、「忍山合戦」という固有の名称を持つ大規模な戦闘が天文二十四年(弘治元年)に発生したことを直接的に裏付ける記述を見出すことは極めて困難である 1 。
この事実は、我々に二つの可能性を示唆する。一つは、この合戦が公式な記録には残らないほどの小規模な国境紛争、すなわち小競り合いであった可能性。もう一つは、この時期の浅井・六角両氏間に存在した恒常的な緊張状態そのものを、後世の人々が象徴的に「忍山合戦」と呼称した、あるいは年号や名称が誤って伝わった可能性である。
したがって、本報告書は単一の合戦の経過を詳述することに主眼を置くものではない。むしろ、利用者の真の探求心に応えるべく、「1555年」という時点を歴史の基軸とし、浅井・六角両氏が当時どのような政治的・軍事的状況下に置かれていたのかを徹底的に解明する。具体的には、両氏の力関係、彼らの勢力圏が接する国境地帯の地理的・戦略的重要性、そして水面下で進行していたであろう緊張と対立の構造を、可能な限り時系列に沿って再構築することを目的とする。
なお、「忍山」という地名自体は、近江国の詳細な地誌においても特定が難しい。しかし、「忍」という文字は、六角氏がその影響下に置いていた甲賀・伊賀の「忍び」との関連性を想起させる 4 。あるいは、古代史において忍熊王(おしくまのおう)の伝説が残る逢坂山(おうさかやま)のように、特定の歴史的背景を持つ山の名称が変容して伝わった可能性も皆無ではない 7 。本稿では、この名称が象徴するであろう「国境の山城を舞台とした、隠密裏の攻防」という観点からも分析を進め、一つの戦闘記録の解読に留まらない、より立体的で深層的な歴史像を提示するものである。
第一章:抗争の舞台 ― 戦国期近江国の地政学的重要性
第一節:二つの近江
戦国期の近江国は、中央に横たわる日本最大の湖、琵琶湖によって、地理的にも政治的にも二つの地域に大別されていた。琵琶湖の北東岸に広がる地域は江北(湖北)と呼ばれ、浅井氏がその覇権を確立した。一方、湖南から湖東にかけての広大な平野部は江南(湖南)と呼ばれ、古くからの守護大名である六角氏が支配圏としていた 8 。この二つの勢力圏を分かつ境界線は、おおよそ犬上川周辺であったとされ、まさしくこの国境地帯が、両氏の長年にわたる抗争の主たる舞台となったのである 9 。
近江国が戦略的に極めて重要であった理由は、その地理的条件にある。京都に隣接し、東国と西国を結ぶ大動脈である中山道や、日本海側へ抜ける北国街道が国内を貫通していた 10 。このため、近江を制する者は日本の物流と交通の要衝を掌握することを意味し、天下統一を目指す勢力にとって、決して無視できない地政学的な価値を有していた。
第二節:南の巨星、六角氏
江南に君臨した六角氏は、近江源氏佐々木氏の嫡流として、鎌倉時代より近江守護職を世襲してきた由緒ある名門であった 12 。天文二十四年(1555年)当時の当主は、六角義賢(ろっかく よしかた)、後の承禎(じょうてい)である。彼は、父・定頼が築き上げた盤石な支配体制を継承し、南近江一帯に推定54万石ともいわれる広大な領地を統治していた 15 。
六角氏の権威は、単に近江一国に留まるものではなかった。彼らは室町幕府の有力な支持者であり、しばしば畿内の政争に介入した。将軍・足利義輝を保護し、当時畿内で最大の勢力を誇った三好長慶らと渡り合うなど、中央政局においても重要な役割を担う全国区の大名であった 15 。この中央への深い関与は、六角氏の権威の源泉であると同時に、その軍事力を近江国外へ分散させる要因ともなっていた。
第三節:北の新星、浅井氏
対する浅井氏は、その出自において六角氏とは対照的であった。彼らは元来、江北の守護であった京極氏の被官(家臣)という立場に過ぎなかった 2 。この浅井氏を戦国大名の地位にまで押し上げたのが、浅井長政の祖父にあたる初代当主・浅井亮政(すけまさ)である。亮政は、主家の内紛に乗じて下剋上を成し遂げ、小谷城を本拠として江北の国人衆を巧みに束ね、一代で独立勢力を築き上げた 1 。
亮政の死後、天文十一年(1542年)に家督を継承したのが、その子である二代目当主・浅井久政(ひさまさ)であった 2 。彼の治世において、新興勢力である浅井氏は、旧来の権威と圧倒的な国力を誇る六角氏との関係において、極めて重大な転換点を迎えることとなる 21 。
1555年時点での浅井氏と六角氏は、決して対等な競争相手ではなかった。六角氏は幕府に公認された守護大名であり、畿内政治の一翼を担う全国規模の勢力であった。対する浅井氏は、一代で成り上がった新興勢力であり、その支配基盤は江北に限られ、政治的な正統性も脆弱であった。この圧倒的な国力と政治的地位の非対称性が、両者の関係性を規定する根本的な要因であり、続く時代における浅井久政の「従属」という選択と、その子・長政の「独立戦争」という行動の背景を理解する上で不可欠な前提となる。
【表1:浅井・六角両勢力比較(天文二十四年時点)】
項目 |
浅井氏 |
六角氏 |
当主 |
浅井 久政(あざい ひさまさ) |
六角 義賢(ろっかく よしかた) |
本拠地 |
小谷城(現・滋賀県長浜市) |
観音寺城(現・滋賀県近江八幡市) |
主要支配地域 |
近江国江北(坂田、浅井、伊香の三郡) |
近江国江南(甲賀、蒲生、野洲など) |
推定石高 |
約12万石(後年の推定) |
約54万石 16 |
政治的立場 |
江北の国人領主連合の盟主 |
室町幕府 近江守護 15 |
主要家臣団 |
赤尾清綱、磯野員昌、海北綱親など 22 |
蒲生定秀、後藤賢豊、平井定武など 24 |
主な同盟・敵対勢力 |
同盟 : 朝倉氏(越前) 敵対 : 六角氏、京極氏残党 |
同盟 : 斎藤氏(美濃、後年) 敵対 : 三好氏(畿内)、浅井氏 |
第二章:屈従の時代 ― 浅井久政と六角義賢の関係性
第一節:地頭山合戦(天文二十二年、1553年)の敗北
浅井氏が六角氏への従属を余儀なくされる直接的な契機となったのが、天文二十二年(1553年)に発生した「地頭山合戦」である 25 。この戦いの舞台となった地頭山は、現在の滋賀県米原市に位置する標高約250メートルの独立峰であり、眼下に中山道を見下ろす交通の要衝であった 11 。この戦略的拠点を巡る戦いにおいて、浅井久政の軍は六角義賢の軍に惨敗を喫した 25 。
この敗北は、浅井氏にとって単なる一戦の負け以上の意味を持っていた。父・亮政の代から続いてきた六角氏との軍事的均衡が完全に崩れ、久政は六角氏との間に講和を結ばざるを得ない状況に追い込まれた。この講和は、事実上、浅井氏が六角氏の軍門に降ることを意味するものであった 2 。
第二節:「六角氏保護国」としての北近江
地頭山合戦後の浅井氏は、独立した戦国大名としての地位を失い、六角氏の強い政治的・軍事的影響下に置かれることとなった。この状態は、一部の研究者によって「六角氏保護国」と的確に形容されている 2 。その従属関係は、具体的な形で明確に示された。
第一に、**偏諱(へんき)**の授与である。永禄二年(1559年)に元服した久政の嫡男・猿夜叉丸は、六角義賢から「賢」の一字を与えられ、「賢政(かたまさ)」と名乗ることを強要された 2 。主君が家臣に自らの名の一字を与える偏諱は、当時の武家社会において、両者の間に明確な主従関係が存在することを示す極めて重要な儀礼であった。
第二に、 婚姻政策 である。賢政は、六角氏の重臣である平井定武の娘を正室として迎えさせられた 2 。これは、浅井氏が六角氏の家臣団の序列に組み込まれたことを内外に示す政略結婚であり、同時に賢政の妻は事実上の人質としての役割も担っていた。
ただし、この従属は完全な領土併合を意味するものではなかった。六角義賢が江北の武士に対して直接知行(所領)を与える例はほとんど見られず、浅井久政は依然として領内の統治権、特に家臣への知行宛行状の発給権を保持していた 2 。これは、六角氏が浅井氏を直接支配するのではなく、久政を介した間接統治という形式を選択したことを示唆している。つまり、江北は「六角氏の支配下」にありながらも、「浅井氏の自治領」としての側面をかろうじて維持していたのである。この支配と自治が共存する複雑な関係性が、後の浅井家中の動揺の温床となった。
第三節:久政の人物像再評価
後世に成立した『浅井三代記』などの軍記物語において、浅井久政は、武勇に優れた父・亮政や息子・長政と比較され、「凡将」「弱腰」といった極めて低い評価を与えられてきた 2 。六角氏に屈したことが、彼の評価を決定づけた最大の要因である。
しかし、近年の歴史研究では、こうした一面的な評価を見直す動きが活発化している。特に、久政の内政における手腕は高く評価されるべき点が多い。史料によれば、彼は姉川と高時川の用水を巡る長年の争いを精力的に調停し、領民の生活安定に大きく貢献している 2 。
彼の親六角路線も、単なる臆病さからくるものではなく、浅井氏と六角氏の間の圧倒的な国力差を冷静に分析した上での、家の存続を最優先する苦渋に満ちた現実的な外交戦略であったと再解釈することが可能である 2 。久政に対する低い評価は、何よりも独立と勢力拡大を至上命題とする家臣団や、その家臣団に擁立された長政の視点から形成された側面が強い。領国経営者として見れば有能であった彼も、戦国大名としての「武」を求める家中の期待に応えられなかったことが、その後の評価を決定づけたと言えよう。
第三章:天文二十四年(弘治元年、1555年) ― 嵐の前の静寂
天文二十四年(1555年)は、浅井氏と六角氏の関係史において、大規模な軍事衝突が記録されていない、一見すると平穏な年であった。しかし、それは両者の間に緊張がなかったことを意味しない。むしろ、この年は六角氏の支配が安定し、水面下で浅井家中の不満が静かに蓄積されていく、「嵐の前の静寂」とでも言うべき重要な時期であった。
【表2:浅井・六角関係史 年表(1553年~1560年)】
西暦 |
和暦 |
主な出来事 |
浅井氏の状況 |
六角氏の状況 |
1553年 |
天文22年 |
地頭山合戦 |
六角義賢に敗北し、従属関係に入る 25 。 |
浅井氏を軍事的に圧倒し、支配下に置く。 |
1555年 |
弘治元年 |
(大規模な合戦の記録なし) |
六角氏の保護国として、内政に注力。家中の不満が潜在化 2 。 |
畿内情勢に注力。伊賀国へ侵攻し、三好氏と対立 16 。 |
1558年 |
永禄元年 |
六角氏による境目の城攻略 |
久政が六角領へ侵攻するも、反撃を受け鎌刃城・菖蒲嶽城を失う 16 。 |
浅井氏の侵攻を撃退し、国境の要衝を制圧。支配を強化。 |
1559年 |
永禄2年 |
浅井賢政(長政)元服・婚姻 |
嫡男・賢政が元服し、六角重臣の娘を娶る。久政の求心力が低下 2 。 |
偏諱と婚姻政策により、浅井氏への支配を象徴的に示す。 |
1560年 |
永禄3年 |
野良田の戦い |
長政がクーデターで家督掌握。六角氏に反旗を翻し、野良田で大勝。独立を果たす 18 。 |
浅井氏の反乱鎮圧に失敗。江北の支配権を完全に喪失。 |
第一節:国境線のリアル ― 「境目の城」をめぐる攻防
浅井・六角両勢力の最前線は、現在の滋賀県米原市から彦根市にかけての地域に形成されていた 8 。この国境地帯には、互いの領国を防衛し、また敵領への侵攻拠点となる「境目の城」(さかいめのしろ)が多数築かれていた。中でも、戦略的に特に重要視されたのが以下の二つの山城である。
- 鎌刃城(かまのはじょう) : 中山道と北国街道の分岐点に近い番場宿を見下ろす要衝に位置する、この地域で最大規模の山城である。江北と江南を繋ぐ交通路を完全に扼する(やくする)この城の支配権は、両勢力にとって死活問題であり、幾度となく争奪戦の舞台となった 10 。発掘調査によって、主郭虎口(こぐち、城の出入り口)には大規模な石垣が用いられていたことが判明しており、織豊期以前の山城としては極めて先進的な構造を持っていた 38 。その縄張り(城の設計)は、主郭を中心に三方の尾根に沿って曲輪(くるわ、平坦地)を巧みに配置し、全長100メートルに及ぶ巨大な堀切(ほりきり、尾根を断ち切る空堀)によって敵の侵攻を阻む、非常に堅固なものであった 40 。
- 菖蒲嶽城(しょうぶだけじょう) : 鎌刃城の近傍、坂田郡と犬上郡の境界にそびえる山城で、こちらも国境監視の拠点として重要な役割を果たした 41 。この城は東西二つの城郭から構成され、複数の堀切や土塁(どるい)によって尾根筋の防御を固めていた 43 。
これらの「境目の城」は、1555年時点では六角氏の影響下に置かれていたと考えられる。特定の合戦名が伝わらないのは、これらの城砦群を舞台とした日常的な睨み合いや小競り合いが、当時の国境地帯における「常態」であったからかもしれない。つまり、「忍山合戦」とは、特定の戦闘を指すのではなく、これら国境の山城地帯全体を舞台とした恒常的な緊張状態の総称であった可能性が考えられる。
第二節:水面下の攻防 ― 「戦なき戦い」の様相
1555年に大規模な会戦の記録がないからといって、国境地帯が完全に平穏であったとは到底考えられない。当時の軍事常識に鑑みれば、そこでは常に「戦なき戦い」が繰り広げられていたと推察される。
- 物見(ものみ)と斥候(せっこう) : 両軍は互いの動向を探るため、絶えず斥候を放っていた。鎌刃城や菖蒲嶽城の物見櫓からは、浅井領の動静が昼夜を問わず監視されていたであろう。
- 調略(ちょうりゃく)と諜報(ちょうほう) : 六角氏は、その影響下にある甲賀衆のような特殊技能を持つ集団を活用し、浅井領内の国人衆の切り崩しや内部情報の収集を画策していた可能性がある 5 。浅井氏の家臣の中にも、六角氏の優勢を見て内通を考える者がいたかもしれない。
- 城砦の普請(ふしん) : 緊張状態にある国境では、城砦の防御力を維持・向上させるための改修工事(普請)が常に行われる。六角方は、占拠した境目の城の土塁を高くし、堀を深くするなど、浅井方の反撃に備えていたと考えられる 44 。
これらの活動は、一つ一つが記録に残ることは稀だが、国境地帯の日常を構成する重要な軍事行動であった。
第三節:両雄の動向 ― 異なる視点から見た1555年
この年の両当主の動向は、彼らの置かれた状況の違いを如実に示している。
- 六角義賢の視点 : 史料によれば、この年、六角義賢は伊賀国へ侵攻している 16 。これは、当時畿内で覇を競っていた三好長慶との対立を背景とした軍事行動であった 16 。義賢にとって、主たる戦略的関心は南の畿内と西の三好氏に向けられており、すでに取り込み、従属させた北の浅井氏は、優先順位の高い脅威とは認識されていなかった可能性が高い。この六角氏の戦略的優先順位が、結果として江北国境地帯に一時的な「力の空白」あるいは「監視の緩み」を生んだ側面は否定できない。
- 浅井久政の視点 : 一方、浅井久政にとって1555年は、六角氏の支配という厳しい現実の中で、いかにして領国を維持し、安定させるかが最大の課題であった。彼は内政に注力し、領民の生活基盤を固めると同時に 33 、六角氏の機嫌を損ねぬよう慎重に行動し、家中に燻る反六角派の不満を抑え込むという、極めて困難な政治的舵取りを迫られていた。
第四章:衝突への序曲 ― 緊張の激化と権力移行
第一節:永禄元年の軍事衝突(1558年)― 記録された最初の火花
1555年の静寂は、長くは続かなかった。永禄元年(1558年)、浅井久政が六角領へ侵攻したという記録が存在する 16 。彼の基本的な外交スタンスが親六角・融和路線であったことを考えると、この行動は極めて不可解である。しかしこれは、彼自身の積極的な意思というよりも、もはや抑えきれなくなった家中の反六角・主戦派からの強い圧力に応じた結果であった可能性が高い。
この侵攻に対し、六角義賢は即座に大軍を動員して反撃を開始した。六角軍は浅井領に深く侵攻し、国境の最重要拠点である鎌刃城と菖蒲嶽城を攻め落とした 16 。この戦いには、六角氏の重臣である蒲生定秀なども参加していたと見られる 24 。この軍事的敗北は、浅井家中の主戦派に「もはや久政では六角氏に勝てない」という確信を抱かせ、彼らがクーデターという最終手段に踏み切る直接的な引き金となった。
第二節:浅井家中の亀裂 ― クーデターへの道
久政の親六角路線と、1558年の決定的な軍事的敗北は、浅井家臣団の不満を爆発させるに至った 21 。赤尾清綱や磯野員昌といった、父・亮政の代から浅井氏の躍進を支えてきた譜代の重臣たちは、武勇に優れ、人望も厚い若き嫡男・賢政(長政)に浅井家の未来を託すことを決意する 22 。
永禄二年(1559年)から翌年にかけて、彼らは実力行使に出た。久政を強制的に隠居させ、賢政を新たな当主として擁立するクーデターを断行したのである 21 。これは、浅井氏の歴史における最大の転換点であった。
第三節:野良田の戦い(1560年)への道
浅井家の家督を掌握した賢政の行動は迅速かつ果断であった。彼は直ちに六角氏との完全な決別を宣言する。まず、六角義賢から与えられた屈辱の象徴である「賢」の字を捨て、名を「新九郎」(後に長政)に戻した 21 。そして、六角家臣・平井氏から迎えていた妻を離縁し、実家へ送り返したのである 21 。
この一連の行動は、六角氏に対する明確な宣戦布告であった。激怒した六角義賢は、永禄三年(1560年)8月、2万5千ともいわれる大軍を自ら率いて江北に侵攻した。これに対し、当時わずか16歳の長政は、家中の期待を一身に背負い、1万1千の兵力でこれを迎え撃つ。両軍は野良田(現在の彦根市)で激突。兵力で劣る浅井軍であったが、長政の見事な采配と将兵の士気の高さが、緒戦の勝利に油断した六角軍を打ち破った 18 。
この「野良田の戦い」における劇的な勝利により、浅井長政は北近江の独立を完全に果たし、戦国大名としてその名を天下に轟かせることとなった。浅井氏の独立は、単に長政個人の英雄性によるものではなく、六角氏が畿内情勢に深く関与し江北への注意が散漫になっていたという「外部環境」、久政の融和策に対する家臣団の根強い不満という「内部力学」、そして長政というカリスマ性を持つ若き指導者の登場という「触媒」、これら三つの要素が奇跡的に噛み合った結果であった。
結論:再構築される「忍山合戦」の歴史的意義
本報告書の詳細な調査の結果、天文二十四年(1555年)に「忍山合戦」という名の特定の会戦が存在したという明確な歴史的証拠は、現時点では確認できなかった。しかし、この事実は歴史的な「無」を意味するものではない。むしろ、この名称は、より深く複雑な歴史的実態を象徴する言葉として捉え直すべきである。
「忍山合戦」とは、特定の戦場や日付に限定される単一の戦闘ではなく、浅井氏が六角氏に敗れ従属を余儀なくされた地頭山合戦(1553年)から、浅井長政が劇的な勝利で独立を勝ち取った野良田の戦い(1560年)に至るまでの、約7年間にわたる浅井・六角両氏の国境地帯における恒常的な軍事的緊張状態、すなわち一種の「冷戦」と、その最前線であった鎌刃城や菖蒲嶽城といった「境目の城」をめぐる一連の攻防を、包括的に象徴する言葉として再定義するのが最も妥当であろう。
天文二十四年(1555年)という時点は、この「冷戦」の最中に位置する。表面的には大規模な戦闘がなく静穏に見えるが、水面下では浅井氏が六角氏への屈従を強いられ、家中に独立へのエネルギーがマグマのように蓄積されていた、まさに「嵐の前の静寂」と呼ぶにふさわしい時期であった。この時期に繰り広げられたであろう「戦なき戦い」―すなわち、政治的圧力、諜報と調略、家中の内紛、そして国境での絶え間ない睨み合い―こそが、後の浅井長政の劇的な台頭と、近江国の勢力図を根底から塗り替える野良田の戦いへと至る、不可欠な歴史的序曲だったのである。利用者が探求した「忍山合戦」の真の姿は、一つの華々しい戦闘絵巻の中ではなく、より深く、複雑な政治と権力闘争のドラマの中にこそ見出されるのである。
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- 合戦の種類 ~野戦・海戦・攻城戦~/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/18695/
- 歴史の目的をめぐって 六角義賢 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-43-rokkaku-yoshikata.html
- 義に生きた戦国武将、小谷城城主「浅井長政」 | Good Sign - よいきざし - https://goodsign.tv/good-sign/%E7%BE%A9%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%9F%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%80%81%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E5%9F%8E%E4%B8%BB%E3%80%8C%E6%B5%85%E4%BA%95%E9%95%B7%E6%94%BF%E3%80%8D/
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