新井城の戦い(1516)
新井城の戦い(1516年):名門三浦氏の終焉と後北条氏の黎明
序章:相模湾に沈んだ名門 ― 新井城の戦い、その歴史的意義
永正13年(1516年)7月11日、相模国三浦半島先端の新井城が陥落した。この戦いは、単なる一地方の城を巡る攻防戦ではない。それは、鎌倉時代以来の名門・三浦氏の完全な滅亡と、戦国時代の幕開けを象徴する「下剋上」の体現者・北条早雲による相模平定の完成を意味する、関東戦国史における分水嶺であった 1 。3年にも及ぶ壮絶な籠城戦の末に訪れた悲劇的な結末は、旧来の権威が実力によって塗り替えられていく新時代の到来を、血の色をもって後世に伝えている。
この出来事には、歴史の皮肉とも言うべき深い因縁が刻まれている。三浦氏が「北条」の名を冠する一族によって滅ぼされるのは、これが二度目であった。一度目は、鎌倉時代中期の宝治元年(1247年)、執権・北条時頼率いる幕府軍との政争に敗れた「宝治合戦」であり、これにより三浦宗家は滅亡の憂き目に遭う 4 。そして約270年の時を経て、再び三浦氏の前に立ちはだかったのが「北条」早雲であった。しかし、この早雲こと伊勢宗瑞は、鎌倉執権北条氏とは全く血縁のない人物である 4 。旧時代の秩序を破壊し、自らの実力でのし上がった新興勢力が、かつて旧時代の覇者であった北条氏の名を借りて、その北条氏と覇を競った名門・三浦氏を滅ぼす。この構図こそ、新井城の戦いが持つ、戦国という時代の本質を凝縮した歴史的意義に他ならない。本報告では、この象徴的な合戦の全貌を、その背景から結末、そして後世に遺された伝説に至るまで、時系列に沿って詳細に解き明かす。
第一章:合戦前夜 ― 相模に渦巻く二つの潮流
新井城の悲劇に至る道は、一朝一夕に築かれたものではない。それは、没落しつつも再興を果たした名門の内部事情、恐るべき速度で勢力を拡大する新興大名の戦略、そして関東全域を覆う政治的混乱という、三つの大きな潮流が複雑に絡み合った末に生まれた必然であった。
第一節:鎌倉以来の名門・三浦一族の再興と内紛
三浦一族は、桓武平氏の流れを汲み、源頼朝の挙兵にいち早く参じて鎌倉幕府創設に多大な功績を挙げた名門中の名門であった 8 。しかし、その勢力は幕府内で執権北条氏との権力闘争を招き、宝治合戦で宗家が滅亡する 5 。だが、一族の血脈は絶えていなかった。この時、宗家を裏切って北条方についた分家の佐原氏が命脈を保ち、三浦介の名跡を継承することで、三浦氏は歴史の表舞台に残り続けたのである 6 。
戦国時代に入り、この再興三浦氏の当主となったのが、三浦義同(後の道寸)である。彼の出自は複雑であった。父・高救は、相模国の守護であった扇谷上杉家から三浦家に養子に入った人物であり、義同自身も上杉家の血を色濃く引いていた 9 。さらに、義同の家督継承は平穏なものではなかった。養父である三浦時高との間にお家騒動が勃発し、義同は母方の実家である小田原城主大森氏の支援を得て、時高を新井城に攻め滅ぼし、実力で当主の座を勝ち取ったと伝えられている 8 。この経緯の真偽には諸説あるものの 9 、彼が非凡な器量と行動力を持ち、家中を完全に掌握していたことは間違いない。しかし、その出自と家督継承の経緯は、名門の内に潜む不安定さを物語っていた。
第二節:風雲児・北条早雲の台頭と相模経略
三浦義同の前に立ちはだかった北条早雲(伊勢宗瑞)は、単なる成り上がりの梟雄ではない。彼は室町幕府の申次衆という確かな地位にあった伊勢氏の出身であり、中央政界の動向にも通じた知略家であった 13 。姉が駿河守護・今川義忠に嫁いだ縁で駿河に下向すると、今川家の家督争いを巧みに収拾して地歩を固める 14 。そして、中央の混乱(明応の政変)に乗じて伊豆国に侵攻して平定、ついには明応4年(1495年)、計略をもって扇谷上杉方の拠点であった小田原城を奪取し、相模国西部に確固たる橋頭堡を築いた 13 。
早雲の真の恐ろしさは、その軍事的能力以上に、領国経営における先進性にあった。永正3年(1506年)、彼は戦国大名としては全国で最も早く領国の検地を実施し、年貢高を正確に把握することで、安定した財政基盤を確立した 14 。これにより、長期にわたる軍事行動を支える国力を蓄積していったのである 15 。また、永正15年(1518年)には虎の意匠を用いた印判状の使用を開始しており、これも彼の近代的・合理的な統治者としての一面を示している 14 。旧来の在地領主である三浦氏と、新しい統治システムを構築しつつあった戦国大名・北条早雲との対決は、時代の転換点を象徴するものであった。
第三節:関東の政治情勢と三浦氏の孤立
当時の関東地方は、混沌の極みにあった。関東管領を世襲する上杉氏は、本家である山内上杉氏と分家である扇谷上杉氏に分裂し、長享元年(1487年)から「長享の乱」と呼ばれる数十年に及ぶ内戦状態にあった 9 。さらに、鎌倉公方の後継である古河公方家でも足利政氏とその子・高基が対立する「永正の乱」が勃発し、両上杉氏も巻き込んだ泥沼の抗争が繰り広げられていた 17 。
三浦氏が属していた扇谷上杉氏は、かつての名将・太田道灌を文明18年(1486年)に当主・上杉定正が暗殺するという愚挙を犯したことで、その力を著しく削がれていた 18 。道灌が死に際に「当方、滅亡」と叫んだという逸話は、彼の死が扇谷上杉家の衰退を決定づけたことを予言するものであった 19 。この主家の弱体化は、その有力な一門であった三浦氏の立場を危うくした。強力な後ろ盾を失った三浦氏は、関東全体の巨大な権力構造の変化の中で次第に孤立し、早雲の侵攻を単独で受け止めざるを得ない状況へと追い込まれていったのである。新井城の悲劇の遠因は、実にこの合戦の30年前に起きた太田道灌暗殺事件にまで遡ることができる。一つの事件が引き起こした権力の空白が、連鎖的に次の悲劇を生み出すという、歴史の力学がここにはっきりと見て取れる。
表1:新井城の戦い 主要関連年表
年号 |
西暦 |
出来事 |
文明18年 |
1486年 |
太田道灌、主君・上杉定正により暗殺される。 |
長享元年 |
1487年 |
山内・扇谷両上杉氏の抗争「長享の乱」が勃発。 |
明応4年 |
1495年 |
北条早雲(伊勢宗瑞)、小田原城を計略により奪取。 |
永正9年 |
1512年 |
8月、早雲が岡崎城を攻略。10月、新井城包囲のため玉縄城を築城。新井城籠城戦が開始される。 |
永正13年 |
1516年 |
7月、扇谷上杉朝興の三浦氏救援軍が早雲に敗れる。7月11日、新井城が陥落。三浦義同・義意父子が自刃・討死し、相模三浦氏は滅亡。 |
永正16年 |
1519年 |
北条早雲、死去。 |
天正18年 |
1590年 |
7月11日、豊臣秀吉の小田原征伐により、北条氏政が自刃。後北条氏が滅亡する。 |
第二章:戦端開かる ― 岡崎城から新井城へ(永正九年)
永正9年(1512年)、北条早雲は相模全域の平定に向け、最後の総仕上げに取り掛かった。その標的は、東相模に勢力を張る最大のライバル、三浦義同であった。ここから三浦氏滅亡までの数ヶ月間は、圧倒的な軍事力の前に拠点を次々と失い、半島先端の孤城へと追い詰められていく、決死の退却戦の記録である。
第一節:岡崎城の攻防
永正9年(1512年)8月、早雲は周到な準備の末、大軍を率いて三浦氏が相模中央部の拠点としていた岡崎城(現在の神奈川県伊勢原市・平塚市)へ侵攻を開始した 14 。当主・三浦義同は自ら城に籠り、これを迎え撃った。しかし、検地による安定した財政基盤と、伊豆・西相模からの動員力を背景に持つ早雲の軍勢は、組織力と物量において三浦方を圧倒していた。凄まじい猛攻の前に岡崎城は持ちこたえられず、ついに陥落。義同は、相模における影響力の中核であった本拠地を失い、決死の脱出を余儀なくされた。
第二節:決死の退却戦と住吉城の悲劇
岡崎城を辛くも脱出した義同が次なる拠点として目指したのは、弟の三浦道香が守る逗子の住吉城であった 20 。しかし、勢いに乗る早雲の追撃は執拗であった。義同が住吉城に逃げ込むと、間髪入れずに北条軍が城に殺到した。ここでも激しい攻防が繰り広げられたが、衆寡敵せず、住吉城もほどなくして陥落する。この戦いで、義同の弟・道香は討ち死に、あるいは自害したと伝えられている 9 。肉親を失い、拠点を次々と奪われた義同の退却行は、悲壮感を一層深めていった。
第三節:最後の砦・新井城へ
もはや抗戦の拠点は、三浦半島先端に残された新井城(現在の神奈川県三浦市)のみとなった。義同は、嫡男である三浦義意が守るこの最後の砦へと、残存兵力を率いて逃れた 8 。これにより、三浦一族の全ての命運は、三方を海に囲まれた半島先端の孤城に託されることとなった。早雲は、三浦氏の勢力を物理的に袋小路へと追い込み、戦略的に選択の余地を奪うことに成功したのである。戦いの様相は、ここから完全に籠城戦へと移行する。日本戦国史上有数の、3年間にわたる壮絶な攻防の幕が切って落とされた。
第三章:三年間の籠城 ― 新井城の攻防(永正九年~十三年)
新井城に追い詰められた三浦氏であったが、彼らはここから驚異的な粘りを見せる。3年間という長期にわたる籠城は、単なる偶然の産物ではない。それは、地の利を最大限に活かした三浦の「海の戦略」と、それを無力化しようとする北条の「陸の戦略」が、熾烈な駆け引きを繰り広げた結果であった。
表2:新井城攻防戦における両軍の戦略比較
項目 |
北条軍(攻撃側) |
三浦軍(籠城側) |
総大将 |
北条早雲(伊勢宗瑞) |
三浦義同(道寸)、三浦義意 |
戦略目標 |
三浦氏勢力の完全排除と相模平定 |
現状維持、援軍到着までの時間稼ぎ |
強み |
圧倒的な兵力、優れた組織力、先進的な兵站・統治能力 |
天然の要害である城の地勢、強力な水軍による制海権、高い士気と結束力 |
中核戦術 |
持久戦(兵糧攻め)、戦略的拠点(玉縄城)の築城による封鎖、援軍の迎撃・撃破 |
籠城による徹底防戦、水軍を活用した海上補給路の維持、外部勢力との連携 |
弱み |
力攻めが困難な地形、長期戦による兵站への負担 |
兵力の劣勢、外部からの援軍への絶対的依存、補給路が海上に限定 |
第一節:天然の要害・新井城の地勢と三浦方の防衛戦略
新井城が3年間もの抵抗を可能にした最大の要因は、その比類なき地形にあった。城は油壺湾と小網代湾に挟まれた岬状の台地に位置し、三方を断崖絶壁の海に囲まれていた 8 。唯一陸続きとなっている北側も、深く巨大な堀切によって完全に遮断されており、その往来には「内の引橋」と呼ばれる橋が架けられていた 8 。この橋を引き落としてしまえば、城は事実上、海に浮かぶ要塞と化した 11 。後世の軍記物『北条五代記』は、「山高く巌険阻にして獣も駆り難し」「百万騎向かうと云えども力攻めには成り難し」と、その堅固さを絶賛している 23 。
この鉄壁の守りを支えたのが、二つの重要な要素であった。一つは、「千駄やぐら」と呼ばれる大規模な食糧庫の存在である。これは城内の洞窟を利用した備蓄庫で、一説には米千駄(二千俵)もの兵糧を蓄えることができ、長期籠城の生命線となった 23 。
そしてもう一つが、鎌倉時代以来の伝統を誇る「三浦水軍」の活躍である 9 。彼らは制海権を掌握し、海上から城への兵糧や武器の補給を続けただけでなく、対岸の安房国を本拠とする里見氏や、主家である扇谷上杉氏との連絡役も務めた 20 。この海からの補給路が維持される限り、新井城は決して干上がることはなかった。
さらに特筆すべきは、城内の士気の高さである。3年という過酷な籠城生活の中、三浦方からは一人の裏切り者も脱落者も出なかったと伝えられている 20 。これは、三浦義同・義意父子の人望がいかに厚く、家臣団との間に強固な信頼関係が築かれていたかを如実に物語っている 20 。
第二節:北条早雲の包囲網 ― 玉縄城築城と兵站遮断
合戦巧者の早雲は、新井城の堅固さを目の当たりにすると、多大な損害が予想される力攻めを早々に断念し、兵糧攻めによる持久戦を選択した 8 。そして、この持久戦を完遂するために、彼は恐るべき戦略的決断を下す。永正9年(1512年)10月、三浦半島の付け根にあたる鎌倉の地に、巨大な城「玉縄城」を築城したのである 15 。
玉縄城の築城目的は多岐にわたっていた。第一に、新井城へ至る陸路を完全に遮断し、陸からの補給や援軍の進入を不可能にすること 28 。第二に、三浦氏を救援しようとする扇谷上杉氏の軍勢を迎え撃つための前線基地とすること。そして第三に、武家の古都・鎌倉を抑え、相模東部における北条氏の支配を既成事実化することであった 26 。この玉縄城の存在により、早雲は新井城を物理的にだけでなく、戦略的にも「陸の孤島」へと変貌させた。三浦の「海の戦略」に対し、早雲は「陸の戦略」をもって対抗したのである。
第三節:絶たれる望み ― 援軍の壊滅
膠着状態が続く中、新井城の籠城側が唯一の希望としていたのが、主家・扇谷上杉氏からの大規模な救援軍であった。永正13年(1516年)7月、当主の上杉朝興はついに最後の望みを託し、大軍を相模国へと派遣した 9 。義同の娘婿である太田道灌の嫡男・太田資康も、この救援軍に加わっていた 20 。
しかし、早雲はこの動きを完全に読んでいた。玉縄城を拠点とする北条軍は、進撃してくる上杉軍を万全の態勢で迎え撃ち、これを撃破した 9 。この敗北は、新井城の運命を決定づけた。外部からの救援という最後の望みが絶たれ、城内の兵糧もいよいよ底を突き始めた。3年間にわたる三浦一族の血と涙の抵抗は、ここに水泡に帰すこととなったのである。
第四章:永正十三年七月十一日 ― 名門の終焉
全ての希望が絶たれた時、三浦一族は武門の名誉を懸けた最後の選択をする。永正13年(1516年)7月11日、新井城落城の日は、戦国史に残る最も壮絶で悲壮な一日として、後世に語り継がれることとなった。
第一節:最後の酒宴と三浦道寸の覚悟
落城前夜、兵糧は完全に尽き果てた。この絶望的な状況の中、三浦義同は残った家臣たちを集め、今生の別れとなる最後の酒宴を催したと伝えられている 20 。席上、ある家臣が、海路を用いて上総国へ脱出し、再起を図ることを進言した。しかし、義同は静かに首を振り、これを退けた。そして、集まった者たちにこう告げたという。
「落ちんと思う者あらば落ちよ。死せんと思う者は討死にして後世に名を留めよ」 20
(逃げたいと思う者がいるならば逃げるがよい。しかし、死を覚悟した者は、潔く討死にして武士の名を後世に残そうではないか)
この言葉は、家臣の命を思いやりながらも、武士としての誇りを最後まで貫こうとする義同の固い決意を示すものであった。彼の覚悟と人望の前に、その場から逃げ出す者は一人もいなかった 20 。主従は運命を共にすることを誓い、夜明けを待った。
第二節:城門開く ― 鬼神・三浦義意の奮戦
永正13年(1516年)7月11日、夜が明けると、新井城の城門が内から開け放たれた。三浦義同・義意父子を先頭に、残った城兵全員が、城を包囲する北条の大軍めがけて決死の突撃を敢行した 8 。
この最後の戦いにおいて、ひときわ凄まじい働きを見せたのが、嫡男の三浦義意(荒次郎)であった。後世の軍記物によれば、義意は「身長七尺五寸(約2メートル27センチ)、八十五人力」と謳われる比類なき猛将であったという 4 。彼は筋金入りの白樫の八角棒を武器に敵陣へ突入すると、夜叉羅刹の如く暴れまわった。一振りで5人、10人の敵兵をなぎ倒し、その一撃を受けた者は頭が胴にめり込むほどであったと記されている 4 。『北条五代記』などの記録では、この奮戦で討ち取られた北条方の兵は500人余りにのぼったとされる 11 。これらの記述には軍記物特有の誇張が含まれるであろう。しかし、敵である北条方が編纂した書物にまでこれほど詳細に記されていること自体が、義意の最期の戦いぶりが、勝者にとっても忘れがたい強烈な記憶として刻まれたことの証左である。
第三節:道寸の自刃と辞世の句
息子・義意の鬼神の如き奮戦を見届けたのか、あるいは乱戦の最中であったか、当主・三浦義同は静かに自刃を遂げた。一説には、腹を十字に切り裂くという壮絶な最期であったという 20 。その時、彼は一首の辞世の句を残したと伝えられている。
「討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ、砕けて後はもとの土くれ」 8
(戦いで討つ者も、討たれる者も、しょせんは素焼きの器のようなものだ。砕け散ってしまえば、最後はみな同じ土くれに還るだけなのだ)
この句は、勝者も敗者もなく、全ての人間は死の前では平等であるという、仏教的な無常観と深い諦観に満ちている。数百年にわたり栄華を誇った名門の最後の当主が、その滅びの瞬間にたどり着いた境地を示すものとして、戦国武将の辞世の中でも特に名高い。燃え盛るような子の奮戦と、静謐な父の自刃。二つの対照的な死が、三浦一族の終焉を飾ったのである。
第五章:合戦の遺産 ― 血と伝説と
新井城の落城は、相模三浦氏という一つの武家を歴史から消し去った。しかし、その記憶は消えることなく、凄惨な地名、地域の祭り、そして勝者の歴史にさえ影を落とす怨念の伝説として、現代にまで色濃く生き続けている。
第一節:「油壺」の由来と三浦一族の鎮魂
新井城の南側に広がる穏やかな湾は、現在「油壺湾」と呼ばれている。この地名には、落城の日の凄惨な記憶が刻まれている。最後の突撃で討ち死にした者、もはやこれまでと断崖から身を投げた女子供たち。三浦一族の流した大量の血が湾を真っ赤に染め上げ、その様子がまるで油を流したように見えたことから、この名が付いたと広く伝えられている 7 。
この悲劇の記憶は、地域の人々によって大切に守り継がれてきた。現在も三浦市には、義同・義意親子のものとされる墓所や供養塔が点在し、訪れる人が絶えない 41 。また、毎年5月には、三浦一族の霊を慰め、その武勇を偲ぶ「道寸祭り」が開催されている 10 。祭りのハイライトである「笠懸(かさがけ)」は、三浦一族のお家芸であった古式の弓馬術であり、勇壮な騎馬武者の姿は、滅び去った名門の面影を今に伝えている。
第二節:北条氏の相模平定とその後
この戦いの勝利によって、北条早雲は長年の宿願であった相模一国の完全平定を成し遂げた 2 。これは、彼の生涯における最大の軍事的功績であり、その子孫である後北条氏が約百年にわたり関東に覇を唱えるための、揺るぎない礎となった。
戦後処理における早雲の現実主義も見事であった。彼は三浦一族の首脳部を根絶やしにする一方で、その優れた水軍力には目を付けた。生き残った三浦水軍の者たちを「三崎十人衆」として再編成し、自らの家臣団に組み込んだのである 24 。敵対勢力の有用な資源は、たとえそれが滅ぼした相手のものであっても、躊躇なく吸収し自らの力に変える。この冷徹なまでの合理性と柔軟性が、後北条氏を戦国大名として大きく飛躍させた原動力の一つであった。
第三節:語り継がれる伝説 ― 義意の首と道寸の祟り
三浦一族の滅亡は、あまりに劇的であったため、数々の超自然的な伝説を生んだ。中でも有名なのが、三浦義意の首にまつわる逸話である。討ち取られた義意の首は、死後もなお目を見開き、歯を食いしばり、針金のような髭を震わせて、近づく北条方の兵を威嚇し続けたという 4 。恐れをなした早雲が名僧や修験者に加持祈祷をさせても効果はなかったが、後に訪れた一人の高僧が鎮魂の和歌を詠むと、首は安らかな表情に変わり、たちまち白骨化したと伝えられている 4 。
さらに、より大きな時間軸で語られるのが「道寸の祟り」である。三浦氏を滅ぼした後北条氏は、五代にわたって関東に君臨したが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって滅亡する。この時、当主・北条氏政が小田原で自刃を命じられた日は、7月11日であった。これは、奇しくも74年前に三浦義同が新井城で自刃した日と全く同じ月日だったのである 20 。勝者であった北条氏の歴史を記した『北条五代記』でさえ、この不気味な一致を「道寸怨霊の祟り」と記している 20 。これらの伝説は史実ではないかもしれない。しかし、勝者の歴史の中にすら、敗者の怨念がこれほど色濃く影を落としているという事実は、新井城の戦いが人々の心に残した衝撃の深さを何よりも雄弁に物語っている。
結論:戦国史における新井城の戦いの位置づけ
新井城の戦いは、戦国時代初期の関東における最も重要な合戦の一つとして位置づけられる。この戦いは、北条早雲という一個人の軍事的キャリアの集大成であり、彼が一代で築き上げた戦国大名・後北条氏の相模国支配を決定づけるものであった。同時に、鎌倉以来の由緒と権威を誇った名門・三浦氏が、出自を問わない純然たる「実力」の前に滅び去るという、下剋上の時代を象徴する出来事でもあった。
三浦氏が見せた3年間の驚異的な抵抗は、単なる犬死にではなかった。それは、優れた地勢、周到な兵站準備、そして強力な水軍力を組み合わせることで、圧倒的な兵力差を覆し得ることを証明した。この戦いの教訓は、その後の戦国時代の籠城戦術に少なからぬ影響を与えた可能性がある。
討つ者も、討たれる者も、やがては土くれに還る。三浦義同が残した辞世の句の通り、勝利した北条氏もまた、約70年後に同じように滅びの時を迎えた。しかし、新井城の断崖に散った三浦一族の壮絶な最期は、「油壺」の名と共に伝説となり、武士の名誉と滅びの美学を、500年後の現代にまで語り継いでいるのである。
引用文献
- 相模国三浦氏から北条氏に渡った名刀正恒/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/33707/
- 北条早雲とは?「最初の戦国将軍」「下剋上の先駆け」の生涯・逸話を紹介【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/388114
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- 三浦義意(1496?―1516) - asahi-net.or.jp https://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x062.htm
- 三浦氏とはどのような一族だった?かつての三浦半島盟主~神奈川県の歴史~ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/521/
- 宝治合戦~三浦氏の滅亡~ https://www.yoritomo-japan.com/ikusa/hojikassen.htm
- 城ぶら「新井城」!北条対三浦再び…北条早雲と三浦父子、3年に ... https://favoriteslibrary-castletour.com/kanagawa-miura-araijo/
- 新井城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kantou/arai.j/arai.j.html
- 三浦義同 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%BE%A9%E5%90%8C
- 三浦道寸の墓 - 名族・三浦氏終焉の地に立つ - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/kanagawa/dosun.html
- 三浦道寸・義意 VS.北条早雲 油壺新井城の戦い〜討つものも討た ... https://hojo-shikken.com/entry/aburatsubo
- 三浦時高 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%99%82%E9%AB%98
- [終了]”北条早雲公顕彰五百年事業”早雲の事績を今また振り返る2年間。 - 小田原市観光協会 https://www.odawara-kankou.com/topics/article/kensho500.html
- 「北条早雲(伊勢宗瑞)」関東でいち早く戦国大名へ。近年真相が解明されてきた早雲の下克上とは? https://sengoku-his.com/375
- 新井城の戦い - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/AraiJou.html
- 本家と分家がつぶし合い、上杉家の抗争「長享の乱」 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50856?page=3
- 【永正の乱】 https://higashiyamatoarchive.net/ajimalibrary/00%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E3%80%90%E6%B0%B8%E6%AD%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%80%91.html
- 繫栄を遂げる前の「江戸」は何人もの武将たちによって争われた地であった⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/29553
- 太田道灌-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44318/
- 三浦義同の辞世 戦国百人一首㊾|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/naedd31b343f6
- 新井城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Kanagawa/Arai/index.htm
- 【観光解説板】新井城址 - 三浦市 https://www.city.miura.kanagawa.jp/soshiki/kankoshokoka/kankoshokoka_kanko/kankoukaisetsuban/kankokaisetsuban_miuraichizoku/10012.html
- 2.油壺・新井城址 - まちへ、森へ。 https://machimori.main.jp/details9279.html
- 古城の歴史 新井城 https://takayama.tonosama.jp/html/arai.html
- 戦国大名の先駆けとなった『北条早雲』は幕府のエリート官僚だった? - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=nBw8fjtKQpE&pp=ygUKI-aWsOS5nemDjg%3D%3D
- 玉縄城址~鎌倉:北条早雲の城の歴史と見どころ~ https://www.yoritomo-japan.com/page140tamanawa-jyosi.htm
- 小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/409637/1-20210610160019.pdf
- 「戦国時代、難攻不落の『玉縄城』に思う」 | スタッフブログ | 横浜市青少年育成センター https://yokohama-youth.jp/ikusei/sengoku-nagano/
- 難攻不落の城 鎌倉の名城 「玉縄城」 その1 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/5080
- 玉縄城址のはじまり | 玉縄城を守る https://tamanawajo.jp/about_tamanawa_joshi
- 新井城跡(新井城址)・三浦道寸(義同)の墓・三浦荒次郎(義意)の墓 https://miurahantou.jp/arai-jou/
- 三浦一族のエピソード - 神奈川県ホームページ https://www.pref.kanagawa.jp/docs/d2t/kanko/p632084.html
- 新井城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1119
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- 三浦半島に三浦一族を訪ねる【地域別マップ】 - 神奈川県ホームページ https://www.pref.kanagawa.jp/docs/d2t/kanko/p631831.html
- 油壷のクチコミ - 名前の由来 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_14210ad2250116548/kuchikomi/0001583060/
- 油壺湾 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E5%A3%BA%E6%B9%BE
- 【観光解説板】油壺湾 - 三浦市 https://www.city.miura.kanagawa.jp/soshiki/kankoshokoka/kankoshokoka_kanko/kankoukaisetsuban/kankokaisetsuban_miuraichizoku/10013.html
- 油壺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E5%A3%BA
- 新井城の写真:油壺 地名の由来[小机城主さん] - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/951/photo/178787.html
- 三浦荒次郎義意公の奥方を供養する 無住の霊照院(三浦市) - みうけんのヨコハマ原付紀行 https://www.miuken.net/entry/2020/09/20/000000
- 郷土士の歴史探究記事 その42 http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-91187b.html
- 三浦の散歩道 〈第89回〉 みうら観光ボランティアガイド協会 - タウンニュース https://www.townnews.co.jp/0502/2015/08/28/297254.html
- 神奈川県三浦市観光PR「道寸祭り」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=RnuRcV3NX1s
- 道寸祭り - 日本ロマン100年 武将祭り https://bushoo-m.gicz.tokyo/shopdatail/25474
- 三浦一族偲ぶ「道寸まつり」 人馬一体の笠懸を披露 | 横須賀・三浦 - タウンニュース https://www.townnews.co.jp/0501/2025/05/02/783366.html
- 三浦市市制施行70周年記念事業「第48回道寸祭り」 | イベント一覧 - アットヨコハマ https://www.at-yokohama.net/events/1944
- 2025道寸祭り~笠懸 | 三浦一族のお家芸をゆかりの地・荒井浜で披露されるイベント https://miurahantou.jp/dousun-matsuri/
- 道寸祭り~笠懸 | 三浦エリア観光おでかけガイド「みうら旅びより」 https://miura.miurahantourism.jp/dousun-matsuri/
- BTG『大陸西遊記』~日本 神奈川県 三浦市~ https://www.iobtg.com/J.Miura.htm