最終更新日 2025-09-01

村木砦の戦い(1554)

天文二十三年、今川義元が築いた村木砦を巡り、織田信長は斎藤道三の援軍を得て嵐の中決死の渡海を敢行。信長自ら鉄砲隊を指揮し砦を陥落させた。この勝利は信長の将器を示し、桶狭間の戦いへの布石となった。

村木砦の戦い(天文二十三年)—若き信長、鉄砲と嵐を制した勝利の詳報—

序章:尾張の風雲—村木砦に至る道—

天文年間における尾張・三河の情勢

天文二十三年(1554年)に至る東海地方は、まさに一触即発の緊張状態にあった。東からは、「海道一の弓取り」と称される今川義元が、駿河・遠江を完全に掌握し、さらに三河国をもその勢力圏に組み入れつつあった 1 。義元の視線は、父・氏親の代からの宿願である上洛へと向けられており、その経路上に位置する尾張国は、避けては通れぬ戦略的要衝であった 1

これに対し、尾張国では織田信秀が一代で勢力を拡大し、今川氏や三河の松平氏と熾烈な国境紛争を繰り広げていた 1 。しかし、その版図は未だ尾張一国を完全に統一するには至らず、国内には守護代である織田大和守家(清洲織田氏)をはじめとする対抗勢力が存在し、織田弾正忠家(信長の一族)の支配は盤石ではなかった。この戦いは、単なる国境の砦を巡る攻防ではなく、東海地方の覇権を賭けた今川と織田の、そして次代を担う義元と信長の意志が初めて本格的に激突した代理戦争としての側面を色濃く持っていたのである。

織田信秀の死と、若き信長が直面した内外の脅威

この均衡を大きく揺るがしたのが、天文二十年(1551年)の織田信秀の急逝であった 2 。父という絶対的な支柱を失い、家督を継いだのは、奇矯な振る舞いから「大うつけ」と評されていた嫡男・織田信長であった 3 。信秀という重石が取れたことで、尾張国内のパワーバランスは一気に流動化する。信秀の時代にはその威勢に服していた国人衆も、若き信長の力量を測りかね、離反の動きを見せ始めた。

その象徴的な出来事が、鳴海城主・山口教継親子の今川方への寝返りであり、信長は翌天文二十一年(1552年)の赤塚の戦いでその奪還に失敗する 3 。この敗北は、信長の求心力が未だ脆弱であることを内外に露呈する結果となった。

さらに深刻だったのは、内部に抱える脅威であった。尾張下四郡の守護代である織田信友(清洲城主)は、信長を弾正忠家の篡奪者とみなし、常にその排除を画策していた 4 。信長にとって、東の今川氏は「外患」であると同時に、背後の清洲織田氏は常に警戒すべき「内憂」であり、軍事行動を起こす際には常にこの二正面作戦のリスクを考慮せねばならなかった。村木砦の戦いは、まさにこの信長が置かれた絶体絶命の状況下で敢行されたのである。

水野信元の決断:織田方への帰属がもたらした波紋

この複雑な情勢の中で、極めて重要な役割を果たしたのが、知多半島と西三河の一部を領する緒川城主・水野信元であった 4 。信元は、徳川家康の生母・於大の方の異母兄にあたる人物である 2 。父・水野忠政の代までは今川氏と友好関係を保っていたが、忠政の死後、家督を継いだ信元は、今川義元と織田信秀・信長親子の将来性を見極め、織田方につくという大きな賭けに出た 2

この決断は、周辺勢力に大きな波紋を広げた。最も直接的な影響を受けたのが、岡崎城主・松平広忠に嫁いでいた妹の於大の方であった。今川の庇護下にあった広忠は、信元の離反を理由に於大の方を離縁し、彼女は実家へと送り返された 2 。これにより、水野氏の領地である緒川城や刈谷城は、織田・今川両勢力が直接対峙する最前線となり、戦略的に極めて重要な緩衝地帯から、発火点へとその性格を変えた。今川義元にとって、織田方についた水野信元は許しがたい裏切り者であり、その討伐は尾張侵攻の第一歩として必達の課題となったのである。

第一章:今川の楔—村木砦の築城と織田家の窮地—

今川義元の尾張侵攻戦略と村木砦の役割

父・信秀の死によって生じた尾張の権力の空白を、今川義元が見逃すはずはなかった。彼は、若き信長を直接攻撃するのではなく、まずその周辺勢力を切り崩し、孤立させるという巧みな戦略を選択した。その戦略の要として築かれたのが、村木砦であった。

天文二十二年(1553年)六月、義元は水野信元の本拠・緒川城に隣接する村木村の海岸砂丘に着目し、砦の建設を開始した 3 。その目的は、緒川城を海陸から直接威圧し、水野氏を封じ込めること、そして知多半島を足掛かりとして尾張愛知郡南部へと侵攻するための橋頭堡を確保することにあった 2

砦の建設と並行して、義元は周辺の切り崩しを加速させる。刈谷城の東に位置する重原城の山岡伝五郎を攻め滅ぼし 3 、さらに知多半島西岸の寺本城を調略によって寝返らせた 4 。これにより、信長の居城である那古野城と水野氏の緒川城を結ぶ陸路は完全に遮断され、両者の連携は断ち切られた。水野信元は、あたかも袋の鼠のように、知多半島に孤立させられることになったのである。

砦の構造と地理的優位性:海に突き出た難攻不落の拠点

村木砦は、現在の愛知県知多郡東浦町森岡に位置し、当時は衣浦湾に突き出た岬のような砂丘の上に築かれていた 7 。三方を海あるいは湿地帯に囲まれた天然の要害であり、攻め手は限られた方向からしか接近できない、防御側に極めて有利な地形であった。

その構造は、『信長公記』によれば、東を大手門、西を搦手門とし、北側は断崖絶壁の天然の要害であったため、特に防御を固めていなかったとされる 5 。そして、この砦を最も特徴づけていたのが、南面に掘られた「甕型(かめがた)の非常に大きな堀」であった 2 。この甕型の堀は、底が深く、斜面が切り立っているため、兵が這い上がることが極めて困難であり、後の攻城戦において織田軍を最も苦しめることになる。

守備兵力は、築城当初は岡崎衆を中心に約1,000名が動員されたが 2 、砦が完成し、戦線が膠着状態に入ると、天文二十三年九月には松平忠茂(あるいは松平義春)を大将として守備隊が置かれた 2 。信長が攻撃を開始した時点では、その兵力は約300名ほどに減少していたとされるが、堅固な砦の構造と地の利を考えれば、決して侮れない戦力であった 2


表1:主要登場人物と役割

勢力

武将名

役割・関係性

織田方

織田信長

織田弾正忠家当主、連合軍総大将。当時21歳。

織田信光

信長の叔父(信秀の弟)。守山城主。信長にとって数少ない信頼できる身内。

水野信元

緒川城主。徳川家康の伯父。今川方から織田方へ転向し、救援を要請。

水野忠分

信元の弟。連合軍の一部隊を率い、砦の東(大手門)を攻撃。

今川方

今川義元

駿河・遠江・三河を領する戦国大名。村木砦築城の総帥。

松平忠茂/義春

村木砦の守将。史料により名が異なるが、三河の国衆。

協力勢力

斎藤道三

美濃国主。「美濃のマムシ」。信長の岳父(舅)。

安藤守就

道三の家臣。美濃からの援軍1,000を率いる大将。


水野信元の救援要請と、信長を縛る「清洲」という枷

天文二十二年九月に砦が完成すると、今川方からの圧迫は日に日に強まった 3 。水野信元は、もはや自力での抵抗は不可能と判断し、那古野の信長に再三にわたり救援を要請した。しかし、信長からの返答は、「しばし待て、砦を造らせて、相手が油断するのを待て」という、にべもないものであった 2

信長が即座に応じなかったのは、決して信元を見捨てるつもりだったからではない。彼が動けなかった最大の理由は、背後に存在する清洲城主・織田信友の存在であった 4 。もし信長が主力を率いて那古野城を留守にすれば、信友がその隙を突いて攻撃を仕掛けてくることは火を見るより明らかであった。東の今川、西の清洲という二つの脅威に挟まれ、信長は身動きが取れない状況に追い込まれていたのである。

信長の返答は、単なる時間稼ぎではなかった。それは、この絶望的な状況を打開するための方策を練るための、苦渋に満ちた戦略的遅延であった。敵を油断させ、その間に背後の脅威を無力化する。そのための乾坤一擲の策が、この後、実行に移されることになる。

第二章:決断の刻—天文二十三年一月十八日〜二十三日の動静—

乾坤一擲の策:岳父・斎藤道三への援軍要請

半年近くの膠着状態が続いた天文二十四年(1554年)一月中旬、信長はついに動く 3 。彼が打った手は、常人には思いもよらない、極めて大胆なものであった。岳父である美濃の斎藤道三に使者を送り、那古野城の留守居として援軍を派遣してくれるよう要請したのである 4

これは、「美濃のマムシ」と恐れられた梟雄に、自らの本拠地の守りを委ねるに等しい行為であった。もし道三に野心があれば、信長が出陣した隙に那古野城を乗っ取り、尾張を支配下に置くことも可能であった 9 。まさに、虎の口に頭を入れるような危険極まりない賭けであった。

しかし、この一手は単なる軍事要請に留まらない、高度な政治的駆け引きでもあった。信長は、自らの最大の弱点(本拠地)を敢えて晒すことで、道三に対して「私はあなたを全面的に信頼している」という強いメッセージを送った。同時に、道三の器量を試したのである。小人物であれば目先の利益(那古野城)に飛びつくだろうが、大器であればこの信頼に応え、婿である信長の将来性を見極めようとするはずだ。信長は、道三の深層心理にまで踏み込んだ、壮大な賭けに打って出たのである。

美濃勢、那古野に着陣(1月18日〜20日)

一月十八日、道三からの返答が届く。彼は信長の要請に応じ、重臣の安藤守就を大将とする兵1,000の派遣を決定した 3 。道三は安藤に対し、田宮・甲山ら五人の目付を付け、戦況を毎日報告するよう厳命したという 5 。これは、信長の動向を監視する意味合いもあっただろうが、結果として道三は信長の賭けに乗った。

一月二十日、安藤率いる美濃勢は尾張に到着し、那古野城の北、志賀・田幡に布陣した 3 。信長はすぐさま自ら安藤のもとへ赴き、丁重に礼を述べた。これにより、背後の安全は確保され、ついに村木砦へ向けて出陣する準備が整ったのである。

信長、出陣す:一部家中の不協和音を越えて(1月21日)

しかし、出陣は順風満帆ではなかった。出陣を翌日に控えた二十日、重臣である林秀貞・通具の兄弟が、この出陣に不服を唱え、持ち場を放棄して帰ってしまうという事件が起こる 5 。この逸話は、当時の信長がまだ家中を完全に掌握しきれていなかった現実と、彼の求心力に対する一部重臣の疑念を物語っている。

だが、信長は少しも動じなかった。「意に介さず」と記録にある通り、彼は林兄弟の離反を無視し、予定通り出陣を強行する 5 。この困難な状況下でも決断を覆さない強い意志は、後の彼を特徴づけるリーダーシップの萌芽であった。

一月二十一日、信長率いる織田軍は那古野城を出立し、その日は熱田に宿営した 4

「伊吹おろし」を突く:熱田から知多への決死の渡海(1月22日)

翌二十二日、織田軍は熱田の湊から船で知多半島へ渡る計画であった。しかし、この日は冬の尾張特有の季節風、いわゆる「伊吹おろし」が吹き荒れる大時化であった 2 。経験豊富な船頭や水夫たちは、この天候での出航は無謀であると猛反対した 5

通常であれば、作戦は延期されるのが常道である。しかし、信長の発想は異なっていた。彼はこの悪天候を、障害ではなく、むしろ好機と捉えた。敵である村木砦の守兵はもちろん、寝返った寺本城も、まさかこんな嵐の日に織田軍が海を渡ってくるとは夢にも思うまい。悪天候は、敵の油断を突く絶好の隠れ蓑となる。

「何をためらうか」と信長は船頭たちを一喝し、無理やり船を出させた 5 。この常軌を逸した決断は、彼の合理性と目的達成への執念を物語っている。結果的に、織田軍の船団は強風に乗り、約二十里(約78キロメートル)の海路をわずか一時間ほどで走破したと伝えられている 4 。この電撃的な渡海により、陸路を塞いでいた寺本城を完全に迂回し、敵の背後を突くことに成功した。この日の夜は緒川城近辺で野営し、軍勢の態勢を整えた。この無謀とも思える行動の成功は、「天候すらも味方につける信長の強運」として兵たちの目に映り、軍の士気を最高潮にまで高めるための、見事な演出ともなった。

緒川城入城と最終軍議(1月23日)

一月二十三日、織田軍は緒川城に入城し、水野信元と合流した 5 。すでに叔父の織田信光率いる別動隊は砦周辺の要所を固めており、今川方からの伝令や兵の逃亡を阻止する態勢を整えていた 2

その夜、緒川城内では諸将を集めて最後の軍議が開かれた 2 。信長は水野信元から現地の詳細な地理や砦の状況を聞き取り、翌二十四日の払暁をもって総攻撃を開始することを最終決定した。尾張の、そして信長自身の命運を賭けた一日が、始まろうとしていた。

第三章:死闘の一日—天文二十三年一月二十四日、合戦のリアルタイム詳報—

天文二十三年一月二十四日、この日は若き織田信長の軍事的才能が初めて天下に示すされる、運命の日となった。夜明け前から始まった軍事行動は、夕刻まで続く約八時間にわたる死闘へと発展する。


表2:村木砦の戦い 主要時系列(天文23年1月24日)

時刻

状況

払暁(午前5時頃)

-

織田・水野連合軍、緒川城を出陣。村木砦へ向かう。

午前8時頃

辰の刻

信長の本陣が砦南方の村木神社付近に設営され、総攻撃が開始される。

午前〜午後

-

東(水野忠分)、西(織田信光)、南(織田信長)の三方で激しい攻防が続く。

午後4時20分頃

申の下刻

織田軍の猛攻により、砦内の今川方が降伏。戦闘が終結する。


午前八時(辰の刻):攻撃開始—三方からの同時攻撃

払暁、緒川城を出立した織田・水野連合軍は、村木砦へと進軍した。信長は本陣を砦の南側、現在の村木神社が鎮座する高台に置いたと伝えられる 2 。そして辰の刻(午前八時頃)、攻撃開始の采配が振るわれた。

信長の作戦は、砦を三方から同時に攻撃し、敵の兵力を分散させ、防御を突破するというものであった 4

  • 東の大手門 には、水野信元の弟・ 水野忠分 が率いる部隊。
  • 西の搦手門 には、信長の叔父・ 織田信光 が率いる部隊。
  • そして、最も防御が固い南の大堀には、信長自らが率いる本隊が当たった。
    北側は天然の要害であったため、攻撃部隊は配置されなかった 5。

信長が最も困難な南面を自ら担当したことは、単なる若さ故の勇猛さの誇示ではない。それは、①最も危険な場所に大将が身を置くことで、兵士たちの士気を最大限に鼓舞し、②新兵器である鉄砲の威力を自らの目で確かめ、最も効果的に運用するため、という極めて合理的な判断に基づいていた。大将が最前線にいるという事実は、兵士たちに「退くことは許されない」という覚悟を植え付け、死兵に変える効果があったのである。

東西の攻防:水野隊の奮戦と信光隊の突破

東の大手門では、水野忠分隊が正面から激しく攻め立てた。海側であるこの方面は、水野氏が動員した戦船によって海上からも封鎖され、砦内の兵士に逃げ場はないという心理的圧迫を与えていたと考えられる 2

一方、西の搦手門を攻めた織田信光隊は、戦端を開く上で重要な役割を果たした。信長軍の襲撃があまりに電撃的であったため、砦の守兵は堀に架かる橋を落とす暇もなかったという 2 。この機を逃さず、信光隊の武将・六鹿椎左衛門(ろくしか しいざえもん)が外郭への一番乗りを果たし、織田軍の士気を大いに高めた 5

南面、甕堀の死闘:信長本隊の苦戦と甚大な犠牲

戦いの趨勢を決したのは、信長が陣取る南面での攻防であった。この方面には、砦の最大の防御施設である「甕型の堀」が待ち構えていた 5 。信長の本隊は、この難攻不落の堀を越えようと、次々と兵を投入した。若武者たちは手柄を競い、堀をよじ登って砦内へ突入しようとするが、砦の上から放たれる矢や石、そして槍による激しい抵抗に遭い、次々と堀底へと転がり落ちていった 6

『信長公記』は、この時の惨状を「手負い死人その数を知らず」と記しており、織田方に夥しい数の死傷者が出たことがうかがえる 6 。戦いは完全に膠着状態に陥り、信長は絶体絶命の窮地に立たされた。

戦局を動かした新兵器:信長自らが指揮する鉄砲隊の運用

この膠着状態を打破するために、信長が投入したのが、当時最新兵器であった火縄銃、すなわち鉄砲であった。信長は自ら堀の端に進み出て、鉄砲隊の指揮を執った 2

その運用法は、後の長篠の戦いで見られるような組織的な一斉射撃(三段撃ち)ではなかったが、その萌芽ともいえる独創的な工夫が見られた。信長は、砦の壁に設けられた銃眼、すなわち狭間(さま)を狙い撃つよう命じた。そして、数人の兵士に弾込めを専門に行わせ、自身は射撃済みの鉄砲を受け取っては、装填済みの新しい鉄砲に持ち替え、次々と射撃を続けたと伝えられている 2 。これにより、途切れることのない援護射撃が可能となった。

この戦術の目的は、敵兵を大量に殺戮することではなかった。第一の目的は、弓の射程外から狭間を制圧し、味方兵士が堀に取り付く際の安全を確保することであった 2 。第二に、その轟音と威力による心理的効果である。砦内の今川兵にとって、これほどの大音響は初めての経験であり、目に見えぬ速さで飛来する弾丸が仲間を打ち倒していく光景は、計り知れない恐怖を与えた 2 。この鉄砲による援護射撃が、膠着した戦況を動かす決定的な一撃となったのである。

午後四時過ぎ(申の下刻):激戦の末の降伏—織田軍、辛勝を収める

鉄砲の援護を受けた織田軍の猛攻は続き、西の搦手門からは信光隊が突入に成功した。三方からの relentless な攻撃に、砦内の今川兵はついに戦意を喪失。死傷者は増え続け、申の下刻(午後四時二十分頃)、ついに降伏を申し出た 5

織田方にも、信長の小姓数名を含む多数の死者が出ており、また日没も迫っていたことから、信長はこの降伏を受け入れた 5 。砦の残敵掃討は水野忠分に任せ、約八時間に及んだ死闘は、織田軍の辛勝という形で幕を閉じた。

夥しい味方の亡骸を目の当たりにした信長は、勝利の喜びよりも、その甚大な犠牲に心を痛め、感極まって涙を流したと伝えられている 5 。この涙は、彼が単なる冷徹な合理主義者ではなく、部下を思う情を併せ持った指揮官であったことを示している。

第四章:戦塵の収斂—勝利の代償と戦後の動向—

飯喰場での祝宴:信長が見せた人心掌握の片鱗

戦闘が終結した後、信長は砦近くの山あいの広場で祝宴を催し、将兵たちの労をねぎらった。この場所は、後に「飯喰場(いぐいば)」と呼ばれるようになる 2

この祝宴での信長の振る舞いは、彼のリーダーとしての一面を如実に示している。彼は、織田信光や水野信元といった身分の高い武将だけでなく、身分の低い雑兵一人ひとりにまで「そちも、そこ許も、骨であった」と声をかけ、その手を握って涙ながらに感謝の意を伝えたという 2 。命を賭して戦った兵士たちにとって、総大将からのこの直接的な感謝と共感の表明は、何物にも代えがたい報酬であった。この行動は、激戦を戦い抜いた兵士たちの心を強く掴み、織田軍の結束をより強固なものにした。信長が、冷徹な戦略家であると同時に、人の心を動かす術に長けた類稀なるカリスマであったことを示す、重要な逸話である。

帰路の報復:寺本城下への放火

翌一月二十五日、信長は那古野城への帰途についた。その際、彼は今川方に寝返った寺本城へ手勢を派遣し、城下に火を放って報復を行った 5 。これは、裏切り者に対する容赦ない姿勢を明確に示すことで、領内の他の国衆への見せしめとする意図があった。味方への温情と、敵対者への非情。この「アメとムチ」を使い分ける統治スタイルは、信長が生涯を通じて貫いたものであり、その原型がこの戦後処理に見て取れる。

村木村の悲劇:信長の非情なる命令と処刑された村人たち

しかし、この戦後処理には暗い側面も存在した。信長は、今川方に協力させられた村木村の村人たちを「反逆者」とみなし、処刑するよう命じたのである 8 。戦時下において、領民が占領軍に協力させられるのは避けられないことであり、彼らが自ら進んで今川に与したわけではなかった 14 。にもかかわらず、信長は支配の安定を優先し、見せしめとして厳罰に処した。

この非情な命令は、村に深刻な亀裂と長年にわたる遺恨を残した 2 。後年、これを憂いた水野家の一族が、処刑された人々の霊を弔うための法要を始め、その習慣は四百年以上経った現在も「観音会」として続いているという 2 。この悲劇は、戦国時代の戦争が、武士だけでなく、名もなき領民たちにもたらした過酷な現実を物語っている。

斎藤道三の慧眼:娘婿への畏怖と賞賛

一月二十六日、信長は那古野城に凱旋し、留守居を務めた安藤守就に改めて丁重な礼を述べた。翌二十七日、安藤ら美濃勢は帰国の途につく 5

美濃に戻った安藤は、主君・斎藤道三にことの一部始終を報告した。信長の電撃的な渡海、三方からの猛攻、そして鉄砲を用いた斬新な戦術。その全てを聞いた道三は、深く感嘆し、そして畏怖したと伝えられる。彼はこう述べたという。「然らば、是非もなし。我が子たちは、彼(信長)が門前に馬を繋ぐことになるであろう(いずれ信長の家来として仕えることになるだろう)」 2

「マムシ」と恐れられた老獪な戦国武将は、この一戦を通じて、婿である信長が単なる「うつけ」ではなく、天下の器を秘めた恐るべき人物であることを見抜いたのである。道三からのこの高い評価は、信長の尾張国内における政治的立場を間接的に強化する効果ももたらした。

終章:桶狭間への序曲—村木砦の戦いが歴史に刻んだもの—

村木砦の戦いは、桶狭間の戦いや長篠の戦いといった著名な合戦の陰に隠れがちであるが、織田信長の、ひいては日本の戦国史の行方を決定づける上で、極めて重要な意味を持つ一戦であった。それは、若き信長の将器を世に示し、後の飛躍への礎を築いた、まさに「出世の戦い」だったのである。

信長の将器:この一戦で示された指導者としての資質

この戦いを通じて、信長が備えていた指導者としての類稀なる資質が、余すところなく発揮された。

第一に、 戦略的思考力 である。内憂(清洲織田氏)と外患(今川氏)という二正面作戦を強いられる絶望的な状況下で、外交(斎藤道三への援軍要請)と軍事(村木砦への電撃作戦)を巧みに連動させ、危機を打開した。

第二に、常識を覆す 決断力と実行力 である。嵐の中の渡海という、誰もが不可能と考える作戦を敢行し、成功させた。このリスクを恐れない大胆さが、後の桶狭間での奇襲作戦にも繋がっていく。

第三に、新兵器に対する 革新性 である。鉄砲という、まだその真価が知られていなかった兵器の戦術的可能性をいち早く見抜き、攻城戦の援護射撃という形で実戦投入した先見性は、特筆に値する 8 。この戦いでの成功体験が、信長に鉄砲の大量収集と戦術研究を促し、二十一年後の長篠の戦いにおける画期的な運用へと結実するのである 8

第四に、 人心掌握術 である。兵士たちと涙を流して勝利を分かち合う人間的な魅力と、裏切り者や敵対者には一切の情けをかけない冷徹な非情さを併せ持つ二面性は、彼の支配体制を強固なものにした。

戦術史上の意義と、六年後の奇跡への布石

この戦いは、日本の戦術史においても一つの転換点であった。攻城戦において、鉄砲が敵兵の殺傷だけでなく、防御拠点の制圧や心理的威圧といった目的で効果的に使用された、記録に残る最初の本格的な事例となった 15

対今川戦略という観点では、この勝利は今川氏の尾張侵攻の勢いを一時的にではあるが完全に挫き、織田・水野同盟をより強固なものにした 2 。そして何より重要なのは、この戦いが今川義元と織田信長、双方にとって重要な「学習の機会」となった点である。

信長は、この戦いで「奇襲・迅速な機動力・新兵器の活用」という、自らの勝利の方程式の有効性を確信した。これは、六年後の桶狭間の戦いにおける戦略の根幹をなす要素であった。

一方、今川義元は、「小規模な前線基地を設置するだけでは、信長の電撃的な対応によって各個撃破される」という痛烈な教訓を得た。この敗北が、義元に次の尾張侵攻では、生半可な拠点確保ではなく、大軍を率いて一気に尾張中枢を叩き、織田家そのものを根絶やしにするという、より大規模で決定的な作戦を選択させるに至った 16 。それが、あの二万五千ともいわれる大軍を動員した、永禄三年(1560年)の尾張侵攻であった。

その意味で、村木砦の戦いの勝利は、桶狭間の戦いという歴史的な奇跡を呼び込むための、見えざる壮大な序曲であったと言える。この尾張の片隅で繰り広げられた死闘がなければ、日本の歴史は全く異なる道を歩んでいたかもしれない。

引用文献

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  2. 村木砦の戦い - 東浦町観光協会 https://higashiura-kanko.com/history/murakitoride/
  3. 村木砦の戦い - 一万人の戦国武将 https://sengoku.hmkikaku.com/dekigoto/30owari/15540124murakitoridenotatakai.html
  4. 【解説:信長の戦い】村木砦の戦い(1554、愛知県知多郡) 信長が初めて鉄砲を使った戦い。家康の伯父・水野氏の窮地を救う! https://sengoku-his.com/34
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  13. 1554年(天文23 )村木砦の戦い(東浦町森岡取手) https://higashiura-kanko.com/history/murakitoride/images/slide/murakitoride.pdf
  14. 村木砦の戦い跡を巡る - 東浦町観光協会ブログ https://higasiura.exblog.jp/27458001/
  15. 初めて村木砦で使われた「火縄銃」 - 東浦町観光協会ブログ https://higasiura.exblog.jp/27558802/
  16. 奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/101738/