最終更新日 2025-09-06

氷見・有磯海沿岸戦(1585)

天正十三年、氷見・有磯海沿岸戦の詳説 ―秀吉の天下統一戦略と佐々・前田の越中沿岸攻防―

序章:天下統一への道程と北陸の孤狼、佐々成政

天正十三年(1585年)、越中国の有磯海(ありそうみ)、現在の富山湾沿岸で繰り広げられた一連の戦闘、すなわち「氷見・有磯海沿岸戦」は、豊臣秀吉による天下統一事業の過程において、一見すれば局地的な前哨戦に過ぎないように見えるかもしれない。しかし、その背景と経過を深く掘り下げるとき、この戦いが単なる一城一砦の争奪戦ではなく、秀吉の緻密な国家統一戦略と、それに最後まで抗おうとした一人の武将、佐々成政の意地と悲劇が凝縮された、極めて重要な歴史的事件であったことが明らかになる。本報告書は、この戦いの全貌を時系列に沿って詳述し、その歴史的意義を多角的に分析するものである。

本能寺後の激動と秀吉の台頭

全ての始まりは、天正十年(1582年)六月の本能寺の変に遡る。織田信長の突然の死は、天下に巨大な権力の空白を生み出し、織田家臣団はその後継者の座を巡って激しく対立した。この混乱を巧みに収拾し、主導権を握ったのが羽柴秀吉であった。翌天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、秀吉は織田家の筆頭宿老であった柴田勝家を破り、織田政権内における実質的な後継者としての地位を確立する 1

この時、越中一国を支配していた佐々成政は、柴田勝家の与力であり、明確に勝家方に与していた 2 。しかし、彼の領国は東に上杉景勝という宿敵を抱えており、その備えのために賤ヶ岳の主戦場へ兵を動かすことができなかった 2 。結果として、成政は秀吉との直接対決を経験することなく、主君である勝家の滅亡という現実を突きつけられる。この「参戦できなかった」という事実が、彼のその後の運命を大きく左右する伏線となった。秀吉に臣従したものの、その関係は当初から不信と緊張に満ちたものであった。

小牧・長久手の戦いと成政の選択

秀吉の急速な台頭に対し、信長の子・織田信雄が徳川家康と結び、公然と反旗を翻したのが天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いである。この時、佐々成政は秀吉への臣従を破棄し、信雄・家康方に与するという重大な決断を下す 1 。この選択の根底には、秀吉を主家の乗っ取りを企む簒奪者と見なし、信長への旧恩と織田家への忠誠を貫こうとする成政の強い意志があったと考えられる 6

しかし、この決断は彼を戦略的に著しく不利な立場へと追い込んだ。成政は信雄・家康軍に呼応すべく、西隣の加賀国を支配する前田利家の支城・末森城を攻撃する。利家は賤ヶ岳の戦いで秀吉方についており、成政にとってはこの機に打倒すべき敵であった。しかし、城兵の頑強な抵抗と利家自身の迅速な来援により、末森城攻略は失敗に終わる 1 。この敗北により、佐々・前田両家の対立はもはや修復不可能な段階へと突入し、成政は北陸において完全に孤立することになる。

決死の「さらさら越え」と戦略的孤立の深化

成政にとってさらなる打撃となったのは、頼みとしていた織田信雄が、家康に無断で秀吉と単独講和を結んだことであった 8 。これにより、成政は戦いを続ける大義名分と後援者の双方を一度に失い、完全に梯子を外された形となった。

この絶望的な状況を打開すべく、成政は常軌を逸した行動に出る。同年冬、厳寒の北アルプス・立山連峰を踏破し、浜松の徳川家康のもとへ直接赴き、再挙を促そうとしたのである。後世「さらさら越え」として知られるこの壮挙は、成政の不屈の精神と類稀なる行動力を示す逸話として語り継がれている 1 。しかし、既に秀吉との和睦へと傾いていた家康を説得することは叶わず、成政は失意のうちに越中へと引き返した 8 。この決死行は、結果として彼の悲壮なまでの忠誠心を天下に示す一方で、彼が完全に孤立無援であることを内外に知らしめることにもなった。これにより、秀吉にとって佐々成政は「次に討伐すべき、抵抗勢力の最後の象徴」として明確に位置づけられたのである。

成政の一連の行動原理を考察すると、それは単なる反秀吉という感情的なものではなく、「織田信長によって確立された天下秩序の維持」という、彼なりの価値観と大義に基づいていたことが見えてくる。信長に重用され、越中一国という大領を与えられた成政にとって、自身の存在意義は「織田家臣」という点に強く根差していた 3 。秀吉の台頭は、その秩序を根底から覆すものと映ったであろう。小牧・長久手の戦いで信雄を担いだのも、信長の息子を立てるという大義があったからであり、「さらさら越え」もまた、織田家の同盟者であった家康に最後の望みを託すという、彼なりの筋を通す行為であった 1 。したがって、天正十三年に始まる一連の戦いは、秀吉から見れば反逆者の討伐であるが、成政の視点から見れば、旧主・織田家の天下を守るための最後の抵抗であった。この両者の埋めがたい認識の齟齬が、彼の悲劇的な結末へと繋がっていくのである。

第一章:天正十三年、春 ―有磯海に燻る戦雲―

「さらさら越え」の失敗により佐々成政の戦略的孤立が確定した天正十三年(1585年)の春、豊臣秀吉は来るべき越中征伐(富山の役)に向け、周到な準備を開始していた。秀吉自身が畿内で四国征伐の指揮を執る一方、北陸方面では前田利家に対し、佐々勢力の切り崩しという重要な任務が与えられていたと推察される。利家は大規模な軍事侵攻に先立ち、静か、かつ熾烈な調略戦を仕掛けていった。その主戦場となったのが、氷見・有磯海沿岸地域であった。

前田利家の調略:越中における佐々勢力の切り崩し

前田利家は、秀吉の意を受け、力攻めによる消耗を避け、敵を内部から崩壊させることを狙った。これは、最小限の損害で最大の効果を上げる、秀吉や利家が得意とした戦法である。利家は、能登と越中の国境地帯、特に氷見市周辺に鉄砲足軽を配備して軍事的な圧力を強める一方で 11 、水面下では佐々家の重臣たちに対し、寝返りを促す書状を送り、巧みな交渉を展開していた 12

この調略の成否は、成政配下の国人衆の動向にかかっていた。彼らにとって、もはや勝ち目の見えない成政に最後まで付き従うのか、それとも天下人への道を突き進む秀吉と、その代理人である前田利家に付くのかは、自らの一族の存亡を賭けた究極の選択であった。成政が「さらさら越え」に失敗し、家康からの後援も得られなかったという情報は、当然彼らの耳にも届いていたはずである。成政政権の末期症状が進行する中、利家の調略は、その崩壊を決定的に加速させる一撃となった。

戦略拠点・阿尾城:富山湾(有磯海)の制海権を握る要衝

利家が調略の最大の標的として狙いを定めたのが、氷見の海岸線に位置する阿尾城であった。この城は富山湾に突き出した丘陵上に築かれ、海側は断崖絶壁、陸側も急峻な坂に守られた天然の要害として知られていた 12

阿尾城の戦略的価値は極めて高い。この城を抑えることは、富山湾、すなわち有磯海の制海権を掌握することに直結する。海上交通路は、兵員や兵糧、武具といった物資を輸送するための生命線である。佐々成政にとって、阿尾城は富山城への補給路を確保するための重要な拠点であり、万が一の際の海からの脱出路ともなり得た。一方、前田利家にとっては、越中侵攻の橋頭堡を築き、成政を内陸部に封じ込めるための絶好の拠点であった。この城の帰趨が、越中全体の戦局を左右するといっても過言ではなかった。

天正十三年五月、菊池武勝の離反:佐々家中を揺るがした決断

前田利家は、阿尾城主・菊池武勝(右衛門入道)に対し、末森城の戦いが終わった直後の天正十二年(1584年)十一月から、ひそかに和睦交渉を持ちかけていた 12 。武勝は、佐々成政に対し、自らの妻子を人質として富山城に差し出すほどの忠誠を誓っていた武将であった 14 。しかし、主君である成政の政治的・軍事的劣勢が明らかになるにつれ、その心は大きく揺れ動いた。

そして天正十三年五月、武勝はついに決断する。妻子という重い枷がありながらも、成政を裏切り、前田方へ寝返ることを選んだのである 14 。これは、佐々方にとどまり続けることのリスクが、人質を見捨てるという非情な選択のリスクを上回ったと判断したことを意味する。この寝返りに際し、利家と武勝の間で誓紙が交わされ、阿尾城には前田勢が援軍として入城した 15 。一説には、この時、前田利家の甥であり、傾奇者として名高い前田慶次郎(利益)が城代として派遣されたとも伝えられている 12

菊池武勝の離反は、単なる一個人の裏切りではなかった。それは、佐々成政の求心力がもはや限界に達し、その支配体制が内部から崩壊し始めていることを示す、象徴的な事件であった。この一報は、やがて来るべき戦いの序曲を告げる、運命の鐘の音となったのである。

第二章:合戦詳説 ―氷見・有磯海沿岸戦(阿尾城の戦い)のリアルタイム再現―

腹心と頼んだ菊池武勝の裏切り、そして戦略拠点・阿尾城の明け渡しという一報は、富山城の佐々成政を激怒させた。これを放置すれば、他の家臣たちの動揺を招き、雪崩を打って離反が続くことは火を見るより明らかであった。成政は即座に懲罰攻撃を決定し、氷見沿岸へと討伐軍を派遣する。ここに、「氷見・有磯海沿岸戦」、またの名を「阿尾城の戦い」の火蓋が切られた。

開戦前夜(六月上旬~二十三日)

成政がこの重要な任務を命じたのは、客将であり、越中西部の要衝・守山城の城主であった神保氏張であった 12 。神保氏はかつて越中守護代を務めた名族であり、その名跡を継ぐ氏張の出陣には、裏切り者を討伐するという軍事目的だけでなく、越中における佐々氏の権威と旧来の秩序を回復するという政治的な意味合いも含まれていた。

神保氏張は、父・氏重と共に兵五千を率いて守山城を出陣した 12 。これに対し、阿尾城に籠もる守備兵は、城主・菊池武勝とその子・安信、そして前田家からの援軍を率いる前田慶次郎、片山延高、高畠定良らを含めても、その数はおよそ二千であった 12 。兵力においては、佐々方が倍以上の圧倒的な優位に立っていた。

表1:【阿尾城の戦い 両軍兵力比較表】

勢力

攻城軍(佐々方)

守城軍(前田・菊池方)

総大将

佐々成政(富山城より指揮)

前田利家(後方支援)

現場指揮官

神保氏張、神保氏重(守山城)、神保氏則

菊池武勝、前田慶次郎(伝)

主要武将

-

片山延高、高畠定良

総兵力

約5,000

約2,000

拠点

守山城

阿尾城

結果

攻撃失敗、撤退。神保氏重・氏則が戦死。

防衛成功。

この表が示す通り、佐々方は数的優位を背景に、短期決戦での城の奪還を期していた。しかし、戦いの行方は兵の数のみでは決まらなかった。

攻防の時系列(六月二十四日)

  • 早朝~午前:神保軍、攻撃開始
    天正十三年六月二十四日、氷見の地に到達した神保軍は、阿尾城への総攻撃を開始した 12。しかし、前述の通り、阿尾城は海に面した断崖と陸側の急坂に守られた堅城である 12。攻め手は、狭い攻撃路に兵を集中させざるを得ず、兵力差を十分に活かすことができない。さらに、城の曲輪に設けられた張り出し部分は、石段を登ってくる敵兵に対し、側面から矢や鉄砲を射かける「横矢掛かり」の構造になっており、守備側に圧倒的に有利に働いた 14。神保軍は多大な犠牲を払いながらも、城の守りを打ち破ることができずにいた。
  • 午後:熾烈な攻防と凶報の到来
    菊池・前田連合軍は、寡兵ながらも地の利を最大限に活かし、決死の覚悟で抵抗を続けた。前田慶次郎がその並外れた武勇で将兵を鼓舞したという逸話も残る。戦闘は膠着状態に陥り、攻めあぐねる神保軍の陣中に焦りの色が広がり始めた、まさにその時であった。神保氏張のもとに、彼の生涯を揺るがす衝撃的な凶報が届けられる。氏張が主力を率いて出陣し、手薄になった本拠・守山城で、かねてより前田方と通じていた内応者による謀反が勃発し、留守を預かっていた父・神保氏重が討ち取られたというのである 12。
  • 夕刻:神保軍の撤退と戦闘の終結
    本拠地を失い、父を殺されたという報せは、神保軍の士気を根底から打ち砕いた。将兵は動揺し、戦線は混乱に陥る。これ以上の攻城戦は不可能と判断した神保氏張は、断腸の思いで全軍に撤退を命令した 12。しかし、崩れ始めた軍勢を統率することは困難を極めた。守城側はこの好機を逃さず、城から打って出て追撃を開始する。この混乱した撤退戦の最中、神保氏張は嫡男の氏則までも失うという悲劇に見舞われた 12。
    結果として、阿尾城の戦いは、兵力で劣る守城側の完全な勝利に終わった 13 。佐々成政の懲罰攻撃は、城を奪還するどころか、有力な客将であった神保氏の力を大きく削ぎ、その勢力基盤を揺るがすという、最悪の結果を招いたのである。

海からの視点:制海権の喪失が意味するもの

この一連の戦闘において、大規模な水軍同士が激突したという直接的な記録は、現存する資料からは見出すことができない 18 。しかし、阿尾城が前田方の手に落ちたことの戦略的な意味は、陸上での一勝敗をはるかに超えるものであった。

これにより、富山湾(有磯海)の制海権は事実上、前田方のものとなった。佐々成政は、海からの補給や援軍を期待する道を完全に断たれた。彼の支配地は、富山城を中心とした内陸部に完全に封じ込められ、あたかも袋の鼠のような状況に陥ったのである。これは、この後に続く豊臣秀吉本隊による富山城包囲戦を、より容易かつ決定的なものにする上で、極めて重要な意味を持っていた。

この戦いの背後には、前田利家の周到な戦略があった可能性が極めて高い。守山城で起きた謀反は、単なる偶然の産物とは考えにくい。それは、菊池武勝の調略と連動して計画された、「多重の調略」であったと推察される。利家の作戦は、まず菊池を寝返らせて成政を挑発し、神保軍を阿尾城に誘き出す。そして、その隙を突いて守山城の協力者を動かし、内部から崩壊させるという、二段構え、三段構えの巧妙なものであった可能性が考えられる。これにより、前田軍は大規模な野戦を回避しつつ、佐々軍の重要拠点と有力武将を同時に無力化することに成功した。これは、戦国時代における調略戦の、まさに好例と言えるだろう。

第三章:戦いの帰趨と「富山の役」への連鎖

氷見・有磯海沿岸での一戦は、佐々成政にとって単なる局地的な敗北ではなかった。それは、彼の越中支配が音を立てて崩壊し、豊臣秀吉による最終的な征伐へと至る、ドミノの最初の一枚が倒れた瞬間であった。この敗北は、軍事的、政治的、そして心理的な側面から、成政を急速に追い詰めていった。

表2:【天正十三年 越中情勢 主要年表】

年月

出来事

関係者

影響・意義

天正12年 (1584)

小牧・長久手の戦い、末森城の戦い

秀吉、家康、信雄、成政、利家

成政の反秀吉姿勢が明確化。佐々・前田の対立が激化。

同年冬

佐々成政、「さらさら越え」を敢行

成政、家康

家康の説得に失敗。成政の戦略的孤立が決定的に。

天正13年 (1585) 5月

阿尾城主・菊池武勝が前田方へ離反

菊池武勝、前田利家

佐々方の沿岸防衛線に亀裂。氷見・有磯海沿岸戦の直接的な原因となる。

同年6月24日頃

氷見・有磯海沿岸戦(阿尾城の戦い)

神保氏張、菊池武勝、前田慶次郎

佐々軍が敗退。守山城も内応により混乱。成政の威信が失墜し、富山湾の制海権を喪失。

同年8月7日

豊臣秀吉、越中征伐(富山の役)に出陣

秀吉、信雄、利家、上杉景勝

10万の大軍が越中へ。成政への最終的な軍事・政治的圧力が開始される。

同年8月19日

秀吉軍、越中へ侵攻、富山城を包囲

秀吉軍、佐々軍

成政は富山城に籠城するも、完全に孤立無援となる。

同年8月26日

佐々成政、秀吉に降伏

成政、秀吉、信雄

越中の大半を没収され、妻子と共に大坂へ移住。ここに佐々氏の越中支配は終焉する。

局地戦の敗北が意味するもの

阿尾城での敗北は、佐々成政の支配体制に三つの深刻な打撃を与えた。第一に、成政の威信失墜である。重臣の裏切りを罰することができず、逆に返り討ちに遭ったという事実は、彼の指導者としての権威を著しく傷つけた 8 。この報は越中の他の国人衆にも伝わり、彼らの心を成政から離反させる決定的な要因となったであろう。

第二に、前田方の勢力伸長である。前田利家は、この勝利によって能登に加え、越中西部の沿岸地帯に確固たる足掛かりを築いた 16 。これは、来るべき秀吉本隊の侵攻ルートを確保し、佐々領を東西から挟撃する上で、極めて大きな戦略的優位をもたらした。

第三に、佐々方の有力な人材の喪失である。この戦いで神保氏張は父と嫡男を一度に失い、その勢力を大きく減退させた 12 。成政にとって、長年にわたり越中支配を支えてきた有力な家臣団を失ったことは、軍事力以上に大きな痛手であった。

沿岸防衛線の崩壊と富山城の孤立

阿尾城の陥落は、ドミノ倒しのように沿岸の他の城砦の運命も決定づけた。阿尾城と連携していた森寺城や湯山城といった氷見沿岸の支城群は、戦わずして前田方の支配下に入るか、あるいは放棄され、その機能を失った 15 。これにより、成政が構築した有磯海の沿岸防衛線は完全に崩壊した。

もはや広域的な防衛は不可能と悟った成政は、越中国内に点在していた三十六(一説には五十八)の城塞から兵を引き揚げ、全ての戦力を本拠である富山城に集中させるという、苦渋の決断を下さざるを得なくなった 23 。これは、領国全土を守ることを諦め、一点での籠城に最後の望みを託すしかないほど、彼が追い詰められていた状況を如実に物語っている。

天正十三年八月、秀吉軍の越中侵攻

氷見での前哨戦が終わり、佐々成政が完全に孤立したのを見計らったかのように、豊臣秀吉は行動を開始した。同年八月七日、四国平定を終えたばかりの秀吉は、休む間もなく自ら大軍を率いて京を出陣する 23 。その兵力は、諸将の軍勢を合わせると総勢七万とも十万ともいわれる、まさに天下人の軍勢であった 21

秀吉の戦略は、単なる軍事的な圧殺ではなかった。彼はこの戦いの総大将に、かつて成政が主君と仰いだ織田信雄を据え、さらに徳川家康をも従軍させた 9 。これは、この戦いが秀吉の私戦ではなく、織田家の後継者である信雄を奉じた天下の公戦であることを内外に示すための、高度な政治的演出であった。これにより、成政は「織田家に弓を引く逆賊」という立場に追い込まれ、戦うための大義名分を完全に失った。

八月十九日、前田利家の先導する軍勢を先駆けとして、秀吉軍は加賀から越中へと侵攻を開始する 21 。時を同じくして、東からは秀吉と連携した上杉景勝が国境まで兵を進め、南からは金森長近が飛騨の姉小路氏を制圧し、成政への包囲網を完成させた 23 。秀吉本隊は呉羽山の白鳥城に本陣を構え、眼下に富山城を見下ろした 8

完全に包囲され、味方する者もいない状況下で、圧倒的な兵力差を目の当たりにした成政は、もはや抵抗は無意味であると悟る。八月二十六日、織田信雄の仲介を受け入れ、秀吉に降伏した 8 。伝承によれば、成政は自ら髪を剃り、僧衣をまとって秀吉の陣営に出頭し、恭順の意を示したという 8 。この時、秀吉は「成政を降参させるのに太刀も刀もいらなかった」と豪語したと伝えられている 4

この「富山の役」は、秀吉の「戦わずして勝つ」という戦略思想の集大成であったと言える。そして「氷見・有磯海沿岸戦」は、その思想を実践に移すための、周到に準備された地ならしであった。秀吉の最終目的は、成政を力で滅ぼすこと自体ではなく、自身の権威に逆らう者がどのような末路を辿るかを天下に示すことにあった 25 。そのために、物理的な逃げ道(海路)と心理的な拠り所(家臣の忠誠)の両方を事前に奪っておく必要があった。氷見での敗北がなければ、成政の抵抗はより頑強なものとなり、秀吉は無用な血を流さねばならなかったかもしれない。

総括:越中沿岸の一戦が映し出す秀吉の天下統一戦略

天正十三年の氷見・有磯海沿岸戦は、戦国時代の終焉と新たな統一政権の確立という、日本の歴史における大きな転換点において、見過ごすことのできない重要な意味を持つ戦いであった。この一見小規模な戦闘は、豊臣秀吉の卓越した天下統一戦略の本質と、それに抗った佐々成政という武将の生き様を、鮮やかに映し出している。

軍事と調略のハイブリッド戦略

秀吉の天下統一事業は、単なる軍事力の行使によるものではなかった。それは、調略、外交、経済封鎖、そして権威の演出といった、あらゆる非軍事的手段を組み合わせた、総合的なハイブリッド戦略であった。氷見・有磯海沿岸戦は、その戦略が如何に効果的であったかを示す典型的な事例である。秀吉は、前田利家という信頼できる代理人を用い、敵の足元である家臣団の結束を内部から切り崩した。軍事行動は、あくまでも調略を成功させ、敵を心理的に追い詰めるための最終的な圧力として用いられた。この手法によって、秀吉は最小限の損害で敵対勢力を屈服させ、その後の天下統一事業を迅速に進めることができたのである。

氷見・有磯海沿岸戦の歴史的意義

この戦いが歴史に与えた影響は、三つの側面から評価することができる。

第一に、佐々成政の越中支配を終わらせる直接的な引き金となった点である。この敗北によって威信を失い、領国の沿岸部を失った成政は、秀吉本隊の侵攻を待たずして、事実上その支配力を喪失していた。

第二に、前田家の北陸における覇権を確立する上での重要な一里塚となった点である。この戦いの後、越中の大部分は前田利家・利長父子に与えられ、前田家は加賀・能登・越中の三国を支配する、後の「加賀百万石」の礎を築く大大名へと飛躍した 21

そして最も重要なのは、この戦いが、秀吉の天下統一事業の流れを決定づけたという点である。旧織田家臣団の中で最後まで抵抗した有力大名・佐々成政を、圧倒的な力量差を見せつけて屈服させた「富山の役」。その序曲となった氷見での一戦は、他の大名たちに対し、秀吉への抵抗が無意味であることを強く印象づけた。この成功が、その後の九州の島津氏、関東の北条氏といった強大な敵対勢力を征伐する上での、大きな弾みとなったことは間違いない。

かくして、有磯海の沿岸で繰り広げられた一戦は、一人の武将の時代の終わりを告げると共に、新たな時代の到来を告げる狼煙となった。それは、戦国乱世の終焉と、統一された天下の実現へと向かう、不可逆的な歴史の流れを象徴する戦いであったと言えるだろう。

引用文献

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  2. 愛憎表裏一体!?豊臣秀吉と佐々成政の関係 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=u0hrz9yadLE
  3. 佐々成政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%88%90%E6%94%BF
  4. 絵にみる佐々成政 - 富山市 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori12/tayori12.htm
  5. 信長への忠誠心から秀吉に反抗!佐々成政「戦国武将名鑑」 - Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57724
  6. 秀吉と争い続け、信長への忠誠心を失わなかった男|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【佐々成政編】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1025938/2
  7. 佐々成政は「郷土の英雄」 - 富山県商工会議所連合会 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/h15_m/0312toku_nari.html
  8. 佐々成政と富山 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0201.html
  9. 忠節を貫いた自己信念の武将 佐々成政|まさざね君 - note https://note.com/kingcobra46/n/n84541b4ef0a1
  10. 佐々成政の「ザラザラ越え」考 米原 宜 はじめに 1 . 記録類について - 立山博物館 https://tatehaku.jp/wp-content/themes/tatehaku/common/images/pdf/bulletin/2007/14_2007_03.pdf
  11. 金沢市立玉川図書館近世史料館 https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/maedatoshiienomonjo.pdf
  12. 県史跡 阿尾城跡 http://www.pcpulab.mydns.jp/main/aojyo.htm
  13. 越中 阿尾城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/ecchu/ao-jyo/
  14. 【阿尾城(氷見市)】断崖絶壁で守られる天然の要害がスゴすぎる ... https://note.com/toyamacastle/n/nb99b25fd97af
  15. 森寺城跡(史跡) - 氷見市 https://www.city.himi.toyama.jp/gyosei/soshiki/hakubutsukan/bunkazai/2168.html
  16. とやま文化財百選シリーズ (5) - 富山県 https://www.pref.toyama.jp/documents/14266/osiro.pdf
  17. 阿尾城 ~海に突き出した断崖に守られた鉄壁の城~ | 城なび https://www.shiro-nav.com/castles/aojou
  18. 村上水軍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E8%BB%8D
  19. 【日本遺産ポータルサイト】“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story036/
  20. 第二次木津川口の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  21. 前田利家の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38366/
  22. 【富山県のお城】隣国の武将たちが覇権を争い、築かれたお城の数は約400! - 城びと https://shirobito.jp/article/1851
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