最終更新日 2025-09-06

氷見・阿尾城の戦い(1585)

天正十三年、北陸の潮目を変えた一戦 ―氷見・阿尾城の戦い 全貌―

序章: 天下動乱の渦中にある北陸

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変によって織田信長が非業の死を遂げたことで、日本の政治情勢は一気に流動化した 1 。信長が一代で築き上げた強力な中央集権体制は突如として核を失い、その遺領と覇権を巡って、かつて信長の下で鎬を削った宿将たちが激しく争う時代へと突入した。この権力闘争の渦中で、中国大返しという離れ業を演じて明智光秀を討った羽柴秀吉が、清洲会議、そして翌年の賤ヶ岳の戦いを経て、織田家家臣団の筆頭としての地位を急速に固めていく 3

この新たな権力構造の再編は、北陸地方にも深刻な影響を及ぼした。織田政権下で加賀・能登・越中という隣接する三国を治めていた前田利家と佐々成政の関係は、この動乱を境に決定的な転換点を迎える。

「織田家旧臣」という同根から宿敵へ:前田利家と佐々成政

前田利家と佐々成政は、共に織田信長の親衛隊とも言うべき母衣衆(利家は赤母衣衆、成政は黒母衣衆)の筆頭を務め、信長の天下布武事業において数多の戦場で死線を共にした、いわば盟友とも呼べる間柄であった 2 。年齢も近く、信長の配下として互いに武功を競い合いながら出世を重ねた二人の経歴は、驚くほど似通っていた。

しかし、信長の死という絶対的な権威の喪失は、二人の間に埋めがたい亀裂を生じさせる。賤ヶ岳の戦いにおいて、柴田勝家に与力として付けられていた利家は、戦況の不利を悟ると戦線を離脱し、旧主君を見捨てる形で秀吉に降った。一方で成政は、柴田軍には直接参加しなかったものの、あくまで織田家への忠義を貫く姿勢を崩さなかった。この選択の違いが、両者の運命を大きく分かつことになる 4 。利家が秀吉という新たな時代の潮流に乗ったのに対し、成政は信長によって築かれた旧秩序に固執した。この根本的な思想的対立が、単なる領土紛争に留まらない、両者の根深い対立構造の源泉となったのである。

この対立の本質は、一個人の感情的な反目や領土的野心を超えた、より大きな構造の中に位置づけられる。すなわち、前田利家と佐々成政の争いは、羽柴秀吉が構築しようとする「豊臣政権」という新たな中央集権体制と、佐々成政が固執する「織田政権」という旧秩序との間の代理戦争であった。利家が新秩序の北陸方面における旗頭であったとすれば、成政は旧秩序を守護する最後の防波堤と自らを任じていた。こうして北陸という一地方は、天下の趨勢を占う、日本で最も緊迫した最前線の一つと化したのである。

第一章: 衝突への序曲 ―小牧・長久手の戦いと末森城の攻防―

中央の戦乱と連動する北陸戦線

天正12年(1584年)、秀吉の覇権に異を唱える織田信長の次男・信雄が、徳川家康と結び挙兵したことで、「小牧・長久手の戦い」が勃発する 5 。この中央での大戦乱は、即座に北陸戦線へと飛び火した。佐々成政は、信雄・家康方に呼応する形で、秀吉方についた前田利家の領国である加賀・能登への侵攻を敢行。北陸は東海戦線と密接に連動した第二戦線としての様相を呈したのである 5 。成政がこの時期、徳川家康やその重臣である大久保忠世と頻繁に書状を交わし、連携を図っていた事実が、その戦略的な意図を明確に物語っている 6

天正12年9月「末森城の戦い」の激闘とその影響

成政は、利家領国の加賀と能登を地理的に分断し、孤立させることを狙い、同年9月、総勢1万5千と号する大軍を率いて能登半島の付け根に位置する戦略的要衝・末森城に殺到した 8 。城を守る兵はわずか数百名。圧倒的な兵力差を背景に佐々軍の猛攻が開始され、城は落城寸前にまで追い込まれた 8

しかし、城将・奥村永福らの鬼気迫る奮戦が、佐々軍の進撃を寸でのところで食い止める。その間に金沢城で急報を受けた前田利家は、自ら2,500の兵を率いて救援に出陣。土地勘のある農民を案内役に立て、佐々軍が警戒していなかった海岸沿いのルートを夜陰に乗じて踏破し、翌朝には末森城を包囲する佐々軍の背後を突くという電撃的な奇襲作戦を敢行した 4 。不意を突かれた佐々軍は混乱に陥り、大軍でありながら敗走を余儀なくされた。

この末森城での手痛い敗北は、成政にとって単なる軍事的な損失以上に、戦略的な主導権を完全に失うという深刻な結果をもたらした。以後、成政は攻勢から守勢へと転じざるを得なくなり、その立場は急速に悪化していく 8

佐々成政の焦燥と政治的孤立の深化

末森城での敗戦からわずか2ヶ月後の天正12年11月、成政にとって最大の衝撃が走る。頼みの綱であった織田信雄と徳川家康が、秀吉と単独で和睦を結んだのである 7 。これにより、秀吉への反抗を続ける成政は、越中一国で完全に孤立無援の状態に陥った。

政治的に万策尽きた成政は、常軌を逸した行動に出る。厳冬期の12月、北アルプスの峻険な山々を自ら踏破し、浜松の家康に面会して再挙を促すという、前代未聞の「さらさら越え」を敢行したのである 7 。この決死の行動は後世に彼の気骨を伝える逸話となったが、家康から具体的な支援を取り付けることはできず、戦略的には全くの失敗に終わった。この時点で、成政は秀吉の圧倒的な政治力と軍事力によって形成された包囲網の中に完全に閉じ込められており、その命運は風前の灯火となっていた。

以下の年表は、本能寺の変から阿尾城の戦いに至るまでの約3年間における、中央と北陸の情勢の連動を概観するものである。

年月

中央の動向(秀吉中心)

北陸の動向(利家・成政中心)

天正10年6月

本能寺の変、山崎の戦い

-

天正11年4月

賤ヶ岳の戦い

前田利家、秀吉方に与す。佐々成政は柴田勝家方として対立。

天正12年3月

小牧・長久手の戦い 勃発

成政、家康・信雄に呼応し、利家領への侵攻を開始。

天正12年9月

-

末森城の戦い。成政率いる佐々軍が利家軍に敗退。

天正12年11月

秀吉、家康・信雄と和睦を締結。

成政、政治的に完全に孤立。利家は成政配下の菊池武勝への調略を開始。

天正12年冬

-

成政、起死回生を図り「さらさら越え」を敢行するも、家康の説得に失敗。

天正13年3月以降

秀吉、紀州征伐・四国征伐を推進し、天下統一事業を加速。

利家、成政への軍事的・政治的圧力を強化。

天正13年5月

-

阿尾城主・菊池武勝、佐々成政を裏切り前田方に離反。

第二章: 運命の城、阿尾城 ―戦略的要衝と城主・菊池武勝の決断―

越中と能登を分かつ地政学的要衝、阿尾城

氷見・阿尾城は、富山湾に鋭く突き出した断崖絶壁の丘陵上に築かれた、天然の要害であった 12 。その立地は、越中から能登へと至る陸路と、富山湾の海上交通の両方を扼する(おさえる)位置にあり、軍事・経済の両面において極めて重要な戦略拠点としての価値を有していた 12

「山を負い海に臨む」という地形は防御に非常に適しており、三方が海に面しているため、陸からの攻撃ルートは極めて限定される。その堅固さから、地元では「攻め落とされたという歴史がない城」と伝えられるほどであった 15 。この傑出した地理的特性こそが、後に繰り広げられる攻防戦の様相を決定づける最大の要因となる。

肥後菊池氏の末裔、菊池武勝の苦悩 ―巨大勢力の狭間で―

この要衝を治めていた城主は、菊池武勝。肥後の名門・菊池一族の末裔を称し、北陸の地に根を下ろした国人領主である 12 。彼のこれまでの経歴は、戦国時代の北陸における勢力図の激しい変遷をそのまま体現していた。当初は越後の上杉謙信に従っていたが、謙信が急逝すると、天下に覇を唱え始めた織田信長に臣従。その後、信長の命により越中に入部した佐々成政の配下として組み込まれていた 13 。これは、巨大勢力の狭間で生き残りを図るために、時々の最大権力者に従わざるを得なかった、戦国期の中小領主の典型的な姿であったと言える。

天正13年5月、人質を見捨てての離反:前田利家の調略と武勝の覚悟

末森城の戦いで軍事的に成政を打ち破った前田利家は、次なる一手として、武力のみならず調略によって佐々家の内部から切り崩す戦略に転換した。その標的となったのが、成政の重臣であり、かつ越中と能登の国境地帯に位置する阿尾城主・菊池武勝であった。利家は末森城の戦いの直後である天正12年11月頃から、武勝に対して密かに接触を開始していた 20

この調略は、武勝にとって究極の選択を迫るものであった。なぜなら、彼は自らの妻子を人質として成政の居城である富山城に差し出していたからである 19 。この状況下で成政を裏切ることは、すなわち家族の生命を犠牲にすることを意味していた。しかし、天正13年(1585年)に入り、秀吉が紀州、四国と立て続けに平定し、その天下が目前に迫る中、武勝はついに決断を下す。同年5月、彼は成政からの離反を決意し、阿尾城に前田勢を迎え入れたのである 19

この菊池武勝の離反は、単なる一武将の裏切りという事象に留まらない、より深い意味を持っていた。それは、佐々成政という大名が、もはや配下の国人領主たちの忠誠を繋ぎとめるだけの将来性、すなわち求心力を完全に失ったことを内外に示す、決定的なシグナルであった。戦国時代において、妻子を人質に取ることは忠誠を保証する最も強力な枷であった。その究極の枷さえもが機能しなくなったという事実は、武勝が「佐々成政と共に滅びる未来」よりも、「家族を犠牲にしてでも前田(秀吉)方について生き残る未来」を選んだことを意味する。彼のこの非情な決断の背景には、末森城での敗北、さらさら越えの失敗、そして秀吉による破竹の勢いでの天下統一事業の進展といった、客観的な情勢分析があったことは間違いない 21 。菊池武勝の裏切りによって、佐々家の崩壊は、もはや誰の目にも明らかなものとなったのである。

第三章: 合戦詳報:氷見・阿尾城の戦い ―天正13年6月、両軍激突の刻―

開戦前夜:菊池離反の報と佐々成政の激怒

天正13年5月、国境の要衝・阿尾城が前田方に寝返ったとの報は、富山城の佐々成政を震撼させ、そして激怒させた。これは単に一城を失ったという軍事的な損失に留まらず、自らの威信を根底から揺るがし、支配体制に楔を打ち込まれたに等しい裏切りであった。成政は即座に阿尾城の奪還を決定。裏切り者・菊池武勝を討伐し、失墜した権威を回復すべく、配下の猛将であり、氷見に近い守山城を本拠とする神保氏張に大軍を率いての出陣を厳命した 19

進軍:神保勢五千、氷見へ向かう

命令を受けた神保氏張は、その子・氏則と共に、同年6月24日頃、約5,000の兵を率いて守山城を出陣。一路、氷見の阿尾城へと進撃を開始した 20 。その軍勢は、菊池氏の動員兵力を遥かに上回るものであり、力でねじ伏せるという成政の強い意志が窺えるものであった。

一方、離反に成功した阿尾城では、前田利家からの援軍が既に到着していた。城代として入城したのは、後に天下にその名を轟かせる「かぶき者」、前田慶次郎(利益)であったと伝えられている 14 。慶次郎を筆頭に、片山延高、高畠定良といった前田家の精鋭たちが、城主である菊池武勝・安信親子と共に籠城の準備を固め、神保軍の来襲を待ち構えていた 20

籠城軍の布陣:二千の兵、天然の要害に拠る

籠城側の兵力は、菊池勢と前田からの援軍を合わせても約2,000に過ぎず、数においては神保軍の半分以下であった 20 。しかし、彼らには阿尾城という鉄壁の要害があった。三方を断崖絶壁の海に囲まれ、陸からの攻撃ルートは極めて狭隘。前田・菊池連合軍は、この絶対的な地形的優位を最大限に活用した防御陣を敷き、少数ながらも敵の大軍を迎え撃つ態勢を整えた。

以下の表は、これから始まる戦闘における両軍の勢力を比較したものである。

陣営

佐々軍(攻撃側)

前田・菊池連合軍(防御側)

総大将

佐々成政(富山城より指揮)

前田利家(金沢城より後詰)

現地指揮官

神保氏張、神保氏則

菊池武勝、菊池安信、前田慶次郎、片山延高、高畠定良

兵力

約5,000

約2,000(菊池勢・前田援軍の合計)

拠点

守山城

阿尾城

戦略目標

阿尾城の奪還、裏切り者の懲罰

阿尾城の死守、佐々軍の撃退

攻防の開始と推移:神保軍の猛攻と鉄壁の守り

氷見に到着した神保軍は、間髪入れずに阿尾城への総攻撃を開始した。数に任せた波状攻撃を幾度となく仕掛け、城を攻め立てたものと推測される。しかし、阿尾城の堅固な守りと、城兵の高い士気に阻まれ、攻め手はいたずらに損害を重ねるばかりであった。限定された攻撃路では、神保軍はその兵力的な優位性を十分に発揮することができず、城壁に取り付くことさえ困難を極めた 19 。籠城側は、前田慶次郎らの巧みな指揮の下、効果的な反撃を繰り返し、神保軍をことごとく撃退した。史料によっては、村井長頼が率いる前田方の別動隊が側背を突く動きを見せるなど、前田方が複数の部隊を連携させて神保軍に対応した様子も伝えられている 20

決着と撤退:神保軍の敗走と背後での異変

数日にわたる攻防の末、神保軍はついに阿尾城を攻略することができず、攻城戦は膠着状態に陥った。さらに悪いことに、この戦いで神保氏張は嫡男の氏則を失うという痛恨の打撃を被る 20 。そして、戦いの趨勢を決定づける、ある衝撃的な報せが氏張の陣中に届く。

それは、氏張が主力を率いて阿尾城に出撃し、本拠である守山城が手薄になった隙を突き、城内で前田方に内応した者による謀反が勃発したというものであった。この謀反によって、留守を預かっていた氏張の父・神保氏重が討ち取られたというのである 20 。背後の拠点を失い、家督の象徴である父を殺害されたことで、神保氏張は阿尾城の攻撃を継続することが完全に不可能となった。彼は断腸の思いで阿尾城の包囲を解き、混乱する自領へと撤退していった。

この阿尾城の戦いの勝敗を決したのは、単に城の堅固さや籠城兵の奮戦だけではなかった。その背後には、前田利家の周到な戦略が存在した。敵の主力が一つの目標に集中している隙を突き、その本拠地で調略を用いて内乱を誘発するという、「戦場の外」における戦術が決定的な役割を果たしたのである。これは、利家が単なる勇猛な武人ではなく、情報戦や心理戦にも長けた、極めて優れた戦略家であったことを雄弁に物語っている。利家は、阿尾城の籠城戦を、敵主力を引きつけておくための「防波堤」として機能させつつ、水面下では敵の本拠地を内部から崩壊させるという、二段構えの作戦を遂行していた。この戦いは、目に見える物理的な戦闘と、水面下で進められた諜報戦とが一体となった、複合的な作戦の輝かしい成果だったのである。

第四章: 戦後処理と「富山の役」への道

阿尾城の戦いがもたらした直接的影響

氷見・阿尾城の戦いは、佐々成政にとって致命的な敗北となった。越中西部の国境地帯における重要な戦略的足がかりを完全に失っただけでなく、長年にわたり佐々家を支えてきた重臣・神保氏の家中が内乱によって著しく混乱し、その勢力が大きく減退したことは、佐々家の軍事力を内部から著しく弱体化させる結果となった 20

この敗北は、成政の威信を回復不可能なまでに失墜させた。家臣の裏切りを鎮圧できず、逆に返り討ちに遭ったという事実は、もはや成政に天下の趨勢に抗う力がないことを天下に知らしめた。そして、この一連の出来事は、天下人・羽柴秀吉に「成政討つべし」との最終的な口実と、征伐を実行する大義名分を与えることになったのである。

菊池武勝の処遇と前田家の北陸における勢力基盤の確立

戦後、命がけの離反を成功させた菊池武勝は、その功績を前田利家から高く評価された。利家は武勝に対し、阿尾城の所有権を安堵すると共に、一万石の知行を保証した 13 。これにより、菊池氏はその存続を許され、以後、加賀藩の家臣として前田家に仕えることとなる 13 。この処遇は、利家が味方した者を厚く遇することを示す好例となり、佐々成政の支配下で将来に不安を抱いていた他の越中の国人領主たちに対し、前田方へ寝返ることを促す強力なメッセージとなったであろう。

天正13年8月、秀吉による越中平定戦「富山の役」と佐々成政の降伏

阿尾城の戦いから約2ヶ月後の天正13年8月、羽柴秀吉は満を持して越中征伐、世に言う「富山の役」を開始する。秀吉自らが率いたその軍勢は10万という空前の大軍であり、天下の威勢を示すための示威行動でもあった 5 。前田利家も1万の兵を率いてその先鋒を務めた 5

秀吉軍は加賀から越中へと進撃し、国内の諸城を次々と攻略、瞬く間に成政の居城・富山城を包囲した 23 。越後の上杉景勝も秀吉に呼応して出兵し、成政は完全に袋の鼠となった。成政は富山城に籠城して最後の抵抗を試みるも、圧倒的な兵力差の前には為すすべもなく、最終的には旧主君である織田信雄の仲介を受け入れ、秀吉に降伏した 5 。阿尾城の戦いにおける敗北が、成政の抵抗力を最後のところで削ぎ、この最終的な降伏への道を決定づけたと言っても過言ではない。

終章: 阿尾城の戦いが歴史に残した意味

天下統一過程における一地方合戦の意義

氷見・阿尾城の戦いは、その規模だけを見れば、戦国時代に数多あった局地戦の一つに過ぎないかもしれない。しかし、羽柴秀吉による天下統一という、日本の歴史における大きな転換点の中に位置づけることで、その重要性が鮮やかに浮かび上がってくる。この戦いは、秀吉という新たな巨大権力が地方の勢力図を急速に塗り替えていく過程で、菊池武勝のような中小領主がいかにして生き残りをかけて激動の時代を泳ぎ渡ったか、そして佐々成政のように旧来の秩序と価値観に固執した大名がいかにして没落していったかを示す、極めて象徴的な事例である。

佐々成政の没落を決定づけた一因としての評価

佐々成政の没落過程において、この戦いが果たした役割は決定的であった。天正12年の末森城の戦いが、成政の攻勢を挫き、その軍事的野心を打ち砕いた「第一の打撃」であったとすれば、天正13年の阿尾城の戦いは、彼の家臣団の結束を崩壊させ、その支配体制を内側から蝕んだ「第二の、そして致命的な打撃」であった。この二つの敗北が、織田信長の下で勇名を馳せた猛将・佐々成政の運命を完全に決定づけたのである。

前田家百万石の礎を築いた戦いとしての側面

一方で、勝者である前田家にとって、この戦いは輝かしい成功の歴史の一頁となった。阿尾城での勝利により、前田家は越中への影響力を確固たるものとし、佐々成政という長年の脅威を排除することに成功した。「富山の役」の後、越中の大部分が利家の嫡男・利長に与えられたことを見ても 21 、阿尾城での勝利が、後の加賀百万石という広大な領国を形成する上で、極めて重要な布石であったと評価できる。

また、この戦いが前田家の歴史の中で長く記憶され、語り継がれていったことは、いくつかの伝承からも窺い知ることができる。前田慶次郎が城代として活躍したという逸話は、彼の破天荒なイメージと共に後世の創作物に大きな影響を与えた 14 。さらに、後に前田家が金沢城下に卯辰八幡宮を創建する際、阿尾城内にあった榊葉乎布神社の分霊を勧請したという伝承は 14 、この地が前田家にとって特別な意味を持つ場所であったことを示唆している。氷見の小さな城を巡る一戦は、北陸の覇権を決定づけ、新たな時代の到来を告げる重要な一里塚だったのである。

引用文献

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  2. 末森城の戦いは前田家の運命を決めた!前田利家 VS 佐々成政とその後 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/14388/
  3. 安土桃山時代 | GOOD LUCK TRIP - 好運日本行 https://www.gltjp.com/ja/directory/item/14156/
  4. 16 「前田利家 VS 佐々成政」 - 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/16.html
  5. 前田利家の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38366/
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  10. 末森城 : 佐々成政vs前田利家「末森合戦」舞台の城。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2016/11/24/suemori/
  11. 佐々成政の居城「富山城」の歴史と巨石「鏡石」 https://sengoku-story.com/2019/05/22/sengoku-trip-etsuhi0002/
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  17. 阿尾城 ~海に突き出した断崖に守られた鉄壁の城~ | 城なび https://www.shiro-nav.com/castles/aojou
  18. 菊池武勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E5%8B%9D
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  21. 1585年 – 86年 家康が秀吉に臣従 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1585/
  22. 阿尾城跡 - きときとひみどっとこむホームページ https://www.kitokitohimi.com/site/tourism-guide/284.html
  23. 富山の役 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%BD%B9