沼田城争奪戦(1580年代)
天空の要塞を巡る十年戦争:日本の戦国時代における沼田城争奪戦(1580年代)の詳細分析
序章:天空の要塞、沼田城 ― なぜ争奪の的となったのか
戦国時代の日本において、一つの城が国家の命運を左右し、時代の終焉を告げる引き金となることがある。上野国(現在の群馬県)に位置する沼田城は、まさにそのような存在であった。1580年代、この城の領有権を巡って繰り広げられた真田氏と北条氏の激しい攻防は、単なる局地的な領土紛争にとどまらず、関東の覇権、ひいては天下統一の行方をも左右する重大な意味を持っていた。本報告書は、この「沼田城争奪戦」の全貌を、合戦のリアルタイムな状況が浮かび上がるよう時系列に沿って詳述し、その歴史的意義を徹底的に分析するものである。
沼田城の地理的特性と戦略的重要性
沼田城がこれほどまでに争奪の的となった根源的な理由は、その比類なき地理的・軍事的価値にある。城は、利根川、薄根川、片品川が三方で合流する地点の河岸段丘上に築かれていた 1 。特に川に面した側は約70メートルもの断崖絶壁をなし、天然の要害を形成していた 2 。この地形は、攻める者にとっては悪夢であり、守る者にとっては絶大な恩恵をもたらす。
しかし、沼田城の価値は単なる堅城である点にとどまらない。より大局的に見れば、この地は関東平野、越後、信濃、会津を結ぶ街道が交差する交通の要衝であった 3 。越後から関東へ南下する上杉氏にとって、沼田は関東侵攻の橋頭堡であり、逆に関東から越後を窺う北条氏にとっては、北進を阻む最大の障壁であった。また、甲信から上野国への進出を図る武田氏にとっても、この地は北関東支配の鍵を握る戦略拠点であった。すなわち、沼田城は単なる一つの城ではなく、関東、信越、東北という三大地域の勢力均衡を左右する「地政学的な枢軸(ピボット)」としての役割を担っていたのである。この城の支配権が移ることは、北関東全体の勢力図が塗り替わることを意味し、周辺の大国がその領有に固執するのは必然であった。
1580年までの支配権の変遷と真田昌幸の台頭
沼田城は天文元年(1532年)、この地を治めていた沼田氏によって築かれた 4 。当初、沼田氏は関東管領・上杉氏に属していたが、相模の後北条氏が関東へ勢力を拡大すると、一族は上杉方と北条方に分裂し、内紛状態に陥った 3 。この混乱に乗じ、上杉、北条、そして武田の三者が介入し、沼田の地は激しい争奪戦の舞台となった 2 。
この状況に決定的な変化をもたらしたのが、武田信玄配下の智将・真田昌幸であった。天正6年(1578年)、上杉家で後継者争いである「御館の乱」が勃発すると、武田勝頼は上杉景勝との間に甲越同盟を締結。その見返りとして上野国への自由な進出権を獲得した 6 。この武田家の戦略に基づき、天正8年(1580年)、昌幸は沼田城攻略の任を帯びる。彼は武力だけに頼らず、調略を駆使して城代の金子泰清らを内応させ、叔父である猛将・矢沢頼綱の軍勢を進駐させることで、沼田城を無血で開城させた 7 。これにより、沼田領は武田氏の支配下に入り、真田氏がその実質的な管理者となった 4 。
この一連の動きは、単に武田家臣としての一武功にとどまるものではなかった。昌幸は攻略後、北条氏の支援を受けて抵抗を試みた旧沼田氏の残党・沼田景義を謀略によって完全に排除し 7 、沼田城には最も信頼する叔父の矢沢頼綱を城代として配置した 10 。これは、主家である武田家の権威が揺らぎ始めていた当時、その命令を遂行しつつも、来るべき動乱の時代を見据え、吾妻郡の岩櫃城から利根郡の沼田城にわたる真田氏独自の勢力圏を確立するという、独立への布石であった。
第一章:激動の天正十年(1582年) ― 権力の真空地帯と化した上野国
天正10年(1582年)は、日本の歴史が大きく転換した年である。この年の激動は、沼田城を巡る情勢を一変させ、真田昌幸という稀代の戦略家を歴史の表舞台へと押し上げた。
武田氏滅亡と織田統治の崩壊
年の初め、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐が開始され、3月には名門・武田氏が滅亡する。戦後の論功行賞により、上野国一国と信濃の一部は織田家の重臣・滝川一益に与えられた 11 。一益は厩橋城(現在の前橋市)を本拠とし、関東管領を称して関東の統治に乗り出す。沼田城も例外ではなく、真田昌幸は城を一益の甥である滝川益重に明け渡した 11 。
しかし、この織田による新たな支配体制は、あまりにも短命に終わる。6月2日、京都で本能寺の変が勃発し、織田信長が横死。この報が関東に伝わると、織田という巨大な権力の傘を失った一益の支配は瞬時に瓦解した。旧武田領は再び主無き地となり、北条、上杉、徳川という隣接する大国が、この権力の真空地帯を埋めるべく一斉に行動を開始した。世に言う「天正壬午の乱」の開幕である 9 。
変報に接し、いち早く動いたのは相模の北条氏であった。北条氏直・氏政親子は5万ともいわれる大軍を率いて上野国に侵攻。滝川一益は関東の国人衆をかき集めて迎撃するも、6月19日の神流川の戦いで大敗を喫する 11 。命からがら上野国を脱出した一益は、信濃を経由して本国伊勢へと敗走していった。
真田昌幸の外交的乱舞
中央権力が消滅し、三つの大国が領土を奪い合う無秩序なパワーゲームが始まった中で、真田昌幸はその真価を発揮する。彼の所領は、北条、上杉、徳川の勢力圏が接するまさに最前線に位置しており、真っ先に併呑されてもおかしくない危険な状況にあった 14 。この絶体絶命の危機に対し、昌幸は目まぐるしく主君を変えることで自領の保全を図るという、極めて高度なリアルタイム戦略を展開した。
敗走する滝川一益は、撤退に際して沼田城を真田昌幸に引き渡した 15 。実効支配を回復した昌幸は、まず北から迫る上杉景勝の脅威を回避するため、6月末には上杉氏への服属を申し出る 15 。しかし、7月に入り、神流川の戦いに勝利した北条氏直が信濃へ侵攻してくると、今度は一転して北条氏に臣従。北条軍の先鋒として行動し、その信頼を得ようと努めた 15 。
だが、昌幸の目は常に状況全体を冷静に観察していた。甲斐で北条軍と対峙していた徳川家康が、旧武田家臣の依田信蕃を通じて昌幸に接触し、所領安堵を条件に味方になるよう調略を仕掛けてきたのである 12 。この時期、旧武田家臣団という「人材ネットワーク」の争奪戦が、領土問題と並行して繰り広げられていた。武田家という共通の出自を持つ者同士の繋がりは、新たな主従関係を構築する上で強力な武器となった。家康はこの人的遺産を巧みに利用し、昌幸のような有力な将を味方に引き入れようとしたのである。
昌幸はこの家康の誘いに応じた。9月、彼は再び所属を変え、北条氏を離反して徳川方へと寝返る 15 。そして、ただ寝返るだけでなく、10月には徳川方として碓氷峠を占領し、信濃に展開する北条軍本隊の補給路を断つという決定的な軍功を挙げた 15 。
この一連の動きは、単なる日和見主義や裏切り行為とは一線を画す。それは、小勢力が生き残るために、大国間の対立構造という力学を巧みに利用し、その時々で最も有利な条件を引き出しながら、自らの存在価値を最大限に高めていく能動的な生存戦略であった。昌幸は、大国の論理に翻弄される客体ではなく、むしろ彼らを翻弄する主体として、独立大名への道を切り拓いていたのである。
表1:天正十年(1582年)における真田昌幸の外交的変遷
時期 |
出来事 |
所属勢力 |
目的・背景 |
~6月初旬 |
武田氏滅亡、本能寺の変 |
織田(滝川一益) |
織田政権下での所領安堵 |
6月13日 |
滝川一益より沼田城を受領 |
独立 |
権力の真空状態を利用した実効支配の確保 |
6月末 |
上杉景勝に服属を申し出 |
上杉 |
北上する上杉軍の脅威を回避 |
7月9日 |
北条氏直に服属 |
北条 |
信濃へ侵攻する北条軍の脅威を回避し、先鋒として信頼を得る |
9月 |
徳川家康の調略に応じる |
徳川 |
北条への従属からの脱却と、より有利な条件での所領安堵 |
10月 |
碓氷峠を占領 |
徳川 |
徳川方としての軍功を挙げ、新たな主従関係を確固たるものにする |
第二章:徳川・北条の密約と真田の孤立(1583年~1585年初頭)
天正壬午の乱は、天正10年(1582年)10月末、徳川家康と北条氏直の和睦によって一応の終結を見る。しかし、この和睦は、沼田城を巡る新たな、そしてより深刻な紛争の始まりを意味していた。
徳川・北条の和睦と「沼田領割譲」密約
徳川と北条の和睦交渉において、最大の焦点の一つが領土の線引きであった。最終的に、甲斐・信濃は徳川領、上野国は北条領とすることで合意が成立した 17 。この取り決めは、徳川家康の娘・督姫が北条氏直に嫁ぐという同盟強化策とセットになっていた 18 。問題は、北条領とされた上野国には、徳川方についたばかりの真田昌幸が実効支配する沼田領が含まれていたことである。家康は、北条との和睦を優先するため、昌幸の頭越しに、沼田領を北条氏が「切り取り次第(自由に攻略してよい)」とすることを認めてしまった 16 。
この決定は、戦国末期の主従関係のあり方を巡る、根本的な価値観の対立を露呈させることになる。家康の論理は、伝統的な封建的主従関係に基づいていた。すなわち、主君(寄親)である家康は、家臣である昌幸の所領全体の安堵を保証する代わりに、その一部を外交の駒として差配する権利がある、という考え方である。
昌幸の抵抗と徳川からの離反
和睦成立と同時に、北条氏は約束通り沼田領への侵攻を開始した 17 。そして天正11年(1583年)5月、家康は昌幸に対し、沼田城を北条氏へ引き渡すよう正式に命令を下した 21 。
しかし、昌幸はこの命令を断固として拒絶する。彼の論理は、実力主義が支配する戦国乱世の現実を色濃く反映していた。「沼田は元来、真田が独力で確保し、守り抜いた領地であり、徳川から拝領したものではない」 18 。この言葉は、沼田領有の正統性が、主君からの恩恵(恩顧)ではなく、自らの血と知略による獲得という「事実」にあるという強烈な自負の表明であった。これは単なる命令不服従ではなく、昌幸が自らを徳川家の一家臣ではなく、独立した領主(大名)であると宣言するに等しい行為であった。
家康は代替地として信濃伊那郡などを提示し、昌幸を懐柔しようと試みたが、彼は一切応じなかった 18 。度重なる要求を拒否し続けた昌幸は、ついに徳川との手切れを決意する 22 。天正13年(1585年)、徳川・北条という二大勢力に単独で対抗するのは不可能と判断した昌幸は、生き残りを賭けて外交方針を大転換させる。彼は再び越後の上杉景勝に接触し、次男の信繁(後の幸村)を人質として差し出すことで臣従を誓った 19 。
この一連の動きは家康を激怒させ、ついに真田討伐軍の派遣を決意させるに至る。家康が沼田領を北条に譲渡するという短期的な和平を優先した判断は、結果として真田という極めて有能な将を敵に回し、無用な戦いを引き起こすという長期的な不利益をもたらした。これは、家康が昌幸という人物の執着心と戦略的能力を過小評価していた、一つの戦略的判断ミスであった可能性も指摘できる。
第三章:二正面作戦 ― 第一次上田合戦と沼田城防衛戦(1585年~1586年)
徳川からの離反と上杉への臣従という真田昌幸の決断は、不可避的に軍事衝突を招いた。天正13年(1585年)、徳川と北条は東西から真田領に侵攻し、真田氏はその存亡を賭けた二正面作戦を強いられることになった。
第一次上田合戦:智略による圧勝
同年閏8月、徳川家康は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉といった歴戦の重臣たちを大将とする約7,000の討伐軍を、昌幸の本拠地・上田城へ派遣した 24 。対する真田軍は、上田城に籠もる昌幸の兵を中心に、わずか2,000足らずであった 26 。
兵力で圧倒的に劣る昌幸は、巧みな籠城戦術でこの大軍を迎え撃つ。彼はまず、少数の兵でおびき寄せる作戦をとり、徳川軍を上田城の二の丸まで深く引き入れた 24 。敵が完全に城内に入ったと見るや、城内に潜ませていた伏兵が一斉に鉄砲を撃ちかけ、反撃に転じた。さらに、支城である戸石城に配置していた嫡男・信幸の部隊が徳川軍の背後を突き、挟撃する 28 。
不意を突かれ、混乱に陥った徳川軍は退却を開始するが、昌幸の策はまだ終わらない。敗走する徳川軍を千曲川の支流である神川まで追撃し、あらかじめ堰き止めておいた川の水を一気に放流した 24 。増水した川に行く手を阻まれた徳川兵は次々と溺れ、真田軍の追撃もあって壊滅的な打撃を受けた。この戦いで徳川方の死者は1,300人以上にのぼった一方、真田方の損害はわずか40人ほどであったと伝えられている 24 。
沼田城防衛戦:老将の奮戦
徳川軍の上田城攻撃と完全に呼応し、東からは北条氏直率いる大軍が沼田城に殺到した 19 。これは、真田を東西から挟撃し、一挙に滅ぼそうとする徳川・北条間の連携作戦であった。
この東の戦線を任されたのが、昌幸の叔父であり、真田一族の宿老である矢沢頼綱であった 10 。頼綱は、数で勝る北条軍の猛攻に対し、沼田城の断崖絶壁という地形的利点を最大限に活用し、鉄壁の防衛戦を展開した。北条軍は波状攻撃を仕掛けたが、頼綱の巧みな指揮の前にことごとく撃退され、多大な損害を出して撤退を余儀なくされた 31 。翌天正14年(1586年)5月にも北条氏による再度の攻撃があったが、これも撃退に成功している 19 。
この上田・沼田両面での完全勝利は、真田昌幸個人の智略だけでなく、矢沢頼綱という絶対的な信頼を置ける宿将に重要拠点の防衛を完全に委任するという、彼の卓越した戦略眼と組織運営能力の賜物であった。この一戦を通じて、精強で知られる徳川軍と関東の覇者・北条軍を同時に撃退した「真田昌幸」の名は天下に轟き、彼は小大名の立場ながらも、天下の情勢に影響を与える独立したプレイヤーとして、誰もが認めざるを得ない存在となったのである 22 。
第四章:天下人・豊臣秀吉の介入と「沼田裁定」(1587年~1589年)
第一次上田合戦の勝利により、真田昌幸は自らの武名と独立性を内外に示したが、沼田領を巡る北条氏との紛争は依然として燻り続けていた。この膠着状態を最終的に動かしたのは、天下統一を目前にした豊臣秀吉の強大な権力であった。
豊臣政権の成立と「惣無事令」
第一次上田合戦の後、昌幸は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従し、豊臣大名の一員としてその体制下に組み込まれた 19 。一方、秀吉は天下統一事業の総仕上げとして、全国の大名に対し、私的な領土紛争を禁じる「惣無事令」を発布した 32 。これは、すべての領土問題の裁定権が秀吉自身にあることを宣言するものであり、戦国時代的な実力行使による領土拡大を否定する、新たな秩序の表明であった。
秀吉は関東の最大勢力である北条氏にも服属と上洛を再三にわたり要求した。しかし、北条氏はこれを拒み続け、その口実として長年続く真田氏との沼田領問題の解決を条件として提示した 33 。これは、秀吉の権威を認めつつも、交渉を長引かせることで有利な条件を引き出そうとする北条氏の外交戦術であった。
秀吉による「沼田裁定」
天正17年(1589年)、北条氏の遅延戦術に業を煮やした秀吉は、自らこの問題に裁定を下すことで事態の打開を図る。この裁定は、単に領土問題を解決するためのものではなく、北条氏が上洛しない言い訳を封じ、服従か対決かの二者択一を迫るための、極めて政治的な取引であった。
同年7月、秀吉の使者である津田盛月と富田一白、そして徳川家の重臣・榊原康政が現地に派遣され、裁定が執行された 34 。その内容は、北条氏に大きく配慮したものであった。
- 沼田領の三分の二、沼田城を含む利根川東岸などを北条氏に引き渡す。
- 残りの三分の一、名胡桃城を含む利根川西岸の一部は真田氏の領地として安堵する。
- 真田氏が失う領地の補償として、寄親である徳川家康が信濃伊那郡に代替地を与える 9 。
この裁定に対し、昌幸は自ら血を流して守り抜いた沼田城を明け渡すことに大きな不満を抱いたが、天下人である秀吉の命令に逆らうことはできず、これを受け入れた 36 。一方の北条氏も、全沼田領の獲得という本来の要求が通らなかった点に不満はあったものの、裁定を受け入れることで上洛の意思を示した 37 。7月、沼田城は真田氏から北条氏へと引き渡され、北条家臣の猪俣邦憲が新たな城代として入城した 34 。
秀吉の裁定は、表面的には長年の紛争に終止符を打ったかのように見えた。しかし、物理的な国境線を確定させた一方で、両者の心理的な不満を増幅させるという逆説的な結果をもたらした。沼田城(北条領)と名胡桃城(真田領)は、互いに目と鼻の先で睨み合う最前線となり 9 、偶発的な衝突のリスクを極めて高める、危険な火種を残すことになったのである。
第五章:導火線 ― 名胡桃城事件と北条氏の滅亡(1589年~1590年)
豊臣秀吉による「沼田裁定」は、平和的解決とは名ばかりの、一触即発の緊張状態を生み出した。そして、その火種は裁定からわずか数ヶ月後に、天下を揺るがす大事件となって爆発する。
名胡桃城奪取事件
天正17年(1589年)10月下旬、北条方の沼田城代・猪俣邦憲が、真田領である名胡桃城の謀略的奪取を敢行した 39 。猪俣は、名胡桃城主・鈴木主水重則の家臣を内応させ、偽の書状を用いて重則を城外におびき出すことに成功する 34 。主が不在となった城へ、猪俣の軍勢は難なく入城し、名胡桃城を占拠した 9 。
謀略を察知して急ぎ引き返した鈴木重則であったが、時すでに遅く、城は敵の手に落ちていた。彼は自らの不覚を恥じ、城を守れなかった責任を取るため、沼田の正覚寺において自刃して果てた 32 。
この事件が、単なる国境での小競り合いで終わらなかったのは、それが秀吉の裁定、すなわち天下の公儀を公然と踏みにじる行為であったからである。真田昌幸は事件の顛末を、寄親である徳川家康を通じて直ちに秀吉に報告した 42 。
秀吉の激怒と小田原征伐の発令
報告を受けた秀吉は激怒した。彼にとって、この事件は自らの権威と、彼が築き上げようとしていた「惣無事令」という新たな秩序に対する明白な挑戦であった 32 。11月、秀吉は北条氏に対し、「猪俣邦憲を処罰しない限り、たとえ氏政が上洛しても許さない」という最後通告を突きつけ、同時に全国の諸大名に来春の北条討伐を命じる陣触れを発した 34 。
この事件の真相が、猪俣邦憲個人の功名心による暴走であったのか、あるいは北条氏上層部の指示や黙認があったのかは、今なお議論が分かれている。しかし、いずれにせよ、事件後の北条氏の対応は致命的であった。氏直は「名胡桃城は真田方から引き渡されたものであり、奪ってはいない」などと事実と異なる弁明に終始し、猪俣を即座に処罰して秀吉に謝罪するという選択をしなかった 32 。
この対応は、北条氏が秀吉の構築した新たな天下の秩序の重みを全く理解できず、旧来の関東における「実力による領土拡大」という行動原理から脱却できなかったことを示している。彼らが「国境紛争」と捉えていた事態を、秀吉は「天下への反逆」と捉えていた。この致命的な認識のズレが、北条氏の運命を決定づけた。名胡桃城事件は、秀吉にとって北条氏を討伐するための、まさに待望の口実となったのである 43 。
天正18年(1590年)、秀吉は20万を超える大軍を動員し、天下統一最後の戦いである小田原征伐を開始する。数ヶ月にわたる包囲の末、難攻不落を誇った小田原城は開城し、早雲以来五代百年にわたり関東に君臨した戦国大名・後北条氏は滅亡した 43 。
戦後、沼田領全域は、一連の事件における真田氏の功績を認める形で安堵され、名実ともに関東における真田氏の拠点となった 37 。一つの小城を巡る事件が、戦国時代最後の巨大勢力を滅亡させ、天下統一を完成させる直接の引き金となった。沼田城争奪戦は、ここにその終幕を迎えたのである。
終章:沼田城争奪戦が残したもの
1580年代を通じて繰り広げられた沼田城争奪戦は、真田氏と北条氏という二つの家の運命を大きく左右しただけでなく、戦国時代そのものの終焉を象徴する重要な歴史的プロセスであった。
この約10年間にわたる攻防を耐え抜き、最終的に沼田領全域を確保したことで、真田氏は信濃小県郡と上野利根・吾妻郡にまたがる独立大名としての地位を不動のものとした 22 。特に、徳川・北条という二大勢力を相手に一歩も引かず、第一次上田合戦と沼田城防衛戦で軍事的勝利を収めたことは、真田の武名を天下に轟かせ、豊臣政権下での発言力を確保する上で決定的な意味を持った。真田昌幸の真骨頂は、単なる戦の強さだけでなく、常に複数の外交的選択肢を保持し、軍事的勝利を政治的優位へと転換させる、軍事と外交を両輪として駆使する能力にあった。
同時に、この争奪戦の帰結は、時代の大きな転換点を明確に示している。戦国時代を通じて、大名間の国境線は実力支配によって常に変動する曖昧なものであり、沼田領はその典型であった。この問題を解決しようとした徳川・北条の密約や豊臣秀吉の裁定は、曖昧な国境を権力によって人為的に「線引き」しようとする試みであったが、在地領主の抵抗や現場の暴走によって容易に破綻した。最終的に、小田原征伐という圧倒的な軍事力による「強制執行」を経て、初めて沼田領の帰属が確定した。これは、近世的な「国」の境界が、戦国的な実力行使から、中央集権的な権力による公的な画定へと移行していく、日本史の大きな転換点を象徴している。
小田原征伐後、関東には徳川家康が移封され、真田昌幸の長男・信幸は徳川配下として沼田領2万7千石の領主となった 3 。彼は沼田城に五層の天守を築くなど、城と城下町の発展に尽力した 22 。その後の関ヶ原の戦いでは、父・昌幸と弟・信繁(幸村)が西軍、信幸が東軍に属するという苦渋の決断を下すが、この沼田領の安堵と、徳川家との縁が、最終的に真田家の家名を近世大名として存続させる上で、極めて重要な役割を果たすことになるのである。
天空の要塞・沼田城を巡る十年戦争は、一地方の領土紛争が、いかにして天下の動向と結びつき、歴史を動かす力となり得るかを示す、劇的な実例として歴史に刻まれている。
引用文献
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- 116.沼田城 その1 - 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) https://jpcastles200.com/2025/05/07/116numata01/
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- 『加沢記』からみた真田氏の自立 - 高崎経済大学 http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/54_3/tomizawasato.pdf
- 【群馬県】沼田城の歴史 並み居る戦国大名が争奪戦を繰り広げた要衝 https://sengoku-his.com/1953
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- 兵力2000の真田軍が7000の徳川軍を撃破!大河ドラマ「真田丸」でも描かれた第一次上田合戦の勝利の秘密は地形にあった! | 株式会社 学研ホールディングスのプレスリリース - PR TIMES https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000666.000002535.html
- 家康を苦しめた戦国屈指の食わせ者・真田昌幸 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12008/
- 「第一次上田城の戦い(1585年)」真田勢は寡兵ながら、なぜ徳川勢を撃退できたのか https://sengoku-his.com/458
- 【合戦図解】第一次上田合戦 ~罠には嵌る徳川軍!冴えわたる真田昌幸の戦略~ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5iA4rwrPNY8
- 秀吉による沼田領問題の裁定 - 櫛渕史研究会 - Ameba Ownd https://kushibuchi.amebaownd.com/posts/6109112/
- 小田原の役古戦場:神奈川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/odawara/
- 「北条氏直」実権は父氏政にあったという北条氏最後の当主。最終的に秀吉の旗本家臣に? https://sengoku-his.com/340
- 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
- 【沼田領の分割裁定】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096200
- 沼田城と真田氏関係の事項 天文 元 1532 沼田顕泰 このころ https://www.city.numata.gunma.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/010/399/sanadanosato.pdf
- 「沼田領の裁定(1589年)」とは? 北条と真田の沼田領問題に秀吉が裁定を下す! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/460
- 臣従したはずなのに…なぜ秀吉は北条氏討伐に踏み切った?沼田領問題から名胡桃城奪取事件 https://fujinkoron.jp/articles/-/9733?display=full
- 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
- 鈴木重則 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/SuzukiShigenori.html
- 【名胡桃城】小田原討伐の原因となった城/続日本100名城/KEIのお城写真館 https://kei429.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
- 名胡桃城- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%90%8D%E8%83%A1%E6%A1%83%E5%9F%8E
- 名胡桃城と小田原の役 https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/080099.html
- 名胡桃城 ~戦国時代が終わるきっかけを作った真田の城 https://sengoku-yamajiro.com/archives/115_nagurumijo-html.html
- 名胡桃城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%83%A1%E6%A1%83%E5%9F%8E