最終更新日 2025-09-06

海部城の戦い(1585)

日本の戦国時代史観に基づく「海部城の戦い(1585年)」に関する詳細調査報告書

序章:天下統一の奔流と四国の孤狼

天正十年(1582年)6月、本能寺の変によって織田信長が非業の死を遂げたことで、日本の政治情勢は激動の時代を迎えた。この混乱を好機として、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は驚異的な速度で台頭し、明智光秀、柴田勝家といった織田家の宿老を次々と討ち破り、天下統一事業の継承者としての地位を固めていった 1 。秀吉の構想する「天下」とは、日本全土を単一の中央集権的秩序の下に統合することであり、その事業は各地に割拠する独立勢力を服属させる過程そのものであった。

時を同じくして、四国においては「土佐の出来人」と称された長宗我部元親が、その勢威を絶頂にまで高めていた。天正三年(1575年)に土佐を統一すると、その矛先は阿波、讃岐、伊予へと向けられ、破竹の勢いで版図を拡大 2 。そして、秀吉が四国征伐の軍を起こす直前の天正十三年(1585年)春、伊予の河野氏を降伏させ、遂に四国統一という積年の大願を成就させたのである 4

ここに、二つの異なる秩序が正面から衝突する運命が定まった。秀吉の中央集権化を目指す「天下」と、元親が築き上げた独立王国ともいえる「四国」は、本質的に相容れないものであった。信長存命中は、元親もその権威を利用して四国平定を進めていたが 1 、信長死後の政治的空白に乗じて四国全土を完全に掌握した行為は、秀吉の目には中央政権への明確な挑戦と映った。さらに、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、元親は徳川家康と連携し、秀吉の背後を脅かす動きを見せており、秀吉にとって元親は天下統一事業における明確な「障害」として認識されるに至った 4

秀吉は当初、元親に臣従を求め、外交交渉による解決を模索した。具体的には、元親が新たに獲得した讃岐・伊予両国の返還を要求したが、四国統一を成し遂げたばかりの元親と、徹底抗戦を叫ぶ家臣団がこれを容易に受け入れるはずもなかった 2 。元親は伊予一国の返還を条件に妥協点を探ろうとしたものの、秀吉はこれを一蹴 5 。ここに交渉は完全に決裂し、天正十三年(1585年)6月、秀吉は四国征伐の大号令を発する。

この軍事行動に先立ち、秀吉は周到な布石を打っていた。四国征伐の直前、紀州を攻略し、長宗我部氏と強力な同盟関係にあった根来衆・雑賀衆といった傭兵集団を壊滅させていたのである 6 。これにより、元親は外部からの支援を期待できない、完全に孤立した状態で、秀吉の圧倒的な大軍を迎え撃つこととなった。本報告書で詳述する「海部城の戦い」は、この巨大な軍事・政治的奔流の中で起きた、一つの象徴的な出来事であった。

第一章:海部城、土佐と阿波の境界に立つ要衝

この物語の舞台となる海部城は、阿波国(現在の徳島県海部郡海陽町)の最南端、海部川が紀伊水道に注ぐ河口部に位置する平山城である 7 。築城当時は周囲を川が巡る島状の地形であり、天然の要害をなしていたと伝わる 7 。その地理的条件は、海部城に極めて重要な戦略的価値を与えていた。土佐国との国境に接し、土佐から阿波への侵攻経路を扼する陸路の要衝であると同時に、太平洋と瀬戸内海を結ぶ海上交通の結節点を監視する海上の要衝でもあったのだ。

海部城の歴史は、そのまま阿波と土佐の力関係の変遷を映し出す鏡であった。永禄年間(1558年〜1570年)に、阿波の三好氏に属していた国人・海部友光によって築かれた当初、その役割は土佐統一を着々と進める長宗我部元親の勢力拡大に備える「対長宗我部」の最前線基地、すなわち「阿波の盾」であった 7

しかし、元亀二年(1571年)に起きた「島弥九郎事件」が、海部城の運命を大きく変える転機となる。元親の末弟・島弥九郎親益が療養のため有馬温泉へ向かう途中、嵐を避けて那佐湾に停泊したところを、長宗我部軍の偵察と誤認した海部氏によって襲撃され、殺害されたのである 9 。最愛の弟を無残に殺された元親の怒りは凄まじく、これを大義名分として阿波への本格的な侵攻を開始。天正三年(1575年)から五年(1577年)にかけての攻撃で、海部城は遂に長宗我部軍の手に落ちた 9

この瞬間、海部城の戦略的役割は180度転換した。元親は落城させた海部城に、実弟であり智勇兼備の将として信頼の厚かった香宗我部親泰を城代として配置 14 。かつて長宗我部氏を阻むための城であった海部城は、今や阿波南部の諸城を攻略し、阿波全土を席巻するための「土佐の矛」へとその姿を変えたのである。1585年の出来事を理解する上で、この役割の変遷を念頭に置くことは極めて重要である。

第二章:天正十三年、四国征伐の火蓋

天正十三年夏、羽柴秀吉が発動した四国征伐は、戦国時代最大級の渡海作戦であった。その計画は、圧倒的な物量と兵站能力に裏打ちされた、壮大かつ冷徹なものであった。対する長宗我部元親も、四国の覇者として持てる全ての力を結集し、防衛計画を練り上げていた。

秀吉の侵攻計画:圧倒的物量による三方面包囲作戦

秀吉は、自身が直接指揮を執った経験のない大規模な渡海作戦を成功させるため、周到な準備を進めた。和泉・紀伊の船舶を徹底的に調査・徴発させ、兵員と兵糧を滞りなく四国へ輸送する体制を構築したのである 6 。その戦略の骨子は、総兵力10万を超える大軍を三つの方面軍に分割し、阿波・讃岐・伊予の三方向から同時に四国へ侵攻、長宗我部軍の兵力を分散させた上で各個撃破するというものであった 16

  • 阿波方面軍(主力) :総大将に弟の羽柴秀長、副将に甥の羽柴秀次(後の豊臣秀次)を任じ、和泉・大和・紀伊・摂津・丹波・近江の兵を中心とする約6万の軍勢を淡路島経由で投入 6
  • 讃岐方面軍 :備前の宇喜多秀家を主将とし、黒田孝高(官兵衛)、蜂須賀正勝らを配した約2万3千の軍勢を、播磨から屋島へ上陸させる 6
  • 伊予方面軍 :新たに臣従した毛利輝元の麾下から、小早川隆景、吉川元長といった毛利の両翼を担う猛将たちに約3万の兵を与え、安芸・備後から伊予北部へ侵攻させる 6

この三方面からの同時侵攻は、長宗我部軍の最大動員兵力と言われる約4万に対し、およそ3倍の兵力で四国全土を包囲殲滅する、まさに鉄の輪を縮めるかのような作戦であった。

元親の防衛計画:阿波集中と防衛線の構築

元親もまた、秀吉軍の主力が淡路島を経由して阿波に上陸することを正確に予測していた 18 。彼は限られた兵力を分散させる愚を避け、主力を阿波方面に集中させて秀吉軍本隊を迎え撃つという、理に適った防衛戦略を立てた。そして、阿波国内の主要な城郭に一門の勇将や譜代の重臣を配置し、縦深的な防衛線を構築したのである 18

  • 木津城(阿波の玄関口) :東条関兵衛
  • 一宮城(阿波の中心拠点) :谷忠澄、江村親俊
  • 岩倉城 :比江山親興(長宗我部一門)
  • 牛岐城(南阿波の司令拠点) :香宗我部親泰(元親の実弟)
  • 海部城(対土佐国境の要衝) :香宗我部親泰の配下の将が守備 6

そして元親自身は、阿波西端に位置し、各方面への増援や指揮が容易な白地城に本陣を構え、全軍を督戦する態勢を整えた 4 。しかし、その戦略がいかに優れたものであっても、覆しがたい現実が横たわっていた。それは、両軍の圧倒的な戦力差であった。

【表1】四国征伐における羽柴軍と長宗我部軍の兵力比較

勢力

総兵力

阿波方面軍

讃岐方面軍

伊予方面軍

羽柴軍

約11万3千

約6万 (秀長・秀次)

約2万3千 (宇喜多・黒田)

約3万 (小早川・吉川)

長宗我部軍

約4万

(主力集中)

(分散守備)

(分散守備)

この表が示す通り、長宗我部軍は開戦前から絶望的な劣勢に立たされていた。元親の防衛計画は、戦術レベルでの成功を戦略レベルでの物量差によって覆される運命にあったのである。

第三章:阿波の攻防、戦況のリアルタイム詳解

天正十三年(1585年)6月、四国の運命を決する戦いの火蓋が切られた。特に主戦場となった阿波では、長宗我部軍の防衛線が、羽柴軍の圧倒的な物量の前に、いかにして崩壊していったのか。その過程を時系列に沿って詳解する。

【表2】阿波侵攻における主要な出来事の時系列

時期 (天正13年)

出来事

場所

影響

6月16日

羽柴秀長・秀次軍、阿波へ上陸開始

土佐泊

阿波方面での戦闘開始

6月下旬

木津城攻防戦 開始

木津城

長宗我部軍の防衛線の最初の試練

7月上旬

木津城、8日間の籠城の末に開城

木津城

阿波の門戸が開かれ、秀長軍が内陸へ進撃

7月中旬

木津城陥落の報が南阿波に伝播

牛岐城・海部城

南阿波の長宗我部軍に動揺が走る

7月中旬

香宗我部親泰、牛岐城を放棄し土佐へ撤退

牛岐城

南阿波の防衛線が事実上崩壊

7月中旬

海部城、無抵抗で羽柴軍に接収される

海部城

戦闘なくして南阿波の要衝が陥落

7月25日

長宗我部元親、降伏を決断

白地城

四国征伐の事実上の終結

時刻一:6月16日〜 阿波上陸と両軍の装備差

6月16日、羽柴秀長・秀次率いる6万の軍勢は、約800艘もの大船団を編成し、淡路島から阿波の土佐泊(現在の徳島県鳴門市)への上陸作戦を開始した 6 。長宗我部方の軍記『長元記』は、この時の両軍の姿を鮮明に対比させて記録している。羽柴軍の兵士たちは、武具や馬具が光り輝き、立派な馬に乗り、兵糧も潤沢で士気も高い。対する長宗我部軍は、長年の戦で使い古された武具を麻糸で繕い、痩せた土佐駒に乗り、兵糧も乏しい有様であったという 1 。これは単なる誇張ではなく、中央政権が持つ経済力・兵站能力と、一地方勢力との間に横たわる、埋めがたい格差を示すものであった。

時刻二:6月下旬〜7月上旬 阿波の玄関口・木津城の攻防

上陸を果たした秀長軍が最初の攻略目標としたのは、阿波の玄関口に位置する木津城であった 6 。城将の東条関兵衛は、数に劣る兵力で果敢に抵抗を見せた。しかし、秀長軍は力攻めだけでなく、兵糧攻めも巧みに用いた。城の水の手(水源)を断ち、城兵の士気を徐々に削いでいったのである 6

さらに秀吉軍は、心理戦も仕掛けた。秀吉方に与していた東条関兵衛の叔父を派遣し、降伏を説得させた。内と外からの圧力に耐えかね、8日間にわたる攻防の末、木津城はついに開城した 1 。この降伏は、元親の逆鱗に触れた。土佐へ帰還した東条関兵衛に対し、元親は弁明の機会も与えず切腹を命じたと伝わる 18 。この苛烈な処置は、元親がいかに追い詰められ、降伏という選択肢を断固として許さないという悲壮な覚悟でこの戦に臨んでいたかを物語っている。

時刻三:7月中旬 ドミノ現象の発生

木津城の陥落は、単に一つの城が落ちた以上の、決定的な意味を持っていた。それは、元親が築いた阿波防衛線の、最初のドミノが倒れた瞬間であった。阿波の門戸が開かれたことで、秀長軍主力は内陸部へと雪崩れ込むことが可能となった。

そして、この報は瞬く間に阿波全域の長宗我部軍へと伝播した。木津城陥落の知らせを聞いた渭山城の守将・吉田康俊は、戦わずして城を放棄し逃亡 1 。防衛線の一角が、戦闘を経ずして崩壊したのである。

この報は、やがて南阿波の防衛線を統括する香宗我部親泰の元にも届く。この一報こそが、本報告書の主題である海部城の運命を、直接的な戦闘なしに決定づけることになるのであった。

第四章:海部城の「無血開城」— 戦わずしての降伏と接収

一般に「海部城の戦い」と呼ばれる事象は、しかし、その実態は城壁を挟んだ激しい攻防や、血で血を洗う白兵戦ではなかった。それは、遠く離れた場所での敗北が引き起こした戦略的判断の結果としての、「無血」での明け渡しであった。この章では、戦闘行為を伴わずに海部城が羽柴軍の手に渡った、そのリアルタイムなメカニズムを解明する。

南阿波の司令官・香宗我部親泰の決断

1585年当時、南阿波方面の防衛を実質的に指揮していたのは、元親の弟・香宗我部親泰であった。彼は単なる武勇の将ではなく、織田家との外交交渉を担うなど、大局的な視野を持つ知将でもあった 21 。彼の司令拠点は、海部城よりも北に位置し、より戦略的な中心地であった牛岐城(現在の阿南市)に置かれていた 21

7月中旬、木津城が陥落し、秀長軍主力が阿波平野を南下しつつあるという急報は、牛岐城の親泰を震撼させた。防衛線の北の門が破られ、敵主力が自軍の背後に回り込みかねない状況である。ここで牛岐城に籠城しても、やがては圧倒的な兵力に包囲され、孤立無援のまま殲滅されることは火を見るより明らかであった。親泰は、無益な抵抗で貴重な兵力を失うことは、長宗我部家の存続にとって得策ではないと、冷静に判断したと考えられる。

彼の決断は迅速であった。親泰は牛岐城を放棄し、指揮下の軍勢を率いて本国である土佐へ戦略的撤退を開始したのである 1 。これは敗走ではなく、来るべき決戦に備えて兵力を温存するための、合理的な判断であった。

海部城の「戦い」の実像:放棄と接収

この香宗我部親泰の撤退こそが、海部城の運命を決定づけた。南阿波方面軍の司令官が前線を放棄したことにより、その指揮下にあった海部城は、梯子を外された形となった。城を守っていたのは親泰配下の将であり 6 、司令部が消滅した以上、組織的な抵抗は不可能であった。

おそらく、秀長軍の別動隊か、あるいは讃岐方面から南下してきた蜂須賀正勝らの部隊が阿波南部へ進軍してきた時 18 、海部城はすでに主を失ったもぬけの殻であったか、あるいは残された城兵が抵抗する術も意欲もなく、戦わずして城を明け渡したかのいずれかであった。いずれにせよ、複数の史料が示唆するのは、1585年7月中旬の海部城において、大規模な戦闘は発生しなかったという事実である 10

したがって、「海部城の戦い」という呼称は、歴史事象の実態を正確に捉えているとは言いがたい。その実像は、「木津城陥落に端を発する南阿波防衛線の連鎖的崩壊と、それに伴う海部城の無血接収」と呼ぶべき一連の戦略的帰結であった。海部城の運命は、海部城そのものの堅固さや城兵の士気によってではなく、遠く離れた木津城での攻防と、牛岐城における司令官・香宗我部親泰の戦略的判断によって決せられたのである。ユーザーが当初把握していた「降伏・接収」という情報は、まさにこの歴史的実態を的確に捉えたものであったと言える。

第五章:戦後の阿波と海部城の運命

海部城の無血接収に象徴されるように、長宗我部軍の防衛線は各所で急速に崩壊していった。阿波における最後の、そして最大の拠点であった一宮城では、谷忠澄らが20日近くにわたり奮戦したものの 25 、秀長軍の圧倒的な兵力と兵糧攻めの前に力尽き、ついに開城した 6 。伊予、讃岐の戦線も同様に、毛利軍、宇喜多軍の前に瓦解した 6

長宗我部元親の降伏と四国国分

一宮城での死闘から生還した重臣・谷忠澄は、元親の本陣・白地城へ赴き、羽柴軍との絶望的な兵力差、装備差、そして兵站能力の差を説き、これ以上の抗戦は無謀であるとして降伏を強く進言した 1 。当初は徹底抗戦を主張していた元親も、信頼する家臣の諫言と、覆しがたい戦況を前に、ついに決断を下す。天正十三年(1585年)7月25日、長宗我部元親は羽柴秀長に降伏の意を伝えた 17

戦後の領土配分、いわゆる「四国国分」において、秀吉は元親に対し、阿波・讃岐・伊予の三国を没収し、旧領である土佐一国のみを安堵するという裁定を下した 3 。そして、激戦地となった阿波国は、四国征伐で功のあった蜂須賀家政に与えられた 15

蜂須賀氏の阿波統治と「阿波九城」

阿波国の新たな領主となった蜂須賀家政は、領国経営の拠点として徳島城を築くと同時に、領内の要所に9つの支城を戦略的に配置し、支配体制を盤石なものとした。これが世に言う「阿波九城」である 8

海部城も、その地理的重要性を買われ、この阿波九城の一つに選ばれた。蜂須賀氏の手によって改修が施され、城代として中村重友といった家臣が配置された 7 。ここに、海部城の戦略的価値は、再び劇的な反転を遂げることとなる。かつて長宗我部氏が阿波侵攻の拠点として用いたこの城は、今度は、土佐一国に封じ込められた旧主・長宗我部氏の動向を監視し、その再侵攻を阻むための「対土佐」最前線の城へと、その役割を再び180度転換させたのである。この皮肉な運命は、天下統一という巨大な権力構造の再編が、いかにして地域の城の役割をも根底から変えてしまうかを象徴している。

一国一城令と廃城

やがて徳川の世となり、戦乱が終息すると、国内の安定を維持するために多くの支城は不要とされた。元和元年(1615年)に発布された一国一城令に基づき、海部城も寛永十五年(1638年)にその役目を終え、廃城となった 7 。その後は、城の麓に陣屋が置かれ、地域の行政拠点として近世を通じて機能し続けた 8

結論:四国征伐における海部城の役割とその歴史的意義

本報告書で詳述した通り、天正十三年(1585年)の「海部城の戦い」は、城をめぐる直接的な攻防戦ではなく、羽柴秀吉の巧みな全体戦略によって長宗我部軍の防衛線が構造的に崩壊した結果として生じた「無血接収」であった。この事象は、戦国時代の終焉期における戦いの本質を我々に教えてくれる。

第一に、この一件は、もはや戦の勝敗が個々の城の堅固さや一人の武将の武勇によって決まるのではなく、兵站、情報、そして全体戦略といった、より近代的でマクロな要素によって決定づけられるようになったことを示す象徴的な事例である。秀吉は、圧倒的な物量を確実に輸送する兵站能力と、三方面から同時に侵攻するという全体戦略によって、長宗我部軍の戦術的抵抗を無力化した。

第二に、海部城の運命は、情報伝達の速度と正確さが戦況を左右する、情報戦の側面を浮き彫りにする。木津城陥落という一つの情報が、ドミノ倒しのように南阿波全体の防衛線を崩壊させた過程は、物理的な戦闘以上に情報の力が重要であったことを物語っている。

結論として、海部城の無血開城は、羽柴秀吉の圧倒的な国力と近代的な戦略思想の前に、いかにして一地方の覇者が無力化されていったかという、天下統一のプロセスを凝縮した出来事であった。それは、局地戦の連続体であった旧来の戦から、一つの巨大な戦略目的の下に全ての戦術行動が統合された、新しい戦争の時代の到来を告げるものであったと言えるだろう。

引用文献

  1. [合戦解説] 10分でわかる四国征伐 「秀吉に打ち砕かれた長宗我部元親の夢」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=yymhdsME8Kk
  2. シリーズ秀吉②四国攻めと長宗我部元親 - BS11+トピックス https://bs11plus-topics.jp/ijin-haiboku-kyoukun_48/
  3. 長宗我部元親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
  4. 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
  5. 古城の歴史 徳島城 http://takayama.tonosama.jp/html/tokushima.html
  6. 「四国攻め(1585年)」秀吉の大規模渡航作戦!四国の覇者・長宗我部氏との決着 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/51
  7. 阿波 海部城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/awa/kaifu-jyo/
  8. 海部城 /城跡巡り備忘録 徳島県 http://466-bun.com/f11w-sk/tm-f3879kaifu.html
  9. 海部友光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%83%A8%E5%8F%8B%E5%85%89
  10. 海部城・海部陣屋 吉田本城 吉田山城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/sikoku/kaiyoumati.htm
  11. 阿波海部城番外編 島弥九郎事件 - 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-426.html
  12. 海部城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%83%A8%E5%9F%8E
  13. かなり入り込んだ那佐湾の奥まった所に小さな二子島がある。ここは、元亀2年(1571年)に『土佐の長宗我部元親の弟、島弥九郎が病気治療のため京都にむかう途中、荒波にはばまれて航行できなくなり - 高知市歴史散歩 https://www.city.kochi.kochi.jp/akarui/rekishi/re9906.htm
  14. 武家家伝_海部氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/awa_kaif.html
  15. 海部城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/shikoku/kaifu.j/kaifu.j.html
  16. 長宗我部元親の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8098/
  17. 四国攻めとは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81-3132294
  18. 秀吉出馬・四国征伐 - 長宗我部盛親陣中記 - FC2 http://terutika2.web.fc2.com/tyousokabe/tyousokabetoha5.htm
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  22. 土佐‧長宗我部一族- 信長之野望 - 巴哈姆特 https://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=64&sn=185
  23. 香宗我部親泰 - 信長の野望・創造 戦国立志伝 攻略wiki https://souzou2016.wiki.fc2.com/wiki/%E9%A6%99%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E8%A6%AA%E6%B3%B0
  24. 牛岐城の見所と写真・100人城主の評価(徳島県阿南市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1618/
  25. 【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 第15回 - 城びと https://shirobito.jp/article/1577
  26. 四国平定/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11099/
  27. 土佐路ぶらり-長宗我部元親 - Web高知 https://www.webkochi.net/kanko/sanpo56.php
  28. 徳島藩家臣のご先祖調べ https://www.kakeisi.com/han/han_tokusima.html
  29. 阿波九城 | テーマに沿って城めぐり https://kojodan.jp/badge/35/
  30. 海部城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2492