清洲城外郭の戦い(1553~55)
信秀死後、織田信長は清洲織田家と尾張の覇権を争う。萱津の戦いで初陣を飾り、斯波義統殺害事件を機に大義名分を得て清洲方を壊滅。叔父信光との謀略で清洲城を無血開城させ、尾張統一の礎を築いた。
尾張統一への序曲:清洲城外郭の戦い(1553-55)全詳報
序章:嵐の前の尾張
天文21年(1552年)、尾張国に激震が走った。「尾張の虎」と恐れられた織田弾正忠家の当主、織田信秀が病没したのである 1 。彼の死は、一代で築き上げられた新興勢力の支配体制に巨大な権力の真空を生み出し、尾張国内に燻っていた数多の野心に火を点ける決定的な契機となった。信秀の後を継いだのは、奇抜な言動から「うつけ者」と評される19歳の嫡男、織田信長であった 1 。この若き後継者の力量は未知数であり、家中内外から侮りと不安の眼差しが注がれていた。
この時期の尾張国は、極めて複雑で重層的な権力構造の下にあった。名目上の最高権力者は、室町幕府三管領筆頭の名家、斯波氏(武衛家)である。しかし、斯波氏は応仁の乱以降に実権を失い、尾張においては守護代の完全な傀儡と化していた 3 。その守護代を務めていたのが、尾張下四郡を支配し、清洲城を本拠とする織田大和守家(清洲織田家)であった 6 。一方、尾張上四郡は、同格の守護代である織田伊勢守家(岩倉織田家)が支配しており、両者は常に対立関係にあった 6 。
信長の織田弾正忠家は、この守護代・織田大和守家に仕える三奉行の一つに過ぎない、家格の上では遥かに下位の存在であった 8 。しかし、信長の父・信秀は、その卓越した武勇と政治手腕、そして何よりも津島・熱田という二大港湾都市を掌握することでもたらされる莫大な経済力を背景に、主家である大和守家を凌駕する実力を蓄えていた 10 。この「下剋上」とも言える力の逆転現象こそが、尾張国に恒常的な緊張状態をもたらしていた根本原因である。すなわち、この抗争は単なる織田一族内の個人的な権力闘争ではなく、「家格」という伝統的権威を盾にする旧勢力(清洲方)と、「経済力」という新たな力を基盤とする新興勢力(信長方)との間の、尾張の支配原理そのものを巡る構造的な衝突だったのである。
信秀の死を千載一遇の好機と捉えたのが、清洲城主の織田信友と、その家老で実権を握る小守護代・坂井大膳であった 2 。彼らは、若き信長を侮り、弾正忠家を排除して失われた権威と実権を回復しようと画策する 2 。一方で、織田一族の中にも、情勢を静観する有力者が存在した。信長の叔父であり、守山城主として家中随一の猛将と謳われた織田信光 16 。そして、品行方正と評され、柴田勝家や林秀貞といった重臣たちから信長に代わる当主として期待されていた同母弟、織田信行(信勝)である 18 。彼らの動向が、この抗争の行方を左右する重要な鍵を握っていた。尾張の空には、まさに戦雲が垂れ込めていたのである。
表1:清洲城外郭の戦い 主要登場人物一覧
人物名 |
所属勢力(家名) |
役職・拠点 |
信長との関係 |
備考 |
織田信長 |
織田弾正忠家 |
那古野城主 |
本人 |
父・信秀の跡を継ぐ |
織田信友 |
織田大和守家(清洲織田家) |
尾張守護代・清洲城主 |
主家筋の当主 |
信長排除を目論む |
坂井大膳 |
織田大和守家(清洲織田家) |
家老(小守護代) |
敵対 |
抗争の事実上の首謀者 |
織田信光 |
織田弾正忠家 |
守山城主 |
叔父 |
猛将。キーパーソン |
斯波義統 |
斯波氏(武衛家) |
尾張守護 |
名目上の主君 |
清洲方の傀儡 |
斯波義銀 |
斯波氏(武衛家) |
- |
保護対象 |
義統の嫡男 |
柴田勝家 |
織田弾正忠家(信行派) |
- |
弟の家老 |
当時は複雑な立場 |
織田信行 |
織田弾正忠家(信行派) |
末森城主 |
実弟 |
潜在的なライバル |
第一章:最初の火花 - 萱津の戦い(天文二十一年 / 1552年8月)
織田信秀の死からわずか数ヶ月、尾張の緊張は早くも軍事衝突という形で爆発した。仕掛けたのは、清洲城の坂井大膳であった。彼は、信長の支配体制が盤石になる前にその権威を失墜させ、一気に弾正忠家を孤立させるべく、電撃的な行動を開始した。
時系列分析:坂井大膳の電撃的な蜂起
天文21年(1552年)8月、坂井大膳は坂井甚介、河尻与一ら腹心と共謀し、信長方に属していた松葉城と深田城に狙いを定めた 14 。彼は両城に兵を送り込み、城主である織田伊賀守と織田信次を人質として捕らえ、城を占拠するという挙に出たのである 14 。この作戦の狙いは明確であった。信長の支配下にある城を切り崩し、その無力さを尾張国内に露呈させること。これにより、情勢を日和見していた国人衆を清洲方になびかせ、信長を政治的にも軍事的にも包囲殲滅しようという深謀遠慮があった。
信長の初動:叔父・信光への救援要請とその戦略的判断
坂井大膳の蜂起の報は、直ちに那古野城の信長のもとへ届けられた。信長は少しも動揺することなく、即座に出陣を決断する 20 。しかし、彼は単独での迎撃という無謀な選択はしなかった。当時の兵力では清洲方と正面からぶつかるのは得策ではないと冷静に判断し、直ちに守山城主である叔父・織田信光に救援を要請したのである 14 。信光は家中でも武勇の誉れ高く、その兵力は侮れない存在であった。この要請に信光は迅速に応じ、守山城から出陣。両軍は稲葉地川の川辺で合流を果たした 20 。この一連の動きは、信長が家督継承直後にもかかわらず、家中の力関係を正確に把握し、最も信頼でき、かつ強力な味方を見極める優れた政治的判断力を有していたことを示している。
戦闘詳報:萱津における両軍の激突
信長・信光連合軍は稲葉地川を渡河し、海津口から清洲勢に迫った。『信長公記』によれば、連合軍は松葉口・三本木口・清洲口の三方へ手分けして攻撃を仕掛けるという、包囲殲滅を意図した作戦を展開した 20 。
両軍は萱津(現在の愛知県あま市)の地で激突した。戦闘の具体的な経過に関する詳細な記録は乏しいが、信長・信光連合軍が終始優勢に戦いを進め、清洲方を撃破したことは確かである 2 。この戦いで、清洲方の主将の一人であった坂井甚介が討ち死にし、軍は総崩れとなった 14 。信長軍は勢いに乗り、占拠されていた松葉城と深田城を奪回。清洲方は多くの兵を失い、本拠地である清洲城へと敗走した。
考察:緒戦の勝利が信長にもたらした限定的な成果と、残された火種
萱津の戦いは、若き信長にとって家督継承後初の軍事的勝利であった。彼はこの一戦を通じて、自らの将器を内外に示し、「うつけ者」という評価を覆す第一歩を記した。また、叔父・信光との強固な連携体制を再確認できたことは、今後の尾張統一事業を進める上で極めて大きな政治的資産となった。
しかし、この勝利はあくまで限定的なものであった。清洲方の首謀者である坂井大膳と主君・織田信友は健在であり、彼らの本拠地・清洲城も無傷で残された。この戦いは、両者の対立が決定的であることを示したに過ぎず、尾張の覇権を巡る根本的な解決には至らなかった。むしろ、この敗北によって坂井大膳らの信長への憎悪はさらに燃え上がり、両者の溝はもはや修復不可能なものとなったのである 2 。尾張の空には、より濃い戦雲が立ち込めることとなった。
第二章:大義名分、天より堕つ - 守護・斯波義統殺害事件(天文二十三年 / 1554年7月)
萱津の戦いから約2年、尾張国内では両陣営の睨み合いが続き、戦況は膠着状態にあった。この均衡を劇的に打ち破ったのが、清洲城内で発生した「斯波義統殺害事件」である。この事件は、坂井大膳らにとっては信長の陰謀の芽を摘むための粛清であったが、結果として信長に「主君の仇討ち」という、誰もが否定し得ない絶対的な大義名分を与えることになった。
水面下の暗闘:信長と斯波義統の密通
清洲城にあって尾張守護の座に就いていた斯波義統は、長らく織田信友と坂井大膳の傀儡であり、実権を完全に剥奪された無力な存在であった 3 。しかし、彼はこの屈辱的な状況からの脱却を諦めてはいなかった。義統は、弾正忠家の若き当主・信長に一縷の望みを託し、密かに内通を図っていたのである。この連絡役を務めたのが、義統の近臣であった梁田弥次右衛門らであったと伝えられている 22 。信長にとって、守護という室町幕府以来の最高権威を味方につけることは、主家である清洲方を討伐する上で、自らの行動を正当化するための極めて有効な手段であった。彼はこの密約を通じて、清洲方を打倒する政治的布石を着々と打っていた。
清洲方の凶行:義統殺害のリアルタイム再現
天文23年(1554年)7月、この水面下での密通がついに清洲方の知るところとなる。坂井大膳らは、主君であるはずの守護が敵対する信長と通じていることを知り、これを許し難い裏切り行為と断じた。彼らは直ちに義統の殺害を決意する 14 。
同年7月12日、義統の嫡男・斯波義銀が川狩りのために城外へ出ていた、まさにその隙を突いて、坂井大膳、河尻与一、織田三位らは兵を率いて義統の屋敷を急襲した 14 。不意を突かれた義統に抗う術はなく、彼は自刃に追い込まれた 14 。坂井大膳らは、この凶行によって信長の謀略を未然に防ぎ、清洲織田家の安泰を図ったつもりであった。しかし、これは彼らの将来を決定づける致命的な戦略的誤算であった。名目上とはいえ、自らが仕えるべき主君である守護を殺害するという行為は、当時の武家社会の倫理観において最大級の罪悪であり、彼ら自身を「主殺しの大罪人」の立場へと追い込む結果を招いたのである。
信長の政治的勝利:義統の遺児・斯波義銀の保護と「主君の仇討ち」という旗印
父の殺害という凶報に接した斯波義銀は、川狩りの場からそのまま那古野城へと逃れ、信長に保護を求めた 2 。信長にとって、これはまさに待ち望んだ好機であった。彼は直ちに義銀を保護し、その身の安全を保障した。
この瞬間、信長と清洲方の立場は劇的に逆転した。それまで、信長の行動は家臣筋が主家に反抗する「謀反」と見なされかねない、不安定なものであった。しかし、義銀を保護したことで、信長の戦いは単なる織田家内の私闘から、「主君である守護の仇を討つ」という、誰も反論できない正義の戦いへと昇華されたのである 9 。この「大義名分」の獲得は、尾張国内の日和見勢力を自陣営に引き込み、清洲方を完全に孤立させる上で、計り知れないほどの政治的アドバンテージを信長にもたらした。彼は軍事力のみならず、こうした政治的機会を的確に捉え、自らの行動を正当化する「物語」を構築する類稀なる才能を持っていた。この事件は、その才能が初めて歴史の表舞台で発揮された瞬間であった。
第三章:清洲の牙を砕く - 安食の戦い(天文二十三年 / 1554年7月)
守護・斯波義統殺害という暴挙は、信長に即座の行動を促した。「主殺しの大罪人、織田信友と坂井大膳を討つべし」。この大義名分を掲げ、信長は弔い合戦の兵を挙げる。この「安食の戦い」は、清洲織田家の軍事的中核を粉砕し、長きにわたる抗争の帰趨を事実上決定づけた戦闘であった。
弔い合戦の号令:信長軍の進発と布陣
信長は、義統が殺害されてからわずか7日後、その初七日にあたる天文23年(1554年)7月18日に出陣した 22 。この驚くべき迅速さは、清洲方に態勢を立て直す時間を与えないという軍事的な意図と、「主君の仇討ち」という大義を尾張国中に強く印象付けるという政治的な狙いを兼ね備えた、計算され尽くした行動であった。
注目すべきは、この戦いに信長の弟・信行の家老である柴田勝家が、信長方として参陣している点である 22 。これは、信行派としても「守護殺害」という大罪を黙認することはできず、表向きは信長に協力せざるを得なかった状況を示している。一方で、信長がこの弔い合戦の主導権を完全に掌握し、家中での発言力を一気に高めることを牽制する目的があったとする見方も存在する 22 。いずれにせよ、この時点での織田弾正忠家内部の複雑な力学を象徴する出来事であった。
戦闘詳報:成願寺門前の激戦
両軍が激突した場所については、『信長公記』の記述から清洲城下の「中市場」とも、現在の名古屋市北区にあたる「安食村」の成願寺門前とも言われ、比定には議論がある 23 。
信長軍の猛攻に対し、清洲方からは萱津の戦いを生き延びた河尻左馬丞(与一)や織田三位といった歴々の武将が出陣し、必死の防戦を試みた 14 。戦闘は熾烈を極めたが、士気と大義名分で勝る信長軍の勢いは凄まじく、清洲方は次第に追い詰められていく。特に『信長公記』は、信長軍が用いた長槍の優位性を伝えている。清洲方の槍が短かったのに対し、信長軍の槍はより長く、そのリーチの差によって敵を圧倒したという 25 。この逸話は、信長が兵器の改良や効果的な活用に早くから着目していたことを示唆している。
奮戦も空しく、清洲方の主だった武将は次々と討ち取られていった。河尻左馬丞、織田三位をはじめ、原氏、雑賀氏など、清洲織田家を支えてきた譜代の有力武将約30名がこの一戦で命を落とした 14 。中でも、殺害された斯波義統の元家臣であった由宇喜一という若武者が、主君の仇である織田三位の首を挙げたという壮絶な逸話も残されている 22 。
戦略的影響:清洲城の防衛力低下
安食の戦いにおける大敗は、清洲織田家にとって致命的な打撃となった。萱津の戦いで坂井甚介を失い、この戦いで河尻与一、織田三位といった軍事の中核を担う将たちを根こそぎ失ったことで、清洲方の野戦能力は事実上壊滅した 14 。
もはや清洲城は、当主・織田信友と謀臣・坂井大膳が籠るだけの「裸城」に近い状態となった。信長に対抗しうる軍事力は失われ、彼らに残された道は、外部勢力との連携か、あるいは一発逆転を狙った謀略のみとなったのである。この戦いの勝利により、信長は尾張下四郡における軍事的優位を完全に確立した。
第四章:謀略の最終幕 - 清洲城、落城(弘治元年 / 1555年4月)
安食の戦いで軍事力を完全に失った坂井大膳に残された最後の策は、謀略であった。彼は一発逆転を期して、信長方で最大の兵力を有する実力者、信長の叔父・織田信光の調略に乗り出す。しかし、それは信長と信光が周到に仕掛けた、二重三重の罠への入り口に過ぎなかった。この最終幕は、血腥い合戦ではなく、緊迫した心理戦と裏切りによって、静かに、しかし決定的に下された。
窮鼠の策:坂井大膳、織田信光への調略
万策尽きた坂井大膳は、信長陣営の切り崩しを図り、その最大の標的として守山城主・織田信光に狙いを定めた 20 。信光は織田一族の中でも武勇に優れた猛将として知られ、その動向は尾張の勢力図を塗り替えうる重みを持っていた。大膳は信光に対し、「信長を討ち、その遺領である尾張下四郡を、信友と信光で二郡ずつ分割統治しようではないか」という破格の条件を提示し、寝返りを促した 23 。これは、信光の野心に訴えかけ、信長陣営に内部から楔を打ち込もうという、追い詰められた末の起死回生の策であった。
二重スパイ:信光と信長の密約
坂井大膳からの誘いを受けた信光は、これを愚直に信じることはなかった。彼は、戦国武将としての冷徹なリアリズムに基づき、現状を分析した。清洲方はすでに軍事的に敗北が決定的であり、沈みゆく船であった。一方、甥の信長は「弔い合戦」という大義名分を掲げ、破竹の勢いにある。どちらにつくべきかは火を見るより明らかであった。
信光は、この調略を逆用して最小限のリスクで最大限の利益を得るための絶好の機会と捉えた。彼は直ちに那古野城の信長にこの一件を密告し、両者の間で、大膳の策に乗りつつ清洲城を無血で乗っ取るという、壮大な謀略が練り上げられた 20 。信光は坂井大膳の誘いに乗るふりをし、神仏に誓いを立てる起請文まで交わして、清洲方への寝返りを完璧に偽装したのである 20 。
リアルタイム解説:清洲城陥落までの二日間
弘治元年(1555年)4月19日、計画は実行に移された。織田信光は兵を率いて清洲城に入城し、城内の南櫓に陣取った 20 。織田信友と坂井大膳は、家中随一の猛将が味方に加わったと信じ込み、勝利を確信して完全に油断しきっていた。
運命の日は翌4月20日に訪れた。坂井大膳が盟約の礼を述べるため、信光のいる南櫓へ向かおうとした、その時であった。櫓の周辺に多数の兵が伏せられている異様な気配を、歴戦の将である大膳は敏感に察知した。全てが謀略であったことを瞬時に悟った彼は、その場から即座に身を翻し、城を脱出。追手を振り切り、唯一の頼みの綱である駿河の今川義元のもとへと落ち延びていった 14 。その後の彼の消息は、歴史の闇に消えている。
腹心の大膳に逃げられた信光は、もはや躊躇しなかった。彼は直ちに織田信友のもとへ赴き、「主君である斯波義統公を殺害した主殺しの大罪」を厳しく問い詰め、有無を言わさず自刃へと追い込んだ 2 。
こうして、尾張国の中心であり、守護代織田家の象徴であった清洲城は、一滴の血も流れることなく、巧妙な謀略によって信長の手に落ちた。父・信秀の代から続いた、主家との長きにわたる抗争は、ここに終止符が打たれたのである。
終章:清洲城の新たな主
清洲城の奪取は、織田信長が尾張国の新たな支配者として名乗りを上げたことを意味する、画期的な出来事であった。しかし、勝利の祝杯が冷めやらぬうちに、最大の功労者である叔父・信光が謎の死を遂げる。この一連の抗争は、信長の尾張統一、ひいては天下統一への道を切り拓く重要な礎となったが、同時に彼の非情な側面をも垣間見せるものであった。
戦後処理:信長の清洲入城と信光への論功行賞
清洲城を手中に収めた信長は、長年本拠としてきた那古野城を、今回の最大の功労者である叔父・信光に褒賞として譲り渡した 23 。そして自らは、尾張国の政治・経済の中心地である清洲城へと本拠を移したのである 15 。これは、彼が守護代・織田大和守家の地位と権威を名実ともに継承したことを、尾張内外に宣言する極めて象徴的な行動であった。新たな拠点を得た信長は、城下町の整備や家臣団の再編成に精力的に取り組み、来るべき敵対勢力との決戦に備え、その支配基盤を固めていった。
残された謎:那古野城における信光の急死
しかし、この新たな秩序は、早くも不穏な影に覆われる。清洲城攻略からわずか7ヶ月後の弘治元年(1555年)11月26日、那古野城主となったばかりの織田信光が急死したのである 23 。『信長公記』はこの死を「不慮の仕合せ出来して」と曖昧に記すのみだが、一般には家臣の坂井孫八郎によって殺害されたと伝えられている 20 。
この暗殺の背後には、信長の謀略があったのではないかという説が根強く存在する 20 。信光は家中随一の猛将であり、今回の功績によって那古野城という要地と広大な所領を得た。その存在は、信長にとって頼れる叔父であると同時に、将来、自らの地位を脅かしかねない潜在的な脅威ともなり得た。信長が、自らの権力基盤を盤石にするため、非情な決断を下して協力者を排除した可能性は、戦国の論理からすれば決して否定できない。この事件は、目的のためには手段を選ばない、信長の合理主義と冷徹さを示す最初の事例と位置づけることも可能であろう。
歴史的意義の総括:「清洲城外郭の戦い」が織田信長の天下統一への道にいかなる礎を築いたか
1552年の父・信秀の死から1555年の清洲城奪取に至る約3年間の断続的な抗争は、織田信長の生涯において決定的な意味を持つものであった。
第一に、この戦いを通じて信長は、父の代から続いていた主家・織田大和守家との歪な関係に終止符を打ち、下剋上を完成させた 9 。これにより、彼は名実ともに尾張下四郡の支配者となった。
第二に、尾張の中心地である清洲城を本拠とすることで、残る敵対勢力である岩倉織田家(上四郡)や、家中の不満分子を背景とする弟・信行との対決(後の稲生の戦い)に臨むための、盤石な政治的・経済的・軍事的基盤を確立した 31 。
そして第三に、この清洲城こそが、後の桶狭間の戦い(1560年)における出陣拠点となり、松平元康(後の徳川家康)との間に歴史的な清洲同盟(1562年)が結ばれる舞台となった 15 。この3年間の抗争は、若き信長が自らの手で尾張を掌握し、天下へと飛翔するための跳躍台(springboard)を築き上げるための、最初の、そして最も重要な戦いであったと言えるのである。
表2:清洲城外郭の戦い 詳細年表(1552年~1555年)
年月 |
出来事 |
主要人物 |
結果・影響 |
天文21年(1552) 3月 |
織田信秀、死去 |
信秀、信長 |
尾張に権力の真空。抗争の引き金となる |
天文21年(1552) 8月 |
萱津の戦い |
信長、信光、坂井大膳 |
信長・信光連合軍の勝利。清洲方の最初の蜂起を鎮圧 |
天文23年(1554) 7月12日 |
斯波義統殺害事件 |
義統、信友、坂井大膳 |
清洲方が守護を殺害。信長に「弔い合戦」の大義名分を与える |
天文23年(1554) 7月18日 |
安食の戦い |
信長、柴田勝家、河尻与一 |
信長軍の圧勝。清洲方の主力武将が多数討死し、軍事力が壊滅 |
弘治元年(1555) 4月19日 |
織田信光、清洲城に入城 |
信光、信友、坂井大膳 |
信光の偽装投降。清洲方は完全に油断 |
弘治元年(1555) 4月20日 |
清洲城、落城 |
信長、信光、信友、坂井大膳 |
信友は自刃、坂井大膳は駿河へ逃亡。信長が清洲城を奪取 |
弘治元年(1555) 11月26日 |
織田信光、急死 |
信光、信長 |
那古野城にて暗殺か。信長による権力集中の一環との説あり |
引用文献
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- 織田信光 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/oda-nobumitsu/
- 斯波義統 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/retuden/shiba_yoshimune.html
- 管領 斯波氏 - 探検!日本の歴史 https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/shiba
- 戦国期の守護権をめぐって ―越前朝倉氏の場合― - 関西福祉大学リポジトリ https://kusw.repo.nii.ac.jp/record/10/files/12_07_%E4%BB%8A%E5%B2%A1.pdf
- 織田信長は岩倉織田氏滅亡後一気に尾張を統一しました! - 岩倉城址のクチコミ - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_23228af2170020353/kuchikomi/0005153572/
- 織田信安 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%AE%89
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- 織田家のルーツ!若き織田信長『下剋上』&『兄弟殺し』家系図も ... https://sengokubanashi.net/person/oda-family/
- 戦国時代に終止符を打った人物といえば織田信長.その信長を生んだ織田氏とは,尾張守 護斯波 http://kinnekodo.web.fc2.com/link-46.pdf
- 破章 なぜ信長が歴史に現れたのか? - 経済重視政策は親譲り - 郷土の三英傑に学ぶ https://jp.fujitsu.com/family/sibu/toukai/sanei/sanei-13.html
- 織田信秀の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46495/
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- 【清洲城】戦国時代の名場面の舞台にもなった織田信長の城|金色の鯱が飾る天守から名古屋を望む! - Solo Traveler's Base https://solo-traveler.jp/domestic-aichi-kiyosujo-14484.html
- 織田信光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%85%89
- 織田家の悪役令嬢 ~今世はのんびり過ごすはずがなぜか『女孔明』と呼ばれてます~【1巻好評発売中!】 - 第二一話 天文十一年(一五四二年)七月中旬『家中随一の猛将、織田信光』 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n2940in/68/
- 清洲会議/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/69905/
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- 信長公記』「首巻」を読む 第18話「柴田権六、中市場合戦の事 - note https://note.com/senmi/n/nc381cdc428fd
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