最終更新日 2025-08-30

牛久保城の戦い(1560年代)

桶狭間後、松平元康は三河統一へ東三河の牛久保城を攻める。牧野氏の堅固な抵抗と一向一揆で長期化するも、元康は清洲同盟で勢力拡大。5年後、牛久保城は無血開城し、牧野氏は徳川譜代となる。

東三河の坩堝:牛久保城戦役全史(1560-1566)- 松平元康、三河統一への最終関門 -

序章:桶狭間に揺らぐ秩序 - 三河国の地殻変動

永禄3年(1560年)5月19日、尾張国桶狭間において、駿河・遠江・三河の三国を支配した今川義元が織田信長の奇襲により討ち取られた 1 。この「桶狭間の戦い」は、戦国史の転換点であると同時に、今川氏の支配下にあった三河国に深刻な権力の空白と地殻変動をもたらした。今川軍の主力が崩壊し、統制を失って駿河へと撤退する中、その最前線は瞬く間に瓦解したのである 3

この未曾有の混乱の中、歴史の表舞台に躍り出たのが、今川軍の先鋒として大高城(現在の名古屋市緑区)で兵糧入れの任務を遂行していた松平元康(後の徳川家康)であった 5 。義元戦死の報に接した元康は、織田軍の追撃を巧みに回避し、同月23日、幼少期を過ごした故地・岡崎城への帰還を果たす 3 。当初、元康は義元の嫡子・氏真に弔い合戦を進言するなど、今川家の忠実な将としての立場を維持しようと試みた 6 。しかし、当主を失った今川家中の混乱は激しく、氏真から三河の元康へ有効な支援が送られることはなかった 7 。この状況は、元康に独立への道を歩ませる決定的な要因となった。岡崎城を拠点とした元康は、周辺の織田方諸城を攻略する一方で、西三河に残存する今川方の国人領主たちを次々と帰順させ、驚異的な速さでその勢力基盤を確立していく 8 。その動きは、もはや旧領回復という範疇を超え、三河一国を完全に掌握しようとする明確な野心の発露であった。

元康が西三河を平定し、次なる目標として東三河へ視線を向けた時、その前に立ちはだかったのが、東三河における今川方の二大拠点、吉田城と牛久保城であった 10 。特に牛久保城は、享禄2年(1529年)にこの地の有力国衆である牧野氏によって築城されて以来 11 、一族の本拠地として栄えていた 13 。豊川が形成した河岸段丘の縁という天然の要害を利用し、南東を崖、北西を二重の堀で固め、さらに城郭の周囲に家臣団の屋敷や寺社を計画的に配置するという、高度な防御思想に基づいて設計されていた 1 。その構造は、単なる軍事拠点にとどまらず、政治・経済の中心地としての機能も併せ持った城塞都市であり、近世城下町の先駆的な形態としても高く評価されている 1 。この堅城を本拠とする牧野氏は、今川家への忠誠を誓い、元康の東進を阻む最後の、そして最大の障壁として存在していた。

したがって、1560年代に繰り広げられた牛久保城を巡る一連の攻防は、単一の合戦として捉えるべきではない。それは、永禄4年(1561年)の元康による最初の攻撃から、永禄9年(1566年)の最終的な開城に至るまで、約5年間にわたって断続的に続いた一連の軍事・政治行動、すなわち「牛久保城戦役」と呼ぶべき長期戦であった 10 。この戦役の全貌を解明することは、松平元康の三河統一事業がいかに困難な道程であったか、そして東三河の国衆・牧野氏の抵抗がいかに頑強であったかを浮き彫りにする上で不可欠である。

【表1】牛久保城戦役 関連年表(1560年~1566年)

年月

三河での出来事

関連する他地域の動向

永禄3年(1560年)5月

今川義元、桶狭間で戦死。松平元康、岡崎城に帰還。

織田信長、桶狭間で勝利。

永禄4年(1561年)2月

元康、織田信長と和睦交渉を開始(水野信元仲介)。

今川氏真、関東出兵中の北条・武田を支援。

永禄4年(1561年)4月

第一次牛久保城攻防 :元康、牛久保城を夜襲するも失敗。

氏真、元康の行動を「逆心」と非難。

永禄5年(1562年)1月

元康、信長と清洲同盟を正式に締結。

-

永禄5年(1562年)

今川氏真、一万余の大軍を率いて牛久保城に本陣を置く。

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永禄6年(1563年)初頭

氏真、戦果なく駿府へ帰国。

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永禄6年(1563年)3月

第二次牛久保城攻防 :小坂井周辺の野戦で松平軍勝利。牧野保成戦死。

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永禄6年(1563年)9月

三河一向一揆が勃発。元康、東三河攻略を中断。

-

永禄7年(1564年)春

元康、三河一向一揆を鎮圧。

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永禄7年~9年

元康、東三河の今川方諸城を次々と攻略。牛久保城は孤立。

今川氏の領国支配が動揺(遠州錯乱など)。

永禄9年(1566年)5月

牛久保城開城 :牧野成定、元康に降伏。

-

永禄9年(1566年)11月

元康、従五位下三河守に叙任され、徳川姓を賜る。

-

第一章:叛逆の狼煙 - 永禄四年(1561年)第一次牛久保城攻防

永禄4年(1561年)、松平元康は今川氏からの完全な独立を内外に示すため、決定的な一歩を踏み出す。その象徴的な行動こそ、東三河における今川方の牙城・牛久保城への奇襲攻撃であった。この攻撃は、軍事的には失敗に終わるものの、政治的には元康の「叛逆」を決定づけ、三河国を二分する戦いの火蓋を切るという極めて重要な意味を持っていた。

【表2】主要登場人物と所属勢力一覧

所属勢力

人物名

役職・関係性

主な行動

松平(徳川)氏

松平元康(徳川家康)

岡崎城主、後の三河国主

三河統一を目指し、牛久保城を攻撃。

本多忠勝

元康の旗本

牛久保城攻めや小坂井の戦いに参戦。

今川氏

今川氏真

今川家当主、駿河・遠江国主

元康の離反に対応。自ら三河へ出陣。

小原鎮実

吉田城代

東三河における今川方の中核。

牧野氏(牛久保衆)

牧野成定

牛久保城主(右馬允)

当初は西尾城に在番。一貫して元康に抵抗。

牧野保成

牧野一門(出羽守)

永禄6年の小坂井の戦いで戦死。

牧野貞成

牧野一門(民部丞)

元康への帰順を示唆する動きも見せる。

稲垣重宗

牧野家宿老

永禄4年の籠城戦、永禄6年の野戦で奮戦。

真木越中守定安

牧野家家臣

永禄4年の夜襲の際、寡兵で城を守り討死。

清洲同盟への布石と元康の決断

岡崎城に帰還した元康にとって、最大の脅威は依然として東の今川氏と西の織田氏という二大勢力に挟まれていることであった。今川氏真からの支援が絶望的となる中、元康は生き残りを賭けて、長年の宿敵であった尾張の織田信長との提携を模索する 6 。永禄4年2月頃、元康の叔父にあたる水野信元の仲介を通じて、信長との和睦交渉が秘密裏に進められた 7 。この動きは、東方の脅威である今川氏に共同で対抗するための軍事同盟(後の清洲同盟)締結を視野に入れたものであり、元康が今川氏の支配体系から完全に離脱する意志を固めたことを示していた 3 。しかし、この同盟を実効性のあるものにするためには、今川方に対して明確な敵対行動を起こし、自らの立場を鮮明にする必要があった。その格好の標的とされたのが、牛久保城であった。

【時系列詳述】四月十一日夜半:手薄な城への奇襲

元康は、今川方への「独立宣言」として、牛久保城への電撃的な攻撃を計画する 7 。彼はこの作戦に先立ち、牛久保衆の内部工作も進めており、稲垣林四郎や牧野弥次右兵衛尉といった有力家臣への調略を行っていたとされる 10

作戦決行の好機は、永禄4年4月に訪れた。当時、牛久保城主である牧野成定は、今川氏の命令により西三河の拠点・西尾城の守備に就いており、本拠の牛久保城を不在にしていた 7 。城主だけでなく、牛久保衆の主力部隊も成定に随行していたため、城の守りは極めて手薄な状態だったのである 10

4月11日の夜、元康はこの千載一遇の好機を逃さず、牛久保城への夜襲を敢行した 7 。城の留守を預かる宿老の稲垣重宗さえも所領の賀茂(現在の豊橋市賀茂町)に帰っており、城内には真木越中守定安ら、ごく少数の兵しか残されていなかった 10 。まさに落城寸前の危機であったが、この絶望的な状況で真木一族が獅子奮迅の働きを見せる。彼らは決死の覚悟で松平軍の猛攻を防ぎ続け、城を持ちこたえた 10 。やがて急報を受けて駆け戻った稲垣重宗も自ら太刀を振るって奮戦し、ついに夜明けまで城を守り抜いた 10 。結果として、元康の周到に計画された奇襲攻撃は、留守衆の壮絶な抵抗の前に失敗に終わったのである 7

今川氏真の衝撃:「逆心」「錯乱」の書状と三河戦線の固定化

この牛久保城への攻撃は、それまで元康の自立の動きを深刻に捉えていなかった駿府の今川氏真に、大きな衝撃を与えた 10 。氏真は元康の行動を「逆心」「錯乱」と記した書状で激しく非難し、ここにはじめて元康の離反を公式のものとして認識した 7

この一件は、軍事的には失敗であったが、元康の政治的意図は完全に達成されたと言える。彼はこの攻撃によって、今川氏の軛(くびき)から完全に脱し、独立した戦国大名として立つことを三河国内外に宣言したのである。これ以降、東三河の国衆たちは、もはや曖昧な立場を許されず、今川か松平かという厳しい二者択一を迫られることになった。

戦いの後、西尾城を夜陰に紛れて脱出した牧野成定が牛久保城に帰還し、今川からの援軍も駐留するようになると、牛久保城は吉田城と並ぶ対松平の最前線拠点としての役割を担うことになった 10 。元康の「叛逆の狼煙」は、三河国を東西に分断する長く厳しい戦いの始まりを告げるものであった。

第二章:今川の逆襲と国衆の去就(1562年 - 1563年初頭)

松平元康の公然たる独立宣言に対し、今川氏真は失墜した権威を回復すべく、大規模な軍事行動をもって応えた。この章では、氏真自らが率いた三河出兵と、それに伴う東三河国衆たちの動揺、そして今川家の威信をかけたこの軍事行動が、結果としてなぜ目的を達し得なかったのかを分析する。

今川氏真、一万余騎を率いて牛久保へ - 最初で最後の三河親征

永禄5年(1562年)1月、元康が織田信長と清洲同盟を正式に締結し、今川からの離反が誰の目にも明らかになると、氏真はついに元康討伐の決意を固める 3 。翌永禄6年(1563年)にかけて(諸説あり)、氏真は駿河・遠江の兵力を総動員し、一万余と号する大軍を率いて三河へと親征した 1 。これは、父・義元の死後、氏真が自ら陣頭に立った最初で最後の三河出兵であり、今川家の威信を三河全土に示すための最大限の示威行動であった 1 。氏真は、対松平の最前線である牛久保城に本陣を構え、ここを反撃の拠点とした。

一宮砦を巡る睨み合いと前哨戦

牛久保城に入った氏真は、松平方が東三河進出の足掛かりとして築いた一宮砦(現在の豊川市一宮町)を包囲し、圧力を加えた 19 。さらに、前線基地として八幡や佐脇(佐脇城)にも兵を配置し、元康の東進を完全に封じ込める鉄壁の布陣を敷いた 19 。東三河はにわかに緊張に包まれ、両軍の全面衝突は必至かと思われた。

しかし、氏真はこれほどの大軍を動員しながら、積極的な攻勢に出ることはなかった。戦線は膠着状態のまま時が過ぎ、氏真が三河で行ったことと言えば、父・義元の菩提を弔うため、その胴塚があるとされる大聖寺で三回忌の法要を営んだことくらいであったと、後世の記録は伝えている 1 。結局、氏真は永禄6年の早々には、具体的な戦果を何一つ挙げることなく駿府へと引き上げてしまったのである。

西郷氏、菅沼氏、奥平氏 - 揺れ動く東三河の領主たち

氏真の大規模な出兵は、今川と松平の間で去就に迷う東三河の国衆たちに大きな影響を与えた。彼らは、自らの家の存続を賭けて、極めて困難な選択を迫られていた。

設楽郡の菅沼氏や奥平氏などは、桶狭間の戦い後、一度は松平方に与する動きを見せるなど、離反と帰順を繰り返していた 20 。また、八名郡の西郷正勝は、いち早く元康の調略に応じて今川氏を見限ったが、その代償はあまりにも大きかった 22 。今川方は報復として、吉田城に人質として預けられていた西郷氏をはじめとする東三河諸豪族の子弟十数名を、城下の龍拈寺で串刺しにして処刑するという凶行に及んだのである 17 。この事件は、今川方の強硬な姿勢と、離反がいかに危険な賭けであったかを国衆たちに痛感させた。

氏真の三河親征は、こうした動揺する国衆たちを再び今川の威光の下に引き戻すための示威行動という側面が強かった。しかし、その結果は氏真の意図とは全く逆のものとなった。一万余の大軍を率いながら元康との決戦を避け、無為に帰国した氏真の姿は、国衆たちに「もはや今川家に三河を維持する力も意志もない」という決定的な印象を与えてしまったのである。軍事力を行使しなかったことが、かえって今川家の威信を失墜させ、国衆たちが雪崩を打って松平方へと靡く大きな転換点となった。この戦略的失敗が、牛久保城の運命を決定づけることにも繋がっていく。

第三章:血戦、小坂井 - 永禄六年(1563年)第二次牛久保城攻防

今川氏真の竜頭蛇尾に終わった三河親征は、松平元康に絶好の機会を与えた。氏真の撤退を確認した元康は、間髪を入れずに東三河への攻勢を再開する。永禄6年3月、牛久保城の雌雄を決するべく進軍した松平軍と、これを迎え撃つ牧野・今川連合軍は、城外の小坂井(現在の豊川市小坂井町)で激突した。

氏真の帰国と松平軍の再侵攻

永禄6年早々、今川氏真が駿府へ引き上げ、東三河の今川方勢力が孤立したのを見計らい、元康は行動を開始した 1 。彼は一宮砦への後詰(救援部隊の派遣)を名目に、約千五百の兵を率いて出陣し、牛久保城へと迫った 1 。これは単なる救援ではなく、牛久保城そのものを攻略し、東三河の支配を決定づけるための本格的な軍事行動であった。

【時系列詳述】三月の激突:牛久保城外の野戦

籠城戦では不利と判断したのか、牛久保城方は城から打って出て、野戦での決着を選択した。牧野一門の重鎮である牧野保成(出羽守)、城主の牧野成定(右馬允)、宿老の稲垣重宗らが率いる牛久保衆に、吉田城からの今川方援軍が加わった連合軍が編成された。両軍は、牛久保城の西方約1.4キロメートルに位置する小坂井の東岡で対峙し、激戦の火蓋が切られた 10

戦いの詳細は断片的にしか伝わっていないが、この野戦は松平軍の優勢のうちに進んだ。激しい戦闘の末、牧野・今川連合軍の総大将格であった牧野保成が討死、もしくは致命傷を負って後に死亡するという、牧野方にとって最大の悲劇が起こる 1 。さらに、退却する軍の殿(しんがり)という最も危険な役目を務めた宿老・稲垣重宗も重傷を負うなど、牧野方は将帥クラスに甚大な被害を受け、敗走した 10

一方の松平軍では、この戦いに若き日の本多忠勝も参戦しており、後の天下無双の猛将の片鱗を見せる活躍があったと伝えられている 26 。しかし、牧野方に大打撃を与えたものの、元康は深追いをせず、自軍の前進を制したとされる 10 。牛久保城そのものを攻め落とすには至らず、この日の戦いは終結した。

戦局の膠着と三河一向一揆の勃発

小坂井での勝利によって、元康は東三河における軍事的優位を確立した。しかし、牛久保城の堅固な守りを前に、戦局は再び膠着状態に陥る。そして、この状況を根底から覆す大事件が、元康の足元で勃発した。同年9月、西三河の浄土真宗(一向宗)門徒が、元康の支配に反旗を翻したのである。これが、元康の生涯における三大危機の一つに数えられる「三河一向一揆」であった 15

この一揆は、単なる農民反乱ではなかった。元康の家臣団からも本多正信をはじめとする多数の離反者を出し、その支配体制を内部から崩壊させかねない深刻な内乱であった 29 。元康は、目前の牛久保城攻略を断念し、全力を挙げてこの内乱の鎮圧に当たらざるを得なくなった 15

この三河一向一揆の勃発は、元康にとっては最大の危機であったが、一方で、小坂井の敗戦で壊滅的な打撃を受け、落城寸前であった牛久保城にとっては、まさに「天佑」とも言うべきものであった。元康が一揆の鎮圧に約半年もの歳月を費やしている間、牛久保城は攻撃を受けることなく、戦力を再編し、城の守りを固めるための貴重な時間的猶予を得ることができたのである。歴史の偶然が、一つの城の運命を大きく左右した。この予期せぬ「休戦」がなければ、牛久保城の抵抗は永禄6年のうちに終焉を迎えていた可能性が極めて高い。

第四章:内憂外患の果てに - 永禄七年~九年(1564年 - 1566年)

約半年に及んだ三河一向一揆という最大の危機を乗り越えた松平元康は、より強固な権力基盤を手に、再び東三河平定へと乗り出す。しかし、その間に今川家の衰退は決定的となり、牛久保城は完全に孤立無援の状況に追い込まれていた。5年間にわたる頑強な抵抗も、ついに終焉の時を迎えようとしていた。

一向一揆鎮圧と元康の権力基盤強化

永禄7年(1564年)春、元康は三河一向一揆を完全に鎮圧する 15 。この内乱は元康にとって大きな試練であったが、一度は敵対した家臣をも許し、主従の絆を再確認する過程を経て、松平(徳川)家臣団は比類なき結束力を誇る武士団へと生まれ変わった。内憂を克服した元康は、三河国内に敵なしと言える盤石な支配体制を確立し、満を持して三河統一の総仕上げに取り掛かった 9

包囲網の完成:周辺諸城の陥落と牛久保城の孤立

一揆鎮圧後、元康は再び大軍を東三河へと進めた。この頃になると、今川氏真は領国内の反乱(遠州錯乱)や、武田信玄との関係悪化など、自らの領国経営に追われ、もはや三河に援軍を送る余力は完全になくなっていた 30 。後ろ盾を失った東三河の今川方諸城は、元康の圧倒的な軍事力の前に次々と陥落、あるいは降伏していった。

吉田城も開城し、東三河における今川方の最後の抵抗拠点として、牛久保城は完全に孤立した 24 。外部からの補給も援軍も期待できない中、5年間にわたる長期の抵抗は、もはや限界に達していた。

牧野氏内部の葛藤と開城への道

城主・牧野成定は、絶望的な状況下でもなお抵抗の意志を捨てなかった。しかし、今川方の敗勢が誰の目にも明らかになるにつれ、城内の士気は徐々に低下し、家臣団の中から元康への帰順を勧める声が公然と上がり始めた 7

特に、成定の子である牧野康成(後に家康から「康」の一字を賜る 33 )は、かねてより松平方に加わりたいという意向を密かに示していたとされ、牧野氏の次代を担う若手層を中心に、和平派が台頭していたことが窺える 23 。旧主への忠義を貫こうとする成定ら主戦派と、家の存続のために現実的な選択をしようとする和平派との間で、激しい葛藤があったことは想像に難くない。

【時系列詳述】永禄九年五月:無血開城と牧野氏の帰順

永禄9年(1566年)5月、ついに牧野成定は家臣たちの進言を受け入れ、元康への降伏を決断。牛久保城は無血にて開城された 7 。これにより、永禄4年4月の元康による夜襲から始まった、5年以上にわたる「牛久保城戦役」は、その幕を閉じた。

牛久保城の開城は、元康による三河平定事業の完了を意味する象徴的な出来事であった 7 。この功績が朝廷にも認められ、同年11月18日、元康は正式に従五位下三河守に叙任され、松平から徳川へと改姓することを勅許された 25 。一国の大名として公的に認められた徳川家康の、天下取りへの道がここから始まったのである。

この一連の戦役において、牧野氏は最後まで抵抗を続けた敗者であった。しかし、彼らがその後、徳川政権下で厳しい処罰を受けることはなかった。むしろ、その抵抗こそが彼らの未来を拓く鍵となった。元康は、牧野氏の5年間にわたる抵抗を、単なる敵対行動としてではなく、たとえ勝ち目のない戦であっても旧主・今川家への義理を貫き通した、武士としての「忠義」の表れと高く評価したのである。これから天下を目指す上で、このような忠義に厚い武士団は、たとえ元敵であっても得難い人材であった。牛久保城の長期にわたる抵抗は、軍事的には敗北であったが、その過程で示した武士としての矜持が、結果的に徳川家における牧野氏の地位を保証した。彼らは戦いには敗れたが、一族の未来をその抵抗によって勝ち取ったと言えるだろう。

終章:戦役の終結と新たなる秩序

5年以上にわたる牛久保城戦役の終結は、徳川家康、牧野氏、そして三河国の歴史にとって、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを告げるものであった。この戦いがもたらした影響は、単に一城の帰趨に留まらず、その後の戦国史の展開にまで及ぶ広範なものであった。

牛久保城戦役が徳川家康の三河統一に与えた意義

牛久保城の開城は、徳川家康の三河平定事業における最後の関門の突破を意味した 7 。これにより、家康は初めて一国を完全に掌握する「国持大名」としての地位を確立した。背後を固め、後顧の憂いを断った家康は、これ以降、信長との同盟を基軸に、遠江、駿河へとその勢力を拡大していくための強固な足がかりを築くことに成功する 4 。牛久保城の頑強な抵抗を打ち破った経験は、徳川家臣団をさらに鍛え上げ、後の遠江侵攻や武田氏との死闘を戦い抜く上での貴重な糧となった。

牧野一族のその後 - 譜代大名への道

家康に帰順した牧野氏は、その忠節と武勇を高く評価され、徳川家臣団の中核をなす譜代大名として遇された 33 。牧野成定の子・康成は、家康の下で各地を転戦して数々の武功を挙げ、天正18年(1590年)の家康の関東移封に際しては、上野国大胡(現在の群馬県前橋市)に二万石を与えられ、大名に列した 33 。その子孫は江戸時代を通じて、越後長岡藩七万四千石の藩主をはじめとする幕府の要職を歴任し、二百数十年にわたり徳川幕府を支え続けた 13 。牛久保城下で育まれた「常在戦場」という家訓は 1 、長岡藩士の精神的支柱となり、幕末、さらには近代日本の指導者を生み出す土壌ともなった。

歴史に埋もれた抵抗の記憶とその価値

牛久保城の5年間の抵抗の歴史は、勝者である徳川の輝かしい成功の物語の影に埋もれがちである。しかし、この戦役は、戦国時代の激しい権力移行期において、地方の国人領主が自らの存亡を賭けていかに苦悩し、戦い、そして決断したかを示す貴重な事例である。彼らの抵抗は、単なる時代への反抗ではなく、自らが拠って立つ武士としての義理と誇りを守るための戦いであった。その頑強な抵抗があったからこそ、家康の三河統一はより強固なものとなり、そして皮肉にも、その忠節を認められた牧野氏は、新しい時代の支配者たる徳川家の下で家名を後世に残すことができたのである。牛久保城の戦いは、敗者の抵抗が決して無価値ではなく、時に未来を切り拓く力となり得ることを、我々に教えてくれる。

補論:絵図が語る城塞都市 - 牛久保城の構造と機能

牛久保城がなぜ5年もの長きにわたり、松平元康の猛攻に耐え抜くことができたのか。その答えは、牧野氏をはじめとする牛久保衆の士気の高さに加え、牛久保城そのものが有していた極めて優れた防御構造に求めることができる。現存する『牛久保城古図』は、その堅固さの秘密を雄弁に物語っている。

『牛久保城古図』の分析

豊川市の光輝庵などが所蔵する数種類の古図は、後世の加筆や写しによる差異はあるものの、おおむね永禄4年(1561年)から永禄12年(1569年)頃の城と城下町の姿を反映していると考えられている 10 。これらの古図を分析すると、牛久保城が単なる軍事拠点ではなく、高度な都市計画思想に基づいて設計された「城塞都市」であったことがわかる。

古図には、本丸や櫓といった城の中枢施設だけでなく、城を取り囲むように配置された家臣団の屋敷、菩提寺である光輝院、熊野神社などの寺社が詳細に描かれている 13 。これは、城郭と城下町が一体となって、政治・経済・信仰、そして軍事防衛の機能を担っていたことを示唆している。

二重の堀と武家屋敷の配置 - 近世城下町の萌芽

牛久保城の防御構造の最大の特徴は、その巧みな縄張りにある。

  • 天然の要害と人工の防御線 : 城は豊川の河岸段丘の縁に位置し、南東側は切り立った崖という天然の要害となっていた 1 。一方で、平地続きとなる北から西にかけては、二重の堀を巡らせることで、人工的に鉄壁の防御線を構築していた 14
  • 城下町と一体化した総構え : 城下への道は、敵が一直線に城へ到達できないよう、意図的に屈曲させられていた 37 。さらに、城の周囲には家臣団の屋敷が配置され、それ自体が外郭の役割を果たしていた。これにより、敵軍が城の中枢に到達するまでには、複雑な市街戦を強いることになり、籠城側は寡兵であっても効果的に敵の消耗を誘うことができた。

このような城と城下町が一体となった防御思想は「総構え」と呼ばれ、戦国末期から近世にかけて発展する城郭の大きな特徴である。牛久保城の構造は、その先駆的な事例として城郭史上も高く評価されており 1 、この先進的な城郭構造こそが、松平軍の攻撃を何度も頓挫させ、5年間にわたる長期籠城戦を可能にした最大の物理的要因であった。牛久保城の優れた「ハードウェア」が、牧野氏の抵抗という「ソフトウェア」を支え、「牛久保城戦役」という稀有な歴史を生み出したのである。

引用文献

  1. 牛久保城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/mikawa/shiseki/higashi/ushikubo.j/ushikubo.j.html
  2. 1560年 – 64年 桶狭間の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1560/
  3. 桶狭間の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  4. 奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/101738/
  5. 徳川家康と岡崎のつながりを歴史解説!生誕からゆかりある寺院まで https://ajioka.net/blog/colunm/19389
  6. 桶狭間の戦い|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents1_03/
  7. 家康を辿る城旅「牛久保城」 家康、独立を決意!今川方の"牛久保城"を攻撃 https://favoriteslibrary-castletour.com/aichi-ushikubojo/
  8. TOP|幾多の危機に見舞われながらも、天下人としての土台を築いた 岡崎時代の徳川家康 https://okazaki-kanko.jp/feature/ieyasu-in-okazaki/top
  9. 徳川家康の遠江支配 - お茶街道/昔ばなし http://www.ochakaido.com/rekisi/mukashi/muka10-2.htm
  10. 牛久保城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%9F%8E
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  27. 本多忠勝の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38339/
  28. あの本多忠勝を「かす」呼ばわり!?家康のために舅まで射抜いた「内藤正成」の凄さとは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/170043/
  29. 「三河一向一揆」の背景・結果を解説|家臣の裏切りで、家康を苦しめた戦い【日本史事件録】 https://serai.jp/hobby/1113050
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  31. 今川氏真の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/94143/
  32. 『どうする家康』闇落ちキャラ!?今川氏真が辿った人生とは - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/216392/
  33. 長岡藩のルーツ牛久保を歩く - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/usikubo04.htm
  34. 天下統一を果たした徳川氏! そのルーツとなった「松平親氏」の戦いに迫る! - 歴史人 https://www.rekishijin.com/25702
  35. 三河牧野氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E7%89%A7%E9%87%8E%E6%B0%8F
  36. 土塁跡も残る豊川市三河牛久保城と一色城跡のアクセスと見どころポイントまとめ https://sengokushiseki.com/?p=4564
  37. 牛久保城 http://www.hm.aitai.ne.jp/~katochan/mikawa_no_shiro/toyokawa/ushikubo.htm